新ずんだの章 9

※ この話は、「新ずんだの章8」のつづきとなります。

避けられない。
背後には廊下と外界を隔てる壁、前方をまるまる塞いでいるのは敵である巨人、廊下の天井からは、氷片が絶えず降り注ぎ、足元には、不気味な亀裂がコンクリートに潜入した蛇のように動きのよめない筋を走らせる。
巨人の手には、自分を消滅させるべく用意された氷の長槍。
この距離である。
一つ目巨人は幻想魔族としては程度の低いほうで、筋力がつよいために直接攻撃は大きな破壊力を持つのであるが、いかんせん、恐竜並みに鈍感で知恵がない。
粗暴な性格なのに加えて移り気で、たやすく主人を忘れて裏切る傾向にあるので、アストラルとして召喚されることは、滅多にない。
扱いづらさを知りながら、氷の一つ目巨人を召喚したということは、己の能力によほど自信があるアトラ・ハシースの仕業だろう。

北欧の英雄シグルト。裏切りと忘却の英雄。ヴァルキューレの夫。

孔明は、まだ見ぬ北欧の騎士の姿を思い浮かべ、そして、たとえこの身が煉獄に落ちようと、けっしてその名は忘れまいと心に決めた。
このわたしが、こんな低級の魔族に、消滅させられるというのか。
激しい憤りにとらわれたが、もはや霊力は残っておらず、回復する時間もない。
目を逸らすことなく、己の消滅をもたらすものを凝視するのみ。

醜怪きわまりない巨人の手にする、不思議にうつくしい蒼い氷の長槍が、その額に打ちおろされる。
が、その切っ先が、額に触れようとした瞬間、槍の切っ先は、ぐらりと揺らめいた。
孔明の目の前に、長槍の切っ先からこぼれた氷の欠片が、ぱらぱらと散った。
巨人の足元の床が、槍を投げるために足で踏みしめたことが原因で、とうとう負荷に耐え切れず、崩壊をはじめたのだ。
遅まきながら、大地震でも起こったような、重苦しい地響きがマンション全体を揺るがす。
五階の廊下の一部が、まるまる階下に落ちたのである。
落雷にも似た激しい音が、静寂に満ちた空間に響き渡った。
巨人の体も、まるで座礁した船のように傾く。
最悪の危機から一転し、孔明は、安堵のあまり、おもわず乾いた笑みをこぼしてしまう。
「なんと、ざまもない」
孔明の言葉は、おそらく巨人の耳には入らなかったであろう。
巨人は、溺れる者のように、槍を持たぬ手を宙にさまよわせる。
そうしているあいだも、床は巨人の体を中心に、どんどん崩落をしていくのである。
がらんごろんと、コンクリートの欠片が、次から次へと派手に落ちていく音が、静寂に満ちた五橋のマンションに響き渡った。
しまいには、マンションの五階の廊下は、ぽっかりと穴が空いたようになくなった。
支えていた鉄筋も、凍り付いていたことがよくなかったのか、同時に崩落してしまっている。
巨人は、辛うじて残っている、地上に向けて斜めに、ちょうど宙に突き出す形で残っていた、壁の手すりにぶら下がっている。
孔明を狙っていた槍も、力を失って、ただのビニール傘に戻って、廊下に転がっていた。
巨人は、苛立たしそうに、一声、吼えた。悲鳴のような、猛禽の声にも似た甲高い雄叫びに、もはや脅威はおぼえない。
孔明は、廊下の壁に肩を預けつつ、バランスを失って、いまや片手だけで、辛うじて壁の手すりにしがみ付き、五階の廊下より、宙にぶら下がる形になっている巨人を見た。
その巨体ゆえに、四階の廊下に足が届いてもおかしくないところであるが、そこは知恵のないものの悲しさで、下を確認して、足場を得るという考えが浮かばないのである。
方向転換さえすれば、落下することは免れように。

だが。
孔明は、ふと奇妙なことに気づき、崩落した壁を見た。
孔明がいま座っている廊下の一番端には、行く筋にも亀裂が走っているものの、なんとか凍りつくことからも免れているのだが、崩落した部分のコンクリートを見れば、凍りついているのはもちろんのこと、いっせいにカビに覆われたように、黒ずんでいるのである。
もし孔明の霊力が十分であったなら、うっすらと氷に覆われた部分に触れて、じっくりと観察をしてみたことだろう。
だが、体の回復に全霊力を注がねばならない状態では、動くこともままならない。

巨人が現われたときの状況を、頭のなかで反芻してみせる。
巨人が周囲を凍りつかせると同時に、周囲の物が、つぎつぎと崩落をはじめていた。
この矛盾した力はなんだ。
凍りついたと同時に、亀裂が走る。
どういうことだ。むしろ、氷によって、亀裂は補強されそうなものなのに。
もともと亀裂があった状態で、氷のよって、亀裂が深まった、というのではない。古いマンションではあるが、亀裂はなかった。
マンションの廊下の崩落は、巨人の出現とともに始まった。

孔明が考えている一方で、巨人は、徐々に、徐々に、手すりから地上へ落ちようとしている。
そして、とうとう力尽き、最後の指が、手すりから離れる瞬間、巨人の体は、突如として形をなくした。
一瞬にして、肉体が分解したようにも見えたが、そうではない。
巨人は、空中で、巨人としての形を分解させて、形をもたない、大きな粘菌に変化したのである。
「しまった!」
長年の経験から、孔明は己の迂闊さを呪い、廊下の崩落によって、逃げ場がなくなっていることを呪った。
粘液は、一度は完全に宙に舞う形となったのだが、まるで風に乗って押し上げられるように、ふたたび五階の、孔明のいる場所にまで戻ってきた。
波のように姿をかえて、ふたたび五階に跳ね上がると、形のないそれが、ふたたび巨人の形を取るべく、ゆっくりと盛り上がっていく。
孔明は舌打ちしつつ、わずかな間に貯めることが許された霊力を、集中させた。
目の前にいるのは、一つ目巨人ではない。
これは、魔族の森に棲む、触れるものすべてを腐らせる粘菌。
それに、何者かが氷属性の霊具でもって形を与えたものだ。いわば、即席のゴーレムのようなものである。

孔明の霊力は、巨人が落ちて、粘菌として姿を戻し、舞い戻ってきたまでの、わずかなあいだに回復した分のみが使用できる。
振り出しに戻ったというわけだ。
だが、ただでは消滅しない。
いちかばちか、巨人としての形を取り戻す直前に、出来うる限りの力で風弾を打ち込む。
粘菌の体を砕き、ふたたび集合しないように、風で互いの肉体を四散させる。
魔族の粘菌には、やっかいな特性がある。
生命力が異常に高いのだ。
単に弾き飛ばすだけでは、ふたたび体を集めて、元に戻ってしまう。
合体させないよう、風で四散させるしか手立てがない。
しかし、そこまで力がもつだろうか?

攻撃を決め、孔明が片手を、徐々に巨人に戻りつつある粘菌にかざしたとき、半透明の粘菌の体の向こう側に、何者か、男の影が見えた。
半透明の体に、影だけを浮かばせて見えるその男は、崩落した床を気にせずに、飛蝗のような跳躍を見せた。
すべてが一瞬のうちに行われた。
飛んだ男は、宙で、突然にその両手に剣を出現させると、形を取り戻しつつあった巨人の肩から脇腹まで、ざっくりと斜めに巨体を切りつけた。
力強い一撃であった。
巨人は、今度こそは、角笛のように甲高い、断末魔の悲鳴をあげた。
しかし、それきりであった。
一瞬、粘菌に体を戻そうと、ゆらりと体が揺らめいて、孔明をどきりとさせたが、結局、果たせず、体を氷の結晶に変えて、宙に四散した。

巨人が消えた後に、地上に、からりと、乾いた音がするのと、男が孔明の目の前に着地するのとは、ほぼ同時であった。
ちょうど、床に足を投げ出して、壁をせに座り込んでいる孔明の目の先に、男の持つ剣がある。
見たことのない、飾りも何もないシンプルなデザインの長剣が、その手に握られていた。
中世のヨーロッパでは、どこにでも使用されていたような、一見するとなんの変哲もなさそうな剣である。
しかし、孔明は、その刀身に、隙間なくびっしりとルーン文字が書き込まれているのを見た。

男は、自分が着地すると同時に、床に落ちた、巨人の落し物を、身を屈ませて拾い上げる。
それは、手のひらほどもある、真っ白い、三日月のような曲線をもつ、大きな牙であった。
「フェンリル狼の牙だ」
と、男は、手のひらで転がしつつ、言った。
「こいつには、ありとあらゆるものを凍らせ、動きを停止させる力がある。おそらく、魔族の森に棲む粘液に、こいつを仕込んで、さらに変化の呪詛をかけたのだろうよ。
ありとあらゆるものを腐らせつつ、同時に凍らせる。氷属性の霊具を持たせたのは、粘液の本体が弱いので、これを補強するためだ。巨人の姿に変えたのは、手が込んでいるよな。
巨人というのは、周知のとおり、脳みそが梅干の種程度しかない連中だし、粘液なんてのは、単細胞だから、もともと脳みそがない。あるのは攻撃本能だけ。
つまり、巨人ってのは、攻撃能力は高いが、防御力は低い。
粘液は、攻撃能力は低いが、防御力は高い。
このふたつのいいところを掛け合わして、粘菌巨人なんて奇妙な亜種を作った、ってところが正しいのだろうよ。
いい作戦だったことにはちがいないぜ。まさか巨人が、巨人に化けた粘液だと思わないから、たいがいは攻撃方法をまちがえちまう。
唯一のまちがいは、ついでに知恵ってもんをつけてやらなかったことだな。ま、知恵なんぞ与えた日にゃ、てめぇに牙を向くかもしれねえってのが、怖かったのかもしれねぇがな」
饒舌な男は、そこで言葉を切り、ため息と共に、きらきらと宙に宝石のように瞬きながら消えていく氷を振り返った。
「とはいえ、これを作るのだって、手間だし、使用する霊力も莫迦にならねぇ。だってのに、なんだってこんな面倒なことをしやがったのかといえば、暇だったからなんじゃねぇのか、あのヤロウ。
心の底から莫迦だと思うぜ。名前はやたらと通っているのに、評判は最悪だから、召喚して使おうなんて奇特なヴァルキューレは、てめぇの女房くらいしかいなかったってのによ、とうとうそれも裏切っちまった。
どうも本職の騎士ってのには、ろくなヤツがいねぇ。とくに金髪はダメだ。相性は最悪だぜ。どう思う?」
話を唐突に振られて、おどろきつつも、孔明は、目の前の男を見上げた。
アコとしての記憶を手繰れば、その名はたやすく引き出せる。
しかし、アコの記憶にあるこの男と、いま、孔明が目にしている男とは、印象がまるで違った。
「おまえは確か、仙台中央署の、平塚八兵衛、と言ったな?」
「ああ。言ったぜ」
と、平塚八兵衛は、手にした長剣で、肩をとんとんと叩きながら、不敵な笑みを浮かべて、孔明を見下ろした。

それは、実に奇妙な光景であった。
崩落した廊下の騒ぎを、周囲の住民たちはまったく騒がないどころか、いっそう周辺は静寂につつまれており、人っ子ひとり、表に出てくる者がない。
事故現場では、背中を深く切りつけられ、血まみれになっている女子高生と、体格の良い、しかしごく普通のスーツを纏った男が、長剣を持った男が、差し向かいになっている。

孔明は、時間を稼ぐべく、姿勢を整えると、集めた霊力をそのままに、八兵衛を見た。
「真の平塚八兵衛ではあるまい。おまえからは、つよい霊力を感じる」
「そうかい? 霊力を感じるのは、こいつの所為じゃないのかい?」
と、おどけたように、八兵衛は、手にした剣をかざしてみせた。
なんの変哲もない長剣である。柄に凝った象嵌があるわけでもない。
しかし、その剣からは、前回のループで手にした聖剣アスカロンにも迫るような、つよい力を感じた。
とはいえ、性質はアスカロンよりもずっとしとやかで、磨きぬかれた刀身は、巨人を切ったばかりだというのに、刃こぼれもせず、春の木漏れ日のように穏やかな光を放っている。
「それも聖剣だな」
「そうとも。あんたの隠し持っている剣とは筋がちがうが、使い勝手は、きっとこっちのほうが上だろう。
銘を言おうか。聖カトリーナの剣。ジャンヌが聖女より授かった剣だ。こいつがシャルルマーニュ大王の剣ジョワイユーズだなんていう噂もあるらしい」

シャルルマーニュの剣とは、ジョワイユーズ(喜ばしき)の名を持つ、フランス王の証である剣である。
その柄には、十字架にかけられたイエス・キリストの体を突いたという、聖槍ロンギヌスの穂先が埋め込まれているという。
聖カトリーナの啓示をうけ、ジャンヌが身も知らぬ教会の祭壇の裏側から探し当てた剣の名は、伝わっていない。
だが、八兵衛の手にした剣は、平凡きわまりない意匠の剣でありながら、力強い脈動を、刀身から放っているのも事実だ。
正しい王をフランスに与えることが使命であったジャンヌに、混乱期に行方の知れなくなったジョワイユーズが与えられたのだとしても、おかしくはない。

男は、剣を愛でつつ、言った。
「だれの名前が付いていようと関係ねぇ。俺にはジャンヌの剣だ」
ジャンヌと、親しみをこめて呼び捨てにするこの男に、孔明は眉をしかめた。
「おまえ、もしや、ラ・ピュセルが前回のループで召喚していたアストラルなのか?」
「だとしたら?」
とたん、男の顔から、つかみ所のない笑みが消え、憎悪もあらわに、孔明の咽喉元に聖剣の切っ先をつきつけてきた。
「俺が名乗る前に、聞きたい。あんたは、いまもこの世界の消滅を考えているのか」
唐突ともとれる変わり方で、怒りの表情を浮かべる男と、淡い光を放つ刃を交互に見つつ、孔明は答えた。
「無作法なことだな。これがフランス式か? わたしが何者かわかっていての問いか」
「当然だ。あんたのことは、ジャンヌから全部聞いている。あんたと物別れになったとき、彼女は困って、俺を召喚してくれたのさ。なんでも一人で背負い込もうとする子だから、そのときは嬉しかったけどよ」
と、八兵衛は、その強面を、くしゃりと、嬉しそうに笑わせた。
が、ふと、嫌なことを思い出したらしく、顔が険しくなる。
山の天気のように、ころころと表情の変わる男であった。
アコの会った、泰然自若とした印象の平塚八兵衛とは、やはりこれは別人だ。
「俺は彼女についていくつもりだった。俺は、いつだって、世界一のジャンヌの味方だからな。だが、彼女は、なにかあったら、俺に意志を継いで欲しいといって、一番の武器であるこいつを俺に託し、相性の悪いノートゥングを片手に、あんたを追いかけていった。
ええ、わかるかい? 俺なんかのために、大事な自分の聖剣を置いて行ったのだ。そういう娘なのだ」
自分で自分のことばに腹が立ったらしく、男は唇を震わせる。
その赴くままに奔放に感情を解放させるさまは、すこし張飛を思い出させた。
いや、張飛のほうが、まだ理性的であった。
「俺が心配したとおり、結果は最悪だ。あんたはケルベロスを殺し、ジャンヌはあんたを殺し、そして吸血鬼閣下がしゃしゃり出て、戦士の角笛を吹いてくれたものだから、俺たちは、めいめいが、この世界の住人の肉体に封じ込められることになった。
ジャンヌは記憶を完全に封じ込められた状態で牛タン屋の子供に、あんたは、その女子高生に、そして俺は、この男に、だ」
最後の言葉に、孔明はさらに、眉をしかめた。
「どういう意味だ。おまえは、平塚八兵衛に憑依している状態なのか?」
「いいや」
と、男は、無情に首を振った。
「平塚八兵衛という男は、基本世界ではもう死んでいる。『最悪の日』のあと、知りすぎたために口を封じられたのさ」
用意された未来の重たさに、またも孔明は暗然としつつ、尋ねた。
「では、千台の被害者のひとりか」
「基本世界じゃ、被害者とカウントされなかったみたいだけれどな。ピストル自殺に見せかけた殺人だ。なにせ調べる人間が犯人なんだから、救われねぇぜ。あんたと同じだ」
男の言葉に、孔明は反駁した。
「この娘は、まだ生きている」
「辛うじて、肉体の機能が働いている、っていう程度だろう。あんたがいなくなりゃ、すぐに朽ちる。
さて、話が逸れたが、俺の質問に答えてくれや。あんたは、この世界を消滅させるつもりか?」
「つまり、ラ・ピュセルの敵か、味方か、ということか。敵だと答えたなら、わたしはおまえに殺されるわけだな」
「さっきの臭い粘菌だか巨人だかに殺されるより、マシだろう」
「同じ消滅には変わりない。よろしい、うそ偽りなく答えるが、わたしは世界の消滅を望まぬ」
「本当か」
「わたしは、確かに口が立つが、あからさまな嘘はつかぬ。生き延びるために、でまかせを口にしたわけではない。信じるがいい」
男は、孔明の言葉と、その向けられる真摯な眼差しが意外であったらしく、うろたえたようだ。
おそらく、軍師だの、智将と呼ばれるものは、騙すことを商売にしているロクでもない連中だと偏見を持っているらしい。

例外はあるさ、と心の中でつぶやきつつ、孔明はすこし、息をついた。
男の性格が、だいたい掴めてきた。
張飛よりも、さらに純粋で単純。
ひとたび気に入った者にたいしては、絶対的な友情と忠誠をささげるタイプ。
そして、男はいまだ名乗らないが、ラ・ピュセルの周辺にいたフランス男で、ひとり、条件にぴったり合う男に、孔明は思い当たり、ますます合点した。
相手が何者かわかれば、こちらとしても、対応が変わってくるというものだ。

孔明がそんなことを考えているあいだ、男のほうは、男のほうで、なにやら納得している。
「さすが、名の知れたアトラ・ハシースは迫力が違うってか。正直に答えてくれたと信じるしかねぇな。うん、ジャンヌは、あんたのことは、いいやつだと言っていた。いいヤツが敵に回ったのが、悲しいって言っていたっけ」
「わたしとて後悔している。ラ・ピュセルはいまどこにいる?」
「会いたいのか」
「そうだ。わたしは、彼女に協力したいのだ。こちらも限りなく不利な状況にある。一人でも多くの味方がほしい。この世界の消滅を防ぐためだ。ラ・ピュセルに会わせてくれ」
孔明の言葉に、男は、ふうむ、と、感心しつつ、己の顎を撫でた。
「あんたの言葉を信じるとしてだ、問題は、あんたがいまの状態で、やっていけるか、ということじゃねぇのかな」
「どういうことだ?」
いぶかしむ孔明をよそに、男は、剣を両手で持って、天に向けて切っ先をかかげ、それから、刀身に額をあてて、なにやら呪詛を唱え始めた。
すると、刀身の光が強まり、それまで、なんら特長のなかった剣が、神々しい、まばゆい光の束に変化した。
光にもさまざまな色や質があるが、ジャンヌの剣の放つ光は、太陽のように純粋に明るく、力強いものであった。
その光の前では、いかなる邪な力も、萎えて消えうせてしまうような。
光に吸い寄せられるように見とれつつ、ぼんやりと、男が、なにをするのだろうと思っていると、呪詛を唱え終わった男は孔明に向き直った。
そして、そのまま、躊躇うことなく、剣を、孔明の心臓めがけて深々と突き刺した。



ちぇっ。
男は舌打ちをした。
ついていない。ジャンヌの気配を追ってきたというのに、もうここにはいなかった。
このあたりは完全なる者の結界があるから、あまり近くに寄りたくないのだ。
めずらしく結界が解放されていて、これは罠かとは思ったけれど、ジャンヌのほうが気になったので、ついつい入り込んでしまった。
ところが、ジャンヌは、もうここにはいない。
仕方ないから、平塚八兵衛としての仕事をこなすことにして、五橋マンションに出向いてみたら、どうだ、氷の巨人と戦っているやつがいる。
いや、一方的に巨人に殺されかけていたやつがいた、というほうが正しいだろう。

すっかり動かなくなっちまったが、なんだか人形みたいな顔したヤツだな。
昔だったら、この隙に、ちょいといい思いをさせてもらったかもしれねぇが、そんなことをしたら、ジャンヌが泣くから、もちろん、しようとも思わない。
中身がなんであれ、可愛い面だな、とか、あと2、3年もしたら、抱くのにちょうどいい体になりそうだとか、そんなことは思っていない。本当だ。
いや、冗談は抜きに、なんだよ、信じられねぇ。一日はかかると思ったのに、どうなってやがるんだ、こいつの霊力の貯蔵量は。
死にかけの娘を蘇生させたうえで、さらに意識を封印させて、眠らせるなんて芸当を、普通にこなしてやがるくらいだから、只者じゃねぇとは思ったが、ちょいと桁外れだな。
あんまり関わらないほうが、利口かもしれねぇ。俺はこういうヤツは苦手だ。

……おいおい、退散しようとしてたのに、またかよ。
たまにあるんだよな。
デットゾーンというか、足を踏み入れたとたん、次から次へとろくでもない出来事が、不思議と津波みたいに押し寄せてきやがる場所が。
ここも、どうやら、それっぽいな。
変なところだぜ。
屋上じゃあ、我関せず、みたいな面して、えらそうに銃口を向け続けているヤロウもいるし(こいつも金髪だ。俺が世界の王になることがあったら、真っ先に金髪禁止令を出してやるってのに)、でもって、こん畜生、また新手かよ。
霊力で感知できなかった、っていうことは、只人か? 
なのに、なんだってんだ、この殺気。
こいつ、いままでこなした殺しの数が半端じゃねぇな。
猫みたいに足音を殺してきやがる。だから、わからなかった。
稀に、現地の人間に殺される、ぶざまなアストラルの話を聞くけれど、この俺が、そんな目に遭うわけにはいかねぇ。
俺なんぞを、忘れないでくれている連中が泣くからな。
適当に相手をする、ってわけにはいかねぇかな。
話が通じりゃあ、また別だがよ。



「そいつから離れろ」
漲る殺意を懸命に押し殺し、趙雲は、男の背中に向けて、一度きりの警告を発した。
見る限り、体格の良いサラリーマンの背中だ。手に剣を持っているという以外は。
崩落した廊下の下方より、風がびゅうびゅうと吹き上げてくる。
向こう岸まで、何メートルあるのだろう。
アストラルであったなら、距離を気にすることなどなかったが、いまならば、下手をすれば、そのまま地面に叩き落される。
日本人だろうか。
あるいは、ほかのアトラ・ハシースが召喚した、東洋系のアストラルか。
自分に霊力がないので、相手が何者かを測れない。
わかるのは、只者ではないという、実に単純な事柄ばかりだ。
男の足元には、ちょうど崩れるようにして、最上アキラ子…孔明の体がある。その手足に血の気はない。

どうして、あれほど嫌がっていたこのマンションに戻ってきているのか、事情を知ることはできなかったけれど、趙雲は、己の勘が当たったことに感謝した。
孔明が意識を失えば、最上アキラ子の意識が出てくる。
アコは、孤独な少女だった。
戻る場所は、学校か、ここしかない。

「離れるにしたって、こんな狭い場所で、動けるところは、もうねぇよ」
と、言いながら、男はゆっくり振り返った。
日本人だ。相当に鍛えた体をしている。
が、体格で測れないのがアストラルだ。アストラルにとっては、扱える霊力の多さが強さなのだ。
男は、剣を持った手を、だらりと下げたまま、尋ねてきた。
「あんた、只人か」
「いまはな」
趙雲が答えると、男はやれやれというふうに、眉をしかめて見せた。
「よそうぜ、そういう回りくどい答え方。只人って、なんだ、と聞いてこないということは、あんたも関係者ってことだよな?」
「そういう貴様は、何者だ? アストラルか? それとも、アスカロンに封じ込められたアトラ・ハシースか? さもなくばレティクルか?」
「質問攻めかよ、せっかちだな、あんた。最初ので当たりだ。やれやれ、そこまで詳しいとなると、あんたが只人だというのがおかしい」
男は、なにやら顎をさすりつつ考え込んだ後、ふと、顔をしかめて言った。
「そうか、元帥閣下のおいたの所為で、霊性が傷つけられて、只人になっちまったわけか。お、その面は、当たりってことだな」
男は、なぞなぞに答えられた子供のように、うれしそうに言うが、趙雲は、それを聞いて、何も答えず、さらに顔を険しくした。
男のほうは、高まる趙雲の殺気に、まるで頓着していない様子だ。

男がさきほど口にしたとおり、稀に、アトラ・ハシースやアストラルが、只人…要するに、派遣された先の住人…に倒されてしまうことがある。
しかし、たいがいの場合は、その只人に、霊的な加護があった場合の話だ。
卑弥呼の鏡をもつヨーコが、メアリの真の姿を暴き出したのも、この例に当たるだろう。
ヨーコのほかにも、さまざまな好条件に救われて、人間が聖霊に勝つ場合がある。
とはいえ、奇跡より、その可能性は低い。

いま、趙雲の手元には霊具はない。
あるのは、ただ己の肉体のみである。
遠く離れたエリザベスや羅貫中を召喚するにしても、只人と同じく通信機器を使わねばならない。
召喚能力があれば、瞬時に召喚することが可能だが、これは、ある条件を満たした相手しか召喚することができない。
補給型のアトラ・ハシースであるエリザベスや、創造型のアトラ・ハシースである羅貫中には、瞬間移動能力がないので、これも、いますぐの助力は見込めない。
要するに、孤立無援ということだ。
男の足元に崩れ落ちたままの少女の体は、ぴくりとも反応を見せない。
最悪の可能性を予感しつつ、暴れだしたくなる己の心を、趙雲は懸命に抑えこんでいた。

最悪とは、なんだ。
孔明の魂が、この世界より消滅し、煉獄へ閉じ込められてしまうことか。
そうではない。
俺という存在が、まだこの世界に留まっている限りは、可能性は0ではない。
つまり、なんとかして状況を好転させ、最高府の渡航禁止命令を解除させる。
そして、ヴァルキューレに、英雄殺しの槍で傷つけられた霊性を、回復してもらうのだ。
そうすれば、煉獄行きの理由である、「召喚したアストラルの原状回復義務の不履行」が解消され、孔明は煉獄より解放される。
この命と、肉体があるかぎり、たとえ一人になったとしても、戦いをあきらめてはならない。
世界を守るためなどという、壮大な使命のために、長い時のなか、「趙子龍」という意識を保ち続けていたのではない。
たった一人を守るために、いままでこうして生きてきた。
それは、いかなる状況になろうと、変わることはないではないか。

崩落した廊下を挟んで、男と趙雲は睨み合いをつづけている。
とはいえ、実際には、睨んでいるのは趙雲だけで、男は、苛立ちをおぼえるほど、飄々とした態度を崩さない。
アストラルが、滅多なことでは只人に負けることはないという「常識」のために、男は余裕を保っているのだ。
「たとえあんたが、走り幅跳びの世界記録保持者だったとしても、この距離を跳ぶのは難しいぜ。五階から地上へまっさかさま。あとは、哀れ、脳漿の飛び散った死体がアスファルトに転がることとなる、と」
揶揄するように男は言う。
趙雲は、挑発されないように、呼吸に注意しながら、答えた。
「ならば、おまえがこちらへ来い」
「やめてくれよ。行ったら、あんた、俺をぶん殴るつもりだろう。いい度胸しているぜ。なんにも知らない向こう見ずな只人ってなら、アストラルの強さを知らないだけに、向かって来てもおかしくないが、あんたは元アストラルで、どれだけ自分が不利だか知っている。
知っていて、喧嘩を売ろうってんだ。相当な自信家か、かなりの莫迦だ。俺が見るに、あんたはもっとも厄介な、両方だ」
「当たっているな」

敢えて笑ってみると、不思議と心が落ち着いてきた。
男の、余裕の態度に騙されてはならない。
断然に有利だとわかっているから殺気がないというだけで、この男からは、ひどく獰猛な獣じみた気配を感じる。
それは、趙雲が、常日頃は、理性の奥底に仕舞いこんでいる類いの情動だ。
もし、趙雲が恐れをなして背中を向けて逃げ出したら、後顧の憂いをなくせとばかりに襲い掛かってくるだろう。
敵なのか、味方なのか……
莫迦な。迷うこともなく、これは敵だ。

「なあ、提案があるんだが」
と、切り出したのは、男のほうだった。
男としても、余裕の口ぶりながらも、趙雲を警戒しているらしく、その手の剣の切っ先は、油断のないことに、趙雲に向けられたまま、一度もぶれることはなかった。
「あんたは、おそらくかなり怒っている。しかも、霊感が只人並に落ちている。だからここがどれだけヤバイ場所かということを、知らないだろう」
「知っているさ」
「いいや、知らねぇ。知っていたら、力なき身で、単身乗り込むなんて真似はしやしねぇだろうよ。いいか、一度しかいわねぇから、よく聞け。ここには、あと一人、いるんだよ!」
いいざま、男は、コンクリートを蹴ると、まっすぐ趙雲のところへ向かってきた。
とはいえ、高く跳躍すれば、無傷で残る六階から上の渡り廊下の床、つまりは天井にぶつかってしまう。
そこで男は、文字通り、地を蹴ると、弾丸のようにまっすぐと平行に、趙雲のところへ向かってきたのである。人間では為し得ないことだ。
男の動きは、良すぎる体格とは想像もつかないほどに俊敏であった。
男は、趙雲のところまで飛ぶと、これまた人間には不可能なことに、その隣で、ぴたりと正確に止まり、趙雲を壁に突き飛ばし、手にした剣をかざす。
が、その切っ先は、趙雲の体には向かわず、頭上から降りてきた何かを、弾き飛ばすことに使われた。
「野球かよ!」
男は、屋上から降ってきた弾丸を、手にした剣で弾き飛ばしたあと、屋上に向かって、野次を飛ばした。
それに対する、屋上からの返答はない。
「ちっ、やっぱり金髪野郎は好きじゃねぇ。ゲルマン野郎も金髪、変態元帥も金髪、コーションのクソ坊主も金髪だった! おい、屋上の金髪野郎! てめぇも、仮にもアストラルなら、堂々と剣で戦いやがれ!」
男は勢いよく罵声を浴びせ続けるが、やはり返答はなく、立ち並ぶビルのあいだに、木霊がひびくだけである。
己の声の残響を聞き、男は気まずそうに顔をゆがめつつ、ぶつぶつと言った。
「畜生め、これじゃ俺が間抜けじゃねぇか」
「屋上に、だれかいるのか?」
壁際に押しやられつつも、趙雲が男に尋ねると、男は、当たり前だと目を剥いて見せた。
「ジャッカルを気取る、トルコ出身の新米アストラルが、頑張ってやがるんだ。あいつが、この結界のスイッチを握っている」
言いながら、男は、剣を持たぬ手の指を、複雑に組み合わせ、それから、小さく呪文を唱えた。
すると、その手に金属製の、手のひらにおさまるほどの、鉄砲百合のような形をした筒があらわれた。
男は、それを無造作に趙雲に投げた。
「ハンドキャノンだ。そいつを、宙に向けて打て。結界を破ることが出来る。イタリアの酔狂なアトラ・ハシースが改良した特製だぜ。あいつ、フランスびいきでよ。って、あいつも金髪だったな。まあいいが」

ハンドキャノンとは、14世紀にイギリスで開発され、使用されたという、拳銃の元祖のような武器である。
手のひらサイズの大砲であるが、性能的に問題があったため、当初はほとんど普及せず、実用品として使われるのも稀であった。

「なぜ」
趙雲が問うと、男は答えた。
「安心してくれや。暴発はしない。昔のまんまじゃねぇし、そのなかに入っている弾は、千日間、聖水に浸した銀の弾だから、霊的バリアも突破するぜ」
「そうではない。なぜ、俺に武器を与える」
問いつつ、趙雲は、向こう岸に残されたままの、最上アキラ子の体を見た。
たとえ手遅れであったとしても、あのまま野ざらしにしておくのは忍びなかった。
「あんた、味方だろ」
ありえない答えを、男は、あっさりと口にした。
「なぜ味方だとわかる? それに、なぜ、それほどまでに事情に通じていながら、これまで行動に出なかったのだ?」
「あのな、霊性を傷つけられると、頭も悪くなるのかよ? アストラルは、自分を召喚したアトラ・ハシースと、視界を共有する。俺がこのあたりの事情に詳しいのは、ラ・ピュセルが、このあたりの事情を知っているからだ。
それに、俺がいままで大人しくしていたのは、ラ・ピュセルを守るためでもあったんだぜ。さぼっていたわけじゃねぇよ」
「ラ・ピュセルだと? 彼女は、どこにいるのだ?」
意気込む趙雲に、男は、うんざりしたふうに、ため息をついた。
「なあ、味方と喧嘩するのは好きじゃねぇから、先に言うぜ。俺は短気なんだよ、とってもな。だから、同じことを、何度も何度もくりかえし答えるのは嫌いなんだ。俺の話は、あんたのアトラ・ハシースから聞いてくれ」
「なに?」
「ほら、おしゃべりしているあいだに、第二撃だ! ここは、とりあえず協力して、結界の突破だ!」

趙雲が、男の声につられて見れば、非常階段の影より、狙撃手が、こちらに向けて銃口をかまえていた。
とっさに、廊下の影に隠れるが、発射された弾丸は、ぶ厚いコンクリートの壁にぶつかると、すさまじい威力を発揮して、弾丸の当たった箇所の、周囲1メートルを、粉々に吹き飛ばした。
さらに、廊下の崩落箇所が広がる。
「おいおい、このマンションを廃墟にするつもりか、てめぇは!」
男は言いながら、狙撃手に向かって剣を片手に向かっていくが、狙撃手は、それを見ると、ふたたび屋上に駆け上がっていく。

その後につづこうとして、趙雲は、立ち止まり、アコの体の残る廊下を振り返った。
が、そこには、アコの体はなくなっていた。
血が凍るとは、まさにこのことだろう。
咄嗟に思い浮かんだのは、朽ちて砂に還ってしまった可能性である。
最期を確かめてやることすら、出来なかったのか?

ぎん、と鋭い金属音が頭上から響き、見上げれば、非常階段の真ん中で、男と、見知らぬ金髪の狙撃手が、剣と銃とで、真っ向から組み合っているところであった。
「こいつの動きは封じたぜ! 早く、結界を崩せ!」
男の叫びに応じ、趙雲は、手渡されたハンドキャノンを宙に向けて放った。

どん、と鈍い音がして、ちいさな銃口より、ハンドキャノン本体の何十倍もあるような、巨大な球体があらわれた。
それは、アドバルーンのように柔らかく、なおかつ動きも緩慢に、ゆるゆると空中を漂っていく。
男と狙撃手の争いをよそに、それは実に平和な、緊急性の欠片もない動きであった。
そして、球体は、ぶよぶよとたゆんだ動きを見せながら、途中でぴたりと動きを止めると、突然に、体を膨張させた。
カエルの腹を思わせる形状の球体は、どんどん膨らみ、やがて、だれかが風船を針で突いたように、ぱん、と派手な音をたてて、弾けた。
とたん、球体から、さらにちいさな球体が、勢いよく四散した。
いや、ただの球体ではない。
そのひとつひとつは、金平糖のような形状をしており、それぞれに突起を持っていた。
それは奔流のように勢いよく四散すると、迷惑なことに、マンションや、ほかのビルの外壁など、触れるものをすべてを破壊しながら、その行く手を容赦なく粉砕して、遠くへ、遠くへと跳んでいく。
そして、なにもないはずの場所で、四散した球体は、それぞれ動きを止める。
ちいさな球体が止まった位置を線でつなげてみれば、きれいな曲線を描いて止まっていることがわかっただろう。
その線こそが、結界の形なのである。

「結界崩しの秘密兵器だ。ありとあらゆる事態を想定し、武器を用意する、これが本物の戦争屋の実力だぜ!」
男が得意そうに笑うのと同時に、肉眼ではみえないなにか大きなものが、きしきしと音をたてて軋みはじめる。
とたん、あたり一帯を閃光が襲いかかり、爆弾が落ちたかのような衝撃波が、周囲を呑んだ。
「最悪だな、戦争屋!」
悪態をつきながら、趙雲は、衝撃から体を守るべく、身をかがめるが、津波のような勢いのそれは、とうてい、只人の動きでは免れようがない。
星が落ちたかのような光の洪水に視界を奪われつつ、身を伏せるしかできないでいると、すぐそばで、人が立つ気配を感じた。
「もろもろの兵の始め、武神の名において命ず! 聖弾よ、我が身を避けよ!」
声と同時に、光と音が、いっせいに消滅した。
趙雲の目の前に、床に崩れ落ちていたはずのアコ…孔明が立っていた。
その服は、背中を中心に、傷ついてぼろぼろになっていたが、両の足でしっかりと立ち、五橋周辺を襲っている光の洪水より、自身と、趙雲を守っていた。
孔明は、結界崩しの聖弾に対し、攻撃無効の呪詛を投げ、さらに防護の結界を張ったのだ。
結界の張られた孔明と趙雲の空間は、一時的に周囲から隔絶された。
聖弾の引き起こす破壊から免れたのである。
木々がはげしくのた打ち回り、マンションは、見えざる崩壊する結界の残片を壁面に受けて、ぼろぼろに傷ついていく。
マンションばかりではなく、隣の五橋会館や、ほかのオフィスビル、道路も公園も空き地も、すべてであった。
雨のように降る欠片のなか、孔明は趙雲を振り返った。
「突破するぞ。結界を破壊したといっても、一時的なものだ。大元のスイッチを破壊しない限り、また元に戻る!」
「突破するといっても、どうする。非常階段は連中が塞いでいて使えぬし、まともな階段も崩壊寸前だ!」
「だったら空を飛ぶのさ。わたしの手を取れ!」
手を取ったというよりは、孔明が趙雲の手を、無理やり引っ張ったといったほうが正しい。
ぐっとつよく体を引かれ、全身を、包むような浮遊感が襲う。

趙雲は、空を飛んでいた。
光り輝く蒼い龍の背に守られるようにして、趙雲は、崩壊したビル街に、光の欠片が絶え間なく降り注ぐ、うつくしくも無残な光景を見下ろした。
完全なる者の結界が、守っていた町もろとも、壊れていく。
蒼い龍は、一気に天空に駆け上がり、五橋の町が、仙台の市街が小さく見えるほどまで上昇する。
そして、雲すら突き抜けて上空に昇りつめたあと、くるりと身を反転させ、今度は一気に地上めがけて下降していく。
その尾には、申し訳程度に背毛に捕まっている男が、
「変化できるって先に言え! 寒いじゃねぇか! そいつに掛けている風の防御呪文を俺にも掛けやがれ、命の恩人だぞ俺は! さては、貴様も本体が金髪か!」
と騒いでいた。
孔明の、アストラルならば五感を閉じればよかろうに、という、呆れた声が、風に乗って聞こえてきた。

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※ この話は、「新ずんだの章10」につづきます。