新ずんだの章 8

※ この話は、「仙台ゴールデンポークスの章12」のつづきとなります。

古ぼけた車のシートの上で、青葉山から離れゆき、次第に電飾で彩られた仙台の街灯りが近づくのを見るにつれ、アコは混乱から立ち直り、徐々に、己の身に起こりかけていたことが、どういうことであったのか、理解しはじめていた。
自分を追いかけていた男たちは、途中からどこかへいなくなってしまったが、彼らは、青葉山のイルミネーションの準備(あんな人通りもないところでイルミネーションだなんて、聞いたことないけれど…大文字焼きみたいに、山の斜面に文字を写すのかな?)をしていた作業員にでも(姿も気配も感じなかったけれど)見つかったので、逃げていってしまったのだろうか(そんな殊勝な連中とは思えない)。
ヨーコも一緒だろうか。一人で逃げてきてしまったことにならないだろうか。大丈夫だろうか。
山の道を懸命に駆けているときに、だれか、知っている声が聞こえたような気がしたけれど、気のせいだったろうか。

合点のいかないことは、まだある。
男たちの車から逃げるときに、靴は駐車場で脱げてしまって、裸足だったはずである。
靴下の裏に、小さな石がざらざらと当たっている感触がある。
いつのまにか履いていた靴をそっと脱いで、足裏を確かめてみるが、汚れている、ようだ。
ようだ、というのは、やはり、夜の車内は暗いため足元がよく見えないからだ。
広瀬川を渡り、天文台や西公園の脇を通り、定禅寺通りに入っていく。
定禅寺通りでは、仙台光のペーシェントのポスターがあちこちに貼られていた。
点灯式はいつだったかなぁと、視界の隅で思いつつ、学校に履いていける黒い革靴は一足だけであったから、アコは、ともかくよかったな、と思っていた。どこかで、最悪の結果の想像をすることを、頭が拒んでいた。
そして、視線を、運転席の中国人に移してみる。
カーラジオのない車の中、中国人の男は、もくもくと運転をしていた。
仙台は、ドライバーの運転が荒い。気質が穏やかだと言われている東北人が、なぜだかハンドルを握ると、凶悪になるケースが多いが、この中国人の運転は静かで、ハンドル捌きも丁寧である。
「もうちょとて、五橋たから」
と、アコの視線に気づいたのか、中国人が前を見たまま言った。
濁点を発音できないでいるところからして、中国の人なんだなぁと、妙にアコは感心する。
「あの、あらためてどうもありがとうございました。お仕事のほう、大丈夫ですか?」
「平気。あとは会社に帰るたけてある。五橋は帰り道たし、遠慮しなくてよし」
事情を説明しているだけなのだが、無表情な横顔とは別に、声に、こちらを気遣ってくれているような響きがある。
いい人だな、いい人に国境はないな、と納得しつつ、アコは尋ねた。
「お国は中国でしょう? 中国のどこですか」
何度と繰り返された質問であったらしく、男はよどみなく答えた。
「河北省。わかる?天津丼の天津のあるところ」

不思議と学校教育というのは、アジアの地理に関し、あまり多くの時間を割かない。
読書好きなアコであったが、中国を省で説明されても、位置がわからない。
「河北」というくらいなのだから、黄河の北、ということで、昔の満州とかの位置かなぁ、などと、歴史好きなところをみせて、世界史資料集などを思い出して考えた。

「仙台GOLDEN PORKS PRINTて、荷物の運搬作業してる。大学生たから、冬休みたけのパイトたけと、ここの会社、ほかにも中国人を雇っているのて、働きやすい」
「仙台ゴールデンポークスプリントというと、野球チームを持っている、伊達ハムグループの子会社、でしょ? 今の時期だと、クリスマス用のチラシを運んでいるの?」
「んーん。初売り用の紙袋とか、年賀状とかね。仙台、初売りするから、正月はたのしくてよい。ても、あんまり神聖しゃなくて残念てある」
「クリスマスにお株を奪われている感はあるよねぇ。でも、初売りのおかげで、冬物の服は全部、福袋で間に合うんだよ」
「そうなの? 女の人は着られるものかいっぱいあるから、うらやましいと思う」
「男の人向けの福袋だってあるじゃない」
「そうしゃなくて、女は男物を着られるけれと、男か女物を着たら変態になる」
「ああ、そういうことね。うん、たしかに変態かも。ええと、順番が逆になってしまったけれど、あなたの名前はなんていうの?」
「わたし? チャオ・ウェイロン。あなたは?」
「最上アキラ子」
「長いね。とこまて苗字?」
「最上が苗字でアキラ子が名前なの。アコでいいよ」
わかった、と、チャオは、ハンドルを握ったまま頷いた。
「アコ、あんな山の中て、一人て居たら、危ないよ。散歩してたの? 迷子たったの?」
男の人に、アコと呼びすてにされるのも、どきりとするなと、年頃の娘らしくアコは照れながら、尋ねた。
「わたしのほかに、誰かみなかった?」
「ううん。なんにも。去年もあの山に何度も行ったけれと、山もイルミネーションすることになったなんて初耳たった。綺麗たけと、見る人いなくて寂しいと思う。宮城県庁は、無駄をおさえるぺきた」
無駄を抑えるべきだ、と言いたいらしい。
行政批判はともかく、アコは安堵すると同時に、薄気味悪さも覚えた。
男たちに追われていたのが現実なのだろうか。それとも、男たちが一瞬にして消えて、助かっている自分が、夢を見ているのだろうか。
なにかのSFであったように、本当の自分は、青葉山のガードレールから飛び降りており、その地面に叩きつけられるまでの刹那に、自分が助かった夢を見ているのかもしれない。
ぞっとする想像だ。思わず、アコは身を震わせる。
「とうした、さむい? エアコン、もうすこし熱くする。しぱし待て」
「ううん、エアコンは大丈夫。どうもありがとう。チャオさんは何処の大学生なの?」
「T大の農学部たよ。隣にある、上杉の寮から通っている。虫につよい米の研究している」
「農学部って、勝山公園の裏手にあるところでしょう? 外から、羊とか山羊とか見られるんだよね。むかし、親と一緒に散歩がてら、見に行ったことがあるよ」
アコが言うと、チャオはうんうんとうなずいた。
「山羊はおもしろい。ても、五橋から上杉はとおいのに、かんぱったね」
「そんなに遠くないよ。40分くらいで行けるもの。お父さんのボーナスが出たあとだったから、帰りにみんなで勝山会館のフランス料理のレストランに行ったんだ」

ちょうど、この時期であった。
勝山会館は、仙台の老舗結婚式場であり、規模もさることながら、格式も高い。酒造元としても有名で、酒は、毎年、全国大会で金賞をもらっているほどだ。
勝山会館周辺の、昔ながらの風情をのこす街並みは、観光スポットにもなっている。
そこに人気の高級フランス料理店があり、普段ではなかなか行けないが、アコの父親のボーナスが思ったより多く出たということで、一家で出かけて行ったのだ。
とはいえ、地下鉄で行くには半端な距離だし、ちょうどよくおなかをすかせるために、歩いていこうとなって、三人で、愛宕上杉通をてくてくと北上していったのである。

懐かしく思いつつ、暖冬で、初雪もまだな仙台の街を、車窓越しに見れば、すでに車は、ダイエーを左手にして、五橋方面へ右折するところであった。
「もうちょっとて着く。お父さん、お母さん心配しているから、ちゃんと謝るといい。親不孝はいけない」
「うん、そうだね」
アコは、チャオに、両親ともに居ないことを言えなかった。チャオを警戒したからではなく、居ないという説明をしているうちに、感情が崩れることを恐れたのだ。
車は、渋滞に引っかかることもなく、スムースに五橋に到着した。
河北新報本社のある一角を左に曲がり、細い道に入ってすぐが、アコのマンションである。
チャオは、アコを下ろして、
「ちゃあね、気をつけて」
と言って去って行った。
アコとしては、なんらかの礼をしたかったのであるが、チャオは察しがよいらしく、アコが引きとめようとするのを、そう切り出される前に逃げた感がある。
それでも、別れ際、携帯の番号とメールアドレスを聞き出すことには成功した。
いつものように、いつもの古ぼけたマンションの階段を昇っていく。街頭に照らされる外壁の、濃いベージュ色が、なぜだか不思議と懐かしかった。

生きて帰ってこられたんだ。

まるで、死が行く手に待っていたことを、既に知っているような感覚で、アコは、己のとりまくすべてに感謝し、安堵した。
はたから見たら、殺風景な、資産価値もほとんどないような、古ぼけたマンションであるが、この四角い建物こそが、彼女のふるさとなのである。
いつものように扉を開き、真っ暗な玄関に立ち尽くす。
そこで、いつもなら、スリッパを履くのであるが、アコは動けなくなった。

帰ってきた。帰ってこられた。

手と足が動いているのがうれしかった。
目が見えているのがうれしかった。
耳が聞こえるのがうれしかった。
心がここにあることがうれしかった。
あとは、ここに、お父さんとお母さんがいてくれたなら、どれだけうれしかっただろう。

自然と涙があふれてきて、アコは、その場にしゃがみこんだ。
だれに聞こえても迷惑がかかるというわけでもないのに、声を殺して泣いた。
そんな寂しい癖が、すっかり身についてしまっていた。



この娘は、なんとしても救わねばならないと思った。
その肉体を共有し、記憶を共有したことから、孔明は、最上アキラ子という少女の、庇護者であり、親友になったような気分になっていた。
記憶を共有するということは、彼女の感情をつぶさに共感するということであり、それは日々記録された詳細なドキュメンタリーを、一日漏らさず見つづけたようなものである。
アトラ・ハシースとして、記憶を一瞬にして『感じ取』り、孔明は、自分が、最上アキラ子という少女としての人生を生きたような錯覚さえ、おぼえていた。
泣き続ける少女の傍らに立ち、そっと髪に触れてみるが、少女には、そこにだれが立っているのかわからなかったようである。
少女から、こちらの姿は見えない。
こちらが受肉していないのだから、仕方がなかろう。
よほど霊感がつよいか、修行をついた高僧でもないかぎり、受肉していないアトラ・ハシースを、肉眼で見ることはむずかしい。
力が弱っているから、そばにいるのだという信号すら、送ることも出来ない。
人が泣いているところを見るのは嫌いだ。
敵であれ、味方であれ、まったく無関係の人間であれ、泣いている者はみたくはない。
励ましの言葉をかけても届くまい。
それでも、身を屈め、泣くんじゃないと励ましてみる。
その声が届いたのか、アコが不思議そうに顔を上げた。
涙で濡れた顔は、幼女のようにあどけなく見えた。
指を伸ばし、ぽろぽろと、雨粒のようにこぼれる涙を受け止めてみる。
それはとても温かく、同時に、なぜか、嫌な粘り気を持っていた。



指につたう異様な感触と、身体全身を襲っている冷えとの、混乱した感覚に、孔明は目を覚ました。
目を開き、視界に、赤いものが広がっているのを見る。指が動くことを確認し、赤いものを手でそろりと拭ってみる。
涙とはちがう、粘り気のある液体。
血だ。
長町駅から地下鉄に乗り、待ち合わせのために匂当台公園駅に向かって、途中で電車が止まり、吸血鬼が襲ってきた。
背中を斬りつけられたけれど、なんとか逃げて、撃退し、肉体の補修に、全霊力を注いだのだ。

己の記憶を整理して、深く息を吐いてみる。そして、息を吸ってみる。
呼吸はできる。しかし、体の一部が動かない。
コンクリートの床に、顔だけを横に向かせて、突っ伏すような形で倒れている。
この状態が、どれだけつづいていたのだろう。
頬に、氷のようにしんしんと冷たい感触をおぼえつつ、孔明は、考えた。

いまの、アコが泣いている夢は、夢ではないのではないか。
一瞬、この体は死んで、霊体は別世界に飛ばされたのではなかったか。
だとしら、いまここに戻ってこられた理由はなんだ? 
落ち着け。一度弾き飛ばされたなら、戻ってこられるはずがないのだ。
最高府によって、封鎖されている世界で、どうやって戻ってこられると?

息をしてみる。肺に痛みはない。
指を動かしてみる。痛みはない。
突っ伏した形のまま、慎重に、脚を動かしてみる。
右足。問題はない。
左足。これも問題はない。
腕を動かし、普通に動くことを確認する。
声を出そうとする。

蒼ざめた唇を振るわせたその瞬間、孔明は、己の突っ伏した視界の端に、だれかの足があるのに気づいた。
細くて長い、男の足だ。擦り切れたスニーカーをはいており、ちょうど、アコの体の膝のあたりに立っている。
声を出そうとして、孔明は、激しい痛みを背中に覚えた。
肺に痛みはないものの、声を出すことが苦しい。
咽喉を傷つけたのではあるまいな? 
舌で口の中をたしかめると、舌先がつっかえるほどに乾ききっていた。

冷たいコンクリート。目の前には壁がある。
見覚えのある塗装だ。濃いベージュの壁。
ところどころヒビが入り、補修のほどこされている廊下。
団地並に殺風景な扉が立ち並ぶ、ここは、五橋のアコのマンションだ。
そこまで理解し、孔明は、己が身に迫る危機に気づいた。
マンション周囲に強烈な違和感、圧迫感をおぼえた。
霊力がカラの状態では感知できなかった。
いまも、同じくカラに等しいが、一度、あの全身を締め付けられ、じわじわと力を搾り取られるような圧迫感を感じたなら、二度と寄り付こうとは思わなかったはずである。
なぜ戻ってきてしまったのだ? 
アコが、一瞬でも戻った?
孔明は、足元の人間に気をつけつつ、目の前に溜まっている血に触れた。
血は、古来より霊力の源とされている。
古来の戦士は、敵に勝つと、その血を杯に浸して飲んだほどであるし、吸血鬼が血を欲するのも、血に籠められた霊力を得るためなのである。
『あまりよい方法ではないが』
孔明は渋い顔をしつつ、血溜まりを指で掬い上げると、蒼ざめた唇に運んだ。
そして、回復の呪文を唱える。
霊力をこの場所で集めることは難しい。集めようと集中すればするほど、横からさらわれていく感覚がある。
このマンションはどうなっているのか。
霊力を集めるべく人工的に作られた施設は地上に多い。主に、宗教施設であるが、ここは、バチカンや泰山並の吸引力でもって、霊力を集めている。
急ごしらえの結界か。
だとしたら、相当に力がある者が、この結界を張ったのだ。
もちろん、只人ではありえない。


「死にかけだね」
どこかで聞き覚えのある、若い男の声が降ってきた。
いったい、どこで聞いたのだろう。
孔明は記憶をたぐるが、ところどころ、記憶が妨害されて、うまく連鎖して思い出すことができない。
「困ったな。こうなると、二つにひとつなのだろうけれど、あなたに決めてもらおうか。このまま、結界に押しつぶされて消滅を待つのと、一気にとどめを刺すの、どちらが好みかな」
物騒なことを口にするが、その口調には、嘲弄の響きはない。
奇妙なことであるが、まるで看護士が、患者に要望を聞いているような口調である。
「中身のあなたとは初対面だけれど、肉体のほうとは隣のよしみで、いろいろ仲良くしてもらったしね。いい子だから、肉体だけになっているとはいえ、傷つけるのは抵抗があるよ」
孔明は、首を上げようと必死になるが、すると、それまで痛まなかった背筋に、ぴりりと割けるような衝撃が走った。
思わず呻いて、ふたたびコンクリートの上に突っ伏す。
荒い息を吐く孔明を、男は冷たく見下ろしている。
まるで、人体標本かなにかになったようではないか。
屈辱をおぼえつつ、孔明は苛立ちもあらわに目だけを動かしたが、男は動じることなく、淡々とつづけた。
「こういう形でなければ、あなたにいろいろ師事したいこともあったのに、残念でなりませんよ、当山孔真君。また別の機会で会ったときには、このお詫びは必ずいたします。
ああ、でも、あなたに、次はないのでしたっけ。おとついの晩に、あなたと一緒に帰ってきた男、あれは何かの手違いで受肉してしまったアストラルじゃありませんか? 
アトラ・ハシースは、召喚したアストラルに対し、全面的に責任を負う。これをふたたび『下宿先』に戻せぬ場合は、煉獄行きだ。残念だな、華々しい活躍をつづけてきたあなたが、こんな形でキャリアを終わらせるなんて」
「そう思うのならば、名乗ったらどうだね。どこの国の者かは知らぬが、礼儀知らずなものだ」
「これは失礼。今日は千客万来なもので、いささか気が動転しておりました」
悪びれず男は言った。
見えないが、西洋式のお辞儀をしてみせたようである。足の動きでそれとわかった。
「わたしの名はイスメト・イノニュ。トルコ人でした」
「そうか、アタチュルクに召喚されたアストラルか」
「いいえ、正式にはちがいます。わたしは、ヴァルキューレに召喚されたのです。アタチュルクは、アトラ・ハシースのなかでも稀少な完全なる者。しかし経験年数が浅い。そこを懸念したヴァルキューレは、わたしを召喚し、アタチュルクのストッパーにすることにしたのです」
「この結界は、おまえが敷いたものか」
「いいえ、前回のループで、ヴァルキューレが消滅した際に、防御を固めるためにアタチュルクが敷いたのです。
とはいえ、彼のバランス感覚は素晴らしい。自分では、事態にうろたえ、感情にまかせて暴走する可能性があるからといって、わたしに結界のコントロールを任せてくれたのですよ。実に見事な判断だったといえるでしょう。
わたしはアタチュルクのストッパーであるということで、ヴァルキューレより、霊力の干渉を受けずに済むように、魔法をかけてもらっていた。だから、聖剣アスカロンの影響は、わたしには及ばず、こうして結界を守っていられる。レティクルも、貴方がたも、ここには入り込めない」
「どういうことだ? おまえたちは、わたしたちの味方ではないのか? ヴァルキューレの命令を忘れたというのか?」
詰問調になる孔明に、イスメトは苦笑したようである。
「同じ言葉を、ラ・ピュセルにも言われましたよ。同じ説明をしなくてはなりませんね。アタチュルクはいま、アスカロンの影響で、完全にアトラ・ハシースとしての記憶を失っているのです。
あなたもご存知でしょう。アトラ・ハシースの活躍は、基本世界での名声に大きく影響し、その打ち立てた功績にも影響するのだと。
アタチュルクの打ち立てた功績といえば、それはトルコ共和国だ。いま、トルコ共和国は、EUに参加できるか否かの瀬戸際にあり、むずかしい立場に立たされている。アタチュルクがいま派手に倒れれば、トルコ共和国にも大きな影響が出るはずだ。これはなんとしても阻止せねば。
わたしには、この世界そのものを守ることより、基本世界のトルコ共和国を守るほうが大事なのです。ですから、あなた方にも、レティクルにも、どちらにも与さない。どうぞお恨みくださいますな」
「おまえには、おまえの理由がある、というわけだな」
つぶやき、孔明は目を閉じた。イスメトが述べたような理由で、召喚されても動かなくなるアストラルやアトラ・ハシースは多い。これを動かそうとしても、むずかしいことは経験で知っている。
孔明は、息を整え、それからふたたび目を開くと、尋ねた。
「いま、ラ・ピュセルと言ったな? 彼女は無事か。どこにいる?」
「さて、たしかに彼女はここに来ましたが、どこへ行ったのかはわからない。結界のなかは安全だが、しかし、霊査しても外の様子がわからなくなるという欠点がある。
たった一人、わずか二年の間に、フランスという国を生んだ彼女に敬意を表し、結界を一瞬解いたのがいけなかった。あなたが、知らない間にここに入り込んでしまった」

イスメトの言葉に、孔明は合点した。
肉体の補修を急ぐあまり、霊力を使いすぎ、抑えていた最上アキラ子が戻ってきたのだ。
彼女は混乱のなか、ともかく一番安全な場所、自宅へと帰ろうとしたにちがいない。
それが、ちょうど結界を解いたあいだであったから、孔明もここで意識を取り戻すまで、危険を感じて目覚めることなく、すっかり気を失っていたというわけだ。
失態も失態。あきれたものである。なにが呆れたといえば、ほんのわずかな差でラ・ピュセルと合流しかねたことと、霊力の使いすぎで意識を失うなどという、初歩的なミスを犯したことだ。

「おまえは、わたしを消すか」
孔明が尋ねるも、イスメトは答えない。
迷っているのかと思い、首を動かせば、そこにあったはずのイスメトの足がなくなっている。
どこかへ移動したのか。見捨てて自滅を待つことに決めたのか。
どちらにしろ、孔明にとっていいことではない。
「第三の選択肢が来てくれたようです。ありがたいけれど、本当に今日は千客万来だな。結界を解くと、ろくなことがない」
イスメトの声が、孔明の横たわる位置よりも、さらに上のほうから聞こえてくる。
カンカンと金属音が聞こえてくることからして、非常階段から上へと昇っているようだ。
なにを考えているのかと怪訝に思う孔明の鼻腔に、生臭い、吐き気を催すような匂いが漂ってきた。
「わたしだって、なぶり殺しなんて見たくない。せめて、結界を解いて差し上げましょう。ご自分で、よい死に方をお選びください。さようなら」

声がふつりと途切れると同時に、それまでまったく聞こえてこなかった、自動車の流れる、川音にも似た音、ビルの谷間を抜ける風の音、五橋公園にある大きな木々の葉音、そこかしこにある人の生活を思わせる音が、いっせいに戻ってきた。
ちぐはぐな、それでいて調和のとれている、オーケストラのようだと孔明は思った。人がそこに生きているのだと感じさせてくれる、物音である。
本来ならば安堵するところであるが、心拍数はむしろ上がっている。
原因は、絶えず鼻腔をいじめてくる、この異様な匂いであった。
思わず咳き込むと、背中の、癒え切っていない傷に響く。
結界が解かれたことにより、霊力を回復することが出来る。
意識を世界に繋げて集中しつつ、人形のように冷たくなっている手足に血が行き渡るようにし、ゆっくりと、腕の力だけで起き上がった。
短時間で霊力を補充するのにも限度があるが、傷を塞ぐくらいの力は溜めねばならぬ。
傷を塞いで、逃げねば。
孔明は、起き上がった指に触れる血溜まりが、ぱきぱきと乾いた音をたてて凍りつくのを見た。
驚いて覗き見れば、凍りついて、鏡面のようになった血溜まりに、禍々しい、ひとつ目巨人の姿が映る。
孔明は、舌打ちをひとつすると、こちらの背に向けて拳を振り上げようとする巨人から、すばやく身をかわした。
肉体の力ではなく、霊力でもって、体を浮かせて、宙返りをし、後ろに飛びのく。
目標を失った巨人は、不思議そうに首をひねり、それから、目標を探して、ゆっくりと首を左右に振った。

巨人から、強い霊力を感じる。アストラルだ。
それも、正規のそれではない。幻想魔族を召喚した者がいる。
まさか、レティクルが、召喚技術までも独自に開発したのでは?

焦る孔明であるが、目の前を見て、仰天した。
巨人が打ち下ろした拳の跡を中心に、古いマンションの廊下は、亀裂が入ってしまっている。
深い亀裂は、さらさらと不気味な崩れる音をさせながら、徐々に廊下の床の崩壊を伝えている。
孔明は、背後を見た。
廊下の最後尾。ここから逃れるには、だれの部屋かは知らないが、すぐそばにある部屋に飛び込むか、あるいは、手すりを乗り越え、地面へ逃れるか。
孔明は、廊下の最後尾の壁に身をあずけるようにして、下を覗きこんだ。
アコは、自宅の前まで来て、力尽きたのだ。

最上家の、閉ざされた玄関に目を向ける。
一瞬だけ、あの扉の向こう側に、蹲って泣いているアコがいるような錯覚をおぼえる。
しかし、孔明はすぐに無為な空想を振り払った。

霊力が十分なときでは、たとえ55階から飛び降りることになっても、ためらいはなかっただろう。
しかし、いまの状態では、5階から飛び降りるのは命取りである。アコの肉体を強化したうえで風を召喚し、空気のクッションを作るなどという瞬間芸を、いまの、アコの肉体を維持するのがやっとの状態で、できるはずがなかった。
目についた扉のドアノブを回してみるが、鍵が掛かっている。留守のようだ。霊力を使って、鍵の解除をしてもよいが、呪文を詠唱する時間がない。
「とことん、ついていないな」
最悪の状態に心が陥ることを避けるため、孔明はわざとおどけて言って、異臭をはなつ巨人に首を向け、目脂で汚くよごれた一つ目を見据えた。
巨人は、天井にほとんど背が着くほどの高さである。事実、電灯などは、凍りついたうえで、巨人の頭に触れると、脆く割れ落ちている。
選択肢はひとつしかない。飛び降りるしか。
そうして、心を決めた孔明が手すりを乗り越えようとしたとき、思いもかけないことが起こった。
真っ直ぐ向かってくるかと思われた巨人が、ふと、横に目を向けた。
それは、鍵の掛かった部屋の扉の前に置かれている傘であった。
巨人はそれを手に取ると、大きく吼えながら、傘を槍のようにして、大きく振りかぶった。
とたん、なんの変哲もなかったビニール傘が、一本の、氷の長槍に変じたのである。
うろたえ、言葉もない孔明に、巨人は、その鋭利な切っ先を容赦なくぶつけてきた。


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※ この話は、「新ずんだの章9」につづきます。