新ずんだの章 7
※ この話は、「新ずんだの章6」のつづきとなります。
吸血鬼の気配が、背後にて、ぴたりと止まる。
孔明は振り返らなかった。吸血鬼は、自ら宣言したとおり、只では殺しはすまい。すなわち、気が済むまで弄ってから、とどめの一撃を加えてくる。奇妙な言い方ではあるが、それまでは、命は保障されている、ということだ。
前方からの風の気配を感じる。
これは奇跡か。いや、奇跡を起こせと天が命じているものか。
どちらにしろ、奇跡とは、それを成し遂げようとする者の前にしかあらわれない、人智を超越した努力の結果なのだ。
吸血鬼の手が、コンクリートの冷たい壁にもたれる孔明の肩に触れる。
それを跳ね除けるようにして、孔明は息を乱しながらも、這うようにして、沈黙する線路の上に身を投げる。
そして、そのまま線路伝いに北へと、腕を使って前へ進んだ。
「往生際のわるい」
と、吸血鬼は嘲うようにして、ゆっくりと足を向けてくる。
「脊髄を切ってしまおうか」
吸血鬼は鎌をもたげたが、孔明は痛みと吐き気と眩暈、そのほかもろもろの、すべての負担に耐えながらも、超人的な努力でもって、腰椎を守るために仰向けになった。
そして、真正面から、吸血鬼の、歪んだ蒼い瞳を見据える。
血に塗れた吸血鬼。孔明の反応がどんなものか、ひとつひとつを見逃すまいと、その双眸はまばたきもせずにこちらを見下ろしている。
純粋な悪。まさにそれである。
吸血鬼の双眸は、好奇心の旺盛な、子供のような異常な輝きを見せている。
人が、理不尽な痛みと恐怖にどのような反応を示すか、ただそれを追及したいのだ。
痛みを与えられる側の、混乱する感情、嘆き、怒り、恐怖などは、まったく興味がない。
これを狂っているといわずして、なにを狂っているというだろう。
この男は孤独だ。だれにも共感できない。永遠に。
人は、愛情と同情とでしか、互いを繋ぎあうことができない生き物だ。その決定的な二つが、欠けてしまっている。
孔明は、仰向けになりながらも、腕の力を使って、なんとか前進を続けた。
吸血鬼は、その鈍い動きを面白がるように、ちょうど線路の間に挟まっている孔明の体を、線路ごと跨いで、一緒に移動する。
その片手にある鎌が、ぽたぽたと雫を垂らして、線路に合わせて垂れている。吸血鬼の背後には、停止したままの電車が、ライトを煌々と照らして、沈黙したままでいる。
構内のランプが、夜闇の星のように、にじんで見える。
表の駅の美しさと同様に、構内の静けさ、美しさも、誉めてしかるべきものであった。管理が行き届いている。
北の方角から風の気配がある。
まだ待て。最小限に力を抑えろ。いまはまだ、待て。
激しい頭痛と、辛うじて塞いだものの、それでもまだ、仰向けで移動することにより、軋みを訴えてくる背中の傷の焼け付くような痛みの両方とに悩まされながら、孔明は風を待った。
四方をコンクリートに囲まれた空間は、死のように冷たい。
「飽きてきた」
唐突に、吸血鬼が言った。そして、言葉に動きを止めた孔明に、顔を近づける。
「逃げ続けるおまえも悪くは無い。だが、もういい加減に飽きた。わたしは」
びゅっ、と鎌が空を切った。
その刃は、孔明の咽喉元をぎりぎり掠める。
それでもなお、大きな黒い瞳をまっすぐに向けるばかりの孔明の態度に、吸血鬼は舌打ちをせんばかりの顔で、吐き捨てるようにいった。
「悲鳴をあげるでもない、命乞いをするでもない、罵倒するでもない! おまえはただ、逃げ回るだけではないか!」
孔明が、さらに肘で前進をつづけようとすると、吸血鬼は、鎌の刃のない側でもって、孔明の横面をしたたかに打ち据えた。孔明は、跳ねるように、レールの片側に身を打った。
「それがおまえの矜持というわけだな。ガリアの蛮族には、屈さぬというわけか!」
鎌の柄でもって、ぐいと顎を上向きにされる。
「怯えもなく、ただ怒りあるのみ。ふん、立派な態度と誉めるべきであろうな。だが、わたしはつまらん」
と、吸血鬼は、ぐい、と孔明の服の、襟元を乱暴に掴み上げた。
そして、片手で孔明の身体を持ち上げると、自身は身を屈め、くぐもった声を投げてくる。
「いまここで、おまえを辱めてくれよう。あの電車から、もしかしたら誰かが見ているかもしれぬが、それも一興。屈辱のまま、己の流す血にまみれて世界から消えるがいい」
孔明は、腕を突き上げ、吸血鬼の身体を押し上げようとした。
すると、ふたたび吸血鬼は悪鬼の表情をやわらげ、声をたてて笑う。
「そうだ、抵抗してみろ。泣き喚け!」
孔明の抵抗は、浴びせられる拳でもって、あえなく沈黙させられた。
後頭部をコンクリートにしたたかに打つ。
頭蓋の中の脳みそが跳ねた感覚があった。
もとよりつづいていた頭痛が酷くなり、孔明はその場で顔を背けてふたたび嘔吐する。
泣いているのか、と吸血鬼が笑って、孔明の頬を、指の腹でさすった。
鼻は折られていない。だが、鼻腔に血があふれてきた。苦しい。
レールに触れているほうの手が、かすかな希望を伝えてきた。
目だけを動かして、前方の吸血鬼を見る。
普通に人と触れ合うことがどうしてもできない、方法がわからない、理解できない。
その存在を否定し、跪かせ、犯すことでしか、人と触れ合うことができない。暴力が、この哀れな生き物にとっては、唯一の会話なのである。
「お慈悲を」
「そうか、いよいよ命が惜しくなったか」
笑う吸血鬼に、孔明はしかし、目をしっかりと開いて、決然と言った。
「いいや、おまえに、だ!」
孔明は、一気に身を反転させると、そのままレールを飛び越え、反対側のレールの溝の間に入り込む。
とたん、沈黙していた電車のライトが、太陽のようにいっせいに光を放った。電車の運転が再開されたのだ。
一人残された形となった吸血鬼であるが、その光に怖じたものの、動き出す電車が迫ってくる前に、孔明の逃げた反対側のレールに追いすがってくる。
そして、レールの間に挟まって、グッタリとその身を横たえる孔明に、怒り狂って拳を振り下ろす。
「この…! 小ざかしい真似をしおって、あのような電気仕掛けの箱で、わたしを轢き殺させようとしたな!」
だが、孔明は拳が顔面を襲うのを、すばやく避けると、その手を伸ばし、レールを挟んで馬乗りになっている吸血鬼の胸倉を、ぐっと掴み、引き寄せた。
「なにをする!」
吸血鬼は、咄嗟に離れようとするが、孔明は離さない。
いま、孔明は、持てる霊力のすべてを、吸血鬼を拘束する手に集中させていた。
最初は抵抗していた吸血鬼だが、やがて孔明がそれ以上はなにもしないとわかるや、安心したのか、今度は暴れながらも、さまざまな罵倒を浴びせかけてきた。
だが、孔明は、吸血鬼の、耳を塞ぎたくなるような悪魔じみた罵倒のすべてを聞き流し、隣のレールで、北側に向かってゆっくりと加速をしていく電車の通り過ぎるのを待った。
電車の音が、聞くに耐えない吸血鬼の言葉をかき消してくれる。
電車が通過してもなお、孔明は手を離さないでいた。
吸血鬼の、当惑の混じった白皙の顔をまっすぐに見据えつつ、風が来るのを待つ。
もうすこし。
遠ざかる、上り電車の残響とすれ違うようにして、近づいてくる風の音がある。
暗闇のなかをずんずんと突き進むそれが、なにで、孔明が、なぜ自分を拘束しているのかの理由がわかったとき、吸血鬼は狼狽した。
「離せ!」
孔明は沈黙したまま、己の身に被さっている吸血鬼を見据える。
吸血鬼は、どんどんと近づき、大きくなる光にうろたえ、身をよじって、孔明の手から離れようとする。
だが、霊力を集中させた孔明の指先からは、霊力で織り上げた糸が無数に放たれ、それが吸血鬼を完全に捕縛していた。
糸は、ただ吸血鬼を捕縛しているだけではない。
それは吸血鬼の全身をくまなく覆いつくし、その身を肉眼から隠してしまっている。
「離せというのだ! くそっ!」
風がどんどん強くなる。
仰向けになったままの孔明にも、その光が近づいてきたと判った瞬間、手の力を弛ませ、解放した。
同時に、解放した力を、瞬時に移動するために使う。
己の肉体が風に乗り、電車の力から安全な距離に移動するために。
ほんの一瞬のことであっただろう。
孔明の霊糸でもってその姿を隠された吸血鬼は、やってきた下り電車に、ゴム鞠のように跳ね飛ばされた。
車輪に引き込まれ、五体を裂かれ、肉を断たれる。
なにかを轢いたという違和感があったからだろう。
電車が、反対側のレールのそばに移動した孔明の目の前で、頭の割れそうなブレーキ音をひびかせて、急停車する。
風の動きで、緊急停止をつづけていた電車が、運転を再開したことを知った孔明は、停止した電車に轢かせることを最初に考えた。
吸血鬼には、風を察知する力がない。
孔明を、如何に弄って殺すかに集中しており、電車の動きにまるで無関心だったのも幸いした。
停止した電車を轢かせたとしても、それでは速度が足りず、ただ吸血鬼を足止めする程度の打撃しか与えられないかもしれない。
どころか、警戒心を持たせてしまう。
そこで、運転を再開し、十分な速度を出して走行をして来るだろう下り電車に吸血鬼を轢かせることを考えた。
そのためには、下り電車のレールに移動し、吸血鬼にこちらの思惑を悟らせないように注意しながら、吸血鬼自身をも下りのレールにおびき寄せる必要があった。
その瞬間に霊力を集中させるため、殴打にも耐えたのだ。
仙台市営地下鉄の電車の運転は、コンピュータ制御がされている。
しかし、自分の管理する車両の、不気味な違和感、衝突音に、あわてて緊急停止をかけて、車掌たちが、運転席から飛び降りてきた。
さて、彼らに後味の悪い思いをさせてはならない。片付けまでしてアトラ・ハシースである。
孔明は、壁にもたれたまま、四方に散らばった吸血鬼の肉片を、風で吹き飛ばして、通風孔より外へと飛ばした。
そのまま、太平洋へ向けて風で運ぶ。
とはいえ、それすらも、本当にただの後始末に過ぎない。
吸血鬼に憑依され、本来の魂を奪われた哀れな人間を、海に返してやるだけのこと。
またすくえない命がひとつ。
孔明は、荒く呼吸を続けながら、冷たいコンクリートの壁に、熱した鉄板のようになっている己の肌を押し付けた。
ひやりとした感触が心地いい。
痛みが去ることは無いが、肉体で持って、冷たいだの、熱いだのを感じ取れるだけ、マシだと思うべきだろう。
電車に弾き飛ばされた瞬間に、吸血鬼の魂は、おそらく元の身体に戻って行ったはずだ。
元の身体を破壊しない限り、吸血鬼は死なないのだ。
孔明は、なにか轢いたはずだ、でもなにもない、と騒いでいる車掌や乗客たちに見咎められないように注意しながら、壁伝いに、ふたたび仙台駅方面に歩きだした。
吸血鬼の殴打による衝撃で、アコの携帯電話は壊れてしまっていた。
蜻蛉を飛ばす力も無いので、女王や羅貫中らに連絡をとれない。
また、只人である趙雲に連絡する手段も無いのだ。
匂当台公園まで、もつかな、と思いながら、孔明はそれでも足を動かし続けた。
最初は、仙台GGPのある工業団地の周辺のお得意様をまわり、つづいて宮城野区のバイパス沿いに点在する、大型店舗へのチラシを納める。
そして、陸橋をくぐって駅の西側に入り、青葉区を抜け、広瀬川を越えて、太白区へ向かう。
長町から富沢近辺を回った後、国道を北上し、ふたたび広瀬川を越えて青葉区へ。
最後に仙台市街地を周り、帰社、というのが、趙雲に任された配達ルートである。
配達スケジュール自体に無理がないのと、ただひたすら、乗せている商品を、納品書と一緒に置いてくるだけの仕事である。
得意先に、ついでに営業をするなどの、余計な手間もないので、ルートを覚えてしまえば、あとは機械的に動けばいいだけの、楽な仕事であった。
武人たるもの、地図には強くなければならない。
趙雲は、一度、地図を見ながら移動した場所は、二度と忘れない自信があった。
しかも回る先は、特長に欠ける民家ばかりというのではなく、目立つ商店ばかりである。
時間に押されているわけでもなし、戸惑うこともなく、最終巡回ルートである青葉区市街に戻ってきた。
狭い一方通行を、アーケード街を越えて移動しなければならない時には、人の多さに苦労したが、それ以外は順調で、14時頃には、匂当台公園の裏手にある街、木町に到着した。
つけっ放しのカーラジオからは、原因不明の事故による地下鉄の停止は、解除されたと報じていた。
待ち合わせには、まだすこし時間がある。
木町の商店街に商品を卸してから、公園に向かっても十分だろう。
趙雲は、県庁の裏手に入る道へとハンドルを切り、配達先へと車を走らせる。そのうちのひとつに、牛タン専門店「たんたかタン」があった。
注文されていた箸袋、そして年末年始の宴会キャンペーン用のちらしを持って、裏口を叩くと、ほどなく、店主であろうか、少女のような風貌をした、愛想のよい四十代くらいの女が、両手をエプロンで拭きながら出てきた。
「あらあら、昨日と同じ人。新しいアルバイトね。失礼だけど、日本人?」
いいえ、と答えかけて、趙雲はあわてて、そうです、と直した。
嘘が下手なのは、自慢してよいものか、それとも融通が利かないと嘆いてみせるべきものか。
「へえ、そうなの? なんかちょっと、向こうの人っぽい感じがしたから。あ、向こうの人って、韓国ね。あたしもあんまり詳しくないんだけれど、あなた、韓流の俳優のだれかに似ているって、よく言われない?」
「こちらも詳しくないので、あいにくと」
「あらあ、ないの?」
と、意外そうに言う女の背後では、宴会でもしているのか、賑やかな女たちの声がしていた。
牛タン専門店とはいえ、外装がカフェのようなので、女性客が多いのだろう。
趙雲は、目の前で、好奇心いっぱいの顔を向けてくる中年女に聞こえないように、小さくため息をついた。
女全般が苦手であるが、もっとも苦手なのは、こういう、既婚で、恐れるものはなにもなくなった年代に突入した女である。ともかく遠慮が無い。
「ねえ、ついでといったらなんだけれど、お年は? いえね、うちで、あたらしい配達員の人が、とってもカッコいいって話したら、いくつぐらいか、って盛り上がっちゃって」
ほら、やっぱり。
「三十二」
孔明は、受肉する際に二十七歳の時の形をとることを好むから、その年齢に、以前の年齢差を足したのである。
「また意外ねー。もっと若く見えるけど」
「若作りなもので」
「あ、ごめんなさいね、重い荷物を持たせたまま、話しちゃって。箸袋、悪いけど、厨房のところまでお願いできる? ごめんなさいね、いま、男手がないものだから。まあ、あるんだけれど、接客中というか(と、ここで女は、迷惑そうに、ちらりと店のほうを見た)。
そうそう、その油の缶の隣。助かるわー。前の配達員は、すごく感じ悪くて、荷物を中に入れるのにも、ぶうぶう文句ばっかり言ってね、おまけに納品書と、実際の数が違っていたりしたし」
「それはいけませんね」
と、いかなる仕事にも律儀さをみせる趙雲は言った。
すると、女は、同意を得たことで気をよくしたのか、声をひそめて言った。
「ほら、いま少年連続殺人事件、起こっているでしょ? あの犯人が、なぜだか、うちの箸袋を盗んで、被害者のそばに置いて行くらしいのよね。うちの甥っ子が刑事さんと話しているのを聞いちゃったのよ。あ、だれにも言わないでね。一般には知らせてないらしいから」
「この店の箸袋を?」
吸血鬼が?
趙雲は、茶色の紙に丁寧に梱包された箸袋の、そのてっぺんに、中身がわかるようにと貼り付けてある、サンプルを見た。
普通の箸袋である。正面には『たんたかタン』のロゴ、いかにも素人の描いたような黒い牛の、ぺろりと舌を出したイラストがあるだけだ。
そのイラストの牛、変わっていることには、髯がある。
「なんで髯が生えているのですか」
趙雲が尋ねると、女はもともと陽気な性質らしく、けたけたと声をたてて笑いながら言った。
「でしょう? 変よねぇ。うちの人、今は剃っちゃったけど、昔はこんな顎鬚を生やしていたのよ。この牛、うちの主人が、自画像って意味も込めて落書きしたのを、本職の人が描き直してくれたのよね。
ウマい、ヘタはともかく、あんまりないロゴだから、常連さんには妙に人気なのよ。あ、名前を『タンちゃん』って言うんだけど」
そのままではないか。
髯の生えた黒牛の『タンちゃん』は無邪気な笑みを向けてくるが、これが陰惨な殺害現場に落ちていたら、それは目立つだろう。
「これ、一枚貰っていいでしょうか」
趙雲が言うと、女はあっさりといいわよ、と答えた。
孔明ならば、この、いささか風変わりな由来をもつ箸袋と吸血鬼のあいだに、なんらかの関連を見い出せるかもしれない。
店からは、女たちのかしましい声が流れてきて、合間を縫うように、妙にはきはきとしたしゃべり方をする男の声が聞こえてくる。
平日の、こんな昼間から宴会だろうか。いい気なものである。
箸袋を作業衣のポケットにしまい、店を出ようとしたところへ、店頭のカウベルが、がらん、ごろんと派手な音を立てた。
だれかが入ってきたようだ。
繁盛している店なのだな、と思いつつ、去ろうとした趙雲であるが、客だと思ったその闖入者は、そのまま足音も荒く、厨房にまで入ってきた。
「おばさん、無事?」
この声。
趙雲は、足を止めて、振り返った。
厨房には、先刻の女と、息を切らせた背の高い少年がいた。
「なんなの、どうしたの?」
「よかった、無事なの。無事ならいいんだ。ね、今日は店から出ないでね」
「出ないっでって…なに、もしかして、『あの人たち』が?」
と、顔を強ばらせて言う女に、少年は首を振った。
「そうじゃない。うまく説明できないけれど、外に出ちゃだめだよ。ね?」
「なんだか知らないけれど、わかった。ね、ウチの人は?」
「うん、大丈夫、犬が見てくれているから。おばさんが無事ならいいんだ。じゃあ、またサンモールに戻るね。ごめんね、詳しいことは、夜に話すから!」
そう言って、少年は、女が返答をする前に、ふたたび風のように店から飛び出して行った。
趙雲が、まさかと思ったのは、その声であった。
声の高さ? 声質そのもの?
どちらも違う。
声もつ、明るい響き、言語はちがえど、そのしゃべり方。
それが趙雲の記憶を刺激したのだ。
槍を教えてくれと言ってきた少女。実に熱心な教え子だった。
容姿もまったく違う。纏う雰囲気もちがっていた。
だが、この二つは、どのようにでも意識で変えられる。
だが、声ばかりは変えるのは難しい。咽喉でも潰さない限りは無理だ。
性別は、孔明と同じ事情であったら、どうだ?
出て行った。どこへ?
そうだ、神獣『飛廉』が自分にはついているのだ。孔明に連絡し、いまの少年を追わせよう。
携帯電話を取り出そうとしたところへ、ほかならぬ、その携帯が鳴り出した。
着信を見れば、仙台市内からであるが、登録した番号ではない。
だれかが公衆電話で架けてきたのだろうかと出てみれば、がっかりしたことに、相手は、職業安定所の職員・小鳥遊宇宙であった。
『ああ、どうもお疲れ様です。仙台GGPのほうに連絡しましたら、配達中だというので。どうです、仕事のほうは? 二日目ですが、慣れました?』
「それなりに。なあ、すまないが」
後にしてくれ、と言う前に、小鳥遊の声がつづく。
『そりゃあ、よかった。こうしてね、再就職先で様子を聞くのが習慣になっていましてね。ほかの職員はこんなことしないんですが、ま、アフターケアってやつですか。
それにほら、今日は事故とかで、地下鉄が止まってばっかりでしょう。道路が渋滞にでもなって、困ってやしないかと思って』
「地下鉄なら、13時半ごろに復旧しただろう」
『え? そのあとに、人身事故があって、また停まったんですよ。五橋のほうだって。はあはあ、ラジオをまだ聴いてないんですね。
それが不思議なんですよ、たしかに金髪の外国人を跳ねたはずなのに、運転手が外に出て調べたら、跳ねた形跡はあるのに、身体がどこにも無いんですって。怪談ですよ、これは』
「金髪の、外国人?」
『警察が行って調べたら、たしかに髪の毛は落ちているんですって。でも、その髪は黒だった。運転席には、そのとき車掌と、もうひとりの駅員が乗っていたそうで、ほかの乗客も見た人がいて、まちがいないと言っているらしいんですけど、絶対に金髪の白人だった、って。それでまた地下鉄止まっているんですよ。
あ、今日は早く会社に帰ったほうがいいですよ。きっと道路が混みまくるでしょうからね。特に愛宕上杉山通りが。あの会社、結構ルーズなんで、時間より早く配達が終わったら、もうその時点で帰らしてくれますよ。もちろん、賃金は終業時間までの分をくれますから』
「それ、ラジオで報道しているか」
『ラジオやらテレビやら。まー、フルキャストスタジアムの野球の試合でマスコミが集っていたでしょう。それが地下鉄の事件に集ってきている、って感じですよ』
たとえネタがなんであれ、お祭り騒ぎには敏感らしい小鳥遊は、仙台も退屈しない街になったなー、などと、無責任に、いささか興奮した口調で言った。
「金髪の外国人の特長は?」
『あ、もしかして知り合いが? そうか、海外生活長いんでしたっけ。いやあ、特長まではわかりませんね』
「そうか…ありがとう。今日は早く会社に戻ることにする」
『そうしてください。あ、また困ったことがあったら、いつでも連絡してくださいよ。こっちはそれが仕事ですから』
小鳥遊に礼を言うと、電話を切って、趙雲はすぐさま孔明(正しくはアコ)の携帯電話に電話をかけた。
が、流れてきたのは…
『現在この電話は使われておりません。電話番号を確認のうえ…』
趙雲はあわてて電話を切り、孔明からの着信履歴をもとに、再度電話をした。だが、結果は同じだった。
電源が切られているのならともかく、使われておりません、とはどういうことだ。
すぐ一時間前に連絡をしたばかりだ。
それに、断りもなく、携帯を解約したり、あるいは破棄するやつではない。
嫌な予感がした。
少年の追跡はあとにして、たんたかタンに車を横付けしたまま、すぐに匂当台公園に向かうが、孔明の姿はどこにもない。
もしも趙雲がアストラルのままであったなら、孔明がつけてくれた神獣『飛廉』が、とっくの昔に消滅していたことに気づいただろう。
地下鉄。
金髪の外国人。
繋がらない電話。
予感、いや、悪寒が、ぞくりと身を駆けた。
幸いにも配達は、五橋方面に向けて一箇所を残し、あとは会社に帰るだけである。
出来すぎた偶然であってほしい。
車に乗り込むと、趙雲は、一気に五橋へ向けて走らせた。
※ この話は、「仙台ゴールデンポークスの章6」につづきます。