新ずんだの章 6

※ この話は、「新ずんだの章5」のつづきとなります。

JR長町駅を通り抜け、仙台市営地下鉄東西線の長町駅へと、孔明は足を運んだ。
長町は古くから、大年寺の門前町として栄えた商店街であったが、地下鉄が出来たために客足ががくんと落ちてしまった。
商店街では、すこしでも街を盛り上げようと、道のバリアフリー化を早くに実現させており、商店街を中心とした物産祭やフリーマーケットなども頻繁に行っている。
商店街には八百屋やパン屋、薬局から金具屋、車から家具まで、あらかたの店は揃っている。地味であるが暮らしやすいという点と、大きな病院も近いということから、仙台でも住みやすい街として定評がある。
地下鉄東西線の長町駅は、『たいはっくる』(長町は仙台市太白区にある)の愛称で親しまれる巨大高層マンションの地下にある。たいはっくるの地下B1と地上一階は図書館になっており、本好きには実に便利のよい建物だ。
仙台市営地下鉄東西線は、観光地であるという自負もあってか、どこも掃除がいきとどいている地下鉄である。
日中は、常にどこかでだれかが掃除をしている、と言っても、大げさでは無い。大きなゴミが捨てられていても、数時間後には片づけられている。
ゴミが落ちていないために、どんなにマナーが悪い客でもゴミが捨てづらいのだろう。築年数が経っても、地下鉄の外観の清潔なところは、保たれたままなのだ。

そのベージュのタイルの敷き詰められた地下を歩き、日中だからなのか、人がずいぶん少ないな、ということに孔明は気づいた。
通勤通学の時間帯以外は、平日ならば、地下鉄が混むことは、まずない。それにしても、駅の構内に下りたときに、人影がまったくないということが、奇妙であった。
プラットフォームにしつらえられた電光掲示板で、電車の運行状況を知ることが出来る。仙台駅方面の電車は、地下鉄の南側の終点である富沢を出た、ということであった。

「意外に早く解放されたよ。もうすこし質問攻めにされるかと思ったのだがな。いまは13時か。そちらの予定だと、14時に匂当台公園に行く? いまから地下鉄に乗るので、わたしのほうが先に着くかな。匂当台公園で待ち合わせをしよう。わかった、気をつけて。
あ、それと聞きたいのだが、今日はずいぶん人手が無いのは、なぜなのだろう…へえ、仙台ゴールデンポークスVSアメリカのドリームチームの親善試合の中継をやっているって? へえ、松井が来ている? ふうん、上空にいたヘリコプターは、ヨーコの学校の中継をしていただけではなかったのだな。
しかし、いくらシーズンオフとはいえ、アメリカのスター選手をまとめて仙台につれてくるとは、オーナー企業のダ天とは、そんなに儲かっているのだな、すごいな。それで理解したよ、ありがとう。それじゃあ、また」

孔明は、携帯電話を切ると、ちょうど富沢方面からやってきた電車に乗った。
車両もまた空いており、孔明の乗り込んだ車両と、その隣には、客が数えるほどしかない。ほとんど貸切状態である。
趙雲と待ち合わせをした匂当台公園前駅は、長町駅からだと、仙台駅を経て、十分程度かかる。
孔明は、ちょうど誰も座っていないシートで、崩れるようにして座っている、作業着の男の向かいに座った。
うすいウグイス色の作業着である。仙台GPPで制服として貸与している作業着に似ている。どこにでもあるような作業着であるから、孔明は気にもとめなかった。
男は、大股を開いて、腕を組み、崩れるようにシートにもたれて、眠っていた。
年齢は、二十代前半といったところか。
口ひげを生やし、ゆるいパーマのかかった髪は、ワックスのつけすぎか、油っぽく見えてしまう。
疲れているのだろうな、と思いながら、孔明は、車内吊り広告や、ほかの車両に乗っている客などを観察して時間を潰した。

静かであった。
地下鉄東西線では、構内ではずっとBGMがかけられている。
仙台にゆかりのある童謡のBGMや『おさるのかごや』であったり、ヒーリング系のBGMだったり、日によってちがうが、もともと気性のおだやかな東北の中の駅である。音楽の効果もあるのだろう。
地下鉄で大きな事件が起こったことは、いまだかつて一度もない。
だが、さすがに電車内ではBGMは流れず、ただ電車が風を切る、ごうとうという唸り声だけが漏れ聞こえてくるのであった。
長町を出て、長町一丁目、そして河原町を過ぎ、愛宕橋も過ぎた。
その間も、車両がフォームに止まる位置も関係あるのか、孔明のいる車両には、人が乗り込む気配が無い。むしろ、人が減ってしまった。
松井効果かな、と思いながら、次の停止駅である五橋駅に向かう途中である。
不意に、電車の走行音がしだいにゆるくなり、そのままぴたりと止まった。
おや、と思っていると、車掌の車内アナウンスがすぐに流れた。
『えー、ご案内いたします。ただいま、停止信号のため電車を停止させていただいております。お客様にはお忙しいところ、大変ご迷惑をおかけしております。
現在のところ、停止信号の出た原因を問い合わせているところでございます。詳しい状況がわかり次第、ご案内いたします。申し訳ございませんが、そのままでしばらくお待ちください』
待ち合わせの時間には、一時間近くも余裕がある。
慌てる理由もないので、孔明はしばらくアナウンスを待っていた。
もしこのまま電車が動かないのだとしても、風に乗ればよいわけである。地
下であろうと、そこが地上に繋がっているのであれば、どこにでも風は吹く。

しばらくすると、ふたたびアナウンスが流れた。
『ご案内いたします。ただいま、電車が停止しておりますが、原因は、五橋駅において事故が発生したためと判明いたしました。事故の原因は判明しておりません。なお、運行復旧のメドもたっておりません。
現在、地下鉄上下線とも停止となっております。大変ご迷惑をおかけしております。
五橋駅での事故のため、地下鉄が停止となっております。上下線ともでございます。復旧のメドは立っておりません…また詳細がわかり次第、ご案内させていただきます』
これはいかんな、と孔明は席を立ち、電車の出入り口付近に立つと、携帯を開くと、ふたたび連絡を取った。
「わたしだ。ラジオでも流れていたって? うん、いまちょうど車内にいたのだが、五橋で事故があったそうだ。まったく動かなくなってしまったよ。
まあ、わたしのほうは急いでいないが、あまり動かないようなら、線路を歩いて最寄りの駅に移動するようになるか、あるいはわたしの場合は、別な方法があるからな。
事故の原因について、ラジオでなにか言っていたか? ふうん、やはり原因不明なのか。小人たちだろうか…そうではないことを祈るばかりだ。うん、気をつける。では、またあとで」

携帯電話とは、実に便利だ。そう思いながら、孔明はため息をついた。
以前ならば、アストラルとアトラ・ハシースは視界を共有できるから、道具を使わずとも、相手の状況は瞬時に見ることができた。
また、大きな感情の波にさらわれているときでも、なんとなくそれと知れたので、すぐに駆けつけることができた。
互いに人間であったときの状態に戻ったのだ。生活水準が、1800年前から比べれば、奇跡のように進歩しているから、困ることはほとんどない。
が、それでも、アストラルから只人に『退化』してしまったことは大きい。
元に戻れるのだろうか。戻すことは可能なのだろうか。
『英雄殺しの槍』などの呪具によって霊性を傷つけられたアトラ・ハシース、アストラルの話は聞いたことがあるが、その後、どうなったかの情報は、確実なものがほとんどない。
噂では、呪具に捕らわれて、そのまま堕天してしまったとか、あるいは、やはり責任を問われて煉獄行きになってしまったとか、不吉なものばかりが流布している。
しかし、消えてしまったアトラ・ハシース、アストラルの具体名となると、それが出てこないのだ。
となると、逆に、なんらかの手段、あるいは方法、抜け道のようなものがあり、みな危機を脱している、と考えられないだろうか。
楽天的にすぎるかな、と孔明は、コンクリートの壁と向かい合わせになっている、電車の窓に映る自分の顔を見た。
消えてしまったアトラ・ハシースたちの名が聞こえてこないのは、最高府によって、その存在の記録ごと、全世界から抹消された可能性だってあるではないか。それほどに、最高府というのは、得たいの知れないモノなのだ。

最上アキラ子の顔がこちらを見ている。
しかし、趙雲が嘆いたとおり、その面差しは、生徒手帳に残されたアコの写真と比べると、どんどん『諸葛孔明』に変化してきている。
もともと面差しが似ていた、などという生易しいものではない。肉体が、孔明の精神に合わせて外貌まで変化させてきているのだ。
おそらく生前を知る人に、事件の事情を一切知らせず、少女となった孔明を見せても、すぐに諸葛孔明本人と判じたであろう。
それほどに、違和感がない姿であった。
もともと、己の容姿が(いつになっても)好きになれない孔明にとっては、複雑な心境ではある。
肉体に宿る精神にあわせ、さすがに性別までも変わることはないだろうが、この世界が夢ではなくなってから、ほかの汎世界に影響を与えているのはまちがいないから、おそらく基本世界を含めたあちこちで、最上アキラ子は、死なずに復活を遂げたはずである。
となると、その『奇跡』にあわせて、この世界の最上アキラ子も『生きねば』ならない。孔明によって、辛うじて生を繋いでいる状態では、いけないのだ。
趙雲をアストラルに戻し、最上アキラ子を復活させる。
やらねばならぬことが満載だ。
まあ、仕事が詰まっている状態は嫌いではないが。そうとも。

静かであった。
周囲にはだれの気配もなかった。
窓に映る己の、少女の顔にふと目を戻す。
すると、その顔の背後に、人が立った。
気配はなにもなかった。
音はなかった。

右の僧帽筋より斜め下に向かって、広背筋を裂き、肺の中上葉を損傷、心臓の右肺動脈を損傷、さらに左心室も損傷。修復。至急の修復。
至急。血が溢れる。肉体が停止する。
呼吸不能。血が流れる。酸素がない。低酸素脳症発症。窒息死まで五分。肉体の修復を。血が流れる。

振り返れば、そこには、さきほど目の前の座席にて、崩れるようにして座っていた作業着の男が、鎌を持って立っていた。
だが、その顔は口ひげを蓄えた青年のそれではない。
『吸血鬼…!』
肉体の酸素は、わずか数分でなくなる。
その後、痙攣を起こし、呼吸は停止し、仮死状態になる。
呼吸困難から生じる痙攣、意識消失を防ぐため、孔明はまっ先に、肉体の肺の修復を行った。つづいて、心臓の修復。
この作業は、一分も掛けないうちに行われる。だが、筋肉の補修が間に合わない。
肉体の維持は、もともと大量の霊力を消費する。
まして、通常ならば即死でおかしくない一撃を喰らって、すぐに修復をしたのだ。霊場で霊力を十分に補填したものの、補填した分のほとんどを使ってしまった。
背中が熱い。
切り裂かれた後に、焼き鏝を押し付けられたような痛みだ。
視界がぼやける。吐き気がする。
倒れるな。次の一撃を見極めねば。

「すさまじい反応の早さだな。これが第一線で活躍する、アトラ・ハシースの実力というわけか」
と、歌うように吸血鬼は言った。
その手には、孔明の背中を切り裂いた血まみれの鎌がある。
血の滴り落ちる刃先を、蛇のように長細い舌でぺろりと舐めあげ、金髪の吸血鬼は、右肩を庇いつつ、それでも倒れまいとする孔明の姿に、目を細めた。
「霊力は完全だったはずなのに、なぜわたしを感知できなかったと、考えている顔だな。隠し事をしているわけではない、教えてやろう。
東洋の龍よ、吸血鬼とは、不老不死のもの。だがね、わたしに呪詛をかけたのは、人間なのだよ。アトラ・ハシースやヴァルキューレなどの聖なる高次元存在ではなく、人間だった。そこにわたしの不幸がある。肉体というのは生ものでね」
言葉を切ると、吸血鬼は、高らかにパチンと指を鳴らした。
とたん、目の前の禍々しくも秀麗な金髪の青年をスクリーンのようにして、薄汚く朽ち果て、あとは砂に還らんばかりの、干からびた肉と骨の塊が重なって映る。
「これが本来の我が姿。気の毒であろう。いまは、我が住処に隠してある。大事な大事な本体だ」
「肉体を維持させるための吸血行為ではないのか?」
「ちがう、ちがう。人間の呪詛だぞ。連中の呪いなんぞ、せいぜいが『天の国へも地獄へも落ちることなく、永遠に苦しみを抱えて、孤独に地を彷徨え』程度のものだ。
笑わせることだ。もともとの種族としての吸血鬼ではない。単に呪われた者としてのわが身だ。これでは、吸血行為ごときでは、とてもではないが肉体の維持などできぬ。そこで、わたしは、考えたのだよ」
吸血鬼は、細く長い指先を、優雅に額に当てて、得意そうに説明する。
「肉体がそもそも邪魔なのだ。とはいえ、呪いの所以で、これから離れるわけにはいかぬ。しばらくは惨めであったよ。人目を恐れて大地を彷徨う日々であった。まさに呪われた身を悲しみ、天にひたすら許しを請う毎日でね。
だが、あるとき気づいた。この肉体さえ捨てなければ、我が霊魂は、どこにでも飛ぶことができるのだ、と。かつて古代エジプトのファラオたちが夢見た不老不死を、なんという皮肉か、わたしが手に入れてしまったのだ。
一定期間を置いて、この肉体に戻りさせすれば、わたしは自由。もはや呪われた身などではない。とはいえ、動き回るのには、やはり霊力を大量に消費する。その分を、狩りで補わねばならぬ、というわけだ。
つまりだね、我が身は二つあるわけだよ。一つは、この器としての、わたしの形骸。もう一つは、我が霊体をとどめておくための器…人形だ。わたしは君たちアトラ・ハシースやアストラルとはちがって、完全な霊的存在ではないから、霊体のままだと、世界から異物として弾かれてしまうのだよ。
かといって、アストラルのように、世界の住人と契約を交わすことはできないし、アトラ・ハシースのように、直接ヴァルキューレや世界そのものと契約を結ぶこともできない。
そこで、世界の住人の身体に憑依する。そうすれば、都合のよいことに、憑依された人間の肉体が鎧となって、アストラルやアトラ・ハシースからの霊査を避けることができる。
君たちは、アトラ・ハシースが『只人』とはちがう構造の肉体を持っていることから、ただならぬ霊波を放出する肉体に照準を絞って霊査する。アストラルを探す場合には、肉体を纏わぬ大きな霊体を探索する。これは、アトラ・ハシースやアストラルがヴァルキューレに背き、世界に紛れることを防止するための措置だ。
アトラ・ハシースを探すことは得意でも、おまえたちは『只人』のなかから『憑依された只人』を探すのは不得意。
事実、おまえは、高校に現れたわたしを探知できなかった。今回のこの世界の状況が、異常だということがわかっていただろうに。霊力を出し惜しみしないで、霊査を拡げるべきであったな。まったく、残念だよ。せっかく霊場を教えてやったのに」
「貴様、ずっとわたしたちを?」
「見張っていたとも。おまえが長町の遺跡で霊場を見つけたのは、偶然ではない。この肉体からすこし離れて、おまえを呼んでみたのさ。気づかなかったようだが」
孔明は、己の迂闊さを呪い、慎重にしすぎて、霊力を最小限にとどめていたことを後悔した。
悔しそうに唇をかむ孔明に、吸血鬼は満足そうに、くぐもった笑い声をあげた。
「おまえほどのアトラ・ハシースならば、たとえ『只人』に憑依した状態であっても、完全でさえあったなら、すぐさま、それと気づいただろうに」
そうして、血に汚れた手を差し伸べて、電車の扉によりかかり、辛うじて立っている状態の孔明の、うつむき加減の顎をぐっと掴んだ。
孔明には、手を振り解く力さえ残っていない。
雨の日の車窓のように、にじむ視界に、吸血鬼が邪悪な笑みを満面に浮かべてこちらを見ているのだけが映っていた。
「女でもなければ、男でもない」
血の気の失せた顎に触れる、吸血鬼の指先が、妙に熱を帯びている。
吸血鬼は、補修を終えた肺に、なんとか酸素を取り込もうと、はげしく呼吸をつづける孔明の顔を、面白そうに、首をしきりに左右に動かしながら、眺めた。その表情は、狩りを楽しむ蛇のようだ。
「おまえが少年のようであったならと思ったが、これはこれで悪くない。女のようではあるが、我慢しよう。光栄に思うがいい。只では消滅させぬ。その身体でわたしを楽しませてから、どこへなりと消えればよい」
「……………!」
まるで、ハンマーで激しく脳髄を叩かれているような頭痛がつづいている。
不明瞭な視界で周囲を探れば、隣の車両の老婦人たちが、座ったまま、折り重なるように崩れていた。
「見境がなくなったようだな」
声を絞り出すと、吸血鬼は声を立てて笑いながら、孔明が左右どちらにも逃げられないよう、扉に両腕を突いて、顔を覗きこんできた。
「これは罰ともいえなくないな、東洋の龍。おまえは、黄金の魂を裏切った」
「あの女性たちにも罰が?」
「ああ、婆さんに用はない。騒がれたら困るので、眠らせてあるだけだ。親切だろう、ええ? 
惜しい、本当に惜しい。おまえの美しさは少年の肉体の中にあれば、なお輝いたであろうに。この固さの足りないやわらかすぎる肌、不必要な膨らみをもった乳房、両の足の間のつくりの違い、まったくもって忌々しいが、これはこれで極上の生贄にはちがいない」
「それはどうも」
孔明は咽喉元に唇を寄せ、舐めあげようとする吸血鬼の生臭い息を避けながら、背後に手を伸ばした。
記憶だけを頼りに、自分の右上にある壁を探る。
やがて、手が、記憶どおりの突起に触れた。

孔明は、非常用ボタンを叩き割るようにして押し、扉が開くと、そのままの姿勢で、倒れるようにして外へ出た。
吸血鬼はバランスを崩し、非常灯が点るコンクリートの構内に転がり落ちる。しかし、ゆっくりと立ち上がって、言った。
「なるほど、たいした回復の早さだ。もう歩けるか。だが、どこまでもつかな」
孔明は、コンクリートの床に手を這わせるようにして、懸命に足を動かした。
背中の筋肉の補修が間に合わない。
心臓に届くまでの深い傷だった。血はなんとか止めたが、痛みは一層激しく全身を揺さぶる。
ぐっとこみ上げてきた吐き気に耐え切れず、孔明はその場で胃液を吐き出した。
筋肉を補修するための霊力を、歩くための霊力に回しているのだ。
ここで足を止めれば、なぶり殺しにされる。
趙雲を呼び出すための霊力は、もう残っていなかった。
煌々と灯りのともる電車の脇を、必死に壁伝いに歩いて行く。行く手は暗く、星のように非常灯が点っているばかり。
この先へ進んで、どこへ逃げるのかも考え付かない。

イタイイタイイタイイタイイタイイタイ…

双眸から涙があふれ、埃の臭いのするコンクリートに染みこんでいった。
孔明の涙ではない。
意識の奥底で眠っていたアコが、肉体の軋みに悲鳴をあげているのだ。
助けるから、必ずおまえの命は守るから、我慢をしてくれ。
孔明は心の中の少女を宥めながら、足を動かす。
霊力を使えないアトラ・ハシースなど、もはや『只人』と変わらない。
昨日は紫水晶という武器があったからよかった。いまは徒手空拳、なにも持っていない。
孔明は、滅多にないことであるが、この世界に来て、はじめて、自分より、さらに高次元の存在に向けて、心から祈った。

わたしはここで死ぬわけにはいかない。
たとえ魂が消滅し、世界から抜け出し、この痛みが無くなったとしても、抜け殻になったこの身体を、吸血鬼は弄り尽くすにちがいない。
それでは、この娘が『生き残った』意味がないではないか。
理不尽な死を迎えなければならなかったこの娘に、救済を与えようとした聖剣よ、いまふたたび奇跡を。

「!」
左足の腱を裂かれた。ぷつりと、腱の弾ける音が、構内に響いたように感じられた。
思わず蹲り、のた打ち回りたくなるほどの痛みに全身を貫かれる。
アコの悲鳴を脳内いっぱいに聞きながら、孔明は歯を食いしばり、腱の補修に集中する。
痙攣にも似た体の震えに耐えながら振り返れば、吸血鬼は、わざと足音を高く響かせながら、鎌をぶらぶらとさせて、ゆっくりと近寄ってくる。
「まーだ動くか。面白いな。あの頃を思い出すようだよ。わたしが呪いを受ける前は、毎日のようにこんな狩りをして楽しんだものさ。
城の外に子供たちを放して、逃げ切ったら助けてやると言ってね。足の速いのが一番楽しませてくれたな。ああ、たいがいは、木に登って逃げたつもりになるのだが、猟犬に嗅ぎ付けられて、結局、引き摺り下ろされる。逃げ切った者など一人もいなかった。
泣き喚きながら命乞いをされるのが大好きでねぇ。あの悲鳴、泣き声、すべてがたまらぬ。わたしに懇願してもダメだとわかると、やがて神に祈りだすのだが、どんな善良な子、どんなに無垢で正直で、美しい子供であろうと、一度だって、神や天使が助けにきたことはなかった。
それはそうだろう。黄金の魂さえ、神は救えなかったのだからな。神は無力なのだ。痴呆なのだ。命令するだけの悪しき絶対君主、人を消費するばかりの混乱の根源! この世に確かにあるのは、純粋な悪! それだけだ!」
「おまえの稚戯めいた悪魔召喚とて、一度たりとも成功したことはなかっただろう!」
「そうかねぇ。呪詛を受けながらも自由。なおも狩りを止める手はなく、思うままに生きる。これが神の意思とは思われない。悪魔は、諸々の悪しき事を統べる暗黒の王は存在するのだと言えないかね? わが主に、おまえという生贄捧げてくれよう。骨の髄まで楽しませてくれるだろうな?」
「狂人めが!」
「なんとでも。泰斗の龍よ、おまえには黄金の魂と同じ、清く無垢な肉体の香りがする。だれにも触れさせたことのないその肉を、わたしに味あわせてくれないか。龍というものは、騎士に討たれるものだ」

孔明は、声には出さず、ちいさく、冗談では無い、と呻いた。
奇跡は起きない。
約六百年前のフランスで、絶対的な貴族の権威のもと、ある者は騙され、ある者は甘言につられ、ある者は貧しさゆえに身を屈め、そして毒牙にかかり、地獄の責めよりもなお苛烈な数々の拷問のすえ、一人の例外もなく辱められ、咽喉を裂かれて死んだ。
数百、数千という少年たち、俳優、聖歌隊、物乞い、あるいはたまたま目についてしまった不幸な子供、そういった者たちに、救いの手は差し伸べられなかった。
そのことが、皮肉にも、この男の神への不信感を余計に煽ったのだ。
神は絶対無二の尊いもの。
ならば、その神が、一人の少女も、罪の無い子供たちの、一人すら救えないというのであれば、この世に絶対など存在しないということではないのか。
救済は来ない。救世主は現れず、天の国の扉は永久に開かれはしないのだ。
地上にあるのは、原初と変わらぬ混沌と殺戮の風ばかり。
ゆえに、この男は何者も恐れない。
逃げても、無駄だ。

孔明は足を止め、コンクリートの壁に添うようにして蹲った。
背後より、吸血鬼が近づいてくるが、孔明が抵抗を止めたので、怪訝そうに尋ねてくる。
「おやおや、とうとう霊力が尽きたか。それとも覚悟を決めたか」
孔明は答えず、息を整えた。
歩くことを止めたので、背中の筋肉の補修に集中する。
細胞を復元し、血管、そして神経をひとつひとつ繋いでいく。細胞ひとつひとつの音が聞こえてくるようだ。
「付け焼刃の補修なぞしてどうする。わたしを迎え撃つならば、小一時間は力を溜めねば追いつくまいぞ。それとも、わたしを楽しませるためか? いい心がけだ」
吸血鬼の好きなように歌わせておきながら、孔明は前方より、風の気配が近づいてくるのを感じていた。

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※ この話は、「新ずんだの章7」につづきます。