仙台ゴールデンポークスの章

F

このお話は「仙台ゴールデンポークスの章6のつづきです。

ステージにしつらえられた椅子に座る女は、優美に足を組んで、縛られている平本をしげしげと長め、それから、いかにもうんざりした、というふうに、言った。
「嫌だわ」
平本は、ちょうど亮たちに背を向けている形となるが、猿轡を填められているのか、一言も声を発さない。
両足は椅子の足にそれぞれ縛り付けられ、手首は背もたれを挟んで、後ろできつく縛り上げられている。
サングラスを外した女は、眉をしかめ、険しい顔をして、平本を凝視したまま、ステージの脇にいる金髪の男に言う。
サングラスの下の女の瞳は、宝石のように美しい蒼であった。
顔立ちは妖艶かつ華麗。趣味の悪い真紅のステージのなかの、安っぽい玉座に腰かけながらも、女の品位の高さは失われていなかった。
「これしか方法が無いの?」
亮は、尋ねられた男の、どこかつかみ所の無い雰囲気よりも、その圧倒的な美貌に、一瞬ではあるが、少女らしく心を奪われた。
見事に足が長くすらりとして、均整が取れており、淡い色のセーターにベージュのカジュアルスーツは、光を放っているような、明るい金髪によく映えている。
ハリウッド俳優にだって、これほどの美貌の持ち主はそういないであろう。
世の、男性的な美しさというものを、見事にまとめて出来上がったような男である。ただ立っているだけで、人の心を奪うことができることはまちがいない。
「ないよ」
と、女の言葉に、男は短く答える。
味も素っ気も無い。声にはまったく調子というものがない。不機嫌でもなく、上機嫌でもなく、平板そのもの。
だからこそ、この緊迫した場面にあって、男の平然とした様子は、だんだん不気味に見えてくる。

「ヤバイんじゃ…」
と、陳寿犬がちいさくつぶやいた。
亮もそのとおりだと心の中で頷く。
こうなると、思いつくのは、いろは横丁で、今後の商売について話し合っている叔父や関根ではなく、天下の公僕・平塚八兵衛である。
本当は、平塚も一緒にいろは横丁に来る予定だったのだが、急に呼び出しがかかったとかで、到着が遅れているのだ。
階段のところに戻って、携帯で呼び出しをかけるべきではないだろうか。
ビル全体が悪の巣窟、などという映画か特撮モノのお約束のような状況ではないのだ。
陳寿犬に、戻ろうと手で合図して、そっと場を離れようとする亮であるが、ほかならぬ、その陳寿犬に、ぐっ、とズボンの裾を噛んで引き止められる。
なんだろうと再び扉の前に立ち、中を覗けば、驚いたことに、男が、いつの間にか、手に大きな剣を持っていたのである。
レプリカなどではないことは、ライトの光をうけてにじむその刃の、尋常ならざる不気味な気配でわかる。
あまりに冴え冴えとした光を放つ剣。
人を何度も殺めたことのある剣だけが持つ、見るものの気を引締めさせる雰囲気。

「そんなもので?」
と、女は眉をしかめ、男に言う。すると、男は、やはり平板に言う。
「血を吸わせておいたほうがいい。力が弱くなっているからね」
「その後で、わたしが血を吸うのね」
と、女は言い、それから不意に、組んでいた足でもって、激しくステージを踏み鳴らした。
「このわたしが、女王たるこのわたしがよ! 人の血を吸うの! そう、人の命のおこぼれに預かろうというの! 女王であるわたしが!」
女は立ち上がると、冬眠前の熊のように、ステージを行ったり来たりし始めた。どこか芝居がかっていなくもないが、もともと劇場型の性格らしく、派手な仕草もいやみでは無い。
「ほかに方法はあるはずよ。どうして吸血鬼のような真似事をしなくてはならないの? 忌々しい、あの能無し娘の鏡の所為で! だからレティクルなんてものは、信用ならないのだわ。わたしの周りには、信用ならない者ばかり」
「僕は信用してほしいな」
と、やはり無感情に、男は、剣身の様子を見ながら言う。
すると、女は眉を上げて言った。
「信用しているのよ。信用しているからこそ、あばずれ女の真似事までして、獲物を捕まえてきたんだわ。ああ、いやだ、この椅子から、たくさんの男や女のにおいがしてくる。この魂は汚れきっているわ。
金を持っている人間には、男妾の真似を平気でして見せるような者の血で、わたしまで汚れてしまわないかしら? 吸血鬼ならば、ぞんぶんに楽しむのでしょうけれどね、わたしは違うわ、女王なのですもの!」
「ジルが吸血鬼なら、メアリ、君は怨霊だ」
「なんですって?」
「事実だろう。君はほかのアトラ・ハシースたちとちがって、レティクルと組んでいたからこそ強かったのだ。ヨーコが孔明側についたのは痛いね。それに、レティクルを裏切るような真似をしたのも、まずかった」
「仕方ないわよ、ああするほかに手があって? 女王たるわたしを莫迦にした者を、許してはおけないわ!」
「それだけかい? 君は、君の従姉が目の前に現れたことで、すっかり度を失ってしまったんじゃないだろうね」
男の指摘に、メアリは言葉を詰まらせ、腕を組む。

この人たちは、何の話をしているのだろう。いま、『孔明』と言わなかったか? 
亮がちらりと足元を見れば、案の定、陳寿犬はすっかり興奮して、全身の毛を逆立たせ、茶色の目を大きく開いて、じっと隙間から二人の男女の様子を見つめている。

「わたしが愚かだと言いたいのね、あなたは! レティクルを出し抜いて、この世界を手に入れる作戦が、壊れてしまったから。どうするの? あなたも、ほかの男たちのように、わたしを見捨てるの?」
「そんなことはしやしない」
と、男は、はじめて剣から目を上げて、メアリを見た。
「僕は、君の為に妻を捨てたのだ」
「そうだったわね。でも彼女は女神ですもの。泣いて跪いて謝ったなら許してくれるかもしれないわよ。それでも?」
「酷い女だな、そんなことが出来るわけがない。シグルトはどこまでも実の無い男だと、世界中に喧伝するようなものじゃないか」
メアリは、それを聞くと、声を高くして笑った。耳に障る笑い声である。
思わず亮は顔をしかめる。
「いまさら評判なんて気にするの? どちらにしろ、あなたはもう帰れやしないのよ。腹を決めてしまいなさいな」
数分前とは立場が逆転し、女王は高らかにハイヒールの足音を響かせると、ステージの上から、屈むようにして、シグルトの唇に、軽い口付けを下ろした。
「あなたはわたしのモノよ。光栄に思いなさいな。女王の、一の騎士にしてあげる。その剣で、あらゆる邪魔者を切り伏せて」
「そのつもりだ」
でも、とシグルトは続けて、離れていくメアリの首に巻かれたスカーフを、さらりと取り上げて見せる。
すると、その首には、見るも無残な傷跡が、ぐるりと首を取り囲んでいた。まるで、首と胴を、無理にくっつけたような傷である。
「その傷を治してしまわねばならないだろう」
「そうね。鏡を見るたびに、泣きたくなるわ」
「泣く必要はない。じきに、その傷は消える。血を吸って、霊力を溜めるのだ。ただ殺すだけでは駄目だ。君の場合、人の負の感情こそがエネルギーとなるのだから。たっぷりと怯えさせ、恐怖を味あわせねばなるまい」
「どうしようかしら。串刺し? 生皮を剥ぐ? それとも、手足を一本ずつ、もぎ取ってやろうかしら?」
「好きな方法を選ぶといい。なるべくならば、痛みが続く方法を」
「でも、悲鳴は聞きたくないのよ、好きでは無いわ。猿轡は填めたままにしておいて頂戴」
「では、まずは片側の耳を削ごう」
彼らは歌うように、拷問の打ち合わせをし、そのあまりの傍若無人ぶりにぼう然とする亮たちの前で、実にあっさりと、剣をひらめかせる。
そして、平本の片耳をそぎ落とした。

小さな肉が、床に落ちた音は、カーペットに吸い込まれて聞こえない。
だが、縛られた平本の耳から、いっせいに血が溢れ、猿轡をされながらも、平本が暴れ、うめく声が聞こえた。
それを見て、メアリは声を立てて笑う。
笑う理由は、面白いからではない。
亮にも、はっきりと見えた。シグルトの持つ剣は、黒い雲のようなものを幾重にも纏っている。
血にぬれた刀身から、儚げな淡い光が立ち上る。
ほのかに蒼いその光が、メアリのほうにゆっくりと吸い込まれていくのだ。
そして、徐々に、メアリの首筋にある傷が、小さく、薄くなっていく。その具合を、手で触れて確かめながら、メアリはシグルトに言った。
「耳を潰しては駄目よ。わたしたちの言葉が聞こえたほうが、恐怖は増すはずですもの。そうね、今度は目を潰してしまいましょう。リア王のようにね」
シグルトは、その命令に、喜色を示すでもなく、嫌悪を示すでもなく、淡々と頷いて、平本に近づいていく。

「んがー!」

叫んだのは、亮の足元にいた陳寿犬であった。
「もう許せん、悪人ども! オレ様が成敗する!」
そう言うと、扉の隙間からぱっと白い弾丸のように飛び出して、その親指で、恐怖に身をすくませる平本の片目を奪おうとしていたシグルトの腕に、がぶりと噛み付いた。
シグルトは、大きく腕を振り払い、陳寿犬をほどこうとする。
ぶん、と風車のように大きく振り回された陳寿犬であるが、床に叩きつけられることを防ぐために、宙でみずから口を離すと、そのまま身軽に、宙返りをして、床に着地し、四肢を踏ん張って、牙を剥いた。
亮の作った服を着た白い犬を見て、メアリが呻いた。
「ケルベロス? ケルベロスだわ! どうしてここが判ったの?」
「んがー! またその呼び名! オレ様は陳寿! 元の国籍も中国であって、ギリシャじゃない!」
陳寿がそう叫ぶと、メアリとシグルトは顔を見合わせ、そして邪悪な笑みを浮かべた。
「そう、あなたもアスカロンに取り込まれた一人ね。過去を忘れているのであれば、都合がいいわ」
メアリはそう言って笑うと、一歩、陳寿犬のほうに近づいてきた。
陳寿犬は、おどろきうろたえ、その場で足踏みをする。
「へ? は? オレ様の言葉がわかるわけ?」
陳寿犬の言葉に、メアリは口元に邪笑を浮かべると、その前に立った。
「わたしの運は、まだ費えていない、ということね。ケルベロスを手中に収めることができたなら、この争い、勝ったも同然ということだわ」
威勢のよかった陳寿犬であるが、メアリの尋常ではない様子、さらに状況がまったくつかめないことによって、だんだん畏縮してしまっている。
ぴんと上がっていた白い尾っぽはだんだんしょげてきて、四肢もカーペットの上で、がたがたと震えてきていた。

怯えている気配を敏感に悟ったか、メアリは邪な、しかし見る者を不思議と魅了する笑みでもって、陳寿犬を見下ろした。
「怖がることはなくってよ。あなたは、わたしのために、素晴らしい仕事をすることになるのだから」
「すすすす、素晴らしすいぃ仕事?」
声をひっくり返しながらも、近づいてくるメアリに牙を見せながら、陳寿犬は尋ねる。
すると、メアリはぴたりと足を止めて、無残な首の傷の周りにまといつく金髪を、手で軽く跳ねのけながら、笑った。
「ええ、そう。わたしが、この世界を手に入れるための仕事をしてもらうの。みっともない雑種犬には、身に余る光栄でしょう? 感謝なさい?」
「んなー! ナンセンス! 世界征服? 有り得ない! つーか、みっともない雑種犬って」
『なにさ』と続けようとした陳寿犬の言葉は続かなかった。
メアリの双眸が、ぴたりと陳寿犬に据えられ、まさにそれに応じる形で、陳寿犬もメアリを見上げる。
途端、メアリの全身から、ノートゥングに纏わり付いているものによく似た、禍々しい濃い紫色の霧のようなものが立ち上る。
「わたしの目を御覧なさい!」
メアリの声は、まるで天空から、地上のすべてに響かせるかのように、大きく聞こえた。

とたん、陳寿犬は、雷に打たれたように身を震わせ、そのまま固まってしまう。息を呑んだなどという生易しいものではない。
仮死状態に陥ってしまったかのようであった。

「あなたは、わたしの下僕となるのよ、ケルベロス! この世界を、わたしのための世界に作り直しなさい! 邪魔者をすべて消し去って! おまえならば出来るはずよ!」
メアリの声に応えるように、陳寿犬の口がゆっくりと開いた。
「世界の再構築」
「ええ、そうよ。おまえが頼まれて作り上げたこの世界を、もう一度わたしのために作り直すの。そうね、まずは、邪魔なアトラ・ハシースを世界から追放して、ついでにアストラルも殺してしまって頂戴! わたしをこんな醜い姿にした連中を、すべてよ!」
「コウチク…サイコウチク…」

陳寿犬は、傷の付いたレコードのように、同じ言葉をうわごとのように何度も繰り返しながら、ぶるぶると震え始めた。
同時に、おどろいたことに、陳寿犬の体からも、メアリのものと同じ、紫色の不気味な霧(?)が立ち上ってくる。
ずっと扉の外で、すっかりこの異常な血なまぐさい光景に、足を竦ませていた亮は、陳寿犬が震えだすと同時に、まるで意識のあるまま、臓腑を無理に取り出されるような、強烈な違和感、恐怖をおぼえた。
足元が、そのままチョコレートのように、歪んで溶けてしまうような感覚がある。

「そうよ、早くなさい!」
「サイ・コウ・チク」
「駄目!」
亮は、扉を大きく開いて飛び込むと、メアリと陳寿犬の間に立った。
とたん、メアリの顔が、激しく憎悪に歪む。
「仲間がいたのね! シグルト、気づかなかったの?」
メアリの叱責に、金髪の男は、耳を斬られた痛みに呻き続ける平本の横で、剣の具合を見ていたが、物憂げに顔を上げて、答えた。
「君は、外も見張れとは言っていない」
「言われたことしか出来ないの? あきれた頭の悪さだこと! でも、頭の悪さでは、おまえも同じようね。おまえも、わたしの下僕にしてあげるわ。わたしの目を見なさい!」
亮は、メアリの言葉に弾かれるようにして顔を上げたが、その蒼い瞳を見ても、なにも感じなかった。
強いて言えば、これほど美しい色をした瞳をしているのに、そこに映る光景は、ひどく独りよがりで、野蛮なのが不思議だと思った。

メアリは亮を見つめ、亮もメアリを見つめた。
息をつめた空気が、しばらくつづいた。
だが、それ以上の変化はなにも起きない。

「おまえ…わたしの力が効かないの?」
狼狽するメアリの背後で、その光景を、ただぼんやり眺めていただけのシグルトが、口を挟んできた。
「その少年は、童貞じゃないのか」
メアリは、艶福家らしいふくよかな顔をしかめて、シグルトを振り返った。
シグルトは、平然とつづける。
「きみの力は、バージン、つまり経験のない人間には効力がないからね」
亮はさすがに顔を赤らめたが、メアリは納得したらしく、小さく舌打ちをして、ふたたび亮のほうに顔を向けた。
「仕方ないわ。綺麗な子だから、側においてやろうと思ったけれど、童貞ならば、そこの酷いニオイの子よりは、いい霊力が手に入るかもしれない。シグルト、この子を先に始末して」
「こちらの少年はどうする。放っておけば、出血多量で死ぬよ」
「死ぬのなら死ねばいいわ。金さえちらつかせば、簡単に誰にでも足を開く男なんて、なんの価値もない。霊力を使って、苦しいのよ。早くして」
メアリに促され、シグルトは、いかにも面倒なふうに、ノートゥング片手に寄ってくる。

シグルトの握る剣を間近で見て、亮は、なぜだかそれを見たことがある、と思った。
そして、それがどれほどに危険なものかを瞬時に理解した。
当然、剣であるから危険ではあるが、ただ肉を斬る、という以外に、この剣には、竜をも殺す力が籠められている。
竜を殺すための剣。
そのことに思い至った時、亮の心臓は、はげしく鼓動を打ち始めた。
ノートゥング。たしかワーグナーのオペラだっけ? 昔読んだ本に、載っていた剣の名前。
なぜ、こんなに胸が騒ぐのだろう。この剣は危険だ。持っていてはいけない。
いいえ。
この剣を、持っていたことがある……

「亮殿!」
陳寿犬の言葉に我に返った亮の目に、シグルトが顔色一つ変えず、襲いかかろうとしているところであった。
ノートゥング。シグルト。
これは、なにかの冗談? それともマニア?
混ぜっ返してみるが、そんな単純なことではないだろうということは、亮はすでに理解していた。
そして、相手が本気で自分を殺そうとしているのだと。
切っ先が身体を突き上げてくる瞬間、亮は素早く背後に飛び縋った。
びゅん、と風が巻き起こり、耳の周りで音をたてて唸った。
シグルトの刃は、亮の身体を掠めることもなく、ただ、空を切るに終わった。
「なにをしているの!」
メアリの金切り声が、秘密の部屋いっぱいに広がった。
「遊んでいないで、ちゃんとおやりなさい!」
叱責を受けたシグルトであるが、しかし、その顔は、先刻までのやる気のなさそうなそれとは、だいぶ雰囲気が変わっていた。
剣を手にしたまま、激しく亮を睨みつけてくる。
「ちゃんとやった」
「なんですって?」
「ちゃんと狙った。なのに、避けられた」
ぞくりと亮は震えた。
その声は、まるで冥府から響く死者の声のように不気味なものであった。

そして、ふたたび剣先を亮に突きつけると、一瞬、その体が消える。
煙のように掻き消えた。
常人には、そのように映っただろう。
しかし、実際は、シグルトは、それこそ目にも止まらぬ速さで動いたのである。もはや、メアリの言うとおり、細々と身を裂いて、恐怖を思う存分に煽ってから殺すのではなく、一撃で仕留める為に、動いたのであった。
風が動いた。
風、なのだろうか。シグルトの発する殺気、それが亮に大きな見えない壁のように押し寄せてくる。
遠くで、陳寿犬が名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

不意に、なぜだか部屋にたちこめる、異臭だけが、すべての感覚のなかで突出して亮を動かした。
汚物に塗れた部屋。絶えまない暴力、嘲弄、恐怖。
こんなところで生きた玩具として、おめおめと恥辱をさらしていき続けるよりは、いさぎよい死を選ぶべきではなかろうか。
無数の悪意を容赦なくつぶてのように投げつけられ、ひたすら怯えて過ごした四日間のうち、生への執着は根こそぎ奪われ、死はむしろ憧憬となった。
罵倒と殴打のなかで、懸命に意識だけは失わず、四肢を鎖に繋がれたまま、祈りを捧げたとき、聞こえなくなっていたと思っていたもの、失っていたと思ったものが、はっきりと聞こえ、見えたのである。
暴力に負けたわけではない。逃げるのではないのだ。
そして、決意を固めた。

ふと、目を開くと、そこには、驚愕に目を開くメアリと、口をぽかんと開いて、「マ、マトリックス!」とつぶやく陳寿犬と、そして、いまや平板な表情ではなくなり、憎悪と苛立ちをはっきりと浮かべて、剣を片手に睨みつけてくる男がいた。
亮は、ほんの一瞬のあいだに、シグルトの攻撃をかわし、なんとメアリらも飛び越えて、赤いカーテンの掛けられたステージの上に移動していたのである。
ステージとは言っても、階段もなく、軽い段差があるだけの場所だ。

自分が、どうやって移動したのか、覚えていない。息すら乱れていない。
どうやって移動してきたのだろう。
それに、さきほど、奇妙な光景が浮かばなかっただろうか。
ここではない。石造りの、陰気で、日の差さない、悲鳴をも閉じ込めてしまう恐ろしい場所。

亮は、椅子に縛り付けられたままの平本を見た。
平本は、うなだれたまま、熱に浮かされたように呻き続けている。
さっきの光景は、この子が見ていたもの? 感じていたもの?
それに、このニオイは?
亮は、生臭いニオイ、吐き気を催すような、溜まった汚物のニオイに気づき、周囲を見回した。
部屋に飛び込んだときより、一層ニオイがひどくなっている。
このカーテンの裏だろうか。
そして、近づけば、ところどころ染みになっている古いカーテンを開く。
カーテンの後ろには、思わず笑ってしまうほどに、ありえないものがあった。
蒼ざめた肌をもつ、一つ目の巨人が、そこに立っていたのである。
SFXだろうか、それとも、実にリアルに出来上がった等身大の人形?
ぼう然とする亮であるが、それが残念なことに、人形ではないことは、身の放つ悪臭、そして、浅く上下する胸の筋肉でわかった。呼吸をしているのだ。
あまりの汚臭に、口を手で覆い、後ずさる。
だが、その隙を外さず、ふたたびシグルトが剣を構えて、亮に襲い掛かってきた。
シグルトの顔は、亮がこの世でもっとも嫌悪するもの、芯から傲慢で、優しさや気遣いというものを理解せず、ゆえに恐怖を知らない、他者を平気で愚弄する者のそれであった。
こんな顔をした人間を、これまでにどれだけ見てきたことだろう。
残念なことに、この表情は、固有の人間にのみ現れるものではなく、常にだれの心の中にも含まれているものなのだ。
自分の力にたっぷり自惚れているから、それが否定されると、怒り狂って殺そうとやってくる。
向かってくるその顔は、おそらく常人にはまったく見えないほどの早さでもって動いているだろうに、亮には、はっきりと見えた。
ふと、懐かしい声が聞こえてきた。

「剣の名は『アスカロン』。神よりわたしが賜った、真正のドラゴンバスターです。
剣を召還するときニハ、わたしの名前と剣の名前の両方が揃わないと、召還に成功しまセン」

「アスカロン、ジョージ先生?」

切羽詰って出てきた言葉というよりも、意識の奥底から突き上げてくるものによって、自然とこぼれた、といったふうであった。
だが、亮がその言葉を口にした途端、銀の腕輪が、激しく青白い光を放ちはじめた。

※このつづきは「仙台ゴールデンポークスの章 8」になります

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