仙台ゴールデンポークスの章

D

このお話は「ずんだほやの章3のつづきです。

陳寿犬は、ごわごわの白い毛皮(なにせ自分でせっせと舐めて毛づくろいをしない犬というのに加えて、年なのでキューティクルが失われているため、常にごわごわなのだ)に、さらに布がかぶせられる感触に、じっと耐えた。
亮が押入れから取り出した、色とりどりの布の切れ端をつなぎあわせて作った、陳寿犬のための『服』である。
型紙もなにもとらずに、胴体と足の採寸をすばやくとって、てきぱきと裁縫道具をそろえて犬のための服をつくる亮に、陳寿犬は、ますます混乱していた。
亮は、背が高くてすらりとして、清潔な顔をしているために、ぱっと見では少年である。
いや、つくづく見ても少年である。
陳寿犬は、青葉山で触れた、亮が少女だという証しの胸のふくらみが、いまでも、なにかの間違いだったのではないかと思うことすらある。
抜けるように肌が白く、華奢な体つきをしているものの、弱弱しく見えないのは、凛とした雰囲気が、全体を鎧のように覆っているからだろう。

陳寿犬は、諸葛孔明という、なにより敬愛する人物を、目の前で見たことがなかった。
生前をしる人々は、美しい容姿をしていたが、内実はまさに眠れる龍そのものであった、恐ろしい人であったが、だれも心の底から嫌う人などいなかった、と口をそろえて言った。
孔明という人物の容姿を語るとき、なにやら美姫のことを詩に詠んでいるような、華やかで艶やかなものが多かったのが不思議であった。
対称的に、孔明の残した功績は実に骨太で、女性を思わせる柔和さや華やかさとは遠かった。
それに、一国の宰相を、美女のごとき姿の、などと形容しては、のちの人々にいらざる誤解を与えてしまうだろうと判断し、あえて容姿に触れた記述を残さなかった。
呉へ、使者として出向き、みごとに同盟を成功させた、という点で、当時の観相の常識と照らし合わせれば、弁舌さわやかなのに加えて、容姿もずば抜けていたのだと、想像できるだろうと思ったのだ。
それに、陳寿の時代には、陳寿以外の歴史家たちが、孔明に関して、あれこれ筆を執っていた。だれかが残すであろうと思っていた。
まさか、千八百年の歳月を超えて、まともに残るのが自分の書物だけ、などと思わなかったのだ。
だれに命じられたわけでもなく、故国への愛情をこめて、コツコツと書いたものである。それが死後に史書として認められるなど、だれが思うだろう。

それはともかく、K杉山小学校の廊下で会った孔明の、神秘的なまでの美貌と、目の前の亮の面差しは、似ていると思う。男女の性の境があいまいな、謎めいた雰囲気などは特に。
「なに? なにか顔についているの?」
と、亮は、陳寿犬の視線に、怪訝そうにして、自分の頬に触れた。
白魚の指先、という古めかしい表現があるが、毎日水仕事を手伝っているわりに、亮の手はまったく荒れていなかった。白魚の指先、あるいはホワイトアスパラガスの指先。

亮は、ここ数日のあいだ、学校に登校せず、自分の正体を知る家族とだけ過ごしている、ということもあり、徐々に男言葉が取れて、やわらかい口調に戻ってきている。
陳寿犬は、たとえその身が少女でも、やはりこの方は諸葛孔明その人ではないかと思っているので、男らしく凛々しくなっていくどころか、どんどん少女らしく、かわいらしくなっていく亮に戸惑っていた。
亮は清楚な美貌をしている。派手作りではない。
これで髪を伸ばして、すこし渋めの色の、少女らしいデザインのワンピースを着せたら、抜けるような白い肌にくすんだ色がよく映えて、とても似合いそうだ、とさえ、陳寿犬は思う。
性格もよいし、わけのわからない状況でも、浮つくことなく、淡々とできることをこなす度胸のよさには感服する。
浅野家の姉弟たちだったら、パニックを起こして、いまごろ、意味もなく、そこいらを駆け回っているにちがいない。

ワケありの男装の美少女。いかにも浅野家の姉ちゃんが好きそうな状況だなー、などと考えていると、ますます亮は首をかしげた。
「やだな、黙ったままで。その服、とっても似合っていると思うのだけれど、やっぱり駄目?」
陳寿犬は、必要最低限の家具以外には、本ばかりが乱雑に置かれている部屋のなかに、ぽつんとある姿見に、黄色や緑のヴィヴィットカラーを重ねた服を着た自分を映す。

正直なところをいうのなら、脱ぎたい。ぜんぜん似合っていないからだ。
だいたい、こういう服は、華奢な西洋犬…そう、あの小憎たらしい羅貫中犬のような…が着るべきものではないだろうか。
アドバルーンのように宙に浮いている浅野家において、おそらくホッとカーペットの上で、ぬくぬくと眠っているであろう歴史的ライバルの顔を思い出し、陳寿犬はムカムカする。
浅野家の姉弟もそうだが、羅貫中犬まで、どうして自分を探そうとしてくれないのだろうか。あれから、どれだけ経っている?

ふと、感情が、苛立ちに押し流されそうになり、陳寿犬は、じっと感想を待っている亮に気づいて、気を鎮める。茶色の目でちらりと亮を見れば、誉め言葉が返ってくるのを期待して待っている顔が、そこにあった。
朝起きてから、開店までの数時間が、亮にとっての自由時間だ。
関根に言われたとおり、素直に学校の勉強をこなし、それを終わらせると、わざわざ陳寿犬の服をつくる時間をこさえて、がんばってくれたのだ。陳寿犬は、頑張る人に弱い。
だから、あえて嘘をつくことにした。

「着心地サイコー。ありがたく着させていただきまする」
「そう? 良かった。陳寿犬、夜中にクシャミしていたからね。毛皮を着ていても、仙台の12月は底冷えするから、これですこしはマシになるでしょう」
亮は得意そうにして、陳寿犬の頭を、赤ん坊にするように、優しく撫でるのであった。
陳寿犬はというと、亮のこまやかな心遣いに、おもわずほろりとする。
状況も把握できないまま、息をひそめるような生活であるが、浅野家の邪魔者あつかいにくらべれば、ここは天国である。
浅野家の連中に、亮の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと、陳寿犬は思った。
なにせ、縁側で昼寝をしていたら、そうじの邪魔だというので、掃除機で吸い込んで威嚇する、ろくでもない家なのだからして。ドーブツ虐待である。

心優しい亮こそが、孔明であれば、問題ないのだが…
『たしか丞相さまは、蜀錦の生産に力を入れておいでで、みずからも織機の改良に携わっていたという。なれば、犬の服だって、ちょちょいと作れたかもしれぬ』
と、陳寿犬は推理してみるが、亮に頭を撫でられているうち、犬の習性ゆえか、まぶたがとろんとしてきて、なんだかどうでもよくなってきた。
『オレ様ってば、なんだかここ数日、まったくなにもしてないよなー。これでいいワケないよ、とか思うのだけれど、亮殿のそばにいると、これでいいのだと、なぜか思っちゃうんだよな。なんでだろう』
うっとりして尻尾をゆるやかに振る陳寿犬に、亮は満足そうに微笑んで言った。
「裁縫はね、昔から得意なんだよ。小学校のときは手芸クラブだったんだから。ずうっと買い溜めていたキルト用のハギレが、押入れにいっぱいあってね、父さんに、こんなゴミは、捨てるぞ、って、いつも怒られていたんだ。家を逃げてきたときは、もうほとんど何も持ち出せなかったけど、あれはやっぱり捨てられちゃったかな」
「事故でご両親が亡くなられたとか。交通事故でございますか」
陳寿犬が問うと、亮は、ふと暗い目をして首を振った。
「事故だった、と警察は言ったけれどね、ちがうと思う。あの日、うちが代々管理していた山のことで、親戚中が集ってきた。わたしはまだ成人していなかったし、女だからという理由で、会議に参加させてもらえなかったけれど、どうも山を売る、売らないで、揉めていたみたいなんだ。
うちの山はむかしから霊山といわれて、地元の人からも神聖視されている山だから、売るなんてとんでもない話だよ。だけど、親戚の一部が、宮城の企業に買収されたらしくて、山を売れとうるさく言ってきた。兄もその一人でね。父と取っ組み合いにまでなった。怖かったよ」
「深刻だなー。しかし、そんなに目の色をかえて買いたくなるような、素晴らしい山だったのですか」
「普通の山だよ。形は綺麗な三角錐で、ちょっと変わっているかもしれないけど、霊山とはいっても、松茸が大量に採れるとか、スキー客を誘致しやすいとかいうこともないし」
「ホテルでも建てるとか」
「まさか。こんな不況で、あんなぶどう園しか特徴のない田舎に、ホテルを建てたって、儲かったりしないよ」
「うーむ、ではなにゆえ」
「判らない。その次の日だったかな。このままだと親戚同士が割れてしまうから、場所を変えて、みんなで温泉ホテルにでも行って、そこで話し合いをしよう、ということになったんだよ。
で、小型バスをチャーターして、父さんと母さん、それから見たことのない親戚もいっぱいいたけれど、その人たちとで、家を出た。
ところがね、そのバスが、渓谷のカーブを曲がりきれずにまっさかさまに落ちた、って連絡が入ってきた。乗っていた人は誰一人助からなかった」
「大事故じゃん! でも、オレ様、そういう事故の報道、記憶にないよ」
「そうでしょう。少なくとも、二十人は即死だったはずなのに、TVで報道されるどころか、新聞のベタ記事にすらならなかった。警察は調べてはくれたけれど、おかしいんだ。
バスは二台あって、一台が落ちたんだけれど、助かったほうのバスは、山を売ろうとしていた人たちばかりが乗っていたんだよ」
「なんと!」
「でも証拠はない。偶然かもしれない。たまたま家に残っていたのは、わたしと祖母だったんだけれど、祖母も事故を怪しんでね、警察の取調べだ、葬式だ、とバタバタしている隙を狙って、祖母が持っていた山の名義を、わたしに変えて、逃がしてくれたんだ。
そして、一年前かな、駆け落ちして行方知れずだった叔父さんの家を探し当てて、いまに至る、と。
祖母はね、叔父さんとは、じつはひそかに連絡を取っていたんだよ。でも、ほかの親戚はだれもそれを知らないし、祖母は、叔父さんは東京にいるらしい、なんて嘘までついているから、追っ手もかからず、しばらく平和だったわけ」
「それを破ったのが」
「これ」
と、亮は、ため息とともに、腕に填めた銀の腕輪『アスカロン』を見た。

「マナブのいうことを疑うわけじゃないけれど、これが純銀だって、本当かな」
「たしかに、細工は見事でございます。銀というのは、農耕民族に好まれる鉱石。漢族も例外ではございませぬ。亮殿、ぴぴっとくるものはありませぬか?」
「悪いけれど、ぜんぜんない」
「なんでかなー。かえすがえすも、亮殿、何者?」
「あのね、その台詞、そのまま君に返すよ。銀の小人といい、君といい、ジョージといい、異常なことがわたしの周りで起こっているのに、なにがどう異常なのか、まったく把握できないところが、ストレス溜まるよね。まあ、こういうときは、できることを、いつもどおりにするしかないのだけれど」
まったく、と言いながら、亮はアスカロンの、ごつごつした手触りを楽しむ。
「未来が見える腕輪なら、わたしがいつまでここに隠れていなくちゃいけないのか、教えてくれないかな」
「いっそ、外へ打って出る、という手もございますぞ。銀のヘンテコに関しては、オレ様が撃退するとして」
「うちの親戚は?」
「えーと、叔父上に、鎌で戦っていただく」
「それだよ。なんで叔父さんは、暴走族の喧嘩に鎌なんて持ち出したんだろうね? ふつう、木刀でしょう。鎌なんて、堅気の発想じゃないよ。逮捕されても文句言えないと思わない?」
「たしかに。おかげで仙台はぐれ刑事・平塚八兵衛に目をつけられてしまうし…とと、亮殿、今朝は、八兵衛は現われておりませぬな」
「そう。だからおかげさまで、ゆっくり君の服を縫えたんだよ。あの人、開店前からうちに来て、閉店後も粘っているからね。容疑者が外国人だって確定したみたいなのに、まだ叔父さんを疑っているのかな。気が抜けないったら。
それにあのひと、どうも一言多いでしょう。パワーストーンの店を開くにあたって、ただでさえ叔母さんがぴりぴりしているのに、八兵衛さんが、ますます煽るところがあるからなあ」
「しかも今日はパワーストーンの店の下見に付いてくるとか。警察、もしかしてヒマ?」
「そんなはずはないと思うけれどね。だって、今朝のニュースでやっていたけれど、また被害者が二人も増えたって。ひどいよね…楽しみのために人殺しをする人間って、あとに残される家族のこととか、想像すらしないのだろうか」
「狂っとるのでしょう」
「たしかにどこかが狂っているのだろうけれど、どうしてそうなってしうまうんだろう」
「考えてもわかりますまい。だからこそ狂っているのだし」



そんな会話をしていると、階下より、叔母の声がかかった。
そろそろ仕込みが終わり、10時の開店時間である。
はーい、と答えつつ、亮は、手早く白衣を身にまとうと、狭くて急な階段を、たんとんと、陳寿犬をかかえて、リズミカルに下りていく。

さすが名物というだけあり、仙台に牛タンの専門店はあまたあるが、たいがいは、和を基調とした、落ち着いた内装の店である。
『たんたかタン』は、あえて差別化をはかり、フランスのカフェ(叔父も叔母も行ったことがなかったが)ふうに、小洒落た内装でまとめている。
であるから、店の雰囲気だけで、カフェだとまちがえて入ってきて、カプチーノを注文しようと思ったら、なぜだか強面の中年と、過剰に愛想のよい中年女が店番をしており、いまひとつ垢抜けない。
おかしいなとメニューを見れば、牛タン定食1400円、というわけで、紛らわしいとぶつぶついいながら、出て行く客も少なくない。
もともと、ワケあり夫婦であるから、観光客を避けるように、あたりに立ち並ぶ官公庁を目当てにして開いている店である。毎日の客のほとんどは常連であったが、大繁盛しているとはいいきれない。
まして、ここ数日は、店を一望できるテーブルに、八兵衛のような巨漢がでん、と居座っていたのだから、客も逃げるというものである。

八兵衛がいないことを確認し、亮が、陳寿犬を床に下ろすと、叔母は、いつになく派手な色合いの雑種犬を見て、言った。
「あら、お洋服着せてもらったの、よかったわねー。亮ちゃん、ずいぶんこの犬のこと、気に入ったのね。交換留学に行っている学校のお友達、まだ戻ってこないの?」
陳寿犬は、亮が学校のクラスメイトより頼み込まれて預かっている、という設定なのだ。叔父夫婦はそれを信じている。
「うん、まだすこし先みたい」
「そう。可愛がるのもいいけれど、いつか返さなくちゃならないんだからね。ちゃんと弁えないと駄目よ。あとで悲しくなるから」
「また遊びに来るって」
と、答えたのは陳寿犬であるが、もちろんこれは、叔母には、犬がくんくんと、小さく鳴いたようにしか見えない。

陳寿犬としては、亮の、耳を疑うような境遇にすっかり同情していたし、亮の人柄も気に入っていたから、浅野家に戻れるようになっても、また『たんたかタン』にやってくるつもりであった。
それに、あまった食材をもらえるから、オレ様はここが大好きさ、と視線をめぐらせれば、八兵衛のいつも居座っている席に、見知らぬ外人が座っている。
金髪の雄牛のように濃い顔をした男である。
力強い印象を与える癖して、顎の線が細く、神経質そうだ。
陳寿犬と目が合うなり、男は言った。
「ほう、犬か」
流暢な日本語である。流暢すぎて、なにやら横柄だ。
「イスラム教徒は犬を忌避するが、余はこだわらぬ。犬は役立つ家畜だからな。側にくることを許す」
「あなたの許可はいりません。嫌なら出て行ってくださいな」
と、叔母が冷たく切り返す。
すると、金髪の男は、大げさに顔をしかめて見せた。
「なんと冷たい言葉であろうか。日本女性は慎み深く、優しいのが常であるというのに」
「すべてに例外はありますよ。まったく、八兵衛さんもなにを考えているのかしらね、いくら自分の代わりとはいえ、こーんな顔の怖いトルコ人を寄越すなんて。同じ外国人でも、ヨン様みたいな人が来てくれたらなー」
ぼやきつつ、厨房に入っていく叔母の背中に、トルコ人は抗議の声をあげた。
「問題発言だぞ、人種差別だ!」
「叔母さんは、学生のときに英語で留年しかけたから、西洋人が嫌いなんだよ。気にしないで」
陳寿犬とともにトルコ人の側に行けば、トルコ人は、亮の顔を見て、おや、と、器用に片方の眉だけを動かした。
「きみ、以前に会ったことないか。そう、たしか国際交流センター行きのバスの中だった」
「覚えています。縁がありますね。ムスタファ・華丸さん、でしたよね? 名刺、まだ持っていますよ」
亮が愛想よくにっこり笑うと、ケマルもまた、不機嫌そうな顔をやめて、じつにほがらかに笑った。
「世の中、広いようで狭いものだな。あいにくと君の名を聞くのを忘れていたが、その顔は忘れぬ。余は、美少女の顔は、一度見たら、決して忘れぬのだ」
「え?」
微笑んでいた亮の顔が、ケマルの言葉で強ばった。しかし、ケマルは頓着せず、つづける。
「君はモデルのように背が高いから、おそらくなんでも似合うだろうが、その男らしすぎる格好は、あまりに味気ないな。もうすこし女らしさを加えてもよかろう。ふむ、その銀の腕輪もごつすぎるぞ。余ならば、君にエメラルドの腕輪を贈るだろうに」
と、ケマルの手がアスカロンに伸びようとするので、亮はおもわず後退する。
陳寿犬は、ちらりと亮の顔を見て、その顔が、かつてないほど真っ青になっているのに気づいた。

いかん。

陳寿犬は、ここで責任感のつよさを見せ、亮とケマルの間にすばやく白い身体をすべりこませると、四肢をふんばって、牙を剥いた。
「おやおや、立派な番犬だな。なにもしないよ」
と、ケマルは、害意はない、というふうに、陳寿犬に両手を広げて見せた。
「わたしは、女に見えますか」
と、亮は、顔色も蒼いまま、厨房にいる叔父夫婦に聞こえないよう、か細い声で、ケマルに問う。
ケマルはというと、その問いの意味がわからず、大作りな顔をしかめた。
「質問の意図が掴みかねるが、女ではないのか。それはあるまい」
「なぜそう思うのです」
「見たままを口にしただけなのだが。ふむ、日本人はいまひとつ、何を考えているかわからぬが、君はそのなかでも、特にわからぬな」
「ケマルさん」
亮は、警戒心を隠さず、慎重に言葉を選びながら、言った。
「おかしなことを言うと思うかもしれませんが、わたしのことは、男だということにしておいてくださいませんか。あなたを雇った八兵衛さんにも」
「なぜかと問うのは愚かしい行為なのだろうな。まあ、きみを男だということにして、余に不都合はない。きみは世間では、男で押し通しているのか」
「事情がありまして、そうしているのです。叔父夫婦以外は、学校の同級生も近所の人も、わたしが女だと言うことを知りません」
亮の真摯な眼差しを受け止め、なにを思ったか、ケマルは、不意に、にっ、と人懐こい笑みを浮かべ、亮の目を覗き込むようにして言った。
「学生か。高校生かね。最上アキラ子という子を知らないか」
「いいえ。わたしは仙台零高ですが、その子も同じ高校でしょうか。わたしは、こういう状態ですから、学校ではあまり友達を作らないようにしているので、判らないです」
「仙台零高か。私服の共学だったかな。ああ、すまない。最上アキラ子というのは、余のマンションの隣に住んでいる少女なのだが、彼女は千台栄華学院の生徒なのだ。同じ年頃かと思ってね」
「千栄は女子高ですよ」
そうだったか、と明るく声をたてて笑いながら、ケマルはいう。
物怖じしないというか、明るく力強い雰囲気に、ついつい引き込まれてしまいそうになる、不思議な魅力をもったトルコ人だ。
「そう怯えることはない。余は、女、とくに美しい女には、決して無体はせぬ。約束は守ろう。誓約書を書いてもよいぞ」
「それは結構ですけれど…八兵衛さんに雇われたというと、今日一日、ずっとうちの店に?」
「そういう話だ。ときに、君、今日は平日だが、学校へ行かなくてよいのかね」
「これも事情がありまして。ところでケマルさん、八兵衛さん、なにか用事なんでしょうか」
「本当は、朝から来るはずだったのだがな、本部より、緊急会議の召集がかかったそうだ。伝言なのだが、三時からの店の下見には、同行させてもらうからよろしく、とのことだ。
それまでは、余がこの店にいるので、安心して商売に励むといい。今日は儲かるであろう。余がいるからな!」
ケマルは、根拠のない自信を示し、困惑する亮と陳寿犬を見て、それこそ向日葵のように、にぎやかに笑ってみせた。



「おい、荷物持ちするから、早く来い、って言っただろ! どうして遅れてくるんだよ、グズ!」
言いざま、ぺちりと、マナブは頭をはたかれた。
今日は機嫌が悪いな、とマナブは、暗いため息をつく。
子供ながらに、爬虫類を思わせる顔つきをした千台タケシは、自分のランドセルと習字道具をマナブに押し付けると、さっさと歩き出した。

二人の通う小学校は、生徒の自主性を養うため、という理由で、自動車通学が禁止されている。
もちろん、たまの送迎は構わないのだが、たとえ金持ちだろうと、毎日は駄目なのだ。
だから、仙台で、いま最も羽振りのよい千台家の人間でも、歩いて学校に通わなければならない。

某ファミリーレストランの建物そっくりな豪邸に住むタケシだが、この自慢したがりな少年は、ふしぎとこの豪邸の内部をだれにも見せない。
母から聞いた話だと、この大きな屋敷には二つの家族が住んでおり、ひとつがタケシの家で、もうひとつが高校生になる娘のいる家族。
一族の結束を固めるべし、という祖父の教えに従って、兄弟それぞれの家庭が集って暮らしているのだとか。
とはいえ、普通の一軒家が四棟ほど、ひとつに集ったような家である。
トイレが7つあり、ガレージにはいつも高級外車、部屋数は数えたことがないからわからない、というとんでもない広さの屋敷だ。
二家族が一緒に住んでいたところで、問題はないだろうと、子供心にマナブは思う。

マナブは、好奇心がつよく、大人たちの会話に耳を傾けては、そこからあれこれ想像をはたらかせ、事実と照合させては楽しむ癖があった。
千台家については、錦町の金持ちのあいだでも話題になっている様子で、近所づきあいの上手な母の言葉から、マナブはタケシについて、いろいろ知っていた。

マナブはタケシが大嫌いだ。
こんなに嫌なやつ、他にいないと思う。
ドラえもんのジャイアンとはちがい、ぽかりと殴って無理難題を押し付けてくるタイプのいじめっ子ではない。タケシは、ねちねちと、精神的にいたぶって、追いつめるタイプのいじめっ子で、そのうえ、暴力まで振るう。
ただし、それは大人に隠れて行われるから、先生も、タケシは品行法正の優等生だと思っている。
そうではないことをマナブは知っている。
だから、マナブは学校の先生も嫌いだ。目がフシアナだからである。
母に気遣って、不登校にもならず、無理をして小学校に通っているマナブであるが、数日前までは、子供ながらに自殺すら考えてしまうほど、日々を辛く過ごしていた。
いまはちがう。
犬としゃべれる魔法使いと出会ったからだ。
タケシは、きっと犬とはしゃべれない。普通の人だから。
魔法使いと出会えたのは、自分が特別だからだ。
いままで惨めだったのも、魔法使いと出会えるようになるためだったのかもしれない。だって、ハリー・ポッターだって、ホグワーツ魔法学校に行くまえは、いじめられていたじゃないか。
きっと、これから素敵なことが起こる。
だから、いまひどい目に遭ったとしても、それはきっと、つぎに素敵なことに遭うための試練なのだ。
だから、重たいランドセルを二つも抱え、両手に習字用具を持ったマナブに、タケシの取り巻きが、転ばせようと、ラリアットをかけてきたり、後ろから突き飛ばそうとしたりしても、前とはちがって、ちっとも嫌じゃなかった。
重いランドセルの紐が、肩に食い込んでも、我慢できた。
直接、いじめには関与しなくても、自分を嘲っている、いじわるなほかの生徒と目が合っても、惨めに思わなかった。
我慢すればいい。
我慢すればするほど、倍になって、いいことが起こる。

千台家から学校までは、空襲を受ける前は、立派な武家屋敷がつづく通りであった。
由緒正しい町なのであるが、そのため、道が狭く、車一台がやっと通れるくらいである。
その脇を、小学生が連れ立って歩いている格好だ。
朝ということで、愛宕通りの渋滞を避けて裏に入ってきた車は、かなりのスピードを出している。
不意に、相撲だ、と言いながら取り巻きのひとりが飛びついてきた。
ランドセルごと後ろから掴まれて、マナブはアスファルトの上に投げ出されそうになる。
マナブは、背中に自分のランドセル、向かい合わせにタケシのランドセルを抱えるようにしていたため、バランスが悪かった。背中を思い切り振り回され、足元がよろける。
そのとき、後方より、タクシーが走ってきた。
心臓が飛び跳ねるより先に、体が冷えた。
轢かれる。
そう思った。
プワッ、と派手にクラクションが鳴らされ、マナブは思わず目をぎゅっとつむる。

「目を閉じていて、いいの? 我慢するだけで、いいの?」

柔らかくも優しい声がして、マナブは仰天して目を開けた。
通学する生徒たちの悲鳴や、タクシーのクラクションも聞こえない。
目の前には、花柄のワンピースを身に纏った、淡い光のように優しげな、黒髪の美女が立っていた。
マナブは、ふと、教会に掛けてあった油絵のなかのマリア様を思い出していた。
ほんとうにマリア様が目の前にあらわれたなら、こんなふうではなかっただろうか。
外国人を間近で見るのは初めてだったけれど、すこしも怖くなかった。
彫の深い顔に、高い鼻梁、眼差しは黒く澄んで、限りなく優しい。その労わるような、悲しそうな眼差しに引き込まれてしまう。

「わたしの力は、あなたに使ってあげる。でもね、わたしの力も、あまりたくさんないの。だから、わたし一人では、あなたを助けることはできないわ。あなたは、強くならなくては駄目よ。2004年の12月24日、『最悪の日』を回避するために。約束できる? 強くなれる?」
言葉のひとつひとつが、優しく包み込むようなものであった。
厳しい要求をされているなと、幼心にも理解できたが、マナブは、黒髪の美女の言葉につられるように、大きく頷いていた。
「うん。強くなる」
「良かった。さあ、立ちなさい」
黒髪の美女が差し伸べてきた、百合の花の花弁を思わせる白い手を取り、マナブは立ち上がった。

とたん、目の前でぱっと光が弾けた。

思わず目をつむり、そしてふたたび開いたときには、目の前にいたのは、黒髪の美女ではなく…
「朝からジャレてんじゃねーよ。往来の邪魔だっつーの、ばぁか!」
赤茶色のカールの崩れた髪をした、化粧の濃い、恐ろしげな形相をして仁王立ちしている女子高生だった。
「なんだよ、ヨーコかよ」
と、取り巻き立ちより先に歩いていたタケシが、わざわざ戻ってくる。
マナブは、きょろきょろと、黒髪の美女の姿を探したが、どこにも見つからず、自分を轢きかけていたタクシーも姿を消していた。
「また朝帰りかよ。風呂入ってないだろ。臭うぞ、寄るな」
「うるせぇな、朝からいじめにいそしんでいる奴にいわれたくねぇよ。ランドセルくらい、自分で持てよな」
ヨーコが言うと、タケシは、信じられない様子で、何度も瞬きをしながら、それでも、大人びたふうに、つんと細長い顎を突き出して、尋ねた。
「はあ? おまえ、インフルエンザじゃねぇの?」
「五つも年上のおねえさんに向かって、『おまえ』とか言うな。次に言ったら、焼き入れる。つーか、ランドセル、背負え!」
「なんでおまえに命令されなきゃならねぇんだよ! おまえが家に帰らないせいで、昨日、大変だったんだぞ」

おや、とマナブは思った。
いつも自信満々のタケシの顔に、怯えが走ったからである。

派手な化粧をして、制服を、原型をとどめないまでに着崩したヨーコも、それを察したのか、顔をしかめる。
「なに、あいつ、また?」
「そうだよ! おまえの親父だろ! おまえが責任とれよ!」
「そんな責任とれるか! それより、タケシ、ランドセル! でなくちゃ、あたしが現在進行形でヤバイから!」
「はあ? ワケわかんねー」
「いいから背負え! アタシのなかにいる恐ろしい女王が、あんたにランドセルを背負わせないと、とんでもないことをしでかすんだよ!」
「ヨーコ、僕の部屋のビリー・ミリガン、勝手に読んだだろ。つーか、おまえがエロ本以外に活字を読むとは思わなかったけど」
「あたしの雑誌は、エロ本じゃねぇっつーの! ほらっ、そこの子、タケシのランドセル寄越しな! マジで頭痛がしてきた。女王にあたしが殺される前に、とっとと背負え!」
ヨーコは、わけのわからないことを喚きつつ、マナブの背負っていたランドセルを剥がすようにして取ると、手ぶらのタケシに押し付けた。
「あたしがいなくなった途端、またこの子に背負わせたら、承知しないからね」
ヨーコは、こってりとマスカラの塗られた目で、歌舞伎役者よろしく、にらみをきかせる。
タケシは、あまり怖がっていない様子だが、それでもしぶしぶと、自分のランドセルを背負った。
ヨーコは、タケシと同居している、従姉だった。
何度か、顔だけはあわせたことがある。マナブが、ヨーコとタケシが話をしているところをまともに見たのは、今朝がはじめてだった。
「家に寝に帰ってきたのか? あいつが出勤するのを待ってたんだろ、ヤな女だな!」
タケシが言うと、ヨーコは、これまでになく真剣な顔に怒気をはいて、答えた。
「ちがう。敵の様子を見に来ただけ。あたしは学校に行く」
「敵?」
「タケシ、昨日、外人が来なかった? メアリっぽいババァとか、怪我してるっぽい金髪のイケメンとか…ほかに、知らない女の子とか」
「知らない女の子なんか、しらねーよ。僕、昨夜は部屋に籠もってたからな。誰かさんのせいで」
「こっちはこっちで、死にかけてたんだよ。それとさ、あたし、しばらく家に戻らないつもりだから、よろしく。もし誰かにどこに行ったか聞かれたら、適当に答えといて」
「男でも出来たのか? ジギーだっけ? そいつ?」
「そんな呑気な理由じゃねぇよ。わかった? ああ、それと、夕方にあたしを見かけても、それはあたしじゃないから、声掛けないほうがいいよ。一応、教えたからね」
「なんだ、それ。おまえ、馬鹿だ、馬鹿だとは思ってたけど、本格的にやばくないか?」
「とっくにヤバイんだよ、あんたもあたしも。あんたは、いまのところ敵だから、これ以上は教えない。それじゃあね」
「はあ? 敵?」
置いてきぼりを食らう形になったタケシが狼狽するのにもかまわず、ヨーコは踵をかえして、仙台駅のほうへと、足早に去って行った。

なんだ、あいつ、頭おかしい、などとブツブツ言いながら、それでもランドセルをマナブに押し付けることなく、自分で背負ったタケシを見て、マナブは、はじめて、恐ろしいばかりであったいじめっ子の弱い面を見た気がして、すこし気を強くした。

※このつづきは「新ずんだの章 5」になります

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