仙台ゴールデンポークスの章

C

このお話は「新ずんだの章おまけのつづきです。

あいかわらず、浅野家はアドバルーンのようにぽっかりと仙台の上空にあり、朝靄の垂れこめる町の上に、まるで望楼のように浮かんでいた。
いまのところ、この異常な状態にある浅野家のことが、話題になっていないようなので、これもまた、なにかの魔術の結果なのだと、陳寿犬は割り切ることにした。
いや、実際のところ、割り切らなければやっていけない、というのもあった。
かつて浅野家のあった土地は、寒天ミルクのように固まっており、足を踏み入れようとすると、とたんにぞくりと全身の毛穴が開くような気配をおぼえる。いても立ってもいられない気分になり、それ以上動くことがむずかしい。そのため、中に入ることはできない。
ためしに、後ろ足にぐっと力をこめて、塀にある呼び鈴を鳴らしてみるが、応答は無い。郵便ポストには、父親の読む日経新聞と、こども新聞が入っており、ダイレクトメールが溢れているわけでもない状況から、中にいる人間は、苦もなくこのポストに手を届かせることができるが、外側の人間は、ポストに物を入れることはできるが、それ以上の接触はできない、ということになる。
宅急便が来たらどうするつもりなのだろう、と疑問に思いつつ、陳寿犬は、早くも震えの来た後ろ足に気づいて、あわてて前足を地面におろした。
あの中には、お父さんとお母さん、一子と弟と、ついでに羅貫中犬がいるはずだが。
夕方の散歩になんてついて行くんじゃなかった。ケルベロス、なんて因縁つけられて、なんなのさ。家に帰れなくなってしまった。なにか悪いことをした?
遠吠えして、中の住人に、オレ様はここだと伝えたかったが、隣近所に配慮して(英霊だから気配りも細やかなのである…とは陳寿犬の自負するところであるが)、おとなしく木町の『たんたかタン』に戻ることにした。
途中、恐ろしい経験をしたK杉山小学校の校舎の脇を抜け、巨大な短剣を地面に突き刺したような形のNTTドコモ東北ビルの下を通っていく。周囲にある家、ちいさな商店街は寝静まっており、犬が一匹だけでうろうろしていても、毛が白いこともあり、目立たないで済んだ。

浅野家から『たんたかタン』までは、陳寿犬の足で十分もかからない。
浅野家の連中が、オレ様を探してくれている様子もない。オレ様、もしかして愛されてないのかしらん、とションボリしつつ、陳寿犬は、あらたな住処に『帰って』きた。

亮は大きなあくびをしながら、『たんたかタン』を出た。入り口のカウベルが、ガランゴロンと大きな音を立てようとするので、あわててベルを抑える。
時刻は、まだ朝も明けきらぬ五時ちょっとすぎ。叔父夫婦は、関根の言い出したパワーストーンショップの経営と、この『たんたかタン』の二足のわらじをどう履きこなすかを、夜遅くまで話し合っていた。
この調子だと、八時ごろまで寝ていそうだ。そろそろ宴会シーズンなので、二次会の予約受付のチラシをポスティングしなければならないのだが、アウトソーシングする余裕がないので、自分たちで配る。
二人が無理なら、わたしがやらなくちゃな、と亮は思う。
チラシ、今日来るんだっけ、と思いながら、亮が肩を回していると、上杉のほうから、よぼよぼした足取りの白い雑種犬が、朝靄を掻き分けてやってきた。

陳寿犬は、胴体に見合わぬ長さの尻尾を下げて、うつむき加減に亮のところへやってくる。
朝霧が出ており、もとより静かな朝の町が、よけいに静かで別の場所のように思えた。
『たんたかタン』は路地に面した道だが、タクシーが抜け道としてよく利用する。
そのため、往来を行くのはタクシーばかりだが、早朝のタクシーというのは、なぜか運転手が存在せず、タクシーという生き物がそこにいるような錯覚をおぼえるのは不思議である。
「おはよう、陳寿犬。浅野さん家はどうだった?」
「おはようございまする。相変わらず、宙に浮いたまま」
そう、と答えつつ、亮はどこかで安心している自分に気付いていた。
両親の財産をめぐる争いから、男装をして身を隠している状態で、打ち解けて話のできる相手は、これまでに存在しなかった。
陳寿犬は、犬だけれども、そしてなにやら勘違いをしている(?)ようだけれども、亮にとっては、久しぶりになんでも打ち明けられる友達であった。
とはいえ、しょげている陳寿犬を見ると、早く浅野家に帰れるといいな、と思う。家も近いのだし、これで付き合いが終わり、というわけではないのだから。
「学校帰りの弟くんを、校門で待ってみたら? 犬一匹だと、いじめられちゃうから、一緒に行ってもいいよ」
「ありがたきお言葉なれど、亮殿、今日は大事な用事があるのでは」
「ああ、そうだった。そうなんだよね」

亮は、薄曇の空を見上げて、この町は、町並みは綺麗だけれど、空気はにごっているなぁと思う。
わたしの知っている青空は、もっと突き抜けて蒼くて、海よりも蒼く、彼方まで澄んで見えた。青空だけじゃない。仙台には星空がない。ネオンに消されてしまうので、オリオンの三つ星さえみることができない。辛うじてシリウスが見えるくらいだ。
帰りたいな、と思うが、それは無理な相談だということもわかっていた。
遺産なんていらないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
いまの異常な状態も、すべてそこから始まっているのだ。

「散歩してきたら眠くなってきた。犬は夜行性だから、朝ねるのだぞ。あー、眠い。亮殿も早起きだね。あの子、本当に来るのかな?」
あくびをしながら言う陳寿犬の声に、亮は我に返った。
「来たら来たで困るけど、来なけりゃ来ないで心配だよ。ねえ、本当に記憶にない? 『夏目マナブ』って名前なんだけれど」
陳寿犬は「ハテ?」と首を傾げている。同姓同名の知り合いでもいただろうかと、亮はあれこれ記憶を探ってみたが、やはり思い当たらない。
「あの子に名乗られたとき、なんだか引っかかったんだよ。なぜだか判らないけれど。ものすごく記憶を刺激されたというか、咽喉に魚の骨が刺さったような感覚、わかるかな」
「あー、昔はちゃんと覚えていたのに、いつのまにかシナプスが消えていて、どうしても思い出せない、苦しーってやつでしょ?」
「うん、記憶に靄がかかっていて、なにかが邪魔しているんだけれど、そのなにかがわからない、っていう感覚なの」
「亮殿、女の子口調になっているよ」
「ああ、いけない。『感覚なんだよ』」
言い直してから、太くため息をつく。
「気を抜くと駄目だね。学校に行っていると、男の子で通しているから、ずっと緊張して、言葉の失敗なんて滅多にしないんだけれど、家にいると、叔父さんたちの側だから、安心しちゃうのかな」
「遺産放棄したら」
「あのね、弁護士さんを通して、なんども先方には言ったんだよ。だけれど、掟を破るわけにはいかないって、親族が大反対してさ、大変だったんだから。それで大事故が起きて、逃げて」
そして、仙台にいるのだ。かつて、駆け落ちして一族から外れていた叔父夫婦のもとに身を寄せた。叔父は、駆け落ちした相手、つまりは叔母の姓を名乗っている。
以前は相当なワルだった叔父が、まさか手堅く飲食店を経営しているとは、親族のだれも思わないらしく、いまのところ追っ手がかかる気配はない。
「うちのぶどう園、人よりは儲かっていたみたいだけれど、争うほどの財産がうちにあったとは思えないんだけれど」
「ふぅん、ご両親は、ぶどう園経営していたんだ。デラウェアとか?」
「ううん、マスカットとかアレキサンドリアとかハイベリーとか、欧州系葡萄ばっかり。房落しの作業は好きだったな。自分の理想の葡萄の形っていうのが頭にあってね、そのとおりに剪定していくの。秋になって、期待通りの綺麗な房が出来ていると、すごく嬉しいんだよ」
「高級葡萄…食べたことないな」
「昔は高級だなんて思わないで食べていたけれどね。いまはちゃんと経営されているのかな。ともかく逃げるしかなかったからな」
「遺産か。もしかして山林王だった、ということは」
「どうだろう。たしかに山はあったけれど、特に価値がある山だったとは思えないな。あ、でも道場はあったよ」
「道場? 柔道とかの?」
「ううん、剣道。昼間はね。山の神さまをお祭りしている祭壇があって、吉日には信者さんたちが集って儀式をしていたな。江戸時代よりもっとむかしから続いている道場だったから、新興宗教とはちがうんだけれど、東京や関西のほうからも人が集まっていていたから、もしかしたら、そっちで儲けていたのかもしれないな」
と、亮は腕を伸ばしながら言う。陳寿犬は、眠そうな顔をしながら、店の看板に寄りかかるようにして座って言う。
「亮どのって、漫画みたいな人生歩いているよね」
「まさに漫画だよ。男装しなくちゃいけないうえに、喋る犬が現われるわ、銀の小人に追われるわ、それに、未来を見ちゃうわ」
と、亮は、腕に填めた『アスカロン』を見る。

青葉山で見た、仙台駅が爆発する光景。あれが本当に未来なのだろうか。

「仙台駅には匿名で手紙を送っておいたけれど、ちゃんと読んでくれたかな」
「なんで爆発したかわからないから、具体性が弱い内容になっちゃったのが痛いよね。悪戯と思わないで、ちゃんと備えてくれればいいんだけれど」
「こんな地方都市にアルカイダなのかな」
「東京駅や大阪駅は警備体制がきつくて、仕方なく仙台? 迷惑だなー」
「だけれど、あのときみたアドバルーンも未来のものだとすると、12月19日、仙台ゴールデンポークスと予備売ジャイアンツの試合があるから、駅もかなりの人手があるはずだよ。そこを狙うつもりなのかもしれない。12月19日…駅に行かなくちゃね」
亮のつぶやきに、陳寿犬はあわてて足をバタバタさせる。
「テロのあるかもしれない仙台駅に? 危ないよ、亮殿にもしものことがあれば、この陳寿、蜀のみなさまにどうお詫び申し上げたらよいのか」

「陳寿犬さ」
「なんでござろう」
「正直に言ってみて。もう、わたしのこと、『諸葛孔明』だと思っていないでしょう?」
「な、なぜまた」
陳寿犬は嘘がつくのが下手である。もしも、人間のように犬にも顔色があるとしたら、その顔は、赤くなったり、蒼くなったりしていたはずである。
いまは、顔色の代わりに、尻尾が忙しく動いているが。
「なぜも何も、陳寿犬、すっかりタメ口になってるじゃない」
「そういう亮殿は、すっかり女の子口調ですな」
「こんな早朝に、人の会話に聞き耳立てている人はいないよ。本当は、違うってわかっているでしょう? 第一、性別からして違うものね。顔だって、わたしのような顔をしていた? 本当にわたしが諸葛孔明なら、陳寿犬が読めっていた本のどれかに、すこしでも反応してもいいくらいなのに、懐かしいとさえ思えない。やっぱり、人違いなんだよ」
「では、なにゆえ亮殿は、銀のヘンテコに追われているのさ」
「それはやっぱり、ジョージ先生から貰った、これのお陰でしょう。『聖剣』なんて言っていたけれど、全然、剣じゃないよね。嘘をついていたとは思えないしなぁ」
銀の、凝った装飾のほどこされたアスカロンは、朝の光に、鈍く輝いている。
「かといって、捨てられないし。形見だよね、これは。関根さんは、ジョージなんて知らない、って言うし。せめて、ジョージの奥さんにこれを渡してあげたかったな。存在するのなら、だけれど」
「関根嬢といえば、今日の約束忘れないようにしないと。貸し店舗、あのあと、すぐに見つけてきたって?」
「彼女、経営者に向いているよ。市が提供している学生向けのフリースペースを、その日のうちに確保してきてさ、あとは書類審査だけなんだって。
関根さんは学術優秀だし、店の方向性もちゃんと決まっているし、仕入先もしっかりしたところみたいだから、まず大丈夫でしょう」

そうして話をしていると、たったと軽い足音と、ランドセルが弾む、独特の、金属音と皮がぶつかりあう音がして、朝靄をかきわけるようにして、夏目マナブがあらわれた。
「あっ、よかったです。ちゃんと待っていてくれたんですね」
と、マナブは、亮と陳寿犬を見ると、ぶ厚い眼鏡の下の顔を、ぱっと輝かせた。その手には、アニメの絵柄のついたナプキンに包まれた箱を抱えている。
「ええと、みなさん、朝食はお済ですか?」
小学生なのに、ずいぶん丁寧な敬語をつかうなと感心しながらも、亮は、陳寿犬も含めて『みなさん』と括ったのがおかしくて、つい笑みをこぼす。
「まだだけれど、どうして?」
「はい。母が、こちらを持っていきなさいと」
差し出したその包みを開いてみると、中にはおいなりさんとウィンナー、卵焼きにプチトマト、彩を添えるためのパセリが入っていた。
「美味しそうだね。お母さんが作ってくれたんだ?」
「はい。師匠と一緒に食べなさいって。うちの息子をどうぞよろしくと、母から」
順番待ちになるお客さんのための赤いベンチに腰かけ、お稲荷さんを頬張りながら、亮はあいまいに頷いた。
苛められている様子が気の毒で、どこかで自分と重ねてしまったところもあるのだが、ついつい、弟子入りなんて引き受けてしまった。さてはて困った、なにをどう伝授するのかまったく考えていなかった。
「で、なにを教えてくださるんですか? 箒の乗り方とか?」
「まさか。ねぇ、本当の箒の乗り方って、ハリー・ポッターみたいにスクーターに乗るような感覚の方法じゃないんだよ」
「じゃあ、どうやって乗るんですか? 呪文だけじゃだめなの?」
「それは、十八歳未満はお断りかな…」
陰部に魔女特製の薬を塗りつけて、箒にまたがると、空を飛べるのである。
マナブは、亮の言葉を自分流に解釈し、納得した。
「ああ、普通免許と一緒なんですね」
「亮殿、詳しいね」
「昔から、民俗学っていうのかな、そういう本を読むのが好きで、迷信を科学で検証するとか、世界の神話集とか、よく読んでいたんだよ」
陳寿犬に言うと、かたわらのマナブは、目をきらきらと輝かせた。
「すごいや。いま、犬と話をしたんですね?」
「まあね」
「犬と話をする方法を教えてください! うちの近所に大きいラブラドールレトリバーがいて、その子と話をしてみたいんです」
「いや、わたしだって、普通の犬とは話ができないよ。この犬が特殊だから」
「使い魔ってやつですか?」
「わたしは魔女じゃない」
思わずむっとして声がきつくなってしまい、亮はしまった、と思った。だいたい『魔女』だって? 『魔法使い』というべきだろう。
亮がきつく否定したので、マナブはしょげるかと思いきや、ますます目を輝かせる。
「正体をあかしちゃいけないんですね。すみません、師匠。うかつでした」
「まあ、ある意味、正体は明かせないんだけれどね」
「じゃあ、その犬とお話させてください。名前を聞いていませんが、なんていう名前なんですか」
「陳承祚(しょうそ)」
「え、正式名称、それだったんだ」
「字と名の区別、ちゃんと教えたのに、亮殿、やっぱりちゃんと、オレ様の本を読んでないね? オレ様の姓は陳、名は寿、字は承祚。この場合の名、って言うのは、親しい人でないかぎり、滅多に呼ばれないものだったんだぞ」
「そうだったね、本は読んだよ。ごめん、本当に中国ってピンと来なくて」
「おかしいなぁ。やっぱり趙子龍さまのおっしゃっていたことが間違っていた、ってことなのかなぁ」
「その中国の幽霊…」
「幽霊とは決まってないよ。それに趙子龍! どうして覚えないのかなー」
「名前は覚えているんだけどね、咄嗟に出てこないんだよ。その人が、だれかと間違えていたんじゃないのかな」
亮が言うと、陳寿はむう、と唸って、なにやら考え込んでいる。
その傍らでは、マナブが目を光に照らされたダイヤモンドのようにきらきらと輝かせながら、亮を見ていた。
「陳承祚なんて、人の名前みたいですね! すごいや、どうして亮さんは犬とお話ができるんですか? ぼく、ずっと考えていたんですけれど、もしかしたら、その腕輪の所為ですか?」
と、マナブは、亮の腕に填められた、その簡素な服装には似合わぬ仰仰しい装飾の銀の腕輪を指さした。
聖剣『アスカロン』。
この子、最初に会ったときもそんなに長く話していなかったのに、観察力が鋭いな、と感心しつつも、亮は首を振った。
「これはたしかに特殊なものみたいだけれど、腕輪の力で犬と話せる、というわけじゃないみたい。試しに、これを外して話をしてみたけれど、変わらなかったから」
「試しに、ぼくにそれ、貸してくれませんか?」
いいよ、と腕輪に手を触れて、亮はふと思った。

青葉山で見た、爆発した仙台駅。あれが未来の光景だとして、腕輪の力がそれだとしたら、マナブも同じように未来を見てしまうのだろうか。
実は、腕輪を填め続けていても、あれきり未来の映像は見えない。
叔父の計画する『パワーストーンショップ』がどうなるのか、関根は叔父夫婦にどう絡むのか、それこそが知りたいことなのだが、念じてみても、未来を見ることはできなかった。
お一人様一回限り、という制限でも付いているのだろうか。
同じ映像を、腕輪を填めていなかった陳寿犬も見ていた。ということは、未来を見せる力は、腕輪を填めている人間の周囲一メートル位の範囲で、同じく作用するものなのだろうか。

試してみる? 

腕輪を抜きかけて、ふと、朝靄の中に、人影が立っているが見えた。
いけない、だれかいる。
県庁の裏手にあたるこの界隈で、早朝に動いているのは八百屋くらいのものだとタカを括っていた亮は、いつからそこにいたのだろうと思いつつ、腕輪から手を離し、相手が何者かを見極めた。
カツコツとハイヒールの音をさせながら現われた人影は、時代がかった花柄のワンピースを纏った、黒髪の外国人であった。
顎のラインにあわせて、黒い巻き毛をプードルのように膨らませてまとめており、二十世紀初頭のモガのようなクラッシックな印象を与えている。白いレースの手袋をしているために、余計に瀟洒な印象がつよい。
かといって、わざとらしさはなく、品のよいその女性の雰囲気に、そのレトロな衣裳はとてもよく似合っていた。
目鼻立ちがくっきりとしており、鼻梁が高い。スラブ系かな、となんとなく思いながら亮が黙礼すると、その女性も、にっこりと笑って、頭を下げてきた。
県庁・市庁舎・区役所とみっつの役所が集中してある地域だけに、外国人はめずらしくない。だが、こんな早朝に、まだ県庁にもだれも来ていないのに、歩いている、というのはめずらしかった。

「美人ですねぇ」
と、ませたことを言うマナブの声に、亮は我に返った。そして、ふたたび腕輪に目を落す。
正常な感覚が麻痺してしまっているけれど、いまのわたしは、あきらかに異常な状況に慣れてしまっている。
だから、未来が見えても、さほど動揺せずにすんだ。
自覚はなかったけれど、そうなのだ。
だが、マナブはまだ小学生で、しかも正常な生活を送っている。
未来なんかみて、強いショックを受けてしまったらどうする? 責任は取れるのか?

「ごめんね、これ、形見だから、人には貸せないんだ」
「そうですか、残念です。アンティークですよね、それ。純銀でしょう? すごいな、お金持ちなんですね?」
「銀…じゃないと思うけれど」
「銀ですよ。僕の父、宝石商だったんで、よくわかります。店に遊びに行くと、熱心に貴金属の扱い方とか、教えてくれましたから」
宝石商、夏目、と聞いて、亮はまたも引っかかる何かを感じたが、記憶を探り当てることはできなかった。
朝靄は晴れてきているのに、記憶はどんどん曇っていく。どこか頭でも打ったっけ?
「あ、ぼくそろそろ行きますね。青葉区小学校対抗ドッヂボール大会の朝練があるんです。遅刻すると、またいじめられるから」
「あんまり酷いようだったら、言いなよ。千台タケシとか言ったっけ? ああいうひょろひょろした子なら、わたしでも勝てそうだから」
すると、思いもかけないことに、マナブは目を潤ませた。
それを見ると、亮も心が締め付けられるように痛んだ。この少年は、長い間、だれからも優しい言葉をかけてもらえなかったにちがいない。
マナブは、泣くのをぐっと堪えて、にっこりと笑って言った。
「はい、言います。ありがとう、亮さん。また来ていいですか?」
「うん、いいよ。こっちも早起きするのに、張りがあるからね」
ありがとう、と大きく言って、マナブはランドセルをかしゃかしゃいわせて、少しずつ朝の活気を見せつつある、仙台の町の中を駆けて行った。

「まーた約束しちゃって。隠れている身のくせして大丈夫?」
と、店の入り口のマットの上で、うつらうつらしていた陳寿犬が、目を覚まして言った。
「仕方ないでしょう。わたしと話をすることで、すこしでも気が強くなれるなら、いくらでも付き合うよ」
「いじめっ子が押しかけてきたら?」
「撃退するね」
「勇ましいのはいいけれど、亮殿、目立っちゃダメだよ。遺産のこともあるけれど、銀の小人のことだって、何にもわかってないんだから」
「そうだよね。銀の小人については、調べようがないしな…なにが目的なんだろうね? この腕輪が純銀だから、なんて単純な理由じゃない気がするけれど。でも悩んでも仕方ないか。まずは、家のごたごたを片づけないと。今日の三時だったっけ? 店舗見学」
「叔母上は、パワーストーン経営には、やはり乗り気ではないようですな」
「昨日の配達員、会わなかったけど、『ヨン様級のいい男』だっけ? それが顔を出してくれたら、叔母さんも、すこしはちがうかな」
「亮殿、絶対に叔父上と関根嬢にくっついていないとダメだよ。二人になにもないとしても、叔母上が気にするんだったら、極力二人になるのを止めなくちゃ」
「陳寿犬、気配りの犬だね」
「それはもう、英霊ですから」
ほほほん、と得意そうに笑う陳寿犬に、つられて笑みをこぼしつつ、亮は店に入る。
と、またカウベルを抑えておくのを忘れた、と手を伸ばした瞬間、どこからか、声が聞こえたような気がして、通りを振り返る。が、そこにはだれもいない。
「どうしたの?」
「いま、声が聞こえた気がしたの。『最悪の日』が、どうとか」
「さっき通ったタクシーのラジオの音じゃないの?」
「そうかな…」
空耳、だろうか。カーラジオにしては、ひどく寂しげな声で、『最悪の日を阻止して』と聞こえたような。
疲れているのかな、と亮は首を振り、やがて店の扉を閉めた。

※8/26 23時から0時に訪問してくださったお客様へ。非常におもしろい誤字連発状態(置換ミス)ですみません。反省しますm(__)m

※このつづきは「新ずんだの章 3」になります

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