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B
このお話は「ゆべしの章6」のつづきです。
やらねばならない。
彼は、この『〜ねばならない』という言葉が大嫌いだ。
『早く眠らねばならない』『勉強せねばならない』『マラソンを完走せねばならない』『宿題をやらなければならない』…
そして、いまは、『盗まねばならない』。
監視カメラの位置は確認している。
ここのコンビニの店員は、いまの時間は大学生ばかりで、万引きが出るかもしれないなんて、まるで意識していない。
それどころか、客がいないときに、こっそり、カメラから隠れて、店のおでんを食べたりしている。だから、この店の監視カメラは、客を監視しているのではなく、店員を監視している。
やる気のない「いらっしゃいませー」という声に、彼は警戒して、フィギアつき菓子のパッケージを眺めているフリをする。
やって来たのは、どうやら、タバコを買いに来たサラリーマンだ。
POPレジのガチャガチャという音がして、ほどなく、感謝のまったくこめられていない「ありがとうございましたー」が聞こえてきた。
チャンスだ。
しかし、彼は、誰かが見ているような気がしてならなかった。
背中に誰かが立っていて、いまにも「おい」と声をかけてきそうだ。そいつは、なんでも知っていて、これから自分がなにをしようとしているのか、全部お見通しなのだ。
いや、そうだったら、どんなにいいだろう。
全部お見通しで、叱ってくれて、こんなバカなことはやめろと言ってくれる人がいたら。
悪いのは、言いなりになっている自分だけれど、もっと悪いのは、万引きをしろなんていってくる連中だ。
強い心をもて、なんて大人は簡単にいうけれど、あきらかに自分より強い人間が、数人も目の前にいたら、心なんてあっという間に挫けてしまう。
自分が悪いんじゃないと言い訳をするしかないんだ。
そう、自分が悪いんじゃない…
これはゲームだ(と、あいつが言った)。
こんなやる気のないコンビニ、物を盗まれて当然だ(これもあいつが言った)。
まるで、俺らのためにあるような店じゃないか。
「おい」
彼はびくっと身を震わせ、わずかな期待に振り返る。
しかし残酷なことに、そこにいたのは、ついさきほどまで夢想していた助け手などではなく、『あいつ』…千台タケシであった。
決して、体格のよくない、背ばかり高い青白い少年は、おびえる彼を冷ややかに見下して、言った。
「いつまで待たせるんだよ。さっさとやれよ」
「やっぱり、やだよ。すぐバレるって」
「いままで、誰もバレてねぇよ。ほら」
躊躇する彼の手を、タケシは強引に掴み取って、適当に目の前にある商品を掴ませる。
盗めれば、なんでもよいのである。
タケシは、商都仙台でも、このところ急激に利益を伸ばしている会社の跡取り息子で、しかも伯父さんが警察のえらい人、という、厄介ないじめっ子だ。
お小遣いは、小学生とは思えないほど貰っている。
だから、お金がないけれど、どうしてもほしい商品があるから、盗む、というものではない。
盗むこと自体が楽しいのだ。自分のために、人が、犯罪をおかすのを見るが楽しいのだ。
千台タケシに情熱はない。
暗いところで、いつも一人で、残酷な夢想をしては、家の財力と権力を背景に、それを実行に移す、そういう冷たい少年なのである。
店頭にならぶ商品というのは、人の手に渡っていないからだろうか、なぜかどれに触れても、ひんやりつめたく感じられる。
緊張して、熱をもっている指先で触れる商品は、とても冷たく思えた。
その感触が、やはりこれはいけないことなのだと、せつせつと訴えてくる。
こんなことをしたら、お母さんが悲しむ。
「やっぱり、やだよ!」
彼が反抗できたのは、勇気を出したからではない。
母の元へ帰りたい。
その一念が、口を開かせたのである。
タケシの舌打ちが耳元で鳴った。
彼が声を立てたので、さすがの店員も、様子がおかしいのに気づいたらしく、カウンターから身を乗り出してこちらを見ている。
トロトロと品出しをしていた店員のひとりが、たちあがった。
タケシは、彼に無理やり商品を掴ませると、手を引いて走ろうとした。
だが、彼はそれでも、市場に引かれることを拒む牛のように、がんばって動かなかった。
タケシは一瞬つんのめり、それから、はげしい憎悪のこもったまなざしを彼に向けて、手を離すと、店から飛び出した。
解放された。
ほっとしたものの、このまま商品を持っているわけにはいかない。
投げつけるようにして、店員に商品を返すと、彼もまた、店から飛び出した。
飛び出したものの、すぐに、どこへ行けばよいのかわからなくなった。
子供の少ない木町通りには、制服の小学生は目立つ。
さらに目立つ小学生が群になって、遠くから、
「サラ金が裏切った!」
と騒いでいるのが見えた。
彼には、それが禿げ鷹の群のようにさえ思えた。
タケシが、手下を連れて追いかけてくる。
彼は走り出した。
ともかく、待ち受ける暴力から逃げるために。
「なんだって、この本は、こんなに漢字だらけなのさ」
読んでいるだけで、漢字の海に溺れそうだ。
しかも、どうにも読めそうにない漢字ばかりが、ずらずら並んで、さっぱりなんのことやら。文章も、どうかすると内容がつかめなくなる。これは日本語だろうか。
中国語を、訳し忘れた部分を読んで、頭をひねっているとしたら、自分の能力はたいしたものであるが。
亮は、あいかわらず、登校せずに、叔父夫婦の店を手伝っていた。
いまはお客さんの少ない時間帯なので、休憩をもらって、裏口のところで陳寿犬と読書である。
しかしこの読書、陳寿犬に強制されているものなので、あんまり楽しくない。
亮は東洋史よりも西洋史のほうが好きだし、読む本も洋物ばかりであった。
しかし陳寿犬は、
「いつか絶対にピンと来る!」
と言い張って、むりやり亮に、ちくま学芸文庫の『正史 三国志 5』を購入させ、しつこく読め、読めと繰り返すのである。
亮にとって、陳寿犬は命の恩人でもあるから、その頼みを無視するわけにはいかなかったが、陳寿犬の願いもむなしく、亮はいつまでたってもピンと来ないのであった。
「つまり、漢帝国が黄色いはちまきを巻いた人たちに滅ぼされて、国が三つに分かれたけれど、すぐに統一された、って話じゃないの?」
「鉢巻きじゃないぞ、頭をまとめるターバンみたいなものを巾っていうんだゾ。鉢巻きじゃ、運動会みたいじゃん!」
と、陳寿犬は唸るように抗議した。
「でも、いま言ったので間違ってないよね?」
「略しすぎ! でもさぁ、本当にピンとこないの?」
陳寿犬は怪訝そうな顔をして、何度も首をひねった。
太い尻尾が、ぱたり、ぱたりとゆっくり床を打つ。
「亮殿、ほんとうに丞相じゃないのかな」
「だから、人違いだよ。亮っていうのも、本名とまったく関係ない名前なんだから」
そういうと、陳寿犬は、ますますしょんぼりした。
が、すぐに眉間の皺をとく。
「でもでも! もしかしたらなんかのきっかけで思い出すかも。おれ様の文章がそんなに読み辛いなら、せめて井津波子女史の解説だけでも読んでみ? 超感動するから! おれ様、『解説』で泣いたのって初めて」
「そう言ってさ、出師の表とかいう文章も読んでみたけど、これっぽっちも泣けなかったよ?」
「だって亮殿、小難しい漢字はぜんぶすっ飛ばしていたじゃん」
「もー。だから、時代背景とか人物がわからないから、感情移入できないんだってば。
おかしいと思わない? 私が、この諸葛孔明っていうひとの生れ変わりだったとして、こんなになんにも思い出さないなんてこと、ないと思うんだけど」
うー、と陳寿犬は唸り、それからぐるりと首を回転させると、ぱっと茶色の瞳を開いた。
「仕方ない」
「なにが」
「文章家だった丞相さまの癖して、むずかしい漢字が苦手っていうのも解せないけど、それならそれで仕方ないから、羅貫中のほうの『三国志演義』からリトライしよう!」
「だからさ…」
陳寿犬は今年で十六になる老犬である。
犬にも老害ってあるんだろうか。人の話を聞きやしない…
そうして亮がうんざりしつつも、『三国志演義』を購入する費用を、お小遣いのどこからだそうかと考えていると、いきなり、路地に子供が飛び込んできた。
官公庁の多い木町通にはめずらしく、黒のベレー帽に、セーラー服を模したような黒地に白いラインの特徴的な長い上着と、半ズボンという出で立ちの、私立小学校の制服を着た少年である。
縁のふとい、大きな眼鏡が印象的な、感受性の強そうな少年だ。
亮と陳寿犬に目が合ったとたん、少年は泣きそうな顔になって、その場にへたり込んでしまった。
亮はあわてて、本を店専用のポリバケツの上に置いて、少年に駆け寄る。
「どうしたの?」
咄嗟に思い浮かんだのは、仙台連続児童殺傷事件である。
今日も『たんたかタン』には、牛タン刑事平塚八兵衛がやってきて、麦飯をほおばりつつ、店を見張っている。
呼んでこようと店のほうに向いたとたん、ぜいぜいと息を切らせた少年は、か細い声で言った。
「たすけて…ください」
「いたぞ、サラ金だ!」
傍若無人な声に、亮が顔を上げると、やはり、少年と同じ制服を、窮屈そうに着ている少年たちであった。
亮はひと目で、状況を理解した。
つまり、いじめっ子といじめられっ子、というわけだ。
隣では、陳寿犬が四肢を突っ張らせ、闖入者である少年たちに牙を剥いて威嚇している。
子供たちは、路地に少年を追いつめたはいいが、無人だと思っていたそこに、長身の少年と、不恰好だが、噛み付いたら、スッポンのようにしつこそうな犬がいるのにおどろいて、それまで浮かべていた、残酷な笑みを引っ込めた。
が、彼らの中心にいる、最初から笑みのひとつも浮かべていなかった少年は、前に進み出ると、怖じることなく亮をまっすぐ見て、言った。
「そいつ、ぼくの友だちなんです。渡してもらえますか」
亮は子供が好きだ。いや、もっと広い範囲で、人間が好きだ。
いろいろと残酷な目にも遭ってきたが、人を好きなることをやめることはない。
だが、目の前にいる、妙に無機質で、表情のない目をした少年を見たとたん、亮は怒りにも似た嫌悪感をおぼえた。
なぜかはわからないが、この少年に近づいてはならないと警告する声と、負けてはならないと奮起する声が、同時に亮の心の中にに沸き起こった。
そして、慇懃無礼という言葉がまさにぴったりな少年にむけて、問う。
「『渡す』ことはできないよ。きみたち、学校は?」
「テストなんで、早いんです」
ああ、そういえば、うちもテストが近いんだっけ、と思いつつ、亮は少年たちに言った。
「この子をどうするの? 鬼ごっこをしている、っていうふうじゃないね?」
「あなたには、関係ないと思います」
「そうはいかない。『助けて』って、頼まれたからね。それに、サラ金なんて、ずいぶんなあだ名だね。本名じゃないでしょう?」
すると、子供たちはなにがおかしいのか、くすくすと忍び笑いをした。
それがまた、亮の苛立ちを深める。
「そいつの親父、サラ金に追われて失踪したんですよ」
「そう。で?」
で? と言い返されて、子供たちは笑みを引っ込め、戸惑った顔になった。
「こいつんちのおばさん、超見栄っ張りで、借金だらけのくせに、こいつを俺たちの学校に通わせているんですよ」
「だから?」
「だから…おかしいでしょう」
「いったい、なにがおかしいっていうの? お父さんが失踪したから、なんなの? だから、この子をいじめていい、っていう理由にはならないでしょう?」
「いじめてなんかないですよ。ちょっと遊んでいただけです。そうだよな、マナブ」
マナブ、と呼ばれた少年は、びくりと身を震わせ、その声に応じるかのように顔をあげ、肯こうとする。
その直前に、亮は怒鳴った。
「マナブ! 答えるな!」
そうして、子供たちのほうに向き直り、さらに腹に力を込める。
「人を愚弄するのもいい加減するがいい!」
すさまじい声だった。
雷鳴にも似た声が、ビルとビルのわずか二メートルにも満たない空間に反響して、いつまでもこだました。
亮自身も、じつは、自分がこれだけ声を荒げたことに、驚いていた。
こんなふうに誰かに声をあげたことはない。いや、遠い昔にはあったかもしれないが…
ふと、銀色の人々の波と、旗指物が、きらきらと陽光を受けて、銀の海をゆく舟のようになっている光景が、まざまざと目の前に浮かんだ。
なんだろう、これは。
青葉山で見た、カーテンの閉ざされた暗い部屋の幻とはちがう。
限りなく輝かしい光景である。運動会、だっけ?
亮は、刺すような視線を感じて、幻想から現実に戻ってきた。
目の前の少年は、怯えてはいるものの、双眸に憎悪を宿らせている。子供であるから、その憎悪ははげしいのか。無表情なよりは、ずっとこのほうが相手にしやすいな、と亮は思った。
だが、それは表面には出さずに、うろたえている子供たちを、じっとにらみつける。
なぜだか、小学生で、まだ子供の彼らに、ひどく腹が立った。
子供たちの『いじめ』という行為自体にももちろんだが、なによりも、本気で怯えている少年に対し、彼らが遊び半分でいることが、どうしようもなく腹が立った。
「この子は渡さない。わかったら、さっさと私の前から消えるがいい!」
亮は、無意識のうちに手を振り上げていた。
それはちょうど、ジョージが『聖剣アスカロン』だといった、例の銀色の腕輪のはめられた手であった。
「こいつ、やべぇ、殴る気だ」
少年の一人が言い、路地から逃げていく。
亮のほうは、殴るつもりはまったくなかったが、子供たちは、仲間の声に同意したらしく、一人が逃げてしまうと、怯えた顔をして、つぎつぎと亮たちの前から逃げて行った。
子供たちが行ってしまうと、気が弛んだのか、マナブ少年は、嗚咽を洩らして泣き出した。
亮は、少年の、声を殺した鳴き声を聞いて、この子は、人に気づかれないように泣くのに慣れてしまった子だな、と深く同情した。こんな泣き方をする人を、たくさん知っていた。
その、聞くものの気持ちをどん底に落とす、悲しげな泣き声に、怒りがゆるゆると消えていった。
かといって、よいことをしたという達成感もない。
どうしようもない、やるせなさだけが残る。
陳寿犬は、泣いているマナブ少年を慰めるようにして、懸命に、涙の落ちるその頬を舐めていた。
ふと、光景が浮かぶ。
また幻である。
閉めきられたカーテン。絶え間なくつづくモーター音。
淀んだ空気。清潔だけれど、時間の止まった部屋。動きのなくした部屋。
介護用ベットに横たわる者と、それを守るようにして蹲る…
「亮殿、だいじょうぶ?」
陳寿犬の声に、亮は夢想を破られた。
思わず額に手をあてて、首を左右に振る。
つづけて白昼夢とは、疲れているのかな?
「私はへいき。それより、そっちの子、だいじょうぶ?」
亮の声に、マナブ少年は、しゃくりあげながらも、うなずいた。
「余計なことだったかな。あいつら、きみと同じ学校だよね? またいじめられちゃうかな。ごめんね」
「亮殿、いまはそんな余計なことを言わなくていいよ。こういうときは、泣かせてやるのが一番」
と、陳寿犬は言って、今度は、自分の白い体をマナブ少年に摺り寄せた。
陳寿犬はこのところ店に出るので、ほとんど毎日のようにシャンプーをしてもらっていたので、全身がぬいぐるみのような手触りなのである。
頑固な老犬の思わぬ優しさに、感動しつつ、亮は言った。
「陳寿犬、面倒見いいね」
「うーん、おれ様の弟と同じ年だからかなぁ。きっと六年生だよ。バッチでわかるもん。おれ様の弟は公立だけど、この子の学校、お受験を突破しないと入れない、M教育大付属学院だよ。弟の学校とは、ドッチボール大会で交流あるんだよ」
「へえ、学年ごとにちがうんだ、バッチ。私立はちがうねー」
「いじめがないのが、私立のいいところ、なんてお母さんが言っていたのに、やっぱり水面下じゃあるのか。ううむ、現代日本のゆがみは、子供たちにまで」
「『いじめ』問題は、なにも現代日本に限ったことじゃない気がするけどね…」
六年生には見えない小柄なマナブ少年は、ふと、顔を上げると、涙に濡れた分厚い眼鏡の向こうから、ぱちくりと目をしばたたく。
「犬と話ができるの?」
しまった、と、亮は自分の迂闊さを叱った。
陳寿犬と亮の会話は、ほかの人間には、亮が一方的に犬に話しかけているようにしか見えないのだ。
嘘はつきたくないけれど、さあて、どうやって誤魔化すかな…
だが、マナブ少年は、きらりと顔を輝かせる。
「すごいや、魔法使いみたい! その犬、もしかして使い魔?」
「使い魔…というか、なんというか、なんなんだろうね」
それは亮の思う、本当のところである。
マナブ少年は、ますます目を輝かせ、亮に言った。
「ねえ、魔法を教えてよ! ぼく、よく、お母さんにハリー・ポッターに似ている、って言われるんだ。だから、きっと魔法をすぐ覚えられるよ!」
亮のみたところ、マナブ少年とハリー・ポッターの共通点は、眼鏡と黒髪だけである。
しかし、マナブ少年があまりに真剣なので、笑うことはできない。小学校六年生にしては幼い言葉であるが、その純粋さに、亮は好感をもった。
「期待を裏切って悪いけれど、魔法使いじゃないんだ。犬の言葉だって、この犬の言葉しかわからないんだよ」
「でも、わかるんでしょう? すごいよ! ねえ、なんでもするから、魔法を教えてよ!」
「困ったなぁ…魔法なんて、本当に使えないんだよ。そうだな、ケンカなら教えられるかも」
と、言うと、となりに居た陳寿犬がぎょっとする。
「へ? 亮殿、喧嘩なんてするの?」
「剣道は段を持っているし、柔道は黒帯だよ」
必要にかられて、必死に習ったものだ。
運動神経は悪くなかったので、比較的短い時間に技術を習得できたのが、ひそかな自慢である。いまだって、時間を見つけて、腹筋運動や腕立て伏せをしているのだ。
「剣道と柔道ができたら、魔法を教えてくれるんだね。わかった。ぼく、がんばるよ!」
「え? そういう話じゃないよ?」
しかしマナブ少年は、自分の思い付きに夢中になっているらしく、まったく耳を貸さない。
「ぼく、夏目学って言います」
ナツメマナブ。
なんだろう。なにかが引っかかる。
ナツメマナブ…なにかが。
「師匠は、なんていう名前ですか?」
「わたし? ああ、樽宮亮」
「タルミヤリョウさんですね! 覚えました。さっそく、いまから稽古をお願いします!」
「待った。こっちはこれから仕事なんだ。お昼はランチのお客さんがたくさん来るからね。それじゃあ、明日の朝、六時にここにおいで」
「ハイッ!」
とても元気のよい挨拶をすると、マナブ少年は、ぺこりと頭を下げて、大喜びで走り去って行った。
「…いいの、亮殿。あんな約束して?」
「仕方ないよ。だって、そういわないと、あの子、すごくガッカリしただろうし。それに、犬と話せるのは本当でしょう。キミ限定だけど」
陳寿犬は、なにか引っかかるらしく、うーむと唸っていたが、やがて『たんたかタン』がもっとも忙しくなる時間帯に入ったので、その話は、それきりとなってしまった。
亮が店に戻ると、ひと騒動起きていた。
いつもは仲のよい叔父と叔母が、口論をしていたのである。
亮と陳寿犬は顔を見合わせ、二人のところへ向かう。
空気があまりにぴりぴりしているために、せっかくの昼飯時だというのに、お客は店の入り口に立っただけで、危険を察知するのか、さっと踵を返してしまう。
店にいりびたっている平塚八兵衛さえ、いつもは店内にあるTVの「午後は○○おもいッきりTV」を見ながら、がつがつと麦飯を頬ばる時間だというのに、今日は、冷めかけたテールスープの椀を片手に、仲裁に乗り出すか、乗り出すまいか、決めかねている様子であった。
叔父は、顔を赤くして、叔母に「わからずや!」と言い、叔母は、つんと顔をそらして、「お調子者!」と言う。
そうして二人の間には、なぜだか関根がいるのであった。
「関根さん? 学校は?」
声をかけると、関根は、長い黒髪を、ラックスのCMのごとき優雅さで、さらりと動かして振り返った。
関根の神秘的な魅力は、振り返る直前までが最高だ。
「テスト前だから、午前で終わりなの。あなた、ちゃんと勉強しているんでしょうね?」
「しているよ…少しだけど」
「少し?」
「それはいいから、叔父さんと叔母さんは、どうして喧嘩をしているのかな?」
亮が問うと、それは、といって、関根は、らしくもなく口ごもる。
関根が答えてくれないので、亮は、八兵衛のところへ行った。
「どうしたの?」
あれだ、といって、八兵衛は、店の入り口付近に、どん、と置かれた大きなダンボールを指した。
新品のダンボールには、『集客力アップ! 仙台硝子工房のショーケース』とあった。
「お土産用の牛タンの店頭販売に手をだすつもりなの? 伊達の牛タンには負けるから、よせって、あれほど言ったのに」
「ちがう、あのショーケースは、パワーストーンとやらを売るためのものだそうだ」
「だって、あれは牛タンと石じゃ、胆石を連想させてイメージが悪いっていって、叔母さんが反対して、とりやめになったんじゃないの?」
「ならなかったから、喧嘩になったんだ。しかもあのショーケース、31万もするそうだが、樽宮氏は、『仙台っ子の買い物は、こうだ!』とか言って、ローンを組まずに現ナマで買ってしまったらしい」
「31万円!」
仙台におけるクレジットカード普及率は、全国ワースト1ともいわれる。
それは、仙台における『伊達文化』の所以で、高価な買い物も、現金でするのが粋だ、という考え方があるためである。
「それじゃあ、叔母さんは怒るよ。で、なんで関根さんがここにいるんだろう?」
「あのショーケースを選んだのが、君の同級生なんだそうだ」
「あー」
叔母は、一見すると、顔をそらしているだけで、怒っていないように見える。
だが、ああいう無表情なときが怖いのだ。腸が煮えくり返っており、爆発するのをじっと耐えているのである。
「フリンの匂い…」
ぼそりと陳寿犬がつぶやくのを、亮が聞きとがめる。
「不倫だなんて、嫌なこと言わないでよ」
すると、素早く関根が反応した。
「邪推はやめてちょうだい! わたしは純粋に、叔父様を信頼しているのよ!」
「はあ…」
ますます邪推したくなる勢いに、亮はうろたえつつも返事をする。
視界の隅に映る、叔母の眉間に、皺が生じたのは気のせいではあるまい。
「いま、仙台は空前の石ブームなのよ! これに乗らない手はないわ! さいわい、わたしたちに良質な石を卸してくれるっていう、神様みたいな問屋も見つかったし! 金のエアヘッドを日本から追い出すためにも、わたしたちは立ち上がらなくちゃいけないのよ!」
平成の日本において、攘夷論を叫ぶ女、関根。
しかし、金のエアヘッドこと、メアリと、関根の間に、いったいなにがあったというのだろう。
「メアリって、パワーストーンの店を経営してるの?」
「ちがうわ。経営をしているのは、正しくはメアリの友だちのヨーコとかいう、千台学院の女王気取りの女の親族よ。とはいえ、メアリの意見がだいぶある、という噂だけどね。
まったく、いけ好かないったらないわ。あいつらときたら、自分たちがいちばん美人だと思っていて、ひとに平気で言葉の暴力を浴びせかけてくるのよ。わたしのことは、見てくれが悪い、みたいなことを言ってきたけれど、気にしないわ。ともかく、連中を日本から追い出すことが、わたしの使命よ」
「気持ちはわかるが、『ブス』と言われたくらいで、そんなにいきり立つことはないだろう。そもそも怒りからはじまった事業なんぞ、長続きしない気がするぞ」
「『ブス』!」
関根の声がひっくり返る。
喧嘩中の叔父と叔母も、刑事の癖してデリカシーのかけらもない八兵衛の言葉に、顔色をかえた。
おそらく、八兵衛は牛タンを食べ過ぎてしまったので、脳みそまで牛タンになってしまったのだろう。
「あんたもそう思っているのね、このデクノボー! 知ってるのよ、アンタが仙台連続男児殺人事件で、個人プレーが多すぎるっていうので、担当から外されたって話!」
「ええ!」
叔父夫婦と亮と陳寿犬は、すっかり冷めたテールスープを、場を繕うためか、むりやりすすっている八兵衛に視線をあつめた。
叔母が、納得した、というように、うんうん、と肯きながら言う。
「そうよねぇ、市民団体の、公務員の活動に対する監視がこれだけ厳しくなっているなかで、ずいぶん自由にしているなぁとは思っていたのよ。仕事、仕事って言いながら、毎日うちの牛タン定食を食べているばっかりでしたものねー。再就職先は決まったんですか?」
「免職になったのではありません。担当から外されただけです」
と、さらに麦飯をおかわりしようとする八兵衛に、すかさず亮が追い討ちをかけた。
「例の事件の犯人の目撃者が出たから、あなたがここで、叔父さんを見張っている意味がなくなって、それで怒られたのでしょう?」
気の毒な関根の仇をうつべく、亮が指摘したのを聞くや、叔父は激昂し、八兵衛に詰め寄った。
「なんだとぅ、このうっかり八兵衛! オレを疑ってやがったのか!」
八兵衛は動じず、掴みかかろうとする叔父を宥める。
「疑うのが俺の仕事だ。いまは疑ってない。ただ、犯人がこの店に、なんらかの形で出入りしている可能性はあるので、張り込んでいるんだ。それと、うっかり八兵衛はよせ」
「うるせぇ! もうお前のために牛タンは焼かねぇからな! 一切れだって焼いてやらねぇ! 牛の尻尾の毛先の枝毛ほどもだ!」
「牛の尻尾に枝毛ってあるのか?」
「やかましい! おまえに発言権はないぞ、八兵衛! とっとと出てけ!」
八兵衛は、一般人に怒鳴られることに慣れているらしい。
というよりも、よそでも、怒鳴られるようなことばかりを、しているのかもしれない。
叔父の剣幕に、それでも動じる様子もなく、やれやれ、と言いながら、表に出ようとする。
そうして、言った。
「店の入り口に、しばらく立たせてもらうぞ」
「邪魔だよ。カーネル・サンダースならともかく、あなたが店の前に立っていたら、みんな怖がって近寄らないよ」
と、これは亮。
「では、ここにいるしかあるまい」
八兵衛は、またも堂々と、さっきいた席に座ろうとする。
すかさず叔父が出ていけ、と怒鳴り、もうなにがなにやら、わからなくなってしまった。
があがあ、わあわあと喚く叔父をよそに、あくまで冷徹な八兵衛は、叔父の体から、ひょいと顔を出すようにして、店の片隅で、いまだ落ち込んで、憮然としている関根…ほかならぬ、彼が落ち込ませた少女に向けて、尋ねた。
こうなると、この男、刑事になるために生まれてきたのだと言えないだろうか。
「しかしな、一介の女子高生のきみが、なぜ俺が事件の担当から外されたことを知っているんだ?」
関根は、この騒動のなか、もしかしたらすこし泣いていたのかもしれない。縁の赤くなった目をちろり、と八兵衛に向けて、言った。
「言ってたから」
「だれが?」
「メアリの友だちの、千台ヨーコとかいう女。あいつ、よその生徒のくせに、うちの学校に平気で入り込んで来て、事件の裏情報みたいなのをみんなに流して、得意になっているのよ。罪のない男の子がいっぱい死んでいる事件なのに、不謹慎だと思わない?」
「千台…?」
八兵衛は、しばらく考えていたが、やがて思い当たったらしく、渋い顔をして、ああ、と言った。
「また千台か…」
なにやら、警察内部でもいろいろと、ごたごたがあるらしい。
自身の身の上のややこしさもあ。
亮としては、これ以上の面倒に巻き込まれたくはないので、黙っていた。
ごたごたしている間に、叔母の姿がない。
とうとう怒って、奥に引っ込んでしまったのかと、心配した亮であるが、そうではなかった。
やがて戻ってきた叔母は、さきほどとは打って変わって、にこにこと晴れやかな顔であった。
「どうしたの?」
叔母は、うふふ、と意味ありげな顔をして、言った。
「業者さんが来ていたんだけど、いつもの人が、今日は体調不良でお休みなんですって。で、代わりの人が来たんだけど、これがまた、えらくイイ男なのよー」
「へえ? どれくらい?」
「ヨン様級かしら。日本人じゃなさそうだったわね」
日本人ではない、と聞いて、すかさず八兵衛が立ち上がる。
「金髪巻き毛の外人男性では?」
「外人を捜しているなら、駅前留学でも行ってくればいいじゃねぇか」
叔父の茶々も無視して、八兵衛は、己の職務に厳しい刑事の顔を取り戻し、叔母に詰め寄る。
「そして、蛇のような鋭い目をしていませんでしたか」
「たしかに目つきはちょっと鋭かったけれど、東洋人だったわ。日本語は流暢だったわよ。中国人か、韓国人じゃないかしら。
あー、イイ男見たら、もうなんだか全部ばかばかしくなっちゃった。石でもなんでも好きにすれば? ただし、店の中で売るのは駄目よ。貸し店舗でも捜して、お小遣いでなんとかできそうなら、そこで売ってもいいわよ。
そのかわり、こっちがあくまで本店ですからね。ここが混む時間は、なんであろうとこっち優先にしてもらいますからね。それでいいでしょ?」
「お、おう」
「さあて、せっかくのお昼の時間にお客を逃しちゃったから、これから取り戻さないと。あなた、ショーケース、夕方までになんとかしてくださいな」
「なんとかって…ほかに置く場所ないんだよ」
「それじゃあ、がんばって貸し店舗を捜してらっしゃいよ。わかったわね。さー、仕事仕事。亮ちゃん、手伝って」
もともとさばさばした叔母は、いい男を見たことで、あっさりと気持ちが切り替わったらしい。
条件付だが、ショップの許可をもらい、叔父はかえって、叔母の言いなりになるより、ほかはなくなってしまったようだ。
なんだかんだいって、駆け落ち同然に実家を飛び出して、ほかの誰の助けも借りず、ここまで二人きりで、苦労して店を切り盛りしてきたのである。
そんな叔父にとって、叔母は絶対的な存在なのだ。
そうして言葉を出せないでいる叔父を見て、関根が複雑そうな、寂しそうな顔をしている。
貸し店舗、ということは、関根と叔父が二人きりになる可能性が高くなる、ということではないだろうか。
叔母はあっさり許したが、本当にそれで大丈夫なのだろうか…
まだまだ揉めそうな予感がするなあと、亮は思ったのであった。
※このつづきは「ゆべしの章7」になります