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このお話は「仙台ゴールデンポークスの章11」のつづきです。
五橋の非常階段を降り、地上に戻ってきたラ・ピュセルは、イスメトが言ったとおり、五橋会館の角を、とぼとぼと、こちらに向かって帰ってくる白い犬を見た。
その背後を、救急車やパトカーが地下鉄東西線五橋駅にむかって、派手にサイレンを鳴らしながら、通り過ぎていくのが見える。
白い犬は、ラ・ピュセルの姿を見ると、歩みをはやめた。
白い毛並みは、『たんたかタン』の店頭に出るために、ほとんど毎日シャンプーをしていたのだが、なにがあったのか、いまは煤けてしまっている。
「どうだった?」
ラ・ピュセルが尋ねると、陳寿犬は、胴体に見合わぬ長さの、キツネのように長い尻尾を垂れて答えた。
「駅の構内までは追うことができたのだけれど、連中め、途中で姿が消えちゃって」
「どういうこと? 列車には乗らなかったの?」
「そう。まさか追われている身で、悠長に切符を買うなんてことはしなかろうとは思ってたけれど、、まさか、消えちゃうとはなー」
陳寿犬の話は、こうである。
ラ・ピュセルの指示どおり、深追いはせず、行く先を見定めるため、陳寿犬は、シグルトとメアリを追ったのであるが、朽ち果てた身となりながらも、メアリの足は以外に速かった。
五橋駅の地下鉄通路は、五橋会館の前にある入り口から入ると、構内へは、200メートル以上ある長い通路を通らねばならない。通勤ラッシュというのならばともかく、平日の昼間となれば、利用客もすくなく、静かなものであった。
利用客がないことが、この場合、陳寿犬と、そしてシグルトたちにも幸いしたのである。
見咎められることなく、彼らはひたすら構内に向かって走っていく。陳寿犬は、彼らも。が切符を買って行儀よく電車に乗るような社会性はなかろうと判断し、すべりにくい茶色のタイルの上を、懸命にツメをたてて走った。
改札口を強行突破するだろう。そうして、構内に下りていくだろう。地下鉄には、ホームがひとつしかない。北の泉中央か、それとも南の長町か、どちらに向かうかを確認するのだ。
ところが、シグルトたちは、陳寿犬を気にしながらも、意外なことに、あっさりと改札口を通過した。
『しまった、地下鉄を利用すると見せかけ、やはり地上でタクシーを拾うつもりでは?』
構えた陳寿犬であるが、シグルトとメアリがちょうど、切符売り場の前を通り過ぎたときである。
仙台の地下鉄は、築年数が、東京都などの地下鉄と比べれば新しく、掃除も行き届いている。そのなかで、雑多なポスターもなく、綺麗なままの壁が、まるでゴムを捻じ曲げたように、たわんでいる。
『ハテ?』
老眼かしらん、と疑った陳寿犬であるが、まるで風をはらんだ帆のようにたわむ壁は、ただ、たわんでいるだけではないことがわかった。
帆というよりは、まるで、臨月をむかえた妊婦の腹のようである。
壁の内側(何も空間がないはずである)に、なにかがいて、外にでるためにもがいているように見えた。
やがて、内側から、中にいる何者かが、体当たりをしているのがわかった。
まるで、壁が、薄い幕に変化してしまったように、内側の何者かの形が、浮かんで見えるのだ。
どん、どんと、ボーリング作業をしているような、不気味な地響きが構内に、振動とともに伝わる。
この正体不明の物音に、利用客はもちろんのこと、駅員も、駅員室から出て、外を探っている。
しかし、このあからさまな壁の異常には、だれも気づかぬようであった。
『オレ様しか見えてない?』
壁の異常に気圧されて、思わず足を止めてしまった陳寿犬であるが、切符売り場を越えて、シグルトとメアリが、左手に向かって、角を曲がっていったのがわかった。
『市立病院側の出口から、外に逃げたのか?』
あわてて後を追おうとすると、どん、どんと、壁を打ち破るような音は激しくなり、陳寿犬が、不気味な壁の変化を気にしつつ、シグルトたちを追おうとするのとほぼ同時に、なかから、例によって、さきほどビルで襲ってきた、ひとつ目巨人が、轟音をたてて、壁を打ち破ってあらわれた。
『んなー!』
土くれと、割れたタイルの破片が、陳寿犬に、雨のように降り注ぐ。
土ぼこりをぬって、巨人から放たれる異臭が、犬の嗅覚を襲った。
思わず咳き込むと、ひとつ目巨人は、陳寿犬のほうに、そのヤニに覆われた不潔な目を、ぎろりと向けてきた。
「ヤバ!」
ひとつ目巨人は、狙い定めることもなく、陳寿犬のほうに向かって、拳を打ち下ろしてくる。
その威力はすさまじいものの、速さはそうたいしたことはない。陳寿犬は身をひるがえし、拳を避けた。
どん、と、まるで鉄球が地面に落ちたような不気味な鈍い音がひびく。
まともに喰らったなら、ぺしゃんこどころの話ではなかろう。
陳寿犬は、ちらりとシグルトたちの消えた角の方を見た。が。
「おんや?」
騒ぎをききつけて、地上からも、地下にむけて、人が集まった。
しかし、彼らが現われた市立病院がわの昇降口は、シグルトたちが曲がった角よりも、まだ先にあった。
陳寿犬は、巨人に気をつけつつ、シグルトたちの消えた角まで、一気に走ったが、たしかに彼らが曲がったはずのその道には、なにもなく、ただ壁があるだけであった。
『さっきのビルみたいに、隠し扉があるのかもしれない』
と、思ったものの、調べている余裕はない。
駅員室から飛び出した駅員が、携帯片手に、
「壁が崩落しました! 南1側の壁です!」
と叫んでいるのが聞こえた。
『あの巨人も、オレ様にしか見えていないんだ』
どういうカラクリなのかを考えている余裕もなかった。
巨人は、身体を猫背にまげて、消えた陳寿犬を探している。
ばらばらと崩れたタイルが、白い砂塵をあたりに巻起こしており、利用客が咳き込んでいるのが見えた。
駅員が、あわてて利用客を誘導しようとしているのだが、そのなかで、なんというタイミングの悪さか、巨人が現われた壁の、すぐ正面にあったトイレからあらわれた老女が、砂塵をまともに吸い込んでしまったらしく、身をかがめて、激しく咳をはじめた。
その声に、巨人の注意が向く。
ハンカチで口を覆い、老女は、はげしく咳込んで、動こうとしない。
『いかーん!』
陳寿犬は、とっさに、義経の八艘飛びもかくやの跳躍力を見せ、ふたたび巨人の前に立った。
そして、老女から注意をそらすため、四肢をふんばらせ、野太い声で、バオン! と吼えた。
巨人の目が、陳寿犬のほうに向く。
とはいえ、そこからどうしたらよいのか、陳寿犬にはまったく思い浮かばない。
生前でさえ、筆と言葉を武器にして生きてきて、その戦場は机の上。
生身の肉体でもって、戦ったことなど、子供のころくらいのものである。
まして、相手は、正体のわからぬひとつ目巨人。
武器すら持てぬ犬の身で、どうして戦えというのやら。
牙で咽喉笛を噛み切るにしても、咽喉笛があまりに高い位置にありすぎたし、たとえ決まったとしても、あの野太い腕で振り解かれてしまったら、ただではすまないことは、簡単に判った。
想像して!
ぱっと、光明のように、先刻の聖剣をもつ少女の声が頭に響いた。
しかし、陳寿犬は反駁する。
想像するって、なにをさ!
巨人が、こちらに向けて、ふたたび拳を振り上げるのが見えた。
老女のほうをちらりと見れば、近くにいた男子学生たちが、助け上げようとしている。
いかん、いかん、いかん。
普通に見れば微笑ましい光景ではあるが、オレ様にとっては、みんなを助けなければいけない、ということだぞ。
ゆっくりと、スローモーションのように、拳が打ち下ろされようとしている。
こんなのと、戦えないって。
オレ様がぺしゃんこになったら、こいつも消えるかもしれないけれど、それじゃあ、オレ様があんまり気の毒だろうが!
悪いのは、この死人みたいに肌の色のわるい、ひとつ目巨人だ。
こいつさえいなければ、オレ様だって、みんなだって、生き延びることができるわけだからして、こいつが消えてしまえばいい!
消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろー!
陳寿犬がとっさに懸命に念じると、おどろいたことに、それまでくっきりと輪郭のあらわであった巨人の体が、ビデオの画像が揺れているように、ぐらりと崩れた。
『はへ?』
思わず、長い下をべろりと出して驚いてしまうが、しかし、油断していると、ふたたび巨人の体が元に戻ってしまう。
「だあ! 消えろって!」
陳寿犬が叫ぶと、ふたたび巨人の姿は揺らめき、どころか、肉体そのものが、透明になっていく。
巨人は、己の体の異常に戸惑っているようで、何事が起こったのかというふうに、周囲を見回している。
消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、オレ様の前から!
でも、どこへ?
そんなさりげない小さな疑問が、ふと沸いたとき、陳寿の脳裏にあったのは、ラ・ピュセルと別れたマンションの映像であった。
見えない狙撃手のひそむ、世にも物騒なマンションだ。
目には目を、歯には歯を。
消えちゃえ!
「BOWBOWBOWBOW!」
陳寿犬の小柄が体からは想像できないほど、威圧的な声が、五橋駅のなかに響き渡った。
とたん、それが魔法の呪文であったかのように、一瞬にして、巨人の姿は掻き消えた。
「オレ様、すごい!」
と、達成感にひとり沸く陳寿犬であったが、老女の介抱をしていた男子学生が、
「犬が入り込んでいる!」
と、陳寿犬を指差して、捕まえようとしてきた。
おそらくは、瓦礫で怪我をさせたら可哀想だという親切心からだろう。
心だけはありがたく受け止めるとして、ここで捕まってはおられない。
『本当は表彰モノなのになー』
ぼやきつつ、陳寿犬は、男子学生の手を逃れ、駅員や、ほかの利用客が驚いている隙に、ふたたび五橋会館側の出口より、ラ・ピュセルのもとへ戻ってきたのだった。
「そうだったの、お手柄だったわね。ほかに、怪我人はいなかった?」
「見たところ、だれもいなかったみたい。しかし、シグルトとメアリの行方は、杳として知れず、申し訳ござらぬ」
ぺこりと頭を下げる陳寿犬に、ラ・ピュセルは、あわてて手を振って言った。
「謝ることはないわ。あなたが無事なのが一番だもの。それに、ずっと年下のわたしに、頭を下げてくれなくていいわよ。シグルトたちが、地上に出たかどうかは、わからなかったのね?」
「もしや、北欧風味な土遁の術の心得でもあるのかな?」
「どうかしら。だいぶ霊力が失せて弱っていたようだから、土に潜るなんて面倒なことは出来ないと思うわ。
たぶん、地下鉄駅構内に、一般の知らない出入り口があるのじゃないかしら」
「謎の出入り口ってこと? 東京駅とかには、地下が核シェルターになっているとかいう噂があるけれど、仙台にもあるのかなー?」
「あっても不思議じゃないわ。たとえば、この国の天皇陛下が来仙したときに、たまたま地震が起こったら、あらかじめ逃げる場所がないと困ってしまうじゃない?
ほら、江戸時代にも、伊達政宗が、徳川家の将軍や天皇が来仙したときにくぐってもらう門や座敷を、城の中に作っていたじゃない。あれと同じ感覚よ」
「なるぺそ、貴人専用の秘密の抜け道のようなものか。けれど、シグルトが、なんだってそれを知っていて、使っているのかな?」
「協力者がいるのだと思うわ。レティクル側、つまりは千台家ね。地下鉄の工事を請け負った業者のなかに、千台家と繋がりがある企業があるかどうかを調べれば、すぐに判ることだと思う」
「またまた千台家かあ…ところで」
と、陳寿犬は、威儀をただして、きちんとお座りをし、目の前の、亮の姿を借りた、金の髪の少女の魂に言った。
「あらためて、お礼を申し上げまする。この陳承祚、ご恩は一生忘れませぬ…って、一度終わっているわけだけれども、とりあえず、オレ様としての意識が残っているうちは、ずっと」
「ありがとう、うれしいけれど、でも、わたしはあなたを守りきれなかったわ」
少女の言っているのは、K杉山小学校での、孔明との斬り合いのことである。
孔明のことを思えば、陳寿の心も複雑であったが、いまは、あえてそれを振り切って、あらためて言った。
「シグルトやメアリや巨人からは守っていただきました。このご恩はいずれお返しいたします」
ぺこりと頭を下げると、少女は、悲しいような、困ったような、複雑な表情を浮かべた。
「あなたは、ほんとうにいまは、何もかも忘れてしまっているのね。でも、そのほうがいいのかもしれない」
「はひ?」
「あらためて、私も名乗りましょう。ジャンヌ・ラ・ピュセル。この世界を、あなたと一緒に守るために召喚されたアトラ・ハシースよ」
「あとら・はしーす? ビルの中でもそんな話をしていたけれど、なんのこと?」
ラ・ピュセルは、陳寿の問いに、あいまいな笑みを浮かべるだけにして、ちがうことを口にした。
「アトラ・ハシースは世界の守り手ということ。じきに意味がわかるわ。それよりも、そろそろ、ここの結界が閉ざされてしまう。行かなくては」
「あ、そうだ、さっきの狙撃手、どうしたの?」
「話をつけたわ。でも、いまは、彼は敵でも味方でもない。結界が回復する前に、ここから去らなくてはいけないの。結界が元に戻ったら、また彼は攻撃してくるわ」
「物騒なヤツだなー。何者さ。平塚八兵衛に通報しちゃおうよ」
「大丈夫よ、彼が攻撃するのは、わたしたちアトラ・ハシースやアストラルだけなの。急ぎましょう。もうだいぶ時間が経っている」
「移動はいいけれど、どこへ? 五橋駅へ戻ってみる?」
ラ・ピュセルは、いいえ、と答えて、一番町のほうへと踵を返した。
「木町へ戻りましょう。叔父さんたちが帰っているかもしれないでしょう? 銀の小人たちは、霊力を元に追撃してくるの。叔父さんたちの持っている石に寄って行ってしまったかもしれない。
石は、木町にもすこし残って置いてあったはずよ。二手に分かれたほうがいいわ。わたしは、木町へ戻って、叔父さんが戻っていないか、叔母さんが無事かどうか見てくる。
あなたは、いろは横丁から、叔父さんたちがどこへ行ったか調べて。関根さんと叔父さんを、あまり長く二人にしてはいけないわ」
「なんとも意味深長な、気になるセリフ。けれど陳寿は、あえてつっこまない気配りの犬。叔父さんの追跡はお任せを。
けれどさ、ラ・ピュセル、なんでも知っている口ぶりなのに、叔父さんたちのことは、わからないの、なぜさ」
「この剣で把握できるのは、霊的存在だけなのよ」
と、ラ・ピュセルは、ちらちらと五橋のマンションを気にしつつ、銀の腕輪を陳寿犬に見せながら、早歩きをして答えた。
「それと、ついでにもうひとつ。亮殿は、どうしてしまったの?」
「無事よ。安心して。この子は、古くからつづく巫女の家系の直系の跡取りなの。もともと、身体も鍛えていたようだから、わたしが憑依しても、ほとんど問題がないわ。珍しいのよ、こういうこと。
いま、この子の魂は、わたしの中で、眠っているわ。わたしという盾がいる限り、この子には、傷ひとつつけない。安心して」
「なんだかよくわからないけれど、亮殿が無事なら、よかった」
一人と一匹は、長い信号を渡って、仙台中央郵便局の前まで来て、そこで立ち止まり、対岸にある五橋を眺めやった。
「あっ!」
陳寿犬は、目の前に展開する幻想的な光景に、おもわず声をあげた。
まるで、透明な美しいドームに覆われるように、五橋のマンションを中心とした半径五百メートルの地域は、ふたたび結界に包まれていった。
「しばらく、このあたりには近づけないわ。ケマル・アタチュルクを味方につけなければ駄目ね。彼は新米で、力も不安定だけれど、稀少な完全なる者だから、味方につけられたなら、貴重な戦力になるはずよ。
いいえ、アタチュルクだけではない。四散した味方を集めなければ。レティクルは、最悪の日に向けて、一斉攻撃を仕掛けてくる可能性がある」
「一斉攻撃? なぜに!」
「基本世界で起こったとおりの悲劇を、この世界にも押し付けるためよ。世界を守るためにも、彼らを迎え撃たねばならないわ」
ラ・ピュセルはそうつぶやくと、結界に覆われて沈黙する、五橋地区をきびしく見つめた。
「時間がないわ。今度こそは、まちがえない」
閉め切られたカーテンからこぼれる陽射しのまぶしさに、○○は目を覚ました。
かつて、部屋の主が元気であったとき、よく手にしていた本も、いまは沈黙して、一切の動きをなくしている。
もちろん、○○に字は読めなかったけれど、部屋の主が、声に出してくれたので、本の内容はよく知っていた。
そこに書かれた、胸躍るさまざまな物語を、一緒に想像するのが好きだった。
想像のなかでは、○○と部屋の主は、いつも一緒だった。
東西南北、ありとあらゆる地平の果て、海の彼方、宇宙さえも、想像はあらゆる重力を振り捨てて、自由に羽ばたいた。
奇跡さえ起これば。
なぜ、こんなことになってしまったのか、○○には、どうしても理解できなかった。
○○は願いつづけた。己の命を引き換えにしてもかまない。地獄に落ちてもかまわない。
平凡でも楽しかった日々を取り戻すことができるなら、○○はなんでもした。
人工呼吸器のモーター音が耳障りだ。
○○は、立ち上がると、伸びをして、陽射しをこぼすカーテンの隙間から、外を眺めてみた。
12月の、突き抜けた青空が広がっている。
見つめているだけで、気が遠くなるような深さをもつ青空の下、黄金色の公孫樹が、見事な美しさをたたえて立っている。
今年は暖冬だそうだ。12月に入れば、すぐに落ちてしまうはずの公孫樹の葉も、いまだ枝に、しっかりとついたままである。
雪が降るのはもうすこし先だろう。
そんなことを考えていると、○○は、家の前に、隠れるようにして、様子を伺っている少年がいるのを見つけた。
さっと窓から身をひっこめ、部屋から出て、階段を降りる。ちょうど玄関の掃除をしていたのか、扉は開いていた。○○は器用に門をくぐって外に出ると、少年は、驚いたように、身をすくませた。
そうして、黒いランドセルをこちらに向けて、狭い道を走り去ろうとする。
○○は、それを同じく追いかけた。
早退してきたのだろうか。通学路ではあるが、人影はなく、街中とはいえ、住宅地は静まり返っている。
T字路にさしかかったとき、○○は、少年を立ち止まらせるために、声をかけた。
とたん、少年はびくりと身体を震わせて、○○のほうを向き直った。
一時は、激しい憎しみをもって見つめた顔である。
事実、○○が追いかけていったのも、憎しみを少年にぶつけるためであった。
少年は、外壁を背に、○○を怯えたように見つめている。
沈黙が流れた。
○○が、ゆっくりと少年のほうへ足を進めると、とたん、少年のなかで張りつめていたものが途切れたのか、アスファルトの上に、へたり込んでしまった。
○○がさらに近づくと、少年は、顔を覆うようにしてうずくまり、激しく泣き始めた。
「ごめん、ごめんなさい!」
ひと目をはばからず、少年は激しく泣いていた。
泣きながら、怯えて震えていた。
「仕方なかったんだよ、怖かったんだよ!」
だから、見捨てたのか。
理不尽な仕打ちに対する怒りが、○○の中にふたたび沸き起こったものの、はげしく泣き続ける少年には、恨みの感情は、もう向くことはなかった。
本当に恨むべき者は、こんなふうに泣いて怯えたりはしない。
謝罪すらすることもなく、我が物顔で町を闊歩する。
だれも、そいつが、醜悪な犯罪を起こした黒幕だと、知ることもなく。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
だれに対して謝っているのだろう。
許しの言葉は、彼には生涯与えられない。
あの暗い部屋に閉じ込められた○○の友達と同じように、いま、この少年の身にも、生涯癒えることのない深い傷があるのだ。
わたしたちは、見捨てられてしまったのだろうか。
深い悲しみと、絶望のなか、○○は、本来憎むべき相手に、ゆっくりと身をすり寄せた。
泣き続ける少年の体温が、悲しいほどに温かかった。
※このつづきは「新ずんだの章8」になります