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このお話は「仙台ゴールデンポークスの章10」のつづきです。
赤錆びた非常階段を昇る。
いまの彼女は憑依状態であるが、霊力を最大に放出しても耐えられるだけの力を、この身体は備えている。
アスカロンが用意してくれた巫女の身体は、自分と抜群に相性がよいようだ。
息も切れない。体が鍛えられているから、ありとあらゆる部位が自在に動く。
常人であれば、霊力を身に蓄え、放出するなど、とうてい耐えられないであろう。しかし巫女というのは、霊力をその身に受けることができるように訓練されている。
巫女の身体は、霊力をとおすための、特別な(霊的な、と言い換えてもよいかもしれない)神経が走っている。常人であれば、大量な霊力の塊が、その身に降りれば発狂、あるいは身体に後遺症がのこるほどの衝撃が出てしまうのであるが、巫女は耐えることが可能なのだ。
いま、彼女は、常人では考えられないほどのすさまじい速さで移動していた。
光の矢のごとく。
通常ならば、その速さに耐え切れず、身にまとうものはボロボロになってしまうのだが、アトラ・ハシースやアストラルたちは、ほとんどが、世界を形作っている制約から縛られない。只人が気にしなければならない数々のルールを、彼らは気にしなくて良い存在なのだ。
非常階段は、黄土色をイメージさせる、古ぼけたマンションの屋上につながっていた。
マンションに、どれだけの戸数があるのかは知らない。静まり返っており、車の流れ行くおとが遠くから聞こえるだけだ。
デザインといい、その配色といい、ところどころ色あせ、あるいは塗料が禿げている部分さえ見られるマンションは、五橋でも増え始めた、新しく機能的なマンションと比べると、みすぼらしく惨めにすら見える。
ここが、頭上を行く狙撃手の根城なのだろう。
非常階段を昇りきり、屋上に上がる。
ばっ、と、鳥が羽ばたくような音が聞こえた。
とたん、彼女の目の前に見えたのは、風に揺れる真っ白なシーツの群れであった。
羽ばたきのように聞こえたのは、船の帆のように風をはらむシーツが揺れた音であろう。
屋上は、マンションの住人の、共同物干し場になっていた。
そういった仕組みからして、どこか長屋を思わせる。
完全に個々の家庭が区切られた、いまのマンションとは、コンセプトからして違うのだ。
彼女は、手にしていた聖剣アスカロンを構える。
狙撃手は、シーツの群の向こうにいる。
距離が近すぎる。
相手にとっても、自分にとっても、この距離はまずい。
彼女は、たった一度の踏み込みで、それこそ弾丸のように飛んで、剣でもって、狙撃手の腕を切り落とす自信があったが、狙撃手のほうも、目の前にいる剣兵を、狙い外さず撃ち抜く自信があるにちがいない。
シーツが風に揺れてはためき、狙撃手の顔を隠している。
だが、顔が見える、見えないは、彼女の場合は、関係がない。
彼女は周囲の感情の、本音を捉えることができる能力がある。
人間というものは複雑だ。笑っていても、泣いているときがあるし、怒っていても、実は笑っているときがある。
表面的な感情に惑わされないよう、彼女は真実を見抜く目を与えられていた。
彼女の目の前には、ひたすら真実しかない。嘘や誤魔化しのない世界が、彼女の世界である。
「なぜ?」
彼女は、思わず、問うていた。
狙撃手からは、なんの殺意も、なんの害意も感じられなかった。頬をなぶる風のように、飄々としている。
人をいきなり上空から攻撃しておきながら、この狙撃手自身からは、敵意が感じられない。狙撃手から感じ取れるのは、静かで確信に満ち溢れた心のあり様なのである。
ふと、彼女の立っているマンションの屋上が、びりびりとわずかに振動した。
同時に、どん、という鈍い破裂音。
静かだった空間に、破裂音と前後して、甲高い複数の悲鳴が上がる。
音は、地下鉄の五橋駅のほうからしていた。
「まさか」
あの忠実で善良な白い犬が、シグルトに?
彼女は足を浮かせたが、しかし思いとどまった。
狙撃手は、いま目の前にいる。うかつに背を向けては危うい。
完全なる者の結界ゆえか、破裂音と悲鳴は、ほどなく空気に溶け込むようにして、それきり聞こえなくなってしまった。
人工的な静寂である。落ち着かない。
「行かなくていいのかい、ラ・ピュセル」
はじめて、狙撃手が声を発した。
揶揄するふうでもなく、まるで顔見知りに挨拶をするような、軽い調子である。
彼女は、あらためて剣を構えなおし、シーツの波の向こうの狙撃手を見据えた。
が、狙撃手のほうは、おどろいたことに、手にしていた時代がかった銃をマンションのコンクリートの上に投げ落とす。
そして諸手を挙げた。降伏の証である。
罠か?
彼女は全神経を集中させ、狙撃手の真意を掴もうとした。
この一帯は、完全なる者が織り上げた結界となっている。おそらく、彼女ほどに高い霊力を備えたアトラ・ハシースでなければ、神経を狂わされ、まともに歩くことすら覚束ないであろう。
しかし、彼女は、もともと持っている剣と、アスカロンと、二つの聖なる剣に守られているのだ。完全なる者の結界による干渉も、彼女にはあまり効果がない。
意識を集中する。
しかし、やはり、狙撃手には、なんの害意もないのである。
では、なぜ、さきほどは攻撃を仕掛けてきたのだろう。このわたしが、何者であるかを知っていながら、だ。
彼女は、コンクリートにがちゃりと投げられた、古い年式のライフルを見る。
「ソビエトのモシン・ナガンだよ。革命の際、スターリンから武器を援助して貰ってね、昔はこれでイギリスと戦ったものだ。とはいえ、そいつは射程距離を測るときに、メートル法が通用しないから、まるで物覚えの悪いロシア人と仕事をしているような気分になるんだ」
「帝政ロシア時代に作られた狙撃銃ね」
「ここは日本だから、三八式歩兵銃のほうが馴染むかと思ったのだけれどね。出来の悪い子ほどに、かえって忘れ難い、といおうかな。君たち騎士は剣で戦うが、われら新米は、銃を使うのさ」
徒手空拳の男は、シーツの波から一歩、彼女のほうに近づいてくる。
武器は持っていないと『視認』できるが、油断はならない。これは、まちがいなく、先ほど、無言で攻撃を仕掛けてきた、卑怯なアストラルなのだから。
「怒っているかい、ラ・ピュセル。君が先輩だということを忘れて、気安い口を利いているのがいけないのだろうか」
穏やかで、実際に、男が言うとおりに気安い口調である。だが、不快には感じられない。たとえ普通に出会っていたとしても、この男は、同じような語り口で、彼女に近づいてきたであろう。
「わたしが怒っているのは、卑怯にも上空から、だまって攻撃をしてきたからよ」
「それは申し訳ない。しかし、僕はたったひとりで、このあたりを守らなければならないものだから。なにせ、僕を召喚したアトラ・ハシースときたら、君が手にしているアスカロンの所為で、自分が何者で、なにをしなければならないかを、すっかり忘れてしまっているのだからね」
「物忘れのはげしい主のために、一人で頑張っている、というわけね。あなたの主ならば、わたしの家にいるわ。みんなで仲良く牛タンを食べているわよ」
「なんだって? 自分ばっかりいい思いをしているのだな」
と、男は不平を漏らしつつ、白いシーツの向こうから、はっきりと顔を現した。
丸顔に金髪の、静謐さをたたえた美しい青年であった。
同じ金髪でも、シグルトの華やかさや、ケマルの力強さとはちがう、穏やかで品のよい印象を与える。
しかし、彼女はまだ油断をしなかった。
彼は、彼女が苦手とする、怒りながらも笑うことのできる、憎しみながらも優しくすることができる、自由自在に己の感情を操れるタイプの男であった。
彼女が前回のループで敵対することになった、諸葛孔明もおなじく政治家であったが、彼のほうがずっと判りやすかった。
感情と言動が一致しているので、構えることなく信用できたのである。
だが、このアストラルは、新米であるゆえか、どうも俗世の垢が取れ切れていないようである。
「貴方たちが、最後にヴァルキューレに召喚されたのね。わたしの名はジャンヌ・ラ・ピュセル。聖ゲオルギウスさまに、ご意思とアスカロンを託されたわ。あなたは?」
「ジャンヌ・ダルクとは名乗らないのだね。ジャンヌ・ラ・ピュセルのほうが可憐で響きがいいけれど。ああ、失敬、僕はイスメト・イノニュ。トルコ人さ。見たとおり、完全なる者の結界を守っているんだ」
「なんのために? あなたの召還者は、この世界に召喚された理由を忘れているのでしょう? あなたは、敵が何者かがわかっているの?」
「君と同じだよ。イギリス人」
「からかわないで。イギリス人は、たしかにいるけれど、今回は味方だわ」
「味方だった、じゃなくて? エリザベス処女王は、召喚直後に銀の小人に襲われて消滅したんだろう?」
「わたしから情報を引き出そうというの? ならば、この結界を解くことが条件よ」
「困ったな、それは、僕ではできないんだよ」
「それは嘘ね。わたしに嘘は通用しないわ。うまく利用しようなんて考えは、およしなさい。たとえあなたが正式に召喚されたアストラルだとしても、わたしたちを攻撃し、消滅を導こうとした行為を以て、敵意があると断じ、消滅させても構わないのよ」
「聖女が脅迫はいけないな」
「いいえ、これは最後通牒。あなたは、わたしよりも、陳寿を狙っていたわ。彼がいなくなってしまったら、この世界は瓦解する。わかっていて、そうしたのならば、あなたは敵よ」
「明快だね、いやはや」
と、イスメトは笑うが、その口元は強ばっている。
「いま、僕は笑っているけれど、実は困り果てているなんてことは、君はお見通しなのだろうね」
「ええ」
「では、君の言うとおりにするしかない。ふむ、君は気持ちがいいほど明快だね。さすが、わずか五百年しか存在していない新米アトラ・ハシースなのに、なんと最高府入りが確実だといわれるだけあるね」
「噂だわ」
「どうかね、案外近いところじゃないのかな。君は、人の嘘を見抜くのはうまいが、自分が嘘をつくのは下手だ。最上階はないにしても、かなり上層に住んでいるのじゃないかな」
「わたしの霊力を、『塔』の何階に住んでいるかで計ろうというの?」
「ちょっとした世間話だよ。お近づきの印に。さて」
と、イスメトは、ぱちんと指を鳴らした。
とたん、それまで、すっぽりと五橋の界隈を覆っていたものが、失せた。
まさに透明な料理用ボール、あるいは目に見えないお椀のようなものを、五橋のマンションを中心に、すっぽりとかぶせていたのが、結界の正体である。それが消えてなくなったために、空間は、ふたたび周囲と混ざり、溶け込んだ。
強い風が、彼女と、イスメトと、白いシーツを激しく揺らした。
同時に、あれほど静けさに満ちていた空間に、鳥の声、どこかの家から聞こえてくるTVの音、話し声、足音が戻ってきた。
風の向こうからくぐるようにして、カンカンと消防車の音が近づいてくる。
五橋駅のほうへ。
「陳寿が大変だわ」
身を乗り出し、ビルからビルへと飛び移ろうとするジャンヌに、イスメトがのんびり言う。
「大変ということも、ないのじゃないかね。犬が、目的を見失って、しょんぼりとこっちへ戻ってくるのが見えるよ」
「本当に? どこ?」
と、爪先立ちをしてビルとビルの間を見ようとするジャンヌであるが、白い老犬の姿を見ることはできなかった。
「嘘の通用しない相手に、嘘をつくなんて非生産的なことはしないから、安心してくれないか。このあたりの結界は消した。結界のスイッチは、君が見抜いたとおり、僕が預かっていたんだ。いつでもON/OFFが可能なんだよ」
と、イスメトは、得意そうに、にっ、と笑う。
「ところで、ラ・ピュセル。君と話がしたい」
「状況を説明して欲しいの?」
「それも兼ねてなんだが、状況は、非常に不味いのじゃないかな。ヴァルキューレは失踪し、召喚されたアトラ・ハシースのうち、シグルトは裏切り、エリザベス処女王、聖ゲオルギウスが消滅、諸葛孔明が行方不明、陳寿と羅貫中が犬。最悪だよ。敵は無傷じゃないか」
「でも、わたしも無傷だわ」
「一人でもやろうというのかい。勇敢だね。伝えられたとおりの子なんだな」
「アタチュルクの意志は、決まっていないの?」
「ああ、それね、決めさせないから」
と、実にさらりとイスメトは、笑顔のまま言った。
「決めさせないって?」
アストラルとアトラ・ハシースの力関係は、そのまま霊力の大きさと同じで、アトラ・ハシースのほうがつよい。
アストラルはアトラ・ハシースに霊力を分けてもらう立場なのである。
アストラルがアトラ・ハシースを従わせるなど、それこそ生前に強い約束があったか、恩義があるか、あるいはかつての主従であったかでなければ、不自然だ。
イスメト・イノニュとアタチュルクとでは、イスメトがアタチュルクに従う形であった。それは疑いようもない史実である。
ラ・ピュセルが戸惑っていると、イスメトはつづけた。
「そうだよ、決めさせない。アトラ・ハシースとアストラルのシステムは、奇妙なもので、死んだ人間がアトラ・ハシースとなり、そして活躍をすると、それがそのまま基本世界に影響を及ぼす。つまり、その英霊の名は滅びることなく、延々と語り継がれることとなる。
しかし、活躍しないか、あるいは堕天すると、基本世界に伝わるその名も堕ち、関連する文物も衰える」
ジャンヌは、イスメトの言わんことがわかった。たまに、こういう言い分を持ち出して、仕事を拒否するアストラルがいるからだ。
「わかったわ、つまりあなたは、この世界の仕事を失敗して、アタチュルクの名に傷がつくことを恐れているのね」
イスメトは、出来の良い生徒の回答に、満足した教師のように、深くうなずいた。
「そう。彼が一代で作り上げたのは、『トルコ共和国』だからね。彼が躓けば、国が躓く。責任は重大だよ。特に、トルコはいま、EUに加入できるかどうかの瀬戸際にいるから、躓いてはいられないのだ。わかるかな」
「気持ちはわかるわ。でも、なら、なぜ召喚に応じたの」
「アタチュルクが、ヴァルキューレの説明に、男気を揺さぶられてしまったのさ。どういうわけだか、彼は、トルコ人だけではなく、ありとあらゆる女性の父であろうとする、よくわからん心象を持っているのだ。困っているのだと聞いて、それならば、わたしがなんとかしてやろうと、答えてしまったのだね」
「あなたは反対したのね」
「そうだよ。僕は彼の副官として、付き従ってきた。いまでもそうさ。だがね、トルコ共和国というものは、彼と、僕らが作り上げた、かわいい子供のようなものなのだ。あれが生まれるために、どれだけ多くの血が流されたと思う。それは、君だって共感できるところじゃないのかい」
「言いたいことは判るわ」
ラ・ピュセルは、一度も自分が負けると思ったことがない。
だから、どんな危険な任務も、ひたすら勝利を信じて突き進んできた。結果、つねに勝者は彼女であった。
だが、もしかしたら、と弱気になることもあったのだ。そのときに奮い立てたのは、自分が倒れたら、基本世界での自分の名も堕ち、同時に、彼女の作り上げたもの…フランスそのものも、情勢が悪くなってしまうと思ったからだ。
だからこそ、零どころかマイナスから出発し、ありとあらゆる侵略者を跳ね除け、ついには既成勢力を追い払って、懸命に作り上げた国を、死してもなお守ろうという彼らの気持ちは、痛いほどわかった。
イスメトの静謐さは、国を守るのだという断固とした意志に裏付けられたものである。
それに気づいた時、ラ・ピュセルの、イスメトに対する考えは、好意的なものにかわった。
「あなたの気持ちもよくわかる」
「だろう? 同じイギリスを敵に回して戦った者同士、わかってもらえると思ったよ」
「ええ、その点でも、わたしたちは気が合うわね。でも、一度、仕事を引き受けたのならば、投げずに最後までやり通すべきよ」
「頑固だね。正論だが、あえて反論させてもらおう。世界とアトラ・ハシースの霊力の調整をする、仲立ち役のヴァルキューレが存在しないのだ。当然、アトラ・ハシースの状態は不安定になり、アトラ・ハシースからアストラルに霊力を分けてもらうこととなるアストラルも、同じく状態が不安定だ。
そのくせ、今回は、敵が強すぎる。未来から空間をねじまげて襲ってくるレティクルだ。しかも、操る兵士数は、産業廃棄物を再利用して、工場で大量生産されるというので、無尽蔵。キリがないわけだ。
それに比べて、われわれは、個々がばらばらに動いており、稼動可能なアトラ・ハシースの人数も、アトラ・ハシースによって、何人のアストラルが召喚されたのかさえわからない。そのうえ、レティクル側に、偽のアトラ・ハシースまで作られて、戦わせられるという異常事態だ。
最高府は、アトラ・ハシースが、現状打開が難しいと判断した場合、召還をキャンセルし、待機することを許可している。だから、僕らは、この戦いから降りさせてもらうよ」
「アタチュルクの意志は? 彼は、アスカロンによって、やはり記憶を封じられているのでしょう? なのに、あなたが勝手に代理人として、わたしたちと手を切ると言うの?」
「アタチュルクのことは、僕がいちばんよくわかっている。生前は、激しく対立したこともあったけれど、対立したからこそ、相手のことがよくわかるのだ。
ラ・ピュセル、君のようなかわいい女の子を戦わせて、僕らは黙ってみている、というのは、たしかに心苦しいところだが、君にも増してかわいいトルコ共和国のためなのだ。僕たちは、この異常が終わるまで、中立の立場を取らせてもらう。どちらの味方にもつかない。
ただし、君であれ、レティクルであれ、僕らの領域に踏み込むことがあれば、今度は容赦なく攻撃するよ。それを言いたかったのさ」
イスメトの口にしたことは、重要な一点を除けば、まちがってはいない。
アトラ・ハシースは、世界に対して責任を負う存在ではない。あくまで、助っ人なのだ。だから、もはや事態に、手の施しようがないと判断した場合、任務放棄を許されているのである。
ただし、それはアトラ・ハシースが決めることであって、召喚されたアストラルには、決定権がない。アトラ・ハシースの指示を拒むことはできるが、アトラ・ハシースが受けた指示までも否定はできないのである。
「あなたは、それでは、今後も、わたしたちの敵でも味方でもない、この結界を出入りする限りは、だれであれ攻撃すると、そういうのね」
「最初の一度は見逃そう。僕らのよく知っている女の子に憑依したもう一人のアトラ・ハシースも、一度だけは見逃してやった。だが、二度目はない、という話さ。僕らを味方につけたいというのならば、アタチュルクを説得したまえ。ただし、僕は、記憶が戻ったならば、アタチュルクは、僕と同じ選択をすると確信しているがね」
「それはアタチュルクが決めることよ。わかったわ、あなたを信じます。わたしは、アタチュルクを説得するわ」
信じる、とはっきり言われて、イスメトは、いささか調子が狂ったようだった。
「信じられても困るよ。君にとって有利なことはなにもないのに」
「いいえ、シグルトのように、ひどい裏切りをした者もいるのに、あなたは、どちらの味方にもならない、つまり、裏切りもしないと言ったのよ。それに、手の内もすべて明かして、正直に答えてくれた。どうもありがとう」
「どういたしまして。なんだか変だが」
「おかしくないわ。わかりました。いまは引きます」
と、ラ・ピュセルは、アスカロンを引っ込め、ただの銀の腕輪に戻した。
これには、イスメトも驚いたようであった。
「敵にいきなり、背中を向けるようなものじゃないか。ラ・ピュセル、僕の武器が、実はまだほかにあったなら、どうするつもりなのだい?」
「あなたには敵意はないもの。攻撃する意味がないでしょう。敵意のない者に、剣を付きつけるはおかしいもの。わたしはここから去るわ。次にあなたに会うときは、わたしの味方になったアタチュルクも一緒に連れてくる。さようなら、イスメト・イノニュ」
ラ・ピュセルが、邪気のない明るい笑顔で言うと、イスメトは、さらに困惑して、答えた。
「なんと答えればよいのかね。とりあえず、ご武運を」
「ええ、あなたは、きっとわたしの仲間になってくれると思うわ」
「きみは言葉を交わすと危険な子だな。ついつい、そうだね、と頷きたくなってしまう。ともかく、あと十分もしたら、結界を戻すよ。それまでに、この界隈から離れてくれ」
「ええ、そうする。それでは、ひとまずは、さようなら」
そうして、ラ・ピュセルは、ふたたび非常階段を降り、こちらに戻ってきているという、白い犬のところへと向かったのであった。
※このつづきは「仙台ゴールデンポークスの章 12」になります