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I
このお話は「仙台ゴールデンポークスの章9」のつづきです。
片手で軽々と扱っている刀の重さも、10kgはあるだろう。
そうして、自分の体重も、たしかこの間、おかあさんと一緒に体重計に乗った時に、18kgはあった。
そして太りすぎだ、そういえば腰周りがたぷたぷしてきた、ダイエットしようと言われて、おやつを減らされた哀れなオレ様。
いや、それはともかく、片手に聖剣、もう片手に老犬、両手に抱えているものを合わせれば、30kgは優に超すであろう。
だのに、少女はまるで疲れを見せない。
少女…もはや亮とは呼べないだろう。
それこそ、つい一時間前に行動をともにしていた亮と、いま目の前にいる少女とでは、与える印象が違いすぎた。
亮は、やはり潜伏している身というだけあって、つねに陰りを持っていた。
だが、いま、目の前にいる、亮と同じ姿をした少女は、双子のようによく似ているというだけの、別人である。
この少女から受ける印象は、ともかく明るい。
決断力に富み、物怖じしない、快刀乱麻な少女。
男勝りという言葉の裏にありがちな、無理した空気は、彼女にはない。ともかく羽根が生えたように軽やかである。
とはいえ、それは軽薄な印象は与えないのだ。
亮が、人目を気にして、身をかがめるようにして生きていたのを見てきただけに、余計に、少女の印象が明るく感じられたのかもしれない。
しかし、少女がいまここにいるということは、さきほどまで一緒だった亮は、どこへ行ってしまったのか。
ビリー・ミリガンのように、心の内に劇場があり、次から次へと人格が出てきては、はげしく入れ替わるのか?
ビリー・ミリガンは、本気で『想像上の人物』の物まねショーをしている病人だ、と言ったのはだれだったか。
たしかに、亮の境遇には同情すべき点は多いけれども、精神病質者にありがちな混乱ぶりはなかったように思える。
大作家のオレ様が判断したのだから、まちがいのないところ、と陳寿犬はうなずいてみる。
だとしたら、この少女は何者で、亮はどうなってしまったのか?
めまぐるしく変わる風景と、黒い鼻先ぎりぎりにかすめて見えるビル群。
窓拭きのアルバイトをはじめても、お目にかかれないような絶景を前にして、陳寿犬は、ぐえええ、と悲鳴ともつかぬ声をあげながら、少女の腕がしびれないことを祈るばかりであった。
絶叫マシーンには乗ったことがないが、いまこそ局の命令で、乗りたくもないマシーンに乗らねばならない、そして判りやすくレポートしなければならない女子アナの気持ちがわかったように思えた。
もう二度と、ブラウン管の前で、ヘタレとか言いません。マジで怖いです!
「いたわ!」
少女は鋭く言うと、陳寿犬を片手で抱えたまま、弾丸のように、ビルを急降下していく。
風の唸り声で耳が塞ぐ。
普段は、さして気にしない風であるが、少女に抱えられて空を駆けながら、風にも形があることと、こんなに痛いものなのだということを、陳寿犬は初めて知った。
今度、筆を握れるような身に生まれたら、きっと、風の本を書こう。
ふわりと宙に浮かび上がり、陳寿犬は、亮の手に抱えられた状態で、ビルの屋上を真下に、仙台の市街地を俯瞰する。
道路、ビル、車、車…ほかはなにも見ることが出来ない。
少女のように、シグルトたちを見つけることは、かなわなかった。
やがて、臓腑が浮遊して、そのまま一気にかき混ぜられるような不安定な感覚が襲ってくる。
ふたたび、光景は流れる滝のような勢いで変わっていく。
燕の見る光景は、こんなふうなのだろうか。
アズキ色のタイルの上に、またも聖剣アスカロンを利用して、風を発生させて、少女は地上に降りたった。
ビル群を抜けると、まるで、渓谷を抜けたら、いきなり荒野が広がったくらいの鮮やかさで、視界がひらける。密集したビル群を抜けると、とたんに風景が広くなるのが仙台の街の魅力だ。
降り立つ道路の横には、クリーム色の校舎をもつ小学校。
道路を挟んで向かい側には、宮城一の金融機関である七十七銀行の本店、そのとなりには、小ぶりであるが、厳しい雰囲気をたたえているハリストス正教会の聖堂。
愛宕上杉通から南に、長町方面へと伸びる道路は、まるで大河のように目の前にあり、絶えることなく車が行きかっている。
道の両側には、街中よりも風通しがよく、日当りも良いせいか、枝ぶりもすばらしい黄金色の公孫樹たちが並んでいる。
その上を、フルキャストスタジアムから市街地方面へ飛んでいくヘリコプターが、バルバルと音をさせて飛び交っていた。
四車線道路の巾に見合うように、歩道も幅広の立派なものが作られているのであるが、人の姿はすくない。
小学校の下校時間とかち合わなかったのは、幸いだと、吐き気を懸命にこらえながら、陳寿犬は思った。
もう人が傷つくところを見たくなかった。平本が耳を跳ね飛ばされた時の、くぐもった悲鳴が、まだ耳に残っている。
そして、あの残酷な拷問をしてのけた張本人たちは、前方の、対向車線側の歩道を、肩を並べて、懸命に走っていた。
シグルト・ウェルズング。そして、もう一方は。
「おんや?」
めまぐるしく変わった風景から一転、ようやくどっしり構えた地上に足を下ろすことができた陳寿犬は、ふらふらしながらも体勢を整えて、少女と同じく、流れ行く自動車の川の向こうに走る男女を見て、首をかしげた。
金髪の北欧青年シグルト。もう一方は、トレンチコートを頭からかぶった女である。
女だとわかるのは、コートの裾から見えるスカートの所為だ。
陳寿犬は、首をひねった。
「なんで連行中の逃亡犯と刑事、みたいな格好で逃げているのかな? あれじゃあ、かえって目立っちゃうのに」
「目立ちたくないけれど、ああするしかないのよ」
「なぜにトレンチコートを被っているので?」
「あの方は、霊力を使い果たしたのよ。本当は、あのビルを破壊して、負の霊力を集める算段をつけていたのでしょうけれど」
「ど?」
見れば、少女は、聖剣アスカロンを両手で握りなおし、じっとシグルトとメアリを見据えた。
目の前を、カナブンのような勢いで走る車内から、その姿ははっきり見えるはずなのであるが、だれも見咎めない。
もしかしたら、剣の姿は、見える人にしか見えない魔法でもかけられているのかもしれない。
「アスカロンの力で、あのビル全体に防御の陣を張ったの。けれど、さすがは北欧一のドラゴンバスター。あっさりと突破されてしまったわ。でも、あの方のほうは、突破するだけが精一杯で、そのとき霊力を更に使ってしまったのね。防御の陣があるために、霊力を集めることもできなかった。もともと霊力がない状態だったから、あさましい怨霊としての姿が現われつつあるのよ」
「だから、あんな変な格好で、走って逃げているんだ? タクシーを使えばいいのに」
「近づけば判るわ。乗れない理由が。なんておいたわしいのかしら! 恨むことを忘れれば、地上から離れて、早く罪を償うことだって出来るというのに!」
「おいたわしー?」
呆れ半ばに尋ねる陳寿犬であるが、見上げれば、さらに呆れたことに、少女の明るい顔が、深い悲しみに捕らわれていることがわかった。心の底から、本気でメアリに同情しているのである。
陳寿犬としては、ビルの中で見た凄惨な光景、自分に仕掛けられた妖しい攻撃をはっきりと覚えているために、とてもそんな気にはなれない。
「なんでさ、メアリって女は、霊力を補充するために…って、オレ様このあたりよくわからんのだけれど、ともかく、無関係な少年を拷問にかけて殺そうとしたじゃん! 耳を切り落としたときの音、オレ様、一生忘れられそうにないよ! それに、ビルの中にいた多くの人たちを巻き込もうとして、あの一つ目のオバケを動かしたっていうのなら、やっぱりオレ様は、許せないし、おいたわしいなんて、思えないね!」
「わたしだって、無関係な只人を巻き込むことは許せない」
「ならさ!」
「でも、罪は罪でしょう? 貴方も名前は知っているでしょう? あの方は、メアリ・スチュワート様なのよ。フランスの王妃さま、そしてスコットランドの女王さまなの。おかわいそうに、亡くなられてからずっと、恨みを晴らせずに、地上を彷徨っておられた。そこを、レティクルたちにつけ入られてしまったの。あの方は、いつだって悪心を持つ者たちに操られてしまう」
「めあり・すちゅわーと? エリザベス女王のライバルで、美人で有名な?」
陳寿犬は、話の大きさについていけずに、目を見張るしかない。
「もし、わたしがあの方と同じ立場に立たされたなら、同じことをしてしまうかもしれない。あなたは、自分は絶対にちがうと言い切れるの?」
「女じゃないからわかんないけど…でも、同じ立場になったら、そうかも」
陳寿犬が決まり悪そうに答えると、少女は、自分も困っているような顔をして、すこしだけ笑った。
「意地悪な質問だったわね、ごめんなさい。さあ、いまは、あの二人に集中しなければ」
そして、ふたたび、対岸にいるシグルトたちのほうに厳しい眼差しを向ける。
「わたしが許せないのは、シグルトのほうよ。あれほどの高位のアトラ・ハシースの癖して、妻を裏切り、愛人をも騙している」
「騙すって?」
「少なくとも、平本くんを攫ってきた時点では、シグルトの霊力は十分だったはずよ。つまり、吸血鬼の真似事をさせなくても、メアリ様に霊力を分けてあげることはできたはずなの。なのに、『ほかに方法はない』と言い切っていたわ」
「なんで味方を騙すのさ?」
「騙すという意識すらないのよ。刃を交えて思ったことなのだけれど、あのひと、自分のことしか頭にないのだわ。自分の霊力が不足して、攻撃力が弱くなるのが嫌だから、自分が霊力を分けてあげられる、ということを黙って、只人から霊力を奪おうとしたわ」
「ケチな男だなー」
「竜を倒すことが出来たのは、あの果てしなく自分勝手な性格が、純粋に攻撃することにのみに向けられたからよ。たしかに集中力は素晴らしいものがあるわ。けれど、やはり身勝手なあまりに、彼は死んだ。妻のヴァルキューレのとりなしがなければ、アトラ・ハシースになんてなれなかったでしょうに」
「竜かぁ」
竜と聞いて思い出すのは、陳寿犬としては、やはり故国のあこがれの人・諸葛孔明である。
その諸葛孔明と、隣にいる亮の体のなかにいる少女が斬りあってから、いまの摩訶不思議な状況があるのだ。
少女は再び現われた。
では、孔明のほうはどこにいるのか?
この少女はそれを知っているというが…
に、しても、ヴァルキューレとか、アトラ・ハシースとか、なんだろう。
聞き覚えが、ちょっぴりあるのが、これまた摩訶不思議。
「道を曲がるようだわ。地下鉄に乗ろうというのね。ここからの最寄り駅は、五橋駅だったわね」
「早く信号を渡ろうよ!」
「いいえ、飛ぶわ」
またも少女は、陳寿犬が嫌がる暇も与えずに、その白い身体を片手で軽々と抱き上げて、カモシカのように地面を蹴り上げる。
そして、高速道路なみのスピードで走っている車を敷石に見立てて、目にも止まらぬ早さでもって、つぎつぎとルーフを蹴って、対向車線側の歩道に向かった。
陳寿犬にとっては、またも恐怖のジェットコースターの始まりである。
もはや悲鳴をあげることすらできず、猛スピードで流れていく、さまざまな種類、色の車の屋根を眼下に見る。
少女のスピードと車のスピードを考えれば、そして一人と一匹の重さを考えれば、少女が踏み台に選んだ車に大きな凹みが出来るはずなのであるが、これまた魔法なのか、車にはまったく影響ないため、交通の疎外になることもない。
子供がけんけん遊びをするときの要領で、少女は一度も身を危うくさせることなく、対岸の歩道に降り立った。
シグルトが、少女と陳寿犬を振り返った。
その手には黒い魔剣ノートゥング、もう片方の手には、抱えるようにして、トレンチコートを頭から被ったメアリ。少女の格好と、似てしまっているのが、皮肉ではある。
二人は、アコとケマルが最初に吸血鬼を目撃した、河北新報社の駐車場の脇を抜けて、左に曲がり、五橋公園の横の道、つまりはアコたちのマンションのある小さな通りに入っていく。
「お待ちなさい!」
少女は凛として叫ぶが、シグルトたちは止まらない。
少女と陳寿犬は、駐車場を斜めに突っ切って、シグルトたちに追いすがろうとするが、その足元に、ささやかな菊の花が捧げられていることに、気づくことはなかった。
「観念なさい! まだ多くの人を巻き込もうというの!」
いいざま、少女は足を止めて、アスカロンを弓のように掲げると、ふたたび光の龍をその刀身から放った。
シグルトもさるもの、少女が攻撃を仕掛けたと判るや、わずかに身を向け、その手に掲げたままのノートゥングを防御に使う。
とはいえ、ノートゥングでは、アスカロンの攻撃を防ぎきれない、ということは、先刻のビルでの衝突でわかっている。
最後の悪あがきか、と見たとき、まさにその見込みを証明するかのように、ノートゥングの禍々しい気配が、急に薄れた。
勝った、と一瞬思った陳寿犬であるが、ノートゥングの魔性が目に見えて失せるのと同時に、アスカロンの放った光の龍も、徐々に日に溶けるようにして消えていく。
「?」
少女は、足を完全に止めて、周囲を見回した。
不意に、風がざわざわと、五橋公園にある、十メートルはあろう木々を揺らせた。
五橋公園の横でいつも小休憩をとっているタクシーも、公園であそぶ子供の姿もない。五橋会館の裏手にある、小さな録音スタジオから響くドラムの音も聞こえない。
シグルトたちが向かおうとしている地下鉄五橋駅のほうから、川の流れのようにはげしい車の音だけが聞こえてくる。
張りつめた空気があった。
「なんか、変な感じ」
「ええ、おかしいわ。空気の質が変わった。四方八方から、敵意を感じる。気を抜かないで」
陳寿犬は、全身の毛を逆立てて、周囲を探った。
本能で、いま、目の前にいる敵が、一番の敵ではない、ということを探知していた。
彼らはではない。
この土地においては、もっと危険な敵がいる。
だれかが。
姿を現さない何者かが、こちらを見ている。あらんかぎりの敵意でもって。
シグルトとメアリも、同じく、第三者の気配を感じ取っているようだ。
魔性を失い、いまや、ただの立派な剣にしか見えないノートゥングを手に、目の前の少女ではなく、周囲の気配を探っている。
風が吹いて、トレンチコートの前を固く締めて、顔を隠しているメアリの、頭髪の一部を揺らした。
驚いたことに、それは真っ白になっていた。
恐怖のために人間の頭髪が白くなる、ということはありうることであるが、それにしては妙である。
白くなった頭髪と、そして、コートを抑える手が、革の手袋をはめているのか、茶色くくすんでいるのだが、手袋をすれば膨らんで見える手が、逆に前よりも縮んでいるようである。
シグルトよりも、いまはメアリのほうを気にしながら、周囲に気を配っていた陳寿犬であるが、何度目かに、メアリのほうに目を向けたとき、とうとう事実を見つけた。
手袋などではない。茶色に黒ずんだその手は、茶色く乾いた皮膚。本物の手なのだ。
それを知り、陳寿犬は、おぞましさに、ぞっと震える。
少女が、『タクシーに乗れない』と言った理由が、ようやく判った。
コートで顔を隠さねばならない理由も、ようやく判った。
メアリは、その活動の源が枯渇してしまい、ミイラのようになってしまったのである。
ただの怨霊ならば、聖なる力で弾き飛ばされ、ふたたびロンドン塔に戻されていただろうが、レティクルによって霊具を持たされているため、それが命綱の役目を果たし、辛うじて、この閉ざされた仙台に留まっているのだ。
立っていられることが不思議であった。それこそ、強風が吹けば、その場に崩れ落ちてしまってもおかしくない。
しかし、もちろん陳寿犬はそんなからくりを知らないため、メアリの妄執に唖然とする。
陳寿犬は、頑固ではあるが、冷淡ではない。
むしろ厚い同情心を持っているので、少女が、おいたわしいと言った気持ちが、理解できた。
メアリ・スチュワート。
生まれながらの女王。
そして典雅なフランスの王妃として、ロマンティックの女王と讃えられ、数々のソネットと薔薇に飾られていた女性。
スコットランドの美貌の女王、カトリックの砦として、蒼き森と湖の国に君臨した女性が、いまや、妄執にとらわれて、無残な姿で人目を避けねばならぬ。
運命の残酷さよりは、この女性の中にある、恨み、憎しみ、妬みの強さを、陳寿犬は悲しく思った。
「降伏しなさい、シグルト。そして、陛下を渡しなさい」
柔らかい、少女らしい優しい声ではあるが、その調子は固い。
少女が言うと、シグルトは鼻を鳴らした。
「渡して、どうする。保護するか? それとも、おまえの有り余る霊力を、くだらぬ慈悲から、分けてやろうとでも?」
「いいえ、この剣で調伏し、妄執から解き放ってさしあげるの。陛下、陛下も、本心では、そう願ってらっしゃるのでしょう? 貴女の頼りとするシグルトも、その剣も、完全なる者の結界があるこの土地では、役立たずですわ」
役立たず、と聞いて、シグルトの端整な顔が、ぴくりと歪んだ。
「傲慢の罪により火刑になった娘よ、おまえも学習していないな。このノートゥングは、たしかに完全なる者の力によって抑えられている。
だが、それはおまえのアスカロンも同じはずだぞ。剣の腕だけで戦うというのであれば、わたしのほうがはるかに有利。おまえは、生前は、敵さえも傷つけてしまうことを恐れ、剣を持たずに旗頭ばかりを手にしていたではないか」
「あれから五百年も、わたしがなにもしてこなかったとでも? それとも、ドラゴンバスターであるあなたに、いまさらあらためて、聖剣のなんたるかを教えてあげなくちゃいけないかしら?」
シグルトと、少女の目線が激しくぶつかり合う。
と、そのときである。
「避けて!」
少女の声に弾かれるようにして、陳寿犬はシグルトと少女のやりとりから立ち戻り、向けられた攻撃を、瞬時にして避けた。
ぱっと身を翻し、ふたたび爪と肉球がアスファルトを握り締めたとき、目の前には、もうもうと立ち上る白い煙と、アスファルトの欠片が抉れて、盛り上がっている光景があった。
「なに、コレ!」
自分の反射神経に驚きつつ、五感を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。
片側の、長すぎて寝ている耳が、ぴっと反応した。
三時方向より、矢が。
陳寿犬は足を動かすよりも先に、好奇心につよく動かされ、顔を上げて、おのれに向けられる攻撃を見た。
矢ではなかった。
聴覚・嗅覚がするどい代わりに、犬の視覚は人間のそれよりはるかに弱く、色覚もない。
ただし、視野は250度の広さを持つ。
見上げた空に、星がある。
いや、星のように見えたのである。視覚が鈍いはずの自分に、こうも鮮やかにモノが見えるのが不思議であったが、陳寿犬は、たしかに見た。
自分に向かってくるものの正体は、銀の弾。
アスファルトを抉ったものの正体、あたりに漂う硝煙の臭い。
これは銃による攻撃だ。
もちろん、ただの銃ではありえない破壊力である。アスファルトを抉るなど、大砲並の威力があると見てよい。
あれに当たったら、まちがいなく死ぬだろう。二度目の死を迎えることとなる。
いや、三度目ではないのか。
「あの弾丸は、わたしたちに降りては来ない!」
不意に、力強い声が聞こえた。淀みのない、断固とした少女の声である。
「だから、ここにいるだれもが、傷つくことはない。想像して!」
陳寿犬は、秒毎に近づいてくる、銀の弾丸を見上げていた。
最初はほんの小さな点であったものが、どんどん近づいて、大きな銀の点に変わっていく。
あれを地上に降ろさないためには、どうしたらよいのか。
消してしまえばいい。想像するのだ。銀の弾丸など、ここには存在しない。
存在しないもので、傷つくものなどだれもいない。
あの弾丸は存在しない。
青い空、五橋公園の木々、ねずみ色の壁をもつペイントアートだらけの録音スタジオ、古ぼけたマンション。弾丸によって傷ついたアスファルト。
想像するのだ。アスファルトの傷は存在しない。通常通り。なにもかも、異常なところは有り得ない。『創造』するのだ。
なにかが軋む音が聞こえたような気がした。
硝子が割れるような、空間という言葉によってイメージする『空間』が、ひび割れて、ずれたような『音』である。
この音は、陳寿犬の中のとある能力を起動させるための、合図のようなものだ。
陳寿犬は、瞼をしばしばと動かし、目の前の光景を凝視した。
何もなくなっていた。
視界のなかにあるのは、五橋公園の木々の枝と、12月の仙台の青空と、五橋会館の壁と、そして、古ぼけたマンションの非常階段の一部だけ。ぐんぐんと近づいてきていた銀の弾丸の姿は欠片もない。
おかしいではないか。
あの弾丸の速さより、声が早かったなどということはありうるのか?
しかし確かに声は、光そのもののような速さでもって、陳寿犬の脳内に入り込み、明確に命令を伝えてきたのだった。
ふと、古ぼけて、非常階段の手すりが赤錆に侵食されているマンションの上層で、何者かの影が動くのが見えた。
この区画に入ってから、初めて目にした、第三者の影である。
と、やはり視界の端で、この隙にとばかり、シグルトとメアリが、地下鉄五橋駅へと逃げていくのが見えた。
「シグルトを追って! わたしは、完全なる者のアストラルを追う!」
と、少女は、マンションの非常階段をすでに駆け上りつつ、叫んだ。
陳寿犬がぽかんとしているのを見て、足を止めて、言う。
「無理に追わなくていい。止められるならば、止めて! ノートゥングを恐れることはないわ。この結界の中では、あの剣は、ただの刃物よ!」
「いや、刃物なら十分に凶器なのでは」
「自信を持ちなさい。この世界では、ほかのだれでもない、あなたが最強なのだから! 想像をしなさい、そうしたら、あなたは誰にも負けないでしょう!」
「ええ?」
「大丈夫、行って! あとからわたしも行くわ! 早く!」
少女の声に促されるまま、陳寿犬は、シグルトたちが向かった五橋駅へと走って行った。
※このつづきは「仙台ゴールデンポークスの章 11」になります