リクエスト企画第三弾
ずんだGAME 番外編
ラクリマ・フィリア
三
やっとまともに見るルーシェンは、「予言が出来る」ということのほうが信じられないほど、大人びたところもなければ、神秘的な雰囲気もない、ごくごくふつうの少女であった。
くせ毛なのか、ちりちりの髪をお下げにして、色鮮やかな色彩の、いかにも子どもらしいかわいい服を着ている。
ルーシェンは、趙雲を見て、人見知りをするタイプなのか、笑顔らしきものをわずかに浮かべ、
「こんにちは」
とだけ、ぎこちなく言ったが、趙雲の横にいるペンギンを見ると、目をかがやかせた。
「さっきのペンギンさんだ! ペンギンさん、どうもありがとう!」
するとスコットは、うれしそうに、びしっ、ときょうつけをして、ルーシェンに向かって敬礼をした。
「お褒めにあずかり、恐縮であります!」
「うわあ、ルーシェン、ペンギンさんとお話しするのは、はじめて。うれしいなあ」
ルーシェンは無邪気に顔をほころばせてみせる。
趙雲は作戦をかえて、自分よりも、スコットを優先して、まえに出して交渉することに変えた。
「そして、かみさまだ」
と、ルーシェンは、今度は神秘的なものをみる、敬虔なまなざしを、趙雲によこしてきた。
趙雲は、あえて服装を、ミッキーやウラニアのように現代風ではなく、むかしまとっていたような、漢代の鎧姿にしていた。
そのものものしい格好が、むしろ幼いルーシェンには、さきほどの話とあわせて、説得力をもったようである。
「かみさまには、なんてごあいさつすればいいのかわからないけれど、よろしくでいいの?」
素直にたずねてくるルーシェンに、趙雲は出来うるかぎりのやさしい笑みをむけた。
「ああ、よろしく。あらためて名乗ろう。趙子龍だ」
「あたしはフェイ・ルーシェンというの。この家で、おじいちゃんと一緒に住んでいるの。お父さんとお母さんはいないの。お母さんは、天国から、たまにお話をしに来てくれるけれど」
母親がやってくるという、それはつまり、予言に関することだろう。
慎重にしなければと思いつつ、趙雲はたずねた。
「おまえの母は、おまえにどんな話をするのだ」
すると、ルーシェンはしばし、ためらった。
どうやら、神の声を聞いたといって、実際にフランスをすくった羊飼いの娘とおなじように、ルーシェンの『声』もまた、その内容を詳細に語ることを、ルーシェンに禁じているようである。
しかし、ルーシェンは、趙雲も『声』の仲間である『かみさま』なのだと判断したか、こどもらしい、真摯なまなざしを向けて、こたえた。
「いつもはね、おじいちゃんの言いつけをよく守りなさいとか、夜更かしをしちゃいけませんよとか、ゲームは一日一時間にしなさいとか、歯はきちんとみがきなさいとか言うの」
学校の教師のような……いや、しつけにきびしい母親の声というべきだろう。
「おまえは、ちゃんとそれを守っているのか」
趙雲がたずねると、ルーシェンは、ちらっと困ったように上目遣いに趙雲を見て、それからあいまいに答えた。
「う、うん。ときどき」
「ときどきというのは、いかんな。おまえの母の言うことは正しい。夜更かしは不健康のもとだ」
「ゲームもよろしくありませんぞ。肩こり、眼精疲労のもとであります」
と、横からスコットが言うが、ハッとなって、またもびしりと直立した。
「申し訳ございません! お許しがないにもかかわらず、口をはさんでしまいました!」
趙雲は、うんざりしつつ言う。
「もう普通にしていて、よいというのに。で、おまえの母は、ほかにはなにをいう?」
「ううんとね、工場長のおじさんのいうことを聞きなさいって。それから、お水に注意してねっていうの」
「水?」
怪訝に思って趙雲がたずねると、ルーシェンはこくりとうなずいた。
そういえば、さきほど工場長と男たちの会話の焦点も、ストライキ云々よりも『水』のことであった。
「あ、おじさんが来た」
ルーシェンが窓から身を乗り出して、屋上にあらわれた、バーベキューをしている男たちにあいさつをしている、ハンチング帽の工場長に手を振る。
ルーシェンは、工場長にじつによくなついている様子が、そのうれしそうな笑顔からも見て取れた。
四十代の、ここ数日間のストライキの苦労が顔に出ている、実直そうな男である。
たしかに、一本芯のとおっていそうな、信頼できそうな男だ。
頑固そうで、片手には、なんのラベルもついていない、水の入ったペットボトルを持っていた。
趙雲が疑問に思うよりさきに、バーベキューをしていた男のひとりが、それに気づいてたずねた。
「上長、なんです、そのペットボトル」
「ああ、ようやく、役員宿舎の水を採取できたんでな、フェイ先生に、分析をしてもらおうと思ってね。どうだい、おまえたちの家の浄水器の調子は」
「おかげさまで、あれをつけてからは、ダルさがとれた気がします。うちの坊主の吹き出物も治ったんですから、やっぱり効果があるんでしょうな。フェイ先生は、天才かもしれませんよ」
笑いながら、男は、首にかけたタオルで、湿気の多い空気のなか、自分の肌を拭いた。
「そうかもしれないな。それと、気になることを聞いたが、子どもたちが遊びで、そこのポンプで水遊びをしていることがあるって?」
と、工場長は、フェイ家のとなりにある、ベージュのポンプを見る。
ベージュのポンプには、いつでもだれでもくみ出せるように、ふつうに蛇口がついていた。
しかし、それは糸でしっかり縛り付けられていて、はがれかけた紙には、
「使用禁止!」
とあった。
どうやら、工場長が『ポンプは失敗だった』と、男たちに言ったことに、まちがいはなかったようである。
バーベキューをしていた男は、片手に肉の串、片手にうちわというかっこうで、ベージュのポンプを惜しそうにふりかえった。
「あの水、美味しかったんですがねぇ。失敗作だったとは残念だなあ。なにがいけなかったんですかい?」
「完全にろ過ができないものだったんだよ。子どもたちは我々より耐性が低いから、あそびにだって使っちゃいけない。かえって、ふつうの水より危ないくらいなんだから」
「あたし、あれを毎日飲んでいたのに」
と、工場長たちの会話を継ぐようにして、窓辺のルーシェンが言った。
そして、趙雲とスコットのほうを見る。
「あのポンプはね、この団地のなかでも、この棟にしかないものなんだよ。おじいちゃんが作った、工場の毒のお水を、きれいな水に換える装置なの。
ふつうの水道水は、カルキで消毒しているけれど、ここの水はとても汚れていて、それだけでも間に合わないほどなんだって。よくわからないけれど、おじいちゃんは、残った毒を、もっと取り除いて、お山に流れているような、つめたくておいしい水に換える装置を作ったのよ。うちのおじいちゃんは、天才なの」
「それはたしかにすごい技術だな。ひとりでやったのか」
すると、ルーシェンは首を振った。
「ううん。工場長のおじさんと二人でやったの。あのポンプは失敗作だったからって、いまはみんなの家の蛇口にとりつけるタイプの浄水器をつくっているの。
おじいちゃんと、おじさんは、とっても仲がよいのよ。
おじさんは、大学の工学部を主席で卒業したんだって。おじいちゃんは、むかし浄水器の開発チームに参加して、日本に十年近く住んでいたこともあるんだよ。
中国に帰ってきたあとは、みんなの壊れた電気製品をなおすお店をしていたのだけど、おじさんに声をかけられて、黒春工場地帯にきたのよ」
「医者じゃなかったのか?」
すると、ルーシェンはこくりとうなずいた。
「お医者でもあったのだけど、おかあさんが死んじゃってから、病気をなおしてあげられなかったことがショックで、自信がなくなっちゃったんだって。でも、工場のひとたちの病気も見るのよ。
おじいちゃんはなんでもできるの。すごいでしょう?」
ルーシェンにとって、祖父は自慢の種らしく、窓の桟に両手をあずけて、うれしそうに顔をほころばせて、そんな自慢をした。
家族から得られる幸福というものに縁の無い人生をあゆんできた趙雲は、しあわせな家族を見るのが好きであるが、しかし同時に、いまだに胸もいたむ。
ふと、唐突に孔明のことが思い出され、そして、泡のように、それは流されるようにして消えた。
いまは目のまえのことに集中しなければ。
ルーシェンの無邪気な様子に、趙雲やスコットも、つられて顔をほころばせた。
「あの浄水ポンプが出来たときは、この棟だけじゃなくって、ほかの棟からも水を分けてくださいってきたほどなのよ。みんな、おっきい甕とか、ビニールのポンプとか持ってきて、ほんとうにすごかったんだから。
整理券は、あたしが配ったの。幼稚園で、数字をならったの。百以上の数を書けるのは、クラスであたしだけなんだよ」
ルーシェンは得意そうに胸を張った。
「だけど、よくわからないけど、不具合があるから、もうあのポンプは、使っちゃだめなんだって。だから、代わりにおじいちゃんとおじさんが、蛇口に直接とりつける浄水器をつくって、みんなにくばっているの。
でも、あの蛇口につける浄水器の水は、ポンプの水よりおいしくないんだ。あたし、あのポンプがどうしてダメなのかわからないけど、あっちのほうがいいなあ」
「そんなにちがうのか」
趙雲がたずねると、ルーシェンは、つぶらな黒いひとみを輝かせてうなずいた。
「うん。甘くておいしいの。おじいちゃんは、あのポンプを『ラクリマ・フィリア』って呼んでいるのよ。『ラクリマ・フィリア』ってね、ラテン語で、『乙女の涙』っていう意味なんだって。ラテン語ってどこのことばか、ルーシェンよく知らないけれど、きれいなことばだよね」
「ラクリマ・フィリアか」
思わず趙雲がつぶやいたときである。
フェイ家の内側から、どたんばたんと、ただならぬ、物が倒れる音と、同時に、男の断末魔がひびきわたった。
「スコット! ルーシェンを守れ!」
言うと、趙雲はアストラル状態のまま、ルーシェンの部屋の窓からなかに飛び込んだ。
悲鳴は、フェイ家の内部から響いてきた。
せまい部屋に、フェイ医師の研究道具と、ルーシェンのためのさまざまな、かわいらしい道具が混在している。戸口はどれもせまく、そして家具が多すぎる。
玄関からもばたんと、扉がひらく音がして、これは、悲鳴に反応した工場長たちが、中には入ってきたものらしい。
室内には三つの部屋があり、ルーシェンの部屋を出ると、すぐに廊下になっている。
この廊下を中心に部屋は配置されているのであるが、廊下の奥まったところにトイレと風呂場があり、そのさらに手前に台所がある。
そうしてルーシェンの家の真向かいに居間があり、点けっぱなしのTV画面では、どこかで見たことのある女優が出演しているドラマが放映されていた。
ふるぼけた卓があり、そのうえには、ルーシェンと自分が食べようと思っていたのだろう。
フェイ医師の作ったとおもわれる、素朴な食事がある。
焼き魚と白米と茶と、きゅうりのおひたしという、健康的なものである。
卓の横には、周囲の色とりどりなファンシーなルーシェンの小物とまったくそぐわないことに、金属の部品が所せましとならべられた、オフィスでもつかうような金属の棚と机があった。おそらく、それが、フェイ医師の作業場だったのだろう。
そうして、その机の前で、フェイ医師が倒れていた。
フェイ医師の横には、あの公園で見たのとおなじ気配をただよわせた、しかし風貌のちがう、いかつい白系ロシアの風貌をした男が立っている。
どこかの特殊部隊で訓練を積んだかのような見事な筋肉をもっていることが、その服の上からも見てとれる。
はっきりと部屋に入ってきた趙雲を見据えたことから、これが霊的存在であることがわかる。
アトラ・ハシースやアストラルを目視できる特殊部隊員なんぞに、ついぞお目にかかったことが無いからだ。
そしてなにより異質なのは、その男の眉間に埋め込まれている、銀色の、目玉のようななにかの金属の珠だ。
武器か、それとも護符か。
趙雲は、ちらりと、うつぶせに床に倒れたフェイ医師を見た。
首筋から、鮮血が流れて、床を伝ってよごしている。
みて、すぐにわかった。
残念ながら、一面識もないうちに、フェイ医師は事切れてしまったようである。
瞑目するその横顔は、ルーシェンが自慢していたとおり、人のためになにかをすることに喜びを覚えることのできる、善良な男のそれである。
きっと、ルーシェンにとって、とてもよい祖父であったにちがいない。
怒りが沸いてきた。
理不尽に、その圧倒的な暴力によって、ささやかな幸福を壊すもの。
これがどこから入り込んだアストラルなのか、ウラニアはわからないと言っていた。
しかし、だからなんだという。敵は敵だ。
倒す。
趙雲は、相手に誰何することなく、すでに受け取っていたミッキーからの霊石でもって、このせまい場所で戦うに、もっとも適した長さをもつ、『月牙刺』を精製した。
得意とするのは槍であるが、この狭い室内で使用するには、適していない。
『月牙刺』は両手にそれぞれ携帯する武器で、両端に、槍とおなじ刃がそなえられている。そして中央に握り手があり、使用者は、これを刺したり、あるいは突き放したり威嚇するのに使用する。
殺傷能力も高いのであるが、そのかわり、槍とちがって、敵との距離感が近くなるのが難点といえば難点である。
相手は、さすが白系ロシア人らしく、スペツナズナイフを取り出してきた。
これはただのナイフでは無い。いざとなれば、ワンタッチで、その刃を飛ばして、手裏剣のように相手に突き刺すこともできる武器なのである。
趙雲が、『月牙刺』でもって、せまい室内を縦横に動きまわり、攻撃をはじめる。
スペツナズナイフ片手の敵は、これもまた、無言のまま、蜂がつぎつぎと攻撃をしてくるような素早さで繰り出される趙雲の攻撃を、丹念にはじいていく。
この冷静さ。どこか機械を思わせる。
服装が、趙雲とちがって、白いTシャツにカーキー色のズボンという、時代の特定のできない服装だけに、いかなる時代のアストラルであるかはわからない。
しかし、なかなか手ごわい相手だということはわかった。
敵が、スペツナズナイフを趙雲の咽喉もとめがけて突き刺してきたとき、趙雲は、片方の『月牙刺』でこれを防ぎ、もう一方の『月牙刺』でもって、男の目をめがけて、真横にこれを切りつけた。
視界さえ塞いでしまえば、どんな敵であろうと、これを恐れることはない。
しかしおどろいたことに、敵はすこしよろめいただけで、まるで眼球は、ただの飾りでもあったかのように、平然と攻撃を繰り出してくる。
アストラルに痛覚はない。
五感を抑えているためであるが、視界が失せれば、話は別だ。
痛みがある、ないにかかわらず、見えないのだから、動けないはずなのである。
さすがに趙雲が戸惑っていると、そこへ、さわぎを聞きつけたルーシェンと、スコットが居間にあらわれた。
そうして、ルーシェンは趙雲と、男と、そして床に倒れた祖父を見つけて、悲愴な声をあげた。
同時に、玄関から、工場長をはじめとする男たちがやってくる。
視界を失ったはずの男は、そこではじめてナイフを趙雲に向けるのを止めて、工場長たちのほうを向いた。
うろたえたのではない。
そうではないことは、すぐに知れた。
男の敵意は、ルーシェンと、工場長のほうに向けられたのだった。
倒れる祖父に駆け寄ろうとするルーシェンを、あらわれた工場長が、背後から引きとめ、そして、憎悪にゆがんだ顔を、はっきりと、ロシア人に向けた。
おそらくアストラルであろうこのロシア人が、かれらにも見えているのだ。
「貴様! 何者だ! 企業に雇われたのか! この子はおまえたちには傷つけさせないぞ!」
そうして、工場長は、しっかりと、ルーシェンをその大きな身体で抱きしめて守った。
工場長の気迫に呑まれたものでもなかろうが、敵の攻撃に迷いが生じた。
おそらくは、どちらを先に始末するべきかを迷ったのであろう。
そこを逃す趙雲ではない。
背後より、『月牙刺』を両方でもって、思い切り、急所めがけて振り下げる。
真正面からではないことに、卑怯だなんだと口にするのは、トーナメントのような試合のときだけ。
生死のかかったこのときに、なりふり構ってはいられなかった。
すくなくとも、このアストラルは、肉体を消滅させないかぎり、この家から消えないのだから。
趙雲の動きにあわせ、ルーシェンの足元にいたスコットもまた、ふたたびみずからのヒレを金属のようにするどく変身させると、高速回転して、ロシア人の両足を容赦なくきりおとした。
ざばっ、と音がして、趙雲の目のまえのロシア人が、奇妙な形で倒れこむ。
と、同時に、それはフェイ医師の上に倒れこむ直前に、まるで悪夢か幻であったかのように、霧散した。
工場長たちには、ロシア人は見えたが、スコットと趙雲は見えなかったらしい。
すさまじい暴力のあとの静けさのあとには、ルーシェンの、怯えと悲しみのまじったいたましい泣き声だけが響きわたった。
フェイ医師の葬儀は、工場長を中心に、厳粛にとりおこなわれた。
ルーシェンは、フェイ医師の倒れたときの姿がいまだに目に焼きついて離れないためか、ずっと怯えて、泣きつづけている。
これをスコットがぴたりとくっついて、懸命に、頭をなでたり、南極でのたのしい話をしたりして、ルーシェンを励ましているのであった。
フェイ医師の死をうけて、遺児であるルーシェンをどうするかで、第三工場のひとびとは紛糾している。
なにせ、ルーシェンは、ほかに身寄りがない。
しかも、ただの孤児ではない。
第三工場のストライキを支える予言者なのである。
フェイ医師は、これを狙ったテロリズムの犠牲になったのだと、工場の人々は憤っていた。
すくなくとも、あの遺体すら残さなかった不可思議なロシア人と、フェイ医師が死んだ家に、ルーシェンを置いておくわけにはいかない。
ルーシェンは、ひとまず工場長の家に引き取られることになったようである。
ルーシェンも、ほかのだれより、工場長になついていたため、みな、納得したようだ。
第三工場のひとびとの、経営陣に対する憎悪たるや、いまやすさまじいものがあり、それまでは、重役の乗る高級外車に生卵をぶつける程度のいやがらせで気をすませていたかれらであったが、いまは、だれでもいいから、重役陣のひとりを、おなじ目にあわせてやならなくちゃいけないとまで言い出した。
工場長は、いきりたつかれらを誠心誠意をこめて説得し、無償で、ひとびとに浄水器をつくって渡していたフェイ医師が、自分のためにだれかが殺されることをよろこぶだろうかと訴えた。
工場長のそのことばは、かなりの効果を示し、ひとびとは、フェイ医師の葬儀が終わるまでは、おとなしくしていることにした。
この動きを察してか、フェイ医師には、特別褒賞が企業から与えられることになったと発表されたが、それは第三工場のひとびとに、なんの感慨も与えなかった。
フェイ医師が死んだことで、特別褒賞はルーシェンが受け取ることになったのであるが、おどろいたことに、この幼い少女は、与えられる特別褒賞のすべてを、フェイ医師のしていた飲料水の改善の研究費にあてたいと言ったのだ。
それが、天国のお母さんの意思だと、彼女は付け加えたので、ひとびとはむしろそちらに感激し、この子は、もしかしたら菩薩の生れ変わりか、そうでなければ『ほんもの』の神の子ではないかしらとさえ噂した。
よくない傾向であると、さまざまな現象を目の当たりにしてきた趙雲は思う。
突出しすぎる者というのは、善であれ悪であれ、いつかはそのしっぺ返しとでもいいかのように、ひどい方法で地に引きずりおろされるものだ。
おさないルーシェンに、功名心などあるはずがない。それがわかっているだけに、周囲のひとびとの、ルーシェンに対する特別扱いのつよさに、趙雲はあやうさをおぼえていた。
とりあえずは、おなじ危惧を、あの工場長も持っているらしく、この悲劇にニュース性を嗅ぎ取ってあらわれたマスコミの前にも、ルーシェンを出そうとはしないし、ルーシェンのことばや、フェイ医師の死をつかって、ストライキを煽ろうとする気配はない。
しかし、趙雲には、ひとつ、わからないことがあった。
フェイ医師を襲った白系ロシア人が消えた際、残ったのは、眉間に埋め込まれていた、この奇妙な銀色のボールだけであった。
趙雲はそれをひろいあげ、観察したのであるが、微量な霊力が感じ取れるだけで、なんらかの増幅器ではなさそうである。
それは両側に髭の男の顔が彫りこまれたもので、かつてローマ帝国の街道のあちこちに据えられていたという神ヤヌスの像にも見えた。
そしてもうひとつ。なぜ、予言者であるルーシェンは、大事な祖父の身に起こるであろう悲劇を予想できなかったのだろうか。