ずんだ&ゆべしの章 2
※ この話は、「ずんだ&ゆべしの章1」のつづきとなります。
こめかみのあたりから、頭痛がひどくなっていく。
屋上に行かねばならないのに、屋上という空間そのものから拒否されているかのような感覚がある。吐き気までしてきた。
視界が、ひどい頭痛のあまり、涙目になっていく。
帰れ、こんな思いまでして、あんな娘のために。
また声が聞こえてきた。
あんな娘、って、何にも知らないくせに!
とはいえ、アコも、ヨーコの何を知っているかと問われれば、何も知らないに等しいのである。おそらく、その逆も然り。
いつもは数字錠がかけられ、開くことのできない重い扉に手をかける。
屋上にはふたつの出入り口があり、ひとつが、給水塔のすぐ脇の扉、もうひとつが、いまアコが入ってきた、裏庭に面する階段から出ることができる入り口である。
むかし、自殺未遂をおこした子がいたために、ずっと封鎖されていた屋上だ。
だれが開けたのだろう、と頭の隅で考えつつ、暮れなずむ紫色の空の下の屋上を見る。
とたん、目の前に飛び込んできたのは、銀色の波であった。
いや、銀のヘンテコが屋上に集結し、給水塔の壁際においこまれているヨーコに群がっているのである。
蟻が道端に落ちた飴に群がっているかのようであった。辛うじて、ヨーコは無事で、ぎゃあぎゃあと悲鳴をあげながら、寄ってくる銀のヘンテコから逃れようとしている。
そうして、目ざとくアコを見つけ、叫んだ。
「アコぉ! 助けてよ!」
「う、うん」
返事をしたものの、この銀のヘンテコ、どうしたらいいわけ?
不意にぐらりと視界が歪み、なぜだか、暗い樹海が脳裏を掠めた。
聞いたことのない、男の子たちの声が聞こえる。
どこへ行った、どこへ行った、どこへ行った…
ナニコレ?
正気づかせるために、いまやガンガンと痛み始めた頭を振るって、アコは意を決し、自分には背中を向けている銀のヘンテコたちに向かって、足を進めた。
さっきの金髪の吸血鬼(しかも死神のような鎌を持った)ほどの殺気は感じない。
だいじょうぶ、さっきより、怖くない。さっきより…
人間って、慣れるものなんだな、と妙なところで感心しつつ、アコはそおっと銀の波を掻き分けて行った。
意外なほど、銀のヘンテコはアコに興味を示さない。触れられようが、あやまって足を踏まれようが、彼らの見つめているのは、ヨーコただ一人なのである。
かれらはでっぷりした胴体に似合わぬ、小さな銀色の手を、いくつもいくつもヨーコに伸ばしている。
まるで、ヨーコからなにかを求めている、幼児のようだ。
「やめてよ、あんたたち! 触んないで、触んないでってば!」
ヨーコは、そのひとつひとつを手でぴしゃりと撥ね退けていくのであるが、その言葉、ヨーコの声ではなく、その言葉自体に、ふたたびアコの視界がゆらめいた。
触らないで、いや、触らないで…
どくん、と心臓が跳ねた。本格的に吐き気がこみ上げてきた。
怖い。手足の先が、怖いくらいに冷えてきた。頭が割れそうに痛い。
わたし、どうなっちゃったの?
『思い出すな!』
ぱっと電光がひらめくように、力強く明るい声がはじけた。
まさに、はじけた、という表現がぴったりの、明るく凛とした、美しい声であった。
その声一つで、アコは正気に戻り、周囲を見回した。
「だれ?」
『いまは思い出してはならぬ! そなたは我の守りし娘、最上亮子である! よいか、レティクルどもは、ヨーコのもつ霊具に惹かれて集ってきているのだ。その霊具を、ヨーコから引き離せ! わたしと、いまのお前ならば、霊具の力に跳ね飛ばされることなく、それを維持することができる』
「レイグ?」
『ヨーコに、フランスからの留学生のメアリとかいう遊び友達がいる、といったな? おそらくその者こそが、レティクル側の用意した、偽のアトラ・ハシースなのだ。ヨーコに、メアリから最近与えられた物がないか、聞け!』
「わ、わかった」
姿の見えないだれか。
しかし、階段を登る途中で警告を発してきたあの声よりも、なお深いところから、強く優しく響いてくる。あのアストラルとおなじ光の気配がする。
アコは、壁際で、果敢に銀のヘンテコと戦い続けるヨーコに尋ねた。
「ヨーコ! 最近、メアリって子から、貰ったもの、なにかない?」
「メアリ? はあ? あんた、なに言ってんの?」
「重要なことなの、思い出して! メアリって子から貰ったものだよ!」
そんなの、と言いながらも、ヨーコは蠅を素手で叩きつける要領、あるいは、バレーボールを敵陣コートに叩きつける要領で、ばしりと銀のヘンテコの手を叩き落し、考え込み、それから、あ、と言った。
「そういえば、鏡をもらった」
「どんな?」
「アンティークだとかいって、お守りにもなるから、持っていて、ってさ…」
ヨーコはそういいながら、スカートのポケットから、手鏡を取り出した。
それはちょうど、ヨーコの手のひらくらいの大きさの鏡で、鏡面はともかく、背後に見事な文様が鋳造されたものである。銅製であることは、遠目からでもわかった。
とたん、悲鳴とも呻きともつかない声がアコの脳内に響き渡った。
『その鏡面を見てはならぬ!』
「え?」
みるな、といわれても、アコとヨーコの距離は、銀のヘンテコによってかなり隔てられており、しかも鏡の小ささからいえば、とうてい覗き込めるものではない。
ヨーコは、銀のヘンテコを追い払いつつも、ほら、とアコに手鏡を見せる。
夕闇であった。
残日が、玉子の黄身のように西の空にゆっくりと解けていくのが、屋上から見える。
まさに、そのわずかな陽光が、手鏡に集中して集ったかのような光が、突如として放たれた。
目の前で、何千台というカメラのフラッシュが焚かれたような光が、アコを襲う。
もはや銀のヘンテコも、ヨーコの姿も見えない。
ただ、それだけ。
まぶしい、とは思ったし、しばらく目がちかちかしたが、それ以上のことは、なにも起こらなかった。
だが、アコは、すぐに己の身体に起こった異変に気づいた。
身体が異常にだるい。
だるい、などという単純な言葉では表現しきれない。
手足が氷のように冷たくて、蝋のように青白い。わずかな動作をしようとするにも、身体が、というよりは、身体を築いている細胞のひとつひとつが沈黙して、言うことを聞かなくなっている。
『なんのために?』
階段を登る途中で聞こえてきた声が、とても懐かしい声が、ふたたび頭の中に響いてきた。
『さっさと見捨てて逃げちゃえばよかったのに! こんなやつのために、どうしてこんな思いまでしなくちゃならないの?』
膝に力が入らず、がくりとその場に崩れ落ちる。
見ると、鏡から発せられた光により、銀のヘンテコたちも相当のダメージを食らったらしく、あちこちでしゅうしゅうと異臭をさせながら、消滅していくのが見えた。
ヨーコは、といえば、自分が、ただ取り出しただけの鏡の威力に、ぼう然としている。
「な、なにこれ。あたしってば、セーラームーンみたい」
などと呑気なことを言っている。
アコのほうは、それどころではない。
『もう遅い、逃げなかった、あなたがいけないんだ!』
なんとか立ち上がろうと力をこめるが、腕の力すらなくなってきた。
その段になって、ようやくアコは気づいた。
一子の手を振り払い、屋上に上るまでに聞こえてきた声と、屋上で命令してきた声は、別のものである。
階段で聞こえてきた声、そして、いま脳内に響き渡っているこの声は、自分の声だ。
腕ですら力が入らず、アコはその場にすっかり倒れてしまう形となった。埃っぽい屋上の床に倒れ伏す。
力入らない。これ、貧血?
ううん、貧血なんてレベルじゃない。爪の先だって真っ白で、血が通っていないみたい。身体が重い。とてもつめたい。寒い。
わたし、死んだ人みたい。
とたん、屋上に、校舎に、そして中庭に、校庭に、高らかな勝利の笑い声が響き渡った。
アコは、重たくなるまぶたを懸命に励まし、笑い声の主を探した。
あいかわらず、給水塔の壁際には、ヨーコがぼう然としており、やはり、同じように、どこからか降ってくる笑い声の主を探している。
「どう? 真実を映す鏡の威力は? これで攻撃型アトラ・ハシースは、ジャンヌ・ダルクひとり!」
閉じよう、閉じようとするまぶたを励ましつつ、横たわったまま見ると、給水塔のうえに、見たことのない、金髪の巻き毛を夕闇に輝かせる、白い薔薇のように可憐でうつくしい少女が立っていた。
おそらく十六、七で、同じくらいの歳であろう。
給水塔に立つ外人娘の蒼い瞳が、蔑みを隠さず、まっすぐアコを見下ろしていた。
ヨーコは首を伸ばし、給水塔の娘を見つけ、声をひっくり返して抗議をしている。
「メアリ! あんたいつからそこにいたの? っつーか、いるんなら、助けてくれてよくない?」
そうか、仙台零高のフランス人留学生のメアリというのが、この子だったのか、とアコは徐々に凍り付いていく感覚のなかで思った。
同時に、なんでもいいから、考え続けることを止めてはだめだ、と自分に言いきかせる。
考えることを止めてはだめ。きっと、あのアストラルが助けにきてくれる。それまでは、絶対にここで眠ってはだめ。
メアリはというと、ヨーコの抗議の声に、その愛らしい顔をゆがめて、侮蔑を隠さずに、言い捨てた。
「下賤の民が、気安くわたくしをメアリ、などと呼ばないで。知恵の足りない愚民にしてはよくやってくれたわ。それだけは誉めてあげる」
「なに言ってんの、アンタ。いつもの女王さまごっこ?」
メアリは、明るく声を立てて笑いながら、金髪を手で軽く払いのけた。
「ごっこなんかじゃなくてよ。その鏡は、あなたには過ぎたものだと反対されたけれど、ここまでうまくいくとは思っていなかったわ。アスカロンに隠されたアトラ・ハシース。けれど、覚醒さえすれば、かならず世界を守るため、ヨーコに近づいてくる。そのための罠だったの。
もう二度とお会いすることはないでしょうね、御機嫌よう、東洋の北斗の龍よ。次に遭うときは、最高府の給湯室とやらの、冷蔵庫の中かしら」
「なぜそれを」
アコは、自分の口から、絞り出されるようにして、さきほど響いた、明朗な青年の声が飛び出すのを聞いた。
絞り出されたその問いに、メアリは同情をたっぷり籠めた、といわんばかりの顔で、悲しそうに言う。
「ヨーコの持っている鏡は、あなたの敵だった魏の曹氏が、卑弥呼のために贈った鏡だったのよ。その鏡はね、すべての真実を余すところなく映し出してくれるの。つまり、あなたを宿している娘の真の姿も、暴き立ててくれた、というわけ。風雷を操りし東洋の龍・諸葛孔明。まともにぶつかっていたら、こちらも危なかったけれど、こういう形で退場してくれて、感謝しているわ。
安心なさって。あなたのアストラルも、じき、この世から消滅させてあげる…いいえ、『永遠に消去して差し上げる』というべきかしら。そうして、アストラルへの責任を果たせなかったあなたは、煉獄へと連行される。
ドンレミの田舎娘には、わたしから、よろしくと伝えてさしあげても、よくってよ」
アコは、今、別の力が内側から沸きあがり、なおも立ち上がるのを手伝ってくれているのを感じた。腕に力をこめるものの、しかし果たせず、がくりと床に崩れてしまう。
「おやめなさいな、悪あがきは、みっともなくってよ。死んだ娘に受肉したのが、そもそもの不運だったわね。さようなら、消えなさい…その娘と一緒に」
「ちょっ、え? 死んだって? メアリ、あんたアコになにかしたの?」
ヨーコの抗議の声に、メアリは不快そうに、朗々した、いかにも女王らしい美声で告げた。
「わたしがしたのではないわ。あなたが、そう仕向けたのでしょう? 忘れたの? この世界は、ずっと12月を繰り返している。
いちばん最初の12月、あなたは、この娘を無理にドライブに誘い出した。霊屋橋で花火をするためにね。あなたは、ただ遊びたかっただけかもしれなかったけれど、あなたと一緒にいたほかの男たちはちがったの。あなたに内緒で、この子だけを青葉山に連れ込んで、みんなで手篭めにしようとしたのよ」
「うそ! あいつら、そんなやつらじゃないよ!」
ヨーコの悲鳴にも似た声に、メアリはますます不快そうに鼻を鳴らした。
「あなたを見ていると、たまに殺してやりたいほどに不愉快だわ。似ているのよ…むかしのわたしに。みんなから愛されることを、当然の権利だと思って、いかなる理由があろうと、裏切り自体が悪だと単純に信じていた、むかしにね。
あなたが、男たちの手にかからなかったのは、単にあなたを傷つけたら、あなたの父親が出てきて面倒だから、それに、あなたから遊ぶ金をもらえなくなるから。あなたが好きだからでも、なんでもないの。おわかり? あなたは誰にも愛されていないのよ」
「やめろ!」
まだなお立ち上がろうとしながら、アコの中にいる孔明は、消滅寸前の最後の力をつかって叫んだ。
ヨーコのしたことは、結果としてアコを追いつめ、死に至らしめた。
だが、ヨーコ自身には、呆れるほどに、そんなつもりはなかったのだ。本当に。
孔明の声に、メアリはいささか怯んだように眉をしかめたが、立ち上がろうとして、ふたたび、糸の切れた人形のように倒れた姿を見て、言った。
「自分と肉体を共有する娘の受けた恐怖を、あなただって知っているはずよ! 必死に男たちの手から逃れ、だれもいない道を懸命に走って、ヨーコの元へ戻ろうとしたときの気持ち、追っ手がせまってきたので、隠れようとして、あやまってガードレールを飛び越して、崖の下に落ちて行ったときの絶望。そうして、肉体が停止しても、なお魂は、救いを求めて彷徨っていた、孤独と恐怖に満ちた気持ち! それでも、この愚かな娘を庇うの?」
「故意じゃなかった」
「あきれた公平さだこと。善を助け、悪をくじくのがアトラ・ハシースの役目でしょうに。あなた、そもそもアトラ・ハシースに向いていないのじゃなくって? いままで堕天していなかったのが奇跡なのかもしれなくてよ。
でも、それも今日でおしまいね。ほら、まるで貴方との別れを惜しんでいるような、鮮やかな落日じゃなくって?」
と、メアリは、芝居がかった仕草で、西の空を礼賛するように両手をひろげて見せた。
「あなたを消し…あとはジャンヌ・ダルク。アタチュルクは問題ないわ。この世界は、もうすぐ、わたくしのものになるのよ!」
そういって、メアリは心から嬉しそうに笑った。
屋上へと急ごうとする趙雲とエリザベスの前に、奇妙な具合に頭部のひしゃげた吸血鬼が立ちふさがった。
趙雲は、これほど奇妙な形状をした頭部を保ったまま、その下はまったく無事で、ふつうに動き回っている『物体』をはじめて見た。
頭部の半分は巨大な鉄槌で押しつぶされたように凹み、首の骨は奇妙に折れ曲がり、辛うじて無事な片方の目だけは、信号を送ろうとしているかのように、なんどもまばたきを繰り返しており、絶えず血の涙がこぼれている。
だが、そんな状態にあってもなお、吸血鬼の表情に、苦悶や苛立ちは浮かんでいなかった。
趙雲が槍を構えると、鎌を手にした吸血鬼は、首からひゅうひゅうと息をこぼす。
そうして、片手で、ぐいっ、とひしゃげた首を押し戻すと、なんどか左右に首を振って、それから深くため息をついた。
「ようやく口がきける」
「そこをどけ、吸血鬼。いまなら、貴様も倒せるやもしれぬ」
趙雲は、エリザベスを背後に庇う形で踊り場に立つと、手にした炎をまとう槍の穂先を突きつけた。
エリザベスもまた、あらたな霊力の結晶たる石を吸血鬼にぶつける用意をする。
「不死者の呪いを受けたものは、呪いを解く術(すべ)を、自分では知ることはできない。だからこその、呪いともいえるのじゃ。なのに、こやつは呪いをとく術を探そうとした気配すらない。『死』に生きることを何より喜んでおる。まさに人類の敵ぞ。
放置すれば、さらに被害者は増えよう。ここはひとつ、消滅は無理でも、封じることくらいはできようぞ」
しかし、吸血鬼は血の涙をたらしながら、それでも人形のように半分だけとなった唇を、ぱくぱくと懸命に動かしながら、言った。
「邪魔はしない」
「なに?」
「邪魔はしない、と言ったのだよ、東洋の騎士。不死者とはいえ、わたしはアストラルではないから、肉体回復に、どれだけの苦痛を伴うと思うのだね。こうして口を利くのさえ、たいそうな苦痛なのだ。一度しか言わぬ。とっとと屋上へ行き、おまえの龍を救うがいい。メアリ・スチュワートがあらわれ、最上アキラ子ともども、この世界から消滅をさせんと、攻撃を仕掛けている」
エリザベスが驚愕と憤怒の入り混じった声で甲高く叫んだ。
「メアリ! あの女も来たのかえ?」
「攻撃型アトラ・ハシースたる諸葛孔明を封じてしまえば、ほかは取るに足らぬと思っているようだ。聖剣アスカロンが、ラ・ピュセルを守ってはいるだろうが、このままではメアリ・スチュワート…レティクルにラ・ピュセルが負けてしまう。そんなことが、あってはならぬのだ」
「貴様の論理は支離滅裂であるが、語っていることは真実なのだな?」
趙雲が言うと、ようやく吸血鬼は苛立ちをこめて言った。
「こんな酷い有様にあるときに、嘘をつくとでも? おまえにもいつか、必ずこの苦痛を味合わせてやろう。死ねたほうがどれだけましか、わからぬほどだ。いいかね、不死者とはいえ、痛覚は残されているのだよ!
さらによいことを教えてやろう。メアリは、ヨーコのために霊具を用意した。それは、すべての真実を明らかにする力を秘めた鏡、卑弥呼の鏡だ。だが、それをメアリが持っている、というのではなく、ヨーコが持っている、というところが勝機をつかめるか否かの、分かれ目であろうな」
「卑弥呼の鏡だと? 相性が最悪なわけだ」
と、趙雲は、孔明が昼休みに語っていた『ヨーコの霊具』の話を思い出していた。ほかならぬ、生前の天敵の作ったものなのであれば、それは嫌悪感を抱いて当然であろう。
「真実か…」
ふと、そんな言葉が口をつき、同時に、趙雲の背筋に戦慄が走った。
真実? 肉体から、最上アキラ子の意識を封じ込めていた紫水晶は、吸血鬼を食い止めるために、砕け散ってしまった。いま、意識上に出ているのは、最上アキラ子であろう。
あの心優しい娘は、ヨーコを助けるため、屋上へ向かったのだ。
そして、ヨーコの霊具にさらされた場合、どうなる? 最上アキラ子の真実というのは、なんだ?
ほかならぬ、すでにおのれが死んでしまっている、という事実ではないか。
趙雲は、もはや吸血鬼の存在を忘れ、一気に屋上へ駆け上った。
必ず助けてやる、と約束をした。
この世界に留まるために、契約を結んだ娘。
アコの肉体が、今回のループで『死んで』しまえば、孔明が解放されるのか、といえば、それは疑問であろう。
孔明の霊力は、アコの肉体を維持することにおいて、ほとんどが消費されていた状態だ。そのうえで、アコの肉体から解放されたとして、戦えるのか?
この世界から孔明が消滅する、ということは、アトラ・ハシースの集う場所である『基本世界』(いうなれば、世界の中心となっている人間社会のコピーである。ただし、住まうのはアトラ・ハシースとアストラルだけで、人口も少ないため、社会制度もなく、当然、只人の世界…ひらたくいえば、われわれの世界…とは、ライフスタイルから文明の進度も、なにもかもちがう、汎世界から遮断され存在する、いわば死後の世界、選ばれし者のための楽園である)に帰ることとなる。
召喚したアストラルへの責任を果たせないまま。
どうなるか?
問答無用で煉獄行きだ。
趙雲が屋上に行き着いたとき、目の前にあるのは、しゅうしゅうと耳障りな音をたてて、異臭を放ちながら消滅していく銀のヘンテコたちと、ぞっとするほどの白い身体を屋上に横たわらせ、それでも懸命に立ち上がろうとするアコ…いや、只人となった趙雲でも、その力強い光のような力を感じる…孔明が、アコと共に、なおも立ち上がろうとしている姿が見えた。
給水塔の上には、初めて見る、見事なブロンドを風になびかせ立つ、美しいが驕慢な表情をたたえた娘。
そして、その下には、恐怖か、悲しみか、怒りか、それとも別の何か、あるいはすべてかに支配され、がたがたと震えるヨーコの姿があった。
趙雲は、すぐさまアコに駆け寄り、たった一人、立ち上がろうとしていた娘を起き上がらせる。
その身体は、思わず、手が強ばるほどに、異常に冷たい。血がまるで通っていない、死者のものだ。
趙雲の手が強ばったのは、その肌から伝わる冷たさに仰天したからではない。生き物として、反射的に死を拒絶し、強ばったのである。アコの身体は、死人のものに変わり果てていた。
そして、アコのその白すぎる目、月よりもなお青白く表情のない相貌、紫色の唇を見て、趙雲は、激しい怒りと悲しみが、同時に湧きあがるのをおぼえた。
アコの紫色の唇が、ゆっくりと動く。
「よかった、来てくれたんだ」
それは、孔明のものではなく、まぎれもなくアコのものであった。
安堵したように微笑むその顔をみて、不覚にも趙雲は涙がこぼれそうになった。
あまりに哀れであった。これほどに人というものを信じている娘が、残酷にも、人に裏切られて死なねばならなかった。
いいや、死んだのではない。
まだ、完全に死んではいない。
必ず助けると、そう約束したではないか。
「実によいところへ来てくれたこと。これで一気に、カタをつけることができるわ」
自信に満ち溢れた、朗々としたこえが屋上に響き渡る。
見上げれば、給水塔のブロンドの娘の身体が、まるで自身が星のように、淡い光に包まれていた。
孔明の持つ、どこまでも明るく清らかな光の気配とはちがう。
美しいが禍禍しく、それでいて、人を引き付ける、妖魔の気配であった。
そして、娘の手には、十字型をした、巨大な、槍とも剣ともつかぬ武器が握られていた。
逆さ十字の柄、ありとあらゆる呪詛の言葉が刀身に丹念に彫りこまれており、そのひとつひとつが、まさにこめられた恨みと憎悪をいまこそ解き放たんと、不気味に光っている。
趙雲の背後にいたエリザベスが、呻くように言った。
「魔の十字剣フラガラッハ! なるほど、怨霊の女王には似合いの武器じゃ。そなたは、その剣にて、己れの身勝手な野望を、果たさんというわけかや?」
エリザベスの声に、メアリは、それまでになく、険しく顔を歪ませた。
「御機嫌よう、お姉さま。まだしつこく、この世界に留まっていらっしゃったなんて、存じませんでしたわ。この報復を与える剣にて、まっさきに貴女の首を跳ねて差し上げたいところですけれど、いまは、そちらのアトラ・ハシースが先ですの。申し訳ないのですけれど、しばらく黙って見ていて下さらないかしら?」
「わらわに命令するつもりかや、恥さらしめが! そなたこそ、元いた闇の世界へと戻るがよいぞ、妄執の鬼めが!」
「なんと言ってくださっても結構よ! いま、有利なのはわたくし。お姉さま、初めて、わたくし、お姉さまに勝てそうですわ」
「あくまで可能性じゃな。そなたは、わらわには、勝てぬ」
メアリは憎悪のありったけを籠めて、従姉にて、真のアトラ・ハシースたる、エリザベスをにらみつけた。
「ちゃんと状況を見て、おっしゃっているのかしら? いま、あなたはアトラ・ハシースでありながら、石に籠めていた霊力のおかげで、辛うじてこの世に留まっているに過ぎない存在。
只人となったアストラル、そして死肉に宿っているアトラ・ハシース。そんな弱弱しい三人で、このフラガラッハを手にしたわたくしに、勝てるとお思い?」
そういって、メアリは、剣の形状をもつ、投擲武器である『報復の剣』フラガラッハを、アコと、アコを助ける趙雲、そしてエリザベスに向けて構えた。
メアリ・スチュワートは、狩りをもこなす活発な女性であった。
同時に、戦のときには甲冑さえまとって、兵士を鼓舞したという。
レティクルによって霊力を提供され、アトラ・ハシースとしての力を備えたメアリであれば、フラガラッハを奮うに、問題はない、というわけである。
メアリの薔薇色の唇に、早くも勝利の笑みが浮かんだ。
羅貫中犬は、西の空の異様な色合いに、思わず懸命に走る足をとめて、唖然とした。
「なんなの、あの死斑みたいな紫色の空は」
死斑。
おのれで口にしておきながら、その言葉に、羅貫中犬は、ぶるりと身をふるわせる。
仙台の街中で、犬がたった一匹でいる、ということはめずらしい。
そも、街中で散歩する犬は、たいがいが愛玩用の小型犬で、中型犬のシェットランド・シープドック、羅貫中犬(本当はポニーという地味な名前だが)は、かなり目立った。
「カワイー」などといって撫でてこようとする者もいたが、いちいち答えてはいられない。
羅貫中犬が見据える西の空の方角には、一子の通う、私立千台栄華学院がある。
一子の身になにかが起こっているのか?
五橋公園の結界から抜け出してからずっと、羅貫中犬は、自分でもおどろくほどの速さで町を駆け抜け、愛宕上杉通りのゆるやかな坂道を走り抜けていた。
そのあいだも、息が切れることもなければ、心臓がはげしく鼓動をすることもない。
己が、単なる喋れる犬(それでも十分にすごいことであったが)であるだけではなく、アトラ・ハシースという、選ばれし魂、そしてこの世界を守るべき存在なのだと自覚したときから、羅貫中犬のちいさな身体に秘められていた力が、開花をはじめたのだ。
あれだけ恐れていた、銀のヘンテコの気配は町にない。
いや、気配はあるのだが、やはりあの、不吉なあやめ色の空の下に、その気配は集っているのである。
羅貫中犬は、ひとまず、上杉にある浅野家が無事かどうかを確かめるべく、走っていた。そうして、自分がそれまで普通に過ごし、暮らしていた家が、なんとアドバルーンのように宙に浮いているのを発見する。
それは、聖なる力に強固に守られていた。
「ブリュンヒルデが施してくれた、オーディンの結界だわ」
耳をすませば、家の内側から、浅野家の両親、そして志郎の、いつもの和やかな団欒の声が聞こえてくる。
その特に楽しそうでもない、ありきたりの会話を聞いているだけで、羅貫中犬は泣きそうになってしまう。
この、平凡な日常をこそ、アトラ・ハシースは守る存在なのだ。
それを思い出したのである。
一子はまだ帰宅していないようだ。
上杉から、一子のいる仙台栄華学院までは、走ってどれくらいあるだろう。
人の姿になれたなら、タクシーに乗れるのに、と思いつつ、肉球も裂けよといわんばかりに、羅貫中犬は、ふたたび西に向かって走り出した。
アトラ・ハシースたるその身であれば、自動車などよりもずっと早く疾走し、光の矢のように目的の地へ向かうことができる、と知ったのは、ほどなくのことであった。
※ この話は、「ずんだ&ゆべし章 3」につづきます。