ずんだ&ゆべしの章 1

※ この話は、「ゆべしの章 9」のつづきとなります。

五橋公園というのは、地下鉄五橋駅の長い長い地下道を抜けて、それからカメイビルに向けて歩いて五分足らずのところに位置し、周囲を高層マンションとビルにぐるりと囲まれている、どちらかといえば、日の当たらない暗い印象のある場所である。
そのためであろうか、遊具はあるものの、あまり子供は遊んでいない。ここ数年の間に建った高層マンションの前には、いまだに日照権侵害を訴える、手書きの看板がそのままになっている。
ちょうどビルの真後ろに、古い公衆トイレがあり、公園脇の道は停車するのにぴったりなスペースもあるとあって、タクシー運転手が行きつけのトイレ代わりに使用し、あるいはそのまま脇に車を停めて、仮眠を取っている。
木々が鬱蒼と繁り、暗いのではあるが、周囲に人通りが多いので、事件の舞台になる要素はなにもないはずなのであるが…

『どうしてここから出られないの?』
羅貫中犬は焦りつつも、何度目かの公園脱出を試みた。
しかし、どうしたわけか、あと一歩で外に出られる、という段になって、いつのまにか、公園の中央に戻っているのである。
日本各地にある不帰の森(かえらずのもり)の伝承を思い出し、羅貫中犬はいまや完全にパニック状態に陥っていた。
千葉県にも、とある神社の境内に、ほんとうに小さな森だというのに、かつて水戸光圀がそこに入り、なぜか脱け出すことができずに、立ち入り禁止にしたという不帰の森があり、同じような伝説は、各地にも残されている。
いったい、なんの力が働いているというのか。
呪い? 祟り? それとも、現代科学では探知不可能な磁場の問題?
まさに、自分がそれにハマってしまったのではなかろうか。
原因? 
決まっている。
あの銀のヘンテコ、そしてブリュンヒルデを名乗るモルモットのせいだ。

いまさらにして思えば、中国の作家であった自分がなぜ、縁もゆかりもない仙台の浅野家に引き寄せられるようにして、落ち着いたのか。偶然だというふうに簡単に片づけていたが、ブリュンヒルデの説明からすれば、この『世界』を守るために、自分たちは、浅野家に派遣されたという。
そう、『自分たち』。
ブリュンヒルデの話によって記憶が刺激されたらしく、聖剣アスカロンの呪縛が解けたのか、羅貫中犬は、陳寿犬のことを思い出していていた。
浅野家には、二匹の犬がいた。
それがどういう具合か、それぞれ三国志に関する著名な著作物を世に残した作家の魂を宿す、『喋る犬』。三国志演義を物した羅貫中と、原典である正史三国志を物した陳寿。
この二名が、浅野家にそろっていたのも偶然なのだろうか。
片耳だけ立っている不恰好な、短足胴長の白い老犬を、いまばかりはなつかしく思いつつ、羅貫中犬は、事情はどうあれ、自分の悪夢のような状況を、陳寿でもいいから助けてはくれないだろうかとさえ思った。
もう一日は経過したと思う。
昨日の夕方から、いまに至るまで、公園を何度も行ったり来たり…しかし、どんな手段を使っても、公園を出ることは叶わなかった。
ブリュンヒルデは、この一帯が、いちばん安全な場所、『完全なる者の結界』のある場所だ、と言っていたが、冗談ではない。どこが安全だというのだろう。
たしかに銀のヘンテコは追ってこないようだが、連中をやり過ごしているあいだに、こちらは精神が危険である。

『こんな堂々巡りの迷路状態にハマるなんて、まさにベタなSFじゃないの』
今度こそ、と念じつつ、羅貫中犬は公園を出ようとするが、しかし、一瞬ののち、最初に座っていた公園の中央に引き戻されていた。
『疲れた…おなかがすいたし…知り合いは当然のことながら誰もいないし…だれでもいいから、言葉が通じる人がいないかしら。話しかけるにしても、もう気力がないけど、がんばるしかないわね』
と、羅貫中犬は、自らを励ましつつ、公園をゆく人に、かたっぱしから話しかけているものの、いまのところ該当者は皆無。
かわいい、といって撫でてくれる者は多い。シェットランドシープドックの優雅な姿よ、いまこそ万歳、といったところであるが、それよりご飯がほしい、ここから出たい。

そうしてヘトヘトとなっていたそのとき、ようやく救いの手があらわれた。

「かわいいね。ご主人はどこかな?」
羅貫中犬の、よく手入れのされた、さらさらの毛を撫でるその手は、男の物である。
『ご主人とはぐれたの。ねえ、ちょっと食べるものを持っていない?』
なかば諦めながらも、羅貫中犬は言ってみた。通常の人間には、犬がくんくんと甘えた声を出しているようにしか聞こえない。
見上げると、そこには、甘い顔立ちをした、金髪の白人青年が、羅貫中犬を興味深そうに見下ろしていた。
「食べ物かい? あいにくと、いまは持っていないんだよ」
まさか。
羅貫中犬は期待に胸が高鳴った。あまりにストレスの溜まる状況に置かれていたあとであっただけに、大げさではなく、心臓が止まるのではないかとさえ、思ったほどである。
「もしかして、アタシの言葉、わかるの?」
「犬とおしゃべりするのは初めてだな。その口ぶりからいくと、ほかの人には君の言葉は聞こえないようだね」
「そうよ。アタシの言葉は、一部の人にしかわからないの。条件はよくわからないんだけれど…ともかく助かるわ! ねえ、この公園から連れ出してくれない?」
青年は、穏やかな笑みを浮かべ続けて、羅貫中犬に言う。
「好きに出て行けばいいじゃないか」
「出来ないのよ。アタシはどうしても浅野家に戻らなくちゃいけないのに! 『完全なる者の結界』とやらのせいだと思うの。ええ、それだって、原理がさっぱりわからないんだけど。貴方は、普通にここに入ってきたのでしょう?」
「そうだよ。この近所に住んでいるからね」
「だったら、お願い、わたしをここから連れ出してくれるだけでいいわ! あとはなんとかする。だから、お願い!」
羅貫中犬は、四肢をばたつかせて頼むと、青年は、穏やかな笑みをすこしも崩すことなく、羅貫中犬を抱き上げた。

今度こそ、公園から出られるかもしれない。

期待し、さきほどとは違って、高い目線から、公園の出入り口を見つめる羅貫中犬に、青年は言う。
「『完全なる者の結界』なんて、面白いね。それは、だれが教えてくれたの?」
「アタシも事情がよく呑みこめていないのだけれど、ブリュンヒルデが教えてくれたのよ。あ、ブリュンヒルデというのは、白いモルモットなんだけど、世界の番人とかなんですって。アタシをこの世界に呼んだらしいわ。それもよくわからないのだけれど。もう消えちゃったわ。無責任よね。ここは仙台でも一番安全だって言うけれど、冗談じゃない。餓死しかけたわよ」
「災難だったね。ブリュンヒルデは戻ってくるだろうか」
「さあ…わからないわ…ねえ、彼女を知っているの?」
羅貫中犬は、公園から出たいという一念のあまり、青年があまりに素直に人の話を聞きすぎることに、疑惑を抱くことができなかった。
公園の出入り口が目前に迫っている。
あとすこし。ほんのすこしなのだが、羅貫中犬は、息苦しさを覚えていた。
ほかでもない、自分を抱えている男の腕が、出入り口に近づくにつれ、どんどん力を増しているからである。
「ねえ、そんなに強くしなくても、アタシは逃げたりしないわよ?」
青年は答えず、出入り口に向かっていく。
が、その指は、細い羅貫中犬の首をがっしりと押さえ、どんどんと力を強くさせている。
「ねえ…苦しいわ」
「完全なる者、か。そいつの名前、言っていたかい?」
「召喚したアトラ・ハシースの名前は言っていたけれど…なぜ? あなた、なぜ事情を知っているの? アタシが答えるのが、この公園から出られる条件?」
ようやくそこで、羅貫中犬は、状況の異常さに気づいた。
自分の意味不明な単語を、それでも平然と聞いてくれるこの青年は、一体、何者なのか。そして、どうしてこんなに首をぎゅうぎゅうと絞めてくるのか…羅貫中が息苦しいなか、それでも懸命に尋ねると、青年はほがらかに言った。
「条件なんてけちなことは言わないさ。ほら、ね?」
気づくと、羅貫中犬は、あれほど願っていた公園の外にいた。
いまだ青年の腕の中にいたが、公園の外に出られたことはまちがいない。
「助かったわ。あり」
ありがとう、と全部言うことはできなかった。
一瞬だけ弛んだ腕は、ふたたび強くなり、いまやはっきりと、羅貫中犬の首を締め付けている。ぐっと締め上げられ、血流の遡ってきた頭部に、はっきりと青年の声だけが聞こえてきた。
「完全なる者というのはね、つまりは常に勝っていなければならないってことさ」
と、青年の声が、血が溜まりつつある頭部の、しびれた耳朶に響いてきた。
「そのためには…なんだってする。その名を守るためにはね。アトラ・ハシースは死んだら、その後は現世とすっかりなじみがなくなる、というものではなく、アトラ・ハシースの行動は、やはり現世にも影響するんだよ。祖国を守るためにも、勝っていなければならないんだ」
声が出ない。
いや、もし声が出たとしても、周囲には、犬がキャンキャンと弱弱しい声を上げているだけであったであろうし、また、白人青年が、自分のペットを大事に抱えている、というふうにしか見えなかったであろう。

アタシ、死ぬのかしら?

アトラ・ハシースとしての記憶が、完全ではない羅貫中には、その死のイメージが、どうしても思い浮かべることができなかった。
ただ、脳裏には、守らねばならなかった浅野家の人々の姿が浮かぶ。
ゴメンナサイ、守れそうにないわ…

「なにをしているのだね、イスメト君」

不意に背後からかけられた声により、羅貫中犬を苦しめていた腕のちからが抜けた。
その機を逃さず、羅貫中犬はすばやく腕からすり抜けると、それこそ脱兎のごとく走り出した。
なんだか知らないけれど、助かった。
恐ろしさのあまりに、振り返る気も起こらない。銀のヘンテコなんかより、あの青年と、そして脱け出せない公園の方がよほどおそろしかった。
浅野家へ!
動悸が止まらない。
でも、助かったのだ、助かったのだ! 早く浅野家に帰らなければ!
アスファルトを力いっぱい蹴りながら、羅貫中犬は浅野家目指して、一心に駆けた。

「どうしたのだね、イスメト君。なにやら、犬を抱えていたようだが」
ケマルの問いに、振り返らないまま、イスメトは答えた。
「いいや、なんでもない。ちょっと可愛い犬だったから、撫でてみたくなって」
「ふうん? きみ、犬が好きだったかな。まあよいが」
ケマルはさほど感心を示さない。
もしもケマルが、イスメトの顔をのぞきこんだなら、そこには、かつての盟友とも思われないほど、悪魔じみた形相が浮かんでいるのを見つけたことだろう。
だが、ケマルにはもっと気がかりなことがあり、イスメトどころではなかったのだ。
イスメトはケマルを振り返った。そこにはもう、いつもの人の良い友の、穏やかな笑顔があった。
「どうしたのだい、ムスタファ君。今日は遅かったじゃないか」
「ああ、ちょっと、いろいろあったものでね」
と、ケマルはコートの襟を引き寄せ、自分たちの住む、古ぼけたマンションを睨みつける。
明朗快活なケマルにしては、歯切れの悪い言い方に、イスメトは、いつもの人の良い笑みをたたえた顔をして、問いただした。
「どうしたのだい?」
「君、感じないか。なにかが、おかしいよ、やっぱり」
「何か、というのは?」
「わからない。今朝からひどく気分が重くて、ここにいるのが嫌だった。だから、起きるなり、余はマンションを出て『B』探しに入ったわけだが、帰ったら、元通りになっているのだ」
「元通りになったのなら、よいことじゃないか」
「そう思うのか、イスメト君。なぜきみはなにも感じないのだ? いいかい、今朝方、余の感じた違和感…いや、重圧感と言い換えてもよい…それは身が押しつぶされそうになるくらいのものだったのだよ。まるで、戦車で何べんもひき殺されているような、ね。
だから、そう、あえて言わせてもらえれば、余は逃げたのだよ。ところが、帰ってきたら、元通り。つまりだ、こういう結論が導き出されるのではないのかね。ここには今朝、『なにか』がいた」
「なにかって?」
「わからぬ。わからぬが、いまはいなくなったが、今朝は『いた』のだ。イスメト君」
「なんだい」
「悪いが、余は、今日はよそへ泊まる。そいつがまた戻ってきたら、こちらの身がもたない。支離滅裂なことを言っていると思うが、許してくれたまえ。それでは」
「待ちたまえ、どこに行くんだ?」
「わからぬ。わからぬが、ここから離れたところだ」
そうして、ぱっと踵を返すケマルをイスメトは追いかけようとする。
困る。それでは、「完全なる者の結界」が動く。
「ぼくも行くよ!」
と、ケマルの肩に触れたとたん、ぴりりと電流が走り、思わずイスメトは、弾かれたようにして後ずさり、手を引っ込めた。
「すまない、イスメト君。今晩の夕食は一人で食してくれたまえ!」
そういって、ケマルは、自分が友を無意識に跳ね除けていたことも知らず、西の空に沈む夕陽をバックに浮かぶ、仙台アメリカ横町へ向かう道へと走り去ろうとする。
残されたイスメトは、ぼう然と、おのれの手を見つめた。
弾かれた。完全なる者から。
どういうことだ? 何が起こっているというのだろう。
五橋公園の、高すぎる木立が、ざわざわと不吉に動いた。その一本一本が、夕闇に力を与えられると意志を持ち始める、巨人のようにさえ見えた。
このままではいけない。君は、『完全なる者』であり続けなければいけないのだから。


銀のヘンテコは、複数集ると、次第にどろりとアメーバのように姿を変えて、やがて、エリザベスとほぼ同等の背丈を持つ大きな銀の人間に変身した。
「ふざけているのじゃ!」
いいざま、エリザベスは果敢に剣を動かし、数合の打ち合いの果て、鷹のような一線で、銀のヘンテコの心臓を一突きにした。
とたん、どおっ、ともんどり打った銀のヘンテコはその場に熔け、あたりに胸の悪くなるような異臭をさせながら、教室に熔けていく。
銀のヘンテコの体の一部には、産業廃棄物が使われているといわれる所以である。
その匂いに怯むエリザベスに、銀のヘンテコが一斉に正面から覆いかぶさるように襲ってきた。それを、すばやく脇から、その腹をめがけるようにして、趙雲が炎の槍で薙ぎ払う。
ぱっと宙で分裂した銀のヘンテコを、つぎつぎと穂先で突き、一個一個を消滅させていく。
「おかしいのじゃ」
最後の銀のヘンテコを地面に叩き伏した趙雲に、エリザベスは言った。
「どうした? まだ連中は廊下にもいるぞ」
「わかっておる。だが、さきほどより、明らかに数が減っておるぞ。それに、この気配」
そういって、周囲の気配をさぐるエリザベスの背後から、蛙のような勢いで、銀のヘンテコが一匹、飛び縋ってきた。すかさず、趙雲はそれを一突きにして消滅させる。
エリザベスもまた、一匹、倒れ、身体が半分、熔けかけているというのに、びょん、と飛び跳ねて攻撃を仕掛けてきた銀のヘンテコを素早く剣先で突いて倒した。
「気づかぬか。そなたのアトラ・ハシースの気配が失せた」
「なんだと?」
趙雲は、自分の霊感がことごとく凡人並になっていることを呪いつつ、あわてて教室の窓から中庭を見下ろす。
しかし、そこには孔明の姿もなければ、一子も吸血鬼もいなかった。
ただ、夕闇にきらきらと、石のかけらがあちこちに四散している。
そのきらきらと、星のような輝きを見せる石たちを見て、趙雲は背筋をふるわせた。
さきほど、こちらも大量の銀のヘンテコを退治している最中に、中庭がすさまじい光に包まれた。
星が堕ちたのではないかというくらいの勢いで、これほどの電光を発生させることができるのは、孔明くらいなものである。
やったな、と心強くさえ思っていたのだが…

趙雲は、舌打ちをして、窓から身を乗り出すと、中庭に降り立った。
伴に、エリザベスもふわりと白いドレスを宙になびかせて、飛来してくる。
趙雲は、地面に散らばった石を拾い上げた。
どう見ても紫水晶である。アコのポケットにいつの間にか入っていたもの。孔明の中に、アコを封じ込めておくための石。
すでに闇に呑まれつつある中庭に、それでもなお星のように輝く石の欠片を見て、不意にエリザベスが声をたてて笑い出した。趙雲は、おもいきりエリザベスを見上げ、睨みつける。
「なにを笑う」
「すまぬ、わらわの勘のよさに感心してしまっただけじゃ。さきほど、賢者ソロンの話はしたであろう。この石は、賢者ソロンの石の朋輩ぞ。古代エジプトの神官どもは、紫水晶をその力の証し、護符として重宝しておった。これも、深く長い歴史をほこる一つであったにちがいない」
もったいなや、とエリザベスはいい、四散した欠片を拾い集める。
そうしているあいだにも、三階の窓から、ぼたぼたと銀のヘンテコたちが落ちてきた。
「石が割れた、ということは、どういうことだ?」
言いつつ、趙雲は、振り向きざま、落ちてきた銀のヘンテコを一閃し、その首をすべて跳ね飛ばした。
その勢いに、さすがのエリザベスも呆気にとられている。
「落ち着くのじゃ。そなたのアトラ・ハシースの気配はたしかに失せたが、消滅したわけではなかろう。辛うじて、その気配が感じ取れるぞよ」
「本当か?」
「この期に及んで嘘はつかぬわ」
エリザベスが答えたのと、ほぼ同時に、中庭を面して対になっている校舎の屋上で、白い光の柱が上がった。
「あそこじゃな」
わかりやすい、とつぶやくエリザベスを背に、趙雲は屋上へ向かって走り出した。

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※ この話は、「ずんだ&ゆべし章 2」につづきます。