真ずんだの章 14
※ この話は、「真ずんだの章13」のつづきとなります。
いくら混乱のなかでの出来事とはいえ、そう大きくない通りで、車が大渋滞を起こしているその真隣での一連の行動である。
銀杏の木に登っている金髪の男、そしてその手に無造作にぶら提げられるようにしていた少年と、さらにこの男と会話をする、剣を持った少年(少女であるが)。
なにもかもがでたらめだ。しかし、あまりにでたらめすぎたので、みな、こう思ったのである。
「TVの撮影ではないのか」
あいにくとだれもカメラクルーを見つけることができなかったのだが、しかし、仙台連続少年殺人魔は、ニュースでしきりに報道されているとおり、トルコ人が容疑者として、いま匂当台公園で警察にかこまれている。
こいつも同じ金髪だが、おそらくはさっそくTV局が再現フィルムでも作っているのではないだろうか。
銀杏に登ったり、剣が出てきたりするのがよくわからないが。
しかし、剣を持った少年が崩れ落ちるさまが、演技というには妙にリアルすぎるために、遠巻きに様子をながめていた人々は、TVの撮影などではないのではと思い始めた。
公共の道路で撮影をしているということは、警察に許可を得ているかもしれないと警察に電話をする者もいるのだが、あいにくと警察は、匂当台公園での仙台連続少年殺人犯の包囲と、ナゾの異臭さわぎ、くわえて地震対策と、さまざまな問題に追われて、期待どおりの返答はえられない。
なんだか賦に落ちないまま、まったく動かない車の中、あるいは停まったまま、駅に入れないでいる新幹線の中から、かれらはなりゆきを見つめていた。
しかし銀杏の木からひらりと舞い降りた男が(スタントマンかもしれない)まるでスポットライトを当たっているかのように、堂々とオレンジ色の街灯の真下にて、倒れた少年を抱き上げて、首筋を噛もうとしはじめたとき、その場にいた全員が思った。
やっぱりTVの撮影だ。あんな犬歯は作りものに決まっている。
どこのTV局だろう。ちょっと陳腐だぞ。
銀杏の木から下りてきた男の演技は、いささか扇情的なものであった。
うやうやしく倒れた少年の身体を抱き起こすと、その白い首筋を、恍惚の表情で撫でた。まるで陶磁器の肌触りを愛でる好事家のようである。
少年はどうやら死んだという設定ではなくて、まだ生きているということらしい。ときどき、男を跳ね除けようと身動きをするのだが、男のほうの力がつよく、簡単に御せられてしまう。
男の動作に性急さはなく、むしろこうした抵抗を楽しんでいるようだった。
おいおい、いいのか、などと言いつつも、ちゃっかり携帯電話で動画撮影をしている者もいるのだが、男はまるで頓着しない。
それもそのはず、男にとっては庶民なんぞ、そこいらにある街路樹、あるいは豚小屋の豚と同じくらいどうでもいいもの、あるいは食糧予備軍であって、果たして、かれらに全裸を見られようと、かれはまったく恥じなかったであろう。
そうして、じっくりとなぶるようにして、少年の身体の線を確かめるように撫でまわしたあと、男は仕上げとばかりにがぶりと咽喉元に噛みついた。
わけであるが、しかし、それも牙を突きたてようとする前に終わった。
男も、周囲でこの光景を唖然として見ていた者も、おどろいた。
男の額のど真ん中に、きれいな黒い穴が開き、そこから煙が立ち昇っているのである。
男は見ることのできない己の額を見ようと、けんめいに目を上に動かしているのだが、その表情が、まぬけであると同時に、妙にリアルだ。
この展開の奇妙さに、男もぼう然としているし(演技達者である)、ギャラリーもぼう然としているなか(脚本がまずいのか、演出の問題か)どこからともなく、なんと狙撃兵があらわれた。
ここはイラクか、はたまたイスラエル?
いや、仙台である。
狙撃兵が、素人目にも古いものだとわかるライフル銃を手に、男と少年に近づいてくる。
狙撃兵もやはり金髪の男で、姿格好は地味でカジュアルな服装なのであるが、体格といい、銃の慣れたかまえ方といい、きびきびと無駄のない足の運び方といい、狙撃兵と呼びたくなる雰囲気があった。
狙撃兵の後ろには、なぜか、ペットなのかわからないが、ハムスターをかかえた、黒髪のスラブ系と思われる、ワンピースを着た美女がいる。
ますますもって、どういう映画(ドラマ?)なのかわからない。こうして不思議がらせるのもPRの手段のひとつなのだろうか。
しかし、ほんとうにどこにカメラはいるのだろう。
「そこまでだ!」
狙撃兵は、正義の味方らしいセリフを言って、いまだに衝撃から立ち直れていない男に、あらたに銃を構えた。
ギャラリーは思う。
そういえば、最近は海外の犯罪を、日本在住とおぼしき外国人俳優をつかってか、あるいは海外のTV局のフィルムを買って、凝った再現ドラマで紹介する作品が増えた。
もしかしたらこれは、そのひとつではないだろうか。
しかし、なんでこの、風景的にもいかにも日本なところで撮影するのだろう。トンネルの壁には、ピカチュウの落書きがあるくらいなのに。
そんな心配をよそに、ドラマは展開されていく。
「わたしの額に穴が!」
「こんどはみっつめの鼻の穴を作ってやってもいいのだがね、吸血鬼。このモシン・ナガンに籠められた弾は、聖水で清めた純銀製だ。いまのおまえは本体ではないから、おまえの不死を破るまではいかないが、動きを制御するくらいは可能だろう。ラ・ピュセルを離せ。そして失せろ」
「あきらめられるか、やっと手に入るところであったのに!」
「もったいぶるからだ」
金髪巻き毛の犬歯の発達した男は抗議した。
「手に入れました、それでは頂きます、では味気ないし、だいたいそんなふうにがっつくのは、躾がなっていない証拠だ。わたしは貴族だぞ!」
いきり立つ金髪男。しかし狙撃兵は銃をかまえたまま、平然と答えた。
「おまえたちの時代のヨーロッパ貴族なんぞ、ほとんど野蛮人と変わらないではないか。手で食事をしていたくせに」
「なんたる侮辱。よいか、手で食べていたのは事実だが、それぞれ手にも役割があって、パンを持つ指、ソースをとる指、肉をとる指と決まっていた。肉汁のついたままの指でパンをとると、パンの味が変わるのもまた一興。そうやって楽しむ食事であったのだよ」
「それはいい知識をありがとう。おかげで装填完了。気の毒だから、リクエストどおりのところに穴は空けよう」
いいつつ、狙撃兵は撃鉄を上げる。
それを見た男は、舌打ちをするや、ぱっと大きく後ろに飛び上がると、なんとその場の全員が呆気に取られたことに、そのまま宙高く飛び上がった。
「世界は終わる! 君たちの負けだ!」
と、ちゃんと悪人のセオリーどおり、捨て台詞を残して、男は去った。
ワイヤーアクションか、はたまた紅白における小林幸子か?
華麗な動きにおどろいた人々の中からは、拍手さえあがったほどであった。
「起きて、妹よ、わたしの姿が見えますか」
サブラの声に、すでに意識が朦朧としているラ・ピュセルは、懸命に目を開いた。
最上白百合としての肉体の機能は、さきほど実の兄である一樹の投げたヒヒイロカネの力で、完全に停止してしまっている。
いまのラ・ピュセルは、その肉体を軸に、この世界に留まろうと、奮闘しているのだ。
すこしでも気を抜けば、魂が豪風に吹かれて飛んでいきそうな気配がある。
まさに嵐に揉まれ、沈みかけた船に、海に放り込まれまいと必死に捕まっているような感覚だ。
だめ。まだこの世界から離れるわけにはいかない。
サブラの手に抱えられていたハムスターが、ちょこりと顔を出すと、鼻をひくひくとさせながら、苦しむラ・ピュセルのそばにやってきた。
そうして、暫くその様子を探っていたようだが、なんたることといわんばかりに、その小さな手で頭を抱えて、ハムスターは言った。
「いけない、いますぐ戦士の角笛を吹かなければ、この子は消滅してしまう!」
「いますぐですか? でも、お姉さま、まだ匂当台公園では、レティクルと戦っている者もいますのに」
サブラが言うことばに、しかしヴァルキューレのブリュンヒルデは言った。
「この子までもこの世界からいなくなってしまったら、基本世界の悲劇をだれも止めることはできなくなってしまうわ。夢で終わるはずのこの世界が、基本世界にまで影響を及ぼすことができるまでに変化した。ならば、これを夢のままで終わらせてはいけない。イスメト、あなたがこれを」
と、ハムスターは呪文のひとつも唱えることなく、瞬時に空中に角笛を出現させてみせた。
その角笛は、表になにかの叙事詩の光景が細かく象嵌されている、年季の入ったものである。
「吹きなさい。そうすれば、時間はふたたび12月4日に戻る。最初からやり直しをすることができるわ」
言われて素直に受け取りはするものの、イスメトは、それを吹くのはためらった。
「しかし、つぎのループで、またアスカロンの力が効きすぎて、みながばらばらになってしまうのでは、ふたたび苦戦することになりましょう」
「でも、わたしたちは、だれが敵でだれが味方か見極めることができたでしょう。もうだれもこの世界が消えたほうがいいなどとは、思っていない。つぎにみながばらばらになってしまっても、集りさえすれば、今度こそ一致団結して戦うことができる。わたしはみずからが世界樹となって、世界の消滅そのものを防ぎます」
「女神よ、あなたが世界樹となるというのですか」
おどろくイスメトに、かたわらにいたサブラもうなずいた。
「今回のループで倒されてしまった世界樹の代わりに、わたしもこの力を捧げるつもりです。もともと、アストラルとしては能力が低いわたしですから、ほかに力になれることはありませんし」
イスメトは、二人の決意に押されつつも、まだ迷っていた。このまま角笛を吹いてよいのか。匂当台公園の様子はどうなっているのか。
レティクル・クィーンさえ破壊すればよいというのなら、このままループを強制終了させず、戦えばよいのではないのか。
「早くなさい、イスメト、それがあなたの大事な故国のためでもあるのです! あなたの故国は、わたしの故国でもある! 急いで!」
古のトルコの姫君たるサブラに言われては、イスメトも聞かずにはおれない。
もしかしたら、閣下に、なんだって女の言うがままになったのだ、たわけとか何とか怒鳴られるかもしれないが、仕方ない、君だって年上の女には弱いだろう。
そうして、かれは角笛を吹いた。
「子龍、撤退だ。覚悟しておけ」
ムスタファ・ケマルが武器を錬成しはじめたのを見て、孔明は、かたわらにいる趙雲に声をかけた。
すでにざわざわと木立にまぎれて近づいてきている銀の小人たちの数は、さきほどの十倍にも膨れ上がっている。
「撤退というと、つまり、このループは閉じるというわけか」
知らず、緊張がにじみ出る。
このループで、吸血鬼のもつ霊具・英雄殺しの槍の力によって只人になってしまった趙雲は、つぎのループでどうなるか、まったくわからないのだ。
アスカロンの力によって、この世界の人間のだれかに封印されればよいほうだが、そうなった場合、どういう状態になるかがわからない。
記憶を失っているかもしれないし、どこに封印されるのか、いや、封印すらされない可能性とてある。
封印されるとしたら、おそらくは浅野家をめぐる人間たちのなかで、死んだ者のだれかであろう。
「ケルベロスの声が聞こえた。あれはヴァルキューレに、もういちど、戦士の角笛を吹くようにという要請だ」
言いつつ、その黒目がちの双眸が、ケマルの放つ光を注視しつつも、翳りを見せた。
「完全なる者が口にしたことは正しい。わたしはあまりに感情に動かされすぎた。浅野家のことを最優先にしすぎたと思う。それではいけなかったのだ。おかげで死ななくてよい娘まで死んだ。わたしの責任だ」
趙雲は、孔明の言うあの娘というのは、最上アキラ子のことであろうかと考えた。
「愚痴はいけないな。あなたは気にしなくてよいのだよ。
ムスタファ・ケマル。あの男はたいしたものだ。覚醒してすぐに、向こうの手の内を明かしてみせた」
「俺にはわからん。どういうことだ」
「レティクルは千台家を守るために動くのだ。つまり、このあまたいる不気味な銀色のアトラ・ハシースの模造品たちは、それぞれがプログラムされた命令どおりにしか動けないのだ。
そのプログラムとは、単純に、千台家に敵対する者を排除せよ、ということだろう。銀の小人たちのストラップは、ヨーコとメアリによって仙台中に配られたが、よそではトラブルを起こさない。なぜだと思う」
「霊具に反応するようになっているからだろう」
「そうだ。霊具を持つ者とは、つまりはアトラ・ハシースかアストラルだ。しかしやはり人工生命体なので、本来守るべき千台家のヨーコにまで、霊具を持っているからという理由で襲いかかった。
だが、われらが霊力を最小限に抑え、霊具も使わずにいたら、かれらは千台家に敵意が向けられないかぎり、われらを襲ってこられない。なぜなら、敵意のないものを襲えとはプログラミングされていないからだ」
「なんだと?」
唖然とする趙雲に、孔明はケマルのほうを注意しつつ、うなずいた。
「それが銀の小人たちの弱点だ。霊力を抑え、霊具も使わないでいれば、レティクルは勢力として意識しなくていい。まさに張子の虎だ」
「それは、プログラムが変更されなければ、という話だろう」
「もちろんさ。さきほどケマルが言ったとおり、かれらは本星を往復しているわけではないそうだ。時空船というものがどういう仕組みかはわからないが、小人たちへのプログラム変更が可能な設備が搭載されていなければ、われわれが戦略を変えた場合、これに対処するのはすぐにはできなかろう。
仮定の話なのが心細いが、レティクルが対応に右往左往しているあいだに、われらはさきほど言った、霊力を抑え、霊具もつかわない状態で、千台家を倒すのだ」
「いいや、倒すだけでは駄目であろう」
空から声が降ってきて、見上げれば、白い清楚なドレスに身を包んだエリザベスが、やはりケマルの編み出す光を見つめているのであるが、趙雲がおどろいたことに、女王は、そのつぶらな瞳から、涙をこぼしているのだった。
「愚かな娘よ、そしてなんと哀れな男であろうか。善と悪、それだけで人を切り分けてしまう愚を、われらは十分に学習したはずであったのに、情けないことにすっかり忘れてしまっていたようじゃ。
時が戻せるというのならば、どんどん戻すがよい。あの馬鹿むすめが、わらわに涙を流させるとは! こんど会ったら、ただではすまぬ。愚かな真似を二度とせぬように、わらわが徹底して教育しなおしてやろうぞ」
「なんの話だ?」
只人になった趙雲には、孔明やエリザベスが、いったいなにをそんなに悲しみ、後悔しているのかがわからない。
二人にはそれぞれ、羅貫中犬の見たものすべてを想念として受け取っていた。
「時間があったらゆっくり説明するよ」
孔明の言葉に、なにやら、のけ者にされた感がぬぐえない趙雲が顔をゆがめると、孔明は困ったように笑った。
「次の時間がやってきたら、もうすこし余裕を持ちたいものだな」
「余裕か。つぎにどんな状態になるのかも、予測がつかないというのに」
「恐れることはない。あなたのことは、かならずわたしが守るし、どこにいようと、わたしはかならず迎えに行く」
「そうかい。まぎらわしい真似はするなよ。混乱するから」
「心外だな。わたしはいつでも素直だろう」
どうだか、といつものとおりに言葉を返そうと思った趙雲であるが、しかし事態はかれらにとっては、時間が巻き戻るなどという単純なものではないだけに、口が重くなった。
封印されればよいほう。
最悪なのは、このまま消滅する可能性があることだ。
おたがいに、そのことは頭に浮かんでいる。
かといって、二度と会えなくなるかもしれないと嘆くのも、かれらの流儀ではない。
孔明が、ふとつぶやいた。
「この世界は、いま最高府によって渡航禁止命令は出ているものの、汎世界との切り離しは行われていないのだったな」
「そうだ。だから、もしアストラルやアトラ・ハシースであったなら、この世界から消滅しても、下宿先には戻れる」
「だが、あなたは霊性を傷つけられて只人になってしまったから、このままでは下宿先には帰れない。
とはいえ、この世界以外の汎世界では、あなたに対応する人間がいない。時が戻る際に、すべての人間は過去の記録をもとに再生されるが、あなただけはもともと存在していないから、そのまま消えてなくなる可能性がある」
「論理立てて言わないでくれ。不安になってくるだろう」
「かならず守ると言っているではないか。わたしだって、あなたを召喚した者としての管理責任をとわれて、煉獄行きなんぞごめん蒙る。最高府がつくった新しい煉獄がどこにあるのか、どんなシステムかもわからないのだぞ。いや、本当に給湯室の冷凍庫の中だってありうるな」
「最悪だな」
「まったくもって最悪だ。しかしなにも策を講じず最悪だと嘆くのも愚かしい。なんとか考える。期待して待て」
「おまえがそういうときは、たいがいろくな結果にならないのだよな」
「いまのことば、つぎのループで会うときまで覚えておくからな」
「はいはい。しかしムスタファ・ケマルは、いったいなにを取り出すつもりだ」
趙雲たちの声が聞こえたものでもないだろうが、ケマルの手にようやく武器が浮かび上がった。
しかし、それを見たエリザベスも孔明も趙雲も、さらにレティクルたちも、呆気にとられて沈黙する。
ただひとり、それを取り出した本人だけが得意そうであった。
最初に口を開いたのは、レティクル・クィーンであった。
「可哀相だからとおまえの武器が錬成されるのを待っていたのに、取り出したのが、そんなちっぽけなものとはね。何を考えているの、完全なる者よ。おまえは最初から、戦いをあきらめているのかしら」
それを聞いて、味方であるはずの孔明が、そうだ、そうだと頷いたので、趙雲は手を伸ばしてその頭を軽く小突き、やめさせた。
レティクル・クィーンの嘲笑にも、ケマルはまったくひるまずに、堂々と、錬成した、どうみても、どこにでもあるような、何の変哲もない、美しくもなければ、姿かたちも目立つところのない、いくつもの小石を手のひらで得意そうにもてあそんでいる。
さまざまな、あまり好意的ではない視線にさらされつつも、ケマルは堂々と述べた。
「ときに、余は呪文なるものがどうも好きではない。なんとも格好つけているように聞こえるし、いちいち名乗りをあげてだね、どうしろああしろと、口にしなければならぬというのも面倒ではないかね。
そこで余は考えたのだ。余が『完全なる者』という属性を生かし、呪文そのものがすでに内包されている霊具というものを作ればよいのではないかと。そして、これがそれなのだ。
ちなみに諸君はデウカリオンの伝説を知っているかね。ギリシャの神話の人物なのであるが、このデウカリオンは、世界にあまたある洪水伝説の主人公のひとりなのだ。
しかし、わが国に伝わるノアとは、ちがう伝説を持っている。ギリシャ版の洪水伝説では、面白いことに、人間が洪水によって滅んだ世界において、デウカリオンは人間を復活させるべく、みずから、人間を作り出すのだ。
その方法は、大地母神ガイアのからだの一部、すなわち石の欠片を地に蒔くというものであった。これにヒントを得た余は、さまざまな用途にあわせて、あらかじめその行動と効用を詰めた石を作ってみたのだよ」
「なるほど、独創性という点においては、そなたは現在のトルコのアルファベットをみずから考案したことで示しておったのう。それで小石を錬成したというのはわかったが、しかしいまの長―い説明をするよりは、ふつうに呪文を唱えたほうが早かったような気がするぞえ」
エリザベスの言葉に、雄牛のように力強い顔をしたケマルは、残念そうにした。
「初めてこの石を目にした場合は、みなきょとんとするので、公平さを期すために説明をするようにしているのだ」
「公平さを期す、かえ。相当な自信があるようじゃな」
「ぜひ頼りにしてくれたまえ。なにせこの石の効果を見たほぼ100%のアトラ・ハシースが、また余と組みたいといい、70%に至っては、余のこの便利な石の使い方を見て、ぜひに自分も真似てみたいと回答した。ちなみにアンケート集計者はイスメト君だ」
「そなたと組んだ場合は、いちいち最後にアンケートに答えねばならぬのか」
「簡単なアンケートだ、丸をつけるだけでよい。回答者には漏れなくエジプト豆の詰め合わせを差し上げている」
「魅力的な景品ではないのう。しかし」
言いつつ、エリザベスもまた、己の手に、いくつもの宝石を浮かびあがらせた。
その白い、そばかすのうっすらと浮かぶ頬には、愉快そうな笑みがある。
「最後に、この仕事は大変だったと、笑いながらアンケートを受けてみたいものじゃな」
「そうであろうとも。さすがは天下に名だたる女傑。じきに戦士の角笛が吹き鳴らされる。だが、そのまえに、宣戦布告だ、レティクルの女王よ。つぎのループのときにいきなり襲われることのないように、君の兵士たちを減らさせてもらおう。さあ、出番だ、わが精鋭たちよ!」
ケマルは手にした石を、ぱっと地面に勢いよく飛ばす。
すると、まるで弾力があるかのように地面に転がった石は、瞬く間に、むくむくと大きくなり、そしてそれは、最新式の装備を纏った屈強な兵士たちに変わった。
この様子を見ていた野次馬のなかでも、TVのリポーターが、『突如として陸軍兵があらわれました! やはりテロでしょうか? それとも侵略でしょうか!』と大騒ぎをしている。
しかしケマルは頓着しない。
もはやここは戦場なのであるから、戦場では戦場の流儀がある。
「さあ、銀の小人たちを滅ぼせ、わが精鋭の兵士たちよ! まずは余が景気づけに自ら攻撃しよう!」
言いつつ、ケマルは手に残していた赤い小石をぱっと地面に放つ。
地面に触れたとたん、それは地上で開いた花火のように、大きな炎を放ってケマルたちのいる場所から半径10Mの部分にまで円を描いて広がった。
炎の勢いは大きなもので、千台潮の乗っていたベンツは燃え、当然のことながら警察の乗ってきたパトカーも燃え、どころか爆発するものもあり、野次馬たちはいっせいにパニックを起こして逃げ惑いはじめた。
そこへさらに兵士たちが、手にしたマシンガンを派手にバラバラと打ち放ち、周囲の物陰にひそんでいた銀の小人たちを、片っ端から打ち払いはじめた。
中には、人間がいようがいまいが関係なく、手榴弾を投げる者さえいる。
たちまち公園は炎の海と化し、上空をうるさく飛んでいたヘリコプターはいっせいに退避して逃げて行った。
この炎の海の中心で、生身の人間は、潮と趙雲であるが、これはそれぞれ、レティクル・クィーンと孔明が庇って炎を避けた。
レティクル・クィーンは、この敵味方関係ない大胆な攻撃に、すっかり動顚して、公園の四方に配した銀の小人たちに命令をするのであるが、しかし茂みから飛び出して襲い掛かろうとする小人がいれば、これはエリザベスがすかさず、手にした宝石を手榴弾のように勢いよく投げて、風を起こしたり、炎をさらに起こしたりして、駆逐した。
「ムスタファ・ケマル! いくらなんでもやりすぎであろうが! 只人に怪我人が出ているぞ!」
孔明が目を逆立てて抗議すると、ケマルはなんで叱られるかわからん、というふうに肩をすくめて言った。
「どうせ時間は巻き戻る。いま怪我をしている者たちも、時間がもどれば当然のことながら怪我もしておらぬだろう。次のループではこのようなことがないようにしたいものだ」
そう言っているケマルの周囲を、マシンガンを派手に打ち鳴らしている兵士たちが、じつに小気味よく動いて、丁寧に銀の小人を掃射している。あちこちからプラスティックが燃えるような異臭がしているところから、銀の小人たちは確実に姿を減らしているようだ。
孔明は勢いよく燃える炎になかば唖然としつつも、勝つためには、只人を巻き込むことさえ辞さない冷徹さと大胆さは、自分にないものだとすなおに感服した。
これで次のループのはじまりで、レティクルの攻撃が一気にやってくることを警戒しなくていい。
「どうした、俺を気にしているのなら、かまうな。これしきの炎であれば、簡単に避けられる。あの二人といっしょに戦え」
「簡単に、というのは言いすぎだぞ。火傷する」
言いつつ、自分の起こす風で、燃えさかる炎の向きを調整しつつ、孔明は趙雲を振り返った。
「聞いてくれないか。基本世界と汎世界はすべてそれぞれが連鎖している。アコは実際には死んだが、わたしがこの肉体に宿っていることで、汎世界や基本世界に影響が出ているはずだ。だが、それも確かめようがない。
次にループがはじまるとき、よいか、もし基本世界において、アコがこの世界の影響を受けずに、やはり死んだものとして扱われている場合は、この世界でのアコも存在しているかどうかは怪しくなってくる」
「どうして」
「世界は連鎖しているからだ。そして、この世界の基盤となっているのが、基本世界のクロだからだ。
クロはアコのことを知らない。浅野家の人間は、まずまちがいなく元に戻るだろう。だが、クロはアコを知らないから、そのまま基本世界の影響を受けてしまう可能性がある。
わたしが次のループでアコとして覚醒する可能性も低いということだ。次にどんな姿になるかはわからない。だれに封印されることもないかもしれないし、もしかしたら樹や犬になっている可能性だってあるわけだ。記憶を失ってしまうかもしれない。だから先に言っておく」
「なんだ」
「じき、戦士の角笛が吹かれるであろう。その時間が巻き戻る瞬間に、わたしは基本世界に向けて力を放つ。この世界は渡航禁止命令が出ているだけで、切り離されているわけではない。外からだれかが入ってくることはできないが、内側から外へ出て行くことは可能だ。
一か八かの賭けだ。負けたら目も当てられないことになるが、アコが確実にこの世界に残れるように、打てる手はぜんぶ打っておきたい」
「どうやって? 力を放つとなったら、おまえ自身の力はどうなる」
趙雲に両肩をつかまれて、揺すられると、孔明は悲しそうな笑みを浮かべた。
「わたしも自分でらしくない方法だとは思うが、この娘はなんとしても助けてやりたい。それに、あなたも約束したのではないか。この娘に、かならず助けてやると言っただろう」
「たしかに言ったが」
「次のループでわたしはほとんど戦力にならないかもしれない。それでも、これだけは信じてくれ。わたしはたとえどんなことになっても、あなたを助けよう。忘れるな」
炎の明かりに浮かび上がるその相貌は、少女の背格好はしているけれども、まちがいなく慣れ親しんだ友の顔である。
たとえどんな肉体に宿っていようとその精神が同じであれば、ふしぎと影響をうけて、顔も変わってくるのだなと、そんなことを趙雲は考えた。
と、同時に、これだけどんな状況になろうと変わらないやつの言うことなのだから、やはり信じてよいのだろうと、なんの疑問もなく思う。
事実、孔明は万事そんな調子で、さまざまな苦難を乗り越えてきている。
それは変わらないだろうし、支える者としては、変えないようにしてやらねばならないだろう。
だから、答えた。
「おまえを信じよう」
その言葉に、孔明は安堵したように笑った。
いつもならば屈託なくわらうところであるが、どこか翳りを帯びているように見えるのは、アコの身体に宿っているせいだろうか。
時間が巻き戻る。
そのときでも、変わらず、いままでのように支えになれるように。
そんなことを心のなかで祈っていると、頭上で大きな光が弾けたような感覚があった。
物事を複雑に考えるということができなくなり、ついで感覚が麻痺をする。
視界が真っ白となり、意識も混濁した。
二回目のループは、こうして終わった。
※ この話は、「ループ2・エピローグ」につづきます。