真ずんだの章 13
※ この話は、「真ずんだの章12」のつづきとなります。
それは同時に、ラ・ピュセルに向けて、敗北をしらせる声でもあった。
浅野家の人間は、全員が無事ではないか。
こんどこそ、うまく行くと思ったのに、やはりダメだった。
なにがダメだったのだろう。
夏目マナブはここにいて、浅野史朗と接触していない。
このループにおいては、夏目マナブは浅野史朗の父親と接触することもなく、そのかわりに最上白百合と出会った。
だから、浅野父子が最悪の日において、罠にかけられて山中に呼び出され、そのまま殺害され、あるいは瀕死の重傷を負わせられてそのまま植物人間になってしまうという、あまりに悲惨な結果だけは回避できた。
そして、本来の最悪の日であるクリスマス・イブはまだ遠い。
さらに、最上白百合はまだ生きており、平塚八兵衛にしても、殺されずにまだ生きている。
そう、浅野父子の死の謎を追ってかれは動くのであるが、浅野父子が無事なので、かれが死なねばならない理由もないのである。
『このまま日を重ねていったとしても、同じことになるから、はじめからやり直す、つまりは撤退したほうが利巧だ、というヴァルキューレの判断なのね。浅野家の人間は生きていているけれど、それだけじゃ駄目なんだ。
最上アキラ子は、やはり犠牲になってしまったし、この最上白百合だって、命を狙われつづけているし、叔父さんも結局は巻き込まれてしまった。
わたしは、なにか決定的な見落としをしているんだわ。まだ全体を掴みきれていないんだ。なにが欠けているのだろう。前回のループと、今回のループの差は大きすぎて、どれと絞りきれない』
と、そこまで考えて、ラ・ピュセルはつよく自分を叱った。
『もう前回のループがなんの参考にならないと、自分で口にしたではないの! しっかりなさい。冷静になるのよ。前回といまと、決定的にちがうところは、どこ?』
犬の声といえば、と後部座席にいる陳寿犬を振りかえるが、陳寿犬は、わずかにひらいた車窓の隙間から、器用に口だけだして、ラ・ピュセルにたずねてきた。
「ねえ、さっき、犬の遠吠えが聞こえたのだけれど、オレ様の空耳ではないよね」
「そうよ。あれがケルベロスの声よ。いいえ、あなたの声でもある」
「へ?」
きょとんとするビーグルの雑種犬を、ラ・ピュセルはじっと見つめる。
この世界はレティクルの攻撃によって、ほぼ壊滅状態。
世界樹はうしなわれ、アトラ・ハシースたちは、いまだに顔を合わせていない。
もし、三度目のループがはじまるのだとしても、また、駒を変えて、おなじゲームが繰り返されるのだとしても、陳寿さえ残れば、あとはなんとかなる。
「みんなで降りてきて。早く五橋へ逃げましょう」
「でも、丞相さまが匂当台公園にいるわけでしょう? だったらオレ様、ラ・ピュセルたちといっしょに、公園に行くよ」
鼻息も荒く言う陳寿犬に、ラ・ピュセルは言った。
「いいえ、だめよ。さっきのラジオニュースを聞いたでしょう? 匂当台公園にあつまっている銀の光るものとは、レティクルたちのことよ。あなたがかれらの前面に立つのは控えたほうがいい。
あなたは言うなれば、そうね、このゲームにおけるキングの位置にいるのだもの。あなたが取られてしまったら、どんなに善戦しようと試合には負けてしまう。あなたが本当に孔明の力になりたいというのなら、いまはみんなと五橋にいて。そして、夏目マナブと叔母さんを守ってあげて」
「オレ様、戦えるよ」
「わかっているけれど、もしあなたが匂当台公園に行ったら、レティクルはあなただけを集中して襲ってくるでしょうね。勝つ自信はある?」
ラ・ピュセルに淡々と静かに諭されて、陳寿犬の顔が、悲しそうにゆがんだ。
「ないかも」
「あなたが弱いとか、能力が低いから駄目だとか、そういう話ではないのよ。あなたはこの世界の要だから、残らなくちゃいけないの。もうじき、時間が巻き戻るわ。でもそれも、あなたが消滅しなければの話よ」
「かなりわかりにくいよ、ラ・ピュセル。わかって欲しいんだけれど、オレ様にとって、丞相さまは故郷の偉い人ってだけではないんだ。
オレ様の父上は、丞相さまが目をかけていた馬幼常ってひとの部下だったんだよ。けれど、この馬幼常って人が、戦争で大失敗をしてしまうんだ。その責任をとって、オレ様の父上もいっしょに罰を与えられたのだけど、丞相さまは、馬幼常をこのように思い上がらせてしまったのは、自分に責任があるのだと言って、本来なら罪人であるオレ様たちはむしろ巻き込まれたのだって同情してくれて、オレ様が仕官するときにも、あまりそれとわからないように、便宜をはかってくれたんだ。
ほんとうなら、庶民や奴婢に落とされていても文句の言えない立場だったオレ様たちをだよ。
だから、オレ様は、丞相さまにご恩を返したくて、いろいろがんばったけど、でもどうもオレ様って要領わるくって、才能はある、って評価はしてもらえるけれど、でも仲間もできなくって、孤立したり、悪い評判をたてられたり、そういうのばっかりだったんだ。こういうオレ様に出来ることといったら、丞相さまがいかに立派だったかを文章にして残すことだけだったんだけど」
「それで十分じゃないの。孔明がアトラ・ハシースとして、まだ千八百年しか活動していないのに、攻撃型のなかでも名前が知られているのは、あなたが書いた本を、たくさんの人が読んでいるから、というのもあるのよ」
「そうなのかな、お力になれているんだろうか」
不安そうに顔をしかめる陳寿犬に、ラ・ピュセルは力強くうなずいた。
「ええ、力になれているわ。わたしが言うのだから、絶対よ」
「根拠はよくわからないけれど、力強い言葉。なんかそうなのかな、って思えてきた」
「あら、本当に信じてくれてよいのに。だってわたしの言葉なんですもの」
「そうなのか。なんかそう断言されると、かえって納得する」
怪訝そうでありながらもうなずく陳寿犬に、ラ・ピュセルは朗らかに笑いながら、うなずいた。
「ええ、そう。納得してくれなくちゃ。あなたたちは、きっとわたしたちが守るわ」
「それは、ええと、なんだったっけ、虐げられた者たちを救うための夢の世界ためだから?」
「そうよ。さあ、早く降りて。一刻もはやく匂当台公園のみんなに合流したいの」
「おお、そうだ。すぐに移動する。待ってて」
うなずいて、陳寿犬の言葉を肯定しつつも、ラ・ピュセルは違和感をおぼえていた。
そも、ラ・ピュセルがクロの前に姿を現した理由も、クロの悲しみの声を受けてのものであった。
世界に響き渡った声は、ヴァルキューレにとどき、ヴァルキューレの召喚にこたえたラ・ピュセルが、彼の前にあらわれて、クロの命が費えるまでのあいだ、夢の世界を作ろうと約束したのだ。
理不尽に虐げられ、命を落とした者たちを救うための世界。
『この世界はクロありきであって、クロの願いを具現化したもののはず。だから、千台潮や最上一樹によって命を奪われる者を救うための世界のはずだわ』
でも、なにかがひっかかる。
『理不尽に虐げられた者たちを救う世界』
善と悪と、きわめてわかりやすい構造になっている世界。
悪を滅ぼせばこのゲームには勝てる。
『そうだろうか。そんなに単純なものだろうか。レティクルたちが襲ってくる理由もわかる。かれらが先祖を守らなければ、レティクルたちの『現実』のほうが夢となってしまうからだ。
わたしたちが千台家に手をださなければ、かれらは襲ってこないだろう。けれど、それでは結局、時間がちがうだけで、同じ結果が出てしまうんだ。千台家と最上家を消滅させればいいという話でもない。レティクルの『現実』を消すことが正義ではない。
たとえレティクルが統制国家になってしまっていても、それとて歴史の長い目で見れば、一過性のものかもしれない。不自然な体制は長くつづくことはないもの。わたしたちがいまの世界でしたことは、やっぱり応急処置にすぎないんだわ。
浅野家は守られたけれど、これだけ乱暴なことをつづけていたら、きっとほかにも立ち上がる者が出てくるだろう。そのだれかが、浅野家と同じ目に遭うのだったら、同じことではないの』
「おい、なんかあったのかい」
夏目マナブや叔母たちを車から下ろす手伝いをしているラ・イールが怪訝そうにラ・ピュセルにたずねてくる。
ラ・ピュセルは顔をあげて、首を横に振った。
「ううん。ちょっと気になったことがあっただけ。忘れ物はない? そのトンネルをくぐれば、すぐに五橋よ。急ぎましょう」
ヨドバシカメラの駐車場の裏手にある、五橋に抜けるトンネルを指して、ラ・ピュセルは促した。トンネルの上には新幹線が、地震のためか、駅を目の前にして半端に停車している。乗客はそのまま待機させられているらしく、そわそわと落ち着かなく、車窓の外を窺っているのが、煌々と照らされたランプに映って見えた。
「五橋にいくと、なんで大丈夫なの?」
ラ・ピュセルのことばを聞いて、ランドセルを背負ったマナブがたずねてきた。
車から降りてきたマナブは、ちらりと目線を送って公衆電話に並ぶ人の群を気にしている。
どうやら、家にひとりでいるだろう、母親のことを心配しているらしい。
「電話をしたいの?」
ラ・ピュセルがたずねると、マナブは、まさにおっしゃるとおりといわんばかりに、つよくうなずいた。
父親の会社が倒産、その後、父親が失踪し、母とふたり、子どもながらに借金を気にしながら生活をしてきたマナブにとって、母親の安否はなにより気になるものなのだ。
「五橋にコンビニエンスストアがあるわ。そのとなりにも公衆電話があったから、そこで電話をすればいいわよ。五橋にはね、魔法がかかっているから、きっとこの地震でも、被害を受けなかったはずだわ」
「魔法って? 先生がかけたの?」
「ちがうけれど、五橋のなかにいれば安全よ。ラグナロクまで、何が起こっても不思議じゃないわ。結界のなかは破壊から守られているの」
「よくわからないけれど、そうなんだ。お母さんはだいじょうぶかな」
「平気よ。安心して」
夏目マナブの母親は、この血なまぐさい争いには、くわわってこない。
それを知っていたからこそ、ラ・ピュセルは断言したのであるが、一方で、『あの男』にも妻を巻き込みたくないという、愛情なり良心があったのだろうかとも思う。
いまのループにおいて、夏目マナブは救われたといってよいのだろうか。
時が戻り、浅野家が守られた世界は消滅し、また最初からやりなおしになる。
本来ならば、コンビニエンスストアで万引きを拒否したマナブは、千台タケシに追われて、木町通ではなく、上杉まで逃げるはずであった。
そこで浅野史朗と出会い、ふたりはおなじ地域のガキ大将であるタケシにいじめられている者同士、友情をはぐくむのであるが、それが悲惨な結果を生むのである。
しかし、このループにおいては、夏目マナブは、木町通に、そのときはいなかったはずのラ・ピュセルこと最上白百合と、この世界におけるクロの反転した姿である陳寿犬に、引き寄せられた。
浅野史朗と親密になる機会もうしなわれた。
ゆえに、浅野家とまったく接点のなくなったこの少年は、浅野父子を死においやるつらい役目からは回避された。
そこで、この少年が救われたものと単純に考えてよいかというと、またちがうとラ・ピュセルは思う。
『そもそも、生れ落ちた時点で悪そのものであった、などという存在が、この世界にあるだろうか。悪は悪になる理由がきっとあるはず。
クロと最初に出会ったから、わたしはクロの望む結果を示すことで、万事がうまくいくと思っていたけれど、もう、この世界はクロだけのものじゃない。基本世界にまで影響をおよぼす、立派な汎世界の一部になっている』
ふたたび、犬の遠吠えが聞こえ、おもわずラ・ピュセルは足を止めた。
その声は、アトラ・ハシースであるラ・ピュセルと陳寿、そしてアストラルのラ・イールにしか聞こえない。
不安そうに遠くをみやる二人と一匹に、マナブは恐ろしくなったのか、まるで小さな子のように、ラ・ピュセルの手をにぎってきた。
その手はやわらかく、あたたかい。
まだ本格的な思春期をむかえていない少年の手である。
ラ・ピュセルは、黙ってその手を軽く握った。
握ると、手は、さらに強く力をくわえてきた。
怖いのだろう。本当は、すぐにでも母親のもとへ戻りたいにちがいない。
サイレンのごとく、悲しげにひびく犬の遠吠えは、こだまをともなって宵の空にたなびいているようだ。
それは、夢は夢に過ぎないのかと、嘆いているように聞こえた。
「聞いているだけで滅入ってくるな。クロには、俺たちがどう見えているんだろうな」
と、いつのまにかラ・ピュセルの隣にやってきたラ・イールが、ぶっきらぼうな歩き方で、足を五橋に運びつつ、つぶやく。
彼は生前、戦で受けた傷がもとで片足を引きずっていたが、アストラルの肉体というものは、世界を渡るごとに一度消滅し、また再生する、ということをくりかえしているため、いまはなにに悩まされることもないのである。
そんなラ・イールのつぶやきに、ラ・ピュセルは顔をあげて尋ねた。
「どう、って?」
「俺たちは人の死や惨劇には黙っていられない連中だからこそアトラ・ハシースやアストラルになっているわけだが、けれどよ、たしかに酷いものをたくさん目にしなくちゃならねぇし、そのたびに怒ったり悲しんだりするわけだけれど、やっぱり、仕事は仕事だから、妙に切り換えがうまくなっている部分ってのはあるよな。
最初はたしかに同情するわ、怒るわ、いっしょに泣いちまうわの大騒ぎになるわけだが、さあ、この問題を解決するにはどうしたらよいか、って考え出したときに、とたんに冷静になって、計算づくでことを進めようとしはじめる。
いまだって、世界が最初に戻るのだったら、じゃあ、どうするかってばっかりで、いま、このループで発生した出来事や、経験や、たくさん交された会話の意味なんかは、いったいどこへ消えちまうんだろうとか、そんな感傷にはとらわれない。
生死を超越したというと、なんとなーく格好つくが、要するに人間らしさ、『たった一度きり』に賭ける必死さ、不様だけれど真剣に取り組む心っつーか、そういうものは、なくなってると思わねぇか」
ラ・ピュセルはおどろいた。素直におどろいた。
まえよりはだいぶ改善されたが、粗暴で猪突猛進、おおよそ感傷なんてものは辛気臭いものと同義だといわんばかりに、反省することさえ稀だった男が、自分を反省しているばかりか、クロに同情しているのである。
「すごいわ、ラ・イール」
「いや、感心されても、なんなんだが」
「ううん。そういうふうに人を思えるってことは、あなたにとって、なにより、とてもよいことよ! わたし、とってもうれしい」
うれしいといわれて、大男は、照れて、どのような顔をしたらよいのかわからない、というふうに顔をゆがめた。
「あんたの後ろばっかり追いかけていたから、感化されちまったのかもしれねぇな」
「わたしの力じゃないわ。今の言葉は、だれの受け売りでもない、あなたのことばじゃないの。そう思う気持ちを忘れちゃだめよ。そうしたら、あなたはきっともっともっと素晴らしい人になれると思うの」
素晴らしいという言葉は、ラ・イールにとってはまさに薔薇色の言葉であったらしい。
仙台駅東口に隣接するヨドバシカメラの駐車場横にある狭い歩道から、線路をくぐるトンネルには、渋滞中の車が団子状態になって停まっている。
オレンジ色の街灯で全身を照らすラ・イールの姿を真昼の太陽の下で見たら、おそらく夕陽のように赤くなっていただろう。
照れる大男の横で、しかしラ・ピュセルは、そちらにはもう気にかけることなく、考え込んでいた。
いまのラ・イールの愁嘆は、なにかヒントを示していないだろうか。
くりかえされる同じ日々
ひとたび時間が巻き戻ると、当然ながら、すべてが元に戻っているこの状態。
つぎのループにおいて、浅野家を守りたければ、同じことをすればいい。
すなわち、浅野家と千台家の接点をことごとく断ってしまうのだ。
そのパイプとなる存在を抑えてしまえば、かれらだけは守られる。
では、最上アキラ子と最上白百合はどうすればよいか。
12月以前にはレティクルの妨害がはげしく、戻ることができないため、12月の人間関係の状態から考えなければいけないわけだ。
発想を変えてみたらどうだろう。
虐げられる側がいくら変わろうと、結果はいつも惨憺たるものならば、虐げる側を変えてしまうというのは。
ラ・ピュセルは、銀の腕輪として、いまは沈黙をつづけている聖剣アスカロンを見た。
前回は、虐げられて命を失った者の命の補填として、アトラ・ハシースがまわされた。
最上アキラ子も最上白百合もそうだ。
しかし、そうではなくて、虐げる側に介入するということはできないだろうか。
当然、アトラ・ハシースという大きな力をもつ精神体が強制的に肉体に憑依するわけだから、どこかでなにかしらの体の不都合が出てくるはずであるが、憑依がゆるされるみじかいあいだに、虐げる側を変えてしまえばよいのではないか。
ラ・ピュセルは鼓動が高まってくるのを感じていた。
彼女がいま思いついたアイデアは、とてもよい思いつきに感じられた。
虐げられる者は、虐げる者がいるから発生するのだ。
となれば、虐げる者を消してしまえばよいのであるが、それはこの場合、乱暴にすぎる。
そこで、虐げる者を内側から変えてしまう。これだ!
「ねえ、聞いて、いま、とてもいいことを考えたの!」
それまで憂いの含んだ顔をしていた少女が、ぱっと顔を明るくさせて、ぐいっと自分の上着の裾をつかんできたのを、ラ・イールはすこしばかりくすぐったい思いをしつつも見下ろした。
「あんたのいいことってのは、なんだい」
「もうじき、世界は閉じ、ラグナロクがはじまる。撤退の合図が出た。すべては振り出しに戻るのよ。でも、元にそのまま戻るのではだめ。
わたしが最上白百合の体に憑依して復活したように、虐げられて殺されてしまう人たちではなくて、殺してしまう人たちに憑依して、その心を変えてしまったらどうかしら」
ラ・ピュセルは、ラ・イールがいつものとおり、そいつはすごい、とかなんとか言って誉めてくれることを期待していたのだが、残念なことに、返ってきたのは、それとは正反対のことばだった。
「言葉で言うのは簡単だがな、人間の心なんてものは、そうそう変わったりはしない。残念だが、たとえ俺たちがそれぞれ千台家だの最上家だのの人間に憑依したとしても、アトラ・ハシースの力が強すぎて、人間の身体のほうがまいっちまう。
とすると、そんなに長いあいだは憑依することができないってわけだ。人間を、ほんの数日で変えられるとあんたは思うかい」
「思うわ。あなたがそうだったじゃないの」
力強く言うラ・ピュセルに、ラ・イールは戸惑った。
事実ではあった。だが、ラ・イールにしてみれば、ラ・ピュセルの案は、単純すぎるようにも思われる。
たしかに生前のラ・イールにとって、当時としてはすでに老年に入りかけていたラ・イールの前にとつぜんにあらわれた少女の印象は鮮烈なものであった。
が、それは、出会ったのが、女といえば娼婦か傭兵のどちらかである戦場だったので、より印象深かったという状況も手伝っている。
ヒヒイロカネという巨大な利権を目のまえにぶらつかされている状態、そのうえ、生活にまったく困ることのない連中が、アトラ・ハシースが数日間、身体の中に入り込んできたところで、そうそう簡単に変わるとは思えないというのが、正直なところである。
なにせ連中は、未来人とも平気で手を組んで、こちらに戦争を仕掛けてくる連中ではないか。
たしかに只人ではあるが、『常識の範囲のなかで人生を送っている人』ではないことを忘れてはならない。
ラ・ピュセルは、どこか人間に夢を持っているのだろう。
だから、そんな発想が自然と浮かんでくるのだろうと思う。
が、かなしいかな、現実主義者であるラ・イールには、ラ・ピュセルの提案は実行してみる価値はあるかもしれないが、さて、有効かどうかは怪しいだろうと思えた。
レティクルにはすまないが、やっぱり連中には、消えてもらうのが手っ取り早いというものだ。
匂当台公園付近の道路を封鎖止めにしている状態のうえに地震である。
警察が仙台連続少年殺人事件に人員を割いてしまったということもあり、交通整備がうまくいっていないらしい。
車はさきほどから1センチたりとも動かない。
さすがの悠長な仙台人もじれてきて、車を降りて、前方の様子をうかがう者たちもいる。
「もうじきトンネルを抜けるね」
叔母に寄り添って歩いていた陳寿犬がふりかえって言う。
そうね、と応じかけたラ・ピュセルであるが、ふと、トンネルの出口付近に、だれかがこちらを見て立っているのが目に入ってきた。
長身で痩せぎすの男だ。カジュアルな服装で、黒のダウンジャケットを羽織っている。
だれだろう。
怪訝に思ったとたん、心臓が踊るように跳ねた。
ラ・ピュセルがおどろいたのではない。
もともとの身体の持ち主が、男の姿に仰天したのである。
男の顔はちょうど暗い中でよく見えないのだが、その手元に、きらりと光る小さな豆電球ほどのものがある。
それを男は指先でもてあそんでいるのであるが、ラ・ピュセルが気づいたのと同じように、男も気づいたようである。
小さなその石を、男はゆっくりと、ラ・ピュセル、いや、ただしくは最上白百合に向けてかまえる。
「みんな、戻って! トンネルを戻るのよ!」
ラ・ピュセルは、自分たちの前方を行かせていた叔母と陳寿犬を庇うようにして、あわてて前に出た。
そうして、男の動きを封じるべく、先制攻撃をしかける。
「ジャンヌ・ラ・ピュセル・ドルレアンが命ず、出よ、聖剣アスカロン! わが盾となり、われを助けよ!」
剣が出現するのと、その刀身に、男が投げつけてきた石が当たるのは、ほぼ同時であった。
鉄を弾いたような、澄んだ美しい音が、トンネルの中にひびきわたる。
石は弾かれると、地に落ちるのであるが、しかし、完全には落ちきらず。まるで生きものか、あるいはヨーヨーのように、飛ぶようにして男の手の元に戻って行った。
「ヒヒイロカネはそんな使い方もできるのね」
ラ・ピュセルが問うと、男は笑ったようである。
まだ若い。三十にも届いていないだろう。
肌つやもよく、顔立ちも整っているので、石の動きさえ見ていなければ、若者がちょっと悪ふざけをして知り合いに小石を投げただけに見えたかもしれない。
事実、男はうれしそうに笑っていた。
なにがそんなに愉快だというのか。ラ・ピュセルが眉をひそめると、男は肩を揺らしつつ、言った。
「それが聖剣っていうやつですか。初めてナマで見ました。すごいなー。てっきりライトセーバーみたいなちゃっちぃもんを想像してたんですけど、実際に見ると、ヤバイってくらいきれいなものですね。欲しくなります」
「あなたが、その手にしている石を、この世のすべてのためになるように使えば、いつか手にすることができるかもしれないわよ」
ラ・ピュセルの言葉に、男は、やはりにやにやと笑いながら、答えた。
「いや、つーか、それって死んだらもらえるかもって話でしょ? 俺は、いまほしいの。わかる?」
「つまりは、わたしを倒すってこと?」
「あんたが妹の身体から出てけば話が早いんスけど。また戻るんでしょ、この世界」
その言葉には直接答えずに、ラ・ピュセルは大いに顔をしかめると、剣の柄を握りしめた。
「欲しければ、とればいい。しかし、この剣は多くの戦士の記憶の集積体でもあり、これ自体が誇り高い精神体でもある。あなたが鞘に触っただけで、あなたは弾かれてしまうでしょう」
「試してみます? けっこう、自信あるんです。そういう宝飾品とかアンティークとかに好かれやすいんですよ、俺」
言いつつ、男はステップを踏むような軽い足取りで、ラ・ピュセルに向かってくる。
その片手では、小さな飴玉ほどの石を、手のひらで転がして遊んでいる。
「たいした自信なのね。でも、やめておこう」
「どうしてですか? その剣が俺になついたらまずいなー、とか考えてます?」
「いいえ。あなたが確実に死ぬとわかっているから。品物になつかれていたわりには、商売はうまくいかなかったのね、あなた」
とたん、それまで余裕を見せていた男の笑顔は凍りつき、声に出さないまでも、口を動かして悪態をつくと、斜に構えた様子でラ・ピュセルをにらみつけた。
「聖女って嫌味とか言っていいわけ? つーか、だからあんたも火あぶりになっちまったんじゃないですか」
「そうかもしれないわね。挑発してもだめ。大人しくここから消えるか、そうでなければ、道を開けてちょうだい」
「そうしないと殺すわよ、ってとこッスかね。いいですよ。だって、終わるんでしょ、この世界。元に戻れば、俺も生き返るわけだし、問題ないっしょ。どーぞ、ご自由に。
俺よりピンチなのはあんたのほうでしょう。だって、あんたはもし俺に殺されたら、この世界から消滅するかもしれないわけだし。あー、でも、あれか、死体にとりつきゃいいのか。このあたりって寺多いですし、よりみどりっすよ」
「ずいぶんと、わたしたちのことに詳しいのね」
「勉強したもん。レティクルの連中ははっきり言わなかったけど、俺の未来って、潮さんほど楽しそうじゃないじゃん? 困っててさー。
だって、もともとこの石はウチの物なのに、潮さんに横取りされちゃうようなものじゃないっすか。裏をかきたいわけですよ。俺が千台潮のポジションになりたい。わかります?」
「わかるわ。もうさっそく仲間割れをしているってこと」
答えつつ、ラ・ピュセルはちらりと背後を確認した。
車道では、団子状態になっている車から、いったい歩道でなにをやっているのかという風に、怪訝そうにこちらを見たり、あるいは携帯電話のカメラでこちらを撮影したりしている者がいる。
あまり只人の前で戦うのは好ましくないが、この場合、そんなことを言っている場合ではなかった。
最初に気にかけたのは陳寿犬であるが、アストラルのラ・イールの視界を借りて確認したところ、これはラグビーボールのようにラ・イールに抱えられ、すぐにヨドバシカメラのほうへ連れて行かれたらしい。叔母さんもおなじだ。
だが、もうひとりは、まだ残っていた。
「お父さん!」
夏目マナブが叫ぶと、この屈託のない、身内さえも平気で死に追いやれる男・最上一樹は、じつに陽気に手を上げてみせた。
「よー、マナブ、ひさしぶり。あんまり背が伸びてないなあ。おまえにスカートはかせて、じつはうちには娘が、ってすりゃあよかったかな。そうしたら妹を殺す手間も省けたのに」
「実の子どもの前で、殺すだのなんだのと口にして平気なの?」
ラ・ピュセルがぴしゃりと言うと、しかし一樹は平然と答えた。
「だって、いずれは俺の後を継ぐわけだし、いまから慣らしておいたほうがいいでしょ。そいつが最上姓を名乗るようになって、千台家に婿入りするんだっけか。
なんだっけ、ヨーコとかいう潮さんの一人娘の産んだ子と結婚するんだっけ? 若い嫁さんでよかったな、マナブ。親としちゃ、そのときに、千台家で肩身の狭い思いをしてほしくないんで、こうして鍛えてるつもりなんですけどね」
「黙りなさい。この子の未来は変わるわ」
「変わらないっしょ。つーか、親権者、俺。あんたこそ黙ってくんないかなあ」
「黙らない。居丈高になっても無駄よ。そこをどきなさい」
「やだ。っていうか、あんたさ、もういっぺん、マナブのほうを見たほうがよくない?」
言われて、ラ・ピュセルが後方を確認すると、マナブがいない。
ラ・イールが連れて行ったのかと、とっさにラ・イールの視界を探ってみるが、この元傭兵団長は犬を片手に、叔母さんの手を引いて、仙台駅のほうまでけんめいに駆けている途中であった。
まさかと、いやな予感におそわれ、いそいで剣を持ったまま、トンネルを抜けたとたん、上空から声がする。
「あたらしい世界の胎動が聞こえないかい、ラ・ピュセル」
場違いな、やわらかくも優しい声に顔をあげると、渋滞中の道路の両脇に、いまだ黄金色の葉をしげらせているイチョウの木のその上で、吸血鬼ジル・ド・レが、悠然と笑みをうかべて、立っていた。
その片手にはマナブ、そのもう片手には死神のような鎌を手にしている。
「ジル、マナブを離しなさい!」
ジャンヌの切迫した様子とは対称的に、イチョウの枝の上に立つジルは、悠然としたものである。
ランドセルを掴まれてイ、チョウからぶら提げられているような格好のマナブは、恐怖のあまり声も出せずにいる。
ジルは子どもを殺すとき、好んでその首を、窒息寸前まで絞めて楽しんだ。
なぜそんなことをしたかといえば、その刹那にあらわれる子どもの表情が、ジルの恍惚を誘うからという理由である。
ちなみに、ジルの立つ枝は、ジルほどの体型の人間が立っていたら、折れてしまうほどの細さである。
いま、目の前にいるジルは、アストラルのようなものだ。質量がないのである。
本体は、『棺』に置いてきたのだろう、とラ・ピュセルは胸のうちでつぶやいた。
かれもまた、終末にそなえているのか。
「答えてくれないのね」
「世界は閉じてしまう。残念だ。せっかくわたしが戦士の角笛を吹いたのに、無駄になってしまったのだろうかね。
ああ、安心したまえ、君にもらった戦士の角笛、あんな役立たず、ろくな結果をもたらさないうえに、君をこんな無粋な東洋人の肉体に閉じこめる手伝いをしただけだったので、頭に来たから、広瀬橋から投げ捨ててしまったけれど」
「まあ、なんてことをするのかしら。ひとりにつき、一度は吹ける霊具なのよ。ほかの、まだ吹いたことがないひとが吹けば、十分に使えるものだったのに!」
ラ・ピュセルが抗議すると、ジルはおどけたように肩をすくめた。
「おや、それは失礼、生憎と、聖なる霊具に関する知識はとぼしくて」
ジルは、まるでからかうように、枝の上で優雅にラ・ピュセルにお辞儀をしてみせた。
知識に乏しいなどということは、嘘であることを、ラ・ピュセルは知っている。
ジルは、なかなかの研究家なので、霊具や、魔具に精通している。知らなかったはずがない。
「しかし安心したまえ。運良く、ヴァルキューレがそれを拾ってくれたようだ。これで三度目のループも滞りなくはじまる。
重態のゲオルギウスは、今回は無理だろうけれどね。ああ、気の毒なメアリもそうか」
憂いを含ませてなげくジルであるが、ラ・ピュセルは誤魔化されずに、きっぱりと言った。
「あなたにはお礼を言うべきでしょうけれど、でもそれとこれは別よ。そんなところにいないで、降りてきて、マナブを返して」
「君は親権者じゃないだろう」
「権利も権威もわたしには通じない」
「そうだった。そんな君であればこそ、わたしは君を愛したのだ」
「ありがとう、でも、うれしくない」
「涙が出てくるよ、ラ・ピュセル」
「ないていないで、マナブを返して! 最上一樹の味方をするつもり? だったら、あなたを狩るしかなくなるわ。そんなことはしたくないのよ、わかるでしょう?」
しかしラ・ピュセルの説得に、金の巻き毛の吸血鬼は、その秀麗な顔をゆがませて、言った。
「君が狩ってくれないということは、どこのだれとも知れぬ者に狩られてしまえといわれたようなものだ。わたしはかならず君を手に入れると決めている。そして、いまがそのときだ」
芝居がかったジルのことばに眉をひそめたラ・ピュセルであるが、不意に、身体から急激に力が抜けていくのがわかった。
まるで自分の身体が、空気が抜けていく、風船にでもなった感覚がある。
愕然として己の身体を見れば、ちょうど胸の辺りに弾丸が貫通したような丸い孔が開いていた。
その孔から、ころりと、役目をおえたヒヒイロカネが、今度こそ地面をころころと転がっていく。
「うしろもさー、ちゃんと確認しなきゃ。って金融会社のCMか、俺は。おい、ヴァンパイア、あんたが気をそらしてくれたおかげで、妹殺せたわ、サンキュー」
「どういたしまして。では、わたしも君の息子をお返ししよう。ちゃんと受け止めたまえよ。うっかり地面に落として首の骨を折ってしまっても、わたしに責任はない」
力が足元から抜けていく。
がくりとその場に崩れていくラ・ピュセルの横を、荷物のように無造作に放り投げられたマナブを受け取った一樹が、通り過ぎていく。
「ヒヒイロカネって最強。うまく作戦を考えりゃ、アトラ・ハシースさえ殺せるってことじゃん。あのさ、このまんま時間が戻るの、なんか面倒なんだけど、ヴァルキューレとかもこいつでまとめて殺すってのできないの?」
「興味がないのでわからぬ。それでは、ラ・ピュセルは貰い受ける」
ジルがひらりとイチョウの枝から降りてくるのが気配でわかった。
もはや歩道に倒れたラ・ピュセルには、ジルの靴しか見えない。
そして、その靴ごしに、なかば気絶しかけたマナブを、強引につれていく一樹のうしろ姿が見えた。
まだだめ。消滅してはだめ。
「消滅してはいけないよ、ラ・ピュセル。わたしがきみと契約を結ぶまでは」
言いつつ、ジルはラ・ピュセルのかたわらに屈みこみ、それを介抱するようなしぐさで抱き上げると、力をいれることができずに反った白い咽喉元に、その牙をつきたてんと口を開いた。
※ この話は、「真ずんだの章14」につづきます。