真ずんだの章 12

※ この話は、「真ずんだの章11」のつづきとなります。

立ち上がったケマルのこめかみを、一瞬、まさに矢が貫いたように、するどい頭痛が走り抜けた。精巧なモザイク画の一片が崩れたような空想が浮かんで、すぐに消えた。
足元がどうにもおぼつかない。
しっかりと立ち上がっているのだが、まるでマシュマロの上に立っているようではないか。
見回せば、潮たちをけんめいに、どこか昆虫を思わせるカメラでもって、異変を追いかけているマスコミや、騒ぎにさそわれてあつまった野次馬たちも、足元を気にしたり、おどおどと周囲を見まわしたりしている。
地震が起こっているのだ。
ラグナロクが近い。

ケマルは舌打ちをした。
覚醒が遅すぎた。二回目のループ。これもまた失敗だったらしい。
しかも、いまの頭痛。一瞬、浮かんで消えた像。
そうして、本来ならば娘を守るべき立場であったはずの三人が、どういうわけだか目を血走らせて、千台潮の首を取らんと躍起になっているこの状況。
愚か者ども。
どいつもこいつも、ほんとうに心の底から、愚か者ども!
余は、だれであれ、弱い者が虐げられているところを見るのが、大がつくほど嫌いなのだよ!

こめかみを押さえていた手を下げて、ちょうど斜め前方にいる、白銀の淡い光に身を包まれている女の姿をしたモノを見る。
とろりとした銀の液体で出来上がったような女だ。わかりやすくするためか、顔はとりあえずあるのだが、副葬品の人形のように表情のないもので、もしかしたら美しいものなのかもしれないが、誉める気にはなれなかった。
顔を上げたケマルの顔は、さきほどの、どこか飄然としたトルコ人のそれではなくなっていた。
だれが見ても思わず目を伏せるか、あるいは怖じるかするであろう、眼光炯炯とした、狼のような獰猛さと狡猾さを秘めた戦士のそれに転じていた。
ケマルは怒りに燃えていた。
かれはもともと短気であったが、特に、こうした、非合理的な失敗のくりかえしの果ての悲劇というものを目の当たりにすることが大嫌いだった。
なぜならば、自分はそうした失敗をすることがないからである。
こんな失敗を生み出しておいて、なおも間違った方向へ突っ走ろうとする。
たわけ者ども、と心から思う。
そして、彼はそれを黙っている人間ではない。
異様な光景の繰り広げられている公園の広場で、彼は、その場のありとあらゆる者、全員にむけて、高らかに宣言した。
「目も当てられぬ状況ではないかね! 犠牲者はすこしも減っておらぬ。顔ぶれが変わっただけではないか! この作戦の責任者はだれだ? 余は断固抗議する!」
ケマルが言うのを、レティクル・クィーンは、ころころと鈴のような声で笑った。
「だれが責任者だろうと同じことよ。未来は決まっている。多少の流れは変わっても、わたしたちは、ここにあり、消えることはない」
「の、ようだな」
と、ケマルは冷静に相槌を打つ。
観察するに、レティクル・クィーンにも、公園をぐるりと取り囲んでいる銀の小人たちにも、なんら変化が見られない。

視線を移せば、あらたな発言者の登場に、いったい何事かというふうに、不安そうな目を向けてくる潮がいる。
この男が生きているかぎりは、血脈は絶えることがない、ということか。
ならば、レティクルの未来も変わらない。
ケマルは、目を伏せた。
愚かな、そして哀れな娘。目も覆わんばかりの悲劇が起こったのは、そなたのせいばかりではなかったに。
そなたの思いを、われらが見過ごすはずもない。

ふたたび目を開いたとき、ケマルの表情に浮かんだ憂いは消えていた。
「レティクルのヴァルキューレだな。名はあるのか」
ケマルが問うと、レティクル・クィーンは面白がって、さらに笑いながら答えた。
「ないわ。ただ、クィーンと。クィーンと呼ばれる者は、レティクルではわたしだけなのだから、不都合はないでしょう」
「なるほど。ところで先ほどの話であるが、余がおまえに与することも可能だということを匂わせていたが、あれは事実かね」
レティクル・クィーンの顔は、金属に彫りこまれたようなものであるから、いかなる言葉をぶつけてみたところで、表情がそこに浮かぶことはない。
だが、ケマルは、この人工生命体がまとっている淡い光の増減が、そのままクィーンの喜怒哀楽につながっていることに気が付いた。
いま、光は笑っていたときと同じように、波打っているように見える。喜んでいるらしい。
しかし、一方で、喜ぶはずもないものがいるのだった。
エリザベスと孔明、そしてそのアストラルたる趙子龍である。
「ムスタファ・ケマル! そなたはアトラ・ハシースとしての誇りを捨て、レティクルなどに与するつもりかや!」
宙を浮くホロコーストは怒りのあまり孔明らの頭上を、これまた波を描くように浮遊している。
噂ほどにみにくい女ではないな、などと、ケマルはこんなときでも品定めを忘れない。
「与するもなにも、目が覚めたらすでにラグナロクが始まっている。このような馬鹿げた状況で、いったい余になにをしろというのだね、諸君は? 
君らのように、すでにその地位も安定し、残してきた国のことを意識しなくてもよい者たちに、余の立場がわかるまい。余の愛すべき故郷は、いまもって苦しい情勢のなかにいる。ここで余が倒れたなら、その影響は、故郷にも及ぶであろう。
諸君らのように、感情的に動き、世界ごと身を滅ぼそうとしている輩に付き合ってはおられないのだよ。それを勝手だと怒るならば怒るがよい。余のほうにも、言いたいことは、三つも四つも、ええい、五つも六つもある!」
「ならば勝手に怒らせてもらおうぞ、この短慮者めが! いままで聖剣アスカロンのせいで、安穏と意識を眠らせておったくせに、いまごろになってわあわあ喚くとは、恥をしるがよい!」
とたん、ケマルは、いささか芝居がかったしぐさでもって、びしりと、宙に浮く女王を指さした。
「そこだっ!」
とつぜんの指摘に、さすがの日の沈まぬ帝国の女王も、うろたえて、たずねる。
「どこじゃ」
「はた迷惑な聖剣のせいで、余の意識はずっと眠らされていた。そのために、ここに至る経緯が、さっぱりわからぬ。なにがどうしてこうなった! 余は説明を求めるぞ!」
表面上は怒りをみせつつ、いつも意識の奥は冷めているケマルは、ほとんど接触がなかったがために、目の前の三人の器量がよくわからない。
さて、勘のいい連中だといいな、と思う。

エリザベス女王は、夜風に、赤に近い金色の巻き毛をなびかせつつ、ケマルのことばに眉をひそめる。
うむ、これは通じたようだ。さすがは世界史上にも稀な賢女。
その下にいる、どういうわけだか印刷工の制服を着ている趙子龍は、やはり同じく眉をひそめ、なにかを口にしようとする。
まずいかな、と一瞬身構えたケマルであるが、しかし、隣にいた、アコの肉体に宿る諸葛孔明は、趙雲が口を開こうとするのを、手ぶりで止めた。
孔明は、なにも言わない。
しかし、物問いたげな様子で、真摯な目を向けてくる。
こちらのしようとしていることがわかったらしい。
こいつはたしか風属性の攻撃型で、読心術は心得ていないはず。
敵に回すと厄介な勘の良さだな。
もうすぐ、ラグナロクがおとずれ、この世界は、一度、閉じる。そうして時間が巻き戻り、三回目のループがはじまる。
罪もなく逝った、二人の少女。彼女たちだけではない、これまでに積み重ねられてきた屍と、それをさらに上回る屍のために、この世界は、消えてはならないのだ。

「情報不足では戦うことなど不可能だ。それこそ目隠しをしたまま、銃を持たされたのと同じではないかね。
当山孔真君、君はあまりに、その肉体に宿っていた心に縛られすぎて、とうとうこのループでも優位性を保つことができなかった。余は君に従うことはできない!」
孔明は、それを聞くと、目を細めて、口をひらいた。
「何も知らないままで従えぬとは、それこそ片腹痛い」
言うと、孔明は、おのれの片手を伸ばし、その指先でつまんでいるものを見せた。それは、親指の爪ほどの大きさの宝石である。
「これは、わたしがいま錬成した、二回目のループの記録を封じ込めた石だ。わたしの記憶を中心にたどってあるものだが、そなたの参考にはなろう。これを見てから、そのように、わあわあと喚くがいい!」
そうして、孔明が石をケマルに投げようとすると、レティクル・クィーンが横槍を入れた。
「お待ちなさい! 当山孔真君の記憶を中心とした記録など、冷徹な英雄ムスタファ・ケマル、あなたには、一方的にすぎるものでしょう」
「レティクルの声になんぞ耳を貸してはならぬ! アコの心もここに籠められている。これを見ろ!」
孔明が言うのを遮るように、レティクル・クィーンは言った。
「いいえ。完全なる者よ、当山孔真君の記憶は、この世界の、ほんの一部の記録にすぎない。わたしの記録をみせてあげましょう。そうしたなら、いかに当山孔真君の動きが非効率的で、行き当たりばったりなものであったか、よくわかるはずよ。それは、あなたがもっとも嫌うものでしょう」
「そうだな。嫌いだ」
「なら、これを見なさい。いかに、彼らに与することが無意味か、よくわかるわ」
おそらく、レティクル・クィーンに口があったなら、ケマルが彼女の記録を封じた石を素直に受け取ったので、ほっと息をついたことだろう。
ケマルは、口はしに笑みさえ浮かべて、その宝石を受け取った。


それは雨上がりの空の下、陽光に輝く水鏡のようなかがやきを持っており、あるいは乱反射するガラスの欠片越しに見る世界の姿のようにも見えた。
透明で、澄んだ、色のない世界。
これが、この人工生命体が見ている、彼女にとっては過去の人間の世界の姿なのである。
きっと非合理で、感情という、得体の知れぬどろどろしたものによって動かされている、なんとも原始的で汚らしい世界に見えているだろうなと想像していたのだが、思いもかけないことである。
こんなに世界は美しかっただろうか。
きらきらと乱反射する、プリズムのなかに入り込んだような世界のなかで、つぎつぎと展開する物語を見つめつつ、人工生命体が、思いもかけず、この世界を憧憬のまなざしで見つめていることに気がついた。
これを創った人間は、彼女がこれほど複雑な心理を得るように、どうして設計したのだろう。
しかし彼女の眼差しも、敵対するものには激しい憎悪を向ける。
そうか。そういうことか。
ケマルはすべてを理解した。
この複雑なゲームのルールとコツをも理解した。
そういうことだったのだ。

そうして、目を開くと、ケマルは、固唾を飲んでこちらを見つめている孔明に向かい、またも、軍人らしいきびきびした動作でもって、びしりとその指先を付きつけた。
「当山孔真君、わたしは告げる!」
かつて世界を動乱に巻き込んだ大戦のさなか、ケマルは作戦指揮官でありながら、みずから弾丸の雨のなか、砲撃の嵐のなかを飛びまわり、兵士たちのこもる塹壕を訪問し、かれらを励まし、勝利に導いた。確固たる意志のうえにきずかれた勇気は不屈のものである。
それに、外見は細いし大酒のみであったが、咽喉は丈夫であった。
ケマルに指先を突きつけられても、孔明の顔色はほとんど変わらない。
どころか、その結果はどうであったかを、いまか、いまかと待ち受けているような表情だ。こいつもたいがい、いい度胸をしている。
「やはり、そなたのこれまでの方法では、このゲームは勝てぬのだ! そなたの指揮には従わぬ! 改めて言おう。今後の指揮は、すべて余に任せるがよい!」
とたん、反応をしたのは、孔明の後ろにひかえていた趙雲であった。
「いきなりなにを言い出すか! いまさら仲間割れをしている場合ではないのだぞ!」
「仲間割れもなにもあるか。貴様に提案しているのではない。余は、貴様のアトラ・ハシースである当山孔真君と話をしているのだ。
よいか、そなたらは、ここにいる千台潮こそ、諸悪の根源とみなし、これを滅すれば、万事がうまくいくと考えて、いま攻撃を仕掛けているのであろうが、それはまちがいだ」
「なぜだ! 千台がいるからこそ、レティクルが生まれるのだぞ!」
「だが、レティクルは、われらが攻撃するかぎり、その千台を守ろうと、われらに攻撃をするのだ」
その言葉を発したとたんに、孔明とエリザベスの顔に、明るいものが兆した。
どうやら伝わったらしい。
アストラルのほうはわからないようだが、これはあとで当山孔真君からゆっくり聞けばよかろう。
只人になってしまっているようであるし、攻撃してきたとしても、脅威ではない。

さて、クィーンのほうはどうかなと見れば、その身にまとう光が、さきほどのゆるい波とはちがって、まさに花火のように弾けている。わかりやすいことに、怒っているらしい。
「おや、もしや怒っているのかね」
そらとぼけてケマルが言うと、女王は、ばちばちと光を何度もはじけさせながら、怒りを押し殺した声で言った。
「まさかあなたが、こんなペテンをするとはね」
「ペテンとは心外な。これも策と言ってくれたまえ。それに余は、君の記録を見せてくれたら、君に与するとは約束していないはずだぞ」
「すべては、わたしの記録を読み、その行動パターンから、わたしたちにプログラムされている命令を読み取るための罠だった!」
「人工生命体とは不自由なものだな。いや、そもそもレティクル本星の技術に限界があるのだ。君たちは、レティクル本星からこの過去の汎世界のひとつに送り込まれた。
われわれはすっかり勘違いを起こしていたのだが、君たちはレティクル本星とこの世界を、往復なんぞしていないのだ。
銀の小人たちがわれらの攻撃により減ると、君の母胎となっている時空船がこれを量産し、地上にいる君に送り届けている。生き残った小人たちにしても、霊力の補充は、小人自身が行うシステムになっている。
この世界に満ちる霊力をくみ出すのではない。もっと身近でわかりやすいもの、つまり、人の負の感情から発せられるエネルギーをそこかしこから集めて、霊力の代わりにしているのだ。
世界の霊力をくみ出すのには、それ相応の器と技術が必要だが、大量生産品である銀の小人には、そんな芸当はできない。ヒヒイロカネを主動力にしている君にしても、これだけの銀の小人たちすべてに霊力をまかなうことは不可能だ。
そこで、小人たちは、もっとも集めやすい、現地人の負の感情を吸い取れる、という構造になっているのだ。
負の感情は、それ自体が悪いものではない。負の感情を克服せんと、人は動くものだからな。だからこそ、尽きることがないのであるが、そこに目をつけたのは、さすがだ。そこは素直に評価する」
「それがわかったところで、どうするつもり? たとえ何度とこの世界を復活させようと、未来を変えることはできない。未来が変わらないということは、土台となる過去も変わらない、ということよ。
夢は夢のままに終わればいい。わたしたちだって、そう無慈悲ではない。世界樹のほとんどは倒れ、いまや世界を支えるのは、基本世界を否定したいという、その想いだけではないの。
まして、渡航禁止命令の出されたこの世界をいくら変えたところで、基本世界が変わらなければ、意味はないのよ。あきらめなさい。おまえたちがあきらめて、ヴァルハラに戻るというのなら、わたしたちの力を貸してやってもいい。でも、どうしてもあきらめないというのなら、次のループでわたしたちがもっと楽ができるように、ここで徹底的に叩き潰すしかない」
「どちらもさして魅力的な提案ではないな」
答えつつ、ケマルは、それまで公園の周囲をぐるりと取り巻いていた銀の小人たちの動きが、にわかに活発になってきたのを感じていた。
どんなときであれ只人を巻き込まない、というのが、一流のアトラ・ハシースだということだが、やれやれ、余は、まだまだ修行が足りぬらしい。
「答えは?」
クィーンの詰問に、ケマルは即座に答えた。
「決まっている。余はだれにも屈さぬ」
言いつつ、その手に霊力を集めた。
おのれの武器を錬成するために。



東北の、どこかのんびりとした気質ゆえであろうか。もともと仙台市民は、日ごろから地震に対する意識が高いこともあり、この地震によって車が動かなくなっても、大きな混乱に陥る様子はない。
安否確認の電話が殺到したためか、携帯電話が不通となっているらしく、公衆電話の姿をもとめて歩く外回りの営業マンの姿が街灯の下に見える。
「よかった、だれも怪我をしていないようね」
ラ・ピュセルが言うと、ラ・イールは、なかば呆れたように言った。
「あんたは、いつでもあんただな。こんなときでも他人の心配かい、優しいね」
「優しいかしら。ほんとうにそう思う?」
ラ・ピュセルが車窓の向こうの人々を見つめたまま言うと、ハンドルを握り続けているラ・イールは怪訝そうに顔をしかめた。
「そう思っているよ。嫌味で言ったんじゃないぜ」
「わかっているわ。でも、ほんとうにわたしは、優しさや、哀れみから動いているのかしら。この哀れみと怒りは、ほんとうに千台家に向けられているものなのかしら。
わたしがこの世界を作る手助けをしたのも、結局は、世界中から見捨てられたと思って、悲しんでいた、生前のわたしの恨みや悔しさが、いまだに胸のうちにくすぶっていて、ここぞとばかりに、この世界に八つ当たりをしているだけなのかもしれない」
「考えすぎだぜ」
「そうだといい。自分がそこまで愚かだと思いたくないもの。ラ・イール、わたしたちは、いま勝っているのかしら、それとも負けているのかしら。どこをどうしても、だれかを生かそうとすれば、だれかが死んでしまう。浅野家が無事なかわりに、こんどはだれかが死ぬのかもしれない。
だれも死なないシナリオを作ることが、どうしてできないのだろう。やはり、最初からまちがっているからではないの?」
「最初ってな」
「そもそも、悲劇をなかったことにしようという考え自体が、まちがっているのかも」
その嘆きを受けて、ラ・イールは、助手席のラ・ピュセルを見た。
「いつも楽天的なあんたらしくない言葉だな」
「正直に言っていいのよ。わたしがやろうとしたことは、まちがっている?」
「まちがっちゃいねぇさ。俺だって、人生をやり直したいと何度思ったかしれねぇ。生きているときだってそうだった。いまだって同じだよ。
何もかも忘れて……ただし、俺は欲張りで図々しい男だから、あんたのことと、それから生きて行くには十分な知恵と知識だけは持ったまま、やり直したいと思うわけだ。
俺は、この世界が好きだぜ。気に入っている。なにより、あんたがいるし、ほんとうに短いあいだだったが、あんたと一からやり直せている気分が味わえたからな」
「でも過去は変わらない」
「そうだ、俺たちの過去は変えられねぇ。だからこそ、変えられるかもしれねぇやつらに過剰に肩入れしちまっているんじゃねぇかって、あんたは自分を疑っているんだろう」
「そうね」
「むずかしいことを考えることはねぇよ。だれだって、俺たちと同じチャンスを目のまえに見つけたなら、おなじように行動するんじゃねぇかな。まともなやつなら、目のまえにいる助けられるかもしれないやつらに手を差し伸べる。
この俺だってそうなんだ。ほかのやつは、きっと、もっとそう思うよ。あんたなんか、ことさらそうだと思うぜ」
ラ・イールのことばに、ラ・ピュセルはほんの少しだけほほ笑んだ。
「ありがとう、あなたは、むかしから変わらずに、わたしを励ましてくれるのね」
「俺があんたにしてやれる、数少ない、いいことだからな。ところで、どうする。道路がさっぱり動かない。五橋は目のまえだ」
「車を路肩に寄せて、歩きましょう。結界にさえたどり着けば、安心だわ」
「トルコ人をうまく味方につける算段は立ったのかい」
「いいえ。でも、かれがあくまで中立を守るというのであっても、なんとしても、うしろの二人と、そして陳寿だけでも結界に入れてもらうつもりよ。陳寿は、ケルベロスは、『クロ』でもあるのだから」
「ユグドラシルがぜんぶ枯れちまっても、ケルベロスさえいれば、なんとか世界は維持できるってわけか」
自分の名を呼ばれたと察したのか、それまでぴったりと樽宮玄の妻のひざにおとなしくしていた陳寿犬が、鼻面をぬっと運転席と助手席のあいだにつっこんで、たずねてきた。
「オレ様のことを呼んだ? ずっと気になっていたんだけど、ケルベロスってなにさ」
陳寿の問いに、ラ・イールはもともとの仏頂面を渋くして、陳寿犬を見た。
「この犬は、なんだってこうも、スッカラカンに忘れちまっているんだ?」
「役者といっしょなのよ。役柄に入り込めば入り込むほど、その演技はほんものに近くなるでしょう。それと同じで、クロに同化しているからこそ、かれは逆に『クロ』を意識していないの。もし、自分がクロと同化している別のだれかという意識が出てきてしまっていたら、きっとこの世界の瓦解は早かったと思うわ」
「かもしれんが、しかし創造型アトラ・ハシースってのは、よくわからん連中だな。攻撃力は0のくせして、影響力は最強ときたもんだ」
「攻撃力が0というのは言いすぎよ。かれは世界そのものであるわけだから、世界の侵入者に対しての攻撃力はずば抜けている。けれど、かれが倒されてしまったら、世界は崩れるから、前面には出せないわ。
ケルベロス……地獄の番犬。あまり趣味のよくないあだ名だけど、間違ってはいないわね。だれが付けたのだっけ」
「ゲオルギウスのおっさんじゃなかったかな。ほんもののケルベロスってのは、見た目はグロいが、実に紳士的なワン公だって話だ。気に入ったやつが来ると、三大テノールも真っ青な美声で、三つ頭でコーラスを披露するらしい」
「地獄には行きたくないけれど、そのコーラスは聴いてみたいわね」
「へ? なに言ってんの?」
きょとんとする陳寿犬に、ラ・ピュセルは笑顔を向けるばかりである。
しかし笑顔ではあるけれど、そこには、質問をいっさい拒む雰囲気があった。
陳寿犬は、すごすごと、ふたたび、樽宮玄の妻のひざに戻っていく。
樽宮玄の妻は、犬の体のあたたかさが、いまはありがたいのだろう。毛だらけになってしまうのにもかまわず、陳寿犬をみずから抱え込んだ。
陳寿犬も、その手から伝わる不安がわかるのだろう。いたわるように、体をすりよせる。
その光景は、この切迫した状況にあっても、ほほえましい。
「前回は孔明が、かれを殺してしまった」
「今回はどうだろうな」
「あなたの態度如何だと思うけれど。会ったら、それこそ土下座でもなんでもして、ひたすら謝るのよ。誠心誠意こめてね。わかった?」
「はいよ。あーあ、あの中国人、俺をふつうに許してくれるかね。なんだか五体をばらばらにされそうな予感がするぜ。中国人ってのは、怒らせると尋常じゃなく陰険なことを平気でやってのけるからな。どうも信用ならねぇや」
「あなたがそんなことを言っていると、顔や態度に出るわよ。かれは仮にもアトラ・ハシースとなった人物ですもの。誠意を見せれば、わかってくれるわ」
「はいはい、そう信じますよ、ラ・ピュセル。と、ほい、ここに停めときゃ、とりあえず邪魔にならねぇだろ。キーはつけたままにしておけば、邪魔になったときにも問題ねぇだろうし。昔とちがって、いろいろ学習して、じつに気遣いの人となった俺。さあ、歩こうぜ」

たんたかタンの営業車を路肩に乗り上げさせて、ラ・イールはエンジンを止めようとするが、そのとき、カーラジオに入ったニュースが、その手を止めさせた。

『仙台市青葉区の県庁そばにあります匂当台公園において、未確認でありますが、銀色に光る物質が発生し、集った人々に嘔吐や眩暈といった症状を起こさせているようです。
なお、匂当台公園において、その直前に、連続少年殺人事件の容疑者と思われる、同市青葉区五橋在住のトルコ人男性が身柄を拘束されており、警察ではこれとの関係性も含めまして、慎重に行動するとのことです。
この容疑者をめぐっては、連行しようとする警察を妨害しようという少女と男性の姿も確認されており、この少女は容疑者の隣家に住んでいるということですが、事件との関係性もまだわかっておりません。
少女は地元の女子高に通う十七歳で、男性は身元があきらかになっておりませんが、地元企業の作業服を着用しているとのことです』

ラ・ピュセルとラ・イールは息をつめて顔を見合わせた。
「どういうことだ」
「孔明だわ。『完全なる者』を取り戻すためにあらわれたのね。すれ違いだなんて」
「は? なになに? 丞相さまがどうしたっての。いまのはかなり聞き捨てならないんだけど、もしかして、匂当台公園に丞相さまがあらわれた!」
ふたたび犬が身を乗り出して、運転席と助手席のあいだから鼻面をにゅっと出す。
しかしラ・イールはラ・ピュセルの翳りを帯びた顔を見つめて言った。
「戻るか、匂当台公園に」
うながされ、しばし沈黙していたラ・ピュセルであるが、ぱっと顔をあげると、一瞬浮かんだ迷いは晴れて、決然とした表情になっていた。
「いいえ、まずは五橋の『完全なる者』の結界へ急ぐのよ。そこで夏目マナブと陳寿と叔母さんを匿ってもらう。わたしたちが匂当台公園に行くのはそれからよ。
さあ、ぐずぐずしてはいられないわ。車を捨てて、走りましょう!」
そうして、ぱっとワゴンのスライドドアを開いて外に出たラ・ピュセルであるが、とたんに、遠くから、車の喧騒や、地震による不安の声のつづく仙台の街を付きぬけるようにして、悲しげな犬の遠吠えが聞こえてきた。
ぞくりと、全身に、悪寒にも似た震えが走る。
「もうラグナロクがはじまるんだわ。三度目の時間が巻き戻る」

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※ この話は、「真ずんだの章13」につづきます。