真ずんだの章 11

※ この話は、「真ずんだの章10」のつづきとなります。

クロはスーパーマーケットの駐車場のダンボールのなかで、生まれて初めて目を開けた。
ほかの兄弟たちといっしょに、カップめんの入っていたダンボールのなかで、タオルにくるまれて捨てられていた。
往来の多いところに置いて、『かわいがってやってください』とメッセージさえあれば、だれかが拾ってくれるだろうと、捨てた人間は思ったのかもしれない。
少なくとも、その読みは当たっていた。クロの場合は。
というのも、ほかの兄弟たちは、クロより先に目をひらき、咽喉のかわきに耐えかねて、ダンボールから這い出てしまい、それきり行方のしれなくなってしまったもの、あるいは不幸にも、まさか子犬がいるともしらずに入ってきた車に跳ねられてしまったものもいたのである。
たまにかまってくれる人間もいたけれど、かわいそう、という同情の声をかけてくれるだけで、助けてはくれなかった。
スーパーの駐車場ということが幸いして、ピイピイと小さな声をあげつづける子犬のために、餌や飲み物を分けてくれる人がいたが、しかし、夜になると、薄っぺらなタオルだけでは、とてもではないが寒さはしのげない。
すでに霜の降りた仙台の街の夜は、守ってくれる親犬もなく、生まれたばかりの子犬にはきびしい環境であった。
捨てられた場所が24時間営業のスーパーだったから、人の出入りがつねにあるので、人の気配におびえて、野犬や猫、カラスたちがやってくることがなかったことが、幸いだった。
それでも心細くて、さむくて、どうしたらよいかわからずに、ひたすら助けを求めて鳴きつづけていたとき、ようやくクロは温かい手によって救い上げられた。
文字通り、それは大きく温かい手だった。

「なんだかブス犬だねえ」
と、手の持ち主のうしろで、女の人が言ったが、辛辣なことばとはうらはらに、口調はとてもはずんでいた。
「ブスかな、見ろよ、おもしろい耳だな。ビーグルの血が入っているのかもな。半分だけながくて、半分だけ短いんだよ。だから捨てられちまったのかな。よしよし、泣くな」
「あなた、それ、オス、メス?」
「オスみたいだなあ。犬はオスのほうが飼いやすいぞ。あーあ、ずいぶん汚れちゃってるなあ。とりあえずウェットティッシュとって。ダッシュボードにあったでしょ」
「帰りにホームセンターに寄らなきゃね。犬用のミルク、あるかな」
そんな会話をしながら、自分をかかえて車にのせた若夫婦にとって、初めての子となったのが、クロであった。

クロはその日のうちに、
「黒いからクロ」
と名付けられ、正式に浅野家の一員となった。
もらわれてから二年後に、『妹』が生まれて、さらに六年後に『弟』が生まれた。
妹の名は一子、弟の名は史朗という。
なかでも、子分でもある史朗は、学校から帰ってくると、友達の家に行くにも、ちょっとお使いにいくにも、かならずリードにつないだクロをお伴にした。
クロは、自分は兄だからと、史朗の、子供らしいめちゃくちゃなわがままにも、忍耐強いところをみせて付き合った。
休日になると史朗のほか、『お父さん』がいっしょになって遊んでくれる。仲の良い父子といっしょにフリスビーをしたり、釣りのお供をしたり、ドライブに付き合ったり。
クロは自分が犬であることを忘れて、すっかり人間だと思っていた。

なんだかちがうかな、と思い始めたのは、一子や史朗たちがどんどん大きくなって、足も早くなったのに(それでも全力を出したクロよりは遅かったが)、クロのほうは、長距離を歩くと、心臓が破裂しそうになって、動けなくなることが増えたことからだ。
史朗が思春期をむかえると、クロは交代するかのように、老境に入っていった。
前のように長い散歩もできないし、フリスビーでも遊べない。
けれど、年をとるのもいいな、と思ったことがある。
それまでずっと外で、ひとりで家を見張るという仕事をしていたのだが、それを引退させてもらい、体が満足に動かせないという理由から、室内で、みんなと一緒に過ごせるようになったのだ。
仕事を引退してからのクロは、1日のほとんどを眠ってばかりいたけれど、身近で感じ取れる家族の気配に囲まれて、それは幸せに暮らしていた。

2004年のクリスマス・イブだった。
なぜクリスマス・イブだとわかったかというと、この日と正月は、あまり贅沢と縁がない浅野家でも、ごちそうが振る舞われるため、家の中にたちこめる匂いがいつもとちがうからである。
今日はどんなおいしいものをもらえるのかなと考えていると、家の呼び鈴が鳴った。
史朗が出ると、そこには史朗と同じ年くらいの少年がいて、いますぐ『お父さん』に会わせてほしいと言った。
史朗はその少年を知っていたらしく、無邪気によろこんで、これからいっしょにご飯を食べようと言った。
そうして、台所から顔を出してきた母親に、小学校対抗のドッジボール大会で、友達になった子だと紹介した。
名前を、夏目マナブという。
しかし、クロは、マナブの様子が落ち着かなく、そわそわしていることが気にかかった。
もし史朗の友達でなかったら、そして、クロがもうすこし若くて、耳も鼻も健在だったなら、少年の背後にあるものに敏感に気づき、その自慢の野太い声で、これから待ち受ける悲劇を追い払うことができたかもしれなかった。
夏目マナブの来訪は、『お父さん』にも伝わった。
これは、史朗とは反応がちがって、ずいぶんと緊張の含まれた、強ばったものであった。
「お父さんが見つかったのか」
「連絡がありました。青葉山に来いって」
「もう暗くなっているのに、一人で来いって?」
「だれかに見られるとまずいから、って。でも、おじさんのことを話したら、新聞社の人になら、すこしだけ話してもいいって。あの、よくわからないんだけど、センダイウシオのことも言うって」
センダイウシオという聞きなれない男の名前が出たとたん、ますます『お父さん』の顔に緊張が走った。ごくりと生唾を飲む気配までわかった。
「そうかい。じゃあ、おじさんが車で連れて行ってあげよう。お父さんは、ほんとうに一人なんだね」
「そうだって言ってました。あんまり時間がないそうです」
じゃあ、すぐ行こう。『お父さん』が言うと、お父さん子の史朗は、
「夏目くんもいっしょだし、オレも行く!」
と言い出した。
『お父さん』は、しばし躊躇ったが、子供のことは子供に、だな、とつぶやいて、
「コートを持ってきなさい。おーい、ちょっとだけ出かけてくるよ。一時間くらいしたら戻るから。携帯は留守番電話にしておくからなー」
と、家の奥に向かって言った。
その声に、台所で手伝いをしていた一子が答えた。
「早く帰ってきてよー。せっかくケーキ作ったんだから。ケーキ、ケーキだよ。早くねー」
ほいよ、と軽い返事をのこし、『お父さん』は、史朗といっしょに出て行った。

それが最後だった。


浅野家に多くの人が、みな強ばった顔、泣きそうな顔、怒りにふるえた顔をして出入りした。
『お母さん』は気丈にふるまっていたが、クロからすれば、状況に対応するのが精一杯なのがよくわかった。
一子はよく耐えて、『お母さん』の代わりに、あとからあとから集ってくる、カメラだのマイクだのを持って、あれこれ話を聞きたがる人たちの応対をしていた。
四角い画面の中では、なぜだか『お父さん』と史朗の写真が映っていて、空から映された見知らぬ山の光景が映し出されていた。
その真ん中にぽつりとある、青いビニールシートの下に、『お父さん』がいるらしい。けれど、その動いている姿は、見ることはできなかった。
数日後、『お父さん』は帰ってきたらしい。
らしい、というのは、わからなかったからだ。
白い絹にくるまれた四角い箱が、どうして『お父さん』なんだろう。
『お母さん』と一子は、ずっと黒い服を着て、それを脱いでからも、ほとんど家にはいなくなり、帰ってくると、クロの嫌いな消毒液のにおいを家に持ち込んだ。
がらんとした家は嫌いだ。
よくわからない、きらきらしているけれど、どこか陰気なものがたくさん詰まっている、新しい黒い棚も嫌いだ。
そこには『お父さん』の写真がある。
たまに、『お父さん』と似た匂いをした人が写真を見にやってくる。
話かけたりしているので、二本の足で歩ける人間には、『お父さん』の写真としゃべることができるらしい。
クロは『お父さん』としゃべれないのがくやしい。
もししゃべれたら、いつ戻ってくるの、と聞くのだ。
ケーキもごちそうも、もうとっくに食べちゃったよ。


月日が流れ、あるとき、とつぜんに史朗が帰ってきた。
けれどクロががっかりしたことに、史朗は、寝てばっかりで、すこしも動こうとしなかった。起こそうと、顔を舐めたり、体をゆすったりしたけれど、まるで反応がない。
たくさんのチューブに繋がれた史朗といっしょに、見たこともない機械が部屋に持ち込まれた。
『お母さん』が、あんたの毛は機械と相性がわるいから、あんまり史朗の部屋に入っちゃだめよ、と言った。
けれど、クロはそんなことは知ったことではないと、ちょっとでも部屋の扉が開いていると、そこからするりと中に入った。だって、いつ史朗が目を覚ますかわからない。
いつも開きっぱなしだった部屋のカーテンは、閉められたままのほうが多くなった。
『お母さん』は、最初は、クロが史朗のそばから離れないので怒っていたが、最近では、もう何も言わなくなって、かわりに掃除機をかける回数を増やした。
クロはわからなかった。
どうして『お父さん』は帰ってこないで、史朗は眠ったまま、起きてくれないのだろう。
眠っているあいだに、史朗が目を開けるだろうか。
そうして眠って、起きたとき、まだ史朗が眠ったままだと、もういちど、眠ってみる。
今度こそ、史朗が起きるかもしれない。
次がだめなら、その次、その次がだめなら、またその次。
起きるはずだ。だって、あの夜、出て行った二人は、あんなに元気だった。一時間くらいでもどってくるって言っていたじゃないか。
もどってくる。きっともどってくる。
そう願いつつも、クロは気づいていた。
衰えつつある嗅覚は、しかし容赦なく、史朗の体からにじみでる死の気配を嗅ぎ取っていた。
史朗は、日、一日と、着実に死にむかっているのである。
もう、もどってこない。

やはりわからなかった。
ふたりとも、あんなに元気だったのに、どうしてもどってこないのだろう。
二本足であるく人間たちがこぼしていた言葉、『特ダネ』、『暴力団』、『謀略』、『絞殺』、『埋められた』、『放置』……そういったことばの数々から滲み出る悪意が、こぞって二人を自分から奪ってしまったのだろうか。
クロは悲しかった。
わからなかったから、悲しかった。
死にゆく史朗のそのかたわらで、悲しくて、人間のように泣いた。
史朗は本がだいすきで、とくに伝記が好きだった。
お気に入りの伝記や歴史の本のあらすじをクロに聞かせては、この本の人たちみたいに立派になりたいと言った。
えらくなりたいんじゃなくて、お父さんみたいに、世の中の役に立つ人に、人助けのできるひとなりたい、そう語っていた。

ならば、史朗がなりたいと言った、人助けのできるひとたち。
どうして二人は戻ってこないの。
こんなのはいやだ、こんなに悲しいのはいやだ。
二人をどうか戻してください。
その代わり、この命をさしあげます。


世にあふれる悲嘆の声のそのなかで、たったひとつが、どうしてそれほどまでに響き渡ったのかはわからない。
しかし、その無垢な声は、かれらの耳に届いたのだ。


気づくと、クロの目のまえには、美しい光を帯びた少女が立っていた。
一子が雑貨屋で買って、飾っていた、クリスマスカードの天使のように煌びやかで、そして清かった。
クロは安堵した。
ああ、やっぱり史朗があこがれていた人たちなんだな。
だって、こんなにきれいなんだもの。
きっとこの人たちが、史朗と『お父さん』を戻してくれるにちがいない。

しかし、少女は言った。
あなたのいまいる世界での二人を、生き返らせることは、わたしにはできない。
けれど、あなたがこの世で最後に目を閉じるまでのあいだ、夢をみせてあげることはできる。
その夢は、あなたの大切な人たちが、ずっと幸せで暮らしている世界の夢よ。
けれど、たったひとつだけ。
この夢は、あなたの命そのものでもあるから、夢の中に、『クロ』という、あなたは存在できないの。あなたは世界そのものとなって、大切な人たちを守るのよ。

それでもいいとクロはいい、かくて、夢の世界はできあがった。

『クロ』を基盤にした夢の世界をさらに補強するために、世界樹が植えられた。
浅野家の『クロ』の役割をおぎなうために、創造系アトラ・ハシースが浅野家の飼い犬として配されて、さらに作られた世界にリアリティを付加した。
かぎりなく基本世界にちかい、夢の世界。
理不尽に死ななければならなかった、数々の魂が、時を遡って、生きるための選択肢を選べるところ。
けれど、夢であるはずの世界は、あまりに基本世界に似すぎてしまった。
いや、そもそもの原因が、創造系アトラ・ハシースと、『クロ』の叫びに最初に応えた癒し手であるアトラ・ハシースの想いが、あまりに『クロ』や、死に向かわざるをえなかった魂たちに同調しすぎたのがいけなかった。
こんなのはいやだ。こんなに悲しいのはいやだ。
その想いは、かれらが、かつて生きているあいだ、胸の中でずっとこだましていたものと同じであった。
だから、かれらは、ある者は筆をとり、あるものは剣をとって、世界を変えようとしたのである。
紙の上に筆を走らせ、失われた故郷の姿を見事に再現したものと、たびかさなる戦火に悩まされる故国を救うために戦場に立ち、国を取り戻したものと、その二人が、ふたたび、かつての想いそのままで立ち上がったのである。
かれらがかつて、生きた世界でそうしたように、夢が、夢でなくなってしまった。



どうやら軽い脳震盪を起こしたようである。
温かいボンネットに手をかけて、立ち上がり、それまでも、靄のかかった記憶を振り払うように頭を何度か軽く振ると、ムスタファ・ケマルはあらためて匂当台公園に展開する、奇妙キテレツな光景を確認した。
となりには、すっかりパニックを起こしている千台潮、その前方には、白銀の柱のように立つレティクル・クィーン、彼女を中心として、公園をぐるりと囲むように銀の小人たちが集ってきている。
おそらくは、仙台中に、携帯ストラップの形をとってばら撒かれていた小人たちが、クィーンの命令によって集ってきたものにちがいない。
レティクル・クィーンは、レティクル本星がつくりあげた、人工的な女神、仮のヴァルキューレだ。
現地で霊力を供給し、これを無数の銀の小人たちに分配し、活動させるのである。つまりは、銀の小人たちはアトラ・ハシースやアストラルたちと同じなのである。
だが、アトラ・ハシースたちが、純然たる霊力を糧に活動するのとちがい、銀の小人たちは只人たちの負の感情にも反応し、これを糧にすることができる。
だれが開発したものかわからないが、よく出来たものであるとケマルは感心する。

おそらく、レティクル・クィーンと小人たちを開発した者は、アトラ・ハシースをめぐるシステムに精通している。
アトラ・ハシースは神ではなく、そのしもべ、つまりは天使のようなものだ。
かれらは、指示されないかぎり、只人に対して攻撃行為をすることができない。どころか、示威行為にも許可がいる。
なぜならば、かれらは人に対しては圧倒的な力を持っているからだ。小銃と核兵器ほどに、その力には差がある。
ゆえに、アトラ・ハシースもアストラルも、只人には慈愛をもって接するべし、というのがかれらの不文律になっているのである。
だが、銀の小人たちというのは、霊力を供給されて動くという点では、アトラ・ハシースたちに似ているが、その単体の力というのは、じつに脆弱だ。
そして最大の欠点が、かれらはたしかに優秀な人工知能ではあるが、プログラミングされたこと以上のことはこなせない、ということである。自主的に思考し、行動する、ということができない。
人間にはつよい。
だが、圧倒的に霊力に差があるアトラ・ハシースたちには弱い。

その差を埋めるために、レティクルの本星の開発者たちはどうしたかというと、まず、アトラ・ハシースたちの弱点に目をつけた。
かれらもまた、小人たちと同様に、女神、つまりは霊力を供給する中継点から適正に霊力を受けなければ、活動に不具合が生じる存在である。
アトラ・ハシースは自力で霊力を世界から供給することが可能だが、その場合、世界とのバランスを考え、つねに霊的回路を一部分、世界とつながるために開放していなければならないため、実力を発揮できなくなる。
つまりは、普段はつながっていなくていいコードを世界とつなげっぱなしにしなくてはならない状態に陥るうえに、さらに自分のところからコードを伸ばして、アストラルに、自分の受けている霊力を与えなくてはいけなくなるのだ。
霊力のくみ上げは経験が必要であり、これを多くとりすぎれば、本来は自然界のために使われるエネルギーを横取りするわけだから、自然界に異常が発生することになり、本来、世界をまもるために派遣されてきたアトラ・ハシースが、世界を窮地に追いやることになるという本末転倒の結果が発生しかねない。
ゆえに、アトラ・ハシースは霊力の供給に細心の注意を払わなくてはならなくなり、当然、その分だけ、本来発揮されるべき能力が抑えられてしまうのだ。

そこで、レティクルたちはまず、召喚されたアトラ・ハシースの霊力を供給する女神を、集中して狙ったのだ。
彼女さえいなくなれば、アトラ・ハシースの攻撃力は半減する。
レティクル本星の開発者たちは、おそらく未来の世界においてもなお、怨霊と化して地上を浮遊していたメアリの霊を確保したのだろう。
そうして、彼女に『夢の世界』を与えるかわり、女神を孤立させ、消滅するように指示をした。
これが、レティクルたちが思ってもいないほどに、うまくいったのだ。
メアリは的確に女神の夫を誘惑し、これを裏切らせ、彼女を消滅させた。
女神がいなくなったことで、残されたアトラ・ハシースたちは大恐慌に陥った。なにせ、彼女から適正に供給されていた霊力が止まり、これを自分でくみ上げなくてはならなくなったのだ。
そして、それこそがレティクルたちの狙いだったのである。
攻撃力が半減したといっても、小人たちに比べれば、やはりアトラ・ハシースたちの攻撃力は圧倒的だ。
それを埋めるために、さらにレティクルたちは、小人たちを大量生産した。
小人の単体の性能は弱いが、単体での弱さをカバーするために、数を増やしたのである。
しかし、そうなると、今度は霊力の分配という問題が生じる。
レティクルたちは、小人たちの量産には成功したものの、レティクル・クィーンの量産はできなかったのだ。
レティクル・クィーンは、小人たちよりはるかにすぐれた人工生命体であり、おのれの意志で動き、行動することが可能だ。
この、かぎりなく人にちかい人工生命体は、当然のことながら、小人たちよりもずっと複雑な作られ方をしている。量産が不可能なほど。
おそらく、その力の中核をなしているのが、ヒヒイロカネなのであろう。
神々が、人の世にあることを喜ばず、ことごとくその存在を消してきた幻の物質。



ヨーコは、涙を拭きつつ、鼻をすすり、心配そうに自分をみあげる老犬クロの、黒い澄んだ目に、笑ってみせた。
どうして笑って見せたのか、自分でもよくわからない。
心配しなくていいという意味か、それとも、あたしなんかに気を使わなくていい、という意味なのか。
「わかんねーことがあんだけど」
震える声をはげましつつ、ヨーコは立ち上がり、ほとんど乾きはじめていた涙のあとを、きつく袖でこすった。頬がひりひり痛かったが、その痛みがかえって気持ちを引き締めた。
カーテンの締め切られた部屋のなかに、ほかならぬ自分の父親の命令により、ただその場にいたというだけで巻き添えをくって、意識不明の昏睡状態がつづいている、ちいさな少年の横たわる姿がある。
徐々に、その体に死が近づいているということは、日ごろ、微細な感覚には、あえて気づかないふりをしているヨーコにも、はっきりとわかった。
それでも、あなたは生きているのだと、この家の残された家族たちは訴えたいのだろうか。
枕元には可憐な花が飾られ、そうして、皮を剥かれるのをまっているりんごと果物ナイフがある。
おそらく、史朗が目を覚ましたときに、りんごを剥いて、口に運んでやるために、ずっとそうして出番を待たせているのだろう。
浅野一子と、自分をなんの疑問もなく家に招いてくれた、浅野の母親の顔が浮かんできて、ヨーコはまたも涙がこみ上げてきた。
かれらは奇跡を信じているのだ。
奇跡なんて、そんなあやふやなものにしか、もう縋れないでいるのだ。
そこまで人を踏みつけにして、追いつめておいて、そのうえに築かれた日常を、この世界の自分は生きているはずである。

そうして、ヨーコは思う。
いま、この光景の前に立っている自分が、『基本世界』という確固たる現実の影にすぎない存在だということはわかった。けれど、その影が、現実に干渉できるということもわかった。
ならば、基本世界の千台ヨーコは、浅野親子を襲ったこの悲劇を聞いて、なんと思っただろう。
答えがあっさりと導きだされることに、ヨーコは暗澹とする。
おそらく、自分は、『なんとも思わなかった』だろう。
地元の新聞の編集長が、たまたま自分のクラスメイトの父親で、その父親が、なにやら地元の政財界のスキャンダルを追っていて、罠にかけられて殺された。よくある事件だと、よく知りもせずに聞き流しただろう。
浅野一子に対する同情の声を、人間なんていつか死ぬ、人間なんてそんなものだと、これもまた、よくも知らずに哂ったにちがいない。
アコの両親、浅野の弟と父親、ほかにも沢山の知らない人間を死なせなければいけなかった。そうして、アコと自分を不幸にした、その正体を知りたい。

「聞いていい?」
羅貫中犬は、ヨーコの問いかけに、なんだろう、というふうに首を伸ばした。
「ヒヒイロカネっての? そんなにすごいものなわけ? ダイヤモンドより硬いから、なんだっていわけ? 武器になるっつったって、核爆弾ほどでもなさそうだしさ。それを手に入れたからって、どうして親父がそんなに金持ちになれんのか、そこがわかんない」
「あんたも見たでしょうけれど、銀の小人たち、あれをもともと生み出したのも、小人たちを統括するレティクル・クィーンが活動するためのエネルギーをあたえているのも、ヒヒイロカネなのよ」
「ただの、ちょっときれいな石じゃないわけ?」
「そんな単純なものじゃないわ。ヒヒイロカネは、世界にあふれる大いなる力、つまり風を起こす力、大地を動かす力、海流を生み出す力、生命を生みだす力、そういった、原始的で大きな力を、たったひとつで何度もくみ上げることができる、触媒のようなものなのよ。
石油や石炭が、かつての地球の生命の残滓であることは知っているでしょう? ヒヒイロカネは、死骸から生じるエネルギーなどではなく、いま現在に生きている、強烈で強大な力を吸い込み、発することができるものなのよ。
ヒヒイロカネの登場によって、世界のエネルギー問題は、あっさりと解決する。石油をめぐる紛争も意味がなくなる。世界情勢までも、大きく変えるものなのよ。
尽きることのないエネルギー。このエネルギーがあるおかげで、宇宙事業も発達し、やがて、あんたの子孫が、はるか銀河のかなたのレティクルまで飛んで、そこに植民し、繁栄することができたのも、ヒヒイロカネをもっとも保有する一族でありつづけたからよ」
「想像もつかない」
「そうでしょう。アラブの石油王なんて目じゃないほどに成り上がるのよ。そして、未来の教科書には、アレクサンダー大王やチンギス汗、ナポレオンの名前とおなじくらいのあつかいで、あんたのお父さんの名前が載ることになるわ。
ヒヒイロカネのなかに、すさまじい未来への可能性を見い出したあんたのお父さんや、最上一樹が、どれだけ人を殺そうとかまわなくなった、その理由もわかるでしょう? 
ヒヒイロカネによって、二人とも、事実上、世界を手に入れたのよ。基本世界の未来ではね」
「でも、こんなにたくさん殺して、こんなにたくさん恨みをかって、それでどうして、親父は罰を受けないわけ? どうしてばれないの?」
「そこがね」
と、シェットランドシープドックの顔は、暗がりのなかで曇ったように、ヨーコには見えた。
「あんたのお父さんは、たしかに人とはちがう人物だったのよ。ずばぬけた強運と、敵の力量や立場をすぐさま読んで、これを利用するべきか、懐柔するべきか、さもなくば消すべきかの判断が、じつに見事だった。
ただの地方の警察幹部は、数年のあいだに、あっという間に日本経済、つまりは世界経済をも動かす大物に変貌する。
日本人は、独裁者を嫌うお国柄だけれど、あんたのお父さんは、そこも心得ていたのよ。決して自分は表に出ず、裏から政財界を牛耳ることに徹した。既存の財閥や政治家たちも、潮のもつ圧倒的な財力と、一国の軍隊にも負けることがないヒヒイロカネを中心とした武力に呑まれていった。
国民が、ようやく自分たちのうえに、政府とはちがう、なにかとんでもないものが出来上がったらしいと気づいたときには、だれもあんたのお父さんのやることに逆らえなくなっていたのよ」
「あの親父が、そんなすげーもんになっちまうってことか」
口で言いつつも、ヨーコには、いまひとつ、それがどれほどのものなのかのイメージが湧かない。
酒を呑めば理不尽な暴力を家族にふるう男。
ヨーコにとって、潮は唾棄してもあきたらぬほどに憎い相手であり、もっとも軽蔑している人間でもあった。
だれが運、不運を決めているのかはわからないが、そういう人間に、巨大な幸運が授けられるという、そのことがそもそも理不尽に思える。

「それじゃあさ、いっそ、親父と、アコの親戚の、最上一樹ってやつ? そいつと会わないように、もっと過去に遡ってあんたたちが動けば、だれも死ななくてすむんじゃねーの?」
「それをあたしたちが考えないと思って? そもそもの悲劇の発端である、最上一樹と千台潮の接触を阻む。それができたら、いちばんいいのでしょうけれど、かれらにはレティクルの強力な防護があって、手を出すことがむずかしかったの。
かれらに直接触れると、どうしたってレティクルと全面対決になる。それはあまりに不利だった」
「なんでさ。アトラ・ハシースってのは、もう死んでる連中ばっかなわけだし、レティクルってのは、なんだかよくわからないけど、ロボットみたなもんでしょ? 思い切り戦えるんじゃねーの?」
「普通はね。でも、レティクルは別よ」
「なんで」
「レティクルはね、わからないのよ」
「なにが」
「すべてがわからないの。銀の小人とレティクル・クィーンは、まちがいなくあたしたちアトラ・ハシースを模倣して生み出されているわ。問題は、レティクルの人間……そう、ただの人間が、どうしてあたしたちのことをこれほど詳しく知ることができるのか、そして世界の成り立ちまでも理解できているのかが、わからないのよ」
「わからないなら、わからないでしょうがないとして、レティクルの子孫ってのは、つまり、あたしの子孫になるってわけじゃん?」
「そうね」
羅貫中犬のことばに、ヨーコは深く息をついた。
それをため息だと受け取ったのか、羅貫中が首をあげて言う。
「同情するわ。あんたは、それこそこの世のどんな女の子より、とびきりの贅沢を許される立場になるのだけれど、でも、実際は、父親の意向にがんじがらめになって、まともな恋愛もゆるされず、ただひたすら言いなりになって、気の添わない相手と結婚し、その子どもを生むことになる」
「生んで、そのあと、あたしはどうなるわけ。長生きすんの?」
ヨーコの問いに、羅貫中犬は言いにくそうに口淀んだ。
「その先、当山孔真君か女王から聞いていないの?」
「聞いてない」
「そう。だったら」
「聞かないほうがいい、ってのはナシ。聞きたいんだ」
それまでの、どこか投げやりで、流されるがままの生き方が、口調にもあらわれていたヨーコであるが、いまはちがった。
きっぱりと言葉を口にしつつ、その目の先には、眠りつづける史朗の姿がある。
そうして、そのかたわらには、その忠実な飼い犬であるクロが、まるでエジプト王の墓の番人たるアヌビスのように、じっとお座りをして、ヨーコの目線を受け止めているのだった。

クロは、息を詰めて、待っている。
ヨーコは、目のまえにいる老犬が、連鎖しているというこの世界のなかにいる、何十億、何百億、いや、それ以上いるはずの人間を飛び越えて、だれよりも、なによりも、自分を理解してくれているように感じた。
そうして、その感覚は、まちがっていないだろうという確信がある。

「ヨーコ、がっかりしないで聞いてね? あんたの未来はね、いいものじゃないわ。あんたの結婚生活は悲惨なものだった。夫婦仲は最初から冷め切っていて、なかなか子供にも恵まれなかったの。
千台潮は孫を欲しがって、あんたに人工授精の手術をムリに受けさせるのよ。そのとき、なにがあったのかわからない。あんたは子どもを生むのだけれど、そのときの医療ミスで」
「死ぬんだ」
「そうよ」
どうやら、基本世界とやらのあたしも、罰を受けるらしいじゃん、とヨーコは、ガッカリするどころか、むしろほっとした。
自分のことなのだが、そうでなくっちゃ、とさえ思った。
そうして、自分をじっと見つめるクロに、無言のまま、告げる。
これは、逃げるんじゃないからね。
あんたの願いごと、どうやらアトラ・ハシースとかいう連中でもかなえられそうにない。
だから、あたしがかなえたげる。
「あのさ、確認なんだけど、あたしがさっきまでいた、浅野ン家のみんなが無事な世界って、完全になくなるんじゃなくって、また最初からやり直しになるんでしょ?」
「そうよ。三回目のループが始まるの」
「それじゃあ、三回目の始まりに、もしも、あたしがいなかったら、理屈で言ったら、子孫が生まれないわけだから、レティクルっていう連中も生まれないわけで、あんたたち、だいぶ楽になるよね?」
「理屈じゃ、そうね」
羅貫中犬がそう言ったのを確認すると、史朗の部屋の戸口に立っていたヨーコは、飛び掛るようにして、史朗のベッドの枕元にあった、りんごのとなりの果物ナイフをつかんだ。
迷いはなにもなかった。
「なにをするの、止めなさい、ヨーコ!」
羅貫中犬の悲鳴にも近い声が聞こえたが、ヨーコは手を止めることはしなかった。そのまま、果物ナイフの鞘を抜き、延命装置のランプの光をうけて、鈍く光る刃を、自分の心臓めがけて突きたてた。
クロは、ヨーコの不器用な誠実さを受け取ったのか、立ち上がると、悲しそうにくんくんと鳴いた。
ヨーコは、心臓を、さらに自分の奥に、奥にと突きたてた。
握力には自信がある。
体力測定でもクラスで一番だったから。
痛みを感じる間もない。
ひたすら夢中になって、ヨーコは自分を懸命に殺した。
そうして、まるで自分を見送るように揺れているクロの尻尾を見て、笑った。

あんたが命を賭けることなんてない。
あたしがあんたの代わりに、あんたの家族を守ってあげる。
こうすれば、アコも助かるかな。
ごめんね。
ばいばい。

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※ この話は、「真ずんだの章12」につづきます。