真ずんだの章 8

※ この話は、「真ずんだの章7」のつづきとなります。

四角に切りとられた景色が、ぐらりと揺れた。
すでに暗くなった空には、町の明かりにかき消されて星は見えない。
煌々と照らされた街灯の下では、車のテイルランプが連なっていたのだが、まさに大地を跳ね上げた勢いのその地震は、すべての交通の流れを一瞬で止めてしまったのだった。
「ちくしょう!」
言いながら、ラ・イールはあわててハンドルをつかみなおし、そして蛇行せぬように舵を取りなおして、さらにスピードも下げた。
「地震よね、いまの!」
陳寿犬をしっかりかかえた亮の叔母のことばに、興奮しやすい性質の男は答えた。
「ああ。かなり揺れたぜ。あやうくハンドルを取られるところだった!」
カーラジオから、匂当台公園の異変を訴える、切迫したアナウンサーの声は、ひっきりなしにつづいていたが、さらにそれに切迫した声が重なった。
『緊急ニュースです。緊急ニュースをお伝えします。宮城県沖において強い地震が測定されました。詳細な震度はまだわかっておりません……続報です。これによる、津波の可能性は、まだわかっておりません。
くりかえします。宮城県沖において強い地震が測定されました。これによる津波の可能性は、まだわかっておりません。余震の危険がありますので、海岸付近にいる方は、至急、高台に移動するなどしてください。
倒れる危険のある家具などのそばには立たないでください。おちついて、窓を開けておくなどして、避難用の出入り口を確保してください。くりかえします……』

そう言っているあいだに、まるで石臼が引かれているような不気味な地鳴り、そして、カン、カンとボーリング工事のおこなわれているような音が、閉ざされた車窓の向こうから聞こえてきた。
後部座席では、陳寿犬を抱っこしている、樽宮玄の妻と、ランドセルを胸に抱えるようにしている夏目学が、身を寄せ合って、顔をこわばらせている。
「こんな騒ぎのうえに、地震だなんて」
あまりの唐突な揺れは、もともと渋滞し、車間距離のほとんどなかった道路のうえで、ちいさな接触事故をいくつも起こしていた。
運転手が道路に飛び出して、車の傷をみるため、あるいは相手の状態を確認するために車を止めてしまうため、もともと広くないヨドバシカメラの裏手にある道路は、通行不可能な状態となってしまった。

「歩いたほうが早いぜ、これは」
ラ・イールがぼやきながら、車窓をのぞきこむようにして、前方を見る。
一行は、NHK仙台局から横道に入り、そのまま花京院をぬけると、仙台一の高層ビルであるAERの横を抜けて大きく迂回し仙台駅東口に出て、さらに予備校群を脇にみながらヨドバシカメラの裏手の道に入っていた。
二車線のせまい道は、まっすぐに五橋に抜けることができる。
ちょうど目のまえに見えるトンネルをくぐってしまえば、そこは五橋であった。
そして、そこに、安全な『完全なる者の結界』があるはずなのである。
イスメトを説得できるかどうか、ラ・ピュセルにはわからない。しかし、説得させなければならなかった。

なにがあっても、このループで『最悪の日』を起こさせてはならない。
夏目マナブは、まだ浅野史朗に会っていない。浅野家の人間は無事なのだ。
大丈夫なはずであるが。
『なんだろう、この胸騒ぎは』
知らず、ラ・ピュセルは、腕に嵌めていた聖剣アスカロンに触れていた。
アスカロンは寡黙な剣である。
黙って、こうであるべきであった未来をつくるために、手を貸してくれた。
『そもそも、はじまりがまちがっているから、まちがっている結果しか導き出せないのだろうか』
そんな考えがよぎるが、あわてて、弱気になりそうなおのれを励ましてみる。
『わたしがこんなことを思っては駄目だわ。本来なら死んでいるはずの人間は、この世界では生きている。このまま、この世界が『ほんもの』になってしまえば、基本世界の悲劇を覆すことができる』
途方もない企てだということは理解していたが、ラ・ピュセルはどうしても、これはやり遂げたいと思っていた。

無念のうちに、虐げられ、理不尽のまま死をむかえねばならなかった人々。
世界のどこにでもいる、多くの人々の希望となるように、この屍のうえに築かれた未来を否定するのだ。
しかし、そうすることで、消えなければならない未来がある。
その未来のうえに幸福を築いた者は、こんどはおのれの権利を主張する。
えんえんとつづく堂々めぐり。
千台家を押さえれば、レティクルの未来は消える。
千台家をそのままにすれば、暗い歴史は、時間のなかに刻まれたままとなる。

最初に聞こえたのは、声だった。
世界中にあふれる、嘆きの声のなかでも、ひときわ耳にとどいた声だった。
アトラ・ハシースは、通常であれば、ヴァルキューレの召喚でなければ、基本世界と、それから発展した汎世界に、単独で赴くことはできない。
しかし彼女は呼ばれたのだ。
閉ざされたカーテンのなかに眠りつづける少年と、そのかたわらに、守るようにしてうずくまっている○○に。




どんなに雲雀が高らかに鳴く晴天であろうと、
風が轟々とうなり、街路樹の色とりどりの葉を魔法のように吹き飛ばす日であろうと、
宙天に流星の降り注ぐ神秘的な夜であろうと、
その部屋のカーテンが開かれることはない。

窓際に置かれたパイプベットの上に横たわった人間の寝息と、付けっぱなしのエアコンの音がひびく。
家族のだれもが、かれらが再び陽光をまぶしげに目を細めてみることは無いだろうと、絶望とともに思っている。
怒りは磨耗して、あとは疲れと、やるせなさだけが残っている。
いつ終わるともしれぬ長い日々を、これから希望も持てずに、生きていかねばならないのかと。
奇跡を待つには、かれらはあまりに世間からいじめられ、小突かれすぎた。


「あれ? おかしくね? 浅野ン家って、こんなに広かったっけ? っていうか、この先に廊下はなかったよね。なんで廊下がまだ伸びてんの? あんた、またなんかやった?」
ヨーコは、自らの足元で、悠然と長い毛をなびかせて歩く羅貫中犬を見た。
この毛並みのよいシェットランドシープドックは、あきらかに顔をこわばらせている。
そのいっさいの質問を拒む顔つきに、ヨーコは沈黙した。
浅野家は三階建てであり、一階がリビングと食堂、二階が夫婦の部屋と父親の書斎、三階が子供たちの部屋というふうになっている。
三階の部屋数は二つしかなく、廊下と呼べるものも、ちいさなキッチンとバス、トイレにつづく、一メートルほどのものしかなかった。

それがいま、ヨーコの前に、長く伸びている。
いや、家のつくりもおかしい。
新築であった浅野家なのに、ヨーコの目のまえにある廊下、そして、両脇にあり、沈黙している扉は、すべて古ぼけた木の扉である。
そのつくりも粗末で、ずらりと並んだ扉は、居住者をまもるための仕切りとしての役目ではなくて、どこか作業場の小屋のように、外気の調節をするための機能しかもっていないようなものであった。

浅野の家じゃない。
さすがのヨーコも、さきほどまで階下からずっと聞こえてきていた、浅野家のひとびとの声がぱったりと絶え、静けさのなかに放り込まれて、そのことを理解した。
うすぐらい廊下のなかで、沈黙をつづける扉の数々。
最初は、なんだかんだと羅貫中犬を信用していたがために、変なところに連れてこられたとしか考えていなかったヨーコであるが、ずらりと並ぶ扉の、どこからも物音が聞こえないことや、人の気配すらしないことに、不気味ささえおぼえはじめていた。
自分は、どうやらこの世界にやってきたという『アトラ・ハシース』なる、覚えにくい称号をもつ人々から、敵と目される人間であるらしい。
基本世界がどうとか、汎世界がどうとかいうことは、正直、よくわからない。
わかるのは、近い将来に、父親が事業を起こして大成功をおさめること、そのために、多くの人間が犠牲になること。
そして犠牲者の上に成り立った千台家の繁栄は未来までつづき、やがてはその子孫が、宇宙にまで進出して、レティクルという惑星を支配するようになる、ということだ。
この未来を変えるために、アトラ・ハシースたちはやってきたのだ。

ヨーコは、父親に深い恨みを持っている。
アトラ・ハシースだかなんだかよくわからないけれど、彼らが天使のようなものだというのなら、その正義にしたがって、父親を殺してくれればいいとさえ、本気で思っている。
父親の潮は、仙台の警察機構の頂点でありながら、ひとたび家庭にはいると、理解できないほどの暴君となった。
常日頃から、空手や剣道などで体を鍛えているがために、酒が入って暴力をふるい始めると、その破壊力は半端なものではない。
潮の家庭内暴力は、結婚してすぐに始まったものであったらしい。
ヨーコにしてみれば、あたしを産むまえに、どうして離婚しなかったんだよ、と思うところである。
物心がついて、多少男女の機微についてわかるようになってきたいまとなっては、父には、もともとサディスティックな傾向があり、これになんだかんだと連れ添っている母は、逆にマゾの気があるのだろうと考えるようになっていた。
と、同時に、こんな両親を、嫌悪した。

最上アキラ子を知ったのは、高校に入ってすぐだった。
知っているといっても、名前だけである。
最初は、めずらしく機嫌のいい父親から、考古学同好会の仲間に、最上アキラ子の父親がいるという話を聞いた。
父親がそんなことを自分になぜ言うのか、よくわからなかったが、高校一年生のヨーコは、こんな最低の父親に『仲間』がいるのだということが信じられなかった。
最上という男は、山形の出身で、父親は、この男と知り合えたのは幸運だった、この男を知っているというだけで、大金が入る、とよくわからないことを口にした。

それから何ヶ月かたって、ヨーコは最上という男のことも忘れていたのだが、唐突に、記憶が刺激されることが起こる。
潮は、またも酒が入っていた。
ヨーコの成績が芳しくなかったということを聞いて、まず母親を『しっかり監督していない』ということを理由にひとしきり殴ったあとに、階段をのぼってきて、ヨーコの部屋にやってくると、抵抗するヨーコの首根っこを掴みあげて、窓をひらき、そして、そこからヨーコを突き落とそうとした。
おそらく、ヨーコが必死に、窓の桟に爪をひっかけて、窓から落ちないように踏ん張るであろうことを予測しての行動だったのだ。
潮は酒臭い息を吐きながら、おまえも最上や鈴木のようになりたいか、と言った。
鈴木という人間が、何者なのかはわからなかったが、最上と聞いて、ヨーコはぞっとした。
なににぞっとしたかといえば、数ヶ月前には仲間と呼んでいた男に、潮はなにかをしたらしい。
なにをしたのか?
いま、血を引く実の娘であるヨーコにしていることを考えたら、どんなひどいことをしているとしても、おかしくないように思われた。
ヨーコが殺さないでくださいと懇願すると、潮は窓から引き上げて、それから殴る、蹴るはもちろんのこと、いつものようにヨーコの背中にタバコの火を押し付けるという折檻をはじめた。
この折檻は痛いものであったが、殴られるよりはましだった。
潮は、女の肌に傷をつける、という行為が気に入っていて、母の人目につかない肌には、つねに引っかき傷や火傷の痕が耐えなかった。
潮は、タバコの火を肌に押し付ける行為を、まるで画用紙に思うままに絵を描いているかのように楽しんでいたから、火の熱さにさえ我慢していたら、それ以上のことはなにも起こらないと予測ができた。
ヨーコの家のあまたある部屋の向こうには、叔父夫婦とその子供であるタケシがいるのであるが、どんなに助けを求めても、かれらがやってきてくれることはないとわかっていた。
かれらもまた、潮の暴力にさらされている人々であった。
叔父夫婦が、なぜ逃げていかないのか、ヨーコはそれがわからない。
しかし薄々と、自分の両親と、叔父夫婦のあいだに、人にはとてもいえないような、口のはばかれるようなひみつがあって、かれらはそれを共有しているがために、潮の一方的な暴力も無視できているのだと、ヨーコは気づきはじめていた。
ヨーコは、父親と、せいぜいが怪我の手当てをするだけの母親と、ただ一緒にいるだけの叔父夫婦を憎んだ。
そして恐れた。
このままこの家にいたら、殺される。

やがて大学に進学させるためだといって、塾に入れられたが、まともに通ったのは、最初の一週間だけで、すぐに街に出て、家に戻らないようになった。
最初のうちは、外聞のわるさを気にして、母親が探しにやってきた。仮にも、学校法人を経営している女の娘が、放蕩生活をしているというのは、具合がわるいと考えたのだろう。
しかし、ヨーコは巧みに友人の家をわたり歩いたので、やがて母親も、探すとかえって噂に立つことに気づいたのか、探しにこなくなった。
進学の問題に関しても、自分の娘を、自分の知り合いの経営する大学に入れてしまえば問題ないと考えたのだろう。塾も知らないあいだに退学になっていた。

ヨーコは母親の財布からクレジットカードを盗んでいたので、それで毎日の宿泊費を工面した。
ときには、自分にたかってくる『友人』たちに、繁華街で豪勢な食事をふるまうこともあった。
すくなくとも、物でこうして恩を売っておけば、かれらはヨーコの味方である。ヨーコのための宿を提供してくれる。
ヨーコの父親が、警察官僚である、ということも、ヨーコは自分のために利用した。
だから、仲間をすぐに売るような連中も、ヨーコには手を出してこなかった。
ふつうの少女ならば陥っていたかもしれない闇にとらわれることもなかった。
ヨーコは、父親の暴力から逃げるために、危険を察知する嗅覚だけは鋭くなっていた。
自分の懐をあてにして寄ってくる人間の質を読み取ることも、ヨーコにはできるようになっていた。
かなり荒れた生活をくりかえしたが、薬物にだけは手を出さなかった。
さまざまな境遇の少女たちと知り合うなかで、家族から性的暴行を受けたという少女とも出会った。
その少女から、殴られるだけならまだいいじゃん、といわれた時、ヨーコは勝手気ままな逃亡生活を楽しめなくなった。
なにもかもが面白くなくなった。
場を白けさせないために、いつもおどけてはいたけれど、心から楽しんでいるときは稀であった。
つねに何かを気にしている状態が、ヨーコにとってのふつうの状態となった。
疲れていたが、疲れていると口にすることはできなかった。
口にしたとたん、なにかがはじけてしまう気がして、おそろしかったのである。

そうして高校の一年が終わる春。たまたま家にもどったとき、ふたたび最上の名を聞くことになる。
母親が、リビングで、電話をしていた。
そのなかで、夫の潮に頼まれたから、『最上アキラ子』という少女を、ヨーコと同じクラスに編成させてやってくれと話をしていた。
最上アキラ子という変わった名前はおぼえていたので、どうしてそんなことをさせるのだろうとヨーコは不思議におもった。
と、同時に、潮が口にした、最上と鈴木のように、ということばが頭をよぎった。
なにかがあるのだ。

母親が電話の向こう側の人間(おそらくは学年主任あたりだろうが)に指示していたとおり、同じクラスになった。
思うに、娘と同じクラスにすることによって、なにか後ろ暗いことをした潮が、アキラ子を監視できるのではと考えたことが、背景として、そこにあったのかもしれない。
ともかく、ヨーコは、最上アキラ子という、すこし大人びた表情をしているおかっぱ頭の色白な少女が、今年のはじめに両親を事故で亡くして、いまは誰にも頼らず一人でバイトをしながら暮らしていることを知った。
潮の言動と、アキラ子の両親のことをすぐに結びつけることは容易だった。
だからヨーコは怖かった。
周囲から見れば不自然なほどに、ヨーコはアキラ子を避けた。
そのために、思い違いをした周囲の取り巻きが、アキラ子をいじめるようになった。
自分の取り巻きを、ヨーコは好きではなかった。
好きではないけれど、いざというときにホテル代わりになる、自分の盾ともいうべき少女たちである。
彼女たちを従わせているようにみせて、じつは彼女たちに阿っているというのが、ヨーコの実際であった。

ヨーコは目立つ少女であったし、理事長の娘だということも手伝って、ほかの生徒たちは、ヨーコがグループの中心であると思っている。
だが、ヨーコが主導権をにぎって、クラスを引っ掻き回していると思われがちではあるが、ほんとうは、ヨーコは名前を貸しているだけで、取り巻きが、ヨーコの名前を盾に、やりたいことを勝手にやった。

ヨーコは、アキラ子をいじめることに不安があったから、最初は口も利かなかった。
アキラ子が、自分の父親のことを知っているのではないか、そして、奇妙な連想ではあるが、父親が、アキラ子の両親になにかしたのではないかという恐怖を抱くよりも、父親が自分にしていることも知っているのではないかということを、なにより恐れたのである。
しかし神経を払って観察していると、アキラ子は何も知らないのだということがわかってきた。
徐々に、会話を交わすようになった。
とはいえ、それは友好的なものではなかった。
アキラ子は、ほかの少女たちと同じように、自分をいじめている者の中心がヨーコであると思い込んでいたし、ヨーコのほうはヨーコのほうで、アキラ子がまったく安全だと思えたわけではなかったからだ。
アキラ子は、黙っていじめられる少女ではなかった。
なかなかよく口答えもしたし、多少の陰険な仕打ちにもめげず、泣くことも稀であった。
アキラ子が、亡くなった両親との想い出を大切にしていることを知ったときは、自分の家との差を思い、癪にさわったものであるが、孤独に耐えているという点において、ヨーコはアキラ子に、ほかの少女たちよりも共感をおぼえた。
なによりアキラ子はしっかりしていたから、ヨーコのわがままをなんだかんだと聞きながらも、たまに辛辣に返してくる言葉のなかには、ヨーコの身の振り方の参考になることもあったのだ。

ヨーコは、なんとなくアキラ子を友達だと思うようになっていた。
不器用だったし、ほかの、アキラ子を『なんかムカツク』といじめたがっている少女たちからはみ出すのが怖くて、うまく思いを伝えられなかったが、ヨーコはアキラ子が好きだった。
クリスマスの近い十二月の夜、やはり家から逃げて、男友達と飲んでいた。
なにかがきっかけで異様に盛り上がり、これから青葉山で花火をしようということになった。
だれかが、自分の車に、使っていない花火があるから、それをしようと言い出したのだ。
だれか女の子を紹介してくれと言われて、ヨーコはアキラ子が、バイトが終わる時間であるのを思い出し、エスパルの裏口で男たちとアキラ子を待った。
思えば、利用されたのだ。
アキラ子を乗せた車と、自分を乗せた車は、青葉山につくなり、別々に停まった。
すっかり酔って、気分がハイになっていたヨーコは、どうしてアキラ子を乗せた車だけが、とくに人目のつかない街灯のない駐車場に向かっていくのかがわからなかった。
悲鳴もなにも聞いていない。
ヨーコはそのまま、ほかの男友達と花火をした。
そのあいだ、つづけて酒を飲んだ。
アキラ子のことは、すっかり頭のなかから消えていた。
帰る段になり、アキラ子のことを思い出した。
どこへ行ったのかとたずねたら、途中で帰ったらしいと男たちは答えた。
そういうもんかとヨーコは深く考えずに思った。
ヨーコはアキラ子が好きだったが、アキラ子はヨーコが好きではない。
そのことを、ヨーコは知っていたから、きっと途中で嫌になって帰ってしまったのだろうというくらいにしか考えなかった。
アキラ子の遺体が見つかったのは、それから数日後のことで………

ヨーコは、そこで脚を止めた。

なんだ? いったいなにを思い出してるんだ、あたし?
たしかにアコを誘いにエスパルへ行ったけれど、でもなんだかわからないけれど、アコを車に連れ込むときに、突然に車が勝手に壊れて(アストラルだとかいう、イケメンだけど目つきのわるい中国人がやったのだ)、それで逃げたんだよ。
花火はしたけれど、なんだか盛り上がらないままで、結局、遅くに家に帰って寝たのだ。
翌日に学校に来てみたら、ちゃんとアコは来ていた。

いいや、ちがう。
学校に来てはいたけれど、それはもう、アコではなかった。
アコは死んだ。あたしが男たちにアコを売ったせいで。


「思い出してきた?」
ヨーコの背筋が寒くなるほどに、羅貫中犬は、優しげな、そして平静そのものの声色でたずねてきた。
思わず、薄暗いなか、となりにいるシェットランドシープドックを見下ろす。
しかし羅貫中犬のほうは、ヨーコのほうを見ないまま、足をうごかしつづけている。
「この廊下はね、あたしが作った、ありとあらゆる汎世界における、あんた、つまりは『千台ヨーコ』の記憶の倉庫なのよ。
いちばん奥が、基本世界でのあんたの記憶。そこに近づいているから、あんたはだんだんと、基本世界の自分の記憶を思い出しているわけ。
最初に説明したと思うけれど、あんたが元いた世界っていうのは、2004年の12月をえんえんと繰り返している世界なの。基本世界は、もっと時間が進んでいるのよ。だから『思い出す』と言っているわけだけれど。
基本世界の記憶なので、いま思い出していたなかに、メアリやシグルトが『いなかった』でしょ?」
「なんで?」
なんでこんなものを見せるのか、と問うたヨーコであるが、羅貫中犬の答えは、素っ気ないものであった。
「わからないの?」
羅貫中犬が急に見せはじめた、その冷淡な態度に怖じつつも、ヨーコはうなずいた。
「わかんない」
「そう、じゃあ、説明してあげる。二回目のループは終わろうとしているわ。
成果がまったくなかったわけじゃない。浅野家は救われて、いまや、あんたが世界の軸になりつつある。
最初のループでは、だれも救えずにアトラ・ハシースも全滅するという悲惨な結果だった。レティクルに完敗したの。そうして、最悪の日も回避することができなかった」
「最悪の日って、あんたたちがよく口にしてたけど、いったいなんなの? あたしが」
と、ここでヨーコはことばを切って、自分を励ますように、ごくりと生唾を飲んで、それからつづけた。
「あたしが、アコを殺した日のことじゃないの?」
「そうね、あんたが最上アキラ子を死に追いやったのも最低最悪だけれど、もっとひどいことが、あとに起こったのよ」
「あんた、さっき、最悪の日が今日かもしれないって言ってなかった? アコたちの応援に行かなくていいの?」
「もうこのループも終わるの。いまアタシが応援に行ったところで、きっとなんの助けにもならないわ。だから、あたしは、最後に、やるべきことをやる」

そういうと、羅貫中犬は、ぴたりと脚を止めた。
そうして、どれも同じに見える扉のひとつの前にぺたりと座り、ヨーコのほうを見上げる。
「開けなさい」
「ここ?」
「そう。安心しなさい。別の汎世界に向かうわけではないから。あたしが『創造』した、基本世界の光景がそこにあるだけよ」
「どういうこと?」
「いいから」
ヨーコはためらいつつも、部屋の扉のノブに手をかけた。
そうして、羅貫中犬を見るのであるが、その目は、ヨーコのことばのすべてを封じるほどに、厳しいものであった。
「開けるよ」
そう言って、ヨーコは、そおっと扉を開ける。

カーテンの閉めきりになっている、六畳ほどの部屋であった。
ブーンというモーター音に気をとられて見れば、部屋にはベッドがあり、そこに横たわるだれかのために、生命維持装置が備え付けられているのだ。
そうして、ベッドのそばには本棚があり、ずらりと書籍が並んでいる。
暗い中、目をこらして書名を読めば、そこにはこうあった。

三国志演義
正史 三国志
エリザベス一世
メアリ・スチュワート
ジャンヌ・ダルク
ケマル・パシャ伝
ニーベルンゲンの指輪
聖書物語

「なにこれ」
思わずつぶやきつつ、さらにもっと見ようと足を進めるヨーコであるが、途中で、足元に、なにかがうずくまっていることに気が付いた。
ぎょっとして足元を見れば、犬である。
黒い犬であった。
丸くなって、まるでベッドに横たわるだれかを守っているかのようである。
羅貫中犬のことばを借りるならば、これは別世界につづいていない光景にすぎないということであるから、犬は、ヨーコが入ってきても、ぴくりともしなかった。

見たことのない犬。
ヨーコは、ベッドに横たわるだれかのほうに目を送る。
生命維持装置や、点滴などから、何本ものチューブが伸びている。患者の容態が、相当にわるいのだということは理解できた。
ただの昏睡状態ではない。
ヨーコは、足元の黒い犬を踏まないように気をつけながら、そっとベッドに近づくと、布団をそっとめくってみた。

心臓が凍るとは、こういうことを言うのだろう。
布団に触れた指先から、一気に全身が凍りついたのがわかった。
耳鳴りがする。眩暈がする。

横たわっていたのは、少年だった。
ついさっきまで、一緒にゲームで遊んでいた、浅野史朗。
凍りついたまま、動けないでいるヨーコに、羅貫中犬の声が聞こえてきた。
「紹介するわ。基本世界における浅野史朗と、夢の世界をつくったケルベロスこと、浅野家の飼い犬クロよ」

ずんだマップに戻る

※ この話は、「真ずんだの章9」につづきます。