真ずんだの章 6
※ この話は、「真ずんだの章5」のつづきとなります。
『VXガスによるテロ攻撃ではないかという情報もありましたが、自衛隊によると、まだ分析中ではありますが、ガスではないようだ、ということです。
画面に映っておりますでしょうか! なんでしょう、あれは! 銀色の、人形でしょうか。動いているので、ロボットか、どうぶつということはわかるのですが』
「マジかよ、これ、特撮とかじゃねーの?」
私立のエンブレムの入ったランドセルを背負った小学生たちが、NHK仙台放送局の前にある、大きなテレビモニターの前で、ほかの多くの野次馬たちとともに、匂当台公園でくりひろげられている、まさにSF映画ばりの奇妙な光景に、おおさわぎをしていた。
画面では、突如として酸欠状態に陥った人々が苦しんでいるなかで、武器を手に、『仙台連続男児殺害犯』を奪おうとしている者たちを罰するかのように(と、かれらには見えた)空から、まるで雪のように、銀の小人たちがおりたってそれを邪魔しようとしている。
金髪の、目の力の強すぎる痩せぎすの男は、いかにも異相で、自分たちとはちがうことを平気でやりそうな雰囲気があったから、少年たちだけではなく、ほかのTVの前のひとびとも、おそらく、この男こそが、千台のみならず、日本中を震え上がらせた、連続殺人犯であろうと思っていた。
最初の警察発表だと、牛タン屋を経営している男が、その姪と共謀して事件を起こしているものとして、容疑者逮捕にむかっている、ということであったのだが、いつのまにか、容疑者の牛タン屋に警察が突入してから、牛タン屋の主人とその姪はいなかったものの、『目撃証言と一致する、金髪の男』を発見した、というところから、だんだん調子が怪しくなってきて、すぐに報道は、どうも『仙台連続少年殺害犯』は、目撃証言どおりの金髪の白人男性、つまり外国人だった、ということに、なりつつあった。
それは、マスコミが故意に報道を捻じ曲げたわけではなく、どこかで、『こんな陰惨な事件を起こす人間は、よそ者であってほしい』という、いささか身勝手な大衆の願いが、そこに反映されたものであろう。
そうして、抵抗らしい抵抗もせず、警察官に仰仰しくパトカーに連行されていく外国人であったが、突如として、警官や駆けつけたマスコミ、野次馬をふくめて、その場にいた者たちが苦しみはじめた。
奇妙なことには、身柄を拘束された外国人は、平気な顔をしている。
そこへ、不意に姿をあらわした、私立千台学院の制服をまとった少女、そしてその背後にいる、素人目に見ても、これは堅気ではないな、という雰囲気を全身から醸し出している、背の高い、無駄な肉のなにひとつない俊敏そうな男も、苦しみに巻き込まれることなく、元気に振る舞っている。
カメラは、酸欠に苦しむカメラマンをよそに、まわりつづけていたのであるが、少女が、苦しむひとびとに目もくれず、外国人に近づき、なにか言葉を交わした。
すると、なぜだか外国人は怒り出し、少女を平手打ちした。
仲間割れなのか?
この少女が、最初に報道されていた牛タン屋の姪で、背後にいる、日本人ではなさそうな鋭い風貌をした男が、牛タン屋の主人とやらで、『仙台連続少年殺人犯』は三人なのだろうか?
でもって、仲間を奪い返すために、特殊な毒ガスでも撒いたのだろうか。
そんな推理を、TV画面を見つめていたひとびとのほとんどは、はたらかせたであろう。
日本人は、オウム真理教による、国家転覆をねらったテロの数々を、TVというツールをとおして目の当たりにして以降、めちゃくちゃな犯罪を見聞きするのに、どこか免疫ができてしまっている。
いま、目にしているのも、もしやあたらしい犯罪の形態なのではなかろうか。
そんなことすら考えていたときに、銀の小人たちが、匂当台公園の上空から降ってきたのだ。
もはや犯罪だのSFだのを通りこしている。
だとすれば、これはなんだ?
奇跡なのか?
あまりに常識を超えた光景に、NHKが屋外に設置しているハイビジョン宣伝用のTVに、蟻のように群がっているひとびとは、口々に、さまざまな憶測を述べている。だれも口を閉ざしていない。
となりにいる人間が、何者であろうと関係ない。
ともかく、だれかと喋っていないと、不安なのである。
そうした群集のなかで、顔を強ばらせている少年がふたり。
ひとりは、ヨーコの従弟である、千台タケシであった。
タケシの関心は、殺人犯でも、ヨーコとおなじ制服を着ている、なんとなく見覚えのある女子高生でも、そのうしろにいる、見るからにガチンコ勝負はしたくないなと思わせる男でもなかった。
タケシの関心はただひとつ。
画面の端に、見えたり見えなかったりする、パトカーと並列して停車しているリムジン。
そのなかにいる男の姿であった。
千台家の暴君であり、酒が入ると陰湿な虐待を止められなくなる男、叔父であり、ヨーコの父である千台潮。
タケシにとって、潮は、内でも外でも自分を支配する、おそろしい影であった。
たしかに千台家は、よその錦町の邸宅にくらべても格段のひろさを持っているが、しかし、だからといって、親族があつまって住むことはないだろうと、タケシは親を恨みに思う。
タケシの父は、つまりは潮の兄なのであるが、あちこち手広く社長までやっているというのに、どういうわけだか、『たかが公務員』(と、タケシの母は、裏で潮のことをこう蔑んでいた)の潮に頭があがらないのだ。
そうして、酒が入ると暴れて、抵抗できない子供たちに暴力をふるう潮を止めることもせず、書斎に閉じこもって、見て見ぬフリをする。
いつだったか、ひどく殴られて頬が大きく腫れあがったため、片方の耳があまりよく聞こえなくなったことで、すっかり混乱したタケシが、思いあまって父親に、なんとかしてほしいと訴えたことがある。
勇気をだして、必死にした訴えであった。
が、逆に父は、
「そんなことを俺に言うな、俺は忙しいんだ!」
と、怒鳴り、タケシを自分のそばから追い立てた。
以来、タケシは父親を父親と思うことをやめたし、父親も、タケシにおなじことを切り出されることをおそれているのか、タケシを避けるようになった。
TV画面の向こうでは、その暴君が、息ができないといって、もがいている姿が、何度か、ちらちらとうごいた。
金髪の男を映すと、どうしてもリムジンが画面に映る。
そうすると、車窓のなかで、苦しんでいる潮の姿を見ることができるのだ。
暗い喜びをおぼえると同時に、タケシは期待した。
このまま、死んでしまえ。
ほかの連中と一緒に、みんな、みんな、死んでしまえ。
ヨーコだっておまえのせいで家出して、帰ってこない。
ヨーコがいないから、代わりにこっちが殴られる。
このままだと、おまえに殺される。
こっちは、まだ死にたくないんだ。
死んでしまえ。
そんなことを、小学生が、画面の向こうを凝視しながら、真剣にねがっていた。
そして、それとは対照的な面持ちで、愕然と画面を見つめている少年がとなりにいた。
夏目マナブである。
金髪の外国人は、見たことのない男であったが、男が出てきた建物は、よく知っていた。
魔法使いの師匠の家ではないか。
マナブは聡明な少年であったから、ニュースが『牛タン屋の主人と姪が殺人を共謀しておこなっていた』という情報をちゃんと頭におさめていた。
『姪』とは、女を指すことばである。
師匠は女じゃない……はず。
となると、牛タン屋の主人というのが、師匠のことなのだろうか。
マナブは、必死に画面にかじりついていた。
恐れたのは、師匠が、警察官に捕まって、パトカーに連行されるところ、あるいは、ほかの人々のように、酸欠で苦しんでいる姿を見ることであった。
だが、いまのところは幸いにも、師匠と、あの雑種の老犬の姿を、TVのなかに見ることはなかった。
これが、見知った場所でロケをした、ドラマかなにかであればいい。
そうして、息を呑んで画面を見つめていると、その姿から発せられる声が、TVを通してではなく、あつまった人々の向こう側から聞こえてきた。
「マナブ!」
自分を呼んでいる。
周囲を見まわすと、『牛タン専門店 たんたかタン』とロゴの入ったバンの中から、まぎれもない、師匠が、自分を呼んでいるのであった。
おもわず、師匠、と言いそうになって、あわててとなりにいるタケシを見る。
タケシとその仲間は、すっかりTVに夢中になっており、マナブに注意を払っていない。
マナブは、やはり荷物持ちをさせられていたが、かれらがTV画面を前に、まるでプロレスの試合を見るかのように(タケシを除いて、だが)、わあわあと無邪気に興奮してさわいでいる横で、そおっと持たされていた荷物を地面におろすと、ひとびとをかきわけて、バンに近づいた。
近づいて、おや、と不思議に思った。
師匠のはずである。
だが、なんだか雰囲気がちがう。
なんだろう。前の師匠より、なんだか、そう、女っぽいし、それに顔つきが、ずいぶん大人っぽい。
イケメンというより、なんだか宝塚に出てくる男役みたいな雰囲気があるぞ。
「よかった、すぐに見つかって! さあ、これから逃げるの。早く車に乗って!」
師匠の肩越しに見れば、ごつい大男が、ハンドルを握っており、後部座席には、おなじみの白い雑種犬をかかえた中年女が、顔をこわばらせており、見るからに尋常な雰囲気ではない。
マナブの脳裏をかすめたのは、最初に報道された『牛タン屋の主人と姪が共謀した』という情報である。
マナブは、ハンドルを握る男が牛タン屋の主人で、犬を抱えている女が姪ではないかしらと推理した。
どうも外見から測れる年齢と、言葉が合致しないのが気になるが。
「逃げるって、どこへですか? おかあさんに、知らない人の車には乗っちゃだめっていわれているんです」
あきれるほど常識家ぶりを発揮するマナブであるが、師匠は苛立ちを見せることなく、バンから下りてくると、マナブの前に身を屈ませて、真剣な面持ちで、言った。
「突然な話だものね。びっくりするのはわかるけれど、でも、あなたがこの街にいることは、とても危険なの。
わたしと、ここにいる男の人と、もちろん陳寿犬も、あなたを守ってあげるから、さあ、一緒に車に乗って」
その柔らかい高い声と、間近で見た師匠の、かつてない優美な面差しに、マナブはようやく気づいたのだった。
「師匠って、女なの?」
すると、師匠は、こくりとうなずいた。
「ええ? ほんとうに!」
おどろくものの、どこかでマナブは理解していた。
師匠は凛々しくあったが、少年特有の青臭さや骨っぽさがまるでなかった。
それに、師匠は魔法使いなのだから、なんだかいろいろ事情があるんだろう。
夢想家の少年らしい発想で、マナブは納得したのだった。
「事情があって、男の格好をしていたの。騙すつもりはなかったのよ、ごめんなさいね。でも、あなたを守らなくちゃいけないのは本当よ。おかあさんのことは大丈夫、やつらは、あなたのおかあさんには、何もしないわ。問題は、あなたなのよ。
いきなり全部を理解しろとはいわない。できないでしょうから。でも、信じてほしいの。わたしは、あなたの味方よ。さあ、車に乗って。ね?」
クラスの女子の、気取っているのだって、こんなに女らしい言葉遣いをしていない。
変なところに感動しつつ、マナブはうなずくと、バンの後部座席に乗った。
師匠は、タケシから守ってくれたこともある、ほんとうの「いい人」だ。先生も、ほかの大人も、だれも気がついてくれなかったし、気づいていても無視して助けてくれなかったのに、この人だけは助けてくれたし、助けてくれると約束もしてくれた。
マナブが後部座席にすわると、同時に、師匠も助手席に飛び込むように戻って、運転席の男に言った。
「さあ、これでいいわ。五橋の結界を目指しましょう! このまま愛宕上杉通を南下すれば、五橋でしょう?」
すると、ハンドルを握る大男は答えた。
「たしかに地図で見るならそうだけれどよ、くそっ、匂当台公園のほうが通行止めになっちまっているから、車がみんなこっちにまわってきていて、大渋滞だ。駅の周辺は動かなくなっているぜ。
遠回りになるが、裏道をとおって、いったん東仙台に回ってから、ヨドバシの裏をくぐって、五橋に行ったほうが早い!」
「そんなに大回りをしなくちゃいけないの?」
「見りゃわかるだろ、このテールランプの数! てんで動いてねぇじゃねぇか。いっそあんたのアスカロンで、この車を全部吹っ飛ばしてくれりゃあ、話は早いんだがね」
「そんなこと、できるわけがないでしょう。できないとわかっていて、からかうなんて、よくないことだわ」
「へいへい、悔い改めますよ」
と応じる男であるが、そのごつい横顔は、なんだか嬉しそうに見える。
そんな男のとなりで、師匠は、ため息をついている。
「わたしに、みんなをかかえて、風に乗れる力があればいいのに」
「定員オーバーだな。ガキや犬はともかく、叔母さんは無理。重すぎる」
「車を使わなくちゃいけないなんて、不便ね」
「あんたも使い魔を持てばいいんだよ」
「使い魔は、それこそ『消耗品』として扱われてしまうものでしょう。わたしは、なんであれ、命のあるものを、そんなふうに扱うのはいや」
「あんたらしいといったら、らしいが、ま、不便だわな」
「ここは上杉でしょう? 浅野家から近すぎるわ。はやく、かれらから離れないと。ラ・イール、急いでちょうだい」
「そうだな。もう、先のことは、何にもわからねぇ状況になっているわけだしな」
「早く孔明たちと合流したいわ」
と、師匠は、男がハンドルを大きくまわして、NHKの脇の道に入っていくなか、TV画面のほうをちらりと気にしてつぶやいた。
マナブには、師匠と男がかわしている会話の意味が、さっぱりわからなかったけれど、わかったことがひとつだけある。
使い魔とか、風に乗るだとか。
やっぱり、師匠は魔法使いらしい。
師匠と犬のほかは、知らない人が乗っている、知らない車だったけれど、師匠がいるから、きっと大丈夫だ。
これから先に待っている冒険に、マナブはすこしだけ心をはずませた。
モニター画面ごしに叫ぶレポーターの声に、古びたマンションの一室にて、TV画面をながめていたイスメト・イノニュは、銃の手入れをしていた手を止めた。
画面に映し出されているのは、まごうことなく、レティクルであった。
その白銀のかがやきたるやすさまじく、ひとつひとつがまるで星のようである。
しかも、そのどれもが、只人にみえるほどの霊力を放っている。
ちかごろ静かだと思っていたら、連中め、本星で霊力を溜め込んでいたのか。
そうしてイスメトが見逃せないものがひとつ。
「ケマル将軍(パシャ)、なぜ」
口では『なぜ』と言いながら、イスメトは何となくその理由に思い当たっていた。
いちいち考えるまでもなく、どうせ女がらみであろう。
莫迦みたいに、それこそ本当に、恨みがあるのじゃないかと疑えるほど男には冷たいくせに、無知な女子どもには、かぎりない慈愛をしめす父となる。
おそらくは女に、助けてほしいと言われて、なんとも半端な任侠心をみせて、わざと警察官に捕まったにちがいない。
そうして、こんな事態になったわけだ。
ヘリコプターは、パトカーに乗せられてようとしていたケマルと、その前に立っている『最上アキラ子』のようなものを映し出している。
そのかたちは、『最上アキラ子』によく似ている。
だが、中身がまるでちがっていることに、イスメトはすぐに気がついた。
おそらく、ケマルを怖じさせた、五橋にいた『モノ』の正体だろう。
TV画面を通してでもわかる、その尋常ではない霊力の高さ。
これは、アトラ・ハシース……召喚された人間から当てはめていくならば、諸葛孔明か。
因果なものだな、中国人が、日本の少女の姿に身を変じているなど。
そして、さらにTVを見つめていると、かれらから少し離れたところにリムジンがあり、ひとりの中国人と思しき男……イスメトは、それがどうしても只人にしか見えなかったのだが、霊具をふつうに所持して、軽快に動きまわっていることから、なにやらアトラ・ハシース絡みの事情を持つ男であることに、すぐに気づいた……が、武器をもって向かっていく。
だが、突如として壁のように男の前にあらわれた、銀色のヒト型の『なにか』が、中国人をあっさりと弾き飛ばした。
銀色のヒト型の光の塊。
その光には神々しさはなく、むしろ、禍々しさに満ちている。
そしてそれは、ほかの小人たちとは、比べ物にならないほどの霊力も放っていた。
レティクル・クィーンだ。
はじめてみる、敵のなかの敵。
銀の小人たちのを導く霊力増幅器にして、司令塔。
知らず、イスメトは緊張のあまり、生唾を飲んでいた。
これが倒さねばならぬ、最強の敵というわけだ。
本気を出したケマルをも越える霊力を放っているではないか。
勝てるのか、こいつに?
TV画面のなかで展開する光景は、ことばでは表現しつくせないほどに尋常ではない。
こうなれば、もうほとんどSFを通り越して、宗教画の世界だ。
どうする。
イスメトの脳裏には、いくつもの考えが浮かんだ。
ひとつは、匂当台公園に、この聖銃をもって、ケマル・パシャ奪還に向けてうごくこと。
もう一方は、匂当台公園のことは彼に任せる。
記憶をアスカロンに封じ込められているとはいえ、かれはアトラ・ハシースのなかでも稀少な、天下無敵の『完全なる者』なのだ。
力までは封じ込められていないはずだし、あの度胸のよさと回転の速さでもって、いつものように自分でなんとか危険をしのいで、事態をなんとかしてくれるかもしれない。
そして自分は、なにかあったときの避難場所として、この結界を維持する。
ただ、危惧すべきは、『最上アキラ子』。あれは敵か味方か。
もしあれが敵であったら、たとえ『完全なる者』たるムスタファ・ケマルといえど、勝てるかどうか、あやしい。
画面をとおしてでも、すさまじい霊力を感じ取れる。
対するレティクル・クィーンにさえ引けをとっていないではないか。
諸葛孔明。
アジアの漢字文化圏、いや、世界史に堪能なもので、その名を知らぬ者がいるだろうか。
たしか、かれは中華系のアトラ・ハシースのなかでも、かなりの場数を踏み、霊格も高い、典型的な、霊的攻撃を得手とする攻撃型であったはず。
味方であればいい。
しかし、さきほど、女には無類の優しさを見せることが売りのケマルが、『最上アキラ子』を平手打ちしていた。
中身がちがう、ということに気づいたのだろうか。
だとすると、アスカロンの封印が解けたのか?
ともかく、レティクルだけでも厄介なのに、諸葛孔明まで敵にまわしたら、厄介だ。
『最上アキラ子』は、その後、ケマルに敵意を向けていないようであるし、中国人の男の動きからして、別な攻撃対象があるらしいから、いますぐに戦闘がはじまる、ということはなかろう。
となると、やはり目下の敵は、あらわれたレティクル軍団。
かれらを突破することは、ケマルひとりでは無理だ。
動くべきか、動かざるべきか。
そうして、聖銃をもち、立ちあがったイスメトであるが、そこへ、場の緊迫感を、むしろ削ぐように、ぴんぽんと呼び鈴が鳴った。
何者だ。
霊力のつよい気配は感じない。
用心して聖銃を片手に、只人には見えないように細工しながら、イスメトは玄関に出た。
玄関を開けると、そこには、意外にも、見知らぬ女が立っていた。
豊かな黒髪に、清楚な花柄のワンピースをまとった、目鼻立ちの濃い、うつくしい女が立っていた。
なじみある、スラブ系。
おそらくは同胞、つまりトルコ人であろう。
しかし、ここはトルコではなく、日本の東北である。
いくら自分がトルコ人とはいえ、おなじ見知らぬトルコ人が、いきなり現れる可能性は、まずない。
思わぬ来訪者の姿に、イスメトがことばをなくしていると、女は、挨拶も抜きに、ずばり言った。
「安全な場所を確保しつつ、攻撃に備える。それは大変有用な戦術かもしれませんが、こちらが不利ないまの状況では、この結界も、宝の持ち腐れとなってしまいます」
イスメトは、ケマルに負けずおとらず頭の回転の早い男であったが、さすがに、女のことばを、すぐに受け止めることはむずかしかった。
結界のことを知っている。
そして、この結界のことを調べて、なおかつ突破してきた。
只者ではない。
イスメトは銃口をすぐさま女に向けたが、しかし、女はまったく動じることなく、澄んだ、殉教者独特の透明なまなざしでもって、イスメトを見据えた。
「ここは空っぽの場所。守るべき物はなにもないはず。あなたの行くべきところは、ここではなく、上杉の浅野家です」
「おまえは、何者だ」
「わたしの名はサブラ。夫であるゲオルギウスが消えたあとも、ヴァルキューレの力によって、この世界に留まっている者。つまり、ヴァルキューレの名代でもあります」
悪しきドラゴンに生贄にされそうになっていたサブラ姫を助ける、ローマの勇敢な兵士であった聖ゲオルギウスの物語は、勧善懲悪のわかりやすさから、広く伝播しており、もちろんイスメトもよく知っていた。
自分たちとおなじトルコ出身の、古い古い先輩アストラルである。
イスメトは、銃口を向けたことを恥じ、聖銃をひっこめると頭を下げた。
「無礼を働きました。お許しください、サブラ様」
すると、古の姫君は、鷹揚に、やさしくほほ笑んだ。
「わたしがあなたの敵ではないとわかってくれれば、よいのです。さあ、一緒に上杉の浅野家へ行きましょう」
「あそこには、ヴァルキューレの結界がありますぞ。オーディンの守りを突破できるものなど、そうそういないはず」
「いいえ。レティクルがしばらく沈黙をつづけていたのは、あの結界を崩すためだったのよ」
言ったのは、おどろいたことに、女がその胸にかかえていた、ハムスターであった。
「わたしを覚えていて、イスメト・イノニュ。ヴァルキューレのブリュンヒルデよ」
イスメトは息を呑み、素直に頭を垂れた。
「銃口を向けた無礼を、重ねてお詫びいたします、女神よ」
すると、ハムスターの姿をしたヴァルキューレは、ちいさな鼻をひくひくさせつつ、答えた。
「よいのです。わたしは夫のシグルトに騙されて、このループにおいて、過去にしか遡れなくなってしまった。
ループでは、いつもわたしは、あなたがたをばらばらに召喚し、あなたがたはばらばらに戦い、最後には諸葛孔明とジャンヌが決裂し、戦って、共倒れになって終わってしまう。
けれど、いまのループは、まったくちがう動きを見せています。
無念のうちにこの世界から消滅せねばならなかったものたち、そのひとりひとりが、これではいけないと戦う意志をあきらかにし、それに聖剣アスカロンが答えたのです」
「それはわかります。ですから、わが盟友・ムスタファ・ケマルはアスカロンによって記憶を封じられ、ほかのアトラ・ハシースも、それぞれに封印され、時を待たねばならなかった」
「時はすでに来ました。最初のループにおいて、最後に対立してしまった諸葛孔明とラ・ピュセルが、今回は、まったくちがう動きをみせた。
おかげで、事態が大きく変わったのです。そのために、ひとりの少女の魂が犠牲となったことは、残念ですが」
ブリュンヒルデの言葉に、イスメトはさすがに、もはや実況中継というよりも悲鳴をあげ続けている状態となっているレポーターが、ぎゃあぎゃあと声をあげつづけているTV画面をふりかえった。
「犠牲となったのは、最上アキラ子ですか」
「そうです。でも、だからこそ、事態は変わった。彼女の魂の犠牲を、ムダにしてはいけません。あなたがたは、最初とはちがって、ともに戦わねばなりませんよ。
たとえみなが別な場所、別な世界にいたとしても、心はひとつ。レティクルと、かれらを生み出すことになる、悲劇を食い止めること。
わたしには、過去を遡るしか、もう力がないけれど、ここでさいごの力を使おうと思います。さあ、イスメト、上杉の浅野家に行きなさい! あなたの出番が待っています」
「しかし女神よ、何をなさるおつもりですか」
「それはあとでわかるでしょう。いいからお行きなさい! わたしは、わたしの余力でもって、ふたたび、戦士の角笛を世界に響かせましょう!」
そのとき、イスメトは、世界全体をはげしくゆらす振動をおぼえた。
※ この話は、「真ずんだの章7」につづきます。