真ずんだの章 5

※ この話は、「真ずんだの章4」のつづきとなります。

彼の腕に抱かれると
低い声でささやいてくれるの
するとわたしは 薔薇色気分
愛のことばや
日々の何気ないことばを言ってもらえると
わたしはどうかなってしまうわ
彼はわたしの心に入り込んできた
その幸福の理由はわかっているの
だって、わたしのための彼、彼のためのわたしなのだから……(LA VIE EN ROSEより)

甘く囁くような、ため息のような歌声に耳をかたむけつつ、冷え切った日本酒をぐいっと咽喉にそそぎこんだケマルは、ばん、と荒々しく『たんたかタン』に警官が踏み込んできたのと、ほぼ同時に、叫んだ。
「うまい!」
ケマルの手には、緑色の高そうな硝子のコップがあり、テーブルには、封を切ったばかりの仙台のほこる銘酒『勝山』があった。
「なんたる咽喉ごし! やはり酒はこうではなくてはいかんよ! ああ、なんたる至福。わたしはやはり酒なしでは生きてはいけぬ。まさに、わたしのための酒、酒のためのわたし、といったところだな。どう思うかね、諸君」
こちらに物々しくも、盾と銃をかまえてくる警官隊に、ケマルは言った。
やれやれ、さすがは田舎の警察官。あまりよい突撃方法ではないな。こちらが武器を持っていたら、どうするつもりだ、ヘルメットなんかかぶっていようと、腕がよければ、眉間を打ち抜いていただろうにと思いつつ、ケマルは、敵意がないことを示すために、硝子のコップをテーブルにおいて、両手をあげて、立ち上がった。
と、同時に、銃をかまえる警官隊のひとりが、無線で、おそらく外に待機している指令に連絡をとっている。
「き、金髪の男がいます!」
それを聞いて、勘のよい、そして天啓的なまでの想像力を有するケマルは理解した。
あの、イブにリンゴをすすめたような、甘やかで冷酷な目つきをしていた金髪の男。癪にさわることに、じぶんは、あれとまちがえられているにちがいない。
平塚八兵衛がいたなら、こんな誤解もなかろうに、やれやれ、かれは、いかなる事情か、男装の美少女たちとともに、店のワゴンで逃走中だ。
「先に言っておこうと思うのだがね」
流暢な日本語でケマルが言うと、かえって、その場の警官隊は、ますます緊張して銃をこちらに向けてきた。
おそらく、外には狙撃隊も待機していることだろう。機動隊もいるだろうし、自衛隊だって出動しているのじゃないだろうな。
そういえば、いろは横丁の救出作業で自衛隊も借り出されていると報道されていた。あれが、こちらにまわされてきていても、なにも不思議はない。
考えてみれば、仙台連続男児殺人事件の犯人の一味と目されているわけだ。
この、半端なテロリスト並みの厳重な警戒ぶりも、わからなくもない。
仙台には、大きな事件はすくない土地だった。
連続殺人も、戦後すぐに起こった連続強姦殺人くらいなものか。あれはたしか、犯人が死刑になったはず。
これだけの人口を有しながらも平和な都市。それが魅力で住み始め、よろず屋を始めたはずであったのに、いったいどうしてこうなったのやら。
と、ケマルはここまで考えて、自分の考えのどこかに引っかかりをもった。
うむ? そうであったか? そも、わたしは、トルコのどこにいたのだっけ? 子供の頃は農場にいたことはおぼえているけれど、それから先が、なにやらいろんな光景が頭に浮かんでまとまらぬ。
サロニカ? イスタンブール? カイロ?(いや、これはありえぬな) イズミール? アンカラ?
トルコにいたことはまちがいない。そうしていま、仙台にいることだけが現実だ。
そうして、厄介なトラブルに、なぜだか自分から巻き込まれているのも現実だ。きっかけはどちらも美少女。うむ、やはり女は魔性。
「名前をいえ!」
と、警察官のひとりが、白いヘルメットの下から、強ばった声でケマルに質問してきた。
ケマルはおおいにうなずく。
「たいへんによい質問だ。余もそれについて考えていた。余の名はムスタファ・ケマル…姓はあったような気がするのだがなぜだか思い出せぬ。住所は青葉区五橋……のマンションだ。ここにいる理由は頼まれたからだが、ほかに言わねばならぬことはあるかね? 
わたしからは、君たちが疑うのはもっともであろうが、敵ではないし、武器は持っていないから、頼むからまちがっても、その指を変にうごかして、劇鉄を引いてしまわんでくれよ、という要望があるばかりなのだが」
ケマルの軽口の含んだ余裕のことばをよそに、警官のひとりは、しきりに外部と無線で連絡をとっている。
あきらかに容疑者の一味と思われる金髪の男がいたのである。これを確保し、連行せよというのだろう。しかし、両手をしっかりと挙げて、敵意が無いことを示しているというのに、どうしてかれらはいつまでも、こちらに武器を向けているのだろう。
いささか警戒が過剰に過ぎるのではないか。
おかしいな。そして危うい。
大英雄の、大英雄たるすさまじい勘で、事態のなにひとつを知らないはずのケマルは、自分の置かれている状況が、想像以上に悪いものではないかと気づき始めた。
いま、この店の中にいるのは得策ではない。
耳に届くのは、バルバルと上空から轟きわたる報道陣のヘリコプターの音。
いま、外部より、中がよく見えるように警察によってライトが複数当てられているが、密室であることには変わりない。
それに、亮のことばも気になっていた。
自分たちは無実なのに、警察が捕らえにくるという。
治安大国の日本で、この状況は異常だ。
自分が外国人だから、などという偏見によるものだけではない。すべてが『おおげさ』にすぎる。
たしかに、仙台連続男児殺人事件は、日本中が注目している大事件であるが、ほかのおなじような大事件の犯人が、こうも銃にかこまれた状況で逮捕されたところを見たことがあるか?
亮のことばに、ウソはないと思う。
と、すると、かれらは無実の人間を捕らえに大挙してやってきたわけだ。
そこへ、たまたま、証言と一致する(それが、ほかならぬ、その証言者の一人だというところが笑い話だが)金髪の男を発見したものだから、警戒をしているわけであるが……
ケマルはすばやく頭を働かせた。
店内にいる警官は五名。それでもおおすぎるほどだ。
しかもだれ一人、容疑と権利を告知しようとしない。
ケマルに敵意がないと、だれの目にもあきらかな状況であるにもかかわらず、武器を下げるものもない。
つまりは、しきりに連絡している『外』の指導者が、そうするなと止めているにちがいない。
いま、店は密室になっている。
ライトは当てられているが、マイクが仕掛けてあって、会話のすべてが外に漏れているわけではなし。
一般市民には、両手をあげている金髪の男が、銃を突きつけられているだけの光景に見えていることだろう。
表には、はやくも報道陣があつまってきている。
ヘリコプターだけではない。
反射するライトの向こうに目をこらせば、黄色と黒のラインの向こうに、おそらくは『いろは横丁ビル爆破事件』の取材陣が、そのままこちらに押し寄せてきたものが見てとれた。
衆目の中にいたほうが、かえって安全だ。
なぜなら、そのほうが『暗殺』の可能性が低くなる。
もし、この武器をもたぬ状況で、外に出ていった際に撃たれたら、銃社会であるアメリカとはちがう。撃ったのは警察官だと、すぐにわかるだろう。
かわいそうなオズワルトのようにはならない。国際社会は日本を非難し、トルコ政府は、この異常な『処刑』について、追求をするはずだ。
トルコだけではない。仙台に在住の、外国人コミュニティーも黙っていないだろう。
「敵意は無い。表に出ればよいのだな」
みずからそう言うと、飲みかけの『勝山』をちらりと見て、すこし惜しいなと思いつつ、ケマルは両手をあげたまま、『たんたかタン』の外に出た。

外に出ると、まるで潮のような歓声がケマルをつつんだ。
怒号ともちがう。見世物小屋の、最高の出し物になったきぶんだ。
エレファンとマンとかいう悲しい映画があったが、あの男の気持ちが、いまになってわかったような気がする。
声を発したのは、かれを取り巻く警察官ではなく、いまやむしろ、警察官たちが抑えねばならなくなっている観衆やマスコミたちからあがったものであった。
これが稀代の殺人鬼の顔か、という、その感嘆の声である。
無意識のうちに、ケマルはイスメトの姿をさがしたが、あの男のことからして、TVでこの画面をみたならば、現場にかけつけて、ただこちらの名前を呼んで、励まそうとするようなことはすまい。
むしろありとあらゆる情報網をつかって、腕のよい弁護士をさがすために奔走しているころであろう。
両手を挙げたままの状態は、なかなかに肩が疲れてくるわけであるが、ケマルは、自分を見つめるひとびとの中にある、あきらかな歓喜をみつけてウンザリする。
それは、ようやく平和が戻るというよろこびによるものではない。
これから長い長い拘束のあとに、まちがいなく絞首台におくられることになるであろう、自分たちより不幸なものを前にして、安堵し、歓喜しているのである。
みな思っている。ああ、自分はなんと幸福な人生にいるのだろう。こんなやつと関わりが無いのだから、と。
世界はうつくしいと同時に残酷だ。
考えてみれば咲き誇る大輪の薔薇とて、糞尿からなる肥料をあたえねば、あれほどにうつくしく咲くことはないのだ。どちらか一方だけが存在する世界などありはしない。もしあるとしたら、それは狂気の世界だろう。
めまぐるしく、そんなことを考えながら、五人の警察官にかこまれて、ケマルは両手を挙げたまま、ひかえているパトカーの前に引っ立てられていく。
『たんたかタン』の入り口から、乗せられるであろうパトカーまでの距離が、やけに長い。
そこに至るまでの道は、両脇に群集が殺到しているため、制服も私服もいりまじって、盾となって、長い道をケマルのために開いている。

まるで祭壇の前に向かう花嫁のようではないか。
片足ずつ、厳粛に進んで見せるかね。

そんな冗談を胸の内でつぶやきつつ、ケマルは足を進める。
すっかり暗くなった仙台の空は、匂当台公園を中心に、まるで真昼のようなさわぎであった。
ひっきりなしに響きわたるヘリコプターの音と、報道陣のカメラのフラッシュ、冷静にかんがえれば、何に使えるでもないだろうに、懸命に腕をのばして携帯カメラでこちらを撮る群集。かれらを制する警察官たち。
そうして歩いていくと、不意に、ぞくりと背後から、無数の虫が這い上がってくるような、恐怖の発作におそわれた。
常に万人の教師であり、だれも自分に教えられる者など存在しない。
この世にすでにあるのは、ケマルのための供物であり、ケマルに関係しないものは、ただの『モノ』でしかない。
ケマルという男の世界観は、そういうものだった。
世の中は、すべてを受け止めてくれる巨大な母胎のようなものであり、自身は、自分でも身震いするほど、高い能力をそなえて、この世に生まれてきた。
それは、世に真理を教えるため、世を正すためである。
ありとあらゆる悲劇は、ケマルの前にあっては、たんなるゆがんだ現象のひとつにすぎない。
助けてやれるのであれば、助けてやろうではないか。そうして、ほぼたいがいの問題を、ケマルはたいがいひとりで解決してきた。
だれもかれを理解できない。かれが、あまりに突出して優秀であるからだ。
突出して優秀なものを、平凡なものがどうやって理解できると?
だから、歓喜も悲しみも、つねに一過性の現象のひとつにすぎず、彼の胸の内に永遠として留まるものはすくなかった。
すべては流転していく、ほんの一瞬のうちに過ぎ去っていくもの。恐怖もおなじだ。耳元を掠める弾丸。それとおなじ。
それが胸の中心に当たるか、当たらないか、それは運があるかなしかの話。
だが、これは、なんだ?
ケマルをつつみつつある恐怖は、一過性のものではなかった。
弾丸のように、一瞬のうちにかすめすぎ、そしてコレに対抗するための知恵を生む時間を与えてくれるものではなかった。
何も考えられない。
これは、すなわち、この恐怖には勝てないと、そもそもこの頭脳があきらめてしまっている、ということだ。
莫迦な、ありえぬ。
ケマルはもはや、目のまえに大挙している群集も、自分にいまだ銃口を突きつけ続けている警察官たちも、どうでもよかった。
自分をこれほどまでに恐怖させる、何者かの正体を知りたかった。
天使だの悪魔だのといった存在は信じない。
野獣のような数万のイギリス兵を、数百の兵士だけで退けなければならないときも、口では神に祈ってはみたけれど、実際にいのったのは、自分の身体が、きちんと意思とむすびついて、ちゃんとついてくるようにということだった。
だが、いまは、天使や神といった、なにか超自然的なものにすがりたいという欲求につきあげられる。
なぜならば、いま、かれを襲っている恐怖、それはまぎれもなく、人外のものであるからだ。
そう、五橋のマンションに感じていた『なにか』の気配。
それが、とんでもなく増幅して、間近にある。
どこだ。どこにいる。自分をこれほどに怯えさせる者。

そのとき、ケマルは気づかなかった。
自分を見つめる者のなかに、防弾硝子につつまれた黒い高級車のなかにあって、その役職にあるまじき思惑を秘めて、こちらの様子をうかがっている者がいることに。
そうして、自分を警護するようにしている五人の警官のうち、無線を受けている警察官の様子がおかしくなっているということに。
うろたえ、自分の耳に届くことばが大気に漂っているとでも言うのか、目をおよがせ、そわそわしながら、ケマルを見て、そうして、群集のどこかで自分をみている、その男のほうを気にしている警察官の存在に。
その警察官は、そのときまで、自分に、そんな命令が下されるなど、夢にも思っていなかった。
だが、この異常な状況に、やはりかれも気圧され、まっとうな判断力を失っていた。
このあまりに劇的すぎる、おおげさな逮捕劇、そしてまるで用意されたように、ぽつりといた金髪の男。なにもかもが出来すぎで、冗談のようだ。
なにかがあるのだ。それくらいは、多少の知恵がある者ならば理解できる。
そして、その背後に、なんらかの企みがあることも、かれは看過した。
上には従わねばならない。そうしなければ、もう明日はおとずれない。警察というのは、そういう組織だ。
やらねばならないのではないか?
かれは、ちらりと、急にそわそわとしはじめた、白人の金髪の男を見る。
職業柄、さまざまな外国人と接してきたが、そのなかでも、偉容とよべる風貌をした男である。
目に引き込まれるようなほど、強い力がある。トルコに目玉を模した青い魔除け…あいにくと名前は失念してしまったが…があるが、あれが現実に人の顔にくっついたみたいだ。
早くしろとせっつく無線からの命令を、まるで念仏のように聞きながら、警察官は、無機質に、自分の手にしている拳銃をゆっくりと背後から、男の心臓に向けた。
射撃の訓練は、いつもいい成績をとっていた。しかもこの至近距離。
言い訳は、なんとでもなるって? 抵抗したからとでもいっておけって? 被害者感情を刺激するようなことを言い続けて、反抗的だったからだとでもしておけって? 
ウソじゃないか。まるで羊のようにおとなしい。
こんなおとなしいヤツを、処刑しなくちゃいけないのかと、『明日から禁煙しなくちゃ行けないかな』とおなじくらいの軽さで、胸の内にぼやきが生まれた。
なんてことだ。人の生死が、自分のものではないからといって、こんなに軽くとらえてしまうなんて。俺は離人症の気があるのかな。

そうして、男が撃鉄を引こうした、そのときである。
息が苦しい。耳の中にあたらしく心臓が生まれたように、どきどきとはげしい鼓動がしている。
緊張しているのか、人を殺そうとしているから。
そんな軽いものではないと気づいたのは、鼻と口から吸い込まれられる空気。これがどんどん量を減らしていることがわかったからだ。
自分の鼻と口が、どうしたのだろう、この命令を拒んで、とつぜんにストライキを起こしたか?
そのときは、まだそんな冗談を思いつけた。
だがほんの数秒もしないうちに、男は、手にしているものを地面に落としてしまうほどの息苦しさと、混乱につつまれた。

息が出来ない!

水中に突然放り込まれモノとはちがう。おもわず空いた手をのばし、周囲をさぐってみるが、障害になるものはなにもないのだ。
咄嗟に毒ガスの可能性を思った。
だが、ほかの同僚と、まわりの群集も、同様に息苦しさゆえか、バタバタと倒れ、もがき苦しんでいるのに、目のまえの、金髪の男だけは、平然と、なにも変わらずに立っていた。
息が出来ない。あたりまえのことができない。
なぜ?
その問いに答えられるのは、唯一、その場にあらわれた、ひとりの少女だけであっただろう。
その少女は、ケマルを連行しようとしていたパトカーの前に、制服をまとった姿で、傍らに背の高い男をともなって、毅然と立っていた。
そうして、ケマルと視線を戦わせていた。

最上アキラ子だと、最初は思ったが、ケマルはすばやくそれを否定した。
これは、おなじ姿をしているがそうではない。別の何者かだ。
そして、自分をこれほどまで恐怖に叩き落している張本人にほかならない。
自分のまわりで、ばたばたと人が倒れていく。
症状からして、毒ガスではなく、酸欠であろうと、冷徹にケマルは判断した。
そうして、自分だけはまったく異常がないことから、この『アコの姿をした怪物』には、自分には、とりあえず敵意がない、ということだけは理解した。とはいえ、捕獲するのが目的なのかもしれないから、油断はならぬ。
人間の脳に酸素が行き渡らなくなると、何分で廃人になるのであったかな。
そんなことを考えながら、まるであたりまえの風景のなかを行くように、ケマルは両手を下ろすと、少女に近づいていった。
もはや、自分に対する脅威は、この少女だけになったのだから、両手を挙げている意味がなかった。
少女の目のまえに立ったケマルは、その顔を見下ろす。
最上アキラ子だと、最初は思った。
だが、やはりこれはちがう。
なにがちがうといえば、顔立ち、雰囲気、そして、小癪にも、自分に似ているともいえる、星のような目の輝きのつよさ。
世にも稀なうつくしい顔と評することができるであろう。
アコもたしかに可愛らしい少女だったが、稀有な、などと大げさな表現が似合うような少女ではなかった。平凡な魂をもった、善良な少女だったのである。
少女の背後にいる男。これも只者ではないことが、ケマルにはすぐに知れる。
この鍛え抜かれた肉体と、鋭い、隙のない空気。
いまは武器を手にしていないようであるが、徒手空拳であろうと平然と死地に飛び込める度胸を持った男。
おそらくは軍人。それも、相当の修練を積み、場数を踏んでいる。それもかなりの数を。

「おまえは何者だ」
ケマルは単刀直入にたずねた。
相手が『怪物』である以上、まともな会話が成立するかどうかも怪しんでいた。
すると『怪物』は、朱色のくちびるに笑みをはき、つぶやいた。
「さすがだな。アスカロンに封じられた状態でも、わたしが『アコではない』とわかるか」
「アコには似ている。だが、アコではあるまい。何者だ」
「わたしのは、いにしえの中華において栄え、そして滅んだ国の宰相・諸葛孔明。ヴァルキューレたるブリュンヒルデに召喚されしアトラ・ハシースの一人なり」
諸葛孔明。その名前は知っている。英訳されたものだったと思ったが、かつて軍人として干されていたとき、ケマルは古今東西の歴史書、軍事関係の書籍を読み漁った。
そのなかに、『三国志』もふくまれていたはずである。
そのときの印象は、アーサー王伝説におけるマーリンのリアル版のようなやつだ、というものであった。妖精や、いにしえの女神が登場しない、男だらけの殺風景な『三国志』というものがたりに、ふしぎと『おとぎばなし』の空気を呼び込む男であった。
おとぎばなし。なるほど。
ケマルは、匂当台公園にあつまった人々が、だれもかれももがき苦しむ光景を、冷徹に見まわした。
どうやら、この惨状は、この諸葛孔明と名乗る怪物がしでかしたことであるらしい。
上空では、まだバルバルと音をさせてヘリコプターが飛んでいるから、この場のぜんぶの息を止めようとはしていないようだ。
それはそうだ。でなければヘリコプターが墜落してたいへんなことになるからな。
つまり、この場のだれも、殺すつもりはないのである。
「やりすぎではないかね。なにをしたかはしらんが、すこし呼吸をさせてやったらどうだ。後遺症が出る者も出てくるかもしれない」
「そうだな。しばらくはだれも動けまい」
ケマルとおなじくらいの冷徹さで諸葛孔明はいうと、なにやら呪文をつぶやき、そして、このパニックを、すこしだけおさめた。
まったく息が出来ない状態にしていた者たちに、わずかだけ酸素をもどしてやったらしい。あちこちで起こっていた嘔吐の声にちかいものがなくなり、そのかわり、すすり泣きと嗚咽がいりまじっている。
ケマルは知らなかったが、これは風属性で、空気の精であるエリアルたちと契約を結んでいる孔明だからできる術であった。
エリアルたちとの契約内容は単純で、彼女たちを襲おうとする氷狼のヒュンケルがあらわれたら、この戦いに参戦する、というものである。
「さて、なぜにわたしを助けるのか聞こう、諸葛孔明とやら…うむ、発音しにくい名だな」
「単純に孔明でよい。わたしがおまえを助けるのは、おまえもまた、ヴァルキューレのブリュンヒルデに召喚されたアトラ・ハシースのひとりであるからだ。この死者の無念を晴らすためにつくられた『夢の世界』を守り、悲劇をくつがえすため、おまえは召喚された。ムスタファ・ケマル・アタチュルクよ。その名を聞いても、おのれの名を思い出すことはできぬか」
「ムスタファ・ケマル……アタチュルク(トルコの父)。ふむ、わたしにふさわしき名ではある。だが、いま、おまえは気になることを口にしたな孔明。『死者の無念を晴らすための夢の世界』とはどういうことだ。死者とはだれのことを指す。無念のうちの死など、世界中のありとあらゆるところに散らばっている。
だが、わたしやおまえがこの異国の仙台という地にいるということは、この地のだれかが、じつはすでに死んでいる、ということだろう。だれのことだ」

ケマルから向けられる、つよすぎるほどにつよい視線を逸らさず、まっすぐ受け止めていた孔明であるが、ここで一瞬、ことばを口にするのをためらった。
が、すぐに意を決したように、はっきりと口にした。

「最上アキラ子」
「死んだのか。いつ。すくなくとも、彼女は一昨日の夜までは生きていた」
「一昨日の夜に『死んだ』のだ。わたしが守っていたが、今日、守りきれずに、完全に『死んだ』」
とたん、ケマルは容赦なく、目のまえの孔明の頬を、大きくぱん、と叩いた。
その細身の身体がぐらつく。
と、同時に、孔明の背後にいた男が敵意もむきだしに、抗議の声をあげてきた。
「なにをする! 貴様は、こいつがアコをどれだけ守ろうとしていたかも知らぬくせに!」
しかしケマルは動じず、きっぱりと答えた。
「ああ、知らぬ。知らぬからこそ腹を立てておるのだ! 見るがいい、この周囲の人間たちの呼吸すら自在にあやつれることのできる者が、たったひとりの少女も守れなかっただと? 
それで、おめおめとわたしの前に姿を現してきたのだからな! 貴様は余にそれを報告するためにわざわざあらわれたのか? それとも、恩着せがましく、助けにやってきたのか?」
孔明は、打たれた頬を気にしつつ、さきほどよりは緊張を解いて、答えた。
「恩を着せるつもりはないが、おまえの力が必要なのだ、完全なる者よ。この世界のアコはたしかに命を落としたが、しかし、汎世界のアコは、わたしがここで『最上アキラ子』として存在している以上は死なぬ。
一気にすべては飲み込めまい。だが、わたしを信じてほしい。そして、わたしとともにレティクルと戦ってくれ」
「レティクル?」
ケマルが鸚鵡返しにしたときである。

ケマルがおどろいたことに、白いホロゴーストが、頭上より、まるで花嫁の幽霊のように時代がかったドレスを風になびかせて降りてきた。
「当山孔真君よ、言い争っている場合ではないぞ。いまがチャンスじゃ! 千台も窒息しかけておる。この隙に、こやつを始末するのじゃ! さすれば、歴史はかわるぞえ!」
「女王のいうとおりだ。千台はどこにいる」
と、乗り気をみせたのは、孔明をかばった、いまだケマルには名の知れぬ中国人である。
映画俳優にでもすぐになれそうな均整のとれた体つきと、きれいな顔をしている。こういう、自分より女にもてそうな男が、ケマルは嫌いだ。
「あのリムジンの中で気絶しかけておる!」
と、女王は、群集からすこしはなれたところに停車しているリムジンを指した。
なるほど、助手席のうしろに、四十台後半の、ケマルの嫌いな、人を人とも思わぬ、私利私欲最優先の策謀家タイプとおぼしき男が、意識が朦朧としたようすで座っているのが見えた。
「レティクルどもがいない、いまがチャンスじゃ! 早うせぬか!」
せかす女王に、孔明は、武士道(と、中国でもそういうのかどうか、ケマルはよくわからなかったが)精神ゆえか、ためらいをみせている。そうして、上空をみあげ、星のまたたきはじめた仙台の夜空にぷかりと浮かんで威張っているホロコーストに名をたずねた。
「ところであなたは何者だ」
「わらわかえ? ふん、どうせ、そなたの時代の人間が聞けば、あからさまに嫌な顔をするであろうが名乗ってやろう。大英帝国女王エリザベス一世じゃ」
たしかにケマルの表情には、驚嘆と同時に、嫌悪が浮かんだ。
ケマルの生きた十九世紀末、そして二十世紀初頭の歴史というのは、イギリスがアジアに対してどれだけの蛮行をしてきたをのべる歴史でもある。

「孔明、おまえがためらう気持ちはわかる。しかし、おまえもさっき言っただろう。守りきれなかったアコのためだ! おまえがやれぬというのなら、俺がやる。おまえはそこにいろ!」
力強く中国人が言うと、手にしている槍でもって、男のリムジンに飛んでいく。
しかし、ケマルはそこで、大きな女王の舌打ちを聞いた。
中国人がリムジンに近づく直前、銀色の光があたりを包み込み、周囲をはじかんばかりのつよい力を放った。
光の中心には、女がいた。
いや、正確には、女の造形をした、銀色のヒト型のなにかがいた。
ケマルの横で、孔明がうめく、
「レティクル・クィーン。やはり出てきたか」
「女王ばかりではないようじゃ!」
エリザベスがいうとおり、見れば、匂当台公園の四方には、いつのまにか、銀色のキューピー人形、あるいは不気味なビリケンさんにそっくりな小人たちが、大挙してあらわれていた。

ずんだマップに戻る

※ この話は、「真ずんだの章6」につづきます。