真ずんだの章 3

※ この話は、「真ずんだの章2」のつづきとなります。

『たんたかタン』に戻るため、匂当台公園を出て、市役所前の歩道を歩いていたラ・ピュセルであるが、ふと、空気の変調に気づき、足を止めた。
ジルが追いかけてきたのか。
振りかえるが、そこにはだれもいない。
おかしい。

ラ・ピュセルは、市役所の壁にかかげられた、大きなデジタル時計を見上げた。
時刻は17時を回ったころだ。
市役所とく区役所、そして県庁が集中するこの界隈で、この時間に人通りが絶えるなどということは有りえない。
四車線道路を見れば、車すら走っていない。
これは、結界のなかに封じ込められたか。
しかし、嫌な気配はなかった。
閉じこめられたというよりも、呼び止められたという感覚に近い。
ラ・ピュセルは息を整えると、だれもいない空間に、静かに問いかけた。
「見事な結界ね。ここなら、静かにお祈りができそうだわ」
ラ・ピュセルの声に応じるように、やわらかく、やさしげな女の声がした。
「もともと、誰にも邪魔されずに瞑想をするために習得した結界です。短時間しか保持することができませんが、ゆっくり話をするにはよいでしょう。ここならば、吸血鬼にも邪魔されることはありません」
「どなた?」
ラ・ピュセルの誰何に、うす闇のなか、ゆっくりと影がひとりの女の形になっていく。
すらりとした体躯の、憂いを含んだ双眸をもつ、気品にあふれた黒髪の女である。
「あなたとは初対面となります、ラ・ピュセルよ。わたしの名はサブラ」
その名を聞いて、ラ・ピュセルの顔に、おどろきと喜色が浮かんだ。
「ゲオルギウスさまの奥方様でしたの! 貴女はたしか、アストラルであったはず。貴女が残っているというのなら、ゲオルギウスさまも、もしやご無事なのでは?」
期待に満ちたラ・ピュセルの問いかけに、しかしサブラは悲しそうに、眼を伏せて答えた。
「残念ですが、ラ・ピュセル。夫は消滅して、いま『下宿先』に帰還しているはず。深手を負ったので、おそらく肉体の再構築には、かなりの時間を要するでしょう」
「そうですか。残念だわ」
と、ラ・ピュセルは、祈るように、胸の上で手を組む。

レティクルに対抗するため、アスカロンを命がけで渡してくれたゲオルギウスの姿が脳裏に浮かんだ。
アトラ・ハシースにとって、消滅は死ではないが、やはり悲しみはともなう。

「なぜアストラルのあなたは、ご無事なのですか?」
「わたしもまた、アトラ・ハシースにではなく、ヴァルキューレに召喚された者だからです。純粋にすぎるあまり、策略に長けたレティクルたちに、夫が呑まれないようにという配慮でした」
「では、わたしたちのために、協力をしてくださいませ、サブラ様。あなたの夫の意志は、わたしがこうして受け継いでいるのですから」
ラ・ピュセルは、腕にはめた銀のアスカロンを見せるが、しかしサブラの顔は憂いを含んだまま、晴れることはない。
「ラ・ピュセルよ、わたしの力は、とても小さいものなのです。あなたの役に立ちたいのですが、わたしには、なにもすることが出来ません」
「たとえ微力だとしても、かまいませんわ。わたしたちは、同じ失敗を繰り返すわけにはいきません。
戦士の角笛は二度、吹き鳴らされた。三度目はもうないのです。あなたとて、この世界に思いはあるはずでしょうに」
「ええ。わたしも同じ思いです。夫も、あなたと同じように、信仰の力をためされ、ありとあらゆる苦しみを受けたあとに死んだ。わたしはそれを助けることができませんでした。人生のやり直しはきかない。わかっています。
けれど、この夢の世界は、人生を誤った人たちのための世界。わたしの人生はもう取り返しがつきませんが、同じ悲しみ、悔しさをもつ人間を助けたいとは思います」
「ならば、わたしといっしょではありませんか」
「ええ。ですから、影ながら支えてきました。ですが、わたしは戦力になりません」
やるせなさそうに、左右に首を振るサブラに、ラ・ピュセルはいぶかしそうにたずねた。
「なぜ、そうもご自分を否定なさるの? 貴女の力とは、なんなのですか」
「わたしにできるのは、心の声を聞くこと。それだけなのです。夫は、攻撃型アトラ・ハシースとして、抜群の力を持っている。しかし、あまりに人を疑うということをしない。
そんな夫のために、わたしは、敵と味方をより分ける力を身につけました。それが、人の心の声を聞く力なのです。
けれど、それは夫には助けになりましょうが、洞察力のするどいあなたや、ほかのアトラ・ハシースたちがすでに身につけている能力。ささやかな能力ですけれど、わたしは、この能力を身につけるため、幻想魔族と契約し、『たとえどんな場合でも、武器を手に戦わない』という誓約をたてたのです」

アトラ・ハシースそしてアストラルは、人間の魂が進化したものである。
それぞれには属性というものが決められており、属性にしたがった力と、人格に見合った能力がそれぞれ与えられている。
その能力の領域を超えるものを得るための唯一の方法が、つよい魔力をもつ幻想魔族と契約し、誓約をたてて、その代償に能力を得る、ということなのである。
誓約を破ったら最後、その能力は失われる。
二度目に能力を得ることはできない。誓約は神聖なものであるから、それを破るものには、機会は二度と与えられないのだ。

「ご事情はよくわかりましたわ。誓約ならば、仕方がありません。無理強いはできませんわね」
さすがのラ・ピュセルも失望の色を隠せずに、沈みがちに言う。
いまの段階では、一人でも多くの仲間を得ておきたかった。
ゲオルギウスの妻ならば、自分とおなじ信仰をもっているという安心感もある。
それに、ラ・イールの独断専行で、孔明をふたたび激怒させた状態のいま、かれとうまく連携して事態を乗り切れるかどうか。
前回のループで、孔明と刃すら交わしたラ・ピュセルは、自信がなかったのである。
「役に立たないわたしを許してください、ラ・ピュセル。けれども、いまは役に立てそうだわ」
「なにかあったのですか」
ラ・ピュセルの問いに、サブラはこくりと頷くと、顔をあげて言った。
「もうじき、『たんたかタン』に、千台が率いる警官隊が、あなたを捕らえにやってくるでしょう」
「千台ですって? なぜなの?」

早すぎる、とラ・ピュセルは思った。
同時に、ジルが与えてくれた情報が脳裏をかすめる。
樽宮玄は千台に捕らえられている。目的は、おそらくは、自分だ。
ラ・ピュセルは、かれらの目的が、『ジャンヌ・ダルクとしての亮』であろうと思っていた。
だが、それはジルの目的であって、千台と、かれと手を組むこの巫女の一族・最上家はちがう。
単純に、『ヒヒイロカネを産出する山の相続権をもつ亮こと最上白百合』を狙っているのだ。

「この結界は、一時的にですが、張っているあいだは、時間を停止させることができます。あと五分で結界は崩れます。そのあいだに、たんたかタンへ急ぎなさい、ラ・ピュセル。
おそらく千台は、あなたの逮捕にかこつけて、あなたと、店にいる者たちを抹殺しようとするでしょう。そうなれば、前回のループよりも最悪の事態になります」
「ありがとう、サブラ様。けれど、あなたは、これからどうなさるのですか?」
「わたしの役目は、複雑に絡まりすぎた、みなの思惑をほぐすこと。いま、千台とあなたが正面からぶつかるのは得策ではありません。
アスカロンを手に、只人と戦ったら、下手をすると堕天と見做されて、あなたが堕ちる可能性があります」
「逃げろとおっしゃるの」
勘のよいラ・ピュセルに、サブラは満足そうにうなずいた。
「そう。家にいるすべての者を連れて、すぐに逃げなさい」
「どこへ逃げればよいのかしら。もともと最上白百合には、あの店以外に、逃げる場所はなかったのよ」
「避難場所なら、あるではありませんか、ラ・ピュセル。あなたが、昼間、訪れた場所です」
指摘されて、ラ・ピュセルの顔に戸惑いが走った。
「けれど、無理だわ。時間がありません」
「孔明が張っていた東照宮の結界は、もう崩れてしまってないし、ほかに安全な場所となると、もう浅野家しかありませんよ。あそこを戦場にするのは、リスクが高いでしょう」
サブラの言うとおりである。
浅野家の人間を危険に巻き込んでしまうということは、それこそ最悪の日を、かれらに近づけてしまうことを意味する。
「知恵を絞れということなのね」
「月並みかもしれませんが、頑張りなさい、ラ・ピュセル。きっと、あなたならば、よい結果を出すことができましょう。わたしは、いましばらく、ここで時間を止めています。さあ、早く行きなさい」
サブラに促され、ラ・ピュセルは彼女に背を向けると、時間の停止した木町通を、駿馬のように駆け出した。



匂当台公園から、時間のとまった仙台の町を走り抜けたラ・ピュセルであるが、赤レンガの外装をもつたんたかタンの前にきたとたん、待っていたかのように、失せていた音と、そして周囲の生き物の気配が戻ってきた。
サブラの結界が解けたのだ。
ラ・ピュセルは立ち止まると、ちいさく感謝のことばをつぶやいた。
「ありがとうございます、助かりました」
声が届くといい。
あの女性はこれからどうするのだろうと考えつつ、たんたかタンに入ろうとするラ・ピュセルであるが、そこへ、声をかけられた。

「ラ・ピュセル!」
粗野で野太い、声の主の性格そのままの調子の声である。
ラ・ピュセルが振り返ると、おなじく息をきらせた平塚八兵衛こと、ラ・イールが、やってきた。
やってきたのだが、息が切れているのか、それともほかの理由からか、ラ・ピュセルの顔をじっとながめて、息を整えながら黙っている。
ラ・ピュセルは怪訝そうにしながらも、たずねた。
「どうしたの、ラ・イール。わたしの様子がおかしい?」
「いいや、そうじゃねぇよ。あんただな、と思ったのさ」
と、ラ・イールは、にっ、と歯をみせて笑った。
その子どものような顔に、思わずラ・ピュセルもつられて笑ってしまう。
「変なひと。でもよかった、無事なのね」
「あたりまえだろ、俺は、ほかでもない、ラ・イールさまだぜ」
と、豪快に笑う男に、ラ・ピュセルもほほ笑みながら、言った。
「そうそう、あなたにどうしても言わなくちゃいけないことがあって」
なんだ、とラ・イールが不思議そうに首をかしげると、ラ・ピュセルは利き腕の拳をぐっと握る。
その仕草に、ラ・イールの表情が強ばったのがわかったが、しかしラ・ピュセルは容赦せず、そのままラ・イールの右頬に強烈なパンチをあびせかけた。
巨体のラ・イールが、その勢いに、おもわずよろめき、その身体は、時間の止まったたんたかタンのショーウィンドーにぶつかった。
ガシャンと不安な音がするが、さいわい、割れたのは、店の表にかざってあった素焼きの植木鉢だけであった。
窓に貼り付けられた『たんたかタン』の文字のむこうでは、なにごとか携帯電話を片手にふりかえる叔母と、まだTVの前に座っていたケマルと、その足元でお座りの姿勢をしていた陳寿犬の姿が見える。

打たれた頬をおさえつつ、ラ・イールは起き上がると、すぐに抗議の声をあげた。
「ひでえ! いきなりぶつか、聖女のくせに! 俺はなんにもヘンなことは言ってないだろ!」
「変なことは言っていないけど、変なことはしたでしょ! なんだってあんなひどいことをしたの! わたし、全部見たわよ! また、かれを怒らせて!」
ラ・イールはしらばっくれているのではなく、はじめて気づいた、というふうに、おどろきを交えていった。
「あ、それか」
「それよ!」
怒りに燃えるラ・ピュセルであるが、ラ・イールはなにやら納得したように、うんうんとうなずきながら、言った。
「けど、あの場合はしかたねぇよ。だってよ、あんただって、そう思うだろう? あの優柔不断ヤロウ、きっとああでもしなくちゃ、ずるずると、病人みたいな状態でいたにちがいねぇや。そんなふうで、レティクルどもに勝てるわけねぇ。俺はまちがってねぇよ」
「まちがってない、ですって?」
「そうだよ、むしろ誉めて欲しいくらいだ……って、なんだよ、そのアスカロン!」
みれば、ラ・ピュセルは、手にアスカロンの本体を出現させて、静かにラ・イールにかまえていた。
「待った、待った! ほーら、中にいる連中に剣が見えちまうぜ。話せばわかる、話し合おう!」
「あなた、むかし、わたしになんて言ったかおぼえている?」
「話し合ってわかるものなんて、ごくわずか。剣を交えるほうが、手っ取り早い」
すると、ラ・ピュセルはにっこりと、明るい笑顔を見せた。
「はい、よくおぼえていたわね。誉めてあげる。あなたの意思を尊重してあげるのよ。さあっ! 剣を抜きなさい!」
「待った、待った! そんなことをしている場合じゃねぇんだよ! あとでたっぷりとおしおきされるから、いまは収めてくれ! な?」
「なにかあったのね」

アスカロンをラ・イールに突きつけるのをやめて、ラ・ピュセルがたずねると、巨漢のラ・イールは、ほっと息を吐いて、それから答えた。
「あんたの憑依している、その巫女の身元が、警察と、千台にばれたぜ」
「早かったわね。最上家の人間は、千台家と組んだ。そうでしょう?」
「なんだよ、知っていたのかよ。っていうか、知っているのに、なんでそんなに落ち着いているんだよ」
「落ち着いちゃいないわ。ただ、前回のループでは後に隠れていて、手が届かなかったものが、ようやく前に出てきたのを実感しているだけよ。
慌てちゃだめよ。最上家は、将来的には、千台家とがっちり組んで、おなじように権勢を伸ばしていくようになる。いわば、千台家の頭脳の役割を果たすようになる家なのよ。この巫女の兄は、レティクルの子孫のひとりと言っていい」
「亮なんてまぎらわしい名前を名乗っているから、聖ゲオルギウスが、あんたを当山孔真君と勘違いしたんだよ。というか、なんで、それを知っているんだ。俺と視界を共有していたのか」
「ちがうわ。ジルが教えてくれたの」

ジル・ド・レの名を出すと、とたん、ラ・イールの表情が一変し、険しく、おそろしげなものに歪んだ。
「あの変態元帥、あらわれやがったか!」
「また、わたしの味方をしてくれるっていったわ。最上家が、樽宮玄を人質にとって、わたしをおびき寄せようとしているから、気を付けたほうがいいって。あなたの知っていることとちがっている?」
たずねると、ラ・イールは、怒ってよいのか、莫迦にしてよいものか、困ったような顔をして、答えた。
「半分は事実で、半分はちがう…いや、ちがうというより、たぶん変更になったんだろうと思う。聞いてくれ。
これから、千台が率いる警官隊が、あんたを捕まえるためにやってくる。捕まえる理由は、あんたが憑いている巫女と、その叔父が共犯関係で、仙台男子児童連続殺傷事件の犯人だという容疑だ。逃げたほうがいいぜ、早く!」
「それも知っているわ」
ラ・ピュセルが言うと、ラ・イールはがっかりして、肩から力を抜いた。
「なんだなんだ、全部知っているんじゃねぇか。俺なんか、あんたにこれを伝えるために、警察署から猛ダッシュをかけてきたんだぜ」
「そう、じゃあ、車はないのね」
「署の車は、みんな出払っちまったよ。どうするんだよ、戦うのか? 只人相手に、あんたのそのアスカロンと、俺のジョワイユーズで戦ったら、それこそ死屍累々、堕天まっしぐらだぜ」
「そうよ、戦うことはできないわ。だから、逃げようと思うの。車があったら便利だったのだけれど、配達用の車を使うしかないわね」
「配達用の? 不吉だぜ。前回のループで、樽宮玄と関根の心中死体でみつかった車じゃねぇか」
「心中偽装の殺人事件よ、ラ・イール。贅沢は言っていられないわ。この結界が解ける前に、できるだけはやく五橋へ行かないと」
「五橋ぃ? 冗談だろ? あそこにゃ、頑固なトルコ人が拳銃持って頑張っているんだぞ。俺は、たったいま、そいつと戦ってきたばかりだってのに」
「ほかに安全な場所がないのよ。孔明の張っていた東照宮の結界は消滅してしまったし、ヴァルキューレが張った浅野家の結界があるけれど、いま、あそこを闘いの中心にするのは危険だわ。
だとしたら、残るのはひとつでしょう? ねえ、あなたもわたしと一緒に、逃げてくれるわね?」

ラ・ピュセルに言われて、ラ・イールは、苦々しく唇をゆがめた。
「まったく、そのセリフ、俺がノルマンディーに行く前に聞きたかったね。いいよ、あんたがいいというのなら、一緒に逃げようや。ただし、連れがいっぱいいるみたいだけどな」
「そうよ、店にいるひとたちもそうだけど、夏目学も連れて行かなくちゃ。あの子が浅野史朗と接触しないようにしなければ。
キーを渡すわ。わたしは、この人たちを車に乗せる。車は、裏の駐車場よ。おねがいね」
「へいへい、お願いされたよ、と」
言いながら、ラ・イールはキーを手に駐車場の裏手にまわったのであるが、その顔は、どこか楽しそうであり、しかし、ほんの少しだけ、かなしそうであった。



さて、裏の駐車場に向かう、ラ・イールの大きな背中を見送りつつ、ラ・ピュセルはたんたかタンの扉のノブに手をかけた。
問題は、五橋に向かって、さて、それからどうするか、ということである。
アタチュルクを連れて行けば、おそらくイスメトは攻撃をしてくることはないだろう。
とはいえ、アタチュルクがアトラ・ハシースとしての記憶を取り戻せるかどうか、取り戻したところで、こちら側に協力してくれるかが問題である。
どうやって説得するか。
真正面から切り出すとして、さて、アタチュルクほどの聡明な男でも、このあまりに複雑すぎる状況を、短時間で飲み込んでくれるだろうか。

『わたしの記憶の一部を流し込んでもいいけれど』
緊急時に、離れて活動していたアトラ・ハシース同士が、たがいの状況を確認しあうために、それぞれの記憶を交換する方法がある。
ただし、これは霊力の交換にも似たもので、属性がちがうアトラ・ハシースの場合、細心の注意が必要だ。
火の属性と水の属性の場合は反発し合う。水の属性と地の属性もそうであるし、地の属性と空(光)の属性もそうだ。
あいにくと、ラ・ピュセルは風の属性でもあるが、空(光)の属性も持っているので、地の属性であるアタチュルクとはあまり相性がよくない。
アタチュルクが完全な状態でいるならばともかく、すっかり記憶を封じられている状況では、一方的にラ・ピュセルの霊力に脳の情報処理能力がついていけず、下手をすると廃人のようになってしまう可能性があるのだ。

『けれど、アタチュルクは完全なる者でもある。いちかばちか、賭けだけれどやってみる? けれど、ここで失敗したら、貴重な『完全なる者』をひとり失うことになる。
いいえ、それどころか、イスメトはわたしたちの敵になる。リスクが大きすぎるわ』
どうしたものかと考えながらノブを回そうとしたラ・ピュセルであるが、それよりさきに、内側からノブが回った。
顔をあげればアタチュルクで、なにやら怪訝そうに、特徴ある目と眉を大きくしかめて、ラ・ピュセルと、駐車場へと去っていったラ・イールのほうを交互に見た。
「どうしたのだね、トラブルか。もしや、痴話喧嘩かい。ならば、この何でも屋ムスタファ・ケマルが話しに乗ろう。
君のように美しい子にかぎっては、特別割引で聞こうではないか。ただの夫婦喧嘩は犬も食わぬというが、余は、君のように白百合のごとき少女のからむ喧嘩は、たいへんおいしくいただける性分なのだよ」
「痴話げんかなんかじゃないわ」
答えながら、そういえば、アタチュルクという男は、女性関係においては、彼女の王、シャルル七世よりもなお悪い感覚の持ち主であったということを思い出していた。
「喧嘩ではない。ふむ」
言いながら、アタチュルクは、なにかに気づいたらしく、顔をつよくしかめると、ラ・ピュセルの向こう、木町のビル群の空の彼方をねめつけて、首をかしげた。
「なんであろう。よからぬ気配が近づいてくる予感がする。雨でも降るのだろうか」
「わかるの?」

仙台中央警察署から、千台警察本部長ひきいる警官隊が押し寄せてきている。パトカーのサイレンが、だんだんとこちらに近づいてきているのだ。
その不穏な空気は、ラ・ピュセルだけではなく、幾多の戦場を、みずから先陣をきって駆け抜けたアタチュルクも、敏感に感じ取っているらしかった。

「また事件か。この町は、日本でも治安のいい街だと聞いていたのに、毎日毎日、まるでエルサレムかレバノンのようではないか」
どんどんと近づきつつあるサイレンを聞きつつ、ラ・ピュセルは意を決した。
時間がない。
自分のいままでの経験を信じて、アタチュルクに記憶を流す。
「聞いて、ケマルさん。これからここに、警察が来るの。わたしと、叔父さんが、男の子たちを殺した容疑で捕まえにくるのよ」
「ふむ?」
アタチュルクは、ラ・ピュセルの言葉に、ますます顔をしかめる。
「でも、わたしたちは誰一人として殺していないわ。これは冤罪なの。かれらの目的は、わたしなの。わたし…いえ、最上小百合という、この巫女が持っている相続権が目当てなの。
だから、叔母さんと、犬と、いまここで逃げなくちゃ、理由をつけて殺されてしまうわ。だから」
だから、くわしいことは記憶をゆずるから、味方になってとラ・ピュセルが言いかけるより先に、アタチュルクのほうが口をひらいた。
「わかった。そういうことならば、逃げたまえ」
あまりにあっさりとしたその言葉に、ラ・ピュセルは唖然とする。
「なんですって」
「冤罪なのだろう。逃げるがいい。ここは、わたしが引き受けよう。わたしが警察を引きつけているあいだに、君たちは逃げるのだ。どこへ逃げるか知らぬが」
「五橋。あなたのマンションのあるところへ逃げるつもりよ。でも、どうして?」
記憶が戻っているのではないか、と期待したラ・ピュセルであるが、アタチュルクは、これも呆れるほどにあっさりと言った。
「君たちには、一宿一飯の恩義があるからな。それに余は、きみたちが大それた殺人を犯すようには見えぬ。
余の目は確かだ。つまり、君の言うことを信じるということだ。時間がないのだろう。早く行きたまえ。運がよければ、余も五橋に戻るが」
「が?」
アタチュルクの顔が曇ったので、ラ・ピュセルが尋ねると、この豪胆なトルコ人は、ちいさくため息をついて、言った。
「五橋に戻るのがいやでここにいるのだが、回避できぬものであるからこそ、いやなものなのか。愚痴をこぼしても仕方あるまい。さて、サイレンが近づいてきているようだよ。叔母さんと犬をつれて、早く行きたまえ」
「ありがとう。あなたはやっぱり噂どおりの大きな人なのね。感謝します」
感激して言うラ・ピュセルに、アタチュルクは、手を挙げて、ラ・ピュセルを抑えるような仕草をして、苦笑いを浮かべた。
「過度の賛辞は毒となるものだよ。余は恩を返すだけだ」
「だから、感謝するのよ」
「あんまり感謝感謝と言われると、なんだかこそばゆくて仕方ない。早く行ってくれたまえ」」



ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、おのれの庇護すべき者に対しては、だれに対しても父親のように接することのできる男なのである。
それは義務感に動かされてのことではなく、そういうふうに考え、そういうふうに行動するからこその、万民のトルコの父、ムスタファ・ケマルであることを、よく自覚しているのだ。
彼は情けを知らぬ冷徹な男だとよく批評されるが、それはまちがいで、彼の頭の中には、つねに万民にとっての最良とはなにかという命題がある。
命題を、潔癖なまでに追及しているがための冷徹さなのである。
つまり、兄弟だからとか、昔の恩人だからとか、そういった情の絡んだ理由で、えこひいきをして、一時的に周囲の人気を得て場をしのぐような方法は好まない。
むしろ、先の先を見据えて、兄弟であろうと恩人であろうと、万民にとってよからぬ方向に物事を動かそうとするものには、徹底して容赦しないのだ。

ケマルの目に映った少女は、仙台連続少年殺人事件に絡んでいるとはとても思われないほど澄んでいた。
それになにより、ケマルは、犯人らしい男を目撃している。
そいつは白人の、なんだか気に食わぬのっぺりした金髪の男だった。
警察にきっちりと伝えたはずなのに、なぜだか犯人が、この家の者だという。
それに、目撃証言をとっていった平塚八兵衛が、なぜだか逃亡の手助けをしようとしている。
これは、詳細を聞かないまでも、なにやら陰謀が背後にあるのだとわかるというものではないか。
公権をにぎる警察が、か弱き人民をいじめ殺すというシナリオが出来上がっているとしたら、これは許せることではない。
たとえ異国の事件だとしても、ならば関係ないと目を逸らすことができるようなケマルではなかった。

少女が、犬と、驚きあわてる叔母を引きずるようにして車に乗せて行ったあと、たんたかタンのガラス張りの窓ごしにも、はっきりと聞こえてくるようになったサイレンの音を打ち消すように、ケマルは有線のチャンネルをひねった。
TVを消し、そして、店の厨房の片隅にあった、ちいさな冷蔵庫より、地元仙台の蔵元がつくった辛口の酒『勝山』を取り出す。
これくらいはボーナスとして貰ってもよかろう。ちょっとした景気づけだ。
勝山の封を空け、そして有線から流れた、ゆったりとした旋律に耳をかたむける。
皮肉か、それとも、これからの運命を示し、はげましてくれているのか。
流れてくる音楽はエディット・ピアフの『バラ色の人生』であった。

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※ この話は、「真ずんだの章4」につづきます。