ほやの章

B

※このお話は「新ずんだの章4」のつづきとなります。

「神さまがあなたを許すのではないの。あなたが周囲を、そしてみなを、どれだけ許すかなのよ。世の中は、あなたが思うように、醜いばかりのところではないわ。あなただったら、もっともっと美しいものを見ることができるはずよ。
素直になって、耳をすませて。そうしたらきっと、あなたにも、神さまの声が聞こえてくるわ。
神さまは、無理なことは決しておっしゃらない。わたしたちにとって、いちばん良いこと、いちばん当たり前のことをなさいとおっしゃるの。だから、わたしは当たり前のことを果たすために、あなたのところへ来たのよ」
と、少女は言った。
それから、彼の運命は大きく変わる。
いや、変わったのだろうか。
それは不思議と安堵を一緒につれてくる変化であった。まるで母親のなつかしい腕の中に戻るような、みどりごの無垢なこころを、すこしずつ取り戻していくような変化であった。
もしかしたら変化ではなく、元に戻るための作業だったのかもしれない。
それは冒険とも快楽とも、名誉とさえも無縁な、静かな変化であったが、この穏やかな変化を経験したがゆえに、彼は彼女のすべてを受け入れた。
その亡骸すら、跡形もなくなってしまったあとも、彼は彼女の示した道を歩きつづけた。
その力強い歩みは、永遠に途切れることなく、いまも続いている。



ぺたぺたと、暗闇のなか、裸足で走る、だれかの声が聞こえてくる。
目を凝らせば、足音の主が見えてきた。
なんてことだ、お隣のアコじゃないか。なんで裸足なのだ。靴はどうしたのだ。おかしいな、片方だけは靴下を履いて、もう片方は裸足。服もあちこち汚れて、ずいぶん乱れてしまっている。
何度も何度も、闇の後ろ側を気にして、あんなに必死な表情で…

さして苦労して推理するまでもなく、ケマルはアコの身の上に、非情な凶事が降りかかりつつあることを悟った。
闇の奥のほうから、禍々しい、思慮や優しさといった、人間の美徳がことごとく失われた、邪心に満ちた声が聞こえてくる。
その声に追われて、アコが懸命に逃げている。

ここはどこだ。
うむ、まったくの闇、というわけではないのだな。
木々のざわめき、アスファルト、街灯は、ところどころに、蛍のようにある、これか? 
おや、余は、どこにいるのかな。アコはずっと前方にいる。

しんと冷える12月の夜である。山にたちこめる、独特の冷気、そして木々の生い茂る青臭い匂いが混ざり合っている。
アコは後ろを気にしながら、何度も何度も振り返り、そして懸命に足を動かすのであるが、恐怖のためか、それとも、もうだいぶ走ったのか、ときおり、足がもつれては、前のめりになって、倒れてしまいそうになる。
すると、背後から、ブーツか、あるいは革靴か、複数の荒々しい足音が近づいてくるのであった。
アコは、道を懸命に駆けたものの、追っ手の一人が、叫んだ。

回り込め。二手に分かれて、逃げ道を塞いでしまえ。

その声に、アコの足が止まって、おどおどと、周囲を見回す。
逃げ道がなくなってしまった。戻っても進んでも、掴まってしまう。
彼女は、目の前に広がる、闇を凝視した。

すると、ケマルの視界にも、アコが見たであろう光景が、はっきりと見えた。
それは、ガードレール越しに見える、無情なほどに美しい、青葉山から見下ろす、仙台の光り輝く12月の夜景であった。
クリスマス間近ということで、あちこちがライトアップされ、楽しげにさざめいている。
こんな山中で追われていることよりも、目の前の暖かな光景こそが、彼女を孤独と絶望に突き落とした。
目の前には、たくさんの人がいるのに、だれも助けてくれない。
だれか。
祈るような気持ちを抱きつつも、彼女はガードレールを飛び越え、崖下へと、一歩、足を踏み出した。

いかん。傍観している場合ではない。


幼い頃に父を亡くし、その後、賢くも強い母、叔母、姉妹たちに囲まれて過ごしたケマルは、たいがいのトルコ人が父親に、かぎりない愛情と服従を捧げるのに代わって、母に愛情と献身を捧げた。
彼にとって女性とは、あこがれであり、己を跪かせるものであり、崇拝すべきもの、また、守るべきものであった。
それでいて、本当に身近な女性たちとは、彼はうまく関係を保つことができなかったのであるが、国民たちから捧げられた『父』という名のとおり、かれは多くの女性たちにとっては、強い父親、保護者として存在しつづけた。
彼は、自身が純然たるトルコ人としての血を持っていなかったので、同時代の人間が、民族主義に走るなか、さまざまな人種に優劣をつけて差別をする考え方に、どうしても同調することができなかった。
これは理念や理想の問題ではなく、彼の幼少から培われてきた感覚が、差別意識を本能的に拒否したのである。
前時代の英雄ナポレオンが、純然たるフランス人としてではなく、コルシカ島出身のよそものだと、どこかで疎外されていたがゆえに、フランス革命で孤立した国を大胆に建て直し、一大帝国にまでのし上げることができたのと同じ原理が、やはり偉大な改革を成し遂げた彼の底辺にも、眠っている。
彼の中には、過去への賛美や郷愁がない。
過去にこだわるあまり、現実を見失って、自分たちの傷ついた自己愛を満足させるために、だれかほかの物を貶めて優越感を際立たせるような、陰湿なやり方は大嫌いだった。
身分制度も、人種差別も、男女差別も、みんな嫌いだった。
捻じ曲がったイデオロギーによって誰かが傷つけば、彼は激しく怒ったし、相応の報復さえ辞さなかった。
冷酷な独裁者と評する者もあったが、彼は自分が、どんな立場にいて、なにをしなければならないかを、はっきりと弁えている、幸福な人間でもあった。
だから、どんな非難の声にもひるまない。

因習を打ち破ることにも、怖じなかった。


だから、彼は、手を差し伸べた。

「アコ! こっちだ!」
闇を逃げ惑う彼女に、その声が聞こえたか。ふと、それまで闇雲に逃げていたアコが、はっきりとケマルのほうを見た。
アコは、身近に迫るものを気にしながらも、ガードレールからふたたび道に戻って、懸命にこちらに駆けてくる。そうだ、がんばれ。
「こっちへ来るのだ! 急げ!」
ぱっ、と、まるで怪物の双眸のように、凶悪な黄色いライトがアコを照らした。
追っ手が、なかなかアコを捕まえられないことに焦れて、車で追いかけてきたのだ。
複数で、非力な少女をとことんまで追いつめようという、その腐った心根に、ケマルは心の底から腹を立てた。
彼は、決してそのような企てには乗らない。考えもしない。正々堂々と王者たるのが彼であり、盗人の気持ちはわからない。
まして、なんら非のない少女を、単に己の欲を晴らすために傷つけようとする人間の気持ちなど、わかろうはずもなかった。

消えうせろ、愚か者め!

彼が強くそう念じると、まるで粘土細工でつくった光景を、自在に作り上げているかのように、アコに迫ろうとしていた車が、一瞬にして消えた。
ああそうか、これは夢なのだな。余は、夢を見ているにちがいない。
ならば、悪夢は良き夢に変えるべし。
決断すると早いケマルは、懸命に駆け寄ってくるアコに、まず、裸足は可哀相だからと、靴を履かせることにした。そして、暗闇は怖かろうと、うねった道に、ぽつぽつとしかない街灯の代わりに、あたりの木々に盛大に、豆電球を飾り立ててやった。
まさに一足先の光のペイシェント、青葉山版である。
さすがに驚いて足を止めたアコに、なおも懲りずに迫る少年たちが近づいてくるのを認めるや、ケマルは眉ひとつ動かすこともなく、電気のスイッチを入れるような按配で、ぱちりと自身の指を鳴らすと、その存在そのものを、世界から消滅させてしまった。
これは夢であるからして、これくらいの暴挙は許されるであろう。

「さあ、もう大丈夫だ」
近づいてきたアコに、ケマルは優しく声を掛けるのであるが、アコの反応はかんばしくなく、突然変わった光景、そして消えた少年たちに、唖然として、周囲をきょろきょろと見回している。
ふむ、アコにしてはおかしな反応だ。この子は、とても礼儀正しい少女だったはずなのに。
「アコ、大丈夫かい、怪我はないかい」
ケマルは声をかけるのだが、アコには届いていないようだ。
もしかしたら、これは夢だから、夢主たる自分の姿は、アコには見えていないのではなかろうか。

そんなことを考えていると、アコの後方、ちょうど、広瀬通りを抜けて青葉山を、太白区方面につっきる形で走っている道路の、仙台駅側から、また車が近づいてきた。
それは、あまり手入れのよくないミニバンであった。業務用の車であるらしく、白い車体の横には、社名が記載されている。

『杜の都仙台のコミュニケーションのお手伝い
株式会社 仙台ゴールデンポークスプリント
TEL 022-×××-××××」

太白区側の道を、ぼう然とひとり歩くアコの脇で、車は停まった。
そして、無言のまま、運転手は、アコに向けて扉を開く。
アコが驚いて見れば、運転席に、作業着のつなぎを着た、配達員とおぼしき若い男が、手招きで、アコに乗るようにという。
アコは当然、ためらうが、男は、眼でもって、アコに、心配ないから、早く、というふうに訴えてくる。
ケマルは、困っているアコの横に立ち、男を真正面から見た。

なぜしゃべらぬ。怪しい男め。
新手か? こいつも消してしまおうか?

男は、助手席を手早く片手で片付け、アコが座るに十分なスペースを作る。
癖のない黒髪をした、二十代半ばくらいの男であるが、一見して、すぐに、これは日本人ではないな、と知れた。
ケマルと同じく、大陸の風土が作った、どこか風韻の大きい顔立ちをしているのだ。
日本人特有の、都会臭いというか、こじんまりとまとまっているというか、野性味が少ないというか、ともかくのっぺりした顔とはちがう。

男が、警戒し、なおもためらうアコに、言った。
「乗りなさい。たいちょぷたから」
大丈夫だから、と言ったらしい。
その声に、強ばっていたアコの表情が、わずかに緩んだ。
しかし、ケマルとしては、すっかり父親気分である。

いけません、こんな見も知らない怪しい中国人(自分は怪しいトルコ人である)の車に乗っちゃ!

だが、その声は届かず、アコは、乱れた服をあわてて直しつつ、笑顔を懸命に作って、答えた。
「ありがとう」
「とういたしまして。うちはとこ?」
「五橋なんです」
「イツ…?」
「い・つ・つ・ば・し! ええと、NTTのそば!」
「ああ、NTT(アルファベットの発音は、抜群に良かった)ね。途中たから、送るよ」
イカン! 
ケマルは反対するものの、アコに声は届かない。アコは、ケマルの用意した新しい靴でもって、ミニバンに乗り込む。ケマルも、どうせ夢なのだからと車に同乗しようとしたが、それまでなんでも出来ていたにもかかわらず、とたんに力が失せ、車に乗るどころか、車に触れることすらできなくなった。

なんだ、これは。余は骨折り損か?

釈然としないケマルをただ一人残して、ミニバンの扉は、ばたんと無情に閉じられた。
そして、ぶおんとエンジンの音だけを、静かな山中に残し、去っていく。

………本当に、大丈夫なのだろうな?

だれに問うでもなくケマルは問うてみるが、答えはない。
ただ、直感ではあるが、いま目の前に、あたらしい未来が拓けたことは、判った。
それはつまり、理不尽に虐げられた者のうちの、一人の運命が、大きく変わったということでもあった。



なんて夢だ。
ケマルは、匂当台公園のベンチの周囲に集った、鳩の声で目が覚めた。
文無しのケマルは、得も知れぬ圧迫感を自宅に感じ、そこから逃げる…いやいや、逃げる、などとは余にふさわしくない…一時避難して、とりあえずの宿を探した。
まず、宿賃がないので、報酬を前借すべく、メアリのもとへ向かうことも考えたが、国分町で遭遇した出来事を考えれば、避けたほうが賢明のように思われた。
とりあえず、相手の様子を探る、という意味も兼ねて、メアリのところへ行ってみたのであるが、メアリも、メアリの囲い者であるシグルトも、そ彼らの住みかたる大きな洋館にはいなかった。
ほかの知り合いにも当たって、借金を頼んでみたのであるが、結果は惨敗。
自棄になり、残った千円をつぎこんで、スクラッチを買ってみたが、これもぜんぶ外れ。
こういう運のない日は、早々にあきらめて、仕切り直しをすべし。
そして、新聞を拾って布団代わりにして、ベンチで眠ったのである。

12月の仙台の夜は、涙が出るほど寒かったが、それでも、温かい寝床とイスメトの作った食事が待っている五橋のマンションには帰りたいとは思わなかった。

あれは、なんだろう。
息苦しさにも似た、恐怖? 
異様な気配。姿の見えない敵の空気?

ぴりぴりと、皮膚を焼くような嫌な気配がして、悪寒が止まらなかった。
最初は、国分町で経験した、奇妙な出来事の後遺症で、気が弱っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしく、悪寒は、五橋を離れたとたんに、治まったのである。
もはや説明のしようがないのだが、ケマルの鋭い直感が、五橋から早く離れるようにと告げていた。
決めたら早いケマルであるから、イスメトが制止するのも聞かず、取るものも取り合えずで、こうして飛び出してきたのであった。
早計だったかな、と後悔したが、あの、じわりじわりと、自分の存在そのものをすこしずつ削られていくような不気味な感覚を味わうより、寒さで凍えていたほうがよかった。

あのマンションに、なにかが『いた』。
ふと、ケマルは、イスメトのことよりも、アコのことを考えた。
彼女はどうしているだろう。
夢の所為もある。
なんだか妙にリアルかつ、妙に破天荒な夢だった。
しかし、最初は、違う夢を見ていなかったか。神さまがどうとか…ふむ、どこかで宗教の勧誘でもしていたのだろうか。それが耳に入って、あんな夢を? 
途中で、どうしてアコに切り替わったのか、不思議であるが。

「神は、きっとこのような時こそ、わたしたちを見守ってくださっています」

ほら、やはりそうだ。
ケマルは、新聞紙を払って、無造作に近くにあったゴミ箱に突っ込むと、神を説く女の声のほうへ向かって行った。

匂当台公園は、仙台駅から地下鉄で二駅目にある、大きな野外ステージを有する公園である。
目の前には青葉区庁舎と県庁舎、市庁舎がみっつ並んでいて、交差点の向かい側には三越デパート、さらに向かいには三越アーバンホテル。
手入れの行き届いた美しい円形の大きな花壇があり、その周囲では、もはや仲間といってもいい、家のない方々が、道行くひとに鳩のエサや、拾ったイチョウの実を売っている。
噴水もあり、立地もよい公園であるが、ホームレスに人気がないのは、官公庁が近すぎる、つまりは警察の目が行き届いているためだろう。
幸いゆうべは職務質問の憂き目にあうことはなかったが、今日は場所を移動しなければ。
聞きかじったところによれば、榴ヶ岡公園はなかなかよいという。
ふむ、ここからは遠くなるが、足を向けてみるかな。

待て。余はちゃんと家を持つ身でありながら、なにゆえ、放浪生活を強いられねばならぬのだ。
わが家のそばに存在するであろう『敵』の正体も知らぬうちに、怯えて逃げ回るなど。
いや、逃げるというのは当たらないな。自己弁護をするつもりではないが、つまりはこういうことだ。
『敵』の正体が判らぬからこそ、危険を察知し、とりあえず退避したのだ。
このみじめな撤退から、逆転勝利をおさめるには、『敵』を見極めねばならぬ。

「…が諦めていないのですから、あなたも諦めてはなりません。勝利は、偶然の幸運ばかりを願う心の持ち主には寄ってこないもの。あなたは、まず自分の心の中で、勝利を思い描かねばなりませんわ」

なるほど、そのとおり。いいことを言うではないか。
それに、美しい声だ。穏やかで、聞くものの心に染み入るような。
神という物は否定しないが、世俗宗教は大嫌いだ。
どんな尊い理念を掲げていても、宗教は人をたやすく狂気に駆り立てる。己の狂気を、神の御心なぞといって、開き直った上に威張るから、嫌なのだ。

ケマルは、ちらりと市庁舎の壁にある、デジタル時計を見た。
現在、朝の七時。市庁舎だって、まだ開いていないこの時間帯、通勤する者もまばらな中で、ずいぶん熱心な布教者がいるものだ。
さてはて、だれかな、と思いつつ、噴水の前にある林子平像の脇のベンチにいる声の主を覗きみれば、いつだったか、アコと自分が、連続少年殺害事件の犯人を見たときにお世話になった、平塚八兵衛とかいう刑事がそこにいた。
もちろん、声の主は女であったから、平塚八兵衛のはずがない。
さらに首を伸ばせば、ちょうど県庁舎のほうに向かって、歩き去っていくワンピースの女のうしろ姿があった。

あれは、国分町で会った、黒髪の美女ではなかろうか?

刑事より美人。
追いかけようとするケマルに、八兵衛のほうが、気がついて、声をかけてきた。
「早いな。あんたは確か…トルコ人の…名前を失念した。すまない。顔は覚えているんだが」
気まずそうに言う大男に、ケマルは遠ざかりつつある美女のうしろ姿をちらりと見つつ、答えた。
「ムスタファ・ケマル。五橋在住で、なんでも屋をやっているのだ。余は君に名刺を与えたはずであるが?」
「そうだったか? あんたの顔、インパクトあるから、忘れそうにないんだがな」
言いながら、八兵衛はコートのポケットから手帳を取り出し、ぱらぱらとめくったあと、なにかの記述にぶつかったらしく、はいはい、と言いながら納得している。
そのあいだに、黒髪の美女はいなくなっていた。
「ずいぶん早起きだな。家は五橋だろう? マラソンでもしているのか?」
マラソンの割には、靴は革靴、寝起きなので、服もくしゃくしゃというケマルの姿を見て、八兵衛は、そうじゃないらしいな、と言った。
「同居人がいる、ということだったが、そいつと喧嘩でもして追い出されたのか?」
役人らしく、威張った口調だな、と思いつつ、ケマルは答えた。
「そういうわけではないのだが、事情があってだな。そういう、君も早いな」
「俺は、このあたりの張り込みをしているのさ」
「例の殺人鬼か。15件目の被害者が出たそうだな」
「いいや、17件に増えた」
ごくあっさりと、八兵衛は、悲惨な数字を口にしてのける。
「今日の朝5時ごろ、犬の散歩をしていた住人が、塾の帰りだったらしい少年ふたりが叢に倒れているのを見つけた。ちょうど家族から捜索願が出ていた。どうも、奴さんは、あたり構わずになったらしくてな、今度の被害者は、例の売春斡旋クラブとは縁がない、ごくごく普通の中学生だった」
「なんと、悲惨だな」

たいがいのトルコ人の例に漏れず、やはり子供好き、世話好きのケマルは、子供を失った両親のことを思い、大きく眉をひそめる。
対する八兵衛のほうは、これは職業柄ゆえか、淡々と話をつづけるのであった。

「仙台は、ながらく殺人事件なんぞと無縁の場所だった。全国的に見ても、これだけ大都市でありながら、仙台および東北近辺というのは、不思議とシリアルキラーが出没しない。北海道が、人口の割に大きな事件が起こりやすいのとくらべると、残虐な事件の発生は少ないんだ」
「そうだな。たしか、仙台というのは、大都市のわりには治安がいいと聞いていたが」
「なぜかといえば、東北人の気質によるものだろうな。東北人は、フラストレーションを溜めると、それを無差別に外に向けない。ひたすら内側に抱え込む。
ほかの土地で、同じ気質の人間に、同じ条件が揃ったら、無差別殺人に向かいそうなところを、東北人は外に攻撃を向けずに、自分自身に向ける。
つまり、自分を殺してすべてを終わらせてしまうのさ。東北は、全国でもずば抜けて自殺率が高い」
「自分を殺すか、人を殺すか、か。まあ、迷惑をかけない、という点では良しとすべきなのか」
「自殺はいけない。人殺しはもっといけないが。今回の犯人が、外国人と聞いて、捜査本部もほっとしている、というのが実はあるんだ。同じ町に生まれ育った人間ではなくてよかったな、と。村社会気質なんだがね」
「ふん、そんなものだろうか。言っておくが、一昨日から昨日にかけての余の行動は、きちんとアリバイがあるぞ」
ケマルが言うと、八兵衛は、からからと声をたてて笑った。
「同じ金髪の外国人でも、あんたじゃないだろう。あんたは、俺の経験から言って、人を陰惨に殺すことなど、一度も考えないタイプだな」
「誉められたのだろうが、どこかばかにしておらぬかね」
「ばかになんてしてない。すまないな、俺は思ったことをすぐに口に出してしまう性質でね。むかし、ある女性に正直に生きろと言われて、それを莫迦みたいに守り続けて、こうなのさ」
女性の言うことを真摯に受け止めることができるのは、器量の広い証しである。
好感をもちつつ、ケマルは尋ねた。
「その女性とやらは、教会のシスターかなにかか?」
ケマルが問うと、八兵衛は、笑みを浮かべながらも、目は怪訝そうにして、尋ねてきた。
「なんだって教会が出てくるんだ?」
「すまぬな、さきほど、神がどうとか話しているのが聞こえた。勧誘でないとしたら、君がクリスチャンなのかと思ったのだが」
「信者にはちがいないが、どの宗派にも属していない。信心を守るために、どこかの組織に入らなければならない、という理屈はおかしかろう。神はどこにでも存在するというのなら、祈ることも、どこでだって出来るはずだ」
「意外だな」
いかにもいかつい、そして警察という気難しい組織に属す八兵衛が、柔軟な発想の持ち主である、ということが意外であったし、キリスト教を信じている、というのも意外であった。
八兵衛は、ケマルの言葉を、後者だと受け取ったらしく、後ろ頭を掻きながら、言う。
「むかし、ちょっと莫迦をやっていた時期があったんだ。人に後ろ指さされることばかりしていて、それでも、自分が間違っているなんてことは、一度も思ったことはなかった。餓鬼だったんだな。そこで、ちょっと改心する機会があって、今に至っている、と」
「ふうむ、暴走族の総長でもやっていたのか」
「そんなところかな」
「その後、刑事か。ある意味、華麗な転身だが」
「華麗などころか。今日も今日とて、靴の裏をすり減らして、目撃証言の少ない犯人を追う日々さ」
「目撃証人が少ない、か」

15人目の被害者を、ケマルはその直前に見ている。
そのときは、被害者はやはり金髪の外国人シグルト・ウェルズングと一緒だったが、ケマルがアコとともに見た殺人犯は、おなじ金髪の外国人でも、顔がまるで違った。
シグルトとはまたちがう種類の美貌の、陰惨な影を纏った、不気味な男だった。それにしても、シグルトといい、あの男といい、かなり目立つはずなのに、目撃証言がない、というのもおかしな話である。
ケマルは、自分の依頼人たるメアリのために、八兵衛にシグルトのことを口にするのは控えていたが、シグルトと15人目が連れ立って歩いているところを見た者がいないのか、探りを入れてみることにした。

「15人目までは、君の言っていた売春斡旋組織に属している少年だったのかい?」
「そうだな。確認できた時点では。あいかわらず、この組織の正体がつかめない。15人目に関しては、犯行にあった日は、ちゃんと学校に行っているんだ。ほかの家出少年たちとは違って、彼は品行法正で通っていた。
犯行のあった日、クラスメイトに、用があるから駅にいく、といっていたらしい。だが、仙台駅の防犯カメラには、彼らしい姿は映っていない。彼はバス通学で、仙台駅には、用がなければ足を向けない」
「駅と行っても、市内には、地下鉄や仙山線、仙石線の駅もあるだろう」
「そう、どこの駅、とは言っていないんだ。いま、防犯カメラを一斉に当たっているところだが、あまりに膨大で、時間がかかりそうだよ」
匂当台駅から、国分町はもっとも近い。ここで少年は、シグルトと落ち合い、そしてあの路地の店で消えた? 
シグルトは、何の役割を果たしているのだろう? 
あの、見事なSFX(とケマルは信じていた)の一つ目巨人は、なにを意味している?
警察が関与している、会員制の秘密クラブがある、という噂。
もしかして、シグルトが消えた『アドニス』という名の店がそれなのか。事件が発展を見せないのは、ほかならぬ警察が、隠さねばならない情報を持っているからではないのか。

わけがわからなくなってきた。

ケマルは、引き際をよく知っている。
あれこれ考えたところで、いまはなにも答えが出ないと素早く判断すると、事件について考えるのをやめた。
まずは、今夜の自分の寝床の確保を優先させねば。
そして『敵』を探ることも。

「そうだ、あんた、便利屋だったな」
「そうだが」
「でもって、宿無しなんだろう?」
「なんだね。仕事でもくれるのか」
ケマルが胡散臭そうに言うと、意外にも八兵衛は、自分の思いつきに顔を輝かせ、頷いた。
「そのとおりだ。なあ、実は俺は、いま本部から外されていて、ちょっと動きが取れない状態にあるんだ。頼まれて欲しいことがあるんだが、俺と一緒に、張り込みを頼まれてはくれないか」
「張り込み?」
「張り込みというか、張り付きというか。実は、あんたたちが犯人を目撃するまでは、第一容疑者のひとりだった男がいてね、そいつの経営する店と、犯人に、なんらかの関わりがありそうなんだ。
今日、そいつが店を空けるんだが、俺が尾行に行っているあいだに、あんたが店を見張っていてほしい。店に、あんたの見た外国人が近づいてきたら、教えてほしいんだ」
「報酬は?」
また仙台ゴールデンポークスの球場割引券じゃなかろうな、とケマルが構えていると、八兵衛は言った。
「日当で一万」
なんたる好条件。
「乗った」
即決すると、八兵衛は、心の痞えが下りた、というように、笑みを浮かべてさらに言う。
「見張っていて欲しいのは、ここから近くにある、木町通りの『たんたかタン』という牛タン専門店だ。客のフリをしていなければならないから、ずっと食いっぱなしになるが、味は保証するよ」
どこかで聞いたことがある店の名だ、と思いつつ、ケマルは八兵衛から差し伸べられた手を握った。
商談は成立した。

このつづきは、「仙台ゴールデンポークスの章5」につづきます。

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