![]()
A
※このお話は「ずんだの章4」のつづきとなります。
ムスタファ・華丸は、アメリカ横町で林檎を買って、それから自分のマンションに戻るところであった。
強烈に生臭い仙台のアメリカ横町は、ファッションビルEビーンズの裏手の一区画にある。もちろん、上野のアメリカ横町とくらべると、規模もだいぶちいさいが、五橋周辺には、生鮮食品を買える大きなスーパーが手近にないため、夕方になると近所の主婦があつまってくるのである。
うしろでカレーの材料を買い求め、牛のばら肉の値切りをつづけるイスメトに、ケマルは言った。
「余はシシカバブが食したい」
イスメトは迷惑そうに顔をあげ、答える。
「わがままは止してくれ給え」
「シシカバブが食べたい。羊肉を思い切りほおばって、ラク酒でのどに流し込みたい!」
「仕事を完遂させるまでは、禁酒をするのではなかったのかい」
「余がいつそのような」
ことを言った、とつづけるより先に、イスメトはポケットより携帯電話を取り出すと、録音していたケマルの声を再生した。
それはトルコ語でこう言っていた。
『余は善きトルコ人として誓う。メアリ・サン−クレールからの依頼を達成するまでは、アルコールは一滴たりとも口にせぬ。チョコレートボンボンもだ!』
「それは、余のものまねの上手な誰かが仕組んだ罠だ」
「諦めたまえ。誓約書もとってあるのだよ」
しれっ、と言う親友の横顔を、ケマルは雄牛のような目で睨む。
「イスメト君、きみは最近、人が悪すぎるのではないか」
「気のせいだよ。それよりも、買い物がもう終わったのなら、先にマンションに帰っていてくれていいのだがね」
「む、きみは余を追い払おうとしているのだな。あいにくと、余はひねくれものなので、追い払われると逆に留まりたくなってくる。ちょっと奥で芋煮を食しているので、買い物が終わったなら、声をかけてくれたまえ」
「わかった。大人しく食べていてくれたまえよ。今日はもうくたくたで、トラブルは御免だよ」
むう、と唸りつつ、ケマルは八百屋を抜けて、横丁の奥で営業している、芋煮の店へむかった。
そこは昔から、市場の人々の胃袋を満たす場所となっており、ケマルはここへ来ると、まず1カップの芋煮(芋がたくさん入った豚汁だったりするが)を食してから、つづいて、コロッケ屋で本日のオススメコロッケを買って、食べながら帰路につく。
もくもくとカレーの材料を買い揃えていくイスメトの背中を見つつ、ケマルは、いつものイスメトだな、と思う。
イスメトが、わけのわからぬことを口走ったのは、錯乱していたからなのか?
「芋煮をくれ」
芋煮屋のおばさんは、インパクトの強い顔をした金髪のトルコ人をすっかり覚えており、愛想笑いを浮かべるでもなく、無表情で鍋から顔を上げると、ケマルの肩越しに、遠くを見た。
「もう一人の、イイ男は?」
「イスメトは後から来る。来たとしても、彼は芋煮を食べないぞ。豚肉が入っておるからな」
芋煮屋は、横丁の奥まったところにある。
店としてのちゃんとした構えはなく、仮のスペースに、鍋とコンロとカウンター代わりの折りたたみ式の長テーブルと、古ぼけた円い背もたれのない椅子がいくつかあるだけ。
長テーブルの上には、セロテープでくっつけた、手書きのメニュー表がある。
といっても、三種類だけ。
芋煮 並盛・中盛・大盛
単にカップの大きさがかわるだけである。
テーブルの端には小さなふるいポータブルテレビがあり、古いながらもなかなか鮮明な画像で、仙台ゴールデンポークスの野球中継を映していた。
「このあいだ、テレビで見たんだけれど、イスラム教徒っていうのは、豚肉を食べちゃいけないんじゃないの?」
「余はムスリムではないから、よいのだ。トルコはイスラム教圏でも有数の、政教分離に成功した近代国家なのだ」
「なんだかわからないけど、貧乏な国だっていうのは知っているけど。ほら、前回のワールドカップのときにいろいろ特集していたからね」
ケマルは、ここの女将が、いつも愛想がわるいのは、利府スタジアムで行われた、ワールドカップの日本VSトルコの結果を、いまだに根に持っているからだ、と想像した。
仙台人はおおむね、人は悪くないが、愛想がない。
四季がはっきりしており、水も美味く、交通手段もそこそこにある仙台市は、外国人にとって、なかなか住みやすい土地ではあるが、地域への溶け込みにくさは東京の比ではない。
仙台人は内気で、構造的にも村社会気質が抜けないため、そこに食い込むのには、かなりの時間と努力を要するのだ。
ただし、ひとたびコツをつかめば、彼らほど純朴で付き合いやすい日本人は、いないと思えるようになる。
「だれかと喧嘩でもしたの」
と、鍋をかき混ぜながら、さりげなくおばさんが尋ねてきた。
「よくわかるな」
「うちにも、アンタと同じ年くらいの息子がいるの。いまだに定職に就かないでフラフラしているけど、友だちだけはやたらと多い子でね、多賀城のほうに一人で暮らしているんだけれど、たまーに、そんな顔をして仙台に戻ってくるのよ。たいがい、だれかと喧嘩したときでさ」
「なるほど、母親の勘、恐るべしだな。じつは大当たりだ」
「でしょう?」
言いながら、おばさんは白いポリエステルのカップに、芋煮をてんこ盛りにしてケマルに渡した。
ケマルは、おばさんのすぐそばに置いてある、昔ながらのビニールの背もたれのない座椅子に腰かけた。
「このたび、めでたく職にありついた、という話はしただろうか?」
「たしか、そんな話をしていたっけね? あんたが、かにクリームコロッケを、買うかどうか迷っていた日だよ」
「そのとおり。余は小生意気なフランス娘に雇われて、ドイツ人の『B』という女を捜すことになった。
この話は奇妙なことに、『B』の夫であったはずのドイツ人シグルト・ウェルズングというのが、記憶の病にかかり、過去の記憶を脳内にとどめておくことができない、という障害を負っているために、妻である『B』のことが、なにもわからない、という状態なのだ。
とはいえ、仙台は、NYやイスタンブールとは違うからな。外国人社会も狭い。これは意外に早くカタがつくのではないか、と余は踏んでおったのだ」
ケマルはイスメトを伴って、意気揚々と、国際センターで聞きこみをはじめたが、在仙トルコ人のだれに聞いても、最近、夫と離婚した『B』という女に心当たりがない、という。
そも、シグルト・ウェルズングと一緒にいた女といえば、メアリ以外には覚えがない、というのだ。
別居を匂わせるような内容の手紙に署名されていた『B』であるが、それはファーストネームのBなのか、姓名のBなのか、それがわからない。
中には、ボヘミアやバイエルンのBではないか、愛称のBではないか、と言う者までいた。
そうして聞きこみをするたびに、これがメアリ・サン−クレールの依頼だと説明すると、ケマルが気味悪く思うほどに、だれもがメアリのことを口々に褒め称える。
彼女は『最後のロマンティックの申し子』であり、『フランスに咲いた清楚な白い花』だという。
清楚な花の割には色気がありすぎるが、とケマルは思ったが、メアリのことを語るひとびとの、妙に熱っぽい表情に、なにか病にも似た危うさを覚え、あえて反駁はしなかった。
困ったことに、イスメトさえも、メアリの話題になると、彼らと一緒にうなずく始末である。
「彼女はキルケのように、魔法でも使って在仙外国人すべてを虜にでもしたのではないか」
「魔女だというのかね? あんな美しい魔女ならば、きっと善い魔女にちがいない」
イスメトはたいがい、ケマルの言うことに、なにかひとつは反論をかえしてくる。
それが自分の役目だと思っているフシがあるが、そのときもそうであった。
ケマルは陶然とする、親友の顔を見て、言う。
「イスメト君」
「なんだね」
「きみは莫迦だ」
「聞きなれた言葉だが、この件に関しては、譲ることはできないよ」
「ほとほとあきれ果てた莫迦だ。きみ、いますぐ五橋へ帰って、寝ていたまえ」
国際センターでは『B』の情報は何もつかめなかった。
在仙外国人のコミュニティのうち、外国語教師のコミュニティとは、まだ話をしていなかったから、そのうちの、親しくしているドイツ人に連絡をとって、居酒屋もかねている牛タン屋で、待ち合わせをすることにした。
そこでもまた、メアリ万歳の話が出てくるのかなと、いまからうんざりしつつ、その鬱憤をイスメトにぶつけることで、ケマルは自分の冷静さを保っている。
だが、いつもは、ハイハイと右から左へ流してくれる貴重な親友は、メアリのことになると、やけに突っかかってくるのであった。
「彼女の実家はイングランドの高貴な古い家なのだそうだよ。親の取り決めで、フランス人の従弟との結婚が決まっているらしい。あんなに若いのに、もう未来が決められているのだ。可哀相だとは思わないか?
しかも相手の男というのが、活発な彼女ににつかわしくなく、なんとも病弱で気弱な男だというのだから、この世は無常だ」
「ふん、ならば、その婚約者とやらに決闘でも申し込んで、メアリを堂々と我が物にすればよいだろう」
「それは無理だろう。その男は、フランスでも有数の大貴族の跡取り息子というのだからね。
下手に手を出したら、命が危うい。だから、みな指をくわえて、彼女をただ見ているだけしかできないのさ」
「情けない」
「するとムスタファ君、きみは、エウロペを攫ったゼウスのごとく、彼女をどこかへ連れ去る自信があるのかね」
「それは前提として、彼女に惚れている、という事実がなければ、成り立たない仮定ではないかね。答えは否だ。彼女は恐ろしい。
なぜだろう、たしかに君たちがいうように、薔薇のように可憐だ。
だが、彼女には薔薇に潜む棘なんぞより、むしろさそりの針のような凶悪さが潜んでいるような気がするのだよ」
これは強烈な反論がくるだろうな、と構えていたケマルであるが、イスメトから返ってきたのは、意外な言葉であった。
「本当にそう思うのかね、ムスタファ君。好き、嫌いの感情抜きに、本当に?」
「そうなのだが」
と、ケマルは、妙に深刻な顔をしているイスメトを振り返る。
老若男女から好かれる甘い顔立ちをした金髪の青年は、いつもの穏やかな風貌を消して、深刻な表情を浮かべていた。
その顔には、メアリの話題を口にするたびに浮かべていた、憧憬や熱はすっかりなくなっている。
「いいかね、いまから僕のいうことを、頭がおかしくなった、などと思わずに聞いて欲しい。
君の勘は当たるのだ。いや、君の直感は、真実を見通すという点において、おそらく世界の番人すら凌ぐ力を持っているだろう。
その君がそこまでいうのだ。彼女はさそりの針を持つ女にちがいない」
「おいおい、なんなのだね、急に」
誉め殺し、ということばがケマルの脳裏をよぎった。
イスメトめ、高等技術を身につけたな。
「いいや、つづけさせてもらうよ。だからこそ、彼女はきみに、この仕事を依頼したのだ。目的は、おそらく君を味方に引き入れるためだ。
僕はほんとうに莫迦だったよ、ムスタファ君。もうすこしで我を忘れて、君の背中を無理に押して、君の名声を地に落とすところであった。愚かな僕を、許してくれたまえ」
「許せというなら、こころよく許すが、しかし、なにをだね」
「メアリに関する、僕の態度をだよ。
ムスタファ君、あらためて言わせていただきたい。君はほんとうにすごい人だ。ケマル…『完全』という名は、君に関しては伊達ではない。
これからも、僕は君の力でありつづけたいと思う。それをぜひ、許してくれたまえ」
「それも、こころよく許すが、ほんとうにいったいなんなのだね。今週は、歳末おともだち週間かなにかなのか?」
照れもあるのだが、イスメトの急な態度の変貌ぶりの理由がわからないために、ケマルは混ぜっ返して、話をそらすことにした。
イスメトは、ケマルが軍内で一匹狼を張っているときから、薫風のようにやわらかな態度でもって、ひとり、ケマルに接してきた唯一の人物だ。
トルコ人の友情は往々にして厚い…というより暑苦しいものではある。イスメトが例に漏れず、ここぞとばかりに友情を訴えてくるのも、感激屋のおおいトルコ人のなかではめずらしくないが、穏やかであるがゆえに、さほど感情の起伏のみられないイスメトの、急な変わりようは、ケマルの理解を超えていた。
まあ、君なんか嫌いだ、といわれるよりは、ずっといいが。
うむ? そういえば、余はトルコの軍隊にいたのだったかな?
どうして日本にいるのであろう。
たしか、重要な仕事をするためではなかったか…
「ムスタファ君、噂をすれば影だよ」
イスメトが声をひそめて、虎屋横丁の入り口で足を止める。
国際センターから駅の方角へむかって歩いていき、途中で左手に曲がって、一番町通りに二人はやってきていた。
一番町から駅に向かって右手には、東北最大の歓楽街・国分町がひろがっており、件の外国語教師とは、この国分町の一角にある店で待ち合わせをすることになっていた。
三越やフォーラスなどのファッションビルが並び、その建物の合間に、地元の名店・専門店がずらりと並ぶ一番町通りは、三越の客層に合わせた渋めの商店が多いため、行きかう人の年齢層も高めである。
中には激安店などもあるのだが、広瀬通を挟んで、なおつづく一番町通りのアーケードから比べると、若者の足は伸びていない様子である。
建物も古いため、どうしても三越周辺の商店街は、枯れた印象がつよい。
時刻はすでに四時に入ろうとしていたが、学生の姿はあまりない。
そのなかで、イスメトが示す方向を見ると、見るからに小学生らしい少年が、外国人と話をしている。
メアリが連れていたゲルマン美青年・シグルト・ウェルズングであった。
柄の何もないセーターに、ストレートジーンズ、特徴のないベージュのコート、という出で立ちであるが、それがかえって、豪奢な金髪と、鍛え上げられた見事な体躯を引き立てている。
シグルトは、少年に屈むようにして言葉をかけており、少年は、シグルトに引き込まれるようにして絶え間なく言葉をつづけている。
一見すると、『国際交流』という文字がぴったりな、微笑ましい光景であったが、シグルトがどのような境遇にいるかを知っているケマルには、じつに奇妙な光景に映った。
ふと、少年連続殺人犯の事情聴取のさい、刑事から教わった、少年売春斡旋組織のことを思い出す。
いや…
突飛に過ぎる連想だ。
まさか、と思いつつ通り過ぎようとしたケマルであるが、シグルトは、少年を抱えるようにして、国分町の奥へと歩いていく。
「ムスタファ君、彼を追わなくていいのかい」
「あのゲルマン人は、稚児趣味を持っているのかもしれん。見たところ、無理強いしている様子でもない。余は、野暮は好かぬ」
「そうだとしても、君と隣のアコが見た、連続少年殺人犯と、ヤツは特長が似ていないかい?」
波打つ金髪、白人、背がひょろりと長い。ふむ、たしかに。
「残念だがね、イスメト君。余とアコが見たのは、あいつではない。金髪で白人なのはちがいないが…」
余が見た男は、蛇のような不気味な目をしていたよ、と答えようとしたケマルであるが、視界に、少年が媚びるような笑みを浮かべ、自分を抱えるシグルトの腰に、自分の腕を親しげに絡めるのが見えた。
「追おう」
ケマルが言うと、イスメトも素直にあとからついてきた。
国分町には約3000の店がひしめいており、そこには高級料亭から、ソープランドまでが集まっている。
札幌のすすきのに続く北の歓楽街であり、夜ともなると、黒服の男たち、華やかな女たちで往来が埋まる。
物騒なこともまちがいなく、暴力団抗争で殺人事件が起こったり、ときに発砲事件すらあったりするのは、どこの歓楽街もおなじである。
ケマルは大の酒好きであるが、自分の喧嘩っ早い気性を知っていたし、いらざるトラブルに巻き込まれることは好まなかったので、国分町には極力、足を伸ばさないでいた。
開店準備があるからだろうか。きつい化粧に、華やかなスーツを身にまとった女たちが、足早に行き過ぎる。
高級外車に乗る黒服の男が、花屋の前で携帯電話をかけている。
一方で、なんの用事があってこのあたりをうろついているのか、よくわからない若者たちが、手持ち無沙汰にしている姿もちらほらある。
至極まっとうな一番町から、わずかも行かないうちに、あっという間に夜の街に入ってしまった。
シグルトと少年は、いったい何処へ向かっているのか。
けばけばしいネオンが花札のように連なるビルをいくつも通り過ぎ、彼らは、やがて国分町のさらに奥、もっとも過激で、いかがわしい店の集中する区画へと入っていく。
シグルトの記憶の話が本当ならば、尾行されていると気づいても、こちらが何者かはわからないはずだ。
シグルトと少年は、旧来の友だちのように、親しげに言葉をかわしつづけている。
国際センターで見たときの、ぼんやりした様子とは、まるで別人のようであった。
やがて二人は、暗い路地へと入っていった。
まさに人が一人、ようやく、くぐれるかという狭さであり、しかも路地の上は、外から見られないように、低い屋根に覆われている。
入り口は小汚く、ポルノまがいのチラシがべたべたと貼り付けられているのだが、中に入ると、一転、それぞれの構えが、実に洒脱な小料理屋やバーなどが並ぶ界隈であった。
だが、そのあたりは不思議とひっそりしており、開店時間が近いというのに、活気が感じられない。
「ムスタファ君、このあたりは、会員制のクラブが多いようだね」
小声でイスメトが話しかけてくる。そうだろう、とケマルも肯いた。
「おそらく、一見さんお断りの店ばかりなのだろうな。
常連客が入ってきたら、その時点で、看板もしまって、鍵をかけて、店を密室にするのだ。なにかしらの後ろめたいところのある店、ということだろう」
「暴力バーとか?」
「あるいは、未成年を働かせている、とか」
ぞっとする話だ。
トルコ人は非常に子供を大切にする。それは自分の子であろうと、他人の子であろうと関係ない。
子供は国の宝だと、だれもが心から思っている。
だから、子供を欲の対象にするような人間は、鬼畜外道というほかはない。
理解の範疇外の悪魔だ。生きている価値すらない奴らだ、と真剣に思う。
ケマルはたいそうな日本びいきであるが、残念に思うのは、この国は幼児ポルノの野放し天国であり、そのことが海外から非難の対象にされているというのに、一般国民は、そのことを知らなさ過ぎる、ということだ。
本屋のアダルトコーナーには、巧みに法をかいくぐった書籍が堂々と売られているし、アニメやゲームといった市場でも、日本は最高水準の文化を誇りながらも、その裏では、やはり小児愛好者向けのきわどい作品が普通に売られている。
そうしてさらに、この国の幼児の失踪事件は年々増加しているが、そのほとんどが解決されていないまま、という現実。
攫われた子供たちが、こういった闇に閉じ込められているとしたら…
「店に入るようだ」
シグルトと少年は、『ガニメデ』と書かれた看板の出ている店の中へと入っていく。
その露骨な店名に、ケマルは眉をひそめるどころか、あきれてしまった。
ガニメデは、ギリシャ神話の最高神・ゼウスに見初められ、神々に酒を注ぐ係をつとめさせるために攫った美少年の名前だ。
店の装飾も、神話を意識したのか、地中海ふうに統一されている。
「さて、困ったね。入るべきか、入らざるべきか」
「入ったら、オリュンポスかもしれぬ。イスメト君、試してみるか」
「冗談だろう。むしろ煉獄ではないかね。僕は男に興味はない」
興味云々以前に、金がないことが、敷居をさらに跨がせない理由である。
シグルトが稚児趣味の持ち主である、ということが分かった時点で、今日は引き下がるべきか? 待ち合わせの時間が迫っているわけだし…
と、踵を返そうとしたとき、店のほうから、悲鳴が聞こえた。
こうなると、ケマルにためらいはない。
真っ白な壁に、エーゲ海の青のように深い色をたたえる硝子の破片をはめ込み、さらにライトアップさせている幻想的な構えの店の、葡萄の装飾のほどこされた、重々しい木の扉を乱暴に開く。
すると、目の前に飛び込んできたのは…
風が吹きつけてきた。
なんとも生臭い、生ゴミ専用のポリバケツに頭を突っ込んだような異臭だ。
思わずケマルは口と鼻をふさぎ、むせ返る。
「ムスタファ君!」
イスメトの裏返った声が聞こえたが、ケマルには、イスメトがなにをそんなに驚いているのかわからなかった。
イスメトは、一瞬ひるんで、小路の入り口に足を向けかけるが、ケマルが、むせ返り、なみだ目になりながらも、店の入り口から動かないので、なにか重大な決意をするかのような顔をして、ケマルの背後にもどってきた。
なんだか大げさなヤツだな、いつもはこんなふうではないのだが、と怪訝に思いつつ、ケマルはふたたび部屋に目を戻した。
異臭は室内から強烈に漂いつづけていた。一ヶ月くらい熟成させた生ゴミが、店中にあるのかと思えば、そうではない。
しかし、たしかに、部屋の中は刺激的な光景であった。
外観は地中海のくせして、この内装はなんだ?
……北極?
ちょうど30平米ほどの部屋は、凍てついた氷原となっていた。
氷柱が店の天井にいくつも生えており、ソファやテーブル、なんとヒーターまでもが凍り付いている。
そして、中にいるのはクマでもペンギンでもなく、そうしてシグルトでもなく、巨大な青白い肌をもつ、一つ目の男であった。
隻眼なのではなく、身体に見合わぬ小さな頭の真ん中に、ぽつんと大きな目が鎮座ましましている。それもホログラムなのか、向こうが透けて見える。異臭はこの男から放たれていた。
「…失礼、シグルト・ウェルズング氏は?」
思わず尋ねたケマルに対し、一つ目の男は、わからない、というように首を傾げて見せた。
日本の技術というのは、なんとすごいものだろう。こんな精巧なホログラムを、目の前で見ることができるとは。しかし、この臭いは余計だぞ。
「ムスタファ君、あぶない! そいつはアストラルだ!」
「なんだって?」
このホログラムを作り出す機械はアストラル、というのか?
一つ目の男は、野太い腕を、ぶん、と振り上げて、ケマルに殴りかかってくる。たいしたアトラクションだ、と強がりを言いつつ、ケマルは運動神経のよいところを見せて、拳を避けた。
風圧が髪を揺らす。ホログラムではないようだ。
まさか、実体なのか? よくできたSFX?
「イスメト君! アストラルが、なんだって? そいつは、メイキャップアーティストかなんかか?」
ぱりん、と薄い硝子の割れたような音がして、氷柱が何本か風圧で折れて、地面に突き刺さった。
革靴を引いて、さらに青白い透明な一つ目男を見ると、ふたたびケマルに拳を振り上げるところであった。
今度は屈んでそれを避けると、男は苛立ち、両手を組んで、それを大きく振りかぶった。
ぐい、と後方に引っ張られて、わずかに振り向くと、イスメトが、ケマルを店の外に出そうとしているのであった。拳が振り下ろされる直前に、ケマルは店の外に引っ張り出された。
とたん、12月の空気が、それでも甘く、暖かく感じられた。
「結界が張ってあるはずだよ。僕らを通さないようにするために、あいつを呼び出したのだ。いくらなんでも、こんな街中で、あんな派手なアストラルを暴れさせるわけがない」
と、イスメトが、わけのわからぬことを言う。
ともかく、この一つ目男が実体だ、というのはわかったが、超人ハルクのようなガタイをした、この男は何者なのだ? アストラル、って、なんだ?
乱れた前髪を鬱陶しく思いつつ、ケマルは、ゆっくりと店の外にでようとする一つ目の大男を見る。
とっさにホログラム、などと愉快な推理をしていたから気づかなかったが、巨人はおそろしく醜怪であった。
一つ目という異形だから、というのではない。頭部の形はジャガイモのようにボコボコで、玉蜀黍の房のような髪は、不潔に濡れている。目も汚れていて、見るからに汚臭の元になりそうだ。
身体を腰巻のようなもので、とりあえず隠してはいるものの、それが取れたところで、この一つ目は気にしないだろう、ということが予想された。その表情には、粗暴さ以外の、ほかのどんな感情も読み取れない。気の毒なほど醜い生き物であった。
男は、狼のような唸り声をあげながら、扉をくぐろうとする。
しかし、扉は、大男には、あまりに小さかった。
不思議の国のアリスが、うさぎの家にとじこめられてしまうエピソードを彷彿とさせる。
「ほら、やっぱり出られないのだよ」
イスメトは安堵するように言う。
一つ目男は、唸りながら、目の前にあるオーク材の葡萄の彫刻のほどこされた扉を邪魔そうに何度か押し出した。
ちょうど梁の部分に、一つ目の、目の部分がある状態だ。
イスメトは、ケマルを後ろから支えるような格好でいたが、やがて大男が、いらだたしげに、梁をノックするように、無造作に拳で叩き壊そうとしているのを見て、蒼白となり、声を震わせた。
「だめだ、あいつら、ルールを護らないつもりだ!」
「ルール? なんだね、ルールとは?」
「説明している暇はない。逃げよう!」
言うと、イスメトは、ケマルの腕を強引に取って、小路の入り口へと駆ける。ケマルはといえば、いまだに現状が把握できずに、大男と慌てるイスメトを交互に見る。
どおん、どおおん、と一つ目男が梁を叩き壊す、不気味な音が小路を震わせている。
それなのに、小路は、あいかわらずの静寂に包まれている。
腕時計を見ると、すでに17時も近くなっているというのに、この界隈で、この静けさは異様だ。開店している店だって、あるはずだというのに。
「イスメト君、いったい、あれは何者なのだ?」
走りながら、ケマルはイスメトに尋ねる。イスメトはなにか重要なことを知っていて、それを隠している。誇り高いケマルには、その状況自体が受け入れることができない。
引かれた腕を、乱暴に振り払い、小路に出ようとする手前で、足を止めた。
「どうしたんだ?」
おどろいて振り返るイスメトに、ケマルはもう一度たずねた。
「あれは、何者だ? 君は余に、なにを隠している?」
「五橋に帰ったら、ちゃんと言うよ。いいかい、あいつは、おそらくシグルト・ウェルズングが召還したアストラルだ。レティクル・クィーンは、アトラ・ハシースと同様に霊力を源にして動く。それゆえに、彼らはきみに攻撃をすることができないので、代わりとしてアストラルを召還した。しかも、やつめ、霜の巨人を呼び出したのだ」
「君の言うことは、さっぱりわからない」
「わからなくていいのだ。さあ、早くここを出よう! さすがに表通りでは、ヤツは攻撃を仕掛けてはこないだろう…!」
と、言いかけて、イスメトは言葉を詰まらせた。
小路のあちらこちらが、ゆっくりと氷に覆われているのだ。
天井から壁、あちこちの店の扉、看板まで。一気に気温が下がり、さすがのケマルもぶるり、と震えると、やがて、氷を震わせるようにして、ずしん、ずしんと重々しい足音が近づいてきた。
天井の照明が、凍り付いてしまったために、いつにも増して、淡い。
そして、その薄明かりの下に、一つ目男の不気味なシルエットが浮かび上がる。
仙台の飲み屋街に一つ目男。なんというシュールな光景か。
原理はよくわからないが、あの一つ目男は、周囲の物を無条件に凍らせてしまう力を持っているらしい。
ケマルは勇敢ではあるが、向こう見ずではない。
これは敵わぬと見ると、イスメトと小路を出ようとしたが、今度はイスメトが足を止めており、その背中にちょうどぶつかる形となってしまった。
「どうしたのだ?」
肩越しに、イスメトの前にあるものを見ると、そこに、店に入ったはずの、シグルト・ウェルズングが立っていた。
シグルトは、相変わらず、霞のかかったようなぼんやりとした表情をして、ケマルに問いかける。
「おまえたちは、何者なのだろう?」
このあいだ、会っただろう、という野暮は言わないことにして、ケマルは答えた。
「だれでもよかろう。悲鳴が聞こえたから、飛び込んだまでのこと。後ろにいるヤツが見えないのか? そこをどいてくれ!」
「そうはいかない」
「なに?」
気づくと、シグルトは、片手に黒い大剣を持っていた。不気味な紫色の電光が、ぱちぱちと絶え間なく刀身にまとわりついている。ケマルはその剣を見たとたん、ぞおっと背筋を凍らせた。一つ目男と相対したときさえ、こんなに不気味に思わなかった。
この剣は、危ない。
もちろん、刃だから危ないのはわかっているが、斬りつけられたら痛い、という常識以上に、なにか不気味で不安な予感が、その黒い大剣から感じられる。
シグルトの、仮面のように端正な顔が、不意に翳った。
「ほんとうは、こんなことはしたくないのだ。だけど、そうしないと、正義が守られない」
「正義だと?」
なにをかいわんや、と思いつつ、ケマルはシグルトと、背後に迫ってくる、異臭を放つ氷の巨人を交互に見た。
「正義のために死んでくれ」
そう言って、シグルトは、ケマルの高い鼻梁の先に、剣先を付きつける。
ケマルにかざしたシグルトの形相は、まさに巨人すらたじろがせる、狡猾かつ残忍なものであった。これで正義が聞いてあきれる。
醜悪な表情であった。しかしケマルは誇り高い男なので、内心では大汗をかきつつも、この傲岸不遜なドイツ人の蒼い瞳を傲然と見返して、言い放った。
「そのような武器で余を脅しても無駄だ。余がどけと行ったなら、どくがいい!」
背後でイスメトがうろたえる。
「ム、ムスタファ君! きみ、平気なのか?」
「何を言っている、いまさら、剣で脅されたくらいで、怯える余ではない。それより情けないぞ、イスメト君。イノニュで君の示した勇気を思い出せ!」
といいつつも、ケマルは滝のように汗を流していた。イスメトの顔はさらに蒼白である。
「君が目の前にしているのは、ギリシャ兵なんかじゃない!」
「そうだ。ドイツ人だな」
どすん、どすんと、鈍い足音が背後に近づいている。靴がぱきぱきと白く凍りはじめた。息をすることすらいとわしくなるほどの異臭が近づいてきた。震えがひどくなってきたのは、寒さのせいだけではあるまい。
眼前に物騒なドイツ人、背後に一つ目の大男。
まさに前門の虎、後門の狼である。
危機に陥ると、かえって度胸が据わって、気が強くなるのがケマルという人物である。
眦をつよくすると、ケマルはあらためてシグルトに向き直った。
「さて、我らをここまで混乱させたのだから、君の力は認めよう。だが、どけ!」
「…貴様!」
剣が、一瞬つよい光を放ったように見えた。
「まあ、なにをしてらっしゃいますの?」
あきれるほどに、呑気なやわらかな声がした。
小路の入り口に、豊かな黒髪をマシュマロカットにしたスラブ系の女性が、胸を両手で重ねるようにして、気遣わしげにこちらを見ているのであった。その大きな瞳と、マネキンのような愛らしい顔立ちに、自身の危機にもかかわらず、ケマルの顔がゆるむ。
シグルトは、さっと表情を変えて、手にした剣を、手品のように引っ込めた。そうして、苛立たしそうに女性に尋ねる。
「なにか用か?」
気づくと、背後にいた大男も気配が消えている。
気を大きくしたケマルは、ここぞとばかり、道を塞いでいたシグルトを押しのけた。
「女性に対して、そんな口の聞き方はないだろう。いえいえ、たいしたことではないのですよ。失礼だが、どちらに行かれるのですか」
と、これはフランス語でケマルは問いかけた。とりあえず、国籍不明者を見たら、フランス語で話しかけるのが無難だ。英語はがさつであるし、ケマルの個人的感情として、イギリスが好きではないからだ。
「道に迷ったようですの。よかった、日本の方には道を聞きづらくって。あの、『たんたかタン』というお店はご存知かしら?」
「たんたか…いや、あいにくと。その店に御用ならば、共に探して差し上げましょう。余の携帯はGPS付きですので」
黒髪の美女は、にこやかでありつつも、毅然と言った。
「その必要はありませんわ。ご親切にありがとう。それでは、失礼いたしますわ」
薔薇の花のように微笑む女性に対し、いつもは引っ込み思案なイスメトが、急に前に出てきた。
「いやいやいや! この時間の女性の一人歩きは危ない。僕らも同行しようじゃないか、なあ、ムスタファ君。是非そうしよう!」
言いながら、イスメトはバチバチと目配せをしてくる。女性をつかって、この場から去ろう、というのだ。女を盾にするのは、自身のポリシーに著しく反するが、この場合は仕方なかろう。
「せめてアーケードまでお送りしましょう。それでは、さらば、シグルト・ウェルズング君!」
シグルトがなにか言うかと思ったが、意外なことに、シグルトは冷たい眼差しこそ向けてくるが、 腕を組んだまま、じっとしている。
あの店の中に入れないことが、シグルトの役目だったのだろうか。
シグルトに同行した少年は、どうなっただろうか。
それを思うと、ケマルは己の非力さに苛立ったが、理性の届かない心の奥のほうから、いまはだめだ、とささやく声がある。
それを察しているかのように、イスメトがつぶやいた。
「いまはだめだ。武器をそろえなければ」
「ふーん」
と、芋煮屋のおばさんは言った。
気のない返事に、ケマルはがっかりしつつ、口をとがらせる。
「聞いていたのかね」
「聞いていたよ。一つ目のお化けが出てくる前までは」
「余のホラではない、事実なのだぞ。まあ、たしかに信じがたい物語ではある。余だって、いまこうして話しているというのに、どこかで目の前でみたことを信用しておらぬからな。あれは、トリックであったのでは、とか」
「でも、国分町に、会員制の秘密クラブがある、っていう噂は前からあるけれどねぇ」
「本当か?」
おばさんは、重要情報を、大鍋をかきまぜながら、天気の話題を口にするようにして言う。
「かなり不法なお店なんだけれども、警察幹部が主なお客で、それで営業ができている、っていう噂よ。これも噂なんだけれどね、仙台港でむかし、車ごと海に飛び込んだ一家がいたんだけれども、心中だってことで片付いたらしいんだけれど、じつは、秘密クラブのことを調べていた記者の家族だったって」
「ふむ…恐ろしい話だな。警察を抱き込んで営業している秘密クラブ、か」
ちょうどそのとき、買い物を終えたイスメトが、芋煮屋へやってきた。
イスメトの買い物が長いのは、単にたくさん買っているからではなく、横丁のおばさんたちに捕まって、いろいろとからかわれているからである。
二つぶら提げている買い物袋のうち、片方は、おばさんたちの好意で、タダでもらってきたものだ。
さあて、そろそろ帰ろうか、と腰を浮かせかけたとき、イスメトが、さっと顔色を変えた。
イスメトは、カウンター代わりの長椅子の上にある、ちいさなテレビ画面を見ていた。
五時半からのニュースがはじまっており、そこには
『仙台でまた少年が。連続殺人、15件目』
とあった。
そして、被害者の少年として、映し出された少年の白黒写真を見て、ケマルも愕然とする。
シグルトと連れ立って歩いていた、あの少年であった。
このつづきは、「ゆべしの章5」につづきます。