春のなごりに




わたしはいつの間にか、またしゃがみこんでいたらしい。
手にはなにもなく、ただ足元に、母の綴ったノートがあった。
ノートはずっとわたしの部屋の、鍵つきの机の引き出しに隠してあったのに、どうしてここにあるのだろう。
けれど、そのときは、そんなことをふしぎに思う余裕はなく、ただぼんやりと、しゃがみこんでいた。

なぜだかひどく心地がいい場所だ。
暗闇のなかでも光のなかでもない、生暖かくて、どろりとした質感のある場所。
水のなかに浮いているような心地がしているのに、けれど皮膚に触れる感覚に不快さはない。

ノートを開いて見る気にはなれなかった。
なぜだか、わたしは知っている。
このノートには、もう何も書かれていない。
もともと白紙のものだということを。

十四年前、なぜ母は巫女役の親戚の少女をだまして、旧社殿の合鍵をつくったのか。
十四年前から、坂戸山の裏道は、鍵つきの門で閉鎖された。なぜか。
防空壕のまえに立っていたわたしを見て、なぜみんな顔色を変えていたのか。
理解者がなくて、孤独に苦しんでいたはずの女性の、写真に残る、不釣合いなほどの明るい笑顔。
田舎の町では目立ちすぎるとわかっていただろうに、原色の服を着てあらわれた女性。
明るくて、華やかで、だれにも愛想がよく、けれど、軽薄なくせに一方では計算高く、玉の輿に乗っておきながら、わずか五年で結婚生活に飽きて、夫と娘を捨てて町を出た女。

ほんとうは、わたしは知っていた。
母は男といっしょに町を出た。
ずっと前から不倫をしていて、旧社殿と防空壕を逢う場所に決めていたのだ。
それを祭りの日、宮司に見咎められて、町にいられなくなって逃げ出したのが真実。
つねづね町に対して退屈だとこぼし、結婚が失敗だったとくりかえしていた女。
わがままな自由を求めながら、ことが露見すると、戦うこともせずに、さっさとすべての責任を放棄して逃げた。
阿部が言った、わたしによく似た、自分勝手な女。

社殿のなかで、ノートを見つけたときはうれしかった。
いままで聞き知っていた母とは別人のような『理想の母』がそこにいたからだ。
わたしが心を寄せれば寄せるほどに、ノートの中の母は、わたしに近しいことばを吐露してくれた。
けれど、現実に立ち返れば、ノートの女とはまったく違う母を容易に見つけることができた。
『だれかが入り込んでいたずらをするから』。つまりは、防空壕や旧社殿でおこなわれた不倫のために、裏道が閉されたという隠れた理由もそうだし、あまりにノートで心情を綴っていた女と印象が一致しない、屈託のない少女のようにすら見える笑顔を浮かべる写真の女の姿、そして、多くのひとから、ほぼぶれることなく語られる『母』の姿。

はじめて町を出たいと思ったとき、とても罪悪感に悩まされた。
あの女の娘だから、いつかきっと町を出て行く。
そう影でいわれて育った。まさに、そのことばどおりになってしまうことが怖かった。
けれど、わたしには相談できる人がだれもいなくて、なにがよくて、なにがわるいのか、自分でもよくわからなくなっていた。
高校進学で町を出てはならないと突きつけられたとき、ここにはいない母にその責任をもって行くのがずるいように思われたので、わたしは町のすべてを恨むことにして、そして母も同じ気持ちであったろうと想像した。

ノートの母は、わたしの映し鏡だった。
わたしのすべての願望を背負って、先に町を出ることができた女が、文字のなかに存在していた。
ここはどこだろう。
祭りの途中じゃなかっただろうか。
でも、どうでもいい。
最初から、祭りが終わったら、町を出るつもりだった。

「で、結局ここにきちゃった、ってわけ」

突然ひびいた生の声におどろいて顔をあげると、さらにおどろいたことに、いったいどういう経緯でそうなったのか、まるで七夕の織姫のような格好をした阿部が立っていた。
立っていた、と言っても、感覚がおかしい。
目のまえにいるのか、ずっと遠くにいるのかがわからない。
そも、この空間に、広さが存在していないのだ。
わたしと阿部のほかに、形のあるものがない。
ノートも、いつのまにか消えていた。

阿部は、さらさらと衣擦れの音をさせて、わたしのところへやってくる。
近所の手芸店の布で器用につくった衣裳などとは格がちがう。
その衣裳は、素人のわたしが見ても、とんでもなく高価なものだろうと見当がつくほど、贅を尽くした豪華なものであった。
巫女のためのパレードに参加しそうなキャラではないのに、どうしたのだろうと呆気にとられていると、阿部はじろりと、わたしを上から下まで舐めるようにしてながめて、言った。
「二週間のあいだに、ほとんど抜け殻にされたって感じね。あとはあんたの身体をこっちへひっぱるために、適当な餌を作ればよかったってわけか。まんまと乗ったわね。呆れたわよ」
わけのわからないことを言いながら、阿部は、衣裳が台無しになることに、袖からたばこを取り出して、いつものように、白い煙を吐き出して、すぱすぱ吸い始めた。
「なにを言ってるんだ、この女、って顔をしているわね」
素直にわたしはうなずいた。ついでにたずねた。
「なにをしているの」
「なにって、仕事よ。これでたぶん大詰め。あんたとこうして顔をあわせるのも、最後になるでしょうから、律儀にあいさつにきたのよ。感謝してほしいわね」
阿部は、わたしのサボリを見逃していたから、責任をとらされたのだろうか。
「転任するの」
謝ろうとしたわたしの気配を察したか、阿部は、ぷい、と顔をそむけて、素っ気なくこたえた。
「そんなとこ。ところであんた、いま自分がどこにいるか、わかってる?」
「旧社殿のなか」
「ハズレ。いきなり結論から言うけど、あんた、このままここにいたら、死ぬわよ」

死ぬという、小学生の極論のようなことばに、わたしは呆れてことばを失った。
しかし、阿部は冗談を言っているのではないらしい。
闇のなかにいるのか、光のなかにいるのか、無色のなかにいるのか、色彩の洪水のなかにいるのか、それすらも区別のつかない奇妙な居心地のよい空間のなかで、わたしは膝を組んだまま、言った。
「べつに、それでもいいけど」
「ああ、そう。それを聞きにきたのよね。あんたが死にたくないって言ったら、助けるつもりだったけど、死にたいって言ったら、放って置こうって」
「もしそうなら、君に加勢はしないよ」

もうひとつ声がして、いつのまにか、運転手が阿部のうしろに立っていた。
この運転手も、付き合いのよいことに、時代がかった衣裳をまとっているのだが、阿部に対するものなのか、その衣裳も、立派なものである。
うちの床の間に飾ってある掛け軸の、孔子像が着ているような中国の衣裳だ。
その格好では、車の運転はできないだろうなと思いながら、わたしは思わずたずねていた。
「あなたたち、何者なの?」
「神さまだよ。仕事で、この土地にある昔の神様の忘れものを壊しに来たんだ」
これまた阿部にも勝るあっさり加減で、運転手は言った。
だが、その運転手を、邪魔そうに見やって、阿部は言う。
「だったら、後光を背負ってくるとか、もっとありがたみのある登場の仕方をしなさいよ。
フツーにひょっこり出てきて、説得力もなにもありゃしない。見なさいよ、この子、信用してないわよ」
阿部に言われて、『自称・神』の運転手は不本意そうに顔をしかめた。
「話の展開がはやすぎて、演出を考える暇がなかったのだ」
「あんまり時間がないのも事実でしょう。ここは只人が長くいると、マジで身体が溶けるわよ。
で、どうするの。バトンタッチで、説得の天才、あんたがこの子を外に連れ戻すの?」
「天岩戸の神話にならって、表でストリップしたほうが楽しかったかな」
「あんたみたいにひょろっとした男の裸を見て、だれが喜ぶってのよ。
無駄は嫌いよ。テキパキいきましょう。
益田宮子、どこでもいいから町を出たいなんて思うから、あんたはここに来ちゃったのよ。
あんた、母親のことを思い出したんでしょう。それでも、母親に会いたいなんて本気でそう思っているの?」
いままで阿部に母のことを話したことがなかったのに、どうして知っているのかという疑問は湧かなかった。
なぜか、わたしは、彼女はなんでもお見通しなのだとわかっていた。
「お母さんに会いたいの! さっき祭に来ていたのは、お母さんでしょう?」
母のことを思い出すとつらかった。
つい涙をこぼしながら言うと、しかし阿部は冷めた目のまま、たばこの煙を大きく吐いて、言う。
「ちがうわよ。あんたの記憶にあった写真の『益田由香利』を、ここの根性悪のご神宝がイメージを盗み取って、幻を見せていただけ。
あんたを自分の胎内にとりこんで、養分にするためにね。
益田由香利は、この町に戻ってこないわ。だって、戻る理由がなんにもないもの」
「どうして?」
「もう別の家庭で主婦をやっていて忙しいから。子どもの面倒も見なくちゃいけないしね」

それは、当然予想していなくてはいけないことだった。
町を出たあとの母が、再婚している可能性、そして子どももいる可能性である。
はっきりと現実を突きつけられて、わたしは理解した。
わたしは捨てられた子どもだと。
なんとなくそうなのだとわかってはいたけれど、積極的に認めたいことではなかった。

「なんで泣くのよ。わからないわねえ、母親なんて、いなくたっていいじゃない」
「それは言いすぎだと」
運転手が言いかけたのを、阿部は煙を吹きかけてさえぎった。
白煙をまともに浴びた運転手は、煙を追い散らしながらむせている。
たばこが苦手なようだ。
「あんたは母親を理想化しすぎよ。あたしの母親と交換してほしいくらいだわ。それこそ、再現ビデオでもあったら、見せてやりたいくらいね。よく窒息しなかったものだわよ。
まー、ありとあらゆることに口を出されたわ。箸の上げ下げから男に至るまで、ぜーんぶ。
人生の四分の三は、あのひとが思い描くところの『阿部』を演じてこなくちゃいけなかった。
自分の意志はなにひとつとおらない。全部先回りされて、『これはまかりならぬ』『それもまかりならぬ』、まったく、わたしが自分でなにかすると、自分の立場が悪くなるとでも思い込んでいたんじゃないかしら。
あ、でも、あのひとが死ぬ数年前は、ちょっとそうだったかもね。
あたしがろくに実績のない一方で、母は庶民にも崇拝されまくっていて、人気者でさ、迂闊に口を出せない雰囲気があったのも事実だわよ」
「例が特殊すぎると」
運転手がまた口をはさもうとしたが、これまた阿部の煙によって遮られた。

「あんたは、あたしに比べれは、はるかに幸せじゃないの。
望んだ高校に行けなかったからって、ふて腐れちゃって、高校を出たら、つぎは大学でしょう。あんたの父親は大学進学を反対した?」
阿部がなにを言わんとしているか、わたしは気がついて、そのままだんまりを決め込みたい気持ちになったが、しかし、口が勝手に動いていた。
「してない」
「大学はこの町にはない。冷静に考えてみなさいよ。どうなる」
「町を出ることになる」
「でしょう。目先のことにとらわれて、『あたしは悲劇のヒロイン!』って思い込んじゃって、だれかに同情してほしいって魂胆みえみえの暗い顔をして、そこいらをウロウロしたところで、だあれも同情なんかしてくれないっていうのよ。
もっと客観的に自分を見て御覧なさい。あんたは、いずれは町を出ることができる。ほかの子たちは、あんたの未来が悪くないことを知っている。だからこそ、妬ましいのよ。
あの子達だって、あの子達なりに努力しているのに、あんたは生まれた家がいい家だったからってだけで、いい未来を得られるように思われる。
ま、努力の方向が微妙にちがうんだけどね。そしてあんたもあの子たちも、視野が狭い同士、ちっぽけな価値観をならべて、どっちがいい、あっちがわるい、こっちがわるいと、ちまちま競争しているの。
どっちが正しいかといったら、どっちも正しいでしょうよ。自分をもっと磨くために勉強したいと思うのも当然だし、いい男がほしいと思うのは、女の本能だもの。
で、あんたは本能よりも、理性がまさっている女なわけ。でしょ?」
「頭がよいほうがいいんでしょう? 理性があるほうがいいんでしょう? 
なのに、どうしてみんなに嫌われて、ひどい噂流されて、嫌がらせされなくちゃいけないの? 
成績がわるいのも、感情的なのも、向こうのほうじゃない!」
「聞いてどうするのよ。復讐心の強い女ね。あんたは、自分が正しいと証明されなくちゃ気が済まないんでしょう? 
すくなくとも、悩むことができるってことは幸せなのよ。それだけ世間を知っているってことなんだもの。
顔しか知らない程度の人間を、自分の狭い価値観だけで判断して、あっさりと断罪してみせる、そういう愚か者は哀れんでやりなさいっての。
いきなり許せとはいわないわ。あんたにはまだ無理でしょ。
ついでだから教えてあげる。そういう人間はね、自分も同じように断罪されつづけているの。それがあたりまえだと思っているから、他人にも平気でそうできるの。
無邪気で不幸な連中よね。あんたの抱えるストレスは、連中は知らないでしょうけれど、それを悔しいと思ったらだめ。
こんな広くてたくさんの可能性のある世界のなかで、そいつらは自分たちの狭い世界しか知らないまま、年をとっていくの。
多くの者を断罪しながら、自分もあっさりと断罪されつづける。そういうちいさくて軽い存在になりつづけながらね。
どう、すこしは、復讐心がおさまるでしょう」
「狭い世界だって、ストレスのないほうがいい!」
「だったら、連中みたいになれば? といってもあんたには無理よ。そういう性格じゃないもの。
人をばっさりと切り捨てたあとに後悔して嘆くのと、自分が莫迦にされて悔しい思いをするのと、どっちがいい?」
「………」
「前にもいったわよね。あんたは覚悟がなさすぎる。十七でしょう。しっかりなさいよ。
いまのままじゃ、莫迦のひとつおぼえみたいにガキの『正義』をふりかざす、つまらない人形になるわよ」
「人形って、父の?」
「いいえ、自分で決めた『町』って枠にとらわれている人形。
だれもあんたを止めてない。なのにあんたは『町』の基準から自分がはみ出すのがこわくて、けれどこわがっている自分がいやで、周囲に当たるんだけれど、当たる自分もいやで、どうにもなくなって自爆した。それが現状。
自分の本心を直視しなさい。あんたはだれからも好かれたい、ちやほやされたいと思っている。
そして、そうされる資格が自分にあると思っている」
「そこまで」
「図々しくない? ほんとうに? 好かれなくてもいいと思っているのなら、堂々と振る舞えるでしょうに。
あんたは何につけても『わたし』なのよ。
書物やネットでえた知識はあっても、あまりにあんたの視界に他人がいなさすぎる。
他人をよく見なさい。他人のなかにこそ、はじめて自分を見つけられるの。
あんたは自分の理想とする自分になれないからって、それを全部人のせいにしている。
たしかにあんたの周囲の人間も歪んでいたかもしれない。
でも、あんたの歪みが、他人の歪みを呼んでいるということもあるのよ」
「わたしがいけないの?」
「あんたは、逆にいえば、楽天的なの。人間を単純に理想化しているのよ。
けどね、よいことをすれば、みんながよかったと喜ぶほど、人間は単純じゃない。
あんたがたとえば毎日、公園の草むしりをしていても、町の全員はあんたを誉めない。だれかはかならずこう言うでしょう。
『あの子は誉められたくて、わざと目立つようにああしているんだ』ってね」
「かならず?」
「かならずよ。けれど、こうも言えるわ。歪みが歪みを呼ぶのであれば、善が善を呼ぶこともある。
あんたのこの最低だった何週間のうち、すべてがすべて、いやなことばっかりだった? そうじゃないでしょう」

阿部に指摘されて、わたしは思い出していた。
ことばでは何もいわずに、励ますように、三食、好物をつくってくれたおばさんのこと、わたしのために庭の花をつんでくれた家政婦さん、そして、わたしが学校に行かなくても、小言のひとつも言わなかった父のこと。

わたしは町を出たいと思っていた。
けれど、一方で、町を出るのが怖かった。
父をひとりにしてしまうことに、罪悪感があったのだ。
母のようになるのではといわれているわたしが、町を出たら、きっと、それみたことかといわれるだろう。
父はそれを、なにも言わずに耐えるにちがいない。
いままでだって、母の噂のいっさいから、わたしを守ってくれた人だから。
そうだ。
だから家には写真の一枚もなく、そしてひと言も、母について語ることをしてこなかった。

「どうよ」
「ちがう」
「でしょう。あんたは、たしかにわかりにくい子よ。口は重いし、表情に乏しいし、見た目も華がないし、近寄り難いし、何を考えているのかわかりづらいし。
けどね、あんたのことをわかっている人は、あんたの悪い噂を信じてないでしょう。
だから、あんたを励ましてくれるのよ。ちがう?」
「ちがくない」
「あんたを好いてくれる人を信頼なさい。あんたに親切にしてくれたのは、血族だけ?」
「ちがう」
「じつの母親は、この十四年、あんたを省みもしなかった。あんたの身の回りをしてくれたのは、だれなの?」
「おばさんたち」
「と?」
「お父さん」
「でしょう。万人に好かれる必要はない。あんたのことを、よく知りもしないくせして、勝手に判断する連中の流した噂に屈して、あんたは世の中を、こんなものだと見捨てる?」
「ううん」
「あんたを好いてくれた人に恩返しもせず、死ぬの?」
「死なない」
「覚悟を決めなさい。生きるのね?」

わたしはうなずいた。
しきりに父のことが思い出されて仕方がなかった。
父は、あまりにわたしの近くにいて、そしてとても不器用な人で、しかもわたしも、とても莫迦だったから、父がいままでどれだけわたしを守ってくれていたか、気づかなかった。

「君が学校でいじめられていたことに気づけなかった、男親はこういうときにダメだって、お父さん、すごくガッカリしていたよ」
と、運転手がわたしに言った。
わたしがしゃくりあげながら顔を上げると、運転手はこのうえなくやさしい笑顔を向けてきた。
「不器用な人だよね。君が神経質になっているだろうと思って、担任の先生に申し入れて、学校関係者は落ち着くまで自宅に来ないでくださいって言った。だからだれも家に来なかったんだよ。
君のクラスの子全員が、君の敵じゃない。なかには同情して、君のために毎日ノートをとってくれている子もいるし、君を励ましたいからって、先生にメールのアドレスを教えて欲しいって言った子もいる」
「運転手さん、どうしてそこまで知ってるの?」
涙をふきながらわたしが尋ねると、運転手は得意そうに胸をはって答えた。
「だって神様だからね。友情でなくても、同情でいいじゃないか。だれに強制されたわけでもなく生まれた、クラスメイトの善意に、君はちゃんと応えなければいけないよ。
そして、中学のときの友だちが、声をかけてくれなかったのを、恨んではいけない。
かれらには、かれらの生活があって、それぞれにいっぱいいっぱいなんだ。
去るものを恨む時間を、目のまえにいる、君を迎えてくれる者を愛する時間に使いなさい。
人生って、生きてみると、けっこう、あっと言う間だからね」
「そう、なのかな」
わたしが言うと、運転手はつよくうなずいた。
「そうだよ。それと、わたしからすれば、君は、お母さんよりお父さんに似ているよ。
容貌もそうだけれど、性格なんてそっくりだ。
世間なんて、話をおもしろおかしくするために、当て推量で、てきとうなことを言うものさ。
真実は、自分の目でたしかめるんだ。そうでなくては、これから先、ずっとだれかの意見に振り回されるようになってしまう。
これから君がしなくちゃいけない勉強は、その目を作ることだよ。できるね?」

運転手のことばに、わたしは、かれがそうしたように、うなずいた。
すると運転手は、うれしそうに声をたてて笑いながら、涙をふくわたしの頭を、子供にするように撫でてくれた。

そんなわたしたちを見て、阿部が言う。
「甘いわね」
「君に釣られたのさ。さあて、話が決まったところで、そろそろ、ここを出ようかな」
「出る、じゃなくて、壊す、でしょう」
そうだね、と応える運転手の手には、いつのまにか白銀の光をはなつ、うつくしい一振りの剣があった。
父が身につけていたような、にせものではない。
「いま、ほんのすこしでも、戻りたくないと思っているのなら、あんたはここにいなさい」
と、阿部は言った。
「あんたが苦しまないように逝かせてあげる。どう? 気持ちは決まった?」
わたしはつよく頭を振った。
「死なない。まだ死にたくない」
「あんた、あたしと、このお節介な中国人に、やいのやいのと言われて、惰性でそう答えてないでしょうね」
阿部の問いに、わたしはさらにつよく頭を振った。本気で振った。
「なら、よし。あんたみたいな子、ほんとうにイライラするのよ。いい子になりすぎて、周囲のイメージを壊すのがいやで、自分の意志をきちんと周囲に伝える努力もせずに、不満を抱えて怒ってばかりいる。
そんなふうだとね、いつか国家級にくっだらない男につけ入られるわよ」
阿部のことばに、国家級のくだらなさとは、すごいな、と運転手が笑ったが、また阿部の吐き出した白煙によってさえぎられた。
「あたしは遅すぎたかもしれないけれど、母が死んでから、ようやく人形から本物の阿部になった。
だれになにを言われようと、自分の意志を通したわ。
苦しいこともあったけれど、わたしの人生を生きるためだけじゃなくて、そうすることで、遠回りかもしれないけれど、みなが幸せになれるだろうと信じたからよ。
けれど、わたしの気持ちを知らない人間は、わたしの言い分を聞くこともせずに、勝手なことばかり言って、あれこれと妨害したわ。
もし、あんたがいつか、歴史のなかにあたしの名前を見つけることがあったら、愛欲におぼれて国家を揺るがしかけた、愚かな女とかかれているはずよ」
「れきし?」
目をぱちくりさせているわたしにかまわず、阿部はつづける。
「けれどあたしは、ぎりぎりまで引かなかった。後悔はしなかったわ。
たとえ周囲から憎まれても、たった一人だけでも、真の味方がいてくれたら、それでもう十分なのよ。
あとは、後の世のだれかが、あたしの真意を汲み取ってくれると信じた。
あたしがね、それだけ頑張ることができたのは、あたしのあとの世の中の人が、いまより少しでも幸せに生きられるようにしようと真剣だったからよ。
あんたみたいな子に、こんな世の中、生きていたくないなんて、いわせるためじゃないわ」
「ごめんなさい」
わたしは思わず謝っていた。

阿部の目はいつになく真剣で、わたしは、素のままのことばを浴びせてくれる阿部を、やはりいままで一番信頼していたのだと気づいた。
阿部がわたしの心をこうも的確に指摘できたのは、わたしを真剣に見ていてくれたからなのだ。

「さて、そろそろ出よう。祭りが終わる。この土地での、最後の祭になるだろう」
言って、運転手は、両手で剣を持つと、瞑想するようにうすく目をとじて、その切っ先を、軽く額につけ、なにかつぶやいている。
わたしの隣で、阿部が言った。
「わたしたちは、この土地の神に頼まれて、あんたたちが『ご神宝』と呼んでいるものを壊しにきたのよ。
ここは、ご神宝の胎内。『天岩戸』と呼ばれる、古代人がつかっていた瞬間転移装置なの。
とおく離れた土地を往来するために、限られた人間だけが通ることを許されていた神の道よ。
それが装置だけが各地に残されていたのだけれど、時代が変転するにつれ、使い方そのものが忘れられてしまったの。
この装置は、それぞれの地点に同じ装置を設置しないと正常に作動しない。この土地の対になっていた装置は、だいぶ古い時代に破壊されて、これだけが残った。
世界には、こういう半端な古代の装置があちこちに残っているのよ。神隠しの正体がこれ。
装置のなかには、ここの土地のように、自己保存のために現世の人間の魂を血肉ごととりこんでしまうものもある。
巧みにその心理につけ入ってね」
「それじゃあ、もしかして、いままで籤に当たった一族は失踪者を出しやすいっていうのは」
わたしのことばに、阿部は軽くうなずいた。
「そうよ。装置に食われたの。昔は籤に当たった人間は首を刎ねられたっていうでしょう。
昔の人間は、装置に取り込まれた人間がどうなるか、なんとなくだけれど知っていたのね。
だから、思いやりのために、自分たちの手で、完全に取り込まれないように殺してあげていたのよ」
「殺してあげていたなんて、迷惑じゃない!」
わたしが抗議すると、阿部は肩をすくめた。
「迷惑なものですか。装置に取り込まれた人間は、生きたまま肉体をなくすようなものなのよ。
つまりは明確な意思が残っているまま、ゾンビになるようなものね」
「それじゃあ、いままでの失踪者は、天岩戸に食べられて、まだ生きているの?」
「生きているというより、天岩戸に同化するの」
「でも、わたしは天岩戸なんて見たことない。そんな扉はどこにもないじゃない」
「扉じゃないのよ。装置といっても、自転車みたいな機械じゃないわ。
天岩戸は、土地そのものなの。あんたが籠もっていた旧社殿は、天岩戸の真上に建って、最初の頃はそれを封じていたのだけれど、長いあいだに侵食されて、旧社殿そのものが天岩戸になった。
あんたはいま、旧社殿の地下の亜空間のなかに閉じ込められている。あたしには、なにかに憑依されている人間を見抜く力がある。
だからあんたを追って、助けに来たってわけ。説明終わり。
そろそろ派手にやってくれていいわよ、当山孔真君」

「では、どーんと行こうかね」
などと言いながら、さきほどよりさらにきらめきを増した剣を、まるでバットのようにぶんぶん振り回しながら、運転手は応じた。
「二千年といったら、わたしとほぼ同年輩か。よくここまで頑張ったものだが」
「そこを誉めている場合じゃないわよ」
「はいはい。それでは、シートベルトをお締めください」
「ないわよ」
「なーんかテンションが上がらぬが、たまには仕方ないか。さあ、わが剣よ、蓬莱の国のわれらが不親切な御親の忘れものを、本来の場所にもどしてやろう。
わが声にこたえよ、科戸の風よ、天の八重雲を吹き放つが如く」

運転手が祝詞のようなことばを唱えると、とたん、周囲の空気が、ざわざわとざわめいた。
空気ではない。
空間そのものが、なにかを恐れるかのように、怯え、うごめいているのである。
うろたえるわたしの肩を、阿部がしっかりと両手で掴んでおさえてくれた。
と、運転手の目のまえに、黒いもの、としか表現しえない、巨大な蠅があつまってできている雲のようなものが、虫の羽音のような不気味な、鼓膜をふるわせるいやな音をたてて、いっせいにむかってきた。
『処々の海人、さばめきて命に従はざりしかば』
祭りのためにおぼえた、そんな応神紀の一文が、わたしの脳裏に浮かんだ。
「まどえるものを吹き放て! 剣よ、わが声に応えよ!」

とたん、どーんと、何万個もの太鼓をいっせいに鳴らしたような、野太い音が周囲にひびいた。
子どものころに震度四の地震があった。そのときの地鳴りが、こんなふうだったと思う。
腹の底にひびく音がして、わたしは全身に衝撃をおぼえて、思わず目を閉じた。
痛覚はないのだが、五体がばらばらに散ってしまうような感覚をおぼえた。
頭が真っ白になる。

遠くで、阿部の声が聞こえてきた。
「益田宮子、あんたと町の人間の、一ヶ月ほどの記憶を消してやってもいい。
どうする? 母親のことも夢をみていられるし、嫌がらせを受けたことや、二週間も引きこもりしてたことや、祭のために針路変更させられたことなんかも忘れられるわよ」

わたしは答えた。
記憶は消さなくていい。
いま記憶がなくなったら、わたしはあなたの言葉を忘れて、また同じように毎日をふて腐れて過ごすようになる。
もしかしたら、噂が原因で、理不尽でつらい目にあうこともあるかもしれないけれど、わたしは、あなたたちからもらったことばを忘れてしまいたくない。

阿部らしい、こんなことばが返ってきた。
「要領の悪い子ね。あんたがそれでいいならいいけど。
それじゃあ、仕事も終わったし、あたしはあたしの『かれ』の待っている世界へ帰るわ。
あんたのことはいつでも見守ってはいないけれど、たまに思い出したら、様子を見てあげてもいいわ。
ただし、そのときに同じことをやっていたら、マジでたたるわよ」




祭りの日にあった、原因不明の竜巻と、竜巻によって旧社殿が倒壊した事故は、全国的に大々的に報道されたが、奇跡的にも怪我人はひとりも出なかった。
町役場の観光課は、せっかく祭りが盛り上がっていたのに、竜巻のせいでケチがついたと不満を漏らしていたそうだが、運転手のことばを借りるなら、『祭りは最後』なはずだから、それは仕方ないのかもしれない。

旧社殿の跡地には、どういうわけだか、三国志という古典の登場人物の、諸葛孔明とかいう人の銅像が建つことになった。
まったくつながりがないのに、と呆れたが、やはりこれを決めた観光課によれば、三国志はブームが去っても廃れない古典であるし、坂戸神社の主神である科戸辺尊(しなとべのみこと)は風の神、このひとも風を操る人だったから、繋がりはなくはない、ということであった。
あとで調べたら、諸葛孔明という人は、神様にも祭り上げられていて、その名を『当山孔真君』というらしい。
祭りのあと、運転手のことは、だれも覚えていなかったけれど、ふしぎと、あたらしいその銅像は、運転手そっくりだった。

阿部という名の女性は、すぐに見つかった。
聖武天皇の娘、弟が夭折したために、藤原氏の影響力を落とさぬために擁立された女性皇太子の名が阿部内親王。
さまざまな陰謀を経て天皇にまつりあげられた彼女は、藤原氏の意のままに、名ばかりの天皇として君臨した。
従兄である藤原仲麻呂の愛人だったという説が通説である。
藤原氏は、光明皇后として名の知られる女傑・藤原光明子によって仕切られていた。
有能な光明皇后の影響下、天皇の影響力はほとんどなかった。
ところが光明皇后が没したのち、彼女は急に別人のようにおのれを取り戻す。
その復活に手を貸したのは、道鏡といわれる僧侶で、これもまた、愛人だったといわれている男性だ。
藤原氏の専横から本来の朝廷を取り戻すため、八年間の戦いのすえ、生涯結婚をせず、子供のなかった彼女は、藤原氏ではない道鏡にその位をゆずろうとするが、大反対にあって、とうとうその望みを果たすことはできなかった。
病没ということであるが、暗殺されたという説もあるらしい。

近年まで、彼女の評価はよいものではなかった。
しかし最近では、あまりに専横のすぎた藤原氏から朝廷をとりもどそうとした女性として、その手腕が再評価されつつあるという。
わたしが読んだ何冊かの本は、彼女や、彼女が愛した男性たちに、あまりいい評価をくだしていなかった。
しかし、事実だけを見れば、死ぬまでの八年間に、彼女がほんとうに望んでいたこと、彼女の意を汲んで、周囲の人々が行ったことは、むしろまともなことに見える。
彼女が好きだった人こそは、彼女の真の味方だったのだろう。
だからこそ、位を譲ろうとさえしたのではなかったか。
彼女が真に君主として目覚めたのは、道鏡に出会ってからである。
自分を救える人だから、きっとみんなも救えるだろうと思ったのかもしれない。
彼女の言った、『かれ』が、この人だったらいいなと、わたしはすこし妬ましい気持ちをおぼえつつ、思った。

祭りのあと、父に母のことをたずねてみた。
父は覚悟を決めていたようで、あらためて母のことを教えてくれたのだが、それは、世間から又聞きで知った母の姿より、多少は大人しい程度で、母は、やはり、奔放で放埓な女性であったようだ。
町を出たあとに駆け落ち相手と再婚したけれど、すぐに別れ、そのあとに二度結婚して、それぞれに子どもがいたが、やはり別れて、いまは四度目の結婚相手と、連れ子といっしょに暮らしているという。
父ははっきり言わなかったけれど、その暮らし向きは、あまりよくないようだった。
あとで知ったが、母から頼まれて、父は何度も送金をしていたらしい。
その事実を知ったとき、わたしの母に対する恋慕は、うそのように冷めた。
いまはだいぶ冷静に母のことを考えられるようになってきた。
もっとわたしが大人になって、自分で自分の生活の面倒を見られるようになったら、ひとりの女として、母に会ってみたいと思う。

祭りをめぐる日々の後遺症は、完全には消えていない。
けれど、ふたたび通いはじめた学校で、わたしは友達をつくることもできたし、そのおかげで、いままでよりいろんな視点でものを見ることができるようになったと思う。
辛いこともあるけれど、そんなときは、阿部がくれた最後のことばどおり、彼女がわたしを見ているのだと自分にいいきかせる。
たたられたら困るもの、などと思ってみるが、そんなことはしないだろうと、ほんとうはわかっている。
わたしのことを思い出してくれた彼女や、神様が、わたしを見て、がっかりしないように、昨日よりも今日の自分が、ましな女になっているように、わたしは生きている。

おしまい

おまけ
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