春のなごりに

呼び出しをくらったのは、三時間目が終わるころだった。
担任教師の顔色で、わたしはよくない話だと気がついた。
すぐに、塾をさぼっていることだろうか、それとも保健室で寝ていることだろうかと考えたが、しかし、どちらがばれたのだとしても、父を通して叱られるような気がした。
父は、町に対して絶対権力者としてふるまっているというわけではないが、この学校の校長が、父の選挙のとき、後援会事務所でやたらとぺこぺこしていたのをおぼえている。
進路指導室に向かうのかと思えば、連れて行かれたのは、やはり、校長室であった。
部屋にはほかに、進路指導の教師もいて、それまでなにか話をしていたようなのだが、わたしが部屋に入ってくるなり、ぴたりと口をとざした。

もしかしたら、なんてことはない会話だったのかもしれないが、わたしは、わたしが入ってくるなり、場の空気が変わるというのが好きではない。
だれだって好きではないと思うけれど、いつも教室でそんな場に出くわすので、とくにそういう気配に敏感になっていたのだ。
たぶん、このときに、もうわたしの心の中で、スイッチが押されていたのだと思う。

黒い革張りのソファに座っていた進路指導の教師が、正面に座るようにとわたしにうながした。
校長はというと、革張りのソファのまえにある立派なデスクのまえに座ったまま、わたしに安心させるように、ねぎらうように笑ってみせるのだが、そのことが、逆に、ますますこれからの話がよくないものだということを報せていた。
校長の笑顔にこたえずにわたしがソファに座ると、進路指導の教師は、校長と目線を合わせた。
打ち合わせはできているようだ。
わたしはかれらの動作のなにひとつ見落とすまいと思いながら、進路指導の教師の肩越しに見える、ガラス張りのケースのなかのトロフィーの群れを見た。
この偏差値のひくい学校でも、トロフィーをとれることがあるのだ。
といっても、ほとんどが陸上の、それも個人競技を表彰したものである。
団体になると、この学校はとたんに駄目になるのだ。

一方で、『山の上』と呼ばれる、山をひとつ隔てたところにある、文字通りの進学校のほうの活躍はめざましい。
いつも地方面に華々しい話題を提供するのは、こちらだ。
わたしは『山の上』のほうに進学を希望していたのだが、町長の娘が、ちがう町の高校にかようなんておかしいという、後援会の名前も知らない年寄りたちの、ばかばかしい声によって、いまの学校に進学させられた。
『させられた』のだ。望んではいなかった。

ときどき、『山の上』に進学していたら、どういう生活を送っていただろうかと夢想することがある。
すくなくとも、いまのように、浮き上がることはなかったのではないか。
中学のときに仲のよかった友だちのほとんどは、みな『山の上』に進学した。
わたしひとりが、こんなつまらない町の、くだらない学校に残されることはなかったはずだ。
そうして、こんなふうに呼びだされることもなかったはずである。
わたしが塾に行かないのも、仮病をつかって保健室で寝てばかりいるのも、もとはといえば、よくわからない郷土愛を押し付けてきた大人がそうさせたのだ。
そうして、この校長も、そんな大人のひとりなのである。
クラスにいる、わたしを無視する生徒たちをも管理できない、無能な大人でもある。

わたしの胸に、怒りがこみあげてきた。
話もきかないうちから、わたしは目の前にいるかれらを断罪し、敵視していた。
わたしが無言のまま、校長をうながすように見ると、それを合図に、進路指導の教師からの話がはじまった。

その話はあきれたものだった。
わたしのいやらしい写真が、ネットに流出したというのだ。
匿名の連絡でそれを知った教師たちは、すぐにそれを調べたのであるが、見てすぐに、悪質ないたずらだということがわかった。
どこかで撮ったわたしの写真を利用して、画質のわるいAVビデオの画面にぎこちなく組み込んだだけのものだった。
まぬけなことに、このいたずら写真は学校のパソコンで加工されたものだということがわかり(だれかからの報告だった、というが、だれからのものかは聞けなかった)、同じくすぐさま犯人は判明した。
予想するまでもなく、クラスの、とくにわたしを嫌っている子たちで、問い詰めると、あっさりと白状したという。
なぜこんなことをしたのかと問うと、彼女たちのことばにすれば、わたしが町長の娘であることをいいことに、ことあるごとに高飛車な態度をとって、どころか授業を堂々とさぼって保健室で寝てばかりいるのがゆるせなかった、というのだ。
さらには、彼女たちはご丁寧にもわたしの行動をいちいちマークしていたらしく、わたしが塾をさぼって、坂戸山の旧社殿にいることも知っていた。
優等生なんかじゃない、ただのサボリ魔だ、なのに先生たちは町長の娘だからって、益田宮子ばかりひいきにしている、それが許せなかったと、彼女たちは言ったという。

悪いことはできないな、益田、と、最後に進路指導の教師は、まるでドラマのなかで、刑事が最終的な証拠を犯人につきつけたときのように言った。
わたしは笑いそうになった。
わたしをじっと見る教師の表情のなかには、計算が見えた。
こういうふうに話を出していけば、わたしが動揺して、泣いて謝るものだと思っているのである。
と、同時に、こうも言えた。
わたしは、まだなにも口にしていない。
だというのに、話を聞くまえから、この人たちは、わたしよりも、集団で悪質ないたずらを仕掛ける人たちの話のほうを信用しているのだ。
わたしの進路をつぶしておいて、勝手に信頼を押し付けてきて、今度はそれを裏切ったと怒るつもりなのだろうか。
いや、そればかりではなく、彼女たちをきちんと指導できていないことを棚上げにして、わたしを叱ろうというのか。

それだけで、謝る価値はないとわたしは思った。
だから押し黙っていると、教師たちはわたしが反省しているものと勝手に思ったらしく、もうしないと約束するのなら、父には言わないでおく、と言い出した。
わたしには、それが、父に言わないことを条件に押し付けて、わたしにたいするクラスメイトの嫌がらせも表に出すまいとする策略のように聞こえた。
自分たちが優位に立っているつもりだろうが、そうではないということを、そろそろ教えなければいけないようだ。

「父に知られてもかまいません。どうぞ停学でも退学でも好きなように処分なさってください。
その代わり、わたしに嫌がらせをしたクラスメイトにも同じ処分をお願いします」
もともと好きで通っていた学校ではない。
高校は義務教育ではないのだし、辞めてもすこしもかまわない。
いまは大学検定だってある。
わたしのいまの成績をキープできるなら、それでも一向にかまわないはずだ。
けれど、わたしに『高校中退』というリスクを背負わせるなら、わたしを傷つけた人たちにも、同じリスクを背負ってもらわなければ理屈がとおらない。
わたしには、これは感情的ではない、ごくまともな意見に思われた。

しかし教師たちはそうは思わなかったらしく、それは責任転嫁だとか、逃げだとか、どうとでもとれそうなことばでもって、わたしの意見に反対してきた。
たしかにクラスメイトにも非があるから、彼女たちには学校から処分を言い渡すが、それとわたしの問題とは、また別なものである、とわけのわからないことを言った。
わたしからすれば、彼女たちが処分を受けるのは、わたしが原因なのだから、別であるはずがないと思える。
それに、やはり教師たちがそんなふうにわたしを封じ込めようとするのは、自分たちの非を隠そうという気持ちの、あらわれなのではないかというふうに読み取れた。

わたしがずばり、そう指摘すると、校長も教師も、そのとき大人の表情をやめて、薄気味の悪いものをみるような目でわたしを見た。
なにか別世界から来た、エイリアンが目のまえにいるような顔をしている。
そうではないのかとわたしが畳みかけると、それまでいささか感情的になっていた進路指導の教師のほうが、急にトーンを落として、わたしに、今日はもういいから、家に帰って処分を待つようにと言った。
たぶん処分は停学になるだろうが、停学といっても自宅でずっと勉強をすることではない。
学校に通いながら、みんなとは別の教室で、期間中、ずっと反省文を書いたり、本を読んだりして過ごすのだという。
彼女たちはどうなるのかといえば、これも停学だという。
あんなひとたちと、みんなとは別の教室で分けられたら、どんなことになるか、目に見えている。

さすがに激昂して、どうしてこの理屈がわからないのかと怒鳴ったが、そのときには、あまりにコミュニケーションがうまくいかない苛立ちから、すっかり涙声になっていた。
「益田、たぶん、いま、話をしてもだめだと思う。おまえとあいつらとの処分については、いまのおまえの意見も含めて、もういちど先生たちとで話し合うから、おまえは一旦、自宅に帰りなさい」

わたしは、まだなにか答えたように思うが、おぼえていない。
ほとんど飛び出すようにして校長室を出ると、校長室の前の廊下に、阿部が立っていた。
「ディベートの才能はないわね。泣いて出てきた時点でアウト。
女の涙は使いどころをまちがえると逆効果よ。『これだから女は』って莫迦にされるだけ」
いちばん会いたくない相手が、だれにも会いたくないときにそこにいた。
阿部は、廊下にずっといて、わたしと校長たちとのやりとりを聞いていたらしい。

わたしは持っていたポケットタオルで目をこすりつつ、たずねた。
阿部なんて口ばかりで、頼りにならない大人だと思っていたのだが、いざとなると違った。
というよりも、わたしには、ほかに自分の単純な問いを問える相手がいなかった。
「わたしがおかしいの?」
阿部は、白衣の両ポケットに手を突っ込んだまま、肩をすくめた。
「ヘンに理屈はとおっているけど、正しくはないわね。なにせ、動機がわるい」
「どうして! わたしにあのひとたちが嫌がらせをしてきていたのは知っているでしょう? 
それなのに、それでもわたしが悪いの? 保健室でずっと寝ていたのも、あの人たちがいるクラスに、一緒にいたくなかったからじゃない!」
「あら、泣いたら、やっと本音が出たじゃない。さっさと泣かせておくべきだったかしら」

からかうような阿部の口調に、わたしはますます追いつめられた。
阿部を最初から味方だとは思っていなかったけれど、こうまで突き放されるとは思っていなかった。
やはりわたしは、このひとに、甘えていたのかもしれない。

「一緒にいたくないって、そう思ったのは、どっちが最初だったのかしらね。けっこう、あんたのほうじゃないの? 
あんたが『わたしはこんなところに来たくなかった』ってこと丸出しの態度をとってふてくされていたら、いい? ここにしか来られなかった子は、どう思うかしらね? 
あんた、自分のことばっかりで、それを考えたことがなかったでしょう。思いやりの欠如。人としてどう? ってやつ。
あんたが始めた戦争でしょう。けど、あんたは戦争がおっぱじまったと気づいたとたんに、まっ先に敵前逃亡をしたってわけよ。そんな勇気のないやつに、だれがついていこうなんて思うっての。
それが、あんたに友だちどころか、味方もできない理由よ。
そしてね、あんたのさっきの理屈は、あんたの視点からすればたしかに正しいでしょうよ。けれど、客観的に見たら、ただの復讐よ。
あたしが痛い目に遭うんだから、ほかのやつらは、もっとひどい目に遭うべきだっていうのが、あんたの本心。
しかも、あんたは敵前逃亡の罪を問われているってのに、あたしもこれだけ譲歩するから、あんたたちも同じだけ譲歩しなさいって命令したの。
つまりあんたは、自分が利巧で正しいと思い込んでいるみたいだけど、その実、自分の立場がまったくわかっていないおおばか娘ってわけ。
どう? これだけ親切に説明すりゃあ、自分のことがわかってきたんじゃない?」
「盗み聞きしていた人に、そんなこと言われたくない!」

それは、わたしの精一杯の反撃だった。
阿部に非があるところといえば、勝手に立ち聞きをしていたことだけだ。
と、同時に、復讐することが本心だという阿倍のことばが、まさにそのままだということに気づかされる。

阿部はというと、まったく動じることがないまま、廊下の壁に背をあずけて、言った。
「あたしだって、好きで聞いてたわけじゃないわよ。あたしも呼び出しをくらったの。
さ、帰れって言われたんだから、あんたはもう用なしでしょう。
これからは大人の話よ。それとも、あんた、ここにいて、あたしたちの話を盗み聞きする?」

わたしは教室にカバンを置いたまま、学校を飛び出した。
家まで、どうやって帰ったか、よくおぼえていない。たぶん、歩いて帰ったのだと思うが、知っている人に会わなかったのがさいわいだった。



家に帰ると、しばらく部屋に閉じこもっていた。
通いでまかないに来てくれているおばさんは、わたしの様子になにも気づかないフリをしてはいるが、彼女の娘もわたしと同じ学校に通っているから、じきに、なにがあったか知るだろう。
狭い町、おせっかいな町、ひとが外に出て行くのをゆるさない町だ。
彼女たちのほうが、数が多いのに、わたしのほうはひとりで、味方もない。
きっと、一方的な噂が広まるにきまっている。
わたしが悪いから、彼女たちも悪いことをしたのだ、という調子の噂になるだろう。

わたしは阿部が言った、わたしが敵前逃亡をしたのだということば、そしてわたしの論理が復讐心から来ているのだということばを、頭の中でけんめいに否定していた。
けれど、考えれば考えるほどに、阿部のことばのほうがわたしの頭のなかで重たくなってくる。
わたしには、学校は、行きたくないのに行かせられている場所だった。
けれど、ほかの生徒たちにとっては、そこはふつうに行くべき場所、ほかに行くところがない場所ではないのか。
それを否定するわたしは、そうした彼女たちにとって、自分たちの居場所を否定するいやな女に見えただろう。
人の価値観はさまざまで、それぞれ尊重しなければならないものだと、わたしは教えられてきたし、相手の価値観を許容できなくても、すくなくとも表面では、あからさまに『ちがう』と否定しないのがマナーだとも教えられてきた。
だが、実際には、わたしは周囲にいるクラスメイトたちを、はなから認めていなかった。
彼女たちの、なにもかもに否定の感情を持った。

鏡をのぞいてみる。
わたしの顔は、表情が出にくい顔だという。
阿部がいったとおり、毎日、ただ洗顔するだけの、手入れもなにもなされていない、子どものような顔だ。
ふて腐れたガキだと、阿部は言っていなかっただろうか。
わたしは、自分が無表情なのだということに恃みすぎて、クラスメイトを否定する感情を表に出していることの自覚が、なかったのかもしれない。

けれど、そこまで考えて、わたしは頭を振る。
でも、わたしの感情はどうなる。
わたしが多少は悪かったとしても、こちらはひとりなのだ。
相手は複数で、時間があればこちらのあら探しをして、悪口をいい、しまいには陰湿ないやがらせをしてきたのだ。
それに、わたしがこの学校に不満を持っている理由を、彼女たちは知らないだろう。
彼女たちは『町長の娘』ではない。
行きたくない学校にむりやり行かせられているなんてことは、知らないはずなのだ。
わたしと同じ立場になったら、彼女たちだって、同じようにならないか。
それを理解せず、苦しめて、集団でいたぶって喜んでいる。

だめだ。
やっぱり相手が悪いとしか思えない。
阿部のことばは確かに当たっているかもしれないけれど、復讐をしようと思うのは、これでは当たりまえではないか。
逆に、なにがいけないのかとさえ思ってしまう。
こちらはひたすら耐えるか、逃げるしかできなかった。だれも傷つけてなどいないではないか。



夕方になって、まかないのおばさんが帰宅するというとき、教室から、だれかがカバンを持ってきてくれたという。
だれなのかを聞こうと思ったが、まかないのおばさんの愛想のよさに、かえってことばが出てこなかった。

このおばさんは、聞いたところによれば苦労人で、見合いで結婚したのだが、相手の男が気に入らなかったのに、両親に強要されたのだという。
結婚前に家出をするなどして抗議したのだが、連れ戻されてしまったのだそうだ。
嫁ぎ先では、やはり気に染まない相手との結婚ということで、家出のことにしても狭い町でみなに知られているし、肩身のせまい思いをして過ごしていたという。
家出のことが公になっている以上は、当然のことながら、いい結婚生活にはならないだろうと想像がつきそうなものだが、おばさんの両親は結婚を強行させたのだ。
夫婦間の仲がどうであったのかは知らない。
話に出ないところを見ると、可もなく不可もなく、といったふうで、意外に平穏だったのかもしれない。
おばさんは男の子を産んだが、ほどなく相手が死亡した。

おそらく、亡くなったご主人がどうかは知らないが、ご主人側の親族は、おばさんによい感情をもっていなかったのだろう。
ほとんど無一文のまま、住んでいた家を追われるようにして、おばさんは嫁ぎ先を出た。
そこでしばらくひとりで子どもを育てながら働いていたのだが、職場でようやく真剣に結婚したいと思える男性と知り合った。
ところが相手の男性の親族が、こんどは連れ子が困ると言い出した。
そこで、男の子を実家にあずけて、おばさんは男性と結婚したのであるが、これが身勝手すぎると、ほうぼうから批判を受けて、しばらく噂がつづいたことがある。
そのために、ちいさな町で得られる職場はわずかで、ほとんどの職場から就労を拒まれたため、うちが雇っているのだと、もうひとりのお手伝いさんが話をしていた。

料理はたしかにおいしいし、人柄もわるくない。
母がいなくなってから、わたしはおばさんの料理で大きくなったようなものだ。
おばさんの再婚相手とのあいだに生まれた娘は、わたしより一個上の三年生である。
教室に置きっぱなしになっていたカバンを差し出してきたおばさんは、娘に持ってこさせた、というようなことは言っていなかったから、先生に言われた学級委員かだれかが、わたしの家に持ってきてくれたのかもしれない。

良妻賢母であることを、いまだに求められる古い町で、そこからはみ出そうとすれば、母のように町を捨てるか、このおばさんのように、周囲の批判にさらされながら、悪いことなどなにもしていないのに、肩身のせまい思いをして生きていかねばならない。
世間には、もっともっと大きな可能性がたくさんあるはずだ。
どうして、わたしばかりが、こんな前世紀の価値観に縛られなければならないのだろう。


わたしは、カバンのなかに財布も入れっぱなしにしていたから、とりあえず中を開いてみた。
教科書と文房具、辞書、携帯電話に財布、ポーチ、ミニタオル。
そして、わたしは気がついた。
自分のノートにまざって、あの旧社殿にあった、母のノートがカバンの中に入っていたのだ。
なぜ、これがここにあるのだろう。
だれかが旧社殿に入ったのだとしか思えない。
そしてこれを見つけて、中身を見て、益田の名があるから、わたしのものだと判断してカバンに入れたのか。

いや、そんな単純なものだろうか。
中をみたなら、その紙の古さや内容からして、わたしの物などではなく、わたしの母のものだとわかるはずだ。
母が東京へ出て行くまでの経過をつづった手記。

ふと、わたしは、彼女たちが、わたしが塾をさぼって旧社殿にいることを知っていたことを思い出した。
彼女たちは、わたしがいなくなったあと、旧社殿に入りこんで、このノートを見つけたのではないか。

とたん、はげしい嫌悪感がこみあげてきた。
捏造画像をネットにさらされていたと聞かされたときよりも、はげしい嫌悪感だ。
心のなかを勝手に暴かれたような、身が震えるほどの嫌悪感である。

彼女たちは、わたしが母のように、町を出ようとしていることを知っているのではないのか。
このノートを読んで、わたしを早く町から追い出すために、嫌がらせをしたのではないだろうか。

そんなばかなとも思ったが、しかし、そう考えなければ、旧社殿にあるノートがカバンに入っていた理由がわからない。
旧社殿に行きたい。
彼女たちにあそこが荒らされていないか、たしかめなくては。


家を出てガレージにまわり、運転手がいないかとたしかめると、悪いことに、たしかにかれはいたのだが、もうひとり、父の後援会のひとりで、祭をささえる旧家の当主の老人がいた。
ガレージには、父がつかっている公用車のほか、見慣れた車も停まっていた。
ボンネットにさわると、まだあたたかい。
父が家に戻ってきているのだった。
そして、祭のことについて、旧家の当主たちがあつまって、話あいにやってきたのはあきらかだった。
もうわたしのことが町の噂になっているのだ。

なにがあったのか、老人はやたらと怒っていた。
運転手は、しきりに困った顔をして、顔をすまなさそうにしかめているのだが、顔が端正すぎるせいか、どこかとぼけているようにも見える。
「あんたねえ、いくらこっちが年寄りだからといって、法定速度をきっちり守りすぎってのも、アレだ、融通利かないんじゃないの? 
何度も急げっていったよね。ほら、益田さんも庁舎からもどってきているし、ほかの連中だって、もう応接に入っているよ。
俺はね、遅刻ってのは大きらいなんだ。ったく、若い癖して要領がわるいというかなんというか、ほんとうに、気をつけてよ! よくこれで、宮子ちゃんの運転手が勤まっているな!」
「お嬢さんとは、もっぱらお話をしながら運転をしておりますので、車のスピードが遅いことに関しては、お嬢さんは気にしてないようです」
運転手の、やはりとぼけたことばに、老人はいまいましそうに顔をゆがめて、言った。
「ああそう。で、宮子ちゃんが塾をサボっているのも黙認したって? 
あんた、ほんとうに宮子ちゃんに手を出してないだろうね。あんたがアレだ。ホモだっていうから、益田さんはあんたを運転手に雇ったってのにさ」
「ああ、やっぱりそうでしたか。しかしホモとは、いただけませんね。それは差別的なことばですよ」
「そんなの、知るか」
「困ったな。いや、困ることもないのか。わたしは同性愛者ではありません」
「じゃ、なんなの」
「なんなのと問われてもなあ」

ぼやく運転手に、老人は怒りがおさまらないらしく、まだ睨みつけながら、ガレージを出て、最後に捨て台詞のように言った。
「ともかく、祭がおわったら、あんた解雇だから! 町にも住めなくなるからな! 荷物まとめとけ!」
「はいはい」

うんざりしたようにおざなりな返事をしたあと、運転手は肩で大きく息をし、それから、わたしが4WDの車の陰にかくれているのに気づいていたらしく、言った。
「もう全員が応接室にあつまったようですよ。
祭りの巫女はお嬢さんでいいのかどうか、話し合うのだそうです。
お年寄りには、あの捏造画像は、刺激がつよすぎたようですね。
お嬢さんはたしかにサボっていたけれど、あんなふうに乱れきった生活にははまっていなかったと、証言してくるべきでしょうか」
「いらないわよ。わたしを信用できるかどうかより、あの人たちが大切なのは、町のみんなが、わたしが巫女でもいいと思うかどうかだもの」

車の陰から出てきて、わたしが答えると、運転手はおどろいたように顔を上げた。
どうやら、ずっと部屋で泣いていたので、顔が腫れあがっているらしい。
「氷を持ってきましょうか」
運転手のことばに、わたしは首を振った。
「いい。それより、旧社殿に連れて行って」
「だめですよ。益田さんから、お嬢さんを外出させないようにと言われています。
それに、なんだって旧社殿に行かなくちゃいけないのですか」
「行かなくちゃ。あそこに入り込んでいる人がいないか、たしかめないといけないの」
「旧社殿の扉には鍵がかかっているはずですよ。その鍵を持っているのはお嬢さんだけで、相鍵の類いはないはず。だれもあそこに入ることはできない」

そうだった。
わたしはそのとき、それでも、なぜわたしの教室にあったカバンに、旧社殿にあったはずのノートが入っていたのかということよりも、彼女たちがわたしを尾行するかして、旧社殿の中をのぞいていたさまを想像し、ますます気分がわるくなった。

「ともかく、今日は、外出はしないほうがいいですよ。それほどに旧社殿の様子が気になるのなら、わたしが様子を見てきましょう」
「そんなのいいよ。運転手さんだって、もう家に帰るのでしょう」
「家に帰りがてらでも、覗いてきましょうか。
あそこの新社殿のほうでおみくじを引いて帰ってもいいですし、それに、あの神社の麓に無人販売コーナーがあるのは知っていますか。
あそこだとたいがいの野菜が100円で買えるので、買って帰ると、家で待っている者に喜ばれるんです」
「それって、男の人?」
「そうです。けれど、恋人ではありませんよ」

冗談めかして笑うかれに、わたしはなんだか毒気が抜かれたような気がした。
それまでは、なんとしても旧社殿へ、と気が逸っていたのだが、かれと話をしているうちに、鍵のこともあるし、あせることもないかと思えてきたのである。

「今回は、ずっとわたしの賄い役としてついてきているんです。簡単な仕事ですのでね」
「簡単って、運転手の仕事のこと? たしかにこの町の運転手なら、むずかしくないでしょうね。
道だって、そうたくさんあるわけじゃないし」
「一方通行が多いのが苦労しますけれど、悪い町ではない」
「そう?」
悪い町ではない、というところは反論したいところである。
しかし、わたしのそんな気配を察したのか、かれは話題を切り替えた。

「いろいろ調べてみたのですけれど、坂戸神社の由来は面白いですね。
かの天照大神が弟の乱暴狼藉に怒って天岩戸に閉じこもったときに、世が闇につつまれてしまったので、天鈿命がゆかいなおどり…ストリップだったという説が有力だそうですが…を踊って神々がおおいに湧いた。
それをなにごとかとのぞき見て、天照大神が岩戸をすこしひらいたのをみはからって、力自慢の神が扉を跳ね飛ばした。
その扉が大きく飛んで行って、いつしか海に流された。流れ流され、この海に漂着した。
ひろった扉を坂の上に祭った神社。だから『坂戸』。
とすると、この土地の旧家が交替でまもってきた宝は、その岩戸ということになりませんか。
けれど、旧社殿に岩戸らしいものはない。どこへ行ってしまったのでしょう」

その由来は、この町の住人なら、幼稚園児でもしっている。
おゆうぎ会や学芸会などで、くりかえし演目にえらばれるほど、この町では浸透している『神話』だからだ。
しかしあらためて指摘されるとそうで、神宝は『天岩戸』でなければおかしいのだが、それらしいものを、わたしは一度も目にしたことがない。

「わからないけど、でも、ずいぶん祭に興味があるんだね。どうして? 
もしかして、じつは民俗学者さんとか?」
わたしがたずねると、かれは、またも意図の読めないアルカイックスマイルでもって答えた。
「気になさらず。それよりも、今日はゆっくりお休みなさい」
「眠れそうにない」
「噂が気になりますか。人の噂も七十五日といいますよ」
「祭までには消えないってことでしょ。だから、お父さんたちが焦っているの」
「勝手に焦らせておきなさい。君は堂々としていればいい。
でも、サボリはもうしないほうがいいね」

そうして、はじめてようやく親しい口調でかれは言うと、別れのあいさつのつもりか、手を軽く振って、夕闇のなか、歩いて消えていった。

3へつづく
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