春のなごりに
1
わたしは、自分がきらい。
わたしの自分のクラスがきらい。
学校がきらい。
父がきらい。
この町がきらい。
この町をふくむ、すべての世界が大きらい。
「おっはよー」
あまり起こす気のない声に目を覚まし、わたしはいつもの癖で、腕時計で時間を確認する。
ちょうど六時間目がおわったころだった。
そうじの時間を告げる校内放送がながれているが、この学校で、まじめに掃除する生徒など一握りだ。
起き上がろうとして、わたしは鼻につんとくるにおいに気がついた。
わたしの制服の上着を手に、養護の先生が枕元にすわっていた。
保健室の壁には、でかでかと『たばこの実害について』というテーマで、まっ黒になった肺の写真が掲示されているというのに、このひとはおかまいなしに、毎日、堂々とたばこを吸っている。
わたしがたばこの煙がきらいだということを、浮かべる表情でわかっているはずなのに、やはりかまうことなく、このひとは、空中に大きく白いけむりを吐き出した。
「益田宮子、わかっていると思うけど、保健室はホテルじゃないからね。
あんたが寝たあとのシーツとか、交換するのはあたしなの。
ちょっとは迷惑だなと思うなら、ほかに寝る場所をさがすとかしたらどうなのよ」
わたしは、自分の名前が好きではない。
それはまだ会ってから間もないときに、このひとに伝えたことだった。
ところが、このひとときたら、それを知っていて、わざと名前をフルネームで連呼するのである。
「宮子って名前がよくないんじゃないの、いっぺん、姓名判断で見てもらったら。
あたしが知っている宮子って女も、主体性のない、自分ばっかり可哀想がっている女だったわね。
あんたみたいに、やったら髪が長くってさ。切らないの、それ。
洋式の便器とか座るとき、困らない?」
そうして寝起きのわたしをちくちくといじめて楽しむのが、このひとの日課になっているようだ。
腹が立たないといったら、うそになる。
けれど、腹が立つのに、わたしがほとんど毎日、保健室に来てしまうのは、このひとは、よそで寝ろとはいうけれど、寝るなとは言わないからかもしれない。
そして、わたしが昼間にねむる理由を、このひとは詮索してこない。
養護の阿部は、女のわたしから見ても美人だと思う。
顔立ちはそう目立つほどではないけれど、スタイルがよくて、服のセンスもいいし、化粧もうまい。
暇さえあればたばこを吸っているひとだから、だらしない印象があるけれど、背筋はいつもしゃんとしており、顔の表情にも張りがある。
年齢不詳だが、高く見ても、三十代前半といったところだろう。結婚指輪はしていないし、独身のように思える。
わたしは、このひとの流儀にしたがって、あれこれ詮索しないことにしていた。
わたしが黙って制服に袖をとおしていると、阿部はたばこをくわえたまま、白衣のポケットに両手をつっこんで、言った。
「さっき、あんたのクラスの子たちが、あんたの具合はどうですかーって聞きにきたわよ」
またか。
まだすこし眠気がのこっていたが、阿部のことばで一気に目が覚めた。
聞かなくても、だれがやってきたのかはわかっている。
そして、彼女らが、わたしを心配して保健室にやってきたのではないことも、わかっている。
彼女たちになにをしたというわけでもないのに、彼女たちは、わたしが気になって仕方がないらしい。
いや、もっというならば、わたしが許せなくて、しかたがないらしい。
理由はよくわからないけれど、彼女たちから言わせれば、すべての存在が許せないそうだ。
だから、わたしをずっと気にして、餌にして、自分のプライドをたもたせるために、言葉でもって、けんめいに落とそうとする。
こういう目に遭うのは、はじめてじゃない。
だから、抗弁したところで、どうにもならないことも知っているし、彼女たち以外のクラスメイトが、助けてくれるようなこともないことを知っている。
黙っているというだけで、ほかの子たちも、似たりよったりだ。好きじゃない。
「あんたって、覚悟のない子よね」
阿部が言った。
貴重な意見だ。
わたしが午後になると保健室で眠ることを、先生たちは、単に病弱なのと、遅れを取り戻すために夜に勉強をしている反動がきているのだと、いいふうに取ってくれている。
わたしの父が、この町の町長をつとめているということも関連しているのかもしれないが、わたしは、あまり偏差値の高くないこの学校では、いちばんの優等生ということになっていた。
おそらく、そうしたところも、彼女たちの鼻につくのだろう。
仲良くなりたいなんて思ってないから、どうでもいいけれど。
「あいつらのことなんてどうでもいい、って態度を取っておきながら、心のなかじゃ、いつもあいつらを気にしているじゃない。
あいつらが、自分をどう言っているのか、教室じゃ、本を読むフリをして耳をそばだたせている。
どうでもいいってほんとうに思うなら、もっと毅然とすればいいのに、そうもできない。
あんたって矛盾だらけ。覚悟がでてないのが顔に出ているのよ。
だからつけ入られるっての。あの子たちをいちいち追い返す、あたしの身にもなってよね、ガキの喧嘩に巻きこまれるなんて、面倒くさい」
「面倒なら放っておけばいいじゃないですか」
「そうもいかないのよね。保健室に鍵をかけておくわけにはいかないし。あんたがここで寝ないようになったら、楽なんだけど」
つまり、追い出したいというわけか。
どうでもいいと思う反面、憎まれ口ばかり叩く阿部を困らせてやりたいとも思う。
わたしは制服のリボンを結びながら、いった。
「じゃあ、ほかのどこかで寝ますけど、そうなったら、先生、万が一のときには証言してくれます?
保健室を追い出したから、変なところで寝てたって」
「変なところってどこよ。男とホテルにでも行くの」
「行きません」
わたしが顔を赤くして否定すると、阿部は、してやったりというふうに、いじわるく笑った。
わたしが潔癖症だということを知っていて、このひとは、平気であからさまなことを口にする。
なにか言ってやりたいが、これといった言葉が出てこない。
ことばが出てこない理由は、阿部がわたしをよく知っているのに対して、わたしは阿部をよく知らないからだ。
「ほかに、眠れるところがないんです」
「家に帰ったらいいじゃない。ここで寝ようが、単位はつかないのよ」
わたしは黙った。
家には、もっと帰りたくない。
それなら、あのひとたちの陰口を気にしながらでも、教室で授業を受けているふりをして寝ていたほうが、ずっといい。
「家に帰りたくないんでしょう」
わたしの心を読んだかのように、阿部は、にやにやと笑いながら言った。
「聞いたわよ。家じゃ、お父さんともまともに顔をあわせないんですってね。
食事も部屋で引きこもって食べてるって?
あんたって、ほんとうに孤独な子ね。かわいそ」
ちっともかわいそうがっていない口調で、阿部は面白そうに言った。
このひとは、なんだってわたしにいやな言葉ばかりぶつけてくるのだろう。
いらいらしながら、わたしは答えた。
「べつに、孤独だってかまいません。あのひとたちに頭をさげてクラスに戻るのもいやですし」
「頭をさげる必要は、ないじゃない?」
「言ってたんです。町長の娘だかなんだか知らないけど、ともかくムカツクし、女として許せないから、あいつが謝ってきたら、教室に入れてやろうって」
「そんな権限、あいつらにないでしょうが。ばっかばかしい。
ガキの発想ってやつね。無視しなさいっての」
「無視なんてできません。だって、ほんとうにうるさいんです。
授業中でも、休憩中でも、いつだってわたしの悪口ばかり言っているんです。
やめてもらうのは、ほんとうに、頭をさげるしか、ないかも」
わたしが言うと、阿部は、たばこのけむりを、はあっ、と大きく吐き出した。
わたしはなんとなく、漫画の吹き出しを思い出した。
「言われるから、なんだってのよ。あんたのそういう、いかにも『気にしてません、というのは嘘です』って態度が、余計にあいつらを増長させてるんじゃないの?
で、ますます言われて、あんたは夜は眠れず、保健室に逃げちゃあ、また言われる材料を自分で提供する。
あのね、人にわざと聞こえるように嫌味を言ったりして喜べる人間は、病んでいるか、感受性が低くて育ちが悪いか、どっちかよ。
っていうか、もっと痛々しいことに、自分たちのことばがあんたに聞こえてないと思い込んでいるのかもね。
だったら、もっとあんたが気にする必要ないじゃないの。
あんたもちゃんとそれくらいはわかっているんでしょ。なのに気にして、ばかじゃない?」
わたしは、正面から阿部を睨みつけて、言った。
「夜は眠れています。あのひとたちのことでなんて、悩んでいません」
わたしが睨んでも、阿部は、まったくひるまない。
とても図々しい女なのだ。
「どうだかねー。半分は当たってるんじゃない?」
「どちらかというと、あのひとたちの言葉より、先生の言葉のほうがイヤです」
すると、また嫌味でかえされるかと思いきや、阿部は意外に、すこしだけ口調をやわらげて、言った。
「あんた、もしかして、あたしがあいつらの仲間だと思ってない?
あいつらに似た価値観とか持っている、早々と人生をこんなもんだとあきらめて、男の価値観に自分をとじこめて迎合していることに、まったく疑問をもたない女にさ」
たしかに阿部と彼女たちの共通点は、厚めの化粧であるが、阿部のほうは、社会人ということもあるのか、見苦しいほどの厚さではない。
「あたしが派手にしているように見えるんだったら、いっとくけど、男の気を引くためじゃないからね。
サカリのついた猪じゃないんだから、見た目だけから入ろうとする男をちょっと引っ掛けるために、苦労して早起きなんざするもんですか。
あたしはね、美人のあたしが好きなの。だから着飾って、最高の化粧をするわけ。
まあ、でも、あんたみたいに、『あたしは真面目です! 化粧なんて不良です!』って感じに、なにもしなさすぎるのも、ちょっと許せないけど」
「生徒の化粧は校則違反でしょ」
「ファンデーションをぬれとはいわないけど、せめて日焼け止めでも塗れば? それと、その眉、すこし切るか、整えるかしなさいよ。
毛虫がのたうちまわっているみたい」
「ひどいですか」
「あんたは、もとの容姿がそこそこいいことに、感謝すべきよね。それで人並み以下だったら、ただの不貞腐れたブスよ」
「じゃあ、いまのわたしはなんですか」
「不貞腐れた世間知らずのガキ。あんたのこと嫌っている、あいつらもばかだけどさ、あんたは種類のちがうばか。
どこで仕入れたんだか、変な哲学を持っちゃっている分、厄介なばか。
あんたって、自分が世間から認められてないとか、思ってない?
優等生って身分を思い切り利用して、毎日のように学校をサボっているくせにさ。
そういう図々しさが、あんたに友だちがいない理由でもあると思うのよ。
どう、自覚ある?」
「よくそこまで言えるもんですね。なんの権利が、あなたにあるんですか!」
わたしが言うと、阿部は、しれっとして答える。
「だって、あたしは先生だもの」
こういうのを、暖簾に腕押しとかいうのではなかろうか。
阿部に反撃すべく、わたしがいろいろと言葉を吟味していると、タイムアップを告げるノックの音がした。
迎えの車が来たのである。
父は、わたしが夕方から夜更けのあいだに、きちんと塾に行っているのか、心配している。
この学校のなかでは成績はトップでも、全国模試でのランクは、このところ下がり続けていることも原因だろう。
だから、わたしの監視役という意味もこめて、わたしに専属の運転手がつけてきた。
町長の娘といっても、そうたいした家の娘ではない。
学校の外からも、わざわざ運転手だなんて、セレブ気取りだと、ばかにされていることを、わたしは知っている。
わたしを籠のなかに押し込めようとすればするほどに、父は、母の影を濃くしていることに気づいているだろうか。
町のみんなは、父が、わたしが母のように、この町から逃げてしまうことをしんぱいしているのだと、笑っているのに。
「準備はよろしいでしょうか、お嬢さま」
と、運転手は言った。
わたしは、やはり年齢不詳の運転手に、お嬢さまはやめてくれと言ったのであるが、かれはまったく言うことをきかない。
敬語もやめてくれと伝えたのに、やっぱり聞いてくれなかった。
理由は、
「そうした区分けはきっちりするべきだ」
というものであった。かれなりの哲学なのだと思う。
すこし偏屈なところがあるが、この運転手は、いい人のように思える。
車内では、ふつうに会話する。かれがどこの出身かは知らないが、むかしにあちこちを旅したことがあるそうで、いろんな土地の、いろんなことを知っている。
すこしまえにカーラジオでシャンソンが流れたときがあって、おそらく無意識にだろうが、一緒に唄っていたが、その発音は素人の耳にも、流暢だった。
どうして、こんなひとが、こんなつまらない町にいるのか、よくわからない。
父の秘書たちから漏れ聞いた話によれば、若い男がわたしの運転手として抜擢された理由は、かれが男と住んでいるからだということである。
つまり、そういう人らしい。
だから父は、かえってわたしが安全だと思ったのか。
けれど、その噂も、最近はあやしくなってきた。
というのも、運転手が、わざわざわたしを保健室にまで迎えにくるのは、阿部が目当てではないかと思うからである。
運転手は、わたしを気にしているのか、あまり積極的に阿部と話をしないのであるが、しかしその目線は、しっかりと阿部をとらえている。
そして阿部のほうも、わたしにあれだけぎゃあぎゃあ言っていたのに、かれがやってくると、ぴたりと大人しくなるのだ。
そして、そらぞらしいほどに、ふたりは、わたしの前ではあいさつ以外の会話をしない。
「そろそろ祭ですね」
わたしの鞄を代わりに持ってくれながら、かれは言った。
学校に貼られた、地元の祭りのポスターに気がついたようだった。
祭が近づいていることも、わたしが憂鬱になっている原因のひとつである。
「祭に参加するのは、わたしは始めてなんですが、おもしろい祭ですね。
それぞれ地元の旧家があつまって、それぞれが籤を引く。
籤引きに当たったものが、坂戸神社の神宝を保管する役目を引き受ける。神宝を見ることができるのは、社を開くときだけ。
神宝をもったいぶる意味はわかるが、保管の係を籤引きで決めるというのはめずらしい」
規則正しい足音をたてて、かれは歩く。
かれの整いすぎている柔和な容姿は、まったくわたしの好みではないが、さっそうとした立ち姿は、見ていてきもちいいので、好きである。
「籤引きは昔の名残りなんだって。保管係は、役目を終えると、首を落とされたんだって」
わたしのことばに、かれがどう反応するか見たかったのだが、しかし、残念なことに、あいかわらずのアルカイックスマイルでかわされた。
「首を落とされたとは物騒ですね。なぜですか」
「知らない。ほんとうに首を刎ねたりはしなかったそうだけれど、籤に当たると、かならず保管係の家には不幸があったって。
人が死んだり、失踪したりするの」
そして十三年前、わたしの家が保管係に決まったとき、母は町から逃げ出した。わたしと父のふたりだけを残して。
「それは嫌ですね。でも今年は例外でしょう。
保管係は益田の家だと聞きました。いまのところ、なにも不幸はないと聞いています」
「祭りまであと何日か残っているでしょう。わからないわよ」
言ってから、わたしは少し後悔した。
この運転手は、そらとぼけた顔をしているけれど、意外に観察力がするどい。
そして、いかに親しげにしてくれていようと、父の雇った人間なのだ。
「ところでね、塾なんだけれど、今日も、わかってくれる?」
わたしが話を変えると、かれは承知している、というふうに、わたしを振り返って、にっこりとあざやかに笑った。
その笑みがとても魅力的なので、この人は、相当に遊んでいるのじゃないかしらと、思うときもある。
こういうふうに笑える人なら、わたしのような悩みもないだろう。
学校ではクラスメイトからいじめられ、家では居場所がなく、塾にしたって、わたしの知り合いはだれもおらず、いても、ほかの学校のグループに入ってしまっていて、わたしはどこにも属せない。
わたしの味方は、だれもいないのだ。
車内での会話は、あまりはずまなかった。
かれはしきりに祭りのことを気にして、うちが保管係として、どういう神事をおこなうのかを聞いてくる。
神社をあずかっているのは、実際には自治会なのだが、形式的には保管係の未婚の娘ということになっていること、祭りでは、未婚の娘(つまりはわたし)が神宝を取り出し、籤引きを執り行うこと、あたらしい保管係の娘に、いま持っている神社の鍵を渡すことが役目だと答えておいた。
かれはわたしの答えに、運転中でも、メモでも取り出しそうな勢いで熱心に聴いていた。
思うに、わたしがこのひとを、父の回しものだと思っていながら、嫌いになれないのは、ほんとうに人の話を熱心に聞いてくれる人だからなのだろう。
まだ空は青く、たそがれる気配もなかったが、車は塾には向かわず、神社への近道である坂戸山の裏手に止まった。
坂戸神社は、このちいさな山のてっぺんにあり、海が埋め立てられる前は、海岸線の正面にあったそうだ。
神社はこのあたりではいちばん大きいので、初詣や七五三のときには人があつまりやすい。
わたしが名目上は管理している神社は、社務所にちかい新殿のほうではなく、古くからあり、だれもめったに足を運ばない旧殿のほうである。
旧殿は、新殿とくらべると、びっくりするほど小さく、古びた雰囲気が、どこか陰惨ですらある。
百年前までは、籤引きに当たったものを、この神社の前で、役目が終わったとたんに斬っていたと知っているから、そう思うのだろうか。
わたしも昔に生まれていたら、おなじ運命をたどったはずである。
裏手に行く道には途中で門があり、これには鍵がかかっている。
理由は知らないが、むかしは、裏手から神社に入って、いたずらをする者がいたからなのだそうだ。
神社のほかにはなにもないところで、なにをするというのか、理解できない。
わたしには、旧殿の扉の鍵のほか、この裏手の門の鍵も預けられている。
車から降りると、わたしはいつものように、周囲にだれもいないことを確認して、それから門を開いて、神社への坂道をのぼった。
鬱蒼とした林も、防空壕があったというデコボコした斜面も、気にはならない。
登っていく途中で、車の発進する音が聞こえないので、振り向いて見れば、運転手は、車のそばに立って、わたしのほうを見ていた。
けれど、見ているだけで、なにをするでもない。
わたしが振り返ったのを知ると、かれはのんきに手を振ってきた。
そして、わたしは思った。
まだ、かれの名前を知らなかった。
旧殿のなかにあったノートを見つけたのは偶然だ。
ひとりになれる安らぐ場所がどうしてもほしくて、あちこちを探し回っていたときに、この神社のことを思い出した。
神宝があるという所で、見つかったら、叱られるどころじゃすまないということはわかっていたけれど、ほかにいい場所が思いつかなかった。
そうして入り込んだとき、神宝だという丸い鏡のその前に、捧げるようにして置いてある、古いノートを見つけたのである。
すこし気味悪かったけれど、中を開いてみて、おどろいた。
それは母の手記だった。
おそらく、以前に益田の家がおなじく保管係になったとき、母が、わたしの代わりに、ここの鍵を預かったのだろう。
そして、家を出る直前まで、自分の気持ちを、このノートに綴っていたのだ。
母もわたしと同じように、自分の居場所がないと感じていたと想像したとき、それまで遠い存在であった母が、急に恋しくなった。
父は、母の影響をおそれて、家にあった母の写真をすべて燃やしてしまった。
だから、わたしはよその家のアルバムでしか、母の姿を知らない。
残念ながら、わたしは母に似ず、父のほうに似た。
だから、アルバムを見せてもらったときも、教えてもらうまで、その人が母だということがわからなかった。
きれいな人だったということが、うれしかった。
が、すこし怖くもあった。
母は、わたしとは正反対に派手な人で、一瞬、この人は、わたしと他人であったら、仲良くできただろうかと考えて、悲しくなった。
母は、どの写真を見ても、きれいに化粧をして、目立つ原色の色の服を身につけていた。
色が白くて、あでやかな色の服に身をかためた母は、あきらかに周囲の、むかしからの港町の同世代の女性たちから浮き上がっていた。
おそらく、それは、見た目どおりだったのだ。
写真では、いつもファインダーに向けて、ピースサインと笑顔をふりまいている母が、ノートのなかでは、どうしても町になじめないと嘆いていた。
なにをしても、なにを言っても、いじわるな人たちに曲解される。
あからさまに嫌味を言われる。
全存在を否定するような、ひどいことも平気で言われる。
けれど、町長の妻だから、むっとすることも許されず、つねに笑顔でいなければならない。
自分の感情に素直になろうものなら、たちまち批難を集中的に浴びてしまうからだ。
そうして辛抱して辛抱して、でも認めてもらえず、母はついに絶望する。
最後のページは、もう耐えられないということと、耐え切れなかった自分を責める言葉、そして残していくわたしへの謝罪のことばが綴られていた。
わたしの最近の日課は、まるで自分のことが、そこに綴られているようなノートを、塾が終わる時間になるまで読み返し、そして、いまはどこかで暮らしているだろう、母のことを想像することだった。
噂では、母は、東京に行ったらしい。
東京には行ったことがない。
テレビで見ただけだ。
怖そうなところだけれど、母はもともと東京のほうの人だったというから、きっと『戻る』という感覚だったのにちがいない。
人も風景も田舎すぎる町、単純で頑固で、自分たちとちがうものをけっして認めない、いやな町。
わたしは、祭りが終わったら、この町を出て、母のところへ行くことに決めていた。
IT教室から明かりが漏れており、阿部がのぞいてみると、一台のパソコンをまえに、女子生徒たちがあつまって、なにやらひそひそと作業をしていた。
一見すると楽しそうだが、実際はそうではないことを、阿部はすでに見抜いている。
少女たちはともに行動しているけれど、それは愛情や友情によって結束しているのではなく、惰性によってのみだ。
彼女たちは、たがいにたがいを軽蔑したり、呆れたり、あるときは恐れたりもしているのに、輪からはずれることがおそろしくて、本音を口にすることができないでいる。
益田宮子とこの少女たちと、どちらが不幸なのか、阿部にはわからない。
わかることは、少女たちが妬み、こき下ろしている、誤解されやすい優等生の益田宮子よりも、こうして内心では鬱屈したものをかかえながらも、それなりに毎日を楽しく送っているように見えるこの娘たちのほうが、ふつうの安定した人生を送れるだろうということである。
卒業して、就職するか、専門学校へ行くかして、てきとうに遊び、適度によい相手を見つけ、結婚し、子供を産む。
突出した生き方ではないから、葛藤のすくない人生を送れることだろう。
一方で、あれこれと考えすぎるきらいのある益田宮子は、頭がよいのが仇になって、悩まなくていいことまで悩んでいる。
話し相手がいない、ということも問題だろう。
だから、あんなものにつけ入られてしまうのだ。
「なにしてんの、あんたら。下校時間、過ぎてるわよ」
阿部が声をかけると、少女らは、文字通り、跳ね飛びそうな勢いでおどろいて、振り向いた。
なんでもっとも健康でうつくしい肌をしているときに、それを隠すようにヘタな化粧をするのだろう。
「なにしてんの」
阿部が近づくと、少女たちはパソコンの電源を切ろうとした。
させまいと、阿部がちらりと、主電源ボタンに指を伸ばした少女のほうを見ると、とたん、少女はおどろいて、身を引いた。
静電気が起こったのである。
「帰りなさい。パソコンは、わたしが片付けておくから」
阿部のことばに、少女たちはたがいに気まずそうに顔を見合わせた。
ろくでもないいたずらをしていたらしい。
なにか言いたそうな少女たちは、甘えるように阿部に媚びた笑みを浮かべてくる。
そういう類いの表情は、阿部にとっては見慣れたものであったが、もっとも嫌いなものでもあった。
「帰れって言ったの。あんたたちの耳は飾り? それとも日本語がわからない? どっちにしろ馬鹿丸出しってこと。目障りだから、とっとと消えなさい!」
阿部の言葉は、けっしてきいきい喚いているものではないのだが、口調がはきはきとしているために、少女たちは、意味をそのまま丸ごとぶつけられるような感覚になる。
目を白黒させている少女らに、出ていけ、というふうに入り口を指すと、彼女たちはあわてて出ていった。
「いやな連中」
つぶやいて、阿部は、少女たちが隠そうとしていたものを見た。
そこには画像があり、どうやら相当にパソコンのスキルが高い生徒がいるらしく、不鮮明なアダルト画像に、益田宮子の顔が合成されている。
それがインターネットのアダルト画像サイトに公開されていた。
顔だけが鮮明で、首の角度も奇妙な、だれが見ても不自然な画像である。
「ばからしい」
おおいに眉をひそめて、阿部はパソコンの電源を切った。
「消さなくていいの」
声がかかって、見れば、宮子の運転手である。それが、扉にもたれるようにして、面白そうに阿部を見ているのであった。
阿部は、おもわず腕時計を確認した。まだ宮子の塾が終わった時間ではない。
「あんた、あの子を一人にして大丈夫なの」
阿部がたずねると、運転手は肩をそびやかして、答えた。
「守り用の使い魔をつけているから、問題はない。
『あいつ』は、こちらが仕掛けないかぎりは、反撃しないだろうからね」
「ただ消去するだけの仕事だと思って油断して、あとで痛い目にあっても知らないわよ」
「大丈夫だとは思うけれど」
言いつつ、運転手は、頭をかいた。
「なにか言いたそうね。見当はつくけど」
「なら直球でたずねるが、君はどうしてあの子をあんなふうにいじめるのだい。
あの子は、われわれの感覚の十七歳とはちがう。まだまだ子供なんだよ」
「甘いわよ。それでも身体は女なわけじゃない。
それに、本人は、子供のつもりはないわよ、あれ。だから怖いんじゃない」
阿部のことばに、運転手は器用に片方のまゆげを釣り上げた。
「なんだ、やっぱり心配していたのか。
けれど、当人には伝わってないようだったよ」
「心配なんて、してないわ」
阿部は言うと、鼻を鳴らして、ポケットからたばこを取り出し、火をつけた。
「わたしはね、ムカついてんのよ。これだけ選択肢の用意されている世の中で、いったいなにを迷って、おろおろしてるのか、ってね」
「言えば伝わるというものだろうか」
「全部を伝えて、押し付けようとは思ってない。
けれど、考えるきっかけはできるはずよ。
とことん考えて、自分のことを突き詰めていけばいい。それができないんなら」
「なら?」
「死ねばいい」
「本気で言っているのかな」
「本気よ。そのほうが、あの子にとってはつらくないはずよ。
女になったことのない、あんたにはわからない感覚よ。
選択肢はある。けれど、それを選ぶのにはとても力がいるの。
他人から見りゃ、あの子は可能性の塊で、だからこそ妬ましいというのもあるんでしょうけれど」
「当人はそうだと思っていない」
「自信がないのよ。だれもあの子を認めていないから」
「そこまでわかっているのに、死ねばいいってなるのかい」
「それじゃ逆に聞くわよ。仮にあんたかあたしのどちらかが、あの子を認めてやったとして、じゃあ、どうなると思う?
答えは簡単。あたしたちがいなくなったら、あの子は、ほかに認めてくれる人間を探そうとするわ。
あの子はよそから見れば、利用価値の高い子よ。
野心ばっかり高くて、中身のない、くっだらない男も近づいてくるでしょうね。
愚かさに気づいたときには、あっという間に老けている、なんて人生になるかもしれないわ。
そんな人生、なにが楽しいの」
「君は楽しくなかったの」
運転手のことばに、阿部は苛立ちを隠さず、白い煙を大きく吐き出した。
「あたしの詮索はいらないわ。
むかし、あたしの家庭教師がね、よく言っていたものよ。
あんたみたいな補佐役を見い出して重用しなさいって。
けど、そうしなくて正解。きっと喧嘩ばかりしていたでしょうね」
「それはそれで楽しいかもしれないよ」
運転手が気楽そうにからから笑うのを、阿部は目を細めて言った。
「基本的に、あたしは争いが嫌いなの。
和を尊ぶ、ばりばりの日本人だもの。そろそろあの子の迎えの時間でしょ」
「まあ、行くけどね」
踵を返そうとした運転手であるが、ふと、立ち止まって、首だけを阿部のほうに戻した。
「そうだ、今日は、うちはシチューなのだよ。わたしのかれは料理がうまい。
よかったら来ないか」
「いらないわ。馴れ合いはしない主義なの」
「そうかい。残念だな」
ほんとうに残念そうにいうが、そこで嗜虐心をうごかされた阿部は言った。
「それと、あんた、『わたしのかれ』って言い方、やめなさいよ。
それだからゲイだと勘違いされるんじゃない。それとも実際にそうなの?」
「もしそうだったら、わたしは君や宮子にとって、もっとも安心な男ということにならないかな」
「ならないわ。男が好きなのに、女とも寝れる男って、知っているもの」
「そいつは貞操というものを知らない」
「でしょうね。仕事っぷりはよかったけど、やっぱり最低な男だった」
「君は男運がないんだな」
「あら、反撃? でもそれは言い返せないわね。
あたしが最高だと思った男は、みんなが最低と言った」
「最後は、そうじゃなかっただろうに。そう自分を卑下するものじゃないよ。
君はよくやった。だから、ここにいる」
「あんたって人たらしよね。あたしは騙されないけど」
「騙されたくなったら、いつでも言ってくれ」
「向こう千年はないわ」
「では千年後に。
さて、お嬢さまの迎えに行こう。君も、気が向いたらうちにおいで。
それではね」
運転手は軽く阿部に手を振ると、そのまま、文字通り、空気に溶け込むようにして、消えた。