Give Birth to Heaven・22
※ この話は、「Give Birth to Heaven・21」のつづきとなります。
地上のこり2、3メートルという高さになってきて、はじめて大きな白い鳥にしがみついている黒装束の男は、ケマルらに声を発した。
「いまから落ちるよ! いまから落ちるよ! 落―ちーるーよ!」
くどいくらい落ちるということをくりかえし、男はぱっと白い鳥の足から手を離すと、たっ、と地上に降り立った。
とたん、漆黒の闇の色をしたガウンの裾がぶわっとバルーンのように広がる。
ガウンの下はかぼちゃパンツにタイツといった出で立ちで、男の頭には控えめに羽飾りのついたふちなしの帽子が鎮座ましましている。
どうみても現代の風俗ではない。17世紀のエリザベス朝時代の服装だ。
男が地上にたどり着くと、それまで空を飛ぶことを支えていた鳥は、
「それではわたしは上空で待機しております。ご用のさいにはお呼びください、卿」
といいながら飛び去っていった。
あまり活動的とは言いがたい、どこかもったいぶった感のある衣裳をまとった、目の下のくまのせいで表情が乏しく見える男は、ケマルとイスメトを振り返ると、唐突に言った。
「端的に申し上げる、トルコの諸君、挨拶は抜きだ。レティクルたちは当山孔真君の提案をベースとする最高府の提案を蹴った。
明日、この世界に一斉攻撃をかけ、千台家の人間と夏目家の人間を確保できなかった場合には、そのまま新しく当山孔真君が作った世界にも急襲をかけると言い放った。
これを受けて最高府は、レティクルたちが攻撃をかけてくる明日の朝、この世界と新しくできたGBHの世界を汎世界の環から切り離し、かれらを迎撃し、消滅させることを決定した。
要するに、この世界は明日、戦場となるのだ。最高府は最高戦力をここに投入し、ながくつづいたレティクル問題に区切りをつけるつもりである。
この世界から撤退するならばいまのうちだ。わたしが援助するので、下宿先へ向かうならば申し出たまえ」
一気にまくしたてた男であるが、その言わんとすることは重大である。
イスメトはまずいことになったなとケマルを見た。
事態がまずいことになった、のではなく、ケマルの機嫌が気にかかる。
最高府が介入してきて、レティクルを潰そうとしている。それは、ケマルがいましがた夢のように描いていた、レティクルを指導してあたらしい社会をこの世界で作ろうという計画と真っ向からぶつかる。
とはいえ、最高府に非があるというわけではない。何者かはわからないが、男の言うとおりであるとするならば、悪いのは最高府の最良ともいえる提案を蹴ったレティクルのほうにある。
なぜこんないい条件をつけられて、レティクルはそれを拒否できるのだろうか。
ケマルのほうはというと、男の言葉を吟味していたが、やがて、それが自分の思惑にいちいち反することだと気づいたらしく、興奮した雄牛のように顔を赤らめ、そして男が最高府そのものであるかのように、つよくねめつけた。
「交渉に当たったのはだれだ。きっとよほど下手な交渉をしたにちがいない! でなければ、レティクルがこれほどよい条件を拒む理由がわからん!」
「吸血鬼が介入しているとの見方が出ている。未来が変わってしまえば、自分たちは丸ごと消滅してしまうのだと思い込んでいるのだ」
消滅してしまうかもしれない、という危惧は当然のことで、その可能性を打ち消すわけにはいかない。
「吸血鬼だと? 例の青髭か! やつはいつも、要所要所にあらわれるな。しかし、なぜレティクルをたぶらかす」
「レティクルが存在していたほうが、世界の混乱がより深まり、かれらの餌となる只人の魂が大量に手に入るからだ。
当山孔真君の提案をベースにレティクルが最高府の条件を呑めば、吸血鬼も収入が減る。そういうことだ」
「いつの世も、戦の要因をたぐると、腹が立つほど自分勝手なやつがいるものだが、今回は吸血鬼か。わかりやすくてよいが、しかし腹が立つ! それに、君!」
と、ケマルは、目の下のクマのせいで、垂れ目に見える白人の男をずばり指差した。
「誰だか知らぬが、言葉には気をつけたまえ。撤退とぬかしたようだが、余は撤退などせぬぞ!」
「撤退という言葉が気に入らなかったのならば謝罪し、あらためて言い直そう。下宿先へ帰還し、あとは最高府に任せたまえ」
しかしケマルは居丈高に顎をぐっとあげると、言い放った。
「それは最高府の命令なのか。だとしても、余はそれを了承せぬ。撤退も帰還もしない。戦場となるのならばしかたがない。余もここにとどまり戦おうではないか」
「どちらの味方として」
「もちろん、総攻撃のはじまる明日の朝までに吸血鬼どもを駆逐するのだ!」
「ほう」
黒装束の男は、さして驚いていないようであったが、すこしだけ眉を上げ、肩をすくめてみせた。
「物好きな。なぜレティクルどもを守ろうとする」
「レティクルとて、未来人でヒヒイロカネを所有する危険な集団ではあるが、アトラ・ハシースが守るべき只人であることには変わりがない。だから、かれらのために、アトラ・ハシースとして戦うものである。問題が?」
「いや、ない。完全なる者よ、しかし一人で戦うのはむずかしかろう」
冷静に指摘されて、さすがのケマルも次の言葉を失った。
ケマルは勇敢で向こう見ずであるが、莫迦ではない。
作戦もなしにおのれの能力に頼りきって突っ込めば、まちがいなく負けるだろうことはわかっているのだ。
「ところで君、君はだれだ」
口調をあらためて、ケマルは男の素性を探ろうとする。
すると男は、また肩をすくめて、なにをいまさら、というふうに答えた。
「わたしは最高府の命令を受けて、この世界に留まっているアトラ・ハシースおよびアストラルを回収すべくやってきたエージェントだ。
名前はフランシス。フランシス・ウォルシンガム」
「なんと、女王陛下のスパイではないか」
かの有名な映画をもじってケマルが驚いて見せると、ウォルシンガムはむっとして浅黒い顔をゆがめてみせた。
「スパイではない。スパイとは、小者がなる職業だ。わたしはちがう」
「スパイの長。つまり007でいうところのMのようなものかな」
イスメトが言うと、ケマルは自分からスパイネタを振ったわりには冷淡にそれをはねつけると、言った。
「MだろうとNだろうとどうでもいい。エリザベスの国務大臣ではないか。それがどうして女王のそばにおらず、最高府の使い走りをしているのだ」
とたん、ウォルシンガムの、さほど動かなかった表情に、奇妙な影が差した。それは図星を指されて痛がっているようにも見えるし、一方で、むずかゆさに困って、思わず笑ってしまっているような表情にも見える。
「陛下は、わたしがそばにいることを喜ばれない」
ウォルシンガムが信頼されていた一方で、あまりにエリザベスの身近にありすぎたので、敬遠されることもあった、ということは、ケマルもイスメトも知っていた。
ウォルシンガムにしてみれば、エリザベスは豪胆だが、女性らしい繊細さも残している、扱いづらい娘のようなものであったのかもしれない。
エリザベスと行動を共にしないことに対し、なんらかの複雑な心情がそこに含まれているのか。
「陛下は、わたしを毛虫のように嫌っておられる。そして、わたしを見ると、その」
「その?」
だんだん、ウォルシンガムの様子がおかしくなってきた。
暑くもないのに、汗をたらしはじめ、次第に息も荒くなっているのである。
「そのう、つまり、わたしを見ると、罵倒するのだ。激しく、滝のような勢いで、ああ!」
最後のああ、は、恍惚状態から搾り出したような、聞くものを思わずうろたえさせる響きがあった。
思わず、イスメトとケマルは顔を見合わせる。
どうやら、この男、その手の趣味があるらしい。
「それが楽しみで楽しみで、思わず嫌われるようなことをあれこれとしてみたり、もう!」
なにを想像したのか、ウォルシンガムは、自分で自分の体をぎゅっと抱きしめ、うれしそうに顔をゆがめて、ぶるりと震えてさえみせる。
「もう、ではない! 変態大国イギリスの恐怖の使者め、もうここには用がないはずだぞ、さっさと去れ! 余は吸血鬼と戦う。だれに伝えるのかはわからぬが、最高府のところへ戻って報告するがよい」
「男に罵倒されても、なにも感じない」
「そうかい」
呆れるケマルであるが、イスメトは、一瞬、期待をこめたまなざしでウォルシンガムが自分を見たことにすぐに気がついた。
だが、あえて無視をしてみせる。この男を喜ばせたところで、いいことはなにひとつない。
「ともかく、わたしはこの世界のどこかにいる陛下をお探しし、いまの話をしてみるつもりだ。陛下になにかあっては一大事であるからな。
そういうわけで諸君、諸君には最高府の思惑と、レティクルの動静は伝えた。ここでレティクルたちが総攻撃を仕掛けてくるのを待ってもよいであろうが、ここにいるかぎり、君らが戦おうとしている吸血鬼と出会うことはなかろう」
「吸血鬼はどこにいる」
「さて、吸血鬼はもっとも清純なる魂を好み、狙う。最高府とレティクルをさんざん引っ掻き回しながら、一方で魂を狙っているのかもしれないぞ」
そういうと、ウォルシンガムは、ぴゅう、と指笛を吹く。
すると、またもやどこからともなく白い大きな鳥が飛んできて、ウォルシンガムの頭上で羽ばたいている。
よく見ると、それは白鳥や鶴ではなく、白いカラスであった。
「タクシーのように気軽にやってくる使い魔だな。君のものか」
イスメトがたずねると、その問いに、頭上で羽ばたきを繰り返している白いカラスが答えた。
「いいえ、わたしはGBHの世界にご滞在しておられるエレキシュ・ギ・ガルさまの使い魔でございます」
「なんと、エレキシュ・ギ・ガルさまがおいでになったのか」
旧煉獄を支配する女神の思いもかけない登場に、思わずイスメトが言うと、それを継いで、ケマルがたずねた。
「なぜエレキシュ・ギ・ガルさまは旧煉獄から外に出ていらしたのだ」
「エレキシュ・ギ・ガルさまは当山孔真君に借りがあるのでございます。ですから、当山孔真君が愛剣湧天剣の力をすべて解放して世界を出現なさったのを知り、それを助けるべく旧煉獄から出ていらしたのでございます。
最高府が当山孔真君の提案をほぼそのままの形でレティクルに持っていくことになったのも、エレキシュ・ギ・ガルさまのお口添えがあったからこそのことなのです」
「なるほど、当山孔真君の影響力というものはたいしたものだな。しかしそのせっかくの提案も吸血鬼によって阻まれてしまった」
「はい。ですので、当山孔真君は、吸血鬼を明日の朝までに排除すべく動き出しておられます。ほかのアトラ・ハシースの方々も、同じように戦ってくださるとよいのですが」
白いカラスのことばに、ケマルは愁眉をひらいて、言った。
「なんと、余と同じ考えを持つものがほかにもおったか! ならば心強い。白いカラスよ、おまえはエレキシュ・ギ・ガルさまの下へ戻るのか。
ならば伝えてくれ。当山孔真君とともに戦う準備が出来ているものはここにもいる、とな」
「わかりました完全なる者よ。あなたが参戦なさるとなったなら、きっと当山孔真君も心強いことでしょう。エレキシュ・ギ・ガルさまもお喜びになられるはず」
「陛下にもそのことは伝えておく。では、さらばだ、トルコの諸君」
そういうと、ウォルシンガムは白いカラスにしがみつき、ガウンを大きく膨らませながら、ふたたび天空へと舞い上がっていった。
「ふむ、ここにいたところで、もはや意味はない、か」
ケマルは考え込むと、すぐに顔を上げ、夕闇に沈みつつある霧の青葉山と、それを背景にたたずむ忠実なるアストラルを見た。
「思うにイスメト君、君がその格好というのは実にやりにくい。千台ナミは夫と同じようにコンパクトに変貌させてしまうとして」
と、ケマルは、ぱちんとひとつ、指を鳴らす。
するととたんに、イスメトは本来の姿を取り戻し、千台ナミの姿はなくなっていた。
変わりに、イスメトの足元に、気の毒にも所在なさげに両足で立って、鼻をひくひくさせているハムスターの姿があった。
イスメトはその尻尾を踏みかけて、あわてて足を引く。
「それをポケットに収納したまえ。やれ、こんなことならば、先にこちらに来るのであった。とはいえ、君がここにいることを教えてくれたのは藤原の使者だからな」
「藤原の使者は、まだこの世界にいるのか」
「そうさ。最上の巫女と一緒にいたな。しかしGBHの世界だって? この世界が戦場となるのなら、彼女らを守ってやる人間が必要だな」
行く先は決まった。
イスメトは、本来の姿を取り戻し、その普段と変わらぬ姿に満足しつつ、ケマルの言葉にうなずいた。
うなずいた、ということは、同時に、ケマルが戦いに参加するのならば、自分も同じく召還されたアストラルとして戦うことを了承するものであった。
「ようやくいつもの我々だな」
ケマルがにっ、と微笑みかけてきたので、イスメトも同じく笑ってみせた。
ようやく、これで本来の力を披露できるというものだ。
「変ね、妙に静かだと思わない?」
盛大に倒れた本や閲覧のための棚の整理を、仲間たちとしていたジャンヌは、ふと、周囲の人の気配がずいぶんと薄らいできたことに気づき、顔をあげた。
もともと、家事が好きなだけあって、夢中になると、アトラ・ハシースになったいまでも、ほかのことが見えなくなってしまう。
このときもそうで、倒れた本棚を起こし、床に散らばった本をひとつひとつ棚に戻す作業をしていて、あっという間に時間が経ってしまったのだった。
エリザベスはというと、そんな作業は下々のものだ、といわんばかりに、ふわふわと図書室の天上そばを浮いて、浅野一子やジャンヌの作業を見つめているばかりである。
「こら、すこしは手伝おうとせんか!」
口で器用に本をくわえて、散らかった本の分類をまとめていた陳寿犬が言うと、エリザベスは面倒そうに言った。
「放っておけばよいではないか。そのうち係りの者がやってきて、片付けてくれようぞ。わらわたちは戦っておるのじゃ。世界のための戦いなのじゃ。なのにそれを忘れて掃除とな」
「やかましー! 本をないがしろにする君主は滅びるぞ!」
「なんとでも言うがよかろう。それより早く、ほかのアトラ・ハシースがどこにいるのか、それを探すべきなのじゃ」
「本当につくづく、あんたら、携帯持っておけっての。というか、アトラ・ハシースとかアストラルとか、なんかテレパシーみたいにお互いに連絡しあうこととか出来ないわけ?」
と、一子の手伝いを、いかにも面倒そうにしていたヨーコが、作業の手を止めて尋ねてくる。
「そんな手段があるなら、とっくに使っておるのじゃ」
「使えねーなー。って、ジャンヌ、あんた、なにか言った?」
「ずいぶん静かね、って言ったのよ」
ジャンヌのことばに、ふわふわと浮いたまま、横になって空中で頬杖をついていたエリザベスが顔をあげて、周囲を探った。
「ふむ、たしかに妙に静かじゃな」
「下校時間が近づいたからじゃねーの」
「それにしても静かだね、下校時間が近づいたんなら、放送が流れてもおかしくないのにさ」
一子のことばに、その場の全員が、まるで校内放送が文字になって空中に漂っているかのように、天井を見上げた。
もちろん、そこになにがある、というわけでもないし、見上げたところで校内放送が始まるというわけでもない。
「わたし、見てくるわね。エリザベス、あとをお願い」
ジャンヌは言うと、甲冑の音をかちゃかちゃとあたりに響かせながら、図書室の外へと向かった。
もちろん、ほかの生徒たちに姿を見られることがないように、霊体の状態になっている。
廊下に出て、仲間たちと離れたことで、ジャンヌはますます人の気配がなくなったことに眉根をひそめた。
あまりに静か過ぎる。
さきほどまでそこかしこに残っていた、人の気配がまるでない。
『図書室の周囲は、だれが来てもおどろかないように結界を張ってあるからいいとして、ほかの場所にだれもいない、というのはなぜなのかしら。一子のいうように、みな下校時間だから帰ってしまったの?』
あたりには、少女たちがついさきほどまでいた気配がある。
教室を覗くと、机には、かばんがそのままになっている席がぽつぽつとあった。
校舎の窓から校庭をのぞいてみるが、部活動をしていた痕跡がそのまま残っており、用具などが放置されたまま、人の姿だけが消えている。生徒だけではなく、教員の姿もない。
風に吹かれて、グラウンドに置きっぱなしになっているソフトボールがころころとひとりで転がっている。
『みんな、どこへ行ってしまったのかしら。実体化して、だれか探してみるべき?』
そうして踵を返そうとしたところへ、聞きなれた声がかかった。
「やあ、ラ・ピュセル。無事なようでなによりだ」
その言葉を、彼女はなんど、その声の主からかけられただろうか。
人の生き血を吸う憎むべき吸血鬼であるが、彼女にはいつもかれは優しく、そして紳士的であったのだ。
憎まねばならない相手だが、憎みきれないところがある。
それは、かれがいまだに彼女に心を寄せているからだろう。
汚濁の中にあろうと、陰惨な快楽に耽っていようと、かれが彼女を忘れることはけしてない。
その執着心を嘆くべきであるのに、どこかで喜んでしまっている心が残っている。
だからわたしは、いつまでたっても戦いの日々から抜けることができないのだろうかとジャンヌは思う。
アトラ・ハシースになったことは、世界のため、人のためになることで、喜ぶべきことなのだろう。だが、彼女の願いは平穏な生活を取り戻すことであった。
生前から、彼女は戦いを望んでいたわけではない。
剣を取る者が、彼女のほかにいなかったから、仕方なく剣を取ったのだ。
そうして走り抜けた二年の後に、気がつくと、果てない時間のなかで、ひたすら戦わねばならない日々が待っていた。
ほかのアトラ・ハシースが瞠目するほど、彼女はよく働いたが、それはもともと、彼女が勤勉で生真面目な労働者だったからにすぎない。
彼女は生前がそうであったように、自分ががんばればがんばるほど、平穏な日々が贈り物として待っているものだと信じていた。
だが、戦いには終わりがなかった。
ひとつが終われば、またつぎが待っている。いつまでたっても人の世に争いごとは尽きない。
そのたびに借り出され、アトラ・ハシースとしてのレベルが上がれば上がるほど、立ち向かわねばならない争いは複雑化していく。
人の世に倦んだわけではない。
いまでも人というものを、彼女は愛していた。
おそらく、かれは、そうした彼女の、けして他者には覗かせない小さな心の動きを読みこしているのである。だからこそ、彼女を離れない。
離れない理由は、彼女の愛を掴もうなどという健気な理由ではない。
彼女の意志にかかわらず、彼女のすべてを手に入れること。
残虐に、狡猾に、それだけを狙っている。自分の思いのままに彼女を操ること。思い通りの彼女にすることを。
わかっていて、それでもかれを振り切ることができないのは、どこかにかれに対して幻想を抱いているのかもしれない。
生前より、かれは美しく、雄雄しかった。波打つ黄金の髪は、陽に輝いて、あまるで王冠のようであった。
傲岸不遜なほどに自信に満ちて、恐れを知らず、勇敢だった真の騎士。
その明るさの残滓があったからこそ、そののち、黒魔術にふけるようになってからも、かれは多くの人を欺きとおすことができたのだ。
いけないわ、しっかりしなくては、と、彼女は自分に言い聞かせた。
そして、顔も知らない多くの少年たちのことを思った。
それは、ジャンヌ・ダルクという、かれのなかでとりわけ美化された偶像を取り戻すためだけに犠牲になった少年たちであった。
かれらの犠牲のことを思えば、とてもではないが吸血鬼と成り果てたこの男、ジル・ド・レを許すことなどできはしない。
どうして残虐な殺戮に手を染めたのかと問うても、この狂って、元に戻ることがなかった心からは、まともな回答は得られないだろう。
放置しておけば、また同じ殺戮をくりかえす。そうして、世界を渡っている化け物なのだ。
戦友の皮をかぶった化け物。
情に流されてはいけない。
金色の髪をした吸血鬼は、夕陽の染める校舎のなかで、生前にそうであったように、金色の髪を輝かせて、そこに立っていた。
かつて勇壮な鎧に身を纏ったこの美しい青年をはじめて見たとき、ジャンヌは騎士というものがどんなものか、初めて見たと思ったものである。
それほどにジルの所作は洗練されており、物腰は優雅で、知性にあふれるものであった。
多くの少女たちを虜にしてやまない本物の騎士である。
輝かしい魅力はいまも失われていない。ただし、それはうわべだけのこと。
この魅力そのものにしても、纏っている鎧と同じで、自分の陰鬱な正体を隠すためだけにあるものだ。
「ジル、なにしに来たの。ヨーコを取り戻すため?」
つとめて冷淡に見えるように努力しながらジャンヌが言うと、しかし、ジルは言葉を交わすこと自体がうれしくてたまらない、というふうに笑顔で言った。
「君に会うためだよ、ラ・ピュセル」
「わたしには用はないわ。これ以上、世界を引っ掻き回すつもりならば、わたしはあなたを退治しなくてはならなくなる」
「その必要はないさ」
唄うようにジルは言うと、まるで踊りのステップを踏んでいるかのような軽やかな足取りで、ジャンヌのそばにやってきた。
「君にどうしても知らせなくてはならない。いいかい、よく聞きたまえ。この世界の真上に、もうひとつ新しい世界が出来たのは聞いているかい。当山孔真君が作った世界だ。
それを受けて最高府がレティクルと話し合いをして、こちらの夢の世界をレティクルに譲り渡し、当山孔真君の作ったGBHの世界を汎世界に繋げることで手打ちとなった。
戦いは終わったのだよ。アトラ・ハシースを探しても意味がない。もうすべて終わりなのだから」
寝耳に水である。ジャンヌはおどろいてジルに質した。
「本当なの、それは。戦いは終わったの。それじゃあ、人がいなくなっているのは、ここをレティクルに明け渡すため?」
飲み込みのよいジャンヌのことばにジルは満足そうにうなずく。
「そうさ。人のすべてはGBHの世界に移動している。じき、ここにはレティクルたちが移住してくるだろう。わたしは最高府に頼まれて、中立者という立場から、君たちを誘導するためにやってきた。
君もGBHの世界へ行くのだよ、ジャンヌ。最上白百合たちが仙台アエラで待っている。わたしが案内してあげるから、いますぐ一緒に来るといい」
そう言って、ジルは戸惑うジャンヌの手をとった。
※ この話は、「Give birth to Heaven・23」につづきます。