Give Birth to Heaven・17
※ この話は、「Give Birth to Heaven・16」のつづきとなります。
「吸血鬼!」
クロウは叫ぶや、立ち上がると、白百合を守るようにしてその前に立って、それまで空手であった両手から、弓と矢をいずこからか召還し、かまえた。
「こんなせまいところで、そんなものかまえたら……!」
ほかの人間に当たって危ない、といいかけた白百合だが、気づいた。
つい先ほどまでそばにいた、花屋の女主人のほか、いろは横丁を出入りしていた客の姿、そして、そのほかの店の主たちも、いつのまにか姿を消しているのだ。
クロウはそれに気づいているのか気づいていないのか、ともかく、ぐっと両腕に力をこめて、大弓の弦を引き、そして吸血鬼の心臓に狙いを定める。
だが、吸血鬼は顔色ひとつ変えず、クロウと白百合の両方を、面白そうに眺めながら、歌うように言った。
「銀の弾丸を以ってしても、わたしを消滅させるには至らなかった。その破魔弓にも、さしたる効果はあるまい」
「このやじりはヒヒイロカネで作られている。銀の弾丸よりも鋭くおまえを貫くぞ」
それまで、白百合が聞いたことのない、どす黒い、まるで男のような声を、クロウは可憐なその姿から絞り出して、言った。
「試してもよいぞ、吸血鬼。そのときに、ほえ面をかくな」
「やってみればいい。その矢とて数に限りがあろう。大事なとっておきの矢を失ってもよいのなら、いますぐ弓を引きたまえ」
「おまえと取引するつもりはないぞ」
「取り引きなんぞとんでもない。わたしもただの使者なのだよ、君と同じく、ね。藤原の使者。日本では、使者は殺してしまうのが習慣なのかい」
「使者とは、いったい、どこのだれの使者だ」
「この世界を欲する者からの使者。レティクルではないよ」
「ならば、問答無用! 貴様は滅ぼす!」
びぃん、とあたりの空気を震わせる音とともに、クロウの手から矢が放たれた。
矢はまっすぐと、薄暗いいろは横丁の通路を進み、ジルの胸を正確に直撃する。
どすり、と肉体を矢が貫いた音があった。
その生々しい音に、思わず吐き気をもよおす白百合であるが、ぐっとこらえて、あらわれた金髪の男を見る。
だが、男は矢を受けてもなお、ほんのすこし後退しただけで、倒れることもなく、矢が突き刺さったまま、そこに立っていた。
その胸には、おのれの心臓を貫いた矢が刺さったままになっている。
「弾丸よりも痛いね。速さと衝撃は君の弓のほうが上だった。だが、残念だが、この程度ではわたしを消滅させるには足りない」
言いつつ、ずぶり、とジルは矢をおのれの心臓から引き抜く。
すると、矢の貫いた穴から、鉄砲水のようにどす黒い血が吹き出て衣服を濡らしたが、ジルは頓着せず、二、三度、その穴の上で手を上下にかざしていた。
とたん、穴はふさがり、そこにはなんの傷跡もなくなっていた。
「返し矢が来るかもしれません。白百合様、うしろへ隠れてください!」
クロウの声色が、中学生の少女のそれに変わり、さらに白百合に背後に隠れるようにと、その弓を持たぬ手で指示してくる。
「まあまあ。そう血気盛んに喧嘩を一方的に売ってくるものじゃないよ。さきほども言っただろう。わたしはただの使者だ。手荒な歓迎はこれきりにして、用件を話させてくれないか」
「悪魔と取り引きするつもりはないぞ」
「もちろん。取り引きの話ではない。この世界の話さ」
さきほどまで矢が突き刺さっていたとは思えないほどの気軽さで、歌うようにジルは言う。
「この夢の世界の人口は、いま、分刻みで消えている。あらたに参入したプレーヤーたるアトラ・ハシースらによって、受け皿となる別な世界へ、魂を大量に移住させているからだ。
その代わり、このだれもいなくなった世界にレティクルを誘導しようとしているのだ。かれらのあらたな『地球』としてね」
「莫迦な。そんなことをして、なんの解決になる!」
「星間の移動ではなく世界の移動だ。もちろん、汎世界と完全に切り離した状態での存続となるだろう。これでレティクル問題は解決する」
「解決しない。『歴史を基本世界のまま』にすることでしか、レティクルは存在しえない。アトラ・ハシースの目的は、レティクルの滅亡ではなく、かれらのルーツからはじまる『悲劇』を変えることだ」
「こうするのだ。この世界が生まれて汎世界に影響し、基本世界における歴史が大幅に変わりつつあるように、レティクルのための、『元の基本世界の歴史どおりの世界』を創ればいい。
すなわち、これをその雛形にする。そうすれば、レティクルはこの世界から生まれたものとして、やはり生き残ることができるのだ。
もちろん、汎世界に影響することがないよう、最高府お得意の『切り離し』をして隔離する。そうすれば、君たちやアトラ・ハシースが戦う理由はもうなくなる」
「ひとつの悲劇を見逃せと?」
「悲劇の連鎖のすべてを止めることはできない。現状でもそうだろう。最低でも最上アキラ子にまつわる悲劇と、浅野家にまつわる悲劇は止められる。最上白百合、君に関しては君次第だ。君が兄上の一樹に、山の所有権を渡してしまえば問題はなくなる」
「その先に不幸が起こるとわかっているのに?」
白百合が抗議の声をあげると、ジルは、金髪の巻き毛を指でかきあげつつ、答えた。
「しかし、その不幸からも生まれるものがあるのだ。不幸から生まれたというだけで、これを消してよいものか、という話だよ。レティクルは純然たる悪というわけではないのだよ。君らと同じ、人間なのだ」
「でも、そのような例外が認められるものなのか?」
クロウが尋ねると、ジルは肩をすくめて、答えた
「アトラ・ハシースや神々のくわしい状況は知らないよ。わたしは吸血鬼だからね。
わかっているのは、早いところ、君たちも仙台アエラの梯子を上らないと、取り残されて、レティクルと楽しく同居することになる、ということだ」
「それがおまえの話か? なぜそれをわたしたちに話す?」
クロウの問いに、ジルは愉快そうに、鳩の鳴き声のような声をたてて笑った。
「人がいてこそのわれら吸血鬼、そして悪魔だ。人が滅べば、われらも滅ぶ。要するに自分たちのためだ。レティクルなんていう、半病人のような連中の世界がどうなろうと、もういい。
われわれもレティクルには頭を悩ませているわけだよ。過去を自在に往来し、人の未来を潰すもの。これをなんとかせねばならないと思っていたのも、われらも一緒というわけだ。
君たちには、受け皿となる世界へ逃げてもらい、そこで子孫を作り、われらの腹を満たしてくれたまえ」
「勝手なことを!」
「だが」
とたん、ジルの目に凶悪な光がぎらりと宿り、そして、舌なめずりするように、クロウと白百合の両方を上から下までじろりと眺めた。
その蛇にも似たねちねちとした視線にぞっとして、思わず白百合は身を震わせる。
クロウもおなじく恐怖をおぼえているらしく、白百合を守るように立ちながらも、後ろ手で、白百合の手を求めてきた。
白百合がクロウの手を取ると、その手は、さきほどの大弓を引いた反動もあるのだろうが、小刻みに震えている。
「いま、ひどく喉が渇いて仕方がない。だれかで喉を潤したいと思っていたのだよ。君たちならば最高だな」
「なんだと」
「思わぬ上玉がふたり。しかも、ほかにはだれもいない。助けを求めても無駄だよ、本当にこの付近にはだれもいなくなってしまったのだからね」
たしかにジルの言うとおりで、しんと静まりかえった周辺には、どこかの店からエンドレスで流れてくるチェーン店のテーマソングや、有線放送などが漏れてくるばかりで、人の話し声や足音などはまったく聞こえてこない。
「きみたちは、当山孔真君とはちがって、『本当に』若い。その黒髪も美しい、どうかこちらへきて、わが手に手巻かせてはもらえないだろうか」
「ふざけるな! 去ね、吸血鬼!」
「さきほどの矢をもう一度ぶつけてみるかい? 効果はないよ」
ジルが一歩、近づくごとに、クロウは一歩、後退する。
白百合はクロウにあわせて、おなじく後退していく。
だれもいなくなった、いろは横丁の奥へ、奥へと。
このままではいけない。
クロウのとっておきの武器は、ジルの言うとおり、その効力がないことが確かめられてしまった。
とっさに十字架やにんにく、聖水といった、吸血鬼退治には欠かせないものが思い浮かぶが、あいにこと、ここにはどれも存在しない。
じり、じり、と後退しながら、ふと白百合の脳裏に浮かんだことがあった。
いちかばちか。
「わたしたちにヒドイことをしたら、ラ・ピュセルに伝わるよ!」
「む?」
ラ・ピュセルの名を聞いて、ジルの動きがぴたりと止まった。
「わたしには、ラ・ピュセルが宿っていた。だから、いまでもお互い通じ合っているんだ。わたしになにかしたら、すべてラ・ピュセルに筒抜けになる。あなたはひどく嫌われるだろうね。それでもいいの?」
ジルの顔が、まるで一張羅の靴で散歩しようと外に出たとたん、土砂降りに見舞われて、さっそく駄目にしてしまったときのように、嫌悪感で歪んだ。
二の足を踏んでいるのが、そのつま先の微妙な動きでわかる。
とたん、どこからか、ぱちぱちと拍手の音が聞こえてくる。
「ブラボー! なかなかいい提案であった。君の負けだ、吸血鬼。この場は消えたまえ。余が来たからには、万が一にも、おまえの勝ち目はなくなった」
何者かと見れば、いろは横丁の入り口に、背の高いトルコ人と、小学生の二人連れが立っていた。
「マナブくん!」
思わず白百合は叫んだ。
小学生のうち、もひとりのめがねの気の弱そうな少年には、とくに見覚えがあった。
夏目マナブである。元気だったのだ。
そして、もう一人の、子供らしからぬふて腐れたような顔をした少年のほうにも見覚えがあった。
マナブに万引きを強要していた悪ガキである。性格の悪さたるやサイアクで、白百合は耐えかねて、かれらを怒鳴りつけ、マナブから引き離したほどであった。
この二人が、なぜ一緒にいるのか。
そして、その引率ともいうべき男が問題だ。
背の高いトルコ人。
眼力が異常にするどい、金髪碧眼の男。
顔にはなんとも言いがたい笑みが浮かんでいるが、それは親しみの情からくるものなのか、それとも挑発しているものなのか。
牛タン屋にやってきたことのある男だ。
名前を、ケマル、と言ったはず。
奇妙な取り合わせであったが、偶然に居合わせた取り合わせでもあるまい。
なにせ、三人が三人とも面識があるのだ。
なんらかの目的で、この場所にやってきたと見るべきであろう。
トルコ人ケマルは、特徴的なその力強い眼差しを細めて、白百合に丁寧に西洋風のお辞儀をしてみせた。
「ご無事でなにより。吸血鬼の足を、弁舌のみで止めるとは、たいしたものだ。敬服した」
と、ケマルはクロウのほうを見て、顔を引き締めた。
「藤原の姫か? これは珍しいが、思えばここはみちのく。藤原の管轄なのだから、そこの人間が派遣されてきてもおかしくはないか」
すると、クロウもまた、顔を引き締め、つないでいる白百合の手を、おそらく無意識ではあろうが、ぎゅっと握り締め、言った。
「あいにくと藤原の姫、ではありませんわ。わたくしの名はクロウとおよびくださいませ、アトラ・ハシース。あなたの一臂(いっぴ)と橋のたもとでお会いしましてよ。なかなか面白いお姿になっておりましたけれど」
「ふむ、前言は撤回しよう。君もなかなか面白い格好をしているね」
ケマルのことばに、ますますクロウの顔が引き締められ、固いものとなった。
「成人まではこのままですの。ところで、この封印をちぎったのは、貴方なのでしょうか?」
と、クロウは、手にしていた護符の欠片をケマルに見せた。不動尊の描かれたその一部を目にすると、ケマルは、大きな目でそれを凝視し、それから首を振った。
「あいにくと勘違いをされているようだ。それを破ったのは余ではない。なにせ、ここに来たのは初めてだ。この子供たちの引率でね」
「幽霊を捕まえるんだ!」
と、マナブのとなりで意気込んでいる少年が口を挟んだ。
「そこのパワーストーンショップに幽霊がいるんだろ? おまえか、幽霊って?」
と、大胆にも、タケシはジルのほうをじろりと見上げて、挑発的に言う。
「わたしが幽霊に見えるか?」
ジルがむっとして言うと、タケシもまた、ふて腐れたような顔をして言った。
「じゃあ、邪魔だよ! どけよ、幽霊捕まえるんだからよ!」
あどけない声で、不良少年のようにすごむ小学生に、ジルの顔が不機嫌にゆがみ、引率をしているケマルにたずねてきた。
「頭をひとつふたつはたいてやりたくなるような、いい根性をした子供だな。まったく好みではないが、そちらの二人はあきらめて、こっちの一人で手打ちにする、ということでどうだ、完全なる者」
「そんなこと許可できるか。余がおまえにいえることはひとつ。『行け』。それだけだ」
「わたしの今の話は?」
「ほとんどすべて聞いていたよ。結界の中からね。だから君は油断して、二人にちょっかいをかけようとした。黙ってはおられなくなったので、こうしてしゃしゃり出てきた、というわけだ」
「わたしと事を構えるつもりはないと?」
「ない。子供たちの身を守ることが最優先だ。おまえとここで戦ったなら、子供たちを守りきれる自信がない」
「それはつまり、完全なる者ですら、わたしと戦うためには全力が必要だとわかっている、ということか」
「わかっているからこそ、行けといっている。いちいち確かめるな」
「君とはあまり気が合わないな」
「男色家とドンファン、似て非なるものだ。話が合うはずがない」
「なるほど、たしかに。それでは、わたしはここで失敬しよう。
ただし言うが、君だって、早いところ千台アエラの梯子を上るべきだ。いかに完全なる者だろうと、大量のレティクルたちに囲まれたら、どうすることもできまい」
「それはあとの話だ。親切な吸血鬼だな。しかし、信用はできん」
ケマルがこぼしているあいだに、吸血鬼の体は、まるで水に溶けるようにして、すうっと消えていなくなった。
その姿に、白百合ももちろんおどろいたが、もっとおどろいていたのは小学生ふたりである。
「あっ! やっぱり幽霊だったんじゃん! ちくしょー、騙された! 追おうぜ、トルコ人!」
「いやだね。まったく、相変わらず口の利き方のろくでもない子供だな。そっちのメガネ君を見習え、まったく!」
ぶちぶちと言うケマルに、クロウがたずねた。
「まったくそのとおりですこと。紹介していただいてもよろしくて?」
「では紹介しよう。もしかしたら、もう見当はついているのではないのかな。こちらのメガネの坊やが夏目マナブ、そして、この生意気な小僧が千台タケシ」
二人を紹介されると、クロウの表情がまたもや変化した。喜んではいない。子供たちを見遣るまなざしは、中学生の少女とは思えないほど冷徹で、容赦ない、感情を見せないものである。
「あなたがこの二人といるというのは、偶然ではありませんわね」
「ああ、そうそう、もう一人、大事な人物を忘れるところであった」
と、言いつつ、ケマルはおのれのコートのポケットをがさごそと探る。
するとほどなく、ポケットの隅っこにたまっていたゴミと遊んでいたらしいハムスターが、ひょこりと顔を出して、クロウと白百合に、まるで自己紹介をしているかのように、もごもごと口を動かした。
「千台潮氏だ」
ケマルのことばに、今度はクロウの顔はおどろきに変わった。
ケマルを見て、つづいてハムスターを見る。黒のランドセルを背負ったタケシも、不気味そうにハムスターを見ている。
「変えてしまいましたの?」
クロウの問いに、ケマルは場違いに感じられるほど朗らかに笑いながら、答えた。
「なかなか言うことを聞いてくれない御仁であったから、仕方がなかったのだよ。しかしおかげで最悪の日は回避できるのではないかと思っている。コロンブスの卵というべきか、最初からこうしてしまえばよかったのだよ。殺さず、生かさず」
「ハムスターにする。斬新ですわね」
「斬新! よい響きだ。余は新しくも有効なものを好む。ともかく、この御仁が大人しくしてくれているおかげで、未来への心配がだいぶ減った。
あとは子供らだが、こうして手元において置いているあいだは大丈夫だろう。浅野の家も問題ないようだ。
この子供らのことはともかくとして、ほかのアトラ・ハシースたちの行方はどうだろうか。どうもこの三度目の世界は、前回と大幅に変わっているようだ。なにより、人が少なすぎる」
「生憎と、ほかの方々の行方は知れませんの。一人、わたくしの仲間がそれらしきものをみつけて、ここに滞在していただいたのですけれど、残念ながら居心地が悪かったせいか、逃げてしまわれましたわ」
「なるほど、パワーストーンショップの幽霊の正体はそれかい」
白百合には、クロウとケマルの会話の半分も意味がわからなかったが、わかったことが一つだけある。
「いま、人が少ないって言いましたよね? やっぱり、そうなんですか?」
白百合の問いに、ケマルは、おのれのがっしりした顎をさすりつつ、言った。
「少ない、というよりも、消えていっている、といったほうがよいか。この世界全体に満ちる人の数が、日を追うごとに、どんどん薄くなっているのだ」
「もしや、消滅?」
クロウが眉をひそめると、ケマルは、そうではない、というふうに首を振った。
「いや、おそらくは消滅ではなく、移動ではなかろうかと思う。かつて、同じケースに当たったことがある。片方の世界が壊滅的な状況に陥ってしまったので、これから人類を救うために、緊急避難として、別の世界に人を移動させたのだ。
とはいえ、人口を一気に移すためには手間がかかるので、数日にわたって行われた。それに似ている」
「いったい、だれが?」
「一人や二人ではないだろう。大きな力が動いている気配がある。もしかしたら、最高府かもしれない」
二人のやり取りを、きょとんとして聞いていた白百合は、おそるおそるであるが、たずねた。
「最高府ってなに? もしかして、アメリカのこと?」
とたん、それまで白百合に丁寧に応対していたクロウが、またもや、くだらないことを聞くな、といわんばかりに目を細めて睨みつけてきた。
年下で落ち着いているとはいえ、白百合は、クロウのこういう狭量さが苦手である。
「ごめん、ちがうんだね」
「ええ、ちがいますわ。今朝ほどいたしました説明が漏れましたかしら?
最高府とは、アトラ・ハシースやアストラルを管轄している組合のようなものですわ。といっても、その構成人員や所在地はまったく不明で、秘密結社のようなところがございますけれど」
クロウの説明に、ケマルが追加した。
「ふつうの秘密結社が、じつは、ただの名士クラブだったりするのとちがって、最高府は国家以上の強い権限を持っている。余も、最高府にしたがっている立場なのだよ。だが」
「だが?」
とたん、それまで愛想よくしていたトルコ人は、まるで遠くにある最高府を睨みつけるようにして、笑顔をひっこめると、言った。
「このやり方が最高府主導のものならば、余はあえて反逆させてもらう」
「どういうことですの」
「かなり乱暴な状況だ。おそらく、もうひとつ、この世界の受け皿の世界が出来たと、吸血鬼は言っていたな。新たに戦いに加わったアトラ・ハシースたちが、原因は2003年の仙台なので、この街を中心に、いまいるこの夢の世界から、受け皿の世界へと人を移動させている、と」
「ええ。つまりこの世界から大規模撤退し、これを放棄してレティクルに明け渡す、という話でした」
「それで問題は解決する、というようなことを口にしていたが、果たしてそうであろうか。放棄され、レティクルに明け渡したこの世界を、しかし最高府は放置すまい。わかるかね?
おそらくこの世界は、汎世界から隔離されたのち、潰されるのだ。その点、吸血鬼の言葉は正しい。それでは、あまりに無情ではないか。
アトラ・ハシースとは、最高の賢者を意味する。賢者とは娼婦のごとくその知識を惜しみなく他者に披露し、慈悲の心を以ってすべての事由に当たる者でなければならぬ。
氷のごとく冷たくまつろわぬ者を斬り捨てるのであれば、人がアトラ・ハシースに進化する意味があるのか? 人の肉体が滅びても、その魂は不滅であるのはどうしてなのだ。何度となく生まれ変わり、おのが過ちを訂正しつづけてゆっくりゆっくり先へと歩を進めてきたのが人間であろう。
この夢の世界が生じる結果となった『現実』も、そうした過ちの一つであるし、レティクルの誕生もおなじくそうだ。
不都合であるから斬り捨てる、滅ぼす。そんな野蛮な対処の仕方では、人はなにも学ぶことはできない」
ケマルのことばを聞いて、クロウはおどろいたように、言った。
「ではどうなさいますの? レティクルを庇われるおつもりですの? ほかのアトラ・ハシースたちの恨みを買いましてよ。また、最初のループのときのようになってしまいますわ」
「庇うというと言いすぎだ。だが、かれらには、かれらなりの『必死にならねばならない理由』がある。余はレティクルどもを束ねている女王と呼ばれるモノの心を覗いた。天上いっぱいのカレイドスコープを、ひとりぼっちの大地から眺めているような景色があったよ。
おそらくあれは、女王を作った者が女王に植え付けたレティクルの理想郷なのであろう。たしかに美しいのだが、人工物だらけの、胡散臭い宝箱を覗いている心地であったぞ。
かれらもまた、救いを待っている『人間』なのだ」
「廃棄物の寄せ集めですわ」
「その廃棄物を産んだのは人間だ。人間が産むのは人間ではないのかね」
「感傷で動くおつもり?」
「感傷ではない。そうしなければならぬと思うから、そうするのだ。
感じるかね、藤原の使者。いま、世界の中心が、仙台のランドマークたるアエラに集中している。余もじきに、そこへ行かねばならなくなるであろう。そして、受け皿の世界へと向かうこととなるであろう。
だが、あえて、余は、ここに留まろうと思う」
「なぜですの? 最高府の決定に反抗したなら、堕天したものと見なされて、煉獄へ行くことになりますわよ」
「最高府の給湯室にある冷蔵庫の中か。それも仕方あるまい。先ほどもいったが、余は、余がそれをなすべきだと思うからこそ、そうするのだ。レティクルも、ただこの世界を明け渡されただけでは、どうしたらよいかと戸惑うであろう。案内人が必要だ」
「いっしょに廃棄されてしまうかもしれませんわ」
「うむ、その可能性はあるな」
ケマルはあっさり答えて、それから、目の前にいる二人の小学生のランドセルの背中を、それぞれ手にかけて、言った。
「なので、この子供らを君に託したい」
「なんですって?」
「そうそう、最上の姫君、君がいちばん面倒見がよさそうだから、このハムスターも一緒に連れて行ってやってくれ」
いって、ケマルはポケットから顔を出して、外の様子をながめていたハムスターを掴むと、乱暴にも白百合に放り投げた。
白百合はあわててクロウの手を離し、宙を、両手足をバタバタさせて焦って飛んでいるハムスターを受け止める。
それを見て、クロウは、あきれ果てた、というふうに、あらためてケマルに尋ねる。
「本当に、この世界に留まるおつもりですの? 本当に?」
「本当だとも。もし君らが受け皿の世界へ首尾よく行くことができたなら、ほかのアトラ・ハシースたちに伝えてくれたまえ。この世界は、余がいるから問題ない、と」
「みなさま、呆れ果てると思いますわ」
クロウが、その代表のようにして言うと、ケマルは、からからと明るく笑って、言った。
「残念なのは、その顔を眺めてやれないことだ。みなによろしく伝えてくれたまえ。
君たちは、仙台アエラへ行くといい。そこが世界の梯子がかかる拠点だ」
それまで言うと、ケマルは、くるりと背を向け、いろは横丁からアーケードへ向かって歩いていく。
タケシやクロウが声をかけても、振り向くこともせず、むしろその声を遮断するためかのようにコートの襟を立て、そして去っていった。
※ この話は、「Give birth to Heaven・18」につづきます。