Give Birth to Heaven・15

※ この話は、「Give Birth to Heaven・14」のつづきとなります。

「あれっ、もしかして、もう終わり? ますますオレたち、ピンチじゃね?」
宙に途切れた演奏の、そのつづきを探すように、姜維の手のなかで、きょろきょろと、落ち着きなく動く勝邪。
勝邪とおなじく、姜維や曹丕もまた、演奏者の姿を探した
すると、アーケードの屋根部分に設置されているパイプオルガンの前に、すっくと巨漢の男が立ち上がったのが見えた。

後姿である。
真っ白い髪の、ひつじの頭を思わせる、くりくりのカールのかかったかつらをかぶっている。
大きなカッティングの白い襟のシャツに、腰まであるマントを羽織り、その下は縦縞に模様の入ったズボン。
ズボンの下は、長靴のような大きさの厚い布のタイツをはいており、タイツは膝のあたりの大きなリボンで縛られている。足元には革靴があり、その革靴もまた、大きなリボンで飾られていた。
18世紀のドイツの衣裳である。
華美というほどではないが、いかにも当時の流行を取り入れた、瀟洒な礼装である。

その姿は、水晶堂ビルの屋上にたつ、レティクル・クィーンにしてメアリ、そしてシマノからも見えたらしく、ふたたび、鼓膜をいじめるような、耳障りな哄笑が響いた。
「みっともないこと、みな、力がもたないようね。世界の霊力をくみ上げて、はじめて力を発揮できる、自分たちではなにもできないあわれなアトラ・ハシースたち! 
降伏するのなら、いまのうちよ。いまなら、わたしも、本星の人間に、いくらか口ぞえをしてあげてもよろしくてよ!」
しかし勝邪は、クィーンの挑発に乗ることなく、ぼやく。
「クィーンとかいって威張っているけど、結局は、この女も中間管理職なんだよなー、じつは」
「あいにくと、降伏することの莫迦らしさは、身をもって経験している。降伏なぞせぬ。相手をまちがえるな」
ややもすると繊細そうに見える美貌でありながら、どすの利いた声で、きっぱりと言う姜維であるが、一方、曹丕のほうはというと、すこし様子がちがう。
メモを片手で持ち、ペンを持つほうの手で頭をかきながら、ぼやいた。
「待て、勝手に結論を言うな。余の意見も聞け。本格的に不味いようなら、降伏はせぬが、退去はするぞ」
「オイオイオイ、なんなの、その弱気発言!」
姜維もまた、曹丕のことばに、はじめて表情を大きくゆがませて、にらみつけた。
「情けない。それでもアトラ・ハシースの言葉か!」
「すまぬな、余は、まちがってアトラ・ハシースになった人間なのだ。アトラ・ハシースとしての職務にも、もともと興味がない。仲達がどうしてもというので、一緒にくっついてきたようなものなのだ」
「そこだよ、そこっ! ここで一人で逃げたら、仲達にすまないなー、とか思わないわけ?」
勝邪が問い詰めても、曹丕は飄々とした表情を崩さず、あっさりと答えた。
「すまぬが思わぬ」
「なんでだよ!」
「当たり前ではないか。仲達は、余の家臣であるぞ。家臣が余のために尽くすのは当たり前であるが、余が家臣に尽くす義理はない」
「ひでー! というか、まだ生前の身分にこだわってやんのかよ!」
「まったくだ。呆れたものだな。これでは、仲達も反乱を起こすはずだ」

あきれる姜維たちに合わせるように、演奏をやめて、背中だけを見せていた男が、不意に、バレリーノのように、大きく手を振り上げた。
その場のだれもが、男の手振りに気を取られ、口を閉ざす。
とたん、男は、鍵盤におのれの手を叩きつけるかのような勢いで、だれの耳にもお馴染みの名曲『トッカータとフーガ』を奏ではじめた。
まるで裁きの時を告げる、天使のラッパの音色のように、そのメロディは容赦なく、アーケード街にわんわんと響き渡る。
とたん、それまでシャボン玉に変化することなく、いまだ地に留まっていた亡者たちが、今度は、おのれの胸をはげしくかきむしり、苦しみはじめた。

「おいおい、ちょっと! さっきとずいぶん対応がちがうんじゃねーの! というか、このメロディ、オレもけっこうキツイかも!」
ハリセンがもだえつつ、抗議の声をあげると、ぴたりと男の手が止まる。
聞くものの姿勢を正す、高名なバロック音楽の旋律が途絶えたかと思うと、かわりに、男の高らかな笑い声が、アーケード中に響き渡った。

「友情と忠誠をごちゃまぜにして、勘違いとは、笑止! そーれでもっ! 詩人か! 信じられん! 
でーもってぇ! 諸君! 絶望するにはまだ早いのだよ! 
このわたしが『GBHの世界』にあらわれた以上はッ! 友情と、そして誇りでもって、こやつらを、ぎりぎりまで足止めさせてもらおうではなーいかッ!」

「なんだか変な口調のやつが出てきたなあ」
「高いところから、ずいぶんと生意気な口を利くではないか! 名を名乗れ!」
むっとした曹丕の問いに、アーケードの屋上にいる男は、高らかに叫んだ。

「ドイツのォォォォォ、作曲力はァァァァァ、世界一ィィィィィッ!!」

「……そうかあ?」
「たしかにドイツ人に有名な作曲家が多いのは認めるが、こういうのは、言ったもの勝ちなところがあるからな」
冷静に男の叫びを分析する、姜維と勝邪。
一方で高いテンションを保っている男は、アーケードの天井に立ったまま、高らかに地上にいる者たちすべてに告げた。
「それと知らずにヒヒイロカネに取り込まれたものならば、優しく説得すれば、本来の道へ帰ることができるッ! だがッ! そうと知っていて、あえておのれの恨みを晴らすため、ヒヒイロカネに取り込まれた者もいるッ! 
そういう亡者たちは、優しい手段は通じないッ! 断固とした態度が必要となるのだッ! 
さらば、ヒヒイロカネに操られし亡者どもよ、貴様らの相手は、このわたしが最後だーッ!!」
男は言うと、まるで舞台役者のように大げさな身振りを加えて、くるり、と姜維と勝邪、そして曹丕に顔を向けた。
だが、アーケードを見上げる三人(?)が、男の顔を確認できないうちに、
「とう!」
と勇ましい掛け声をあげると、プールの飛び込み台から飛び降りるように、きれいな姿勢で宙に飛び降りてきた。

だが、地面に激突することはなく、器用に、空中で、猫のようにくるりと回転し、だん、と地響きをあげて、地上に降り立つ。
もがき苦しみ続ける亡者たちは、男があらわれると、怖じて、その場から、さっと身を引いた。
手を水平に広げ、地面に降り立ったその巨漢の男。
細かくカールした真っ白いかつらに縁取られた、ふくよかな顔、装飾用のボタンがずらりと並んだ、凝った刺繍のほどこされた上着の下には、ビヤ樽のような腹がたるんである。
その顔は、おそらく、だれしも一度は見たことのある顔であろう。

「あっ! 小川さん!」

三人(?)は、その顔を見るや、驚きの声をあげる。
まさか、小川さんが『GBHの世界』における戦いに、参加するとは思わなかったのだ。
「聞けいッ!」
派手に登場した男が、叫んだ。
「わたしがだれか、お分かりかな、中国のアトラ・ハシース、そしてアストラル諸君ッ! 我こそは、ロップイヤーラビット・くっきー氏の求めにより、この極東の地にあらわれた天才マエストロッ!」
「小川さん、久しぶりだな!」
「仲達め、小川さんにまで協力を頼んでいたのか!」
名乗る前に、先に呼びかけられてしまい、二重顎の大作曲家は、この世の終わりが来たかのようにおおげさに顔をゆがませて、叫んだ。
「人のせりふを取らんでいただこう! わたしこそは音楽の父ッ! ベー・アー・ツェー・ハー!BACH! 日本風に呼ぶと小川ッ! 
我がゲルマン民族の音楽文化の結晶であり誇りであるゥゥゥゥゥゥ!! すべての近代音楽の父であるのだァァァァァ!!!」
「いや、まあ、その功績はたしかに認めるが、小川さん、なんだって口調が荒木? いつになく、顔も異様に濃いような」
「ぶぁぁかものめぇぇぇ!! 仙台と言えば荒木ッ!! 荒木といえば、J○J○ッ!!」
「たしかにそうだが」
「TPOを合わせてみましたッ!」
「空気、読めよー」

勝邪にいなされて、小川さん、こと、バロック音楽を代表する天才音楽家J・S・バッハは、こほん、と咳払いをひとつして、言った。
「と、いうわけで普通に説明させていただくとだ、くっきーさんの依頼で、ちょっとお手伝いを任されたわけです。
亡者たちの昇天は、この小川が特別に作曲してまいりました『くっきー受難曲・昇天のためのパルティータ いろいろ長調』にどうぞお任せをっ!」
「いろいろ長調? なんだそれ。つまり、めちゃくちゃな曲ってことじゃないの?」
勝邪の問いに、バッハは、ちっち、と指を横に振って、言った。
「素人の耳にはめちゃくちゃに聞こえるかもしれない。だがッ! この曲は、この小川の新境地ともいうべき曲! 
もっと内訳を言ってしまうならば、突貫工事で作ったわりには、昇天させるための技巧を凝らしましたところ、サティのヴェクサシオン(単調な癖して異常に長い曲。ヴェクサシオンの意味は、ずばり『嫌がらせ』)より長い曲になってしまいまして、全部で39楽章あるうえ、そのひとつひとつが、ぜんぶ音階がちがうというふうになってしまった、という次第! 
それというのも、亡者といっても、タイプがさまざま。それぞれにあった曲で昇天させようと心遣いをしたところ、このような結果にッ!」
「なんだってまた……」
「つねに人生実験なりッ! ベトさんの第九を真似して、ラストには合唱付き!」
「ええー、ベトさん、って、マジ? オレ、ベトさんの『月光』を寝る前に聞いて寝てるんだよ、超ファン!どこどこ! サインほしー!」
興奮してびちびちと、獲れたての魚のように跳ねる勝邪を押さえつつ、姜維がたずねた。
「天才の共演というわけか。仲達の人脈、あなどれぬ」
「くっきーさんには、『下宿先』のコンサートの裏方を熱心にしていただきましたからね、それの恩返しというわけですよ。
ちなみにベトさんは、わたしが連れてきました合唱団と、いま揉めておりまして、なーにせ、なにを考えたか『人間よ、原始の姿にかえってこそ、まことのエコ!』とかわけのわからないことを言いながら、全裸でアーケードをうろつこうとしたばかりか、それを合唱団の諸君にも押し付けようとしたものですから、合唱団のほうも『いくら偉大な作曲家の呼びかけだろうと、出来ることと出来ないことがある』と反発しまして、そりゃもう、大騒ぎ。
まー、かれらの出番は後のほうですからいいのですけれど、ベトさんと合唱団は、あとから到着する予定です」
「相変わらずだな、ベトさん。どこでも気にせず行水するとは聞いていたが、全裸って…」
ベトさん。要するにルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン。
生前にアルコール中毒の父親のDVに悩まされたり、難聴による絶望と戦ったりと、なにかと波乱万丈、どちらかといえば薄幸な人生を送ったものの、音楽史上において、その名は一度たりとも落ちることなく、今日まで高い評価を受け続けているドイツの偉大な作曲家。
堅苦しい印象のつよい人物であるが、その感覚は繊細にして先鋭的で、当時の流行のメロディもふんだんなく取り入れ、完全に自分のものとして消化(昇華、といってもいいかもしれない)した。
多くの困難を克服した人物としての印象が強烈なために、よけいによい印象が強いのはまちがいないが、人間的には、いろいろと癖のある人物で、身近な人間であればあるほどに、その人物を評価しなかった。
しかし、もっとも力強く感動的な第九の、その構成や、わざわざ選択した歌詞の内容から見てもわかるとおり、かれは純粋すぎたので、過酷な運命からおのれを守るために、奇矯な行動に出ざるをえなかったのだ。
奇矯な行動をとる奇人ではあったものの、その本質は、人を賛美し、世界を信じ、そして愛した、本物の芸術家であったことがわかる。

「ベトさんの趣味は、トラブルを起こすことではないのか。あれほど、死んでも丸くならない男も珍しい」
「あんなきれいな音楽を作るくせに、行動は支離滅裂の変わりモンだよなー」
あきれる姜維と勝邪に対し、曹丕だけはちがった。
「しかし天才であることに間違いはない。天才がふたりも揃えば、いくらか違おう。
先ほどは、浅はかな言葉を吐いたこと、率直に認めるぞ。すまなかった、小川さん」
曹丕に天才と認められ、なんだかんだと単純な小川さんは、顔をほころばせて、うなずいた。
「おお、やはり古代の天才詩人。先ほどはつい失礼なことを言ってしまいましたが、われらにご理解をくださるか」
「貴殿らの力は認める。同じ『風を運ぶ者』であるが、貴殿らのほうが、余よりも、ずっと力を持っておる」
「いやいや、そう誉められますと、さすがに恐縮するところ」
と、言いつつ、小川さんは、羊の毛のようなかつらのうえから、頭をぽりぽりとかいて、照れた。
「しかし実際、この『くっきー受難曲』、長大な作品で、終わるのがいつになるやら、でありますが、でも、効果は保証付き! 演奏が終わるころには、亡者たちはほとんど昇天していることでしょう! 
あ、お三方、せっかくですから、聞いて行きます?」
「小川さんの新曲となると聞いていきたいところだが、すまぬな、それほどに長いのであれば、われらは向かわねばならぬところがあるゆえ、今日は遠慮しておく」

小川さんに答えつつ、曹丕は、亡者の数が格段に減ったアーケードの向こうに見える、水晶堂ビルの屋上を見る。
すでに空の半分は闇に包まれているのだが、星の瞬きはじめた空に、シャボン玉がぷかぷかと浮かんでいくほかは、そのビルの上には、だれもいなかった。
さきほどまで、レティクルクィーンであり、メアリであるシマノが立っていた場所には、だれの姿もないのだ。

「なかなかたいした行動力、そして判断力というべきか。小川さんとベトさんの両アトラ・ハシースの力を恐れ、アエラに向かったのだな」
曹丕の呟きを受けて、姜維も言う。
「いや、完全に小川さんと兜さんには任せられまい。ある程度は仙台アエラにたどり着く者も出よう。
クィーンは、それらを率いて、仙台アエラを占拠するつもりなのだ。われらも行かねばならぬ」
「よーっしゃ。小川さんたちのおかげで、すこし気が楽になったぞ! というか、これでやっと本当に全員集合だな! 
長かったなー、オイ。さすがオレ様第一主義者のあつまり、アトラ・ハシースの軍団、まとまらないったら!」
三人はそんな呟きをそれぞれ漏らすと、それぞれの覚悟を決めて、仙台の街でもっとも高いとされる仙台アエラビルへと足を向ける。

その背後では、ふたたびパイプオルガンの前に座った小川さんの演奏が、戦いに赴く三人を見送っていた。



一方、うさぎのくっきーを両手でかかえ、白い影とともに、無人のアーケードを駆け抜け、アコは、ひたすら真正面に見える仙台アエラへと急いだ。
追いすがろうとした不気味な亡者たちを、はるか後方に引き離し、アコは息を切らせつつ、無人のアーケードを突っ切って、運転席に人のいないタクシーの列が目立つ車の往来のない道路を、赤信号であろうがかまわずわたり、飛び込むようにして、仙台アエラへ入った。

仙台アエラは、仙台駅から離れた場所にそびえる高層ビルで、ひときわ目立つ外観と、その覚えやすいビル名から、まちがいなく、仙台一のランドマークである。
その一階は、信号を挟んで、ちょうど一直線に伸びるアーケードの真正面にあった。
三十一階建ての、仙台ではもっとも高いビルで、その構成は四つにわけられる。
四階までは複合テナントビルとなっており、一階には大型書店が、二階から四階にかけてはアパレル関係の店舗や文房具店などが入っている。
五階から八階は公共施設として、多目的ホールや貸し会議室、ネットを閲覧できるコーナーなどがある。
九階から上はオフィスとなっており、五十以上の企業・病院・学校などがテナントとして入っている。ありとあらゆる年代が出入りするビルでもある。
一階のフロアは、大型書店のある商業スペースと、エレベーターのエントランスとなっている二つに分けられる。
この二つは、はっきりと区切られており、書店側からエレベーターのエントランスへ向かうには、いったん、店のフロアを出なくてはならない。
エレベーターのエントランスは、明るい肌色の大理石によって飾られている、広々とした明るい空間で、商業スペース側とは窓などでつながっておらず、店内のBGMや物音なども、ほぼ遮断されてしまうために、エントランスに入ると、雰囲気がとたんにビジネス向けの落ち着いたものに変わる。
昼夜問わず、人の往来が絶えることのないビルである。

学生であるアコは、バイト代が入ると、ちょっと贅沢気分を味わうために本屋や雑貨屋を目当てに来ることはあったが、駅からすこしだけ遠いこのビルに、わざわざ足を運ぶことはめったになかった。
久しぶりにやってきた仙台アエラビルに入って、まるで自宅に帰ってきたかのように、ほっと安堵の息をつく。
「えっと、仙台アエラ、到着したのはいいけど、めちゃくちゃ広いよ。どこへ行けばいいの?」
問いかけても、答えはない。

あいかわらず、たれ耳うさぎのくっきーは、ぬいぐるみのように、力なく、ぐったりと腕の中にあるだけで、一向に目を覚ます気配はない。
白い影の一人と一匹は、もともとしゃべれない。
まったく一人ではないとはいえ、やはり、心細さに変化はない。

白い影のほうはというと、アコの動きに合わせて、すこし離れたところから、ゆっくりとついてくる。
離れているのは、アコを警戒しているのではなく、逆に、アコを怖がらせまいと、気を遣っているのが感じられた。
落ちてきた看板を受け止めてくれたので、味方であることはまちがいない。
しゃべれない、というのが困ったところだ。

「梯子がどうとか言っていたよね? 梯子って、上に架けるもの、だよね? 上に行けばいいのかな?」
独り言のようにつぶやきながら、アコはくっきーを手に抱えたまま、書店売り場からレジの前をとおり、エレベーターエントランスのほうへと向かう。
アエラの一階にある書店売り場は、仙台駅を中心にいくつもある大型書店のひとつで、特にアエラの書店は、むかしから地元に馴染みのある店でもあるから、固定客を持っており、繁盛している。
もしこんなときでなかったら、アコも平積みされた本のひとつひとつを手にとって、今度のバイト代でなにを買おうか、わくわくしながら、あちこちのコーナーを見て回ったことだろう。
しかし、いまは非常事態。本を見ている暇はない。
新刊コーナーの色とりどりの文庫のカバーに、すこしばかり気を引かれつつも、アコはそれらを後にして、エントランスへと向かった。

だが。

「あれ」
アコは思わずつぶやいた。
エントランスには壁と床には照明のよく映える、肌色の大理石のパネルが敷き詰められている。
壁の凹凸の部分には、ポトスなどの観葉植物が飾られ、無機質なビルの印象をやわらげている……のがこれまでであった。
だが、アコが足を踏み入れたエントランスは、まるで建築中に打ち捨てられたビルの内部に入り込んだように殺風景で、寒々とした、コンクリートむき出しの壁に囲まれた、陰鬱な空間であった。
受付嬢がいつもなら常駐している案内コーナーもなくなっており、企業のパンフレットが置いてあるラックもなくなっていた。
天井からは、星の明かりのように心もとない照明が、ちんまりとこぼれてくるほかは、普段のような明るさはなく、人がいない分、余計に静けさが不気味である。
まるで廃墟に来てしまったようだ。

「おかしいなあ。このあいだアエラに来たときは普通だったのに、改装工事でもしているのかな。その割には、工事をしている気配がないというか」
塗装工事などをしているのであれば、おそらく組まれているだろう足場もないし、ビニールシートなども、どこにも見当たらない。
コンクリートのむき出しの空間は、まるで最初からそうであったかのように、沈黙の中にある。

アコは迷った。
なにかがおかしい。
さっきから、いろいろおかしいことばかりだが、ここもやはりおかしい。
いまのところ、襲ってくる『敵』(その敵が、なんだって自分を襲ってくるのか、その理由も、いまひとつアコは理解できないでいた)はいないが、このまま、エレベーターに乗って上階を目指して大丈夫なのだろうか。
「梯子って、屋上にあるのかな。屋上なんて、行ったことがないよ」
アコが迷っていると、白い影は、しばらくアコの様子を見て、ただそこに佇んでいたが、不意に背を向け、二箇所あるエレベーターホールの、奥の、最上階へつづくエレベーターのほうに向かって行った。
白い影が動くと、その横で、同じく佇んでいた、犬かヤギのように見える白い影も、同じくエレベーターホールのほうへ向かっていく。
「あっ、どこ行くの?」
アコが呼びかけても、白い影は返事をしなかった。
犬かヤギのように見えるほうが、すこしだけ首を動かして振り返ったように見えたが、もともと口を利けないので、なにを目的に動いているのかは、やはりわからない。

アコは、くっきーとともに、エレベーターエントランスに取り残された。

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※ この話は、「Give birth to Heaven・16」につづきます。