Give Birth to Heaven・12

※ この話は、「Give Birth to Heaven・11」のつづきとなります。

その鋭い、美しい三角の刃が、自分の制服の、ちょうど心臓があるあたり(自分の心臓の正確な位置を、皮肉にも、アコはそのとき初めて知った)を突き刺そうとしたのは見えた。
見下ろせばすぐそこに刃があり、いまにも制服のブレザーを突き破って、肉体を貫こうとしている。
だが、その刃が貫通することはなかった。
見下ろす刃はぴたりと停止し、その切っ先はぴくりとも動かない。
ノートゥングの持ち主は、
「あれ? あれ?」
と、子供っぽい声を上げながら、何度も剣を前へ進めようとする。
しかし、剣はまったく言うことを聞かずに、固まってしまっている。
空中で、ぴったりと。

「あきらめろ。一時的な効果ではあるが、おまえはその娘を傷つけることはできない。髪の毛の一筋たりともだ」
見知らぬ声だった……いや、どこかで聞いた覚えがある。
顔を上げると、ちょうどアーケードの入り口のところ、地霊『谷風』が暴れまわっている道路を背景に、よれよれの地味なロングコートに、皺だらけのシャツ、てきとうに結ばれたネクタイ、無精ひげ、不ぞろいの髪、といっただらしのない姿をした男が、飄然と立っていた。
靴の先も泥で汚れていて、靴下もゴムが緩んで垂れ下がっている。
それほどにだらしのない姿でありながら、ふしぎと嫌悪感ばかりを抱かせないのは、その男の双眸に、はっきりと高い知性とつよい意思が見て取れるからである。
その目と合えば、だれの背も思わずしゃんとするような、そんな力のある双眸をしていた。

神経質そうな尖った顎に、整った鼻梁。憂いを多く含んだ黒い双眸は、にらみつけるでもなく、哀れむでもなく、シグルトを見ていた。
「攻撃型、ではないね」
シグルトがあっさりとあきらめて剣をしまう。
その執着のなさにもアコはおどろいたが、突然にあらわれた男に、もっと驚いていた。
思い出したのである。
この人、たしか隣に引っ越してきた、職業・詩人のひとだ!

詩人は、アコの腕のなかでぐったりとしている、たれ耳うさぎを顎でしゃくって示した。
「そこで全力を出し切って倒れているやつの知り合いで、風を運ぶ者だ」
「風を運ぶ者、かあ。君の力は、霊具を意のままに操る力?」
「いいや」
いいつつ、男はよれよれのコートのポケットから、黒革のちいさな手帳と、付属品であるらしいちいさなペンを取り出した。
「べつに媒体はなんであろうといいのだが、余が文字を綴ると、一定期間は、どれほど滅茶苦茶な出来事であろうと、まったくそのとおりになる。
ただし、生死にかかわることと、自然現象は省かれる。むかしは出来たのだが、最高府と女神どもに制限された」
「そっちの味方になるのをやめて、こっちに来たら? うるさい規則とか、なにも気にしなくていいから、楽だよ」
世間話をするかのように誘うシグルトに、男はしかし、首を振った。
「そこで伸びているやつと約束したからな。今回の召還はきっちりと仕事を果たすと」
「話しぶりからして帝王クラスだろうに、人の言いなりになるなんて、癪だとか思わない?」
「思うときもあったが、いまはどうでもいい。その娘から離れろ、小僧」

自称・職業詩人が言うと、それまで飄々として表情をくずさなかったシグルトが、はじめてぴくりと頬を痙攣させた。
「小僧とは、ずいぶんだね。年はそっちが上かもしれないけれど、霊格はこっちのほうが上だよ」
「小僧が気に入らなければ餓鬼のほうがよいか? 女の駒にしかなれぬ半端者めが、おまえのような者を見ると、反吐がでる」
「そうかい、なら、反吐がでないようにしてやるよ!」
言いざま、シグルトはアコに向けていた刃を、自称・詩人に向けて抜き放った。
白く清い、刃こぼれのひとつもない剣。
しかし、その全体が、どこかまがまがしさに溢れている剣だ。

シグルトの動きは素早かった。
その動きは優雅ですらあり、白鳥のようにしなやかで力強い。
だが自称・詩人は、顔色ひとつ変えることなく、さっと身をわずかに後ろへ反らせるだけで、刃を余裕でかわして見せた。
目標を失い、つんのめるかたちとなったシグルトは、舌打ちをしながら、自称・詩人を振り返る。
「自分も剣の攻撃を受けないように、とでも書いたのか」
「噂どおりのほんとうの莫迦だな。じつによくしゃべる。わざわざ手の内をさらす莫迦もあるまい。そんな救いようのない愚者は、おのれだけと知るがいい。
ヴァルキューレも気の毒に、どうしてこんなぼんくらを夫に持ってしまったのか、心より同情するぞ」
「うるさい!」

二度目のシグルトの攻撃は、アコの目から見ても、あきらかにあてずっぽうで、感情に任せたものであった。おそらく素人でも、その剣筋を読むことはできただろう。
「ヴァルキューレには弱いようだな。愛人が気を悪くするぞ」
ビルの屋上にたつシマノ……メアリでありレティクル・クィーンである……を詩人が指差すと、ますますシグルトは顔を真っ赤にして、怒り出した。
この詩人、さすがに詩人を自称するだけあり、人の心を読むのに長けているらしい。
そして、それを悪用(この場合、有効活用というべきか)するすべも心得ている。

「最上アキラ子、いまのうちに、そのうさぎと白い影とともに、仙台アエラへ行け」
突然に詩人に言われて、アコはおどろいて尋ねた。
「でも、五橋に行かなくちゃいけないんです」
「五橋はカラだ。女神たちはいま、仙台アエラに集まっている。あそこはいま『はしご』となりつつある。あちらの『夢の世界』と、こちらの『Give Birth to Heaven』の世界をつなぐはしごだ。
じきにみな集まる。余の心配は不要。早く行くがいい!」
「でも、あのう」
たしかに絶好の機会だ。
シグルトはすっかり詩人の徴発に乗って、アコのほうをまるで見ていないし、シマノ(メアリであり、レティクル・クィーンでもある)のほうは、くっきーの呼び出した地霊のどすこい攻撃を収めるのが手一杯であるし、銀の小人も死者たちも、似たようなものである。
「いいから行け! 余もアトラ・ハシース。『死』は恐れない。そなたは、いまは只人。『次』はない身であろうが! 早く!」

詩人の口調には、有無を言わせないものがあった。
アコは弾かれるようにして、足を動かした。仙台駅方面、仙台でもっとも高いビルである、仙台アエラへ。
そしてそんなアコのうしろを、くっきーを抱えた白い影、そして犬がついていった。



人気のないアーケードを直進して仙台アエラビルへ向かう少女の姿を、詩人は見送った。
とりあえず『うさぎ』の召還した地霊『谷風』の力で、いまのところヒヒイロカネに呼び寄せられた死者たち、そしてレティクルの銀の小人たちは抑えられている。女王はビルの屋上で、小人らを制御するのに手一杯だ。
さて。
詩人があらためてゲルマンの戦士と対峙しようと振り向いた一瞬、鼻に、がつんと強烈な衝撃があった。まるで鋼の塊を喰らったような。
目の上で火花が散る、とはまさにこのこと。
衝撃がつよすぎるあまり、痛みはまだ感じない。痛みを突き抜けた振動が、脳天を貫いた。まるで鼻に至近距離で弾丸を浴びたようである。
思わぬ攻撃であったこともあり、詩人はそのまま、仰向けに倒れた。
アスファルトに後頭部が激突したが、その痛みもわからないほど、鼻を中心とする痛みはひどかった。
痛すぎて痺れている。
痛い、ということはわかるが、実際の痛みは、なにも感じられないのだ。

「予想、大当たり」
と、金髪の美しい天使のような風貌をした、しかし中身は俗物のゲルマンの戦士は、ボクシング選手のように拳を構えつつ、楽しそうに言った。
「手の内をさらすか、なーんて言っていたけど、君だって、、けっこうぺらぺらしゃべっていたよ。
君が書いた記述は一時的に実現するんだっけ? なら、こう書いたんじゃないの? 
『ノートゥングは誰をも一切、傷つけることはできない』。当たりでしょ? 
それなら、ノートゥング以外の武器でもって戦えばいいわけだ。
もしかして、ノートゥングさえなけりゃ、ただの間抜けだと思ったかなあ。君、ちょっと人のこと舐めすぎ」
シグルトは愉快そうに言いながら、足取りも軽く、仰向けになって倒れた詩人のところまでやってきた。

仰向けになった詩人は、動かねば、と思った。
動いて、立ち上がらねば、だめだ。こいつはヤバイ。
最高府だなんだと、小難しいことは一切、頭にない。
妻であるヴァルキューレさえ裏切れたやつなのだ。

しかし、動けない。
脳天が弾けてしまったような感覚だ。
陽に透ける金髪の、軽薄そうな風貌に騙された。
いや、忌々しいが、こいつの言うとおり、舐めきっていたというところか。
くそっ。
詩人は舌打ちをした。
舌打ちはうまくできなかった。
鼻から溢れた鮮血が、唇から口内にまで侵入してきたからである。
なんと無様な。これではなにもできない。

シグルトの言ったとおり、詩人はメモにノートゥングの力の無効力化を書いた。
それは見事な力を発揮して、アコを救うこともできたのだが、シグルトを、魔剣に頼り切ったうすのろ、と舐めていたのが失敗であった。
この男は、たしかに何も考えていない、ひどい記憶力の持ち主で、恩義や信義、礼節といったものも知らない、無知な男だ。
だが、一流の戦士である。知識も知恵もなにも持たないが、しかし戦いの側面において、かれは最高の強さを見せつける。
その時々に応じて、体が勝手に動くのである。
本能が瞬時にかれを突き動かすのだ。
生まれながらの戦士、獰猛で凶悪で、そしてひどく身勝手な戦士。
友愛といったものもわからぬ、ひどく原始的な欲望にのみ忠実な、そういう男なのだ。

詩人は胸ポケットにしまった手帳を取り出そうと腕を動かした。
媒体はなんでもいいのだ。
メモであろうと、チラシの裏であろうと、文字さえ綴れればいい。
だが、腕は言うことを利かなかった。
シグルトの浴びせかけた、たった一撃の衝撃が、全身を痺れさせているのである。

いや、それだけではあるまいと、詩人はつよく後悔をしつつ思った。
この仕事を請けるまで、詩人は多くの薬物に耽溺していた。古くは阿片、それからモルヒネ、コカイン、ヘロイン、マリファナ、LSD、ハッシシ、スピード、エクスタシー、マジックマッシュルーム。
ドラックはなんでも試した。
アトラ・ハシースはおのれの身体を完全に律することができるので、薬物は、かれに心の安定をもたらしてくれる魔法の薬で、ひどい後遺症には悩まされることはなかった。
はずであった。
だが、長年のドラックの使用がたたったか、最近は身体の動きが、目に見えて鈍い。
アトラ・ハシースは肉体に縛られぬ、高次の精神体のはずである。
副作用など表われるはずもない。

なぜだと焦って、ようやく気づいた。
ドラッグが蝕むのは肉体ばかりではない。
詩人はドラッグの副作用を甘く見ていた。
ドラッグはたしかに、心の安定をもたらし、そしてかれに数々のインスピレーションを与えたが、それは同時にかれ自身の努力を放棄させることでもあった。
アトラ・ハシースは精神体であるから、その精神が逃げをくりかえして成長をしなければ、当然のことながら肉体を律することなどできはしない。
いかに天才であろうとも、そこに努力がない限りは、生み出すものに輝きはあらわれない。
自分はいま、かなり際どい位置、崖っぷちに立っている。
このままでは堕天するのだという容赦のない現実が、詩人のまえに絶望の深い口をぱっくりと開けて待っていた。

そも、詩人がドラッグに耽溺するようになったのは、偉大にすぎる父を、死んでからもなお、永遠に越えられそうにないという絶望と、死によってしがらみから解放され、真の能力を発揮しはじめた弟にはさまれ、焦り、自分を見失っていたからだ。
だれも彼を責めることはなかったが、かれ自身は、周囲のいたわりからくる沈黙を、『父から譲り受け、弟たちに死に追いやるくらいの真似をしてまで得た家』を他人に奪われたことで、みなから同情とあざけりを受けており、無視をされていると信じ込んでいた。
本当は、あまりに繊細すぎて、神経質であったから、政治的なことには不向きな性格だった。
不幸にも器用で頭脳明晰であったから、周囲が『かれなら大丈夫であろう』と信じてしまい、本当のかれの本質を見抜けなかったことが不幸だった。
父が最後まで家督を譲るべきか否か、迷っていたのは、息子のこうした繊細すぎる気質を理解していたからである。
そのことも、詩人を苦しませた。
父はなんでも見抜いている。
いまだって、こんな厄介者になりつつある息子を、ひそかに恥じているにちがいない。
苦しみから逃げるためにドラッグに走り、そしてドラッグに走ったあとは、徐々に徐々に近づいていく破滅に怯える。
そんな日々が、なんと何百年とつづいた。
かれはすっかり病んでいた。
これを救わんと動いたのが、生前では忠実なる家臣である。
しかもその家臣、自分が没したあとに、そのすべてを簒奪し、死して後に帝のおくり名をされた男であった。

詩人は当初、そいつを信用しなかった。
詩人には心を許せる人間が少なく、生前、そいつは数少ない親友といってもいい存在だった。
だが、そいつは、自分が死んだあと、すべてを奪って、自分と同じ位を追贈され、歴史に名を残した。
殺さねば殺される、という切羽詰った状況であった、というわけではない。
そいつがしっかりさえしていれば、家はまだ続いたはずである。
同じ時代に生きた諸葛孔明は、幼い帝を擁護して、立派に振舞って死んだ。
その鮮烈な印象にくらべると、そいつはあきらかに分がわるかった。
広い世間の目で見れば、そいつのような人間が圧倒的に多く、諸葛孔明は例外中の例外といっていいのだが、視野が狭くなっていた詩人には、少数派であろうと多数派であろうと、どうでもいいことであった。

それはともかく、詩人は内側に憤怒を抱えつつ、そいつを生前と同じく家臣として扱った。
おのれの身がどれほどのものか、思い知らせてやるという、暗い意志があったのだ。
そいつもまた、いくらか後悔があったのか、詩人の無茶な要求をおとなしく聞いた。
だが、それがあまりにも、服従というよりも隷属にちかい、勝手すぎるものだったため、そいつの親族たちがしゃしゃり出てきて(そいつの一族も、多くがアトラ・ハシース、アストラルになっていた)詩人からそいつを引き離した。
が、こちらが壊れかけている、堕天しかけていると聞いて、ふたたび、そいつは助けるためにやってきたのだ。

詩人はなかば、おのれの魂について、あきらめ始めていた。
そんななかで、以前とはちがう、うさぎの姿になって、そいつは再び現れた。
当初は疎ましく思っていた詩人であるが、呪詛によってうさぎの身に変わったそいつは、なかなかしつこかった。
人生には理解者が必要だと力説し、自分がそれになるのだと主張した。
詩人は気負うそいつのことを、すこしだけうれしく思った。
そして気づいた。
最初にあれだけきつく当たり、隷属させようとしたのは、裏切られたことへの怒りもあったが、元通りの、主従関係を越えた、穏やかな親友同士に戻りたかったからではないのか、と。
詩人は天邪鬼であったから、そのことに気づいても、なお、そいつに辛く当たった。
だが、詩人の中に起こった変化に、そいつは気づいたのだろう。
キツイ言葉を浴びせても、以前のように、情けないと騒ぎ立てて泣きながら去る、ということはせず、一時は、わあわあ、きいきい喚くものの、完全にいなくなってしまう、ということがなくなった。

詩人の心に、本来の穏やかさが戻ってきた。
ドラッグに手を出すことも、極力、しなくなった。
たまにどうしようもなく孤独と悲しみにおぼれそうになり、逃げるために手を出したが、そのあとは決まって後悔した。
ドラッグのもたらしたのは、精神の変調ばかりではなく、不規則な生活習慣もであった。
詩人はきいきいとそいつに叱られながら、ゆっくりと、すこしずつ、本来の自分を取り戻しつつあった。
そうして、しばらくは穏やかな日々がつづいたあるとき、そいつが蒼い顔(といってもうさぎの毛皮に邪魔されて、ほんとうに蒼いかどうかはよくわからなかったが)をしてやってきた。
そいつの親友にして好敵手が、最悪のトラブルに巻き込まれているようなので、助けに行きたい、という。
そして、そのためには、援軍が必要なのだと。
詩人はためらいなく、よろしい、協力してやろう、と言った。
そいつへの義理を果たしたい、ということもあったのだが、もうひとつ、これまで努力を放棄し、惰性で生きてきた日々に、決着を付けたい、という気持ちがあったのだ。
詩人には、ドラッグに溺れていて、堕天しそうだ、という噂が付きまとっていたので、長らく、かれを雇うヴァルキューレはいなかった。
なので、かれはそいつに便乗にする形で、女神たちとともに、ここにやってきた。
あらたに生み出された夢の世界、自由の土地、最高府の監視や論理に振り回されないで住む町だ。
そして詩人は、友を助けるために姿をあらわしたのであったが……


なんて無様なのだ、と詩人は、おのれのことを悔しく思いながら、再度、腕を動かそうと試みた。
すると、ありがたい、今度は動く。
ぴくりと動かした腕は、床から数センチの高さまで上がった。
そうだ、胸ポケットの手帳を取り出せ。
こいつの攻撃を防がねば。

そしておのれの体の動きに集中していた詩人であるが、いつの間にかシグルトがすぐそばに立っていて、動こうとする手を思い切り踏みつけてきた。
とたん、ばき、と無情な音が響き、腕にすさまじい衝撃が走る。
腕を折れられたのだった。
詩人はあわてて、おのれの痛覚をシャットダウンした。
アトラ・ハシースは五感を操ることができる。もしここで詩人が痛覚を切り離していなかったなら、おそらくその痛みに耐えかねて、ますます無様に悲鳴をあげていたことだろう。

腕は、肘から下の部分が、風鈴のようにぶら下がって、ゆらゆら揺れている。
神経をやられたかもしれない。
肘から先の感覚がない。
只人であったなら、おそらくはただで済まなかった。
痛みのあまり、そこいらを転げまわったか、さもなくば、この狂った状況に耐えかねて気絶していたかもしれない。

男は持てる霊力を集中させ、腕を回復させようと試みた。
だが、シグルトのほうが動きが早い。
集中しようとした瞬間、すぐにシグルトは華麗に足を上げて、詩人を殴り倒そうとした。
早い。
その風を切る足の、その音のなんと重そうなことか。
鋼鉄で出来ているような男だ。
たしかに不老不死。
ドラゴンの血を浴びた男。
その肉体もまた、ドラゴン並みに強化されているということか。

詩人は起き上がりかけていたが、蹴りが飛んでくるのを見ると、ふたたびアスファルトに転がり、芋虫のようにごろごろと転がって、男の蹴りをやりすごした。
びゅん、と空を切った男の脚の音が、耳元で聞こえる。
いかん、体術にかけても、こいつは一流だ。
次は外さず、こちらを狙ってくるだろう。
もはや腕を回復させている暇はない。

詩人は、おのれの無力さを呪った。
金色の夕日に透ける髪をなびかせて戦うこの男は、たしかに完全な莫迦ではない。
攻撃型かどうかをまず確かめた。
つまりは武器がないかどうかを確かめたのだ。
攻撃型アトラ・ハシースは、たいがいが霊具として武器を所持している。
そして風を運ぶ者と呼ばれるアトラ・ハシースは、攻撃型とちがって武器を持たない。
そのかわり、特殊な能力を所持している。
シグルトは、おどけたふりをしながらも、詩人が何型のアトラ・ハシースなのか、そして、その力はどんなものであるかを、しっかり把握したのだ。

片手さえあれば書ける。
詩人は、言動はマタタビに酔った猫のようなのに、いざ戦いとなると、じつに機敏に雌獅子のように動くシグルトの目を盗み、どうやったなら文字を書けるだろうかと考えた。
ふと、シグルトの肩越しに、アーケードに等間隔で設置されている時計が見えた。
「おい、ゲルマン野郎、おまえの女房が、かわいそうに、小人と一緒におまえを睨んでいるぜ!」
「ヒルダが? まさか! ヴァルキューレがヒヒイロカネになんか取り込まれるものか!」
怒りを含めて、シグルトは地霊『谷風』に翻弄されつづけている亡者と銀の小人たちのなかに、詩人がいうとおり、裏切った元妻がいないかどうかを確かめた。

さっきのは撤回する。
こいつは、正真正銘の莫迦だ。
詩人はシグルトがヴァルキューレ探しに夢中になっているのを幸い、立ち上がると、そのまま大きく跳躍して、時計を吊り下げている鉄柱の上に立った。
ちょうど時計はアーケードの真下、着物屋が一階のテナントとして入っているビルの脇にある。
詩人は、一瞬、折られた手を回復させるべきか、それともメモに新たに文字を綴るか、どちらにすべきか、迷った。
この判断の遅いところが、俺の悪いところだ。
どうでもいいことは、後先も考えずに決められるくせに!

自分に悪態をつきながら、詩人は胸ポケットにある手帳と鉛筆を苦労して取り出した。
そして、まずは口で、手帳に挟んであった鉛筆を取り、つづいて、鉄柱の上にバランスよく、広げた手帳を置くと、そこに文字を綴るべく、指を動かした。
その途端、それまで亡者たちばかりを気にしていたシグルトが振り返り、それまでとは別人のように獰猛な、憤怒の表情を浮かべて、叫んだ。
「うそつき! 彼女はいないじゃないか!」
叫ぶや、シグルトは魔剣ノートゥングをぶん、と振り回す。
すると、その衝撃波が見えない怪鳥ハーピーのかぎ爪のようにアーケードの商店の壁や看板を打ち壊しながら、詩人に押し寄せてきた。
「馬鹿力め!」
悪態をつきながら、詩人は時計から飛び降りる。
と、同時に、衝撃波に耐えられなかった時計を支えていた鉄柱が、時計ごと、ごおん、と派手な音をたてて落ちてきた。
「あんまり人を馬鹿にしないほうがいいよ。そんなことくらい、僕だって知っている!」
頬を真っ赤に紅潮させて、どうみても立派なゲルマン系の美青年は、その魅惑的な容姿にまったくそぐわぬ、幼稚園児のようなことを口にした。
「そいつは悪かった」
言いつつ、詩人は、なんとか一緒に持ってこられた手帳を見る。
そして、にやり、と薄気味悪く笑うと、おおお、と獣じみた咆哮をあげて、折れたはずの腕をかかげて、シグルトに立ち向かって行った。

シグルトがうろたえている表情が見える。
詩人は、腹の底から愉快になって、ますます笑みを浮かべると、自分がそうされたように、シグルトの鼻っ柱に向かって、思い切り拳を打ち込んでやった。
ぱっと、空中に花火のように紅い花が咲く。
そして、シグルトは仰向けになる。
倒れる、と思った詩人であるが、一瞬、その動きを見落とした。
シグルトは、手にしたノートゥングを捨てた。
ノートゥングに効き目がないことは、もう十分にわかったからだ。
そこで、新たな武器を出現させたのである。
見たことのない巨大な斧であった。
その平たい刃には、ルーン文字が渦のような配列で、細かく刻まれている。
それは遠目から見ると、かの忌まわしきハーケンクロイツのように見えるのだ。
アトラ・ハシースは、武器をひとつだけ所有している、というわけではない。

詩人は振り回された、その巨大な斧にぞくりと背筋を振るわせた。
巨人族にして夜を生んだネルの武器。
その一撃を喰らったものは、たとえかすり傷であろうと、身を夜に呪われたかのように、光を永久に失う。
しまった。
避けきれない。

そう思った瞬間と、腕に衝撃が走ったのは同時であった。
なにが起こったのかわからない。
血しぶきが派手にアーケード街の石畳を汚している。
噴水のように勢いよく噴出しているこの血は、余の血なのか? 
そして、石畳に落ちている白いふたつのものは、余の腕か?

「腕がなければ書けないだろう」
と、至極もっともなことをシグルトは言って、悪鬼のようにけたけたと詩人を指差しながら、笑った。
口が達者な詩人は、なにか気の利いたことを言い返してやろうとシグルトを見た。
いや、見ようとした。
だが、視界が徐々に端から闇に侵食されていく。視界が狭まる。
なにも見えなくなる。
ネルの斧の魔力が、はやくも表われたのであった。

「書いてみろよ、そしてまたさっきみたいに嘘をついてみるがいい。どうだい、腕がなければ、できないだろう。血で文字を綴ることだってできやしない。
ざまあみろ、だ! 僕を馬鹿にした罰だよ! 二度と、そう、二度と!」
シグルトはここで言葉を切り、興奮して上下する肩を抑え切れないまま、闇に支配され、うろたえて酔っ払いのように千鳥足になっている詩人に叫んだ。
「二度と、おまえのその汚らわしい舌で、妻の名を呼ぶな!」
「妻、か。さんざん裏切ったくせに、その名誉が汚されたとなると、いきり立つとは、おまえの愛人が泣くぞ、色男!」
両手を無残にも失い、視力さえ奪われながらも、詩人はシグルトに返した。
もはや、意地になっているといっていい。
痛覚をシャットアウトしていることも、この際、よかった。そして、視界が失せたこともよかったかもしれない。
自分がバケツで水をぶちまけたくらいに血を噴出していることや、そしてその血のなかに、ぷかりと二本の手首が浮いているのを、みなくて済んだのだから。

「人を馬鹿にすると、お仕置きを受けなくちゃいけないよ」
シグルトは言うと、斧戦士ネルの斧をふたたび構えた。同時に、刃の側面に刻まれた、渦のようなルーン文字が、シグルトに応じるように、白い光を発し始めた。
「こいつはふつうに殺しちゃだめだ。思いっきり、苦しませてやらなくちゃ。ネル、一撃で殺るなよ。じっくりたっぷりなぶってから、殺してやる!」
凶悪な言葉をつぶやいて、シグルトは、おのれの顔の二倍はあろうかという、巨大な斧の刃を、軽々と振り上げる。
相手は盲目となった無力な詩人。
一撃で終わる。

と、そのとき、天上の風を震わせ、地上にわんわんとその声をサイレンのように響きわたらせながら、何者かの哄笑が響き渡った。
「天知る、地知る、チルチルミチル! おまえさんの悪事はすべてお見通しだ! 
堕天者シグルト・ウェルズング、大人しく縛につけ! そうでなくっちゃ、古代の叡智の結晶たるこの俺さまが、全アトラ・ハシースに変わってお仕置きよん!」
と、この場の空気にまるでそぐわぬ明るい破天荒な声が、シグルトの頭上から落ちてきた。

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※ この話は、「Give birth to Heaven・13」につづきます。