Give Birth to Heaven・9
※ この話は、「Give Birth to Heaven・8」のつづきとなります。
バスの時間がうまく合わなかったので、くっきーを抱っこしつつ、アコは歩いて仙台中心部へもどることにした。
ふたつの白い影は、やはり、一定距離をあけて、アコの歩幅にあわせてついてくる。
アコは足を進めつつ、ちらちらと影を振り返りながら、くっきーにたずねた。
「くっきー、ほかの人に、あの影って見えるのかな」
アコがバスではなく、徒歩を選んだのも、それが理由だった。
バスの運転手は、白い影を乗客として認めやしないだろう。白い、犬のような影もだめだ。車内を汚す心配はなさそうだが。
「安心せい、幽霊とおなじで、霊感のつよい者には見えるかもしれぬが、ふつうの者にはまったく見えぬ」
「やっぱり幽霊なの?」
「幽霊とおなじ状況にある、生きた人間ぞ」
そこがよくわからない。くっきーはいろいろ説明してくれるのであるが、アコには何がどうなっているのか、実際のところ完全には理解できないのであった。
「女神さまに体をもらえれば、幽霊じゃなくなるんだよね」
「うむ、この世界では、この白い影は『死んで』いるので、その事実をすべてくつがえしたうえで、体を与えねばならぬので、それほど難しい作業となると、よほど熟練のアトラ・ハシースか、女神でなければこなせぬのだ」
「くつがえされれば、あとは問題ないの?」
「おそらくは。この影が来た世界では、こやつは生きていたわけだ。その関連から、ほかの汎世界も影響を受けて、基本世界の「事実」をくつがえす変化を遂げているはずであるし」
「そうなると、この影が元いた世界から、こっちの世界に来ちゃっているわけだから、元いた世界にぽっかり空席ができてしまうから、困るのじゃない?」
「それは問題ない」
「どうして?」
「この白い影が来た世界というのは、渡航禁止命令が発令されている。じきに命令のレベルは上がり、ほかの汎世界に影響を与えぬよう、隔離命令が発令されるであろう。
であるから、その隔離される世界で、この白い影の存在がぽっかり空いてしまっても、問題はないと思われる」
「ふうん? くっき-って、もしかして、白い影の正体、知っている?」
すると、腕のなかにいるうさぎが、ぎくり、と身を震わせた。
うそのつけないうさぎである。
そして、あわてたように、じたばたとしはじめた。
「なにを根拠に、いきなりそう言うか。わ、わたしは、なにも知らぬ」
吃るところが怪しい。アコが見下ろすと、うさぎのほうも、上目づかいでこわごわとアコを見上げていた。
目が合うと、さっと逸らして、なぜだかそらぞらしく、赤鼻のトナカイを歌いだした。
くりかえすが、この物語は2003年12月が舞台である。
それにしても、かぎりなく怪しい。
「くっきーってさ、やっぱり知ってるよね」
「♪ まっかなおはーなのっ となかいさーんはぁー ♪」
「怪しいなあ」
しかし、くっきーのトボケの技術はたいしたもので、アコの目線をたくみに交わし、ぴすぴすと、吹けもしない口笛をけんめいに吹いている。
しゃべるうさぎに白い影。そしてつぎは女神様ときたものだ。
『もうこうなったら、本物の吸血鬼が出てきても、おどろかないよ』
そんなことを考えながら、アコは、白い影をひきつれて、学校を出ることとなった。
校門を出て、駅に向かう道を南へと進みはじめたアコであるが、やはり人の姿はいっさいなく、車の往来もぱったり絶えている。
人も車もないせいか、大気がいつに増して透明に澄んでいるように見えた。まるで、曇りも傷もひとつもないガラス越しに、世の中を見ているようだ。
そうだ。
アコは自分で思ったことに、ついうなずいた。
朝からさんざんな目に遭ってきているわけだが、ふしぎなことに、どこか余裕がある。
なにかありえない現象がおこるたびに、心の奥底から、こういうものだ、納得してしまえ、とささやくものがある。
ふつうの人間なら、ここまで奇妙な出来事がつづくなかで、正常でいられるはずがない。
と、すると、あれ? あたしは異常なのかな?
「お正月だって、こんなに人の姿が町から消えたことはないよ。むしろお正月のほうが、大崎八幡宮の初詣客でこのあたりって車も人もすごいのに。気のせいじゃないよね。さっきより静かすぎない?」
アコがいうと、両手でかかえられている灰色のたれ耳うさぎは、気難しそうに顔をしかめて、うなった。
「ううむ、たしかに静かすぎるな。ムネさんの入力作業はおわったはずであるから、基本世界と同様の人の往来がなければおかしい」
空には、もう報道のヘリコプターも飛んでいない。
車の往来もなく、商店街は開いているものの、中には客の姿はもちろんのこと、店員の姿もない。
仙台駅方面へむかう南へつづく道の途中には、大きな総合病院や、大学病院、小学校などもあるのだが、人の姿は、やはりどこにも見えない。
停車する車の姿はあり、人が活動している証拠にはなっているが、肝心の人の姿がないのだった。
あまりの静けさに、アコはだんだん恐ろしくなってきた。腕にかかえるくっきーの存在がなければ、さぞかし心細かったことだろう。
「もしかして、本当にウィルスで、みんな死んじゃったとか、そういうのじゃないよね?」
「そうであったなら、逆に、そこかしこに死体が転がっておるであろうよ。うむ、これは単に人が避難などで移動したわけではない。なにか起こったようだな」
声をひそめていう、たれ耳うさぎに釣られて、アコも声を落として、たずねた。
「なにか、って?」
「わからぬ。急いだほうがよいかもしれぬな。とはいえ、バスもなければ、タクシーすらもない。わたしの自転車は二人乗りではないしのう」
「自転車なんて持っているの、くっきー」
アコがおどろいて尋ねると、うさぎは、誇らしげに、にこにこと笑いながら、こたえた。
「そうだ。友人がわたしのために作ってくれた、特別なものなのだ。
あれさえあれば、五橋までひとっ飛びなのだが、そなたたちを連れていけぬゆえ、やはり歩くしかない」
「うん、すこし速度を上げるよ」
「いや、そなたには、土属性たるわたしの力を分けてしんぜよう。しばし待て」
言うと、たれ耳うさぎは、耳を跳ね飛ばしつつ、ぴょん、とアコの腕から飛び出した。
そして、くるりとアコの足元で振り返ると、アコの履いている学校指定のこげ茶の革靴に向かって、ほにゃもにゃと、呪文を唱え始めた。
「風と土のとりなしにより、晋の宣帝が命ずる、1980円のバーゲン品の合成革の靴よ」
「大きなお世話だよ。これ、掘り出し物だったんだから」
「ええい、集中させてくれい! ともかく安物の靴、我が名を以って、ヘルメスの靴となりて翼を持て、ほいさっさ!」
ほあああ、と気合を入れてくっきーが両手を怪しくぐるぐる回すと、とたんに手のひらが光りだした。
しばらくすると、大げさな動作には似合わない、豆電球ほどの小さな光がぺこっ、と生まれ、それはふわふわと心もとなげな動きでアコの靴に吸い寄せられる。
光の球の側面が、アコの合成革の靴に触れたとたん、靴の全体が、一瞬、ぴかりと光った。
が、光はすぐにおさまり、なにもなかったかのように、靴は、もとどおりの靴になった。
ちなみに、アコの革靴は、ダイエー仙台店で購入した、在庫一掃処分品である。
チラシ掲載商品で、アコはがんばって、最後の一足を運よくゲットしたのだった。
「これでどうなったの?」
足元をふしぎそうに見るアコに、くっきーは得意そうに、えへんと胸をそらせて、言った。
「歩いてみればわかるぞ。さあ、南進を続けるのだ!」
アコはふたたびくっきーを抱えて、五橋へ向かう道を歩きはじめた。
が、なるほど、くっきーが言ったとおり、足が軽い。
軽いどころではない。
まるで跳ねているかのようだ。足をすこし動かしただけで、どんどん風景が流れていく。
急に自分の足が長くなったような錯覚さえおぼえるほどだ。
それでいて、まったく疲れないのである。
「なにこれ、すごい! 面白い! 風になったみたいだね!」
興奮気味にアコが言うと、腕にかかえられている灰色のたれ耳うさぎは、ほほほん、と声をたてて笑いながら、こたえた。
「そうであろう、面白かろう! そなたの靴がヘルメスの靴のように空すら翔られるように加護を加えたのだ。
一時的な作用であるが、これで一気に五橋へいけるぞ!」
くっきーの力のおかげで、アコの移動はずいぶん楽しいものに変わった。
平坦なアスファルトの道を、アコたちは、大学病院前の商店のつづく道をぬけた。
昭和初期に建てられたとおぼしき、空襲を逃れて残った商店や、コンビニエンスストア、銀杏並木の下をくぐり、アコは通常であれば30分はかかる道のりを、たった3分で移動した。
アコはふと、白い影たちはついてきているかと心配になったが、振り返れば、白い影は、さして苦労している様子もなく(というより、どういうふうな状況におかれているのか、表情もわからないので、正確ではないかもしれないが)ついてきていた。
そして一行は、北四番丁に入りつつあった。
北四番丁は、かつて武家屋敷のあった地域である。
土地開発がすすんだ現代は、武家屋敷であった当事の面影を残す場所はすくない。
地盤が固いので地震につよい土地であることと、教育機関が集中しており、子育て環境が整っていることから、いまでは全国企業の仙台支店などの企業ビルのほか、高級マンションが続々と建てられている。
北四番丁から匂当台公園を西へ向かっていく道には、名物のけやきと銀杏並木が一望できる。
黄金色の銀杏並木は、微風にそよいで、今日もうつくしく、南へ向かう道のその両端にあって、黄金のアーチをつくって、師走の仙台を彩っていた。
地下鉄に途中まで沿うようにして、ひたすら南へ歩いていけば、アコのマンションのある五橋である。
魔法の靴さえあれば、じきに到着するだろう。
一方で、アコの後ろにつづいている白い影、鈴木剛志と、そのしゃべる飼い犬ポニーは、重苦しい空気のなか、必死にアコのあとにつづいて、人気のない仙台の街を歩いていた。
前方を行く少女は、とんでもなく足が速い。
まるでサバンナでカゼルを追いかけるチーターになったような気分だ。
けれど、ふしぎなことに、付いていくのがやっとの状況にあるのに、まったく疲れない。
それは隣にいる、しゃべるシェットランドシープドックのポニーも同じだ。
「ポニー、あれはなんだ?」
鈴木は、この『世界』にやってきてから、何度目かの質問をしたが、ポニーは答えない。
犬の表情は読みにくいが、このポニーは特にそうで、ふさふさの栗毛のおかげで、顔がよくわからないのもその原因のひとつである。
いつであったか湿気の多い場所に小屋を置いたのがいけなかったのか、ポニーの毛がかびたことがあった。
そのため医者に連れて行き、薬湯に漬けたのであるが、そのとき、毛が多すぎると、無情にバルカンで刈り取ったことがある。ふさふさの毛を失ったポニーは、まるで賞味期限のきれた、から揚げのように悲惨な姿になった。
それを、家族みんなで笑って……
笑って? だれと?
家族。
そうだ、一瞬思い出しかけた。俺には家族がいた。
女房と、子供と、それから…
「あなた、あの二人の会話が聞こえるの?」
不意にポニーがたずねてきた。
もうすこしで記憶を取り戻しかけていた鈴木は、苛立って頭をかきむしり、ポニーを見下ろす。
「聞こえない! タイミングの悪いやつだな、いま、なにか思い出しかけていたのに、途切れちまったじゃないか!」
「思い出しかけている? どっちを?」
鈴木は、ポニーのその問いかけに、違和感をおぼえて頭をかきむしるのをやめた。
「どっち、って、なんだ。過去の記憶を取り戻すのに、どっちを選ぶかなんて決めるのか?」
「いえ、失言だったわね。忘れて頂戴。聞こえていないのに、あの子について行くのは、なぜ?」
「わけのわからんやつだな。なぜって、なぜだか、そうしなくちゃいけないように思えるからだ」
今朝はなにもかも滅茶苦茶だった。
しゃべる犬からはじまって、突然にあらわれた亡者の群れ。
亡者に囲まれて苦しんでいたところ、急にだれかに手を引かれて、助かった。
が、厳密には助かったとはいえない。
鈴木はすぐに自分の体の異変に気づいた。
見下ろせば、そこに自分の体はたしかにあるのだが、異様に軽いのである。
そして、なぜだか『理解していた』。
いまいる世界は、自分のいた世界ではない。
鈴木はこの世界に引き寄せられて以降、アコのあとをひたすら追いかけていた。
だれかにアドバイスを受けたわけでも、そう命令されたからでもない。
鈴木には、アコのことを、どこかで見たことがあるように思えていた。
黄金色の光をまとう、どこかで見たことがある少女。
光に縁取られたその顔は、たしかにどこかで見たことのあるものなのだが、歯がゆいことに、鈴木はどうしてもそれを思い出せない。
頭に靄がかかっているような感覚だ。
アコが学校の黒板に書いた文字を、鈴木はちゃんと読んでいた。
少女の名前は、最上亮子。
聞いた覚えが、あるような、ないような。
そのあたりもはっきりしない。
海に突き落とされる以前の記憶のどこかに、彼女の姿があったのだろうか。
もしかして、いま思い出しかけた記憶のなかにいた、家族のひとり?
どちらにしろ、あの正体不明の亡者の群れから助けてくれたのだから、悪いものではないはずである。
そう納得する鈴木に、ポニーはてくてくと四足を優雅に動かしつつ、言う。
「あの子が向かっている先は、きっとこの世界のヴァルキューレのところでしょう。
行っておくけれど、あなたは女神と会ったら、もう元には戻れないわよ」
「戻れない? なにが。記憶がか?」
「ひとつの肉体に、ふたつの魂は宿らない。あなたは前回のループの成果を受けて『夢の世界』に戻ってきたモノだった。
けれど、前回のループを参考にコピーされたこの世界には、あなたの存在はない。だから、あなたの体は、いまはないの。
この世界に対応するあなたの影がない以上、あなたが存在するためには、器を作らないといけないわ」
「すまん、さっぱりわからん」
「わからなくていいわよ、聞いておいて。前回のループであなたは不慮の事故で器を得てしまった。世界の時間が巻き戻ったとき、あなたの存在が浮き上がってしまったのよ。余剰した魂は、魂の不足しているところへ補充するしかない。
本来ならば甦らない人間が甦ったのは、そのためなの。あなたがここにいることが、どこまで計算されたことだったのか、わからないわ。けど、いまわかることは、あなたがこの世界で器を得るということは、それは『これまで』を捨てることだと思いなさい」
「なにがなにやらさっぱりわからないが、もし器をいらないといったら、俺は元の世界に戻れるのか?」
言いつつ、鈴木は、不気味な亡者の大群を思い出していた。
あんなものが跳梁跋扈するバイオハザード状態の世界には、なるべくなら戻りたくないが。
「器をいらないといったら……消滅よ」
「消滅ってなんだ。死ぬってことか?」
「そうね、似たようなものだわ」
「なら、器を得なければだめじゃないか」
「それは、ヴァルキューレに会ってから結論を出しなさい」
「今度は北欧神話か。しゃべる犬といい、しゃべるうさぎといい、めちゃくちゃだ。このつぎにニヤニヤ笑う猫だのトランプの兵隊だのがあらわれても、俺はおどろかないと思う」
鈴木は、少女も気になっていたが、少女を導くようにして存在する、あの怪しいしゃべるうさぎのことも気になって仕方がない。
鈴木が気にする原因は、記憶をうしなった自分が持っていた、家の鍵のキーホルダーのためである。
あれもうさぎの人形だった。
偶然か?
あのうさぎについても、俺はなにか知っているのか?
いまの鈴木の心を占めているのは、失った記憶を取り戻したいということはもちろんであったが、その前提として、ともかく、この、自分を助けてくれた影とはぐれてはいけない、ということだった。
自分がいま、なぜここにいるのかもわからない。
だが、ここにいることは、間違いではない、という奇妙な確信がある。
それは、この少女を見てから、芽生えた感情である。
これでよいのだと、心の奥底から、なにかが肯定してくる。
これから何が起こるかわからないし、自分がどうしたらよいのかも、まったくわからなかったが、これで間違いない、大丈夫と、心の奥から、何かがささやいてくる。
大丈夫だ、すくなくとも、間違っていない。
ただし、なにを基準にして間違っている、間違っていないの判断をつけているのか、そこがいちばん怪しいところであったが。
そして隣にいるポニーは、器の話をしたきり、黙りこんでしまい、鈴木がなにをどうしようと、なにも口出ししようとしなくなってしまった。
なにかが起こる前触れのような、奇妙な緊張感が、一人と一匹のあいだに漂っていた。
アコは、魔法の靴がもたらす、飛んでいるかのような浮遊感と、気持ちよく流れていく光景を、すっかり楽しんでいた。
普段は主に生活費のこと、そしていまは、ヨーコをはじめとする、自分以外の人間のすべてのことを気にしなければならない立場にあるが、歩いているあいだは、難しいことの一切を忘れて、魔法の靴の爽快感を楽しんでいた。
まるで周囲の光景が、ビデオの早送りをしているように、びゅんびゅんと流れていく。
自分自身の足が、とんでもなく速くなったような気分だ。つばめになったような気分である。
ふつうの人間は、こんなに愉快な光景を見ることはできないだろう。
車窓から外を覗いているのではない。
自分の足で光景を変えていくことができるのだ。
浮かれて、ときどき、やっほー、と奇声すらあげているアコに、くっきーも喜んで、同じように、ひゃっほー、などと叫ぶ。
そうして二人(?)はぴょんぴょんと跳ねとびつつ、だれもいない仙台の街を、だれもいないがゆえに障害物に悩まされることなく、快適に、ぐんぐんと進んで行った。
やがて、一行は仙台市の官公庁の中心の匂当台公園に到着した。
いつもならば、喫煙コーナーでタバコを吸うサラリーマンや、林子平の像をながめながら、噴水を前にして、ベンチでバスを待ちながら日向ぼっこをするお年寄り、花壇のまわりで遊ぶ親子連れなどが目立つ場所なのであるが、やはり、ここにも、人がいない。
地下鉄の出入り口からも、人が出てくる気配がない。
まったくだれもいないのだ。
「ここまで誰もいないなんて、すごいね」
「うむ……昨日までは、ふつうに世界の機能を保っていたのに、なにか異常が起こったか」
「どうする? 学校に戻って、入力をしていたおじさんたちに話を聞いてみる?」
アコが尋ねると、くっきーは、しばしおのれの顎をさすって考えていたが、やがて決断し、その小さな手でもって、ぴっ、と南を指差した。
「いいや、南進あるのみ! いざ参らん、五橋。レッツ・ゴー、なのだ!」
だれもいないうえに、交通量もまったくないので、信号無視をしてひたすら南へ向かい、三越を過ぎ、そして商工会議所、仙台中央警察署の前も通り過ぎた。
やがて電力ビルの前をも通り過ぎ、アーケードを分断する横断歩道のところへ来たときであった。
アーケードの一角には、水晶堂という、仙台でも老舗のめがね屋がある。
その店舗のあるふるいビルの屋上には、さまざまな店舗の看板のなかでも目立つところに、NTTドコモが設置している電光掲示板がある。そこでは絶えず最新ニュースが流されているのだ。
いつもの習慣で、ふと足をゆるめて、電光掲示板を見上げたアコは、目を疑った。
そこには、こんな文字が、左から右へ流れていたのである。
『傷害事件・宮城県警幹部 千台潮氏、逮捕される ハムスターの飼育をめぐり甥と口論。甥に全治二週間の怪我を負わせる。「ハムスターの気持ちになったら、たまらなくなった」と本人は意味不明の供述。』
「たいへん! 千台潮って、ヨーコのお父さんだよ!」
アコの声につられてか、たれ耳うさぎも腕から身を乗り出して電光掲示板を見た。
すると、思わぬことに、くっきーは、しばらく電光掲示板を見つめていたが、やがて、ぶるぶるとはげしく震え出した。
「どうしたの、くっきー? 風邪ひいたの? それともハムスターに同情しているの?」
アコが心配になってたずねると、うさぎは、突然に、かっ、とつぶらな目を、飛び出してしまうのでは、というくらいにむき出して、叫んだ。
「ばばばば、ばんざーい! 大躍進ぞー!」
「え? なあに、どうしたの、くっきー? なにが躍進? むしろ後退じゃないの? ヨーコのお父さんが大変なんだよ!
ハムスターが原因で、甥っ子に怪我を負わせたんだって。喜ぶなんて、だめだよ!」
たしなめるアコの声も聞こえないのか、うさぎは、電光掲示板に向かって、万歳を繰り返している。
「ばんざーい! 動いたのは、わたしだけではなかったか! 千台家の中心たる潮が表舞台から去ることで、『最悪の日』は大きく塗り替えられる!」
「最悪の日?」
アコが怪訝そうにするのを、上機嫌のうさぎは、くるりと振り返り、ニコニコ顔で言った。
「ま、深く考えるでない。叡智が重なり合い、人類の未来がまた明るいものに変わった、ということなのだよ。前回のループも無駄ではなかったのだ。
前回の失敗を受けて、今回は動くべきものが適正に動いたにちがいない。うむうむ、うるわしきかな、友情!」
「よくわからないけど、いいことなの」
アコのことばに、うさぎはうれしそうに、大きくうなずいた。
「とてもとても、いいことなのだよ! これによって、千台家と最上一樹は接触のしようがなくなる。歴史が大きく変わるのだ。
千台家が警察沙汰を起こしたことで、最上一樹は千台家と距離を置く。なにせ片方は冷たい留置場行き。うかつにこれに近づいて、自分まで痛くない腹を探られるともかぎらぬ。
それに、『ヒヒイロカネ』のことが他人に知られては、最上一樹としてもマズイことであるからのう」
「ふ、ふうん?」
「このゲーム、われらがもらった! 負け知らずのこのわたしがプレーヤーとして参加したのであるから、この結果は当然であるがのう!」
えへん、と両手を腰にあてていばるうさぎ。
しかし、うさぎが栄光の喜びに浸っていられたのは、残念なことに一瞬であった。
アコはもう一度、電光掲示板を見上げた。
ニュースの続報が流れないかと思ったのである。
うさぎがなにをそんなに喜んでいるのか、その意味もわからなかったし、ヨーコのことも気になった。
錦町の千台家が閑散としていたのは、父親が逮捕されたからなのか。
ヨーコは、それを理由に、姿を消しているのだろうか。
続報を待って掲示板を見上げつづけるアコの視界に、一瞬、動くものが目に入ってきた。
これまで、生きている人間を誰一人として見かけなかった。
だが、看板のうえに、だれかが立っている。
一瞬、なにかの布が風にあおられて看板に引っかかっているのかと思ったが、そうではない。
だれだろう。
あんな高いところにのぼって、看板職人さんかな?
目を凝らそうとしたが、もう一度よく見ようと思ったときには、影は消えていた。
そのかわり、目に入ってきたものは、心臓を凍りつかせるものであった。
電光掲示板を支える巨大なビスが、見えない巨人の手でつままれたように、ぽん、と外れたのである。
アコがあんぐりと口を開けたまま呆然としていると、電光掲示板は、ぐらりと傾いて、容赦なく頭上めがけて落下してきた。
※ この話は、「Give birth to Heaven・10」につづきます。