Give Birth to Heaven・8
※ この話は、「Give Birth to Heaven・7」のつづきとなります。
立ち尽くす白い影。
背丈は180センチは超えている、がっしりした体つきのその影は、アコが助けてから、しばらく行儀よく学校の玄関に立ち尽くしていた。
その足元には、四足の生きものが、やはりおなじように、じっと立ち尽くしている。
霧が固まったようなその白い影は、まったくののっぺらぼうで、輪郭だけはわかるものの、細かい特徴などはわからない。
背の高い男の影だ、ということがわかる程度だ。
足元にいる四つ足の生きものは、犬のように見えるが、もしかしたら山羊かもしれないし、子牛かもしれない。
「うーん」
アコが思わずうなり声をあげると、となりで直立の姿勢で腕を組んでいた、しゃべるたれ耳うさぎのくっきーも、うなり声をあげた。
「ううむ」
うなり声をあげることで、気持ちを切り替えようとしたのであるが、うまくいかなかった。
だれもいない千台栄華学院の正面玄関に、影は変わらずそこにおり、ただなにをするでもなく、立っている。
「くっきー、この人って、人間?」
白い影から目を離せないまま、ちらちらと、自分の足元にいるうさぎにたずねると、うさぎのほうも、白い影から目を離さずにこたえた。
「人間といってよいものか、なんというか」
「どうして影なの? というか、影っていっていいのかな」
輪郭そのものも周囲の空間にぼやけてしまっているので、幽霊ほどの不気味さはないけれど、いつ消えてしまってもおかしくないような儚さがあった。
アコはしばらく、じっと影を観察していた。
いつか輪郭から、どんどん空気に溶けていき、影の全体が消えてなくなってしまうのではと思ったのだが、しかし白い人型の塊は、空気に拡散することなく、そこにある。
くっきーはというと、じっと動かないでいる影に、抜き足差しで近付いていくと、こわごわとそのふくらはぎのあたりを、人差し指をのばして(このうさぎには、うさぎらしからぬことに、人間のように五本の指があるのである)影にちょん、と触れる。
「すごい、くっきー、触った!」
おどろくアコの声に気をよくしたか、くっきーはしばらく影をさわった人差し指の先をじっと見つめていたが、なにを思ったか、急にその指先を口に運んで、ぺろりと舐めた。
「舐めた!」
おどろくアコに、くっきーは愛らしい顔をゆがめると、むむ、とちいさくつぶやいて、くびをひねった。
「うむ、しょっぱいのう」
「それって、たぶん自分の汗の味だと思うけど……」
「ぬ、そうか。こやつが溺れていたのは、海ではないことがこれで確定した」
「そうだね。どうみても海で溺れていたわけじゃないよね。アスファルトで溺れていたのも普通じゃないけど。
この人、だれだかわからないけれど、しゃべれないのかな」
「尋ねてみるか。おい、そこな白い影よ、おまえは何者ぞ!」
白い影の気を引くために、くっきーは小さな手を振りつつ、たずねるのだが、影のほうは、まったくくっきーのほうに注意を払わず、ただそこにある。
「聞こえていないみたいだね」
「耳がないのか、それともこやつ、影のみがここにあり、実体は別にあるのか」
「なにそれ、どういう状態?」
興味を惹かれてアコがたずねると、うさぎはこほん、と咳払いをひとつして、両手を腰のうしろで組むと、すまし顔で説明をはじめた。
「つまりのう、この世界は基本世界のコピーの、さらにコピーなのだ。さきほど世界樹のふもとでデータを入力していた者たちを見たであろう。
この世界は不完全なコピーであって、いまもコピー作業はつづいておる」
「仙台はもうコピーは終わったんでしょ?」
「うむ、すべてのデータは入力を終了しているはずだ。ムネさんも『地元舐めんな』とか言っておったし。
たとえば、いまわたしはこの世にあって、なんとも愛らしいうさぎの姿になっているが」
自分でいうかな、と苦笑いしつつアコはうなずいた。
「しかし、本来のこの世界には、『うさぎのくっきー』なる存在はない。当たり前だのう。これほど愛らしく賢く、しかもしゃべる素敵なうさぎは、この世にまたとないぞい」
「うん、そうだねぇ」
アコがいうと、くっきーは、さもありなん、というふうに、同じくうんうん、とうなずいた。
「最初に説明したかと思うが、宇宙というものは、基本世界を起点とした連続するパラレルワールドの集合体なのだ。
この集合体を俯瞰して見ると、ひとりの巨大な人間の像になる。これが『赤土より生まれし最初の人類』のアダムの正体なのだ」
「壮大すぎて想像が追い付かないけれど、つまりわたしがいまいる世界も、パラレルワールドのひとつなの?」
「左様。成立がいささか特殊であるが、それはまあ、よろしい。
この連続する世界を只人……つまりは『ふつうに生きている人間』が移動することはできない。可能性はゼロではないが、かぎりなく不可能に近いのだ。
移動が可能なのが、われらアトラ・ハシース、あるいはアストラル、もしくは女神たち、つまりは『人ではないもの』なのだよ」
それを聞くや、アコは薄気味悪そうに、ぴくりともせずに立ち尽くし、こちらをじっと見ているような気がする白い影をふりかえった。
「それじゃあ、この影は、幽霊なの?」
「いや、結論をだすのはまだ早い。この世界は時間の流れが狂っているが、パラレルワールドのひとつである。
たとえばそなたが自動販売機でジュースを買おうとしたとする。コーラを買うか、コーヒーを買うか迷い、どちらかを決めた。
そのときに、世界はふたつに分裂する。それほどに細かい分岐で世界はつねに生まれ続けているのだ」
「じゃあ、毎秒、ものすごい数の世界がふえている、っていうこと?」
「そのとおり。その膨大な数の世界を所要しておけるほど、宇宙は広大なのだ。であるから、そなたら只人の技術がこれほど進んだいまでも、宇宙の実際の大きさを知ることができないでいるのも当たり前なのであるが、まあ、それは別な話だ。
こうしたさまざまな可能性から派生していく世界であるが、ひとつ、ルールがある。それは関連性だ。
たとえば、膨大にあるパラレルワールドのうち、人物Aがいる世界と人物Bがいる世界があったと仮定しよう。
この場合、人物Aのなんの痕跡もない人物Bのみが存在する世界はないし、逆に人物Bの痕跡がなにもない人物Aのみの世界も存在しえない。
同じように、人物AもBもまったく存在しない世界もないのだ。
基本世界にいる人間の痕跡は、生死にかかわらず、どのパラレルワールドにもかならず残るようになっている。
この関連性、パラレルワールドにまたがって複数存在する同一人物をつないでいる共鳴する力こそが、宇宙をつなげている力でもあるのだよ」
「なんだかむずかしいね」
「そう難しく考えることはない。すべてはつながっているのだ。たがいに響き合い、共鳴し、世界はつづいている」
「くっきーは、世界を外から見たことがあるの?」
アコがたずねると、くっきーは、ははは、と声をたてて笑いながら、くびを振った。
「見ることができたなら、きっとすばらしかろうが、あいにくと見たことはない。わたしに千里眼の能力はないからのう。
さて、この影の話に戻るのだが、この影は、いまそなたが別の世界からひっぱってきた『人間』だ。ところが、この『人間』は、この世界には存在しない『人間』なのだ。
ムネさんたちがデータ入力しているのは、2003年12月1日をベースに、生存していた人間のデータであるから、この白い影は、この世界では12月以前に、なんらかの理由で命を落とした人物なのであろう。
だから、この世界に合致するおのれの肉体がなかったので、そなたによって助けられても魂は行き場所がなく、こうして幽霊のように、ぽつねんと存在しているだけになってしまったのだ」
くっきーの説明に、アコは愕然とした。
そして、二人の話が聞こえているのかいないのか、相変わらず立ち尽くしたままで動かない白い影のほうを見る。
「それじゃあ、この影を元の世界に戻してあげないと、この世界だと幽霊扱い、ってこと?」
「そういうことになるのう」
「元の世界に戻してあげなくちゃ! くっきーはアトラ・ハシースだから、世界の移動ができるのでしょう?
だったら、この影を連れて、影が元にいた場所に移動すればいいよ」
アコがいうと、うさぎは困ったように眉をしかめて、答えた。
「あいにくと、そうはいかぬ。世界間の移動は、われらアトラ・ハシースたちの自由にはできないのだよ。かならず女神の許可が要るのだ」
「女神って? この世界にもいるの?」
「いるというか、まー、いるっちゃいるが」
「それじゃあ、その女神さまに頼んで、くっきーと影を移動させてもらえば?」
「このGBHの世界には女神がいるので、出ていくことは容易だ。しかし、この影が元いたであろう世界は、渡航禁止命令が出ているうえに、女神が不在のために受け入れ態勢が出来ておらぬ。
わたしは創造型でも万能型でもない憑依型アトラ・ハシースゆえ、こやつを元の世界に連れていったとしても、元どおりの人間にしてやれるかどうか、自信がないぞい」
「それじゃあ、この人、どうなるの?」
「うむ……こうしたケースは実に稀でな、このままこの世界にとどまったとしても、実体のない幽霊として過ごさねばならぬ。
それは気の毒であるから、この人物のための肉体を、女神から与えてもらうほかない」
「じゃあ、女神さまに会いに行こうよ!」
意気込んでいうアコに、くっきーは不服そうに顔をしかめた。
「乗り気だのう、アコ。ヨーコ探しはどうするのだ」
「ヨーコのことも気になるけれど、でもさ、この影の人に関しては、わたしに責任があるじゃない? だから早くなんとかしてあげたいの。だめ?
くっきーは女神さまの居場所を知っているのでしょう? だったら教えて! いまからすぐに会いに行こう!」
急き込んで、それこそすぐにでも学校から移動しかけない勢いのアコを、うさぎはあわてて両手で制した。
「待て待て、せっかく学校まで来たのであるから、中に入って、ヨーコ探しをしてもよいのではないかな。
それからでも遅くはないぞい。女神は逃げも隠れもせぬから」
くっきーに言われて、アコは、いまだ立ち尽くすばかりの白い影の背後にある、見慣れた学院の校舎を見上げた。
さきほどから、アコとクッキーの声と、風の音しか聞こえず、おそろしく静かである。
アコはふと、自分が世界中から、たった一人、とり残されてしまったような気がして、心細くなった。
が、同時に、なぜだかそういう感覚を、ずいぶん昔に味わったような気がした。
両親を事故で亡くしたときの、身をいきなり切り裂かれたような、ひりひりといつまでも傷のあとが残って痛むような、そうしたたぐいの苦しみ・悲しみではなく、それは、じわじわと迫ってくる絶望と戦わねばならないような、心細い感覚である。
「どうかしたかのう?」
くっきーが不思議そうにくびを傾けて、アコの顔を下から覗き込んでくる。
アコは我にかえり、あわてて答えた。
「ごめんごめん、ちょっと変な考え事をしていたの。校舎に、わたしたちのほかにだれもいない気もするけど、ちょっとだけ見てみようか」
「だれもいないこともないかも知れぬぞ。シマノの例もあるしのう」
そうだった。
アコは、学校の裏道を駆け抜けて逃げていく、間違えようもないシマノの後ろ姿を思い出していた。
シマノがいたのなら、ヨーコだっていてもおかしくない。
「よし、それでは、二手に別れて探そうぞ。わたしは管理棟のほうからぐるりと回ってみるゆえ、そなたは教室棟のほうを頼む。
なにかあったなら、大きな声で呼ぶのだぞ。くっきー、すぐに駆け付けるから」
と、うさぎは器用に、二本の寝ている耳を、交互にぱたぱた動かしてみせた。
アコはくっきーの言ったとおり、まずは教室棟を一階から見てまわることにした。
とはいえ、勉強嫌いで、どちらかというと、一人でいることのほうが好きなヨーコが、教室にいるとは思えなかった。
いるとしたら、屋上ではないだろうか。
そうは思ったものの、几帳面なアコは、一階から教室を、ひとつひとつ見て回った。
教室には、やはり、人っ子ひとりいない。
もしかして、まだ『データ入力』とやらが終わっていないのじゃないか、とさえアコは思った。
例の連続怪死事件が、原因がウィルスかもしれない、という説を信じ、みな家のなかに篭もっているのだろうか。
しかしそのくせ、学校のどの施設の出入口も解放されており、不用心なこと、このうえない。
むしろ、だれかいると考えたほうが自然なのだが、しかし視界に入ってくる人影は、ひとつもないのだ。
上履きのたてる足音が、いつもの数倍は大きく響いている。
なんだか変なの、と思いつつ、ふと振り返り、アコはぎょっとした。
正面玄関でじっとしていた影が、いつのまにか動きだし、距離をとって、犬(らしきもの)と一緒にアコのうしろにくっついてきていたのであった。
「だめだよ、玄関で待ってて!」
アコは言うが、影は答えない。
口がない(というより、顔そのものがないが)ので答えようがないのか。
アコが振り返って、手振りで戻るように伝えると、驚いたことに通じたのか、影は、一瞬、足を止めた。
が、アコがふたたび歩きだすと、親鳥を慕う雛のように、また一定距離をあけて、とことことついてくる。
『しゃべるうさぎに、今度は真っ白な男の人の影と犬の影。なんか変なものと縁があるなあ』
思わずため息をつきつつ、アコは思った。
『けど、この影に関しては、わたしに責任があるんだもん。助けるためとはいえ、この世界に引っ張ってきちゃったのが、いけないんだから』
と、そこまで考えて、アコはようやく、もっと不思議なことに気が付いた。
『ちょっと待て。『引っ張る』って、わたし、どうしてそんなことができたの?』
アスファルトに波のように伸びていた無数の腕と、それに呑まれるようにしていた白い影。
とっさに助けなければと思い、その手をつかんで、文字通り『引っ張った』。
『それだけだよね』
自分の行為を冷静に思い出してみても、とくに変わったことをした記憶はない。
白い影をこの世界(うさぎはGBHの世界、と呼ぶが、GBHが何の略かは、アコは知らなかった)に引き寄せたとき、うさぎがなにか言っていたが、アコは興奮しきっていたので、よく聞こえていなかった。
『くっきー、なんか気になるんだよね。わたしに隠し事をしているっぽいし。
もしかして、さっき説明した以上に、この影について、ほんとうは知っているんじゃないのかな』
ふと思い立ち、アコは振り返ると、白い影にたずねてみた。
「ねえ、聞こえる? わたしは最上亮子。あなたの名前は?」
たずねて、しばらく様子を見るが、しかし白い影は、ただぼおっとそこにあるばかりで、答えようとする素振りはない。
『もしかして、見えているけれど、聞こえない、のかな?』
それからアコは、手近な教室に入って、黒板に自分の名前を書いて、そして名前と自分の顔を同時に指さして、白い影に教えてみた。
すると、今度は白い影は了解した様子で、かすかにうなずいたようである。
これは前進だ。
アコは自分で見つけたコミュニケーション方法にうれしくなり、白い影にもチョークを持って、名前を書くように促してみたが、しかし、影はアコの手からチョークを取ろうとしても、指先が擦り抜けて、なにも持てないのだった。
擦り抜けた指先は、チョークを渡そうとしたアコの手を、ひんやりと突き抜けていったが、そのあまりの冷たさに、アコはぞっと背筋を震わせた。
くっきーのことばが思い出されたからである。
2003年12月1日以前に死んだ者。
この世界では幽霊。
アコは、白い影からあとずさりかけて、あわてて己れを戒めた。
この人は見えている。そしてどうやら心もしっかりあるのだ。
この人が、こんな影になってしまった原因を作ったのは自分なのに、その自分が、この人を恐れちゃいけない。
「ごめんなさい」
聞こえないことはわかっているのに、思わず謝ると、アコは気を取り直して、ふたたびヨーコ探しをはじめた。
しかし、自分たちの教室にも、ヨーコがよくいくトイレも、階段の踊り場、屋上にも、ヨーコの姿はどこにもなかった。
ヨーコだけではなく、ほかのどの生徒の姿もない。
時計は15時も半ばを過ぎ、窓ガラスの向こうに見える太陽は、早くも橙色を帯びて、西へ傾きはじめていた。
『暗くなる前に女神さまのところへ行きたいな。というか、どこにいるんだろう。近くだといいな。でなくちゃ、この影は目立つよね』
そうしてアコは、先程より、ほんのすこし距離を詰めてうしろからついてくる白い影をときどき振り返りながら、くっきーがいる管理棟のほうへと向かおうとした。
が、まさにそのとき、アコは前方の、管理棟から教室棟へつづくT字の廊下の前方に、ほんの一瞬であるが、だれかが横切ったのを見た。
制服ではなかった。
女生徒でもない。
男だった。
コートを羽織った若い男が、大股で、一瞬、アコの前方を通り過ぎていったのだ。
教員でも事務員でもない。
しかしアコは、その男が一瞬だけ見せた横顔に、見覚えがあった。
あの男だ。
昨夜、五橋の路地で、死んだ女性の足元に立っていた男。
男は、階段から上がってきたか、下がってきたかして、アコの正面の体育館につながる廊下を横切り、管理棟へむかって歩き去っていった。
どうしてここに。
アコの心にまず浮かんだことは、男がふたたび姿をあらわしたことの不気味さよりも、なぜ、ということであった。
アコは死んだ女性たちに深く同情していた。
自分が見てしまった、あの死んだ女性のことを気にかけ、彼女たちを死に追いやったものに対して、怒りをおぼえていた。
だから、おそらくその死の原因を知っているであろう青年を追い掛けるのに、ためらいはなかった。
しかもちょうどよい具合に、青年は、くっきーのいる管理棟のほうへと向かっていった。
アコは廊下を走って、男のあとにつづいた。
ちらりと見れば、白い影と、犬らしき影も、同じようにアコにつづいて走っている。
あの男が何者なのかは知らないけれど、自分のうしろにいる、この正体不明の白い影たちを見たら、案外と素直に降伏するかもしれない、などとすら、アコは考えた。
アコは少し、この白い影が気に入りつつあった。
アコを恐がらせまいとしているのか、影は、アコに不用意に近付こうとしなかったし、なるべく変わった仕草をして、驚かせないようにと気遣っているのが感じ取れたからだ。
しゃべるうさぎで免疫ができていたこともあり、アコはこの白い影が、もしかしたらよい仲間になるかもしれない、とさえ考えた。
アコは管理棟にたどりつき、やはりしんとして、人気のない廊下と、そしてずらりと並んでいる特別教室を見回した。
どこにも人の気配はない。
二階のつきあたりにある職員室からさえも、だれの気配も感じ取ることができなかった。
学校は、やはり休校したのだろうか。
それとも、あの白銀の幻想的な樹林の下で、コツコツとデータ入力に励んでいた男たちの作業は、まだ半端で、この学校の人間は、まだ『出来上がっていない』のか。
『この世界は、なんなの?』
アコは単純な、しかし自分の存在そのものを揺らがせるような、つよい疑問をそのときに抱いた。
考えれば当たり前で、くっきーが言うことには、この世界は『コピーされて間もない』という。
つまり、アコ自身も、この世界で生まれた人間ではない、ということだ。
だんだん恐くなってきた。
自分はふつうの人間だとばかり思っていたら、じつはクローンだったと知ったような感じだ。
いや、それより、なんだって世界のコピーなどという途方も無いことを、あのうさぎはしようとしているのか。
そしてコピーに入り込んでいる『吸血鬼』の存在は、なにを意味するのだろう。
うさぎは、もっともらしいことを色々こたえてくれたが、疑い深くないアコでさえ、それをまるまる信じる気にはなれていなかった。
あのうさぎには、どこか秘密の匂いがするのである。
それもかなり重大な。
男の姿は、やはり見つからなかった。
アコは慎重に、特別教室の鍵のかかっていない扉はすべてひとつひとつ開いて、中をたしかめていったが、しかし、やはり、だれの姿も見つけられなかった。
いるはずの、くっきーの姿もない。
一階に下りてみると、ちょうど校長室の前にある、公衆電話のブースで、グレーのたれ耳うさぎの姿をみつけた。
器用に自分の毛色とおなじグレーの電話器のとなりに腰掛けて、受話器を棚におろし、だれかと話をしている。
アコは盗み聞きするつもりはなかったが、受話器に向けるうさぎの顔が、思いもかけず険しかったので、ついつい声をかけそびれた。
うさぎは受話器にむかって、眉をぎゅっとしかめて、言うのである。
「しっかり起きてくだされ、もう夕刻になりますぞ! せっかくモーンニングコールをいたしましたのに、それでは意味がないではありませぬか!
くぅー、二度寝! いいご身分でございますな。
嫌味? 言わせていただきますとも、あれほどしゃんとすると約束してくださいましたのに、どーして、どーして貴方は!
え? いまから行ってくる? ならば最初からそうおっしゃってくだされば、わたくしも、年寄じみた説教はいたしませぬ!
よろしいか、先程わたくしが伝えましたことを、一言一句たがわず伝えてくださいませ。
え? 携帯はもっていないのか、って? それも最初に申し上げたはずですぞ、女神はわたくしを非常食かなにかと勘違いなさっていて、隙あらば食ってやろうと狙っておられるのです! うかつにわたしが目の前に顔をだしましたら、ぺろりと食べられてしまう危険があるのです。携帯電話で話すだけでも、ダメ!
そうですとも! 貴方様がわたくしと共に召喚された理由は、よろしいか、あくまでこの世界に不足しているうるおいを、『風を運ぶ者』として与える役目と、それから、わたくしと女神の伝令でございます!
は? 犬か鳩になったような気分? いいえ、あなた様は犬でも鳩でもございませぬ。犬も鳩も、口答えはいたしませぬからな!」
なにが起こっているのかはわからないが、くっきーは電話の相手と、激しく言い争っているようである。
アコが声をかけようとしたとたん、ちょうどアコのほうに背を向けるかたちで話をしているくっきーの声が、不意に落ちて、そこにはさきほどの感情的なものとは打って変わり、真摯な響きが加わった。
「左様でございます、まだ覚醒はしておりませぬ。GBHの力ゆえか、それともなにがしかの暗示をおのれにかけているのか、測ることはできませなんだ。
ええ? そうは申されましても、わたくしは憑依型アトラ・ハシースでございますから、分析型でもないし……女神でしたら、もしかしたらわかってらっしゃるかもしれませぬ。
ええ、そうです、ふたつの用事が一度で済みますぞ、なんとお得!」
電話の相手がだれなのかはわからないが、相当に出無精であるらしい。
くっきーが懸命に出掛けることの美点を説いて、それでようやく重い腰をあげつつあるようであった。
「くっきー、だれと話をしているの?」
アコが声をかけると、とたん、それまで受話器に向かっていたくっきーは、背中を針で突かれたように、文字通り飛び上がり、器用にもフィギュアスケートの選手のようにくるりと半回転をして、アコのほうに向き直った。
「ア、アコ! おどろいたのう、気配をまるで感じなかったぞい」
「人をくの一みたいに言わないでよ。いま電話で話をしている人はだれ? 味方なの?」
くっきーは、目を泳がせて、右へ左へと眼球をきょろきょろと動かし、それから答えた。
「ええと、そのう、む、昔の職場の先輩でだな」
「つまりアトラ・ハシースの先輩ってこと?」
「む、まあ、それ以前から、というか、似たようなものではあるが」
なにやら煮え切らないくっきーのことばに、アコはすこしばかり意地悪な気持ちになって、手をのばすと、くっきーの受話器を持ち上げて、そのさきにだれがいるのか、確かめてみることにした。
「もしもし? こんにちは、はじめまして」
しかし、アコが受話器に耳を押しあてた時点で、すでに電話は切れていた。
ますます秘密の匂いが濃くなる……このうさぎ、本当に味方なのだろうか。
「そなたは何も心配しなくてよいと、わたしはそう言っているではないか」
と、うさぎは、傷ついたような、怒ったような(というよりも、どちらの表情を浮かべたほうが、よりアコには効果的か、迷っているようであった)表情をして、口をとがらせた。
「ともかく! 女神との連絡はとれるぞ。さっそく、その白い影をつれて、五橋に戻ろうではないか」
「五橋? 女神って、うちのマンションの近くにいるの?」
ビル群と新築のマンションのずらりと並ぶ、殺風景な五橋のどこかに、女神がいるという。
女神といわれても、アコにはどんなものなのか、想像すらできなかった。
うさぎを使役するのだから、もしかしたら大黒様の女性版みたいなものかもしれない。
「五橋へ戻る。ヨーコはここにはおらぬ。そなたの見た、という男のことも気になるが、そなたが探してみても見つからないというのなら、探しても無駄であろう。
ならばここにいる意味もなし。ささ、五橋へ参ろうぞ!」
子犬ほどの大きさしかないうさぎであるが、なぜだかその言葉には、妙に説得力が感じられた。
アコは機知に富んだ少女であったから、命令されることは好きではなかったが、うさぎのことばに反論する理由もなかったので、言われたままにするとおりにした。
※ この話は、「Give birth to Heaven・9」につづきます。