Give Birth to Heaven・7
※ この話は、「Give Birth to Heaven・6」のつづきとなります。
地獄絵図のなかで鬼卒に追い立てられ、あわれな様をさらす亡者の、まさにそのままの姿をした大軍が、一匹の、ほの白く光る犬めがけて両手を伸ばし、襲い掛かろうとしている。
その動きは緩慢であったが、正面玄関のなかからそのぞっとする光景を見ていた鈴木には、亡者たちが、光に吸い寄せられて集ってきているようにも見えた。
ポニーは、『校門までびっしりといる』と言ったが、まさにそのとおりで、アスファルトの百メートルほどの道には、ぎっしりと似たような風体の亡者たちがひしめきあっていた。
かれらがいったい、どこから来た、何者なのか。
それはわからない。
ただひとつわかるのは、敵だ、ということである。
学校に到着したときに直感的に感じ取った恐怖、そして嫌悪感は、かれらが迫っていることを第六感が告げていたのだろう。
「ポニー!」
犬の名を呼びながら、鈴木は正面玄関を飛び出したが、しかし、一歩足を踏み出したとたん、違和感をおぼえて、足を止めた。
あれほど犬に群がっていた亡者の群れが、いなくなっている。
いまは、ただ、鈴木の目の前には、長い栗毛色の毛を逆立てて、見えないなにかを威嚇している犬の姿だけであった。
そのとき、鈴木の脳裏に浮かんだことは、午前中いっぱいかかってあちこち回った病院のひとつで、CTスキャンを受けたことであった。
気がついたら仙台港に浮かんでいた。
その前に、自分がどういう状況にいたのか、さっぱり思い出せない。
だが、記憶を失っているということは、なんらかのショックが与えられたということではないのか。
CTの結果はすぐに出て、『問題なし』であったが、新聞記者である鈴木は、自社の新聞の健康コラムで、脳の断面図を見て腫瘍を見つけるのは、ベテランでもなかなかむずかしい、といった趣旨の文章を思い出していた。
もしかして、頭はやはり打っていて、しゃべる犬も幻聴で、犬に襲い掛かろうとしている亡者を見たのも幻なのではあるまいか。
某有名ゲームに登場するような、現代風のゾンビではなく、いかにも卒塔婆や、無縁仏のための素っ気ない墓石を抱えていそうな和風のゾンビ(
亡者たちが纏っているのは、ほとんどが着物で、落ち武者風の者もたくさんいる。戦時中の軍人のように、カーキー色の服を着ている者や、防空頭巾を被っている者もいた)
というところが妙だが、それは単に自分の深層意識からくるイメージなのかもしれない。
自分はどうやら、アクションホラーは、映画でもゲームでも好きだったらしい。
らしい、というのは、思い出せなかったからで、思い出せないのにどうして知っているのかといえば、寝室の棚にそうした類いのDVDとゲームソフトが並べてあったからである。
そして思った。
もしそんなものの影響で、こんな不気味な幻想風景を見なくてはならないのなら、今度は生れ変わったつもりで、心が温まるような映画ばかりを観るようにしよう。日本まんが昔ばなしとか。
ポニーのほうは、鈴木を気にする余裕もないのか、ぐるぐると唸り声を上げて、自分に迫っている(?)何者かを威嚇している。
これが幻ならば、怖いことはないもないだろう。
そんなふうに考えて、前に進もうとするのであるが、いざとなると、その一歩が踏み出せない。
おかしな話だが、やはり、怖いのである。
実際には何も見えないのだが、犬のまえに、なにか得たいの知れない嫌なものが存在している気がしてならない。
見えないのだが、なにもない空間から、犬が言ったように、たしかに強烈な憎悪、そして悪意を感じるのだ。
鈴木はふと思い立ち、前に進もうとした姿勢のまま、後退して、正面玄関に戻ってみた。
とたん、全身の毛が逆立ち、毛穴という毛穴が、恐怖のあまり開いたように感じられた。
やはり、亡者たちの群れはそこにいた。
犬は懸命に、自分にのばされる手を、その牙で威嚇して追い払おうとしているのだが、なにせ多勢に無勢、いつ飲み込まれてしまってもおかしくない。
しかし、正面玄関を出れば、やはりまた、同じように、亡者たちの姿は見えなくなってしまうのだ。
どうしてこんなことが起こるのか。
鈴木は、正面玄関のガラスになにか仕掛けがあるのでは、と疑ったが、ガラス越しに見ても、そのまま素で見ても、正面玄関の内部から見える光景に変わりはなかった。
外に出てしまうと、なにも見えなくなってしまうのである。
どうやら、頭を打ったからどうとかいう話ではなさそうだ。
見えなくても気のせいではなく、亡者たちはそこにいる。
ポニーを助けなくてはならない。
鈴木は、なるべく恐怖に負けないように、こんなふうに考えてみた。
見えている場合、近くに寄れば寄るほど、あのいかにも腐敗した様子の百鬼夜行の細部まで見えてしまい、ほんとうに正気を失ってしまうかもしれない。
けれど、見えないのであれば、それはある意味、助けである。
その外見だけで、心を挫かれることはない、ということだ。
鈴木は、正面玄関を見回し、置き傘として放置されたままになっている傘のなかで、最近ではあまり見かけない、なるべく先の芯が尖っている、丈夫で武器になりそうなものを探すと、それを武器の代わりにして、正面玄関を出た。
ふたたび亡者たちが、奇術のように見えなくなる。
「よし!」
自分に気合を入れるためにちいさく叫ぶと、鈴木は、傘を手に、ポニーの元へと駆け戻った。
その姿はポニーにも見えたらしく、近づくと、犬は小刻みに右へ左へと軽やかに跳躍を繰り返しながら(どうやら亡者たちの手をかわしているようである)、叱り付けてきた。
「ちょっと! せっかく逃げられたのに、どうして戻ってくるのよ! あたし一人でも十分ピンチなのに、あなたまで守れないわよ!」
近くに来てみて、はじめて鈴木は気づいた。
犬の全身は、白光色につつまれていたが、それは不動のものではなく、犬の眉間から絶え間なく、小さな火の玉のような白い光が飛び出していて、亡者たちがいるあたりに向けて放たれているのだが、それは途中で、壁にぶつかるようにして、弾けて消えてしまう。
その残照が、犬を輝かせて見せていたのである。
何度目かの試みのあと、ポニーは舌打ちをして、悔しそうに言った。
「もー! だめだわ、なにも出てこない!」
「出しているじゃないか、火の玉……いや、プラズマか?」
鈴木の声に、ポニーはアスファルトの上を、爪をたてて、反覆横とびをする要領で移動しながら答えた。
「これはプラズマでも火の玉でもないわよ! あたしはいま、オリキャラを創造しようとしているのよ!」
「オリキャラ?」
意味がまったくわからない。鈴木がぽかんとしていると、親切な犬は、器用に運動をつづけながら、言葉をつづけた。
「さっきも言ったでしょ! あたしは創造型アトラ・ハシース。生前に作ったオリジナルキャラクターに限っては、実際に出現させて、意のままに操ることもできるのよ!」
「なんだそれ! つまり、もしおまえが手塚治虫先生だったら、ブラックジャックを出現させることができる、というわけか!」
「そういうことよ。いま、思いつく限りのオリキャラを出そうとしているんだけれど、霊力を発揮しようとするたびに、ぜーんぶ、こいつらに弾かれて、かたちにならないの!
まったくもう、なんなのよ、こいつら! レティクルの新兵器? それにしちゃ、強すぎるでしょ!」
「おまえも正面玄関の中に逃げ込め! そうしたら、この和風テイストのゾンビから逃げられるかもしれない!」
「あなた、こいつらが見えているの?」
犬は、まるでサーカスの曲芸をこなしているかのように、優美な動きで体をひねりつつ、宙を舞う。そして、軽やかな足音とともに、ふたたび地上に戻ってきた。
そのうえで、鈴木に鋭い視線を投げてきた。
「いまはなにも見えないが、正面玄関に入ると、おまえが戦っているやつの姿が見えた」
ポニーは、前方を注意しながら(とはいえ、鈴木には、あいかわらずなにもない空間にしか見えない)、正面玄関のほうをちらりと見た。
「だれかが結界を張ったんだわ。だから、校舎の中では、こいつらと、こいつらを動かしている何者かの力が及ばない。だから、見えるのね」
鈴木もまた、正面玄関のほうをちらりと見て、それから思い出した。
「けれど、正面玄関のほかには、まだたくさん生徒が残っているのに、誰一人パニックになっていない。やはり、見えてないのか?」
「見えてないのでしょう。あなたが特別なのよ」
「特別?」
鸚鵡返しにした鈴木に、犬は大きく後ろに跳躍すると、着地間際に鈴木に叫んだ。
「やつら、あなたのところにも来たわ! 傘で防いで!」
来た、といわれて、正面を見る。
相変わらず、そこにはなにも見えないのだが、鈴木は感じた。
たしかに何かがいる。
見えない強烈な悪意の塊が、大挙して押し寄せてきている。
見えない手が、何本も自分に伸ばされているのがわかる。
これに捕まったら、おしまいだ。
「くそっ!」
悪態をつきつつ、とっさに手にした傘を振り回そうとするのだが、それを振り切るまえに、なにか大きな岩にぶつかったような、手の違和感をおぼえた。
見れば、真横に振った傘が、ぴたりと空中で停止し、どころか、そのステンレスの骨が、ばきばきと、まるでストローが曲がるように簡単に折れていくのが見えた。
「駄目だわ、傘を捨てて、逃げて!」
ポニーの声に従おうと、傘から手を離し、後退しようとした鈴木であるが、半歩も下がらないうちに、足が止まった。
身につけていたコートの、その裾が、おかしな具合に突っ張っている。
裾の先端はぐしゃぐしゃになっており、そこを基点に、布がぴんと帆を張ったようになっている。
引っ張られているのだ。
そこに気づいたとき、鈴木は、自分の体が、がくりと前のめりになるのを感じた。
一瞬、浮遊感をおぼえ、と、同時に、見えないなにかに体が飲み込まれるのを感じた。
強烈な嫌悪感が、闇をともなって、腹の底からこみ上げてくる。
背後でポニーが叫んだが、鈴木の耳には、もう届かなかった。
アコは、くっきーを腕に抱えたまま、正面玄関に立ち尽くす格好になっている、ぼんやりと浮かび上がる白い影を見た。
白銀のうつくしい世界樹と、その木立のなかでデータ入力に励む三人組、という、シュールで奇妙奇天烈な光景を見たあとだったからか、アコは、その白い影を見ても、さほど怖ろしいとは思わなかった。
もしひとりで、その立ち尽くす白い影を見たのであったら、すぐさま、よくある心霊写真に写っている幽霊の姿などを思い出して、悲鳴をあげて逃げていただろう。怖ろしく思わずにおれたのは、腕に抱いている灰色のうさぎのあたたかさに助けられていることも大きい。
それに、その白い影は、たしかに人のかたちをしているが、それはひどく簡素な造形で、具体的な個性をまったく持っていなかった。
非常口マークに描かれている人間の姿そっくりだ。
奇妙に直線的な線と、形のよすぎる円との、両方で出来ている。立体的な厚みはなく、平板な体だ。もしこれで暗かったら、だれかが等身大の紙でつくった人形を、屋上あたりから吊るしているんじゃないかと思ったかもしれない。
だから、怖くなかった。
どこか漫画的なのである。
「なんだろね、コレ」
アコがいうと、抱きかかえられているかたちのくっきーも、頭をひねりつつ、言う。
「うーむ、わからん、なんであろうか。生きているのかのう。
アコや、ちょっと近づいてみてくれぬか」
見ている分には構わないが、近づく、となると別である。
アコはおずおずと近づいていくが、白い影は、いったいどこを見ているのか、ぼーっと浮かんでいるだけである。
「くっきー、世界を新しく作っているって言ったでしょ? これって、もしかして、さっきの人たちの入力ミスなんじゃない?」
「む?」
「どういうシステムになっているかはわからないけれど、さっき銀の林のなかでデータ入力をしていた人たちが、いま、わたしのまわりにある世界のすべてを、新しい世界に打ち込んで、出現させているんでしょう?
だったら、その入力にミスがあって、こんなふうに半端な影になっちゃったとか」
アコの推理に、くっきーは、ほおお、と感心したようにうなずいた。
「そなた、賢いのう。たしかに、その可能性はあるかもしれぬ。だとしたら、なおさら恐れることはない。
もっと近づいてみようぞ。もしかしたらしゃべれるかもしれぬ」
ただ立ったままであれば、そう強烈におそろしいとは思わないが、さすがにこれがしゃべったらいやだなと、アコは思った。
そうして、くっきーを抱えたまま、そろそろと足をまえに進めていくと、不意に、それまでじっと大人しく立っているばかりであった影が、ゆらゆらと揺らめきはじめた。
足を止めて、何が起こったのかと見つめていると、白い影は、急にその両手(非常口マークにそっくりで、指などもない)をばたばたと、めちゃくちゃに回しはじめた。
首をいやいやとするように振り、手足をメチャクチャにじたばたと動かし、まるでなにかから逃げるか、あるいは空中で溺れているかのようである。
「なんだろう、急に、どうしちゃったんだろうね!」
「ぬう、面妖な。やはりデータの入力ミス? 苦しいのであろうか?」
「もしデータ入力ミスだったら、かわいそうだよ、なんとかしてあげられないの?」
アコのことばに、くっきーは、むう、と眉をひそめる。
「助けると言ってものう。わたしは万能ではないのだよ。こやつが何者で、なにに対してこう暴れているのかがわからねば、助けてやりようがない」
「さっきの銀の林に戻ろうよ。それから、データのミスを直してもらえばいいじゃない」
「それがよいか」
くっきーがうなずくと、アコは抱えていたくっきーを地面に下ろし、自分たちがいまくぐってきた正門のほうを指さす。
正門と、いまいる正面玄関の、その中間で、アコは銀の林に入ったのだ。
くっきーは、アスファルトの上に降り立ちながら、怪訝そうに首をかしげる。
「そなたはなぜに門を指さしているのかな?」
「なぜにもなにもないよ。くっきー、いますぐデータのミスを直すように言ってきて」
「え。わたしひとりでか?」
垂れ耳うさぎが不服そうに言うのを、アコは、きっぱりと返事した。
「そうだよ。だって、わたしとくっきーの両方がいなかったら、いったい誰が、この人の面倒をみるの?
この場にいなくなったあいだに、何かあったら大変じゃない」
「正論だが……しかし、アコよ、こやつが人ではない可能性もあるのだぞ。
どういう理由からかは知らぬが、吸血鬼か、その仲間が、この世界に侵入しようとして、失敗して、こんな姿になったのかもしれぬ」
「それは、あるかもしれないけど」
答えつつ、アコは、自分の目の前で、いまも激しく手足をばたつかせて、懸命にもがいている白い影を見た。
空中で、溺れているようだ。
心なしか、その動きは、時間が経つにつれ、どんどん弱くなっているように見える。
「それじゃあ、わたしが銀の林に行ってくるから、くっきーはお留守番する、ってどう?」
「それは出来ぬぞ。あの林に行くためには、わたしと一緒でなければのう」
それじゃあ、困ったね、と言って、よい知恵がないかと思案するアコであるが、それまで音もなく暴れていた白い影が、あきらかに力尽きつつあるのがわかった。
手足の動きが弱まり、だんだんと、膝のあたりから力が抜けて行っているのである。
「どうしよう、ねえ、死んじゃうのかな?」
くっきーは、あわてるアコ以上におどろきあわて、アコと、どんどん力をなくしていく白い影を、おどおどと交互に見て言う。
「むむ、いや、どうだ? わたしも長いアトラ・ハシースの経験のなかで、こんなものを見たのは初めてであるからな」
白い影は、ついには膝をつき、その場にへたり込むような姿勢になったが、おどろいたことに、地面にその膝が触れると、膝から下が消滅してしまった。
ぱっと見ると、まるでアスファルトに埋もれてしまったように見える。
いや、事実、埋もれているのかもしれなかった。
白い影は、なおも懸命にもがき続けていたのだが、もがけばもがくほどに、消滅する部分は増えていくようだ。
アコとくっきーが慌てているあいだにも、白い影の下半身のほとんどは、アスファルトに呑まれるようなかたちで消えてしまった。
さすがに、それまで行動をためらっていたくっきーも、とうとう決断した。
白い影のそばまで寄ると、ぱっと身を屈ませ、その片手を地につけて、叫んだ。
「ぬう、一か八か! 晋の宣帝が秋津島を守りし天神地祗に申し上げる! その尊力で以て、この者を救いたまえ!」
その言葉が終わると同時に、垂れ耳うさぎは神々しい光の輪につつまれた。
と、その光の輪は、リングの形をつくって、徐々に大きくなり、白い影やアコをも貫いて、外へと大きく広がった。
眩しさのあまり、目を庇うアコであるが、白い影の消滅は、相変わらずである。
どころか、さきほどよりも、もっと消えつつあり、すでに胸のあたりまではなくなっていた。
「駄目だ、こやつ、人ではないのか? 慈悲深い八百八神が手を貸さぬなど、ありえぬ!」
くっきーの悔しそうな叫びを耳にしながら、混じりけのない白色の光のなかにあり、アコは一瞬だけ、聖なる光のなかに姿を消そうとしている白い影の、もがきつづけるその腕の先に、それまでなかった指があるのを見た。
いや、指を見た、というよりも、はっきりと、人間の手を見た。
助けを求める人間の手だ。
考える間もなく、アコは手を伸ばした。
助けなくちゃいけない。
この影の正体が、人間か、吸血鬼か、それはどちらでもよかった。
ただ、助けなくては、と、つよく思ったのだ。
約束を。
ん? 約束って、なんのことだろう。
手を伸ばした先に、アコは、はっきりと、おのれを掴みかえす手の、あたたかい感触をおぼえた。
そして、考えるのはあとにして、思い切り自分の側へ引き寄せる。
手ごたえがあった。
いつか小学校のときに、社会見学で農家の畑の収穫作業を手伝ったときのことが、急に思い出された。
これはそのときに土から掘り出した大根ではないし、もっと大きなものだが、引き抜く、ということではたしかに似ている。
アコは、自分がそれほど強い力を入れている、という感覚がないことに気づいていた。
腕に力を籠めるよりも、この白い影を、自分の側に引き寄せたいと思う力が強くなればなるほどに、白い影はどんどん引き上げられていく。
恐怖も不安もなくなっていた。
なぜかといえば、白い影がのばした手から感じ取れる温かさには、どこか覚えがあったのだ。
具体的な根拠などなにもないが、確信がある。
大丈夫、これは敵じゃない。
アスファルトに呑まれていた白い影の、そのほとんどを引き上げた。
手を掴んでいるあいだは、その白い影は、最初に見たときのように簡素な姿ではなく、具体的な個性を持つ、だれかの輪郭に変化していた。
顔の輪郭、片幅の広さ、着ている服の状態までが、輪郭だけであるがつかめるようになっていた。
「あとすこし!」
自分と、そして手をつないでいる先の、白い影を励ますようにして言って、アコは、さらに力を籠めて影を引っ張り上げた。
音こそしなかったが、全部、引っこ抜けた。
影は完全にアスファルトの上に戻ってきた。
と、同時に、その足元にしがみつくようなかたちで、なにか動物がいるのがわかった。
これもやはり輪郭だけの白い動物であるが、大きさや形からいって、どうも犬であるらしい。
「やった!」
思わず快哉をあげるアコであるが、その謎の白い一人と一匹の影をすべて自分のそばに引き寄せたあと、それまでただのアスファルトであった地面が、まるで溶けたように波打っているのに気がついた。
そして、その波打つアスファルトのまにまに、何十本という手が伸びているのが見えた。
手だけであったが、その、必死で空を切る手の群れを見て、アコはぞくりと身を震わせた。
なぜだか、怖い。
その手の群れから、強烈で純粋な悪意が感じ取れる。
急に胃が痛くなってきたほどだ。
「これまたいかん! 晋の宣帝が秋津島を守りし天神地祗にもういっぺん申し上げる! その尊力で以て、異形どもを追い払え! 今度こそ、よろしく!」
くっきーは言うと、両手を大きく振りかぶって、波打つアスファルト向けて、振り下ろす。
すると、その力でもって煽られたように、地面が大きく揺れ、つづいて、溶けたアスファルトは一瞬にして石化し、むなしく空中を懸命に探し回っていた何十本という手の群れも、そのまま石と化して、そのまま固まってしまった。
アコが呆然とそれを見ていると、石化した腕の柱は、やがて灰色の砂となって崩壊し、突如、吹きぬけた、一陣の風によって、その砂の一粒も残さず、消えてしまった。
「すごいよ、くっきー」
腰を抜かしてアコがつぶやくと、くっきーもまた、その場にへたり込んで、答えた。
「いや、そなたもすごいぞ、アコ。なんという荒業。二つの魂に、世界を渡らせてしまった」
アコは、くっきーの言ったことはわからなかった。
わからないまま、興奮している胸を抑えるために深呼吸して、アスファルトに転がった姿勢でいる、白い影と、白い影の犬を見た。
かれらはこちら側に引き寄せても、真っ白い影のままである。
そして、どうやら喋れないらしい。
くっきーの言葉の意味もわからなければ、この白い影たちの正体が何者なのかもわからないし、影たちを襲っていた腕の正体も不明だ。
だが、アコがそのときぼんやりとだが思ったのは、
『約束を果たせた』
ということであった。
もちろん、約束の意味するところも、まったくわからなかったのだが。
※ この話は、「Give birth to Heaven・8」につづきます。