Give Birth to Heaven・3
※ この話は、「Give birth to heaven・2」のつづきとなります。
TVは、すでに仙台の事件からはなれて、北朝鮮関連ニュースを流し始めていた。
アコはTVリモコンの消音ボタンを押すと、垂れ耳うさぎにたずねる。
「犯人を知ってるの? だったら、警察に行かないと!」
しかし、くっきーは、首だけ動かして、首をふるふる、と振ると、アコを見上げて、答えた。
「それはなるまいよ。アコ、この世界で起こっている事件の犯人は、人間ではないのだ。
そして、その犯人に、人間では太刀打ちができまい」
「なにそれ? 犯人は、悪魔かなにかなの?」
「そうだな、それに似た、じつに厄介なものだ」
アコの脳裏に、昨夜の光景が、あざやかに浮かんだ。
暗がりに倒れた若い女の身体と、その前に立っている青年。
まっ黒な髪に、真っ白な肌。真っ赤な唇。おかしな表現かもしれないが、白雪姫のような青年だった。
あの青年が?
「だれ?」
アコが意気込んでたずねると、くっきーは、まずは落ち着いて座れ、というふうに、あらためてテーブルの前を指した。
「アコよ、そなたは、それを知ってどうする」
「どうするって、警察に」
行って、逮捕に協力する、と言いかけて、それは出来ないとくっきーが言っていることを思い出して、ええと、と逡巡してから、アコは答えた。
「行っても駄目かもしれないけれど、もしかしたら、なんとかなるかもしれないし、それに、遺族の人の気持ちを考えたら、なんというか、その、だれが殺したのかを知りたいと思うから、やっぱり知らせるべきじゃないかと思うんだけれど」
「警察に言ったとしても、だれもそなたの言葉を信じまい。
犯人は、この世界に侵入したエイリアンだ。『Give Birth Heaven』の世界とクロの世界をつなぐ唯一の橋を渡ってやってきた、もともとどちらにも存在しないモノ」
「あ、またふしぎなことを言ってる。その『ぎぶあんとていく』の世界ってなんなの?」
するとくっきーは、渋い顔をして、耳を片方だけ器用にもちあげた。
「Give & Takeではなくて、ぎぶ・ばーす・へぶん! Give and Takeの世界は、普通の世界ではないか。
ま、その名前は、いまは気にするな。ここはちゃんと確認しておきたいのであるが、この世界の女たちを無造作に狩っているのはエイリアンだとして、そなた、もし警察もほかの大人もだれも味方にならないという状況で、どうするつもりなのだ」
「どうする、って」
くっきーに指摘されて、アコは自分が置かれている状況の不思議さに、あらためて気づくことになった。
それは、とても重要なことだ。
「どうしてくっきーは、あたしの家に来たの?
あたしの言葉じゃ、警察は信用しないかもしれない。けれど、くっきーが警察に言ったら、しゃべるうさぎの言葉だもん、みんなかえってびっくりして、ちゃんと聞くかもしれないよ?」
「ぬ、そこに気づいたな」
と、くっきーは、あらためてアコのほうに向かいなおると、ちょこり、と正座をして、まっすぐに見つめてくる。
アコも、くっきーの様子に押されるかたちで、あらためて姿勢を正した。
「アコよ、この事件は、まだまだつづくであろう。なぜかといえば、犯人の目的は、霊力を得ることだからだ。
霊力といっても、ピンとこないかもしれないが、われらアトラ・ハシースを始めとする、霊的存在の活動の源が霊力と呼ばれるもので、ふつうは自然の源より霊力を得るものである。
が、われらと相反する位置にいる悪魔などは、魔王との契約によって、霊力を自然から得ることができない状態になっている。
そこでどうするかというと、魔に属する者たちは、生き物を殺して、霊力を得るのだ。
もちろん、その場合の『生き物』は、動植物をふくめ、ありとあらゆる生命体を指すのだが、もっとも霊力を持っているのは、霊長類のなかでも、複雑な活動が可能な人間なのだ。
一晩で五人の命を奪ったので、おそらくしばらく活動は停止するであろうが、しかし、霊力は消費すれば、なくなってしまうものであるから、霊力が途切れかけたなら、また同じことをする可能性が高い。
やつらは、クロの世界とはちがって、この世界にアトラ・ハシースがいないと思い込んでいる。ゆえに、活動が、こうも雑で荒っぽいのだ。
さて、なにゆえ、わたしがおまえのまえに現われたかを話しておこう」
「うん」
「よく聞け。さきほど、朝食を食べがてら、基本世界とそれに連なる汎世界の説明はしたな?」
「うん、基本世界という、ひとつの世界から発生する、さまざまな可能性から派生して、すごい勢いで平行世界が作られていて、その平行世界全体を俯瞰すると、ひとりの人間の形になっている、っていう話でしょ?」
「そうだ。そして、アコ、この世界は、基本世界から生まれた世界のひとつ……ではない」
「ではない?」
思わず鸚鵡返しにしたアコに、くっきーは、こくりとうなずく。
うなずくが、しばらくうつむいて、うー、と唸りながら、ぼそりとつぶやいた。
「嫌な役目だのう。ええい、これも友情のためぞ」
「どうしたの?」
身体の具合が悪くなったのかと心配したアコであるが、その声に押されたのか、くっきーは、ぱっと顔を上げると、怒っているような、泣きそうになるのをぐっと我慢しているような顔になって、言った。
「基本世界で発生したことが絶対、というわけではなく、汎世界において、基本世界で発生したこととは真逆の事象が起こったら、逆に、基本世界の状況が覆ることがある。
ここに、ええと、当山孔真君なる、やたらと派手なやつがおってな、そいつはものすごーく、前向きすぎるくらい前向きなアトラ・ハシースで、最上アキラ子、そなたを救うために、もてる力を最大限に使ってだな、そんなことは許さぬとばかりに、『最上アキラ子が生きつづけられる』条件を作っていった」
どきりと心臓が跳ねた。
ふたたび、脳裏に、暗がりのなかで横たわる女性の身体が思い浮かぶ。
そしてあの青年の姿も。
あの人が人じゃないように思えたのは、もしかしたら、死神だったからじゃないのかな。
しゃべるうさぎをまえにして、アコは、自分が想像しうることは、たいがいが現実のものになるような錯覚にとらわれた。
死んだ女性の名前はちゃんとニュースで聞いたけれど、あたしはあのとき、あのひとの顔を見なかった。
もしかしたら、あそこに倒れていたのは、あたしだったのかもしれない。
あたしが生きる代わりに、だれかが死んだ?
そこまで考えたとき、唐突に、脳裏に、まったく『覚えのない』記憶が浮かんだ。
エスパルでのバイトの帰り道、待っていたのは、シマノではなくてヨーコだった。
ヨーコに強引にドライブに誘われて(そこから唐突に記憶が途切れる)、逃げて、青葉山のガードレールから飛び降りる。
暗転、幕。
これが真実。
「くっきー、あたし、死んだの?」
何の気もなしに、思わず口にすると、くっきーは、仰天して、立ち上がった。
「なにを突然に言い出すか! そなたは生きているではないか。
なぜ、なにも言わぬうちから、死などと、不吉なことを言う!」
くっきーに叱られて、アコは我にかえって、謝った。
「あ、ごめん、おかしなことを言ったよね。でも、なんだか急にそんなことを思い出して」
思い出して? ん? 変な表現。
「お、思い出す必要なんぞなかろうが。それは修正された記憶ぞ。忘れる、デリートする、よろし?」
「日本語が変になっているよ、くっきー」
「むむ、そなたがおかしなことを言うからだ!」
くっきーは、息をつくと、ふたたびテーブルのうえにぺたりと座り込み、ちいさく息を吐いたが、しかし、言った。
「アコよ、そなたは過去に死んだが、その過去は消された。いまは生きている。生きているそなたが本当なのだ。
当山孔真君の踏ん張りが、基本世界の事実を覆し、いま、それにならって、ほかの汎世界もどんどん『奇跡』を起こしつつある」
「へ?」
アコがぽかんとしていると、くっきーは再び立ち上がり、けんめいに手をばたばたと動かして、訴えてくる。
「だから、そなたは、救われたのだよ! 消された過去は、なかった『事実』と同義である! だから思い出す必要なんぞ、ちっともないのだ!
そなたは生きるのだ。生きねば、当山孔真君の意志は守られぬ! そこは深く考えてはだめ! さー、もう考えない。考えてはダメ。話が先に進まぬ、よいな?」
「なんだかわかんないけど」
アコは混乱していた。
なぜ自分が『死んだかもしれない』などという、不気味なことを考えたのかもわからないが、くっきーが言わんとすることも、よくわからない。
わからないけれど、自分の手のひらを見下ろして、それをぐっと握ったり、ひろげたりをくりかえしてみる。
身体は動くし、あたたかい。
ご飯を食べたらおいしかったし、TVニュースに心を揺さぶられたり、ヨーコのことを心配したりしている。
なにかの本で、幽霊は、自分が死んだことがわからないで、ずっと同じことをえんえんと繰り返しているものなのだと読んだことがある。
それが事実かどうかは別として、もし自分が幽霊だったとしても、あまりに、生きている実感が多すぎやしないか。
「あたしは生きてる」
「そうそう。生きている。『2003年12月3日』は最上アキラ子にとっての最悪の日ではなくなったのだよ。
しかし、その事実というものは、当山孔真君が覆すことができたように、そなたを邪魔に思うものにとっても、同じく『元通り』に覆すことができるものなのだ」
アコは、またそこでぽかんとした。
「あたしを邪魔に思っている人がいるの?」
すると、くっきーは、言葉の選択をまちがえたらしく、う、とちいさく呻いて、おのれの口を思わず押さえつつも、さて、どう取り繕うかと、そわそわしている。
「くっきー、落ち着いてよ。ねえ、隠さないでおしえて、あたしを邪魔に思っている人がいるのなら、ちゃんと教えて。それって、ヨーコや、シマノたちなの?」
すると、くっきーは、垂れ耳を大きく動かして、ぶんぶんと首を振った。
「いやいやいや、そうではないぞ!」
と、否定してから、くっきーは、おや? と首をかしげる。
「あれ? そうとも言い切れぬのかな?」
「どっちなの?」
「うむ…それでは話そう。この世界と密接に繋がっている世界があり、これを『クロの世界』とわれわれは呼んでいる。かつては夢の世界として、汎世界とのつながりはなかったのだが、さまざまな奇跡が重なって、夢の世界は汎世界につよい影響を与えはじめた。
そうなると、『夢の世界が存在することによって、未来を変えられてしまう』者が脅威を感じ、夢の世界を潰すべく、攻撃を仕掛けてきたのだ。
これに対抗するため、当山孔真君をはじめとする、アトラ・ハシースたちが戦った。ところが戦いは長引き、いまは膠着状態にある。
ここからが、そなたにとって重要だ。
戦っているアトラ・ハシースのうち、高い攻撃力を備えているアトラ・ハシースは三人。この三人のうち、一人でも欠けたら、パワーバランスは崩れて、戦いは一気にアトラ・ハシース側に不利となる。
そこを見切った敵は、当山孔真君が、そなたと世界を救うために全力を注いでいる、という事実に目をつけた。
すなわち、そなたになにかれば、当山孔真君は動かざるをえなくなり、敵への攻撃に集中できなくなる。パワーバランスを崩すことができる、と」
「ちょっと待って。それって、その『当山孔真君』って人の人質が、あたしみたい」
「みたい、ではなく、それに限りなく近い。だが、自由に行動できるし、いまのところ、まったく害されていないわけだから、人質ではないのう。
ただし、このままでは、そうなる可能性もある。だからこそ、この危機に、当山孔真君の親友たる、わたしがやって来たのだ。
あれの代わりにそなたを守り、クロの世界のパワーバランスを崩さないようにすること。そして、このGive Birth Heavenの世界とクロの世界を、穏やかに合流させることが、わたしの目的なのだ」
アコは、しばらくぽかんとしたまま、考えた。
考えたけれども、やはりわからなかった。
世界がどうとか、アトラ・ハシース、敵、いったいなにがどうなっていて、どうして自分が人質なのか?
「あたしは、どうすればいいの?」
アコの問いに、くっきーはこくりとうなずいて、答えた。
「なにもする必要はない。そなたが無事であれば、それでよいのだよ」
「え、でも、ほら、昨日の事件とかあるじゃない? それって、あたしがいるから起こったんじゃないの?」
アコは、そうだ、という肯定のことばが、くっきーの口から出ることを想像していたのであるが、そうではなかった。
「それとこれとは別ぞ。昨日、狩りをした者たちは、そなたに対してどうという意志はなく、この世界が、クロの世界より、アトラ・ハシースがいない分、狩りをしやすかろうという判断によって侵入してきたにすぎない。
こやつらを抑えるのもわたしの目的であるが、そなたが動くことはないのだよ。普通に過ごせばよい、普通にのう」
「普通って、ムリだよ!」
アコの抗議にも、くっきーは答えた。
「やれば出来る、ファイト、ファイト」
「いや、ファイトの問題じゃないから。くっきー、なにかあたしに出来ることはないの?」
「ない。気持ちはありがたいが、そなたは戦いに不向きぞ」
「う。それは、体育の成績は4だけど」
「5段階の?」
「……10段階の」
「なおさらではないか。いや、もしたとえ、そなたが天才的な武術の達人であったとしても、そなたの協力は断わっていたであろう。
そなたは、いままでどおり、普通に過ごしてくれ。それが、わたしがここにいる意味であり、当山孔真君の意志だ」
「その、当山孔真君っていう人に、会ってみたいな。どうして、そんなにあたしを助けようとしてくれるんだろう」
アコのつぶやきに、くっきーは、しばらく、おどろいたように、じっとアコの顔を見上げ、それから、うーむ、と腕を組みつつ、答えた。
「いつか会えるかもしれぬが、いまはムリだな」
「なんで? って、あ、そうか、戦っているんだっけ」
「戦っているのもそうだが、いや、うむ、そういうことにしておけ。
ところでアコ、そろそろ学校に行かねばならぬ時間ではないか」
「あ、そうだね」
と、アコは、音だけを消して、つけっぱなしのTVの、右側の時計表示を見て同意した。
すでに時刻は七時五十分台に入りつつある。
くっきーはというと、
「いかん、いかん、アイロン、アイロン!」
と言いながら、テーブルをぴょん、と飛び降りて、アイロンの置いてある和室(アコは案内していないので、どうやらくっきーは、アコが気絶していたあいだに、家の中になにがあるか、いろいろと調べていたようだった)へと走っていく。
食器を片付けようとして、立ち上がったアコであるが、しかし思い直して、ふたたび座り込んだ。
それを気配で察したくっきーが振り返り、怪訝そうにたずねてくる。
「どうした、アコ。制服はすぐに用意するぞ」
「ごめん、えっとね、今日、学校に行かない」
すると、うさぎは、振り返ると、とことこと床の上を軽い足音をさせながら、戻ってきた。
「サボりか? それはよろしくないぞ。サボリというのも癖になるからな。
辛いことがあっても、日々を変わらず過ごすことこそ、明るい未来へのいちばんの近道なのだぞ」
「うん、でも、ちょっと気になることがあって、行かないというか、わざと遅刻しようかなって思うんだ」
「なぜまた。そなた、もし昨夜の娘の死のことで警察に行こうとしているのなら、先ほど話したであろう。出来ることは、なにもないぞ」
「そうじゃなくってね、ヨーコのことなんだ。ヨーコって、千台陽呼っていう、あたしのクラスメイトなんだけれど、昨日からぜんぜん連絡がとれないの。
おかしなこともあって、気になって仕方ないんだ」
「ほう、おかしなこととは穏やかではない。話してみよ」
うさぎにうながされるかたちで、アコは、ヨーコの机はたしかに教室にあるのに、点呼で名前を呼ばれなかったこと、座席表から名前が消えていたこと、下駄箱が空だったこと、メールがまったくかえってこないこと、そして、シマノのことばなどをすべて伝えた。
最初はふむふむと聞き言っていたくっきーであるが、次第に、その表情が曇り、最後に至っては、腕を組み、うなだれているかのように、深く考え込んでしまっている。
「どういうことだ…もしや、身代わり? いや、それはあるまいが…いかん、たしかにいかん」
「え? なあに?」
くっきーのつぶやきに、なにか思い当たることがあるのだと気づいたアコはたずねるが、くっきーはというと、はっとなって、あわててグレーの毛もじゃの手を振った。
「いやいや、気にすることはないぞ。うむ、それはたしかに心配だのう。
で、そなたは、ヨーコの家に行ってみるというのだな」
「うん。ここからも歩いていける距離だし、うまくすれば、一時限目だけの遅刻ですむかもなって思ったの。
くっきーは、これからどうするの?」
「そなたを見送ってから、食器のあとかたづけと洗濯と掃除をして、それから風呂の掃除と、布団を干すのと…」
「いいよ、くっきー、それはあたしがやるから。
くっきーは、女の人を殺した犯人を追っているんでしょう? そっちに専念しなくていいの?」
「それはもちろんそうだが」
と、考え込んだうさぎは、ぱっと顔を明るく上げて、言った。
「そうだ、アコ、家事を手分けしてやることにして、それからヨーコの家に行く、というのはどうだ。
もちろん、わたしも同行する。先ほども話したように、そなたは人質のようなものであるからな、学校には守りが置いてあるからよいとして、それ以外の土地に行く場合には、やはり同行せねばならぬ」
「守りって?」
アコがたずねると、くっきーは、ぬふふ、とうれしそうに笑った。
「それは学校に行ってからのお楽しみである。さあて、それでは、家事を分けて、片付けてしまおうか!」
そして、二人は話し合い、家事をふたつに分担したわけであるが、アコが自分の部屋の掃除機をかけるまえに、布団を干そうとベランダに出たときである。
ベランダは、アコの部屋とリビングにつづいているのであるが、ふと、リビング側にまで移動すると、レースのカーテンごしに、うさぎがこちらに背を向けて、おどろいたことに、携帯電話を片手に、だれかとひそひそ話をしているのだった。
もちろん、携帯電話は、アコが使っているものと同じ大きさで、携帯電話を持っている、というよりも、携帯電話に寄りかかっているように見える。
うさぎが携帯電話を使用している、ということもおどろきであるが、アコがおどろいたのは、くっきーに通話相手がいる、ということであった。
つまり、仲間がいるのだ。
さっき、そんなことは、ひと言だっていわなかったのに、と不思議に思いながら、アコは布団を抱えたまま、思わず耳を立てる。
すると、窓越しに、こんな言葉が聞こえてきた。
「アコのほうは納得したようでございます。はい……これから千台家の様子を見てまいります。
はい……問題はございません、おまかせいたします……折りを見てまた連絡いたします……いえ、大丈夫でございます……」
だれなんだろう、偉い人に電話をしているみたい?
盗み聞きするのも悪いし、あとでそれとなく聞いてみようかな、と思いながら、アコは布団を干すのに戻った。
分担したものの、せっかく二人もいるのだからと張り切りすぎたおかげで、かえってあれもこれもとなって、時間が予定より、だいぶ過ぎてしまった。
すべての家事を終えて、アコがくっきーと共に家を出られたのが、すでに十時も近くなってからだった。
その日は晴天で、玄関を開けるとすぐに、目のまえに仙台の青空と、ビルの立ち並ぶ五橋の光景が目に入ってきた。
殺風景な灰色の光景に彩を添えるように、西公園や大通りの銀杏が、今日も黄金色の葉をつけて立っている。
「今年は本当に暖冬だよね。学校の先生が、SHRのたびに『暖冬だー、暖冬だー』って言ってるよ。12月に入ってから、まだ銀杏の葉がこんなに残っているのって、めずらしいんだって」
「たしかにのう。しかしきれいなものだな。自然の色の美しさというものは」
「そうだね、この町って、街路樹の様子だけでも四季が楽しめるから、好きなんだ」
言いながら、口から出る白い息に、アコはなぜだか、自分が生きているのだとうことを実感する。
手には学校のカバンとバスケット。
バスケットは、古いピクニック用のバスケットで、いつか使うかもしれないと、とっておいたものである。
深さがだいぶあり、籐製なので通気がよいことから、中にくっきーを入れての移動である。
街中で、動物をつれての移動は目立つから、それを避けてのことだった。
くっきーは、バスケットから、自分で顔を出して、言う。
「時間がだいぶ過ぎてしまったのう。これは昼ごろまでかかるかもしれぬな」
「それはそれでいいよ」
「む?」
「本当はね、ちょっとサボりたいな、っていうのもあったんだ。三時限目って、今日、化学の実験の日なの。
たぶんあとで補習になっちゃうと思うけれど、そのほうがいいんだ」
「なぜ」
「クラスでね、班を組むでしょ? そうすると、たいがいヨーコたちのグループの中に入れられちゃうの。いやなんだけどね、断わったらうるさいし。それに、あたしを入れてくれるほかのグループもないしさ。
で、実験っていうと、たいがい、あたしがぜんぶ準備と片づけをするんだけれど、実験中は、ぜんぶシマノたちが仕切っちゃって、あたしに実験の様子とか、見せてくれないんだ」
「それはひどいのう。根性悪な娘たちだ」
「いつものことなんだけれど、でもね、いつだったか、ヨーコが実験の最中に携帯電話を使ってなんかやってて、変なの、なんで実験の様子なんか動画で撮影してんだろ、って思ってたら、あとになって、あたしのところにメールが来てね、シマノたちが見せてくれなかった、実験の様子を送ってくれてたんだ。
動画で撮影できなかった分とかも、ちゃんと写真で残しててくれて。
あのときは、ちょっとうれしかったな。いじめっ子だけど、ヨーコって、そういうところもあるから、ほんとうは、あんまり嫌いじゃないんだ。
シマノたちとかは、あたしにほとんど普通に話をしようとしないんだけれど、ヨーコは、二人のときって、けっこうふつうに話とかしてくれるんだよ」
「………」
「してくれる、っていうのも卑屈かな」
「いや、そんなことはないぞい。うん」
くっきーは、しばらくバスケットの籠から顔を出して、なにか言いたそうにしていたが、言葉がみつからなかったのか、そのまま、またバスケットの籠に戻ってしまった。
マンションの階段を降りきって、道路に出たアコであるが、ふと、どうしようかと立ち止まった。
昨日の光景が、いやでも思い出される。
今朝の様子では、報道陣がそれぞれの現場に、まだ群がっているようであったし、そこを通りがかることは、心苦しくてできなかった。
回り道したほうがいいんだろうか。
逡巡していると、管理人室の窓が開いて、中から、管理人が顔を出してきた。
「おう、最上アキラ子。出勤にゃ遅いじゃねぇか。遅刻だぞ!」
管理人さん……管理人さん?
あれ、こういう人だったっけ、とアコは一瞬、混乱する。
蜘蛛のように長く細い手に長い首、特徴的なのが赤褐色の肌、カラスの羽のように黒い髪、ちいさな顔のなかの、逆三角形の真っ白な眼球と、牙のように鋭そうな犬歯が目立つ。
というより、前歯がぜんぶ犬歯?
そんなわけないか。ボディピアスみたいなのと一緒で、歯を尖らせるのも一種のファッションなのかな?
管理人は、身を乗り出して、アコにたずねた。
「どうしたよ、風邪か?」
「えと、ごめんなさい、ちょっと体調が」
と、嘘をついたアコであるが、管理人は、そこはあっさりと聞き流して、言った。
「なんだかよ、あちこち物騒だから、気をつけな。いざとなったら、あたしを呼べよ。携帯電話に番号登録してあるよな」
「はい、大丈夫です」
アコが両親を亡くしたときに、なにかあったら連絡しなさいと、管理人が番号を教えてくれていたのだ。
が、あれ? そのときって、なんかもっとふつうの小父さんだったような?
「がんばって勉強しな!」
そう言って、アコは管理人に送り出された。
なんか変だな、と首をひねりつつ。
※ この話は、「ループ3、二日目の朝・1」につづきます。