ブラック・ヒーポポタマスの友情
目を覚ますと窓から見える光景は沈鬱なものであった。
アストラル、そしてアトラ・ハシースの集い住む中央都市の、その中心にあるアトラ・ハシースの居住する塔から見えるすべては、雨の帳に隠れていたからである。
ざあざあと打ち付ける雨音は、塔のなかにいてもはっきり聞くことが出来る。相当に雨足がつよいようだ。
塔を中心に放射線状に立ち並ぶ、ありとあらゆる国、ありとあらゆる時代の様式がごちゃまぜに並べられたアストラルの一戸建ても、雨のなかに暗く沈黙している。
もともと人の少ない町だが、雨のせいで、ますます人通りがすくないようだ。
「あーあ、こいつは野球の練習は無理だな」
起き抜けに劉備が思ったことはそれだった。
このところ劉備は召還されていないときは、毎日のように外出して、野球の練習に明け暮れていた。
この野球というのは、孫呉の周公瑾が提唱した三国野球リーグの創設にあわせてつくられた野球チームの練習のことである。
三国野球リーグといってもチームは三つしかないのだが。
三国野球リーグを勝ち抜いたチームは、『ワールドシリーズ』の参加権を得ることが出来る。
この『ワールドシリーズ』、文字通りワールドワイドで、全世界、全時代の野球リーグの優勝チームが覇を競う。
勝ち抜き戦となっており、最終的に優勝したチームには、勝利の女神ニケより黄金水晶の月桂冠が与えられる。
これはアトラ・ハシース、ならびにアストラルならば喉から手が出るほど欲しくなる奇跡のアイテムで、この月桂冠を所持しているかぎり、霊力はつねに適正に補給され続けるというものである。
つまり、このアイテムを所持していると、霊力切れを気にして行動するわずらわしさから解放されるのだ。
優勝賞品をめざして各チーム、本気である。
劉備もそうで、暇さえあれば練習に明け暮れていた。
ちなみにポジションは監督兼キャッチャー。
ピッチャーは張飛である。
孔明と趙雲が抜けてしまっているので、いま現在のチームメイトは二人だけ。
球団名は、むかしはうさぎの名を冠したかわいらしいものであったのだが、『弱そう』『なんのチームかよくわからない』と不評であったため、改名して『蜀漢ブラック・ヒーポポタマス』となった。
こちらは『うんのわるいヒーポポタマスを連想して縁起がわるい』との声もあるが、『とりあえず、うさぎよりは強そう』『なぜ河馬。だが、ふしぎと期待できる』と好評である。
現在、チームメイト、はげしく募集中。
さて、練習に明け暮れる、といっても、ふたりだけではキャッチボールがせいぜいだ。
たまに別のチームの練習試合に混ぜてもらって、代打や代走に使ってもらうが、劉備としてみれば、『生きているときとやっていることが変わらねえな』である。
孔明と出会うまえの傭兵稼業に身をやつしていたころの記憶と、いまが重なる。
グラウンドに練習にやってくるチームのなかには、劉備が何者なのか、知らないで仲良くしているアストラルやアトラ・ハシースもおり、あとで劉備が古代中国の皇帝だったと知ると、たいがいのものがおどろく。
『だって、あんなにめちゃくちゃな野次を飛ばしていたのに。ほんとうに皇帝?』
こんな感じだ。
これで孔明や趙雲がいれば別なのだが、かれらにはかれらの使命があるのだ。
そしてその使命とは、本編で語られているそれである。
劉備はベッドから起き上がると、大きく伸びをして、それから迷うことなく冷蔵庫に向かった。
そして、冷やしてあった下宿先限定ドリンク『のどごしすっきり 吟醸ネクタル辛口』を取り出すと、タブをひらいた。
缶の口から泡が吹き出てくる音が心地よい。
この瞬間こそが幸せなんだよなと思いながら、一気にぐっとあおった。
身体の隅々までネクタルの成分が行き渡り、眠気が吹っ飛んでいく。
ちなみにこの『のどごしすっきり 吟醸ネクタル』、味はビールそっくりである。
ネクタルにはさまざまな種類があるが、これは総じて『大人ネクタル』といわれるタイプに分類される。
ソフトドリンク系は飲みやすいので『まろやかネクタル』と言われている。
劉備はアトラ・ハシースなので、霊力は自然回復する。
霊力さえあれば、アトラ・ハシースは睡眠も食事も必要ない。
とはいえ、まったく必要がないというわけではない。
五感はあるので、眠る快楽、食べる快楽を追求したくなることもある。
とくに劉備は、眠るということが好きだ。
アトラ・ハシースは人間が天使、つまりは構造上、まったくちがう生き物になったものではない。
むしろ、進化した人間と言い換えたほうが適切である。
身体が霊体となり、そのぶん精神力も向上したわけであるが、感情というものを超越したというわけではない。
アトラ・ハシース同士でも、ささいなことで口論となることはあったし、微妙な人間関係がストレスの原因となることもあった。
眠ると、もやもやした感情がリセットされる。
だから、劉備はすこしでも疲れると、好んで横になることにしていた。
ぐっすり眠るためにベッドはキングサイズ。
布団は西王母の池で泳ぐガチョウの毛のみでつくられた羽毛ぶとん。
枕は身体の姿勢を正常に保たせるためにヒポクラテスにより厳正に設計されたメディカル枕。
そばにはお気に入りのかおりを365日いつでも楽しめるアロマポッド。
その日の気分を素早く察知して、ヒーリングミュージックを自動的にかなでてくれる魔法のたてごとも常備。
眠れないときは、デリバリーサービスの『黄金羊合唱団』にたのんで、寝付くまで『ひつじがいっぴき…』をカウントしてもらう。
この『黄金羊合唱団』は、文字通り、幻想魔族の黄金羊たちが副業ではじめた法人団体で、眠れない夜のために頼まれるとその家に出向いて、『ひつじがいっぴきー』とひたすら数えてくれるのである。
オプションで、羊がおとぎばなしを聞かせてくれるコース、抱き枕代わりになってくれるコースがあり、もっとも人気が高いコースが、ひつじが夜なべをして依頼者のためのオリジナル羊毛はらまきを編んでくれるコースである。
ちなみに抱き枕になってくれるコースは、羊の寝相が悪いために、依頼者がベッドから蹴り落とされたというクレームが続出したため、現在、サービスを続行するかどうか、真剣に協議されているらしい。
ともかく、これだけの準備をして、劉備は眠る。
そして、起きると顔を洗って、張飛の待つ野球グラウンドへ飛び出すのであるが、しかし今日は雨天中止である。
ネクタルを一気に咽喉に流し込み終えると、劉備はパソコンにメールが届いていないかチェックをはじめた。
知り合いの数が多いので、近況をつたえるメールの数も多い。
このメールをひとつひとつ確認したうえで、返信をしていくので、さらに時間がかかる。
まめにひとつひとつ返信をしていくうちに、気がつけば昼が近い。
「これじゃ一日がすぐに終わっちまうじゃないの。ひとりでいてもつまんねえなあ。ロビーに下りて、だれかいないか確かめてくるか」
独り言を口にして、劉備はパソコンから離れる。
なんだかんだと、劉備はさびしがりやであった。
だれかがそばにいないと、落ち着かない性分なのだ。
一人でいるくらいなら、嫌いなやつとでも話をしているほうがずっといい。
そう思うタイプである。
劉備の部屋は、サンドベージュを基調にした色彩の、素朴なインテリアが並んでいる。
あまりまめに片づけをするほうではないので、あちこちにいろんなものが散乱している。
インテリアそのものにこだわりはない。
そのため、置いてある花瓶にしても、景徳鎮の見事な花瓶がある一方で、どこのものとも知れないガラスのワインボトルが綺麗だからとそのまま飾られていたり、壁に山水画が飾られている一方で、アボリジニのドリーミングを描いた難解な絵が飾られていたりする。
周囲をひとつの価値観で統一したインテリアに囲まれるより、雑多なインテリアに囲まれていたほうが、劉備は安心するのである。
さて、一方で、アトラ・ハシースたちの住まう塔の一階には、広々とした、そして摩訶不思議なロビーがある。
毎日のように外見を変貌させる塔であるが、ロビーもおなじく奇妙な魔法がかけられており、日々、その様式は変わっていく。
昨日が和式で畳に座布団、囲炉裏に掘りごたつといったロビーだったとすると、翌日には一転、豪奢なロココ調のサロンになっていたりする。
今日はどんなふうかなと降りていくと、ロビーは大理石を基調にした、古代ローマ時代の大浴場ふうになっていた。
あたりにもわもわと湯気がたちこめ、売店までが出来ていて、なぜだか温泉卵が売られていたり、店頭でフルーツ牛乳を一気のみしたりしている猛者もいる。
雰囲気にあわせてみな軽装だ。準備のよいことに、売店ではタオルのレンタルも行っているらしい。
ガウン姿、浴衣の者までいるが、ロビーの中央にあるほかほかと湯気をたてている温泉のそばには、こんなたて看板が立っていた。
『全裸禁止。足湯のみ。見せ付けたい方は自室の鏡でおねがいします』
ミケランジェロのダビデ像も裸足で逃げ出すようなおのれの肉体美を他人に見せ付けたくてたまらない人種も、数多いアトラ・ハシースのなかには存在するのである。
看板の注意書きを守って、たいがいのアトラ・ハシースたちは、足を出して湯に突っ込んでいる。
心地よいのか、かれらの顔は、どれも穏やかだ。
こりゃちょうどいい社交場だな、儂もタオルをレンタルして入ってみようかな、と思っていると、どこからか、劉備の名前を呼ぶ者がいる。
「玄徳―! こちらだ、玄徳!」
劉備をあざなで呼ぶ者は少ない。
絶対的優位をほこる神族か、おなじ劉氏のご先祖たちくらいなもので、それ以外の人間があざなで呼んでくるとなると、相手はだれか、しぼられてくる。
さて、この声は、と思いながら首をめぐらせると、果たして、大理石の柱の影にある石のベンチのうえで、灰色の毛もじゃがけんめいに手を振っているのであった。
ある事情より、いまは垂れ耳うさぎの姿になってしまっている、司馬仲達である。
仲達は石のベンチの上で劉備に向かって手を振っているのだが、そのとなりには、ノート型パソコンを膝において、なにやら操作をしている曹操の姿もあった。
たしかに知った顔である。
知った顔を捜しにロビーにやってきたのであるから、目的は果たされたといってよい。
だが、劉備は曹操と仲達、この組み合わせをみたときに、ぴぴっと嫌な予感をおぼえた。
面倒が待っているぞと、第六感が告げてくる。
「暇そうであるな、足湯なんぞに浸かるより、われらの話を聞くのだ」
と、趙雲と同じ年(つまりは劉備にとっては、息子といってもいいくらい歳の開きのある)の垂れ耳うさぎと化した仲達は、近づいてきた劉備に言った。
わざわざ儂にこうして声をかけてくるということは、きっと大事な用事があるからなんだろうなと思いながら、劉備はなるべく迷惑そうな表情にならないよう注意しつつ近づく。
「なんだい」
「ほほ。よいところへ来たのう。これで三人目は確定なのだ」
三人目。
劉備は目で、うさぎを一、とカウントする。
つぎに、隣で黙々とパソコンを動かしている曹操を二、とカウントする。
そして自分を三。
なんの組み合わせだ、こりゃ。
「なんの三人目なのだよ」
たずねると、うさぎは困ったやつ、というふうに顔をゆがめた。
「聞いておらぬのか、第287394世界において、大掛かりな召還があるのだよ。この第287394世界は、通称サーカスと呼ばれていて、基本世界でスポーツによるオリンピックがおこなわれているのに対し、大道芸のオリンピックがおこなわれている世界なのだ」
「それは楽しそうだな。それで?」
「うむ、中身はちがっても、平和の祭典という意味でのオリンピックに変わりはない。だが、このオリンピックで各国が浮き立つなかを狙って、某大国が隣国に戦争を仕掛けようとしているのだ。
この動きをけん制するためには、某大国の国民たちの戦意を喪失させ、この大国の大統領が戦争に向かえない空気を作る必要がある」
「なるほど、壮大な使命だな。で?」
「うむ、そこでアトラ・ハシースが総出で、サーカスの世界に大挙してだな、世界中が熱狂するような芸を披露して、某大国の大統領の思惑をぺしゃんこにすることになったのだ」
「ただし召還されるアトラ・ハシースは、かならず国民に受ける芸を披露しなければならない、というのが、今回の召還の条件なのだ」
と、パソコンから目を離した曹操は、すこしばかり神経質で、気難しそうな顔を劉備に向けた。
曹操はアトラ・ハシースになってから、生前が嘘のように丸くなったのだが、何事にも真剣に当たるところは昔どおりで、こうして難題に突き当たると、とたんに生前とおなじく、神経質な面があらわれてくるのである。
劉備は、この神経質そうに目を細めた曹操の表情に弱い。
怖いのだ。
「仲達よ、召還されるアトラ・ハシースたちは、みな新しい芸を開発しているようだぞ。われらも気合を入れねばならぬな」
曹操にうながされ、灰色のうさぎは、大きくうなずいた。
「もちろんでございますとも。大殿のおっしゃるとおり。ほかのアトラ・ハシースに遅れを取ってはなりませぬ」
「なんだい、勝負でもしているのかい」
勝負事のきらいな劉備がたずねると、うさぎと曹操は目をとがらせて、言った。
「勝負をしている、というわけではない。誇りの問題なのだ。主だったアトラ・ハシースが参加するという今回の召還。これでつまらぬ芸を披露などできぬ。みなの笑い者になるぞ」
「芸っていったって、要するに隠し芸みたいなものだろ。それに遅れをとったところで、笑い者にはならないと思うけれどなあ」
すると灰色うさぎは、劉備にちっち、と指を振った。
「甘いぞ、玄徳。今回の召還は、いま貴殿が夢中になっている野球リーグの優勝商品よりも高価な賞品が用意されているのだ。
噂によると、聞いて驚け、かの『ダビデの羽ペン』だとか」
「ダビデの羽根ペン? それって、なんだっけ、たしかガルーダの羽根よりも力が強くて、スランプ知らずで創作を続けることができる魔法の羽根ペンだったっけ」
劉備が記憶をたよりに言うと、うさぎは目をきらきらと輝かせ、身を乗り出して、言った。
「それだけではない、羽根ペンの使用者の能力までもが加わり、それで作詞作曲なんぞしてみた日には、だれもがむせび泣くようなすばらしい名曲が出来上がるという。
想像してみるがいい、その羽根ペンで音楽や詩、小説などを量産し、世界中に平和と博愛を訴える作品を与えてみると、どういう効果をもたらすことができるか。あちこちによい影響が出て、争いごとは減るであろうな。
サーカス世界の賞品にふさわしいものなのだよ!使用者を選ぶという情報もあるのだが、女神ニケによって毎年すくなくとも9個は作られる黄金水晶の月桂冠よりも、この世にひとつしかない『ダビデの羽根ペン』のほうが貴重ぞ。わたしと大殿は、このペンを狙っているのだ」
「なるほど、それなら本気になるのも判る気がするな」
「われらは歌で行こうと思う」
と、曹操はパソコンを操りながら、気難しそうな表情を崩さず、言った。
「歌っていっても、いろいろあるだろ。なぜ三人でないといけないのだよ」
「仲達を儂がプロデュースする、という手もあるが、それだとインパクトが弱いのだ。仲達、歌」
曹操に命じられると、うさぎは、足でとんとんと拍子をとりつつ、首をふりふり、歌いだした。
「♪くっき くっきに しーてやん…♪」
「パクリじゃねえの」
あきれて劉備が言うと、曹操は渋い表情のまま、言う。
「単に歌ううさぎ、では目新しさがない」
「問題はそこじゃないだろ。いや、目新しさは十分じゃねえの。ほかに歌ううさぎなんて聞いたことないもの。唄っている歌が問題だというだけで」
「そこで、最近の流行を組み入れることにしたのだ」
「……あんた、変わってないな。基本的に儂の意見なんてどーでもいい、とか思っているだろ」
劉備の抗議にも、曹操は無視してパソコンをたかたかと操りつつ、言う。
「三人目のメンバーに華がないのが残念だが、とりあえず数は揃った。これで『反逆心』を立ち上げることができる」
「いや、まだやるって決めてないし。というか、なんだって? 『反逆心』?」
思わず聞き返すと、うさぎが不安そうに劉備の顔を覗き込んできた。
「頭にデッドボールでも受けたか、なぜ基本世界でウケにウケている『羞恥心』なるユニットを知らぬのだ。これにあやかり『反逆心』なのだ」
「いや、なのだ、と言われても、なんで日本のユニット?」
「仕方あるまい。今回の召還で、もっとも話題になっているのが、キュリー夫人、ナイチンゲール、マザー・テレサによる奇跡のアイドルユニット、PaboならぬLabo。
これに対抗するのならば、羞恥心のほかあるまい」
「いつの間にそんなものが……というか、事情はわかったけれどよ、なんで『反逆心』? 夢がなさすぎだろ」
劉備の抗議に、うさぎはもっともだと思ったのか、ふうむと考え込みはじめた。
「たしかに、この面子で反逆心はないかもしれぬ」
「そうだろう、そうだろう」
「大殿、三人目はアンガールズのごとき宇宙人体型。これは羞恥心というより悲愴感では?」
「うむ、それでは『反逆心』あらため『不満感』でいくか」
「いや、だから、その名前に夢がなさすぎだろうが。っていうか、さりげなく儂の悪口を織り込むなよな」
「♪笑いたきゃ 笑うがいい♪」
「笑えねえよ! それに、何度も言うが、儂はまだやるとは答えていないからな」
劉備が否定すると、うさぎは、器用に片方の耳をぐっとあげて、人差し指のように劉備のほうに向けると、言った。
「ほほう、すると貴殿、この大イベントをみずから辞退すると申すか。劉玄徳の名が泣くぞい」
「なんと言われようと申すともさ。というか、三人目のメンバーはよそで見つけてくれよ。おかしな歌を唄うことより、野球の練習のほうが大事だし」
すると、灰色うさぎはつぶらな目をぱっちりと開いて、おどろいた顔を見せる。
「えっ、冗談ではなく、本当に辞めるのか!」
「あんたらの人脈なら、ほかにだれでもいい人材が見つかるだろ」
「見つからないから、声をかけたのではないか。われらを高く見るな!」
「いや、そこでそれを抗議されても……とにもかくにも、儂は参加しないよ。それじゃあな」
嫌な予感はよくあたる。
劉備は曹操が口を開く前に(曹操にまるめこまれてしまう恐ろしさがあったのである)、そそくさと、その場を離れることにした。
曹操と仲達の『裏切り者』を見るチクチクとした視線を気にしつつ、劉備は売店(といっても、金銭は必要としない。レジはあるが、どのアトラ・ハシースがなにをどれだけ購入したか、最高府がチェックするためのものである)でレンタルのタオルを借りる。
そして沓を脱ぎ、ほかのアトラ・ハシースたちと同様、素足を湯に浸からせるが、これがなんと気持ちのよいこと。
どうやら湯には、ヒーリング効果のあるアロマオイルが含まれているらしく、鼻腔からはいるほのかな花の香りも心地よい。
「こいつはいいねえ」
などと言いながら、のーんびりとふんだんに使用された大理石の贅沢な空間に満足する。
相変わらず、顔見知りのアトラ・ハシースと出会うことはなかったが、それでも人のにぎわいのなかにいると、劉備は安心できた。
じっとしていると、さまざまな会話が耳に入ってくる。
それを聞いているだけでも楽しい。
タイミングと話題が合えば、劉備は臆することなく、話の輪に入っていく。
耳を傾けていると、足湯につかっているアトラ・ハシースたちの話題は、ほとんどが『サーカス世界』の召還のことであった。
『ダビデの羽根ペン』が賞品だということもひろく伝わっているようであるし、それだけではない、アトラ・ハシースたちがそれぞれ知恵を出し合って、隠し芸を披露するという今回の催しを、みなで楽しみにしているようであった。
その雰囲気は、文化祭を楽しみにしている学生たちのようでもある。
召還を受けるためには、なんと最高府によるオーディションがあり、これで合格できないと、下宿先にて留守番、ということになる。
そのため、アトラ・ハシースたちは、人と芸がかぶらないように、ほかの者たちが何をするのか、興味津々で探っているのだ。
ふと気になって、ちらりと見ると、曹操と仲達のふたりが、さきほどまでの石のベンチのうえに座っていない。
だが、視線はまだ感じる。
なぜだろうと不思議に思っていると、大理石の柱のとなりに飾られているパキラの植え込みの影から、うさぎと曹操が、身を半分だけ見せて、じっとりとこちらを見つめているのである。
とりあえず無視をする。
だが二人とも、物陰からじっとりと見つめている。
まだ無視している。
だが、まだじっとりと見つめている。
もっと無視してみる。
しかし二人は、もっともっと見つめてくる。
さすがに劉備も耐え切れなくなって、足湯からざばりと上がると、ほかのアトラ・ハシースたちの目もかまわず、叫んだ。
「おい、さっきから、なんなのだよ、家政婦かよ、おまえらは! 見るな!」
するとうさぎが口をとがらせて言った。
「見てないですー。自意識過剰ってものですー」
「嘘付け、柱の影から身体半分だけ出して、溶岩みたいにねっとりとした目線で、じーっとこっちを見つめていたじゃねえか!
いいか、反逆心だか不満感だか知らねえが、儂はやらないったらやらないぞ!」
劉備の勢いに、思わずのけぞる仲達であるが、しかし、そこで前面に出てきたのは曹操であった。
神経質そうに目を細め、まっすぐと劉備をねめつけてくる。
まるで蛇ににらまれたカエルの心地になりながらも、劉備はぐっとこらえた。
「玄徳」
「なんだよ」
「やらないか」
「気味の悪い誘い方をするなっ! やらないっていったら、や・ら・な・い!」
「しかし貴様はやるのだ。仲達、歌!」
「はっ! ただいま!」
ぴしっ、と敬礼をすると、うさぎは曹操に言われるまま、唄い出した。
「♪あなたのこと 私は今でも思い続けているよォー♪」
「♪オー イェー♪」
「なーにが『オー イェー』だよ、ふざけるな、この簒奪コンビ! やらない。絶対にやらない!」
「しかし、だ」
曹操は息を吸うと、表情を真摯にあらためて、劉備に一歩、近づいた。
「貴様の野球チームの『ブラック・ピーポポタマス』、メンバーがたった二人というではないか。
諸葛亮と趙子龍、この蜀でもっとも人気のある二人がいないいま」
「あっ、いまサックリ傷ついた」
「ふん、現実だ。重ねて言う。このもっとも人気のある二人がいないいま、メンバーはしばらく集まらぬであろう。
しかし、もし貴様が奮起して、この『不満感』に参加するならば」
「そっちに確定かよ」
「よいか、貴様の人気が生前のように盛り返し、メンバーが思うように集まるかもしれぬ」
「む」
たしかにそうだ。
陳寿の三国志、そして羅貫中の三国志演義のおかげで、劉備の影は孔明や趙雲といった若手(劉備基準)に押されて、すっかり薄くなってしまった。
まるで夏場の『これってただの白い水じゃん』とツッコミがはいるギリギリまで薄めたカルピスのように。
すっかり夢中になっている野球。
しかしメンバーが集まらない。
だが、『不満感』で人気が出て、一緒に野球をプレイしてもいいという、気さくな仲間が増えるかもしれない?
そこへ、曹操の巧みな言葉がさらに加わる。
「『不満感』にてダビデの羽根ペンを手に入れた暁には、貴様の野球チーム『ブラック・ヒーポポタマス』のための応援歌も作ってやろう。
さらには、メンバー募集のポスターも作ってやる。最強のメンバーが集まるであろうな。優勝はまちがいがないぞ、玄徳」
「むむ」
「そうなれば、貴様は『不満感』のメンバーという名誉と、ワールドシリーズ優勝チームの監督という名誉、両方を手に入れることができるのだ。
貴様以外に、これほどおいしい地位を手に入れるチャンスを前にしているものはいないぞ」
「あれ、そう言われてみると、そうかも」
「ふたたび聞くぞ、玄徳、やらないか?」
劉備は単純である。目を輝かせると、ぱっと手をあげ、言った。
「やる!」
こうして三国世界を震わせた驚異のユニット『不満感』は結成された。
三人でユニットを組むことを決めてから、かんたんな打ち合わせをしているうちに夜になった。
唄う楽曲から振り付け、決めポーズまで、いろいろ詰めていかねばならないことが多いのである。
劉備は自室に戻ると、シャワーを浴びて、ふたたび『のどごしすっきり 吟醸ネクタル辛口』を咽喉に流し込む。
心地よさに大きく息をつくと、劉備は窓から見える夜の景色をうっとりと眺めた。
雨はすっかり上がっている。
街灯りのなかには、知り合いの家のものもあるだろうし、これから知り合いになれる者の家もあるだろう。
時間だけはたっぷりある。
なに、野球の練習時間が少なくなったところで、いつ死んでもおかしくない『人間』とはちがう。
ゆっくりと、楽しくて、人のためになることをやっていけばいいんじゃないの。
唄って人気者になって、野球でも人気者になって。
なんて楽しい人生だろうか。
自分で自分に納得し、劉備は微笑むと、安らいだ気持ちのまま、ベッドに横になった。
ああ、今日も、充実した一日だった。
ちなみにサーカス世界でおこなったパフォーマンス『不満感』は意外と好評であった。
だが、残念なことに、『ダビデの羽根ペン』は下馬評どおりにLaboがさらっていった。
その勝利に異議を挟むものはいなかったという。
劉備率いる野球チーム『蜀漢ブラック・ヒーポポタマス』には、「責任を取る」ことを理由にメンバーとして曹操と仲達が加わり、もはや『蜀漢』という看板どおりのものではなくなりつつある。
しかしその混沌ぷりもまた、劉備の毎日にふさわしいものであることを付け加えておこう。
(C)Hasamino Nakama 2008 12 20