ループ3、二日目の朝・2

※ この話は、「ループ3、二日目の朝・1」のつづきとなります。

「パシリかよ」
ぼそりとつぶやき、大きなため息をついたあと、やるせなくなったラ・イールは、コロンボが纏っているような、くたびれたコートのポケットから、タバコを取り出して気をまぎらわせた。
タバコはおやめなさい、とかなんとか昔にいわれたことがあるが、酒とタバコと女は、やっぱりやめられないものがある。
女のほうは、かなりの努力でもって、だいぶ数を減らしたのだが(それでもゼロではない)、しかし、こういうことがたまにあって、気持ちがしょんぼりくじけてしまうのだ。
やってらんねーな、と小さくつぶやき、タバコに火をつけて、ぷかりと白い煙を寒空に浮かべる。

むかしは気にしなくてよかったのだが、21世紀に入ってから、ことに先進国の大都市では、タバコを吸うにしても、嫌煙権だとかいって、窮屈な思いをしなくちゃいけなくなった。
タバコには副流煙とかいう害がある、ということが一般にひろまってからは、よけいだ。
「ほらほら、まっすぐ空へ返れ、空へ」
と、吐き出した煙を、器用に真っすぐ、線のように上空に伸ばしてみせる。
自分の上空を取り巻く風の動きを、すこし操って、煙を拡散させずに、人の鼻や口に入らないように、上空へ流しているのだ。
風属性ではないアストラルであるラ・イールにとっては、高度な技である。
風属性のジャンヌのやり方をみて、大気の動かし方を、なんとなくおぼえてしまったのだった。

相手は子どもなんである。
いつまでも変わることのない、永遠の子ども。

正直、虚しさがあるわけだが、かといって、ジャンヌが立派な成年女性になってしまったら、ひどくガッカリするだろう自分も予想がつく。
きっと、いまよりずっと傷つくだろう。
こりゃもう負けるだろう、という厭戦ムードのただようなか、戦場に突如としてあらわれた、甲冑をまとったフランスの元祖国民的美少女は、永遠の偶像でなくっちゃいけないのだ。
自分を含めて、だれの中でも。
彼女はいつまでも、フランスの純朴な少年たちの初恋の人でありつづける。
それを変なふうに妄想の対象にするのは、あのクソッタレの変態吸血鬼だけだ。

あんまりこだわりすぎると、元帥みたいに派手に堕天しかねないから、しょんぼりするのも、このあたりにしておかなくちゃいけないな。
ラ・イールは、タバコとおなじくポケットにお行儀よく忍ばせている、携帯灰皿を取り出すと、吸殻の火を消して、正面を見た。

現在、バラバラになっているアトラ・ハシース、アストラルのうち、はっきりと即戦力になるのは、俺とあの子だけなのだ。
当山孔真君は行方不明、アタチュルクもどこかへ消えちまったし、そのアストラルにしても、なにやってんだか。
当山孔真君のアストラルは、まだ使えるやつかと思っていたのに、あの有様だし。
こうなると、俺がしっかりしなくちゃいけない。
あの子はレティクルのほか、吸血鬼にだって狙われているのだからして。

ラ・イールは呼吸を落ち着けると、肩から力を抜いて、ちょうど道路を挟んで向かいにある、幅のそう広くない、複合ビルの入り口を見た。
複合ビルの一階は、ちいさなパン屋になっており、二階が美容室、三階には、『定禅寺通ココロクリニック』と看板がある。
地下鉄の駅からほど近いところにある、けやき並木のつづく定禅寺通りぞいにある、古いビルのひとつで、その前には、派手なフェアレディZが、助手席にシェットランドシープドックを乗せたまま、無用心にも、キーをつけたまま、放置されているのであった。
「いくら治安がいいからって、盗んでくださいといわんばかりのあの置き方。あいつ、ほんとうに、アレか?」
ぶちぶちと、定禅寺通りの向かいの舗装道路の上の、パチンコ屋の立て看板の横に立ちながら、悪態をつく、ラ・イール。
十二月の朝の冷気をふるわせるスポーツカーを、官公庁に出勤する人々が、めずらしそうに振り返る。
盗まれるぞ、とひやひやしているラ・イールであるが、かえって衆人環視の通勤時間帯、ということが盲点になっているのか、またとないチャンスだというのに、盗むどころか、手をかける者すらいない。
これは、日本の治安が、まだまだいいことをあらわしているのだろうか。それとも、この世界がクロの世界だからか?

一方で、助手席のシェットランドシープドックは、たまに携帯電話のカメラを自分に向けてくる者にも、おすまし顔をして、お上品にお座りをしたままである。
そうこうしているうちに、複合ビルの階段から、鈴木剛志が、眼鏡をかけた、温厚そうな初老の男の手を引っ張りながら、あわてて出てくるのが見えた。
仕立てのよさそうなチャコールグレーのズボンのうえに、カラーシャツ、臙脂色のベストという姿の初老の男は、白衣こそ着ていないが、どうやら複合ビルの三階にある『定禅寺通ココロクリニック』の医者であるようだ。
白衣ではないのは、クリニックをおとずれる患者に威圧感を与えないようにするためなのだろう。

鈴木剛志はというと、自分の運転してきたフェアレディZに乗った、お行儀のよいシェットランドシープドックを指すと、言った。
「こいつがしゃべるんです! 人間みたいに、ずっと! さっきも、俺に、朝食は一日のパワーの源、とかなんとか、説教をして」
「うん、たしかに朝食は食べないと」
と、とぼけた返答をして、医者は架けていた眼鏡を直すと、シェットランドシープドックを、感心してながめた。
「こりゃまた、かわいいねぇ。うちも犬が二匹いるんだよ。ゴン太と花子といって、レトリーバーの雑種なんだけれど」
「先生の家のペットはいいんです! しゃべらないでしょう! でも、こいつはしゃべるんですよ!」

鈴木剛志は、もはや周囲の奇異の目もかまわずに、医者に主張するのであるが、しかし医者のほうは、こうした患者に慣れているのか、それとも、もともと一本抜けた性格なのか、まるで頓着せずに、助手席の犬に、ちょっ、ちょっ、と舌を打って、手を伸ばす。
シェットランドシープドックのほうは、仕方ないわね、というふうに医者のほうに近づいていく。
すると、医者はほんとうに犬好きらしく、その毛の手触りのよさを楽しんでいる。
「おとなしいじゃない」
「いまは黙っているからですよ!」
焦れて叫ぶ鈴木剛志であるが、医者はまったく無視している。

すると、それまで大人しく撫でられていた犬が、口を開いた。
開いた、といっても、只人には、撫でてもらって気持ちがいいので、くんくんと甘えた声を出しているように聞こえたことだろう。
「言ったでしょ。わたしがしゃべっても、この先生には、わからないわよ」
鈴木のほうは、顔色を変えて、すっかり、医者ではなく、ただの愛犬家になっている医者に訴えた。
「ほらっ! いま、しゃべりましたよ! 先生も聞きましたよね!」
「キミが喋っていただけじゃないの」
「いいえ、犬が!」

けんめいに訴える鈴木であるが、犬のほうが落ち着いていて、医者に撫でられながらも、言う。
「だから、無駄なのよ。只人がわたしの言葉を聞くためには、霊的なチャンネルを開く必要があるの。
わたしが、只人とコンタクトをとるときは、その霊的なチャンネルを開く手伝いをしてあげるわけ。そうすると、わたしの言葉がわかるの」
「なら、先生のチャンネルも開け!」
「いやよ、疲れるもの」
「このままじゃ、俺が、ただの変な人だろうが!」

犬にガミガミと怒鳴る鈴木に、医者のほうは、泰然と言った。
「ま、あれだね。キミ、昨日、事故に遭ったんでしょ? で、まだ精密検査も受けてないって? だめだなあ。頭を打っていたら、怖いんだよ」
「外傷がありませんでしたから」
「外傷がなくてもね、脳を打っている可能性があるんだな。ボクぁ、専門家じゃないから詳しくは言えないが、脳が内部出血を起こしていて、大脳の中枢神経が圧迫されるかなんかして、幻聴を聞いている可能性があるんじゃないかなあ。
市立病院、行っとく? 脳外科の先生に紹介状を書いてあげるけれど」
どうする、というふうに目線を向けてくる医者。
その横では、助手席のシェットランドシープドックが、優美な長い毛を揺らして、すました顔をして言った。
「お気遣いはありがたいけれど、意味ないわよ。あなたは健康そのものよ。あたしが保証してあげる。お断りして大丈夫よ」
「ほんとうに大丈夫なんだろうな?」

顔を蒼くさせながらも、犬に向かってたずねる鈴木であったが、当然、医者は犬が喋れるなどとは思ってもいないので、すこしばかりむっとしながらも、答える。
「まず、CTスキャナ撮って、異常がなかったら、ボクんところにもういちど、いらっしゃいよ。
キミ、前から新聞記者ってのは、やりがいがあるけれど、ストレスも貯まる、だからついつい高い買い物しちゃうって言ってたじゃない。
まー、ストレスが昂じているところへ事故でしょ。心因的なところも関係して、幻聴が聞こえているのかもしれないし」
「CTを撮っても同じよ。CT撮ると、保険が利いても高いのよ。五千円は飛ぶんだから。アナタ、ローン地獄で、お金はあればあるだけ、ありがたい、って台所事情じゃないの。無駄遣いはやめなさい」
「なんで、そんなことを知っているんだ!」
「キミが相談しにきたんでしょ」
と、医者。
「だって、アトラ・ハシースですもの」
と、ほほほ、と得意そうに笑って、犬。

「このまま、先生と話をしても、ただの押し問答よ。それより、怪談のことを調べましょう。昨日の留守番電話も気になるわ。
だいたい、あなた、千台栄華学院に行くんじゃなかったの?」
「このまま行けるか!」
「困ったねぇ、紹介状だけじゃ心許ないなら、脳外科の先生に電話もしておくけれど」
「いえ、先生、そうじゃなくて、この犬が!」
「先生にいくら言っても、わかっていただけないわよ。♪はーやく、行きましょお~ すーずきーさんー ほっほーほ♪」
「おかしな歌を唄うな!」
「歌まで聞こえてきたのかい? こりゃ、早く診てもらったほうがいいかもなあ。
ほら、診察室戻って。紹介状、すぐに書くから」
「いえ、先生、そうじゃないんですよ、犬が!」

噛み合わない会話をしながら、マイペースに複合ビルの階段をもどっていく老医師を追いかける鈴木。
そして、それを、やれやれというふうに見送る犬。

こいつら、しばらくこんなふうかな。
とりあえず、犬がしっかりしているし、俺がいつまでも見ていなくても大丈夫そうだとラ・イールは判断し、その場を離れると、自分の調査に入ることにした。

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※ この話は、「ループ3・二日目の朝・3」につづきます。