仙台、ふたたび・9

※ この話は、「仙台、ふたたび・8」のつづきとなります。

風が吹く。
その合い間を縫うようにして、男の、低音の歌声がながれている。
歌詞はとぎれとぎれで聞き取りづらいが、賛美歌である。
ごうごうと唸り声をあげる風のうずまく巨大ビルの頂上にて、男は足元をぐらつかせることなく、かがんで、おのれの膝に肘をあずけて、頬杖をつき、極東の夜景をながめていた。

いくたにも輝くネオン。
ひときわ明るいのは、そのビルから見て南西にある、東北随一の歓楽街である国分町の一角だ。
国分町の脇にある仙台を代表する大通りである定禅寺どおりには、国分町のにぎわいを反映するように、多くの車のヘッドライトとテールランプが揺れている。
一方で、煌々と通路と照らしてともるアーケードの明かりは、駅まで直線に伸びている。
夜になってもなお茶色の外観を闇に浮かび上がらせている仙台駅と、運行をつづけている新幹線の姿。
線路にそって、北に向かってすぐに見えるのが仙台アエラで、これもまた、夜を知らずにほの白く光る。
南に向かえば、あとは目立ったビルもないために、列車は闇に飲まれていくかのように見える。
とおくに大年寺山のテレビ塔が、闇のなかで、明日の天気にあわせた色をまとって、存在を主張しているほかは、東北の大都市は、静かに眠りに落ちようとしていた。

だが、そんななかでも、特に濃い闇をたたえている地域がふたつ。
新幹線がとおる線路の、東京方面にむかってすぐの地域と、国分町から見て北にある県庁・市役所・区役所のつどう区域の裏手にひろがる地域である。
五橋と木町通だ。
まるでクレーターが、その地域にそれぞれ出来たかのような、不自然な黒い円形の地域が、男のまえにはある。

だが、男には、なぜそれが、そこにあるかの理由は、わかっていた。
なにせ、一方の地域は、男が生んだものだからだ。

金髪の吸血鬼、ジル・ド・レは、木町通の暗闇を、すこしばかり感傷的な気分でながめながら、ずっと賛美歌を唄いつづけていた。
唄うことで、彼が追い求める聖女が姿をあらわすことを期待しているかのようだった。
とはいえ、そんなことは、『奇跡』が起こりでもしないかぎりは、無理だということは、かれもわかっていた。

わかっている? 
いや、わかっていない。

自問自答しながらも、かれは古い賛美歌を唄いつづける。
その、現代のフランス人さえ聞き取ることのむずかしい、古い中世のことばで歌われる賛美歌の旋律は、歌い手の心を反映してか、どこか物悲しいものであった。

かれはまたも失敗したのだ。
吸血鬼になる以前からそうだった。
それまで、かれの人生は、つねに一番の栄光と名誉を与えられるのが当たりまえで、それをありがたいとすら思わないほどに、恵まれたものであった。
フランス一の資産家と讃えられ、権威化した教会を恐れず、ルネサンスの兆しのみえはじめたヨーロッパ南部より、さまざまな芸術品を取り寄せた。
とはいえ、ただ怠惰に、貴族として君臨していたわけではない。
かれは領主にふさわしい教養を、それなりに努力をして身につけていたし、いかな敵をまえにしてもひるむことなく、大貴族として威厳たっぷりに振る舞い、戦地では、突撃にも怖じずに率先して参加した。
だれもが認める、すべてに恵まれた、えらばれた人間。
順調すぎるほど順調な人生であった。

だが、うまくいかないものである。
順調すぎて、退屈ばかりしていた。

大地を二分して戦っている、フランス、イギリス、そのどちらにも、じつを言えば興味はなかった。
レ家の親族たちは、あれこれと利権をめぐって暗躍していたようであるが、かれ自身は、そんな生臭いものよりも、バラの香りにつつまれて、夢の世界へと連れて行ってくれる書物に耽溺しているほうが、よほどおもしろかった。
身体がなまれば狩りに行き、人が恋しくなれば宴会をもよおす。
戦場に行くことも苦ではない。
いじましい政治の駆け引きなんぞに参加するよりも、極限状態で生死のやりとりをすることができる戦場で、忘我の極致にひたっていられればよかった。
戦争が長引き、国が疲弊し、倦んでいくのにあわせ、かれも戦場で過ごすことが多くなった。
それは、かれにとっては幸いだったのだ。

そして、何度となくくぐってきた血の雨の向こうで、かれは、かれだけの聖処女を見つけた。
多くの人々の血を欲しながら、自身は決して血で汚れない。
恐ろしい生贄を要求する女神、それでいて聖なるもの。

まさかこんな少女が、世の中に実在すると想像すらしていなかったジルは、あっというまに彼女に夢中になった。
それまで、なんでも手に入る人生を送ってきたかれにとって、どれだけ焦がれても手に入れることの許されない彼女は、逆にひどく誘惑的に見えた。
だからこそ、彼女に熱中し、だれよりも崇拝した。
彼女を手に入れること。
それが、かれの生涯の目的となり、彼女が無惨にも処刑されてしまってからは、その魂を得るために、悪魔崇拝(彼女を見捨てた神を、かれはもう信用しなかったのだ)にのめりこんだ。

だが実際に悪魔が血のにおいにひかれて現われることはなく、悪魔を召喚できるとうそぶいた詐欺師が現われただけであった。
かれ自身も裁かれて、処刑の場に引き出されたあと、かれは死ぬことを許されず、永遠におのれの願いに固執して生きる宿命を背負った。
むしろかれにとっては、それは喜びであったから、聖霊となって、ふたたびかれのまえにあらわれた彼女を、ひたすら追いつづけた。
これが罰などというのなら、自分に呪詛をかけた当時の司教たちには、感謝しなければならない。

と、ずっと思っていた。

だが、最近、不吉な予感にとらわれて仕方がない。
死ぬことを許されないということだけが、果たして呪詛の正体であったか。
そうではなくて、もしかして、彼女を決して手に入れられないということこそが、呪詛の正体ではないのか。
そうでなければ、こうも毎度毎度、失敗する理由がわからない。

三度目のループ。
彼女は木町通にもどるだろうとかれは計算し、木町通に巨大な穴を開けた。
そこを入り口にして、閉ざされた『夢の世界』の出入りを自由にし、彼女を空間ごと連れ去ろうという目論みだったのである。
ところが、木町通には彼女はおらず、抜け落ちた空間はどこかへ漂流してしまい、あとには、ただ抜け穴だけが残ってしまっている。
そこをくぐれば、おそらくは、この世界にもっとも近い位置にある世界に向かうことができるだろう。
ただし、行くばかりで、帰ってくることは不可能だ。
この夢の世界の往来を、最高府が停止しているからである。

アトラ・ハシースとアストラルは、世界を往来するさいに、まず一度、霊体に分解される。
目的地に到着したあと、その身にそれぞれが持つコードを基準にして肉体を再構築する。
最高府が、この夢の世界に対してほどこした処置は単純で、コードの読み取りができないようにしたのである。
つまり、この世界にだれかが向かったとしても、肉体を再構築することができないため、引き返すほかないのである。

だが、ジルはアストラルでもアトラ・ハシースでもない、最高府の管理外の存在であるから、そのような束縛は受けない。
だからこそ、木町通に穴を開けることが可能であったし、そこからこの三回目のループの世界に参加できたのだ。
さきほども、約二名が、ジルに感謝しながら、穴をくぐっていった。
信用ならないやつらだが、いまはとりあえず味方である。

味方。
皮肉なことばに、それまでただ夜景をながめていただけのジルの口はしに、ゆがんだ笑みが浮かんだ。
戦略とか、作戦とか、それまでくだらぬと無視してきたものに、どうやら頼らねばならなくなってきたらしい。
直感でなにもかも行ってきた身にとっては、慣れないうえに心地わるいが、しかし、目的のためには、仕方がないのだ。
『仕方がない』。
妥協か。
このわたしに、妥協する、つまりは譲らねばならないものがあるということが、気に入らぬ。
ここまで不快な思いをするのなら、今度こそ、思いを遂げなくては。

とつぜん、ジルの背後で、男の悲愴な声が聞こえた。
ふりかえると、成人の男のものらしい手足が、風に突き飛ばされるようにして落ちていく姿が、一瞬、目にうつった。
つづいて、どん、という地響き。
だが、それにまったく頓着しない声が、ジルにかかる。
「あんたのその歌はなんだい、聞いているだけで気が滅入ってくるね」
野心家の若い東洋人は、あいさつもなしにジルに話かけてきた。

かれらの立つビルは、NTT東北ドコモ本社ビル。そして高さは110メートル。
屋上に吹きつける風の強さは半端なものではないのだが、その男は、まったく動じることがない。

ジルはつまらなさそうに、男をすこしだけ振り返った。
「むかし、彼女が歌っていた唄だ。いまの世には伝わっていないが、たまに思い出す」
「あんたは一途だね」
揶揄する男のことばを無視して、ジルは言った。
「『石』の使い方がうまくなったな。只人ならば、この風圧だ。ここから転げ落ちるだろうに」
「コツを心得てきたのさ。そして、すこしだけだが、わかってきた」
「なにがだ」
物憂げな様子のジルの興味を引くことができたのがうれしいのか、それとも単に注目を浴びていないと気の済まないたちなのか、男はにこやかに笑みを浮かべて、答える。
「アトラ・ハシースと呼ばれている連中の力のひみつさ。
俺は、いままであいつらの持っている力というのは、それこそ『人智のおよばぬところ』のもので、分析は不可能だと思っていた。
だが、仮定くらいならできるんじゃないかと、石を使っているうちに、思い始めてきた」
「言ってみろ」
「あいつらの力は、どこからか自然と湧き出ているのとはちがう。俺たちとあいつらが決定的にちがうのは、『声』だ。
あいつらは、力を使うときに、かならず呪文を唱えるだろう。
最初は単に心の準備のためか、でなくちゃ中世の日本の武士みたいに、敵に対して名乗りをあげるのが、ルールなのかと思っていた。
そうじゃない。呪文がなければ、力は発動しない。
いや、呪文を唱える『声』そのものが、あいつらの場合、俺たちとちがって、きっと特殊なんだ。
あいつらの声が、さまざまな言葉をつむぐことで、あいつらの力は自在に変化する」

ジルは、野心のつよい日本人を、すくなからず軽蔑していたのであるが、すこしだけ、評価をあらためた。
「まちがってはいないな。『はじめに言葉ありき、神は言葉なり』。まさにそれだ」
「連中は、霊力を発動させるための、ヒト型の楽器のようなものだ。そして、俺たちの持つこの『ヒヒイロカネ』は」
と、男は、ポケットから、小指の爪ほどある、きらきらひかる鉱石を取り出した。
「霊力を発動させることのできない俺たちの声を、アトラ・ハシースと同質のものに変換することができる力を持っている。
使用者の心を受け止め、その願いをかなえる、まるで聖杯のような石だな」
「聖杯なんぞ、ただのコップだぞ」
「見たことがあるのか」
「十字軍帰りの騎士から奪ったことがある。キリストの血を受けたものだというが、ただのそれらしい染みのついている、古いコップだった。頭にきたので、暖炉にくべてしまったが」
「ヒヒイロカネは本物だぜ」
「わかっている。それより、さっきの悲鳴はなんだ。どうやら下に落ちたらしいが」
「仲間にも、微量ながらヒヒイロカネを配っているのさ。ちょっと修行したら、この石をとおして超能力者になれるって言ったら、連中、俺の靴にキスしかねないほど喜んでいたよ」
「つまり、いま落ちた男は、使いこなせなかった、ということか」
「仕方ないさ。役立たずにかまっている場合じゃない。即戦力しかいらないんだ」

そこまでいって、最上一樹は、男が落ちたあとを冷たく見下ろして、吐き捨てるように言った。
「いま落ちたやつ、東大出ているんだぜ。しかも理工学部だってさ。漫画に影響されて、大人になったら超能力者になりたかったんだと。超能力者になったところで、ほかに具体的につきたい職業とかないのか、食えなきゃ意味がないだろ、スーパーマンにしろスパイダーマンにしろ、ありゃボランティアだ、って言ってやったら、子どもみたいに泣きそうな顔をしていたな。
超能力者とやらになったら、天下を取れるとでも勘ちがいしていたのかね。どこにでもいるんだ、おちこぼれってのは」
と、世間的にみれば、自分は起業家のおちこぼれである最上一樹は、陰惨に、肩を揺すってみせた。
「ところで、あんたの仲間の二人は、どうしたんだい」
「かれらはわたしと身体の組成がちがう。食事をするために、木町通から外へ出て行った」
すると、一樹は、あきれたように眉をあげた。
「それじゃあ、なんだよ、あんたの仲間は、俺だけになっちまったのか」

正面からよく見れば、一樹はやはり、妹の白百合に面差しがよく似ている。雪のように白い肌も、そっくり同じだった。
これでもうすこし若ければ、とジルは思う。
ジルにとって、自分とジャンヌ以外の人間は、『餌か、そうでないか』で処断されてしまう存在なである。

「食事が終われば戻るだろう」
「この世界は閉鎖されているんだろ」
「彼女は最高府の管理外だから、そこは問題ない。あいつのほうはどうだろうな。力づくできそうな気がするが」
「最高府ってのも、ほんとうにお役所だな。仕事ぶりにしても」
「事実、お役所なのだから仕方がない。擁護するつもりはないがね」
「ま、いなくなったものは仕方がない。それじゃあ、俺とあんただけで作戦会議といこうか。
基本は、『俺たちだけで、甘い汁を吸う』。千台家寄りのレティクルとは組まない。
俺たちが、この世界で汎世界とべつに動いたら、基本世界にも大きく影響して、レティクルそのものが存在しなくなる可能性もある。そうだろ」
「そうだ」
ジルの短い肯定のことばに、一樹はうれしそうに笑った。
「レティクルは、俺を異様に信頼してくれているみたいだぜ。けど、いまのあんたとの会話を聞いたら、どうなるかな」
「どうもならんな。おまえを殺すことは、レティクルにはできない。それこそ、自分たちの存在を危うくしてしまうからな。
おまえがいなければ、レティクルの祖となる千台家は、存在しえないのだから」
「つまり、俺は、この世界では無敵ってわけだ。レティクルのつけてくれたボディーガードもいるし、怖い者はないな。
完全なる者さえ、逃げたぜ」
「ムスタファ・ケマルと会ったのか」
「アエラの俺のアジトにあらわれたのさ。千台潮の甥っ子と、うちの息子をつれてね。職場見学の引率ではなかったらしい」
「ほかにはだれかいたか。あるいは、だれかと組んだということを匂わせていたか」
「いいや、もともと一匹狼だろう、あれも。いちばん怖いやつだが、うまくすれば、いちばん楽な相手かもしれない。
ヒヒイロカネに意志があると言ったら、ぽかんとしていたな。あの間抜けな面を、見せてやりたかった」
「それはさぞ見ものであっただろう。ただそれだけを報告するために、ここに来たのか」

ジルは待たされることが好きではない。
鷹揚なようでいて、短気なのがジルである。
「これは報告会ではなく、作戦会議、だろ。
で、俺の作戦なんだが、やっぱり敵は、今回のループでもバラバラになっているみたいだ。
やつらががまとまる前に、倒すのが一番だと思うぜ。あんたはどうだい」
「おまえは信用ならん」
ずばり本音を口にすると、一樹はくぐもった声で笑った。
「あんたは正直だね。もっと嘘ばかりついているやつかと思ってた」
「それも間違った見解ではない」
さらに、一樹は笑った。
「いいね、その正直さ。俺はあんたと組みたいね。すくなくとも、あんたはわかりやすい」

おまえごときに、わたしを理解されてたまるかと、ジルは反発を抱くのであるが、いまは耐える。
この青年実業家きどりの野心家は、信用ならない。
笑いながら、平気で味方を敵に売ることができるタイプだ。

「じゃあ、いまのところ俺たちが調べたことを教えてやる。
千台家は、娘のヨーコがアトラ・ハシース側についたことが原因で、完全にあちらの手の中にある。
ヨーコはジャンヌと、傭兵のラ・イールが守っているし、従弟のタケシも同様。
乗り込むならジャンヌ・ダルクと戦わなくちゃならない。
あんたは本望かもしれないが、俺としては、攻撃型アトラ・ハシースに真正面からぶつかるのは避けたい。
ほかは、千台潮がなぜか行方不明。
アタチュルクは、俺のまえにあらわれたが、影男に手も足もでなくて逃げた。
そうそう、さっき俺も見てきたが、青葉山から外はすごいぜ。真っ白だ。
ヴァルキューレの世界の構築が、間に合わなかったんだろう。
その空白の部分に住み着いているレティクルは、サイレンなんて洒落たものを活用して、侵入者を警戒しているようだが、あれは逆に、『いまはそちらに反撃する力はありません。力を貯めています。だから表に出られないので、攻撃しないでください』と宣言しているようなもんだ。
第二回目のループ、あれで予想以上に痛手を蒙ったらしい。
つまり、いまこそチャンス。俺たちは、レティクルも千台も恐れる必要がない。フリーダム! 自由ってわけだ。
さて、これからどう動く?」

「簡単なことだ。弱い部分から攻めていけばいい。攻撃力を徹底的に殺いでしまうのだ」
「あんたの聖女に総攻撃をかけるのかい」
一樹の軽薄な口調に、かっと頭に血がのぼったジルは、まなじりをさかさにして、怒鳴った。
「彼女の名をその軽すぎる舌で語るな! つぎにくだらぬことばで彼女を汚したなら、舌をもぎ取るぞ!」
脅しではなくて、ほんとうにそうするのがジルである。
それまで冷笑的な態度をとりつづけていた一樹は、ようやく、目のまえの美しいフランス青年の正体を思い出したらしく、顔を真剣なものにあらためた。
「すまない、いまのは忘れてくれ」
ジルは、それこそないはずの全身の血が騒ぐのをおぼえたが、必死で押さえ込み、呼吸を荒くしながらも、うなずいた。
「よろしい、忘れてやる。彼女はだめだ、攻撃してはならない。
彼女以外の者がどうなろうと知ったことではないが、おまえが彼女に手を出すというのなら、おまえはわたしの敵だ。わかったな」
「わかった。つまり、ほかの攻撃型を撃退して、彼女を孤立させるわけだろう」
「そうだ。残るアトラ・ハシース、アストラルのなかで、攻撃力が高いのは、アタチュルク、イスメト・イノニュ、趙子龍、ラ・イール、そして彼女の五人。
ただし、アタチュルクとイスメトの攻撃力に関しては、かれら自身が経験不足ということもあり、そう恐れることはない。
のこる趙子龍のほうは記憶をなくしているようだし、面倒なのはラ・イールだな。
あいつは粗暴なくせに、なかなか老獪なところも見せるたぬきだからな」
「待てよ、諸葛孔明は?」
「それは問題ない。もう手は打ってある」

へえ、と感嘆の声をあげながらも、一樹は信じきれていない様子である。
だが、それを無視して、ジルはふたたび仙台の夜景に目を転じた。

人の灯す明かりを、恋しいと思ったことはない。
むしろ苛立ちの元だ。
ぜんぶ消えてしまえ。
このわたしは、決して、どの明かりの中にも戻ることの許されていない身なのだから。





2003年12月3日 仙台市青葉区五橋。

エスパルのゆべし売り場でのバイトを終えた最上アキラ子は、歩いて十分ほどの自宅マンションに無事、到着したのであるが、なにか違和感をおぼえて立ち止まった。
すでに時計は十時ちかくを指している。
新幹線の線路ぞいにつづく道を歩いて、マンションまでたどり着くほんの十分のあいだ、だれと会うこともなかった。
無事に帰ってきた。
だれにも会わなかった。

「そうだったっけ?」
と、おのれのなかの違和感と戦いながら、思わず口にしてみるが、『そうだったっけ』の『そう』がなにを指しているのか、口にした瞬間には、もうわからなくなっている状態である。
「なんか変だな」
自分に対してなのか、それともほかのなにかに対してなのか、ともかくおかしいということだけがわかっているのだが、なにがどう、おかしいとは指摘できないもどかしさ。
あんまり考えると、目が冴えて眠れなくなってしまう可能性があるので、疲れているのだろうと自分を無理やり納得させて、マンションのエントランスをくぐる。

ふるいマンションなので、オートロック形式ではない。
口うるさい管理人が掃除をしっかりしているので、きれいはきれいだが、コンクリートのそこかしこからカビ臭さがただよう、むかしの団地のようなマンションなのだ。
郵便受けの手紙を取り出し、ダイレクトメールばっかりなのにがっかりして、エレベータに乗る。

最上アキラ子、通称・アコ、十七歳。
私立千台栄華学院の二年生で奨学生。
両親は事故で他界。

ん? なんだっていまさら?
自分の身元をあらためて確認した自分自身をいぶかしみつつ、クーポンのついていないダイレクトメールと、クーポンのついているダイレクトメールをより分け、アコは自分の家の扉に手をかける。
と、ドアノブに手をかけた時点で、扉のなかで固定電話が鳴っているのが聞こえた。
自慢ではないが、アコは学校で孤立しており、援助してくれる親戚もいない身であったから、まず家の電話が鳴ることはめずらしい。
ましてもう21時をとっくにすぎており、セールスの電話ではないことはまちがいない。

バイト先の店長かな?
あわてて鍵を開け、中に入る。
少女ひとりが住むには広すぎるマンションの廊下に、ぽつりと設置されている電話器は、着信をしらせる蛍光ランプを点滅させ、ぴろぴろと軽い音をたてて、アコを待っていた。
「もしもし」
セールスや悪質な詐欺を警戒して、まず自分からは名乗らないのが、アコの電話の出方である。
一拍おいて、相手は、ゆっくり、ひとつひとつ言葉を選ぶように、言った。
『最上、アキラ子……さん、ですか』
「はい」

聞き覚えがあるような声だが、さて、だれだったろう。
すぐに名前が出てこないところを見ると、両親がなくなって以来、疎遠になっている、お父さんの会社の同僚さんかな?

『わたしは、となりに、住む、ものです』
声はよく響く低音なのだが、どうも明瞭ではない。
ぼそぼそと聞こえるその声に、ふたたびアコの警戒心がもどってきた。
「あのう、おとなり? たしか、おとなりは」

トルコ人が二人。
いや、空き家であった。

「空き家のはずですけれど」
『今日、転居、してきました。今日は、もう遅いので、明日、あらためて、ごあいさつに、うかがいます。
明日の、朝、七時、ちょうど』
「え? うちに来るっていうことでしょうか」
『お宅が、留守、のあいだ、宅配便を、あずかって、います』
「あ、それはすみません」
つい謝るアコであるが、この言葉のたどたどしさ、もしかしてなにか障害を持っている人か、そうでなければ日本語をおぼえたての外国人なのだろうか。
『それ、では。さようなら』
「あ、はい。おやすみなさい」

電話が切れてから、アコは、自分が七時の訪問を了承していないのに、約束が出来上がってしまっていることに気づいた。
「七時かあ。バスに遅れないように、すぐに学校に出て行ける準備をしておかなくちゃね」
壁掛け時計を見て、時間配分を計算して、アコは、一日の労働に、ともにつきあってくれた靴下を脱ぐ。
そして、洗面台のとなりに設置してある洗濯籠に放り込むと、となりにある風呂の追い炊きを開始した。
遅い夕食を摂るために、台所へ移動する。

これから12時までの短い時間が、アコが自分のために許している、くつろぎの時間であった。
今日もよくがんばった。明日もがんばろう。
心のなかで唱えながら、静かすぎる家に音をもたらすためだけに、見もしないTVをつけてみる。
そしてレンジに作りおきの料理を入れる。

いつもの一日が終わろうとしていた。
明日もきっと、同じ一日になるだろう。

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※ この話は、「Give Birth to Heaven・1」につづきます。