ずんだ×三国志

第一話

高校生・青葉リョウ、ずんだの指環を手に入れる

大きな幕舎の下に立派な寝台がしつらえてあって、その周りを幾重にも男たちが取り囲んでいる。
寝台の中にはびっくりするほどやせ細った男。
あまりにやせ細ってはいるが、しかし、その肌の状態の良さから、病んではいても、かれがけして年寄りではないことが知れる。
閉じられた男の片方の目から、すうっと、涙がひとすじ、こぼれた。
涙は、身じろぎもしない男のしわをなぞるように、真横に垂れて、寝具ににじんだ。
それが最期。
もはや、男が生命活動をしているあかしは、その肉体にはなにもない。
徐々に顔色も土気色に変わっていった。

穏やかな顔をしている、ということが、自分の死に顔をはじめてみた孔明の印象だった。
孔明は幕舎の隅、肉体から抜けでた魂の状態で、自分の寝台を中心に嗚咽をこらえている男たちの背後にいる。
その装束も、山臺壱番高校の制服とは変わり、国を統べていたころの、絹の立派な装束になっている。
だれも、まさか蜀の丞相の魂が、自分たちを背後から見ているなどとはおもわない。
見知った背中はみな慟哭に震えている。
かれらは国の主柱をうしなったかなしみに震えているだけではあるまい。
これからおのれの背負うことになる重責や、主柱をうしなった国の行くすえを案じて震えている者もいるはずだ。

いまの孔明は知っている。
幕舎のなかで涙を流す者たちがどうなっていくのか。
そして、国がどこへ向かっていくかということを。
なぜ知っているのかといえば、青葉リョウとして読書に励んでいたとき、たまたま惹かれて手に取った陳寿の「正史三国志」に、蜀の末路までが描かれていたからだ。
孔明の後継者たちはつぎつぎと病死、あるいは暗殺されて歴史から消える。
孔明の志をもっとも忠実に継承しようとした姜維も、戦いに敗れ、さいごは悲惨な死を迎えた。
唯一の救いは、孔明が忠節をささげた君主、劉禅が命をまっとうしたことだろうか。

暗澹たる気持ちにおそわれて、深く目を閉じ、ため息をつく。
ここにいる男たちがわるいのではない。
かれらは、孔明がみずから目をかけて育てた、逸材ばかりである。
そのかれらをしても、巨大な敵、時の流れにはさからえなかったのだ。
おのれもまた、出来るだけのことはした。
ほかに道がなかったのかとおもうことはない、じっさいに、その時々で最良とおもわれる道を選んできたのだから。

孔明は、指に、さきほど文君なる美少女から受け取った、ずんだ色の指環があるのを見る。
指環はいま、幕舎に灯されたあかりを受けて、にぶく光っていた。
奇妙な話だ、と孔明はおもった。
ずんだの指環を身に着けたとたん、過去を思い出したこともそうだ。
それ以前に、なんだって縁もゆかりもない島国の高校生になっていたのかも、よくわからない。

高森アヤの、独特の、思い詰めたような瞳が脳裏にうかぶ。
彼女を助けるため、定禅寺通りのビルにはいり、文君に会い、指環をはめさせられ、そしてとつぜん前世を思い出し、いまは自分の死を見つめている。
ここで常人なら、パニックを起こして大騒ぎしたことだろう。
パニックにならなかったのは、華奢な外見に見合わず、孔明に人並み以上の胆力があったからだ。

孔明は、指環を中心に、指をひろげて、まじまじとそれを見た。
なんらかの仙術がかけられている、とくべつな指環なのだろう。
あるいはもしかしたら、自分の魂は、これを身に着けたとたん、青葉リョウの肉体をはなれてしまったのではないだろうか。
仮にそうであっても、これからどうなっていくのかは、さっぱりわからなかった。

ここは五丈原である。
それはわかるが、自分はこれからどこへ行くことになるのか。
そして、何をすべきなのか?

この奇妙な状況には、なにか理由があるはずだ。
理由があるのなら、これから、それがわかる出来事が起こるはずだ。
まさか、このまま魂が遊離してしまうことはないだろう。
あわてず、冷静さをたもち、観察すること。
自分がおかれた状況を見きわめるのだ。

顔をあげると、いつの間にか時間がとまっているのか、死んだ自分を中心に泣いていた男たちの姿が、みな完全に停止していた。
まるで、一時停止された画像を見ているようだと孔明はおもう。
いや、画像というよりも、精巧に描かれた一幅の絵画を見ているといったほうが近いか。

そのかたわらをとおって、文君が近くにやってきた。
彼女の装束は、黒のミニスカート姿から一変、古風な漢族の装束になっている。
うぐいす色のうわ衣に、あざやかな桃色の裙、帯は裙にあわせたものか、白地に桃の花が刺繍されたものである。
かの女のはく靴も、丹念に刺繍のほどこされた上等なものであった。
その靴を包んでいる足が纏足ではなかったので、孔明はこの女が、自分とおなじ時代を生きた女かもしれないなとかんがえた。
纏足は、南宋に起源をもち、元末明初に流行した習俗なのだ。
過去に出会ったさまざまな顔を、ページをめくるようにして文君の顔を探してみるが、おもい出せる顔がない。
これほど特徴のある美少女、忘れているとはおもいがたい。
となると、このむすめは、何者なのか。
ずんだの指環といい、時空を超えた風景を見せられる力といい、どうして、これほど大がかりな仙術を使えるのだろうか。

推理しているヒマが惜しい。
孔明は迷わず、本人にたずねることにした。
「君は何者なのだ?」
すると文君は、両方の眉をあげて、おどろきを示した。
「ずいぶん冷静なのね、さすが、蜀の名宰相」
「質問に答えたまえ」
すこしだけ声に険をふくませる。
文君は、今度はかたちのよい眉をひそめて、不服そうな顔をした。
「あなたたちを助けるために力を使っているのに、怒られると気持ちが萎えるわ。さっきいったでしょう、わたしの名は文君。付け加えるなら、あなたにゆかりのある者よ」

文君という名前には聞き覚えがある。
といっても、知り合いにいる、という単純な話ではなく、歴史の中にその名をとどめている女性がいるのだ。
漢の武帝の時代に活躍した蜀の出身の文人、司馬相如。
その妻の名が、文君。
卓文君というのだ。

歴史ではつたわっていなかったが、卓文君は美女だったのだなと、変なところで感心していると。
「言っておくけれど、わたしは司馬相如の奥さんとは無関係よ」
「では、だれなのだ、きみは。呉の者か、魏の者か」
呉、あるいは魏にいた、諸葛一族のうちのだれかの娘かなと推理するが、文君は、茶目っ気のたっぷり含ませた目をわらわせて、答えた。
「どちらでもないわ。でも、わたしはあなたたちにゆかりのある者よ。ついでにいうなら、わたしの名は、歴史書のどこを見ても残っていないはずよ」
「姓だけが残っているということか」
「ご想像におまかせするわ。わたしのことは置いておき、この状況がふしぎではないの」
「ふしぎだ」
素直にうなずくと、文君はおもしろそうに声をたててわらった。
「たいしたものねえ、ふつうなら、パニックを起こして大騒ぎするところなのに」
「大騒ぎしたいところだが、抑えている。わたしは五丈原で死んだ。そこまでは思い出した。だが、どうしてニホン国の山臺に生まれ変わったのかはわからない」
「生まれ変わったんじゃないわ」
今度は孔明がおどろく番だった。
どうかんがえても、生まれ変わったのだとかんがえるのが自然な状況であるのに。

「そうね、なにから説明しましょうか。たしかにあなたは五丈原で死んだ。でも、そこからすぐに天仙界へ魂はのぼっていったのよ。そこであなたは、長い時を過ごした」
「おぼえていない」
「そりゃそうよ。だって、わたしが天仙界での記憶はブロックしているんですもの」
「なぜまた、そんなことを」
「前世を思い出しているうえに、二十一世紀の記憶もある。それだけでも脳の情報処理能力の限界を超えているわ。なのに、そのうえで、2000年近い天仙界での記憶もあったなら、あなた、ほんとうにおかしくなっちゃうわよ」
「それはおかしい、前世といまの記憶、それぞれ足しても100年にも満たない。だが、きみの説明で行くと、天仙界のわたしは、生前と死後、あわせて2000年近くの記憶を持って過ごしていたことにならないか?」
「天仙界での脳のメカニズムと、現世での脳のメカニズムはちがうのよ。天仙界では、すべての肉体の働きが現世よりもアップするの」
どういうふうに、と具体的なことを尋ねようとしたが、孔明は思い留まった。
いまは、からだのメカニズムについて長く論争している場合ではない。

まるで映画の1シーンを切り取り、制止させたような風景が、いつのまにか消えた。
孔明と文君は、殺風景な平原の中にいた。
つめたい風が足元の短い草を揺らし、音を立てずに去っていく。
鳥や獣の気配もない、立ち枯れた木がところどころに見える、さびしい平原の風景だった。

「あなたはいま、『三国志竜血録』の入り口に立っているわ」
「『三国志竜血録』?」
「そう。わたしは、この先の世界へは進めない。資格がないから、ガイドの役目しかできないの。あなたには、『三国志竜血録』に入ってもらう。いま知りたいことがあったなら聞いて。教えられるだけ教えるわ」
「知りたいことだらけだ。わたしはいま、どうなっているのだ。まさか、青葉リョウですらなくなったのではないだろうね」
「それはないわ。あなたは青葉リョウと魂を共有する者よ」
「そこがわからない。生まれ変わりではないのか」
「ちがうわ。六年前、山臺市の海沿いのちいさな小学校跡地で、原因不明の大火事があったことはおぼえている?」
「春海小学校跡地の怪事件のことか?」

六年前、みなし仮設の古い木造アパートのベランダから、ふしぎな光の柱が立っているのを見た。
4月11日の余震で電気系統がショートしたのだとか、まことしやかなうわさが流れていたが、どうやらちがうようだ。
光の柱のうつくしさは、妖美といってもいいくらいだったことをおぼえている。
柱は天までのび、そのまわりを、蛍のように光がちらちらまといついていた。
それを見て、小学生だった青葉リョウは、天使の梯子、という空想をはたらかせたものだ。
あの光の柱を通して、死者のたましいが天国に昇ったものかと。

「小学校跡地から立った光の柱。あれは、関帝聖君がみずからの力を解放して、仲間たちを呼び寄せるために放った光、天柱なの。あなたたちは、天仙界のかなめである崑崙まで届いた天柱をとおって、この世に降りてきたのよ」
「関羽が」
「そうよ。関帝聖君はわけあって、この土地に召喚され、宿敵と戦った。戦場となった春海小学校跡地は火につつまれ、関帝聖君も力を使い果たし、長く眠りについているの」
天使の梯子。
図らずも当たっていた、ということなのか。
「きみはさっき、ここが『三国志竜血録』の入り口だといったな。では、ここは、よくできたゲームの世界などではなく、関羽の夢の世界の入り口ということか」
「ざんねんながら、それもちがうわ。この『三国志竜血録』は、関帝聖君のいまわしき宿敵、蚩尤の夢の世界なのよ」

おもわぬ名前が飛び出してきた。
蚩尤、兵主神とも呼ばれる、いにしえ最強の怨霊神。
孔明はその恐ろしい名前を発音することすらできなかった。
蚩尤とは、古代中国において、伝説の帝王である黄帝と覇を競い、そして無残に敗れた邪神である。
始皇帝や、漢の高祖すなわち劉邦も、戦において、蚩尤を崇拝していた。
その力は強烈で、かれらに天下統一という偉業を成し遂げさせたほどだ。
だが一方で、怨霊神だけあり、あつかいをまちがえると、強烈に祟るのが蚩尤だ。
蚩尤は最古の怨霊神で、神格化された関羽とは、永遠のライバルとして位置づけられていた。

「蚩尤は怨霊としては最悪の部類よ。万物全てを憎み、祟る。敵意のかたまりといっていいくらい。戦を導きはするけれど、平和は破壊する。仮にこの世にふたたびあらわれれば、それは大災害が起こることとイコールでもある。その蚩尤を六年前、関帝聖君はなんとか封じた。
でも、封じただけで、倒すことはできなかったの。関帝聖君は、いまは力を回復させるために眠りについていて、いつ目覚めるかは、だれにもわからない。一方の蚩尤も、おなじくおのれの力を回復するため、眠っているの。そのかれが見ている夢が、いまわたしたちのいる世界なのよ」

孔明は、あらためて荒涼たる平原をみまわした。
点在する枯れ木のうち、一本の枝の先が折れて、風ゆらゆら揺れている。
まるで人の手首が手招きしているかのように見えた。
その連想に、ぞくっと背筋をふるわせた。
自分が、とんでもなく厄介な状況にいることに、だんだん気づき始めていた。

「ここが蚩尤がつくった『三国志竜血録』の入り口だということはわかった。そしてわたしたちが関羽の立てた天柱を降りて、崑崙、つまり天仙界でのおのれの住まいから、地上にやってきたことも。わたしたちは関羽の手助けをするためにやってきたのだな。しかし、ニホン人に生まれ変わったわけではないのだね」
「そうよ、この世に現出するさい、あなたたちは、トウホクじゅうの人間の中から、自分にもっともよく似た気質、人柄、才能をもった人物に宿ったのよ」
「憑依した、ということか」
「憑依とはまたちがうわね、魂魄のうち、魄、つまり肉体を共同利用している魂のかたわれ、といったほうが実態に近いかしら。あなたの場合だと、諸葛孔明は青葉リョウであり、青葉リョウは諸葛孔明というわけ。いま、あなたは青葉リョウの肉体から出て、諸葛亮にもどっている。なぜかというと、『三国志竜血録』に入るためよ。『三国志竜血録』の内部は後漢末から三国時代の世界によく似ているの」
「似ているだけで、同じではないのか」
「ほぼ同じ、とだけ、いまはいっておくわ」

「蚩尤はわれわれの生きた時代より、千年近く前の怨霊神だろう。どうしてわれらの時代の夢を見ているのだ」
「蚩尤はただ眠っているだけじゃないのよ。自分の協力者に命じて、竜血の指環をつかって三国の英霊たちの力を吸い上げ、エサにしているの。あなたたちは、本来なら関羽の呼びかけにこたえて、すぐに顕在化し、関羽の代わりに蚩尤と戦うはずだった。けれど、ざんねんなことに、この世に関羽やあなたたちを召喚した者のちからが、途中で尽きてしまったの。そのため、召喚が半端になってしまい、あなたたちは覚醒できないまま、ふつうの山臺市民として、ニホン人の肉体に宿り、六年を過ごした」
「蚩尤には協力者がいる? みちのく救済道という連中がそうなのか」
「あたりよ。かれらは蚩尤側に召喚された者たちで、関帝聖君側に召喚された三国の英霊たちを見抜く目をもっているわ」

文君はここでいったんことばを切り、くちびるをしめらせると、またつづけた。

「ここからがポイントなの。蚩尤側の人間は、関帝聖君側の人間を見抜けるけれど、関帝聖君側の、ニホン人に宿っている三国の英霊たちは、自身の使命すらわすれて、ニホン人としてふつうに暮らしている。それほど召喚者の力が弱かったからなのだけれどね。この状況、あなたが蚩尤側の人間だったら、どうする?」
「関羽側の人間が覚醒しないうちに、この世から消してしまうことをかんがえるな」
「そうでしょう。かれらも同じことを考えた。けれど、ただ消してしまうのでは効率がわるいし、過激な手段をとれば、その過程で相手が覚醒してしまう危険もある。なので、蚩尤側の人間は、蚩尤が生み出した『三国志竜血録』へ関帝聖君側の人間をおびきだし、そのエネルギーを徐々に吸い取って、無力化することにしたの。
たくらみは成功しつつあるわ。三国の英霊たちは、それと知らずに、この世界がゲームだとおもってエネルギーを吸い取られて、どんどん無害化している。いざというときには、かれらは覚醒できないでしょうね。三国の英霊たちは、エネルギーを吸い取られたら、もう英霊ではなくなるから。もともとの生命活動に必要なエネルギーを吸われてしまうのだから、英霊としてばかりではなく、ふつうの人間としてもエネルギーを失った状態で生きねばならなくなる。それがどういうことかはわかるわね」
「こころも肉体も病み果てた人間として生きて行かねばならなくなる」
「ご名答。ただ、三国の英霊たちも、だてに英霊じゃないから、自分たちのエネルギーが吸い取られていると、体調不良がおこるから、途中でおかしいなと気づく可能性もあるわよね。
そこで蚩尤側の人間は、『三国志竜血録』にある仕かけをほどこした。それは、この世界にアクセスすると、三国の英霊が、過去の疑似世界である『三国志竜血録』で、過去に果しえなかった夢を実現できるようにしたこと。その『三国志竜血録』へのアクセス権そのものが、竜血の指環なの」
「アヤが持っていた指環だな、ということは、アヤも三国の英霊なのか」
うめくように孔明がいうと、文君はおおきくうなずいた。
「そのとおり。竜血の指環は蚩尤側の人間が、ヒヒイロカネを模して作ったもので、あなたがいまはめている、純正のヒヒイロカネでできたずんだの指環とは、まったくちがうものなの。竜血の指環をはめたままの状態で、附属品のリーダーをとおしてサイバー空間にアクセスすると、『三国志竜血録』に入れるようになっているわ。ずんだの指環が媒介を必要としないで、いつでもどこでも『三国志竜血録』に介入できるのとは対象的ね。ちなみに」
と、文君はここで、こほんと咳ばらいをした。
「悲しいお知らせがひとつ。『三国志竜血録』で過ごせば過ごすほど、竜血の指環は三国の英霊たちからどんどん力を吸い上げていくわ。いっておくけれど、高森アヤさんは、かなり危険な状態よ。竜血の指環は、さいしょは、英霊から力を吸い上げれば吸い上げるほどに、自身が真っ赤に染まっていくの。アヤさんの指環がもし真っ赤だったら、すでにかなりの力を失っている可能性大だわね」

孔明は、アヤが倒れるほどになってもなお、パソコンの前に座っている、というアヤの母親の話を思い出していた。
つまり、アヤは竜血の指環の力でもって、蚩尤の夢現の世界に入り込んでいるということだ。
さいきん、顔色がすぐれなかったのは、エネルギーを吸い取られていたからだった。
アヤ特有の、思い詰めたような瞳を思い出す。
孔明は、めったに動じることのない人間であるが、アヤのことをおもうと、腹の底から憤りがこみあげてくるのを感じた。
アヤは大事な幼なじみなのである、その彼女を、だれかに利用された状態で失うなど、耐えられない。

「わからないことがある」
「なにかしら」
「アヤは、なぜ自分がエネルギーを吸い取られていることに気づかないんだ?」
「それはね、この世界にアクセスすると、リアルの世界とはくらべものにならないほどの多幸感を味わえるようになっているからよ。それと、『三国志竜血録』内のことは、リアルに戻った時点ですべて忘れてしまうわ。竜血の指環の所有者がおぼえているのは、アクセスしたらいい気持ちになった、ということだけ。かれらはまた多幸感を味わいたくて、また『三国志竜血録』にアクセスしてくる。そして、そのたびエネルギーを吸い込まれていく、という仕組みなのよ」
「大本たる蚩尤を破壊することはできないのか」
「蚩尤の力は強大よ。かれに匹敵する力をもっているのは最高の軍神たる関帝聖君のみ。英霊ひとりが立ち向かって戦えるレベルの相手じゃないわ。それに、蚩尤がいま、どこにいて、どういうふうに眠っているのかは、わたしにもわからないの。ただ、わかっていることは、蚩尤の夢を打ち砕けば、かれらは、それ以上、だれからも力を吸い上げられない、ということよ」
「関羽は」
「関帝聖君のことなら安心して。安全な場所で眠っているわ」
「つまり、ずんだの指環を持っている者が、蚩尤の夢を打ち砕かねばならないというわけだな」
「そういうこと、呑み込みが早くて、助かるわ」
「アヤのためだからな」

孔明はそう言って、地平線まで立ち枯れた木々しか目立つもののない、荒涼たる草原の果てをみやった。
これはもしかしたら、蚩尤が最期をむかえた涿鹿の野の再現なのかもしれない、そんなこともかんがえた。
ひどく殺風景で、ひどく心細くなる場所である。
これを超えた先に、かつて自分が生きた時代とそっくりな時代があるというのか。

「大事なことをもうひとつ言っておくわ。高森アヤさんも、竜血の指環が赤くなるくらいだから、どこかの英霊にはちがいないの。だけれど、アヤさんの前世が何者で、この『三国志竜血録』のどこにいるか、そしてなにをしているのかは、わからないわ」
「なんだって」
「すまないわね、だって、わたし、この世界に入れないんですもの」
肩をすくめて悪びれない文君。
孔明は、あらためてこの美少女が何者だろうかとかんがえた。
蚩尤と戦うさいに、黄帝側にあらわれたという、九天玄女だろうか、それにしては、やや頼りないのだが。

「あ、いま、頼りないなっておもったでしょう」
ずばり文君は指摘してくる。
怒るかな、とおもったが、そんなことはなく、文君はちいさく肩をすくめただけだった。
「仕方ないわよね、ずんだの指環でサポートする以外にできることがないんだもの。ちゃんとわたし、太上老君にいったのよ、蚩尤が目覚めたらまずいですよーって。でも、太上老君は『為すがままに』とかいっちゃって、頼りにならないったら。見かねたほかの神様が、わたしとずんだの指環を開発してくれたってわけ。このずんだの指環は、高森アヤさんの夢にあわせてプログラムされている指環よ。まだ開発途中だから、もしバージョンアップした新作ができたら、あなたに渡すわね」
「待て、なぜわたしは君にえらばれた?」
「あなたが向こうからわたしのところへ来たんじゃない」
「定禅寺通りのオフィスで、わたしを待っていたのではないのか」
「そうじゃないわ。だれが来てくれても良かったの。ただ、わたしのところへ来る人は、きっと力のある英霊だっておもっていたわ。でもまさか、これほどの大物が来てくれるとはね」
「そういわれると、こそばゆいが」
「顔に出ない人ね。当然だ、ってほんとうはおもっているでしょう」
「そんなことがあるものか。わたしはきみの期待に応えられぬかもしれぬぞ。仮にわたしが蚩尤の夢にとりこまれてしまったなら、どうなる」
「ずんだの指環があなたを守ってくれるとおもうわ。ただ、気をつけてね、ずんだの指環は万能ではないの。『三国志竜血録』での身の処し方をまちがえると、あなたのいまの本体である、青葉リョウの肉体もダメージを食らうわ」
「十分に気をつけよう。ここが入り口というのなら、いったいどうすれば世界に完全には入れるのだ? わたしはアヤを助けたい」
「やる気満々ね! いいわ、それじゃあ、世界に入れてあげる。世界から出たいときは、出たいと強く念じるだけでいいから。さあ、高森アヤさんのいるステージへあなたをつれていくわね」
と、文君は指をぱちりと鳴らしかけ、途中でやめた。
「いけない、大事なことをもうひとつ。内部には、わたしの協力者である『ナビ』が待っているわ。わからないことがまだまだ出てくるとおもうけれど、なにかあったら、『ナビ』を頼ってね」
「『ナビ』? だれだ?」
「それは行ってのおたのしみよ」

文君は、今度こそ、ぱちりと指先を鳴らした。
とたん、孔明はまたも光に包まれた。
あの津波が去ったあとの、無残な沿岸部をおもわせるような、がらんどうの平原は消え失せ、光の先に、深い緑のこんもり茂った、どこかの丘が見えてきた。
孔明は迷わず、色とりどりの花の咲く、生命力あふれた丘を目指して歩き出した。


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Ⓒはさみのなかま 2017/3/15