ずんだの章
A
※ご注意※ 以降の章を読む前に、牛タンの章へとお進みくださいm(__)m
孔明の顔が眼前にあったのはよく覚えている。
つづけて身体をビリビリと電流が貫き、五臓六腑を焼き尽くされるはげしい痛みとともに、陳寿犬は絶命した。
「○○、ほら、起きて、どいてちょうだい」
と、言われ、○○はのっそりと起き上がり、お母さんに道を開けた。
そして、のたのたした足取りで、日の差さない部屋の、カーペットの上に丸くなる。
お母さんは、ベッドの枕元に立つと、お盆に載せてきた水差しで、ベッドの主に水を飲ませた。
一日に数回、くりかえされる光景である。
ひゅうひゅうと、呼吸の音だけがする。
そのあいだも、ブーン、とモーターの音が途切れることはない。
なぜ、うちばかりが、というやるせなさがこみ上げて、○○は再び目を閉じた。
お母さんが、ベッドの主に明るく声をかける、その声を子守唄代わりにして。
「ンアー」
「なんだ、間抜けな声を出して。おい、陳寿。大丈夫か?」
白い毛皮をゆさゆさと揺らされて、陳寿犬は目を覚ました。
気付くと、部屋にいた姉と、自分とともにこの家でお世話になっている羅貫中犬が、めずらしく心配そうにこちらを覗き込んでいるのであった…
「俺様、生きてる…?」
思わず漏らした言葉に、羅貫中犬と姉は、気味悪そうに顔を見合わせる。
「あんた、最近似たような悪夢を見るって言っていたわよね? またそれ?」
と、流れるような長い毛が自慢のシェットランドシープドックの、羅貫中犬は言った。
見るたびに、時代をはるかに超越したベストセラー作家に、ジェラシーをめらめらと燃やしていた陳寿犬であるが、いまはその小憎らしい姿もなつかしい。
「おまえらも元気か! でもって、ここは仙台のオレ様の家? ぜーんぶ夢だったの?
ハラショー! ラビュー、人生!」
「あんた、精神鑑定が必要そうだな」
姉の言葉に、的確に羅貫中犬が言う。
「犬向けの心療内科ってあったかしら」
いつもならば、ふざけるナー! と文字通り噛み付く陳寿犬であったが、あの悪夢…よりによって、誰より敬愛する諸葛孔明が、どこのだれだかわからないけれど、美少女と剣戟を派手にやりあった末に、ハタで見ていた陳寿犬をクラゲみたいに感電死させる…を見たあとでは、なにもかもが喜ばしい。
「はあ、生きててよかった。いくら夢でもあんな丞相さまは願い下げだ。丞相さまが、あんな恐ろしい振る舞いをするわけがないのに、俺様のバカバカ! お許しください、丞相さまー!」
最後の一声は遠吠えとなって、部屋いっぱいに響き渡る。途端、階下より、お母さんの叱る声が飛んできた。
「お姉ちゃん! 陳ちゃんをおとなしくさせなさい!」
「このバカタレ!」
姉は母親の命令をすぐさま実行した。
ごつり、と鈍い音とともに、陳寿犬の脳天に姉のゲンコツが落ちてくる。
「まったく、お母さんのパートの手伝いをして珍しく偉い犬だと思ったのに」
姉のゲンコツが落ちたところを器用に前足でさすりつつ、陳寿犬は唸った。
そして、おや? と思った。
前にもこんなやりとりをしたような?
「あのさ、『仙台ゴールデンポークス』のPRチラシを配ったの、今日だったっけ? 昨日の話じゃないの?」
と、陳寿犬が姉と羅貫中に言うと、彼女らは、呆れたように答えた。
「あんた、自分の行動まで忘れてるのか?」
「最近、ボケが進行しているんじゃなくて?
今年は暖冬だけど、やっぱ寒いことは寒いね、なんて言って、鼻水たらしながら帰ってきて、そのまますぐに寝ちゃったんじゃないの」
「そうだったっけ?」
「そうよ。本当に大丈夫なの? アタシの名前、言って御覧なさい」
「ふざけるナー! 羅貫中だろうが」
「ちがうわよ」
「ええ?」
「おい、羅貫中、陳寿犬をからかうな。ぶるぶる震えているじゃないか。動物は保険が利かないから、なるべく病院の世話にならない方向で喧嘩してくれ」
姉の言葉に、羅貫中犬はふうっ、とため息をつく。
「世知辛い世の中だこと。病院へ行くのにも遠慮しぃしぃ、だものねぇ」
羅貫中犬の愚痴をうわの空で聞きながら、陳寿犬は、徐々に上がってくる心拍数を感じていた。
あの悪夢では、やはりこんな、呑気ないつもの会話をしていた。
そうして、そこへ、例によって例のごとく、弟が泣きながら、どたどたと階段を駆け上ってくるのだ。
「ねえちゃーん!」
「マジで来やがった!」
陳寿犬のつぶやきをよそに、姉はいつもの如くの対応をする。
いや、夢とまったく同じ対応を。
「まーた、いじめられたのか」
「助けてよ。明日までに学校のお化けを見つけられなくちゃ、明日の給食で酢豚を山盛りにしてやるっていうんだ」
「食べればいいじゃないの、育ち盛り」
「ぼくは酢豚が嫌いなんだよ!」
「好き嫌いしているから、いつまでも『先頭さんは手を腰に』から抜け出せないのよ。アンタ、フラレた原因もそれだ、って言って、悩んでいたじゃない」
おや、と陳寿犬は思った。
夢では、弟をたしなめるのは自分の役目であった。それをいまは、羅貫中犬がやっている。
「給食の酢豚だけはイヤだよ。だってパイナップルが入っているんだよ!」
「うーむ、たしかに給食の酢豚はあたしも苦手だった。で、そのお化けとやらはなんなんだ?」
「うわー、姉ちゃんがジャンヌ・ダルクに見えてきた! 知らない? いま小学校で、お化けが出るって有名なんだ」
「知らないな」
「いじめられて意識不明の重体になった男子高校生の生霊が、夜な夜な小学校に出るっていう噂なんだ」
「いじめ? なんだって、高校生の霊が小学校に? それにおまえのところの学校はすこしも荒れてないじゃないか」
「いじめられるようになった小学校からやり直したくて、小学校に高校生の霊が出てくるんだって」
「ふぅん。で、そいつを捕まえるっていうのか? ゴーストバスターズに依頼した方がいいような気がするが」
「捕まえるのなんかムリだよ。デジカメにそいつの写真を収めてくればいいんだ」
「まったく、おまえをいじめている奴は妙なところで細かいな。仕方ない、そこの二匹、小学校に行くぞ」
言いつつ、姉は椅子にかけてあった自分のジャンパーを手に取る。
マズイマズイマズイ。
陳寿犬の脳裏には、小学校の廊下で奇妙な剣戟に巻き込まれ、自身が黒こげになったおそろしい記憶が脳裏にある。
ハイ、行きましょう、と素直に言えるわけが無い。
一方で、羅貫中犬は、自分専用のハート型のクッションから、ぱっ、と立ち上がり、陳寿犬に言う。
「仕方がない、付いていきましょう」
「ええ? なんで今回はそんなに行く気満々なワケ?
前回は『暗くなっているから危ないわー』とか言っていたのに!」
「前回ってなによ? たしかにもう暗くなっているからこそ、あたしたちが付いていかないと駄目じゃないの。知っているでしょう? 最近、少年ばかりを狙った連続殺人魔が出ているのよ」
その言葉を受けて、姉が言う。
「そのとおり、あたしらだけでは、夕方の外出は心もとない」
『こいつら、グル?』
猜疑心のつよい陳寿犬は、この状況が、誰かによって仕組まれたような気がしてならない。
ともかく、小学校は危険だ。
なんとか留守番の方向に持っていこうと思案していると、コートを羽織った姉が言った。
「ほら、早くしろ。おまえらでも、いないよりはマシだ。陳寿は見た目だけは恐ろしげだからな、それに、どちらにしろ学校でお化けを見つけられなければ、こいつがいじめられるのは確実なんだ。さあ、早いところ学校へ行って、ちゃっちゃとお化けを撮影しに行くぞ」
「いやだ、留守番する!」
「なによ、こういうときに役に立ってこそ番犬でしょ? 本当はお化けが怖いんでしょう? あたしたちだって似たようなものじゃない」
「怖いんだよ」
夢でいまと同じ状況を見た、といって信じてもらえないだろうことは、陳寿犬は判っていた。
とはいえ、たしかにこのところの仙台は物騒なのだ。
『仙台ゴールデンポークス』の連敗が原因かどうかは不明であるが、件の少年連続失踪殺害事件といい、銀杏並木への悪質ないたずらといい、大都市の割には大きな事件の起こりづらい仙台には、めずらしくいろんな事件がたてつづけに起こっている。
「ほら、いーから来る! さすがにあたしもこいつとふたりで学校へ行くのは怖いんだ。もし来なかったら、明日からおやつなし」
おやつ、の三文字に、陳寿犬の恐怖はやわらいだ。
この場合のおやつとは煮干のことだ。
『うむぅ。あれがただの夢だった場合、俺様は羅貫中がおやつを食べているその横で、おやつを我慢しなければならないのか。それはイヤダ』
なんだかんだと食欲に負けるところが、やはり犬である。
そうして、しぶしぶと姉に従うことになった。
さて、弟の通うK杉山小学校は、鞘におさめた短刀を地面に突き刺したような巨大ビル・NTTドコモ東北のすぐ側にあった。
脇には愛宕上杉通りが走り、帰宅ラッシュのためか、交通量も多い。
歩道には等間隔に銀杏が植えられており、その下の歩道は、贅沢に広い。
道路を挟んですこし行くと、NHK東北があり、NTTドコモ東北の正面の道を西へ行くと、すぐに県庁と区役所にあたる。
その先に広がる街が木町通りといい、官公庁の職員めあての定食屋や、クリーニング店、ちいさな本屋などが集まっている。
しかし、官公庁目当てというだけあって、商店の閉店時間も公務員に合わせたものとなっており、七時ごろには飲食店とコンビニ以外は、すべてシャッターを下ろしてしまう。
黄色に色づいた公孫樹の街路樹の下を、テッテケ歩きつつ、姉弟と二匹は小学校にやってきた。
『ああ、来てしまった』
西に向かって長く伸びている三階建ての校舎を見るにつけ、陳寿犬は、はげしく後悔しはじめていた。
校庭の奥まったところにある体育館ではまだミニバスケットチームが練習をしているらしく、ダムダムとボールが地面を打つ音と、掛け声が聞こえてくる。
それを見て、一行はすこしほっとした。
『うむ。わざと騒いで、学校の人間に追い出してもらう、というのも手だな』
陳寿はおのれの策に、にやりと笑うと、短い四肢を踏ん張って、高らかに吠え立てた。
「BOWBOWBOWBOW!」
「このバカタレ! なんだ、急に!」
姉のゲンコツが頭頂部に炸裂するが、命のほうが大切、とばかりに陳寿犬は吠え続けた。
が、期待していたとおりに職員室の窓は開かず、体育館から、だれかが出てくるということもなかった。
陳寿犬の鳴き声は野太いので、一区画全部に届くほどなのであるが、最近の、全国で多発する学校を狙った犯罪を防ぐため、K杉山小学校の窓は防寒もかねて、二重サッシに替わったばかりであったのだ。
体育館に陳寿犬の声が届かないのは、もちろん、練習に部員たちが熱中しているからである。
「どうにも様子がおかしいわねぇ。ねえ、この人、連れて行かないほうがいいわよ」
羅貫中犬の言葉に、陳寿犬は、ラッキーとばかりに太い尻尾をぶんぶんと振ったが、次に返ってきたのは無情な言葉であった。
「でも、このまま放っておいたら、保健所に連れて行かれちゃうよ」
「仕方ない。弟、リードを用意しろ。陳寿犬、うちらが戻ってくるまで鉄棒に繋いでおくから、大人しくしているんだぞ」
「へ?」
ぽかんとする陳寿犬の緑色の首輪をぐい、と掴み、弟は、手にしていたリードで繋いで、さらにぐるぐると鉄棒の支柱にリードを巻いた。
「なにこれ! これじゃ逃げられないよ!」
抗議する陳寿犬に、姉弟+一匹は、怪訝そうに顔をしかめる。
「逃げるって、だれからさ」
ふと陳寿犬の脳裏に、正気を疑われてもいいから、いっそ夢の話をしてみるべきでは、という考えが浮かんだが、しかしどこからどう説明してよいのかわからず、言葉は、咽喉のあたりで詰まって、出てこないのであった。
「大人しくするから、自由をプリーズ!」
「ダメ。アンタのためでもあるんだぞ。このところ、警察のパトロールが強化されているから、犬が一匹ウロウロしてたら、すぐに捕まって保健所行き。その年で臭い飯を食べるのは嫌だろうが」
「それも嫌だけど」
感電死はもっと嫌、と続けるより先に、無情にも姉弟+一匹は、さっさと校舎の中へ入っていく。
陳寿犬は力任せに、つながれたリードを引っ張ってみるのであるが、実は意外に器用な弟は、生半可には解けないように、きつく支柱にリードを巻いており、びくともしない。
引っ張ると、ぐっと首輪が咽喉元に食い込んでくる。
「うむぅ、これでは俺様の首がイカレる」
そうして、ちらりと校舎のほうを見る。
特に、校舎の廊下を…
孔明と、あの謎の美少女が、どこから現れたのかは、わからない。
しかし、彼らが現れたときは、太陽が落ちてきた、というくらいにすさまじい閃光が走った。
もしかしたら…と、廊下をじっと見つめるのであるが、蛍光灯が瞬いているばかりで、何も変化はない。
やっぱり夢だったのか、と安堵していると、ふと、全身の毛が逆立つような、あの独特の感覚に襲われた。
校庭の砂を掴む手足が震えている。
陳寿犬がもし人間であったならば、全身に冷や汗をかいていただろう。
がくがくと手足を震わせ、まるで操られるかのようにそっと振り返る。
「な」
と、第一声はそれであった。
校庭に植えられたマロニエの木の下に、なにかが蹲っている。
最初は、黒いアメーバのような塊であったそれは、陳寿犬がじっと見つめれば見つめるほどに形を明確にし、やがて、ひとりの人間の形となった。
陳寿犬は、ぽかんと、徐々に人の形をとる影を見つめていた。
実際、見つめていることしかできない。
なにせ鉄棒に繋がれている状態なのである。
あっけに取られていると、やがて人が、かなり大柄の男であることが知れた。そして、蹲っている。
靄が晴れるようにして男の輪郭が明確になるにつれ、陳寿犬は、その男が、鎧姿であることに気づいた。
そして、手負いである。片腕を抑えるようにしながら、うずくまり、校庭の砂地にぽたぽたと血を垂らす。
人の良い、そして実際家の陳寿犬は、とたんに吠え立てた。
男を警戒したからではない。救急車を呼ばねば、と思ったのである。もちろん、犬である陳寿犬は携帯電話を持っていないので、こうして騒いで、だれかに気づいてもらおうとしているのだ。
「BOWBOWBOWBOW!」
しかし、体育館にしても、まだ明かりの点いている職員室についても、反応がまるでないのは前回と変わらず、陳寿犬はじれったさに、砂をがりがり削った。
「あー、もう、これだからイヤだ、都会の無関心!」
そうして、現出したももの、身動きの取れない男に向かって、声をかける。
「申し、そこのお方、大丈夫でございますか!」
いかなる魔法の作用か、陳寿犬の言葉は、姉と弟にしか人語として伝わらない。
たとえ陳寿犬がほかの人間に話しかけたとしても、それは単なる犬の吠え声に聞こえたことだろう。
陳寿犬の頭に響く低音が、耳に障ったのか、男はゆっくりと顔を上げた。
そして、目の前にいる陳寿犬を見る。
「白い、犬…」
「おお、意識はある様子。しっかりしなされ、いま人を呼びますゆえ!」
おどろいたことに、その男は、はっきりとこう答えた。
「かたじけない。どうも思った以上に深手のようだ」
「貴方様は、私めの声が聞こえますのか?」
男は、傷の痛みに耐えながらも、口はしに渋い笑みを浮かべつつ、答える。
「おかしなものだな、以前の俺ならば、犬が人のように口を聞けば、このように平静ではいられなかったであろうに、いまでは、何が起こっても不思議に思わぬ」
それは陳寿犬も同じであった。
どうも何度も午睡をくりかえし、目が覚めるたびに、不可思議な現象に巻き込まれているような記憶がある。
「ここは仙台という土地でよいのか」
男が尋ねてきたので、陳寿犬は頷いた。
「左様、ここは日本国宮城県仙台市青葉区のK杉山小学校でございます。申し遅れしました、わたくしの名は陳寿。いまは犬の身ではございますが、以前は人として、歴史家のはしくれをしておりました」
「歴史家が犬に…不思議なこともあるものだ。俺の名は趙子龍。もしかしたら、名前だけは知っているかもしれんが」
「ちょ?!」
陳寿犬はおどろきのあまり、長い舌をべろりと出してしまった。
「趙子龍とおっしゃられますと、蜀漢帝國の将軍であらせます、趙子龍さまなのでございますか?」
「いかにも。俺を知っているのならば、話は早い。ここに、諸葛孔明はこなかったか」
「しょ?!」
その名を聞いた途端、陳寿犬は心臓を凍りつかせ、四肢をがくがくと震わせた。
以前はその名を聞けば、慕わしさがあふれんばかりであったのだが、やはり、一度、恐ろしい目に遭ってしまったがために(夢かもしれないのだが)陳寿犬も変わってしまったのだった。
陳寿犬のその様子を見て、趙雲のほうは、とたん、猛禽類のような鋭い目で、出来損ないの張子の犬のようになっている陳寿犬をねめつける。
「お前、何か知っておるな」
陳寿犬の太い尻尾は垂れ下がり、全身の白い毛はすべて逆立っている。
趙雲に問われても、なにも答えることができないでいる。
陳寿犬は人であったころ、母親におんぶをされて、いま中原へ出でて漢賊を討たんとする蜀漢の行軍を見物に行ったことがある。
陳寿の父親も、そのとき馬謖の配下に加わっていたので、その見送りも兼ねていたのだ。
そのとき、遠目で見たのが、白馬にまたがった趙子龍だった。
老いたとはいえ、ほかの武将とはちがい、一際だった威厳と輝かんばかりの勇壮さは、衆目をあつめ、もっとも大きな喝采をさらっていた。
陳寿の母は、その姿をみて、幼子であった陳寿に、こう言ったものである。
「趙将軍のような強いお味方がいらっしゃるのだから、父上は必ず帰ってきますよ」
おそらく、それは己に言い聞かせるものであったのだろうと、犬の身に転生した陳寿犬は感慨深く思う。
それはともかく…
「い、命ばかりはお助けを!」
大好きな母との思い出を、甘酸っぱく思い出している場合ではない。
陳寿は自分を鉄棒に繋ぎとめるリードを、なんとかして千切ろうと、ぐいぐいと首輪を引っ張り、暴れるのであるが、鉄棒の鉄たるゆえんで、火事場のバカ力を以てしても、どうにもならない。
「命を助けろ、とはどういうことだ?」
趙雲は立ち上がろうとするが、肩に負った傷の痛みに、顔をしかめ、膝を崩す。
自分で史書に書いておきながらなんであるが、なるへそ、たしかに伝聞どおりの眉目秀麗な男だなぁ、などと、震えつつも、頭の隅で陳寿犬は考える。
現れた姿は、陳寿の知る「老将」ではなく、三十前後の青年の姿である。
凛々しい顔立ちに甘さはなく、かといって粗暴ではない。
内面の精神の凛とした部分が、そのまま形になったような、見ているだけでこちらの気分も引き締まるような青年である。
この生ぬるい現代にあって、心栄えの深さや潔さが、こうも際立って外見にあらわれている人物には、めったにお目にかかれない。
蜀漢の家臣の著述については、己が蜀の出身であるだけに、人聞きや己の記憶に負うところが大きいのであるが、あまたいる武将の中でも、特に評判の良かったのが、趙子龍であった。
存命中は、さほど話題にならなかった人物であるが、いざ亡くなってみると、やはりすごい人だったのだ、ということが、あとになってじわじわと感じられる、というタイプであったのだ。
それゆえに、真偽の程がよくわからない伝説の類いも発生するのが早く、仕方なく、陳寿はその著述を抑えるしかなかったのであるが……もっとも、後世になって、陳寿の切り捨てた真偽の程のわからない噂は、別の歴史家が採用し、それをさらに羅貫中が採用し、現在の趙子龍という人物の印象が出来上がったのであるが…
趙雲は、己の傷を庇いながらも、陳寿犬に重ねて尋ねる。
「お前は、諸葛孔明に会った。そうだな?」
「黒こげばかりはご勘弁を!」
「黒こげ…まさか、あの莫迦、聖剣を抜いたのか? そうなのか、ケルベロス!」
「またケルベロス!」
「日本の仙台という土地にいる、不恰好な人語をしゃべる白い犬。そんな奇妙な生き物が世に二匹といるはずがない。おまえがケルベロスなのだ、白を切ってもムダであるぞ」
お白洲に引き立てられた罪人の気分になったが、陳寿犬は、ぶんぶんと首を左右に振った。
「ですから、私は陳寿と申しまして、ケルベロス、などという洋名は持っておりませぬ」
それを聞くや、趙雲は痛みに耐えながらも、懐から短剣を取り出した。
そうして、傷を庇っている手とは逆の、体を支えるために地面についていた手に持ちかえ、ぴた、と陳寿犬に照準を当てる。
「俺の名を知るということは、それなりに俺の経歴も知っているということだな。
いかに手負いとはいえ、これだけの距離だ。これをお前の脳天に突き刺すことなど、たやすいことだというのはわかるな?」
それを聞き、陳寿は恐怖よりも、悲しさが上回った。
「一体、私めがなにをしたと申されるのでしょうか!
蜀が滅んだあと、それでも蜀の偉大なる英雄たちの事績を後世に残さんがため、晋国の検閲を誤魔化し誤魔化し、なんとか蜀の素晴らしさを伝えようと努力した私に、その仕打ちはあんまりでございます! 先ほどは夢かと思いましたが、この状態も夢ではないというのならば、やはり現実であったというのか。
嗚呼、天よ、先ほどは丞相さまに命を狙われ、此度は趙将軍に刃で持って脅される。これが私めに負わされた運命だというのならば、甘んじてお受けいたしましょう。だけど理由をプリーズ!」
すると、趙雲の顔色が変わる。
「丞相に命を狙われた、だと? やはり奴は、先に着いていたか! 一人だったか?」
「お一人でございました。しかし、私めを狙われる丞相さまの前に、見知らぬ金髪の美少女が現れて…」
かくかくしかじか、と陳寿犬は、はらはらと涙を流しつつ、夢とばかり思っていた、先ほどの恐ろしい出来事を説明した。
陳寿犬がすべてを話し終わると、趙雲は言った。
「陳寿とやら、今日は何日だ?」
「今日は2004年12月4日の日曜日でございます」
それを聞くと、痛みにしかめられていた趙雲の顔に、明るさが宿った。
「そうか。ここは過去か」
へ? と陳寿は涙にぬれた顔を上げる。
一千八百年の過去に生きた人物が、二十一世紀の今日を過去という。
奇妙なことであると首をかしげていると、趙雲は、ふたたび眦を強くして、手にした短剣を、陳寿めがけて投げつけた。
「嗚呼、虎威将軍、おさらばでございます!」
ぎゅっ、と眼をつぶり、衝撃にそなえた陳寿であるが、恐れていた痛みは訪れない。
むしろ首の辺りがスッキリした気分である。
眼を開けると、鉄棒にがっしり結び付けられていたリードが切れて、その傍らに短剣が落ちていた。
「陳寿よ…いや、ケルベロス、俺の頼みを聞いてはくれぬか」
趙雲がうめくように言うその声に我に返り、陳寿は側に駆け寄る。
間近で見る趙雲の怪我は思った以上のひどさであった。
趙子龍ともあろう男が、いかなる相手によって傷をつけられたのか、左肩の腕の付け根がざっくりと切りつけられ、骨まで見えるほどである。
「虎威将軍! 今すぐ助けをお呼びいたします。それまでどうぞご辛抱を!」
しかし趙雲は静かに首を振り、笑みさえ浮かべて言った。
「虎威将軍とは懐かしき名だな。俺はもうじき消滅する。丞相に会えなかったのは心残りであるが、仕方あるまい。そもそもが間違いであったのだから」
「なにが間違いだと?」
「ケルベロス、ラグナロクを阻止するためには、お前の力が必要なのだ。お前は決して、死んではならぬ。かならず生きて、世界を救うのだ」
「世界!」
いきなり話が大きくなり、陳寿犬は戸惑うばかりである。
そもそも、人であったときも文官であり、筆で天下を動かそうと野心を燃やしたことはあるけれども、執筆活動以外でどこうしたい、と思ったことは一度もない。
「今日は12月4日…ということは、丞相はまだ聖剣を預かったばかりのはず。
そしてレティクルどもに追われている身であるはずだ。急がねばならぬ。青葉城へゆけ!」
「青葉城? 政宗公の彫像のある、展望台のところでございますか?」
「いや、仙台市立博物館だ。そこにいま、丞相がいる」
わけがわからず、陳寿犬はK杉山小学校の校舎を見上げる。
陳寿が先ほど夢で会った孔明は、この校舎に現れた。
「混乱するのも無理はない。一度しか言わぬからよく聞け。
この世界はいま、閉じられた空間になっている。
レティクルどもの陰謀で、日本国宮城県仙台市のみが、ありとあらゆる時間と世界から隔絶され、12月を延々と繰り返しているのだ。その核になっているのが、おまえなのだ。
我らは強い想念によってこの地に呼び出され、レティクルたちと戦いをしている。しかし勝つことはできず、ラグナロクを迎えてしまうのだ」
「ラグナロク…『神々の黄昏』! 虎威将軍、レティクルとは?」
「それを語るには時間がない。陳寿、いますぐ青葉城の仙台市立博物館へ向かうのだ!
早くせねば、丞相がレティクルに取り込まれてしまう」
「なんですと!」
「奴らは聖なる気配に敏感なのだ。いま丞相が手にしている剣こそ、連中が恐れるもの。
世界のメビウス・リング化を発生させている龍を退治することのできる、ドラゴンバスターなのだ。
奴らは丞相を罠にかけ、本来の剣の持ち主であり、味方になるべき御方と対決する。そして死ぬ。それを延々とくりかえしている」
「なんと!」
陳寿犬の脳裏に、孔明と、謎の金髪美少女のやり取りが浮かんだ。
そこに趙雲の情報を当てはめると、孔明はレティクルなる謎の勢力に罠にかけられ、聖剣の本来の持ち主である美少女と戦っていた…途中で陳寿は感電死したので、戦いの結果を知らなかったが、あのあと、孔明は死んだというのか。
ややこしい話に頭を整理していると、不意に天空に電光が閃いた。
いや、そうではない。光っているのは校舎の廊下。
陳寿は、またも全身の毛をぞくりと震わせた。
孔明が現れたのだ。
しかし、校舎内には姉弟と、羅貫中もいる。彼らは大丈夫なのか?
「いかん、またもラグナロクが始まる! 急げ、陳寿。丞相の狙いはおまえ一人なのだ。早く青葉城へ!」
「しかし、貴方様は?」
「俺のことはよい。どちらにしろ、お前がここに残ったところで、またおなじことをくりかえすだけだ! お前がまこと蜀の遺臣であるならば、俺の命令を聞くがよい!早く行くのだ!」
「是! 虎威将軍!」
趙雲の声に弾かれるようにして、陳寿犬は校庭の砂をけり、K杉山小学校を飛び出すと、愛宕上杉通りを南へ、青葉城へと走り出した。
このつづきは「牛タンの章2」となります