ずんだの章
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どんなに雲雀が高らかに鳴く晴天であろうと、
風が轟々とうなり、街路樹の色とりどりの葉を魔法のように吹き飛ばす日であろうと、
宙天に流星の降り注ぐ神秘的な夜であろうと、
その部屋のカーテンが開かれることはない。

窓際に置かれたパイプベットの上に横たわった人間の寝息と、付けっぱなしのエアコンの音がひびく。
家族のだれもが、かれらが再び陽光をまぶしげに目を細めてみることは無いだろうと、絶望とともに思っている。
怒りは磨耗して、あとは疲れと、やるせなさだけが残っている。
いつ終わるともしれぬ長い日々を、これから希望も持てずに、生きていかねばならないのかと。
奇跡を待つには、かれらはあまりに世間からいじめられ、小突かれすぎた。



 「おい、陳寿。大丈夫か?」
白い毛皮をゆさゆさと揺らされて、陳寿犬犬は目を覚ました。
気付くと、部屋にいた姉と、自分とともにこの家でお世話になっている羅貫中犬が、めずらしく心配そうにこちらを覗き込んでいるのであった。
 「あんた、最近うなされているわよ」
と、流れるような長い毛が自慢の、シェットランドシープドックの羅貫中は言った。
それに対し、ごわごわの白い剛毛の陳寿犬は答える。
 「なんか最近、似たような夢ばっかり見るんだよなー。しかも見たあと、すっごく気分が悪くなるやつ。せめて丞相さまの夢でもることができたなら。夢でむぉし、あえーたらー♪ 丞相さまー!」
 最後の一声は遠吠えとなって、部屋いっぱいに響き渡る。
途端、階下より、お母さんの叱る声が飛んできた。
 「お姉ちゃん! 陳ちゃんをおとなしくさせなさい! ご近所迷惑でしょ!」
 「このバカタレ!」
姉は母親の命令をすぐさま実行した。
ごつり、と鈍い音とともに、陳寿犬の脳天に姉のゲンコツが落ちてくる。
 「まったく、お母さんのパートの手伝いをして、珍しく偉い犬だと思ったのに」
 愚痴る姉の声を頭上にして、ゲンコツが落ちたところを器用に前足でさすりつつ、陳寿犬は唸った。

陳寿犬。これは、なぜだか仙台の某サラリーマン家庭(父・母・姉・弟の四人家族)に、突如としてあらわれた、英霊(自称)陳寿の魂が犬の体に宿ったものである。
陳寿、字を承祚(しょうそ)。
三国時代の末期に、蜀の士大夫の家庭に生を受け、文筆家としておおいに鳴らしたあと、後世に長く影響を与えることになる『三国志』を遺した。
それがなんだって、まったく関係のなさそうな宮城県仙台市に、犬の姿をして、留まっているのか。実は本人もよくわからない。
ともかく、陳寿犬は、仙台にいるのであった。

さて、お母さんのパート、とは、このたび仙台に本拠地を置いて、今シーズンより野球界に新規参入した「仙台ゴールデンポークス」のPRチラシを仙台駅で配る、河北新報の仕事である。
もっとも、そんな活動をいまさらしなくても、仙台ゴールデンポークス…略して仙台GPはサッカーの仙台ベガルタと人気を二分するほどの人気なのだが。
陳寿犬は、この仕事の手伝いが好きであった。
河北新報のパーカーを着たお母さんのとなりでおとなしくしているだけで、犬好きが「かわいー」といって撫でてくれるからである。
日ごろは片耳だけが立っていて短足、尻尾だけがキツネのようにでかくて長い不恰好な犬というので、「かわいー」といわれることが無かったのだ。
どうやら仙台駅には、とりあえず犬らしい生き物ならば、なんでも「かわいー」といってくれる善良な市民が多く集まっているらしい。

 「あのさ、仙台の球団って、『ゴールデンポークス』だったっけ? 『東北楽天イーグルス』じゃ?」
と、陳寿犬が姉と羅貫中犬に言うと、彼女らは、呆れたように答えた。
 「楽天って、なにそれ?」
 「ちょっとアナタ、最近、ボケが進行しているんじゃなくて? 仙台GPのオーナー企業はIT企業の『ダ天』じゃない」
 「堕天?」
 「伊達天国。略して『ダ天』。この間、社長のムネさん自ら応援ソングを作詞作曲してみせて、話題になったじゃないの」
 「そうだったっけ?」
 「そうよ。でも仙台GP、弱いわよねぇ。スター選手にも乏しいし。ダルビッシュを取れなかったのは本当にイタイわ」
 羅貫中犬の言葉に、姉も大いに肯いている。

羅貫中は、言わずと知れた、明代に活躍した中国における伝奇小説の大家である。
その代表作は、陳寿の著した正史・三国志をベースにした『三国志演義』。
これまた、なにゆえか、時代を超えたライバル(と、勝手に見なされている)陳寿とともに、犬の姿に身をやつし、仙台に暮らしている。
元の名を鈴木ポニーといい、主人の転勤で保健所送りになるところを、羅貫中としての魂を覚醒させて、陳寿犬の家に逃げてきたのだ。

仙台の野球チームが、仙台の期待の星のダルビッシュを、残念ながら逃したことは陳寿犬も記憶しているが、それが『仙台GP』なるチームであったかどうか、陳寿犬には記憶に自信がない。
とはいえ、誇り高い陳寿犬には、そんなこと口が裂けても言えなかったから、黙っていた。
 
 「ねえちゃーん!」
そこへ、例によって例のごとく、泣きながら弟が駆け込んできた。
この平凡な家庭には二人の子供がおり、高校生の長女と、小学生の弟である。
この長女、世界史と小説好きの典型的な文系で、弟のほうは、世に流されやすいいじめられっ子だ。
毎日のように、学校から帰ってくると、姉と犬たちに泣きつくのである。
 「まーたいじめられたのか」
 「助けてよ。明日までに学校のお化けを見つけられなくちゃ、明日の給食で酢豚を山盛りにしてやるっていうんだ」
 「食べればいいじゃないか、育ち盛り」
 「ぼくは酢豚が嫌いなんだよ!」
 「好き嫌いしているから、いつまでも『先頭さんは手を腰に』から抜け出せないんだ」
 「給食の酢豚だけはイヤだよ。だってパイナップルが入っているんだよ!」
 「うーむ、たしかに給食の酢豚はあたしも苦手だった。で、そのお化けとやらはなんなんだ?」
 「うわー、姉ちゃんがジャンヌ・ダルクに見えてきた! 知らない? いま小学校で、お化けが出るって有名なんだ」
 「知らないな」
 「いじめられて、意識不明の重体になった子の生霊が、夜な夜な小学校に出るっていう噂なんだ」
 「いじめ?おまえのところの学校は、すこしも荒れてないじゃないか」
 「生霊の正体は高校生らしいけど、いじめられるようになった小学校からやり直したくて、小学校に出てくるんだって」
 「ふぅん。で、そいつを捕まえるっていうのか? ゴーストバスターズに依頼した方がいいような気がするが」
 「捕まえるのなんかムリだよ。デジカメにそいつの写真を収めてくればいいんだって」
 「まったく、おまえをいじめている奴は、妙なところで細かいな。仕方ない、そこの二匹、小学校に行くぞ」
 言いつつ、姉は椅子にかけてあった自分のジャンパーを手に取る。
羅貫中犬は、自分専用のハート型のクッションの上で、抗議の声をあげた。
 「もう暗くなっているじゃないの。あんまり気が進まないわ。知っているでしょう? 最近、少年ばかりを狙った連続殺人魔が出ているのよ。それに、イチョウ並木を折って遊んでいるなぞの破壊魔も出没しているっていうし、危ないわ」
 「あたしは女だし、こいつを守るのはおまえらがいるから、大丈夫だろう?」
 「あのね…ボケの始まっている老犬と、あたしみたいなか弱い血統書付に戦闘能力を期待しないでほしいわ」
 「ボケ言うな! 子供の一人くらい守ってやるワイ!」
 「陳寿犬は見た目だけは恐ろしげだからな、それに、どちらにしろ学校でお化けを見つけられなければ、こいつがいじめられるのは確実なんだ。さあ、早いところ学校へ行って、ちゃっちゃとお化けを撮影しに行くぞ」
 「そんな簡単に撮影できるものなの? アンビリバボーのスタッフだって難しいんじゃない? 寺尾玲子がいても難しいわよ」
 「いーから来る! さすがにあたしもこいつとふたりで学校へ行くのは怖いんだ。もし来なかったら、明日から、おやつなし」
その言葉に、しぶしぶ二匹は姉に従うことになった。
 


さて、弟の通う仙台市青葉区K山小学校は、アイスキャンデーを逆さに地面に突き刺したような巨大ビル・NTTドコモ東北のすぐそばにあった。
道路を挟んですこし行くと、NHK東北もあって、官公庁へも歩いていける。
 真横には愛宕上杉通りが北へ向かってまっすぐ伸びており、駅から北へ向かう車が絶えないため、夜が更けても往来から人がなくなることはない。
 しかし、官公庁が近いだけあって、商店の閉店時間も公務員に合わせたものとなっており、七時ごろには飲食店とコンビニ以外はすべてシャッターを下ろしてしまう。
 黄色に色づいた公孫樹の街路樹の下を、テッテケ歩きつつ、姉弟と二匹は小学校にやってきた。
体育館ではまだミニバスケットチームが練習をしているらしく、ダムダムとボールが地面を打つ音と、掛け声が聞こえてくる。
それを見て、一行はすこしほっとした。
 「なんだ、まだ人がいるんじゃない」
「これじゃあ、お化けも出てこないのではないか? お化けといえば丑三つ時だろう」
 「ばか陳寿犬。そんな時間に、それこそ家を出られるか。だいたいあたしが寝不足なるだろうが」
 「じゃあ、どうするの?」
羅貫中犬の言葉に、姉は不敵に笑った。
 「どうせ小学生の、くだらんゲームだ。それらしいものが撮れていればいいんだろう?」
 「あ、ヤラセ?」
 「さすがねーちゃん、悪知恵の女王!」
「悪知恵じゃない、要領といってもらおう。さあ、さっさとコトを済ませるぞ」
 姉はそう言うと、勝手知ったる古巣へ入っていく。

職員室にもまだ教員が残っている様子で、声をかけられると面倒なので、一行はこっそりと、来客用玄関を避け、生徒用の玄関から中へと入った。
 陳寿犬は、運動会で校庭まで連れてきてもらったことはあったが、中に入るのは初めてだったので、あちこちきょろきょろ見回した。
廊下にはクラスの習字が貼ってあり、生徒会がパソコンで作った学校ニュースも貼られている。
図画の時間に生徒たちが描いた絵などもあって、陳寿犬はそれらひとつひとつを、好奇心をもってながめた。
 
個性ある子供たちの絵を眺めていると、ふと、場違いなものに目を奪われた。
それは、あきらかに大人の字で、こうあった。
 
『いじめはやめよう!』

 「ハテ?」
 K山小学校というのは落ち着いた小学校で、これまで深刻な問題を一つも起こしたことがない。
陳寿犬の「弟」はたしかにいじめられているが、それもジャイアンが、のび太をいじめる程度のもので、大人が眉をひそめるほどのものではない。
 陳寿犬がなぜ不思議に思ったかというと、ふとお母さんが、こんな話をしていたのを思い出したからであった。

 「今度の校長先生の話、聞いた? 朝礼でね、子供たちに向かって、『いじめを受けている子は、大人に相談するまえに、まず自分でなんとかする努力をしましょう』って言ったらしいのよ。
多分、自立をうながすための言葉だったんでしょうけど、子供たちは、そこまで深読みできないじゃない? だから、自分がいじめられていても、先生たちは助けてくれないんじゃないかって、びっくりしたらしいのよ」

 『いじめがないはずの小学校で、いじめの話題が騒がれる、というのも妙だな』
 そうしてよく見ると、『いじめはやめよう!』の張り紙は、くどいくらいにあちこちに貼られているのである。
普通に、何の予備知識がないままこの小学校を巡察したら、この学校は、いじめ問題で困っているのだろうな、と素直に受け止めたことだろう。
それに、いじめられた子が古巣の小学校に戻ってくる、という怪談といい…
 「ん?」
いつのまにか、陳寿犬は薄暗い小学校の廊下に、一人ぼっちになっていることに気付いた。
ほかの三人は、陳寿犬が張り紙に気を取られているあいだに、どこかに行ってしまったらしい。
 声のひとつもかけてくれればよいのに、と思いつつ、陳寿犬が先を急ごうとすると、不意に、はげしい耳鳴りが襲ってきた。
 
声が聞こえたわけではない。
いや、なんの音もしなかった。

ただ、陳寿犬は本能によってのみ、身体を振り向かせた。
真正面から、それを見よ、と何者かに命じられたように。
そうして、いきなり襲ってきた閃光に、陳寿犬は思わず目をかばった。
はるか頭上高くで輝く天狼星が、地上に降りてきたかのごときまばゆさ。
細目を開けて、その光を見ていると、光の中心から、人間があらわれるのが見えた。

最初は影だけであった。細長い影は、まっすぐにこちらに向かってくる。
やがて、光に目が慣れてくると、陳寿犬は、今度はわが目を疑った。
あまりのことに、声が出ない。
 
影は、やがて全貌をあらわし、無言のまま、陳寿犬の前に歩み立った。
玉のごとき白いなめらかな肌に、身にまとう黒の衣裳がよく映える。
贅沢に刺繍のほどこされた優雅な蜀錦を着こなし、豊かな黒髪を頭上高く纏め上げ、後れ毛が顔にかかる様もなまめかしい。
 陳寿犬は、ただただ、圧倒される。
これほどにまばゆい光輝を放つ人物が、この世にいたのか、と。
黒曜石にも似た神秘的な澄明さをたたえた瞳に、見とれるほどに形のよい鼻梁。
そうして、その下にある、真紅の唇が、動いた。
 
 「そなたが、すべての元凶ケルベロスか」
低めの、しかし耳障りではないやわらかな声が、小学校の廊下にひびく。
 「は?」
 「そなたには罪はない。しかし、消えてもらおう」
 「はい?」
陳寿犬がぽかんとしていると、その者…陳寿犬が、実は幼少のころに遠目でしか見たことのない故国の丞相…諸葛孔明は、さっと手を掲げた。

 その手の有り様に、陳寿犬は愕然と目を奪われた。
掌に、なにやら銀色の金属が、食い込んでいるのだ。
それは巨大な手足を持つ、銀色の蜘蛛が、掌にくっついているようにも見えた。
 「グレゴールの代行として、この世界を復元する。悪く思うな」
 悪くも何も、陳寿犬にはわけがわからない。
返す言葉も見つからず、ただただぼう然としていると、孔明の掲げた手から、なんと竹が生えるようにして、白銀の剣が生えてきたのである。
 陳寿犬は、自分が意識を保っているのが不思議だと思うほどに、混乱していた。
小学校に突然あらわれた諸葛孔明。
そして似合わぬ横文字を並べ立て、世界がどうとか言っている。
さらに、剣を体から生やして、それを自分に向けてきている…!
 「さらばだ」
その声は、ひどく冷たく、無機質に聞こえた。
これが、あこがれつづけた諸葛孔明。
陳寿犬は、おのれの頭上高くにある白銀の剣から目をそらすことができなかった。
これが振り下ろされた瞬間に、無慈悲な死が訪れる。
だが、陳寿犬はそれすら甘受しようと考えた。
月光のような美しい刃。
あこがれ続けたこのひとが、死ねというならば、死ぬしかあるまい。
 
そうして、剣がおのれに向かってくるのをまっすぐ見続けていた陳寿犬であったが、再び、全身の毛という毛が逆立つ感覚に襲われた。

恐怖ではない。
孔明が現れたときは、是が非でもそうせねばならない、強烈な引力をおぼえて振り返った。
今度はそうではない。
陳寿犬は、そよ風にさそわれるようにして、新たに発生した、ふたつめの力のほうに目を動かした。
 
銀色の何かがいる。

そう思った瞬間、銀色の何かはこちらに突進してきて、まさに陳寿犬の首を落とそうとしていた刃を鋭く跳ね返した。
 孔明の舌打ちが、小学校の廊下に響く。
 「あくまで邪魔をする気か! きみは調停者だろう!」
 「そうだ。だから止める!」
それは、凛とした少女の声であった。
驚いて見ると、陳寿犬を庇うようにして、白銀の鎧に身を包んだ、肩の辺りで揃えた金色の髪をした少女が、巨大な黒い剣を手に立っていた。
 またもや陳寿犬ははげしく心を揺さぶられた。
というのも、これほどまでに美しい少女を、いまだかつて見たことがなかったからである。
 まさに一本の高貴な白百合であった。
蒼く澄んだ湖のような瞳に、表情豊かな赤い唇、小柄であるが手足は長く、体つきは少年のように細い。
まだ女性らしさを主張していない肉体は、性の特徴がないがゆえに、かえって神秘的であった。
彼女が動くたびに、その一本一本が光を宿しているような、うつくしい金色の髪が揺れる。
その眼差しは凛として、いかなる悪をも跳ね返す力強さを宿し、引き締まった口元は、強固な意志を宿す女王のそれであった。

孔明が手に宿している白銀の剣が、少女の出現とともに、鈴のように鳴り始めた。
孔明はまた舌打ちし、柳眉をしかめて言う。
 「この剣は、やはり、きみのほうと相性がよいようだな」
 孔明は、少女の手にしている黒い大剣を見た。
それは、ちいさな黒や紫に色を変化させる、ちいさな竜のようにもみえる雲霞を刃に宿しており、こうしている間にも、雲霞は、妖しげに刃の周囲にまとわりついている。
 「そうしてその剣は、おそらくわたしのほうと相性がいい」
 「かもしれない。しかし、聖剣はあなたの手にある。その剣は、選ばれた者以外が手を触れただけで、神の怒りに触れて、その者を滅ぼすほどの力を持っている。そして、選ばれたのはわたしではなく、あなただ」
 「かつて世人に龍と呼ばれたこのわたしが、よりにもよって真正のドラゴンバスターを手にしているというのも、奇妙な話ではないか。この歪んだ世界は冗談がきつすぎる。やはり、壊してしまわねばなるまいよ」
 「壊して、そうしてどうすると? あなたの言っていることは、結局、女王と一緒だ。彼女は、あなたの悲しみや怒りも読み越して、利用しているのだ。気付かないのか?」
 「どうでもいいことだ」
と、孔明は剣を少女に向ける。
 
かまえた、と思った次の瞬間、目の前から孔明の姿が消えた。
いや、消えたのではない。
凄まじい速さで、少女に向かってきたのであった。
少女もまた、呆れるほどの素早さで、雷電の如く襲ってくる刃を跳ね返す。
 陳寿犬は、孔明の剣術の腕に関しては、なにも知らなかったが、まさかこれほど名人級であったなら、世に伝わらないはずはなかろう、と奇異に思った。
まったく使えないことはないだろうが、おそらくその利き腕に食い込んでいるようにみえる、ふしぎな『聖剣』の力により、身体能力も爆発的に上がっている、と見たほうがいい。
 
つぎつぎと打ちかかる孔明の剣…青白い、聖なる光の連弾を、少女は、押されることなく、次々と交わしていく。
孔明が一振りをするたびに、刃から、四方へと光の礫が少女に向かうのであるが、どこにも逃げ場がないとさえ見えるそれを、少女は真正面から堂々とはじいていく。
一見すると、あきらかに孔明のほうが有利に見えるだけに、少女の姿は清清しい。
その姿は悲愴なまでに美しく、なにより気高かった。
少女の剣が、襲い掛かる刃を跳ね返すたびに、言葉にならない彼女の苛立ち、悲しみが伝わるようであった。
この異様な場面において、陳寿犬はそのさまに感動し、震えた。
男であろうと女であろうと、これほど雄弁な剣を振るう人間を、陳寿犬はしらない。

「どうしてわたしの言葉を信じない!」
と、剣戟をつづけつつ、少女が叫んだ。
 「あの人は生きているわ。わたしにはわかる! あなたは、大切な人が死んでしまったから、逆上しているだけ!」
孔明は、少女の叫びに沈黙を守り、ただ黙々と、白銀の刃を繰り出してく。
その典雅で激しい動きは、まるで神聖な舞いを踊っているように見える。
 「わたしはあなたと闘いたくない! お願いだから、わたしを信じて!」
 一瞬、少女の足元がぐらりと揺れた。
孔明の剣戟がはげしいのに加えて、孔明に訴えたことが原因で、力が逸れてしまったのだ。
その隙を、孔明は逃がさない。
目を細め、ぞっとするほどに凶悪な光を双眸に宿し、手にした白銀の刃を、少女に突き立てる。
 
陳寿犬の頭は真っ白になった。
その間のことを、あまりよく記憶していない。

気がつくと、小学校の床を四肢で思い切り、蹴り上げていた。
そうして、いままさに少女の命を奪わんとしている孔明の腕めがけ、その牙をつきたてた。
 「…!」
孔明は片腕に牙を食い込ませた犬を振り払おうと大きく腕を動かした。
陳寿犬の視界には、おどろき、苛立つ孔明の顔が間近に見えた。
その顔は、自国民への慈愛に満ちた宰相のそれではない。
憎しみに満ちた、凶暴な戦士のそれであった。
 「丞相さま!
と、陳寿犬は声にならぬ声で叫んだ。


声はもちろん陳寿犬の胸の中だけに響き、孔明には届かない。
しかし反応をしたのは少女のほうであった。
 「魔剣ノートゥングよ! いまこそその、いにしえの神秘の力を我に解放せよ!」
 少女が叫ぶと、黒い大剣は不気味な火花を刃から放った。
それを見た孔明も、ほぼ同時に叫ぶ。
 「征竜剣よ、世界の意思を示せ! 悪しき兆しより、ラグナロクを阻止せよ!」
 征竜剣。
そう呼ばれた剣はいままでになく凄まじい光を放った。
それは孔明の体を通し、噛み付いている陳寿犬の身にも電光として伝わった。
陳寿犬の白い体を、激しい、焼ききるような痛みが全身を貫く。
体を水揚げされたばかりの魚のように跳ねさせながら、陳寿犬はもがき、そしてとうとう噛んでいられなくなり、そのまま廊下に落ちた。
 
「ケルベロス!」

少女が悲痛な声をあげた。

ケルベロスだって? 地獄の番犬の名前じゃないか。そんなの、おれ様の名前じゃないぞ、趣味悪いなあ…

そう思いながら陳寿犬の意識は遠のいていった。
死は二度目なので、どんなものか判っている。
どんどん自分の中から、エネルギーが失せていくのがわかる。それを止める手立てがない。
どこかで、ゴーンゴーン…とモーターのうなり声が聞こえた。
失われた視界に、なぜだかはっきりと、パイプベットと、閉じられたまま、開かれることのないカーテンが見えた。
そうして、陳寿犬はぼんやり思った。
 
ああ、世界はこれで終わるのだな、と。



 「なんてことなの…!」
少女は、黒焦げになった犬の死体を見て、悲痛な声をあげた。
その間も、無慈悲に、星が落ちてきたような、青白い巨大な光が容赦なくやってくる。
だが少女は、怖じることなく、それを敢然とねめつけると、黒い大剣を堂々と構えた。
そうして、むしろみずから飛び込むようにして、光を受け止める。
すると、黒い大剣は、まるで少女の意思に呼応するかのように、光を真っ二つに切り裂いていった。
ぎい…、と耳を劈くような音が響く。
まさに、聖剣が、身をふたつに裂かれて、悲鳴をあげているのだ。
光の洪水をすべて己の刃で薙ぎ払い、そうして真っすぐに向かっていくと、剣の持ち主の姿がそこにあった。
少女はためらうことなく、心強い味方になるはずであった者を、力いっぱい切り伏せた。
ざくり、と鈍い感触と、生身の感覚が、刃を通して感じられた。
 
「ラグナロク…」

黒焦げになった犬の死体の横に添うようにして、孔明の体は倒れた。
少女がほっとしたことには、その顔には、苦悶の表情がなかった。
あきらかに、孔明は安堵していた。
まだ意識がはっきりしているらしく、鮮血を口から吹き出しながらも、搾り出すようにして言葉をかけてくる。
 「ラ・ピュセル…」
 「まだ、わたしがわかる?」
 「見えるとも。聖処女よ…だが、やはりわたしは理解できない…たとえどんな未来が待っていようと、その先の絶望への戦いは、おなじく未来の人間に託すべきだ。
われわれがそれに立ち向かったところで、それが世界の在りように対する冒涜になると知っていながら、なぜきみは、絶望に向かって走っていく?」
 「この先にあるものが、絶望だなんて、だれが決めたの?」
 「愚かしい罪を土台に、栄光が築かれるのはどの時代でも同じこと。
この東の島国から始まる救済は、やがてこの星のすべてを救う基礎となる。
きみは救済を滅ぼす元凶を守るといい、わたしはそれを破壊し、黄昏を阻止しようとした」
 「ちがう。わたしも黄昏なぞ望んでいない。なぜわたしを信じなかった、泰斗の龍。
世界を変えるものは、いつだって人の想い。信じる心だけ。それはあなたとわたしが、実際に人の歴史に刻み込んだ事実ではないの」

 「このかりそめの世界を守るというのか」
 「いいえ、それも違う。あなたは世界を創っていたケルベロスを殺してしまった。これこそがラグナロクなのよ。わたしは、すこしでも黄昏がマシになるように、働くだけ」
 「わたしは間違っていた…?」
孔明の問いには、力がない。
乙女は、血の気の失せていくその手に、おのれの手を重ねた。
 「いいえ、あなたもわたしも間違っていない」
  孔明は、乙女の言葉にわずかに笑みらしきものを浮かべた。

さようなら、と、乙女がつぶやくと同時に、孔明の目は閉じられた。
偉大な東方の龍は、自らの存在の滅亡を受け容れたのであった。

 とたん、廊下に高らかな哄笑がひびいた。
少女は振り返らなかった。
だれがそこにいるのか、わかっていたからだ。
そいつはずっと、最初からこうして、世界の調停者たる少女を観察していた。
 「さあ、未来は守られた。ラグナロクは起こらない!」
 そいつは、嬉しそうに笑いながら、少女の前に姿を現した。
少女は、身構えるでもなく、堂々と背筋を伸ばし、そいつを迎える。
少女の頭のどこかに、そいつに対する敬意もあった。
そいつは、『かれら』がすべての尊厳をかけて産出したものであった。
その存在を否定する気にはなれなかった。かれらとて必死なのだ。
そいつは、肌も目も髪も、爪の先にいたるまで、すべてが銀色に輝いていた。
けして色あせることのない、不滅の金属で構成されている体は、老いや傷などとはまったく無縁である。

 「いいえ、女王。ラグナロクはもう始まっている。あなたはケルベロスに力を与えながら、最期は見捨てた」
 「あたりまえじゃないの。もう用済みですもの」
と、銀の女王は無造作に、黒焦げの犬の死体を、その銀色の靴で蹴ろうとする。
少女は、無造作にそのつま先に、ノートゥングの刃を突き立てた。
刃はぎりぎり、靴を掠めた。
 「わたしをあまり怒らせるな、女王。これほどまでにはげしい怒りにとらわれたことはない。
おまえが…おまえたちが望む未来は、もう失われてしまったのだ」
 「馬鹿なことを。わたしは成功した。そこの逆上した中国人がうまくケルベロスを始末してくれた。
ラグナロクのきっかけを生む存在はすべて消えてしまったのよ」
 「ケルベロスは死んでない」
少女の言葉に、女王は目を見開いた。
 「なんですって?」
 「このわたしが、おまえ如きから、一つの魂を守りきれないとでも思ったか。女王よ、おまえは滅びに向かうすべての可能性を葬り去ったと思っただろう。
だが、逆だ。おまえは滅びを回避する可能性を葬ったのだ」
「そんなはずないわ! わたしの行動は、完璧に計算されて出来上がったものよ!」
女王のヒステリックな叫びが、小学校の廊下に響き渡る。 
対する乙女は、すこしも動じず、廊下に突き立てたノートゥングを引き抜いた。
 「生き物ではないおまえには、けしてわからないだろう。この世の中は、言葉で説明できるものだけで形成されているのではない」
と、少女は言うと、身をかがめ、横たわる犬の死体を抱き上げた。
かつて歴史家・陳寿犬の魂を宿していた雑種の犬は、黒焦げの無残な姿をそこにさらしている。
 「生命を育むのは、いつだって女の役目と決まっている。だからおまえにも、『女王』としての姿が与えられたのだ。だが、おまえは、『女』という器の宿命に逆らい、世界を壊そうとした。反逆する者よ、わたしは予言する。おまえは世界に復讐されるだろう」
 「なにを愚かな。わたしはおまえ。忘れたの?」
 「忘れてはいない」
銀の女王は、なにかを口にしようとしたが、果たせなかった。
その咽喉元が、切り裂かれていたのである。
蛍光灯に光る、大きな鎌であった。
それが、ほんの一瞬で、背後から、女王の咽喉下を真横に裂いたのだ。

莫迦な、と女王は言おうとした。
莫迦な、こんなことをしたら。

 「わたしとおまえがいなくなれば、世界はふたたび、始めからやり直しを余儀なくされる」
廊下に崩れ落ちる女王を、冷徹に見下ろしつつ、少女は言う。
 「そしてまた生みなおす。それがわたしの役目」
女王の体は、銀色のスープのようにどんどん溶けていく。
蛍光灯の光を浴びつつ、ビニールの廊下の上で、銀の女王は、あっけない最期を遂げた。

鎌を持った男は、ノートゥングを片手に立つ少女に、言った。
 「ほんとうに、いいのかい?」
 「いいわ」
間髪おかずに少女は言った。
その腕には、息絶えた陳寿犬。足元には孔明が横たわっている。
まっすぐ男を見据える目には、迷いがない。
 「君のために祈ろう。神よ、彼女の苦しみが、少しでも柔らかいものでありますように…アーメン」
少女は、目を逸らさず、振り下ろされる鎌を見つめていた。
死が二人を別つまで。
そんな文句が過ったが、それも一瞬のこと。

そして、世界は崩壊をはじめた。

このつづきは「牛タンの章1」となります

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