山びこの峠

後編

しばらく、二人して、沈黙のまま、山をのぼった。
のぼっていくうちに、孔明は、あまりに突っ込んだ質問をしてしまった、無粋であったなと後悔していた。
先行する趙雲の顔は、徐々に翳る日によって、見えづらくなっており、何を考えているのかは、気配で感じ取るしかない。
「さっき、あんたがした質問だが」
と、しばらくして、趙雲のほうが口をひらいた。
さて、どの質問だろうと孔明が思案しているあいだ、趙雲はつづける。
「俺が生まれたときから、すでに世は乱れていた。乱れているのがあたりまえの状態だった。
武装して戦い、敵を討たねば、こちらが死ぬ。それはあたりまえのことだろう。
だから、それをなぜとか、どうするべきかとか、考えたことはなかったな」
趙雲はそういうと、孔明が意外に思ったことに、そこでため息をついた。
「つまり俺は、世の中を見ているようで、見ていなかったということになるのかな」
「それは、ちがうのではないかな。そんなふうに言えるということは、自分で気付いていなかっただけで、あなたは世の中をちゃんと見ていたのだよ。
だから、新野でも、だれとでもそつなく付き合えるし、浮き上がることもなかったのだ。わたしはそんなふうにできない」
「意見をいわずに、つまらない男としてすごしていたほうが、たいがいの面倒に巻き込まれなくてすむ。だからそうしていただけだ」
「面倒に巻き込まれたことがあるのか」
「昔な。主公から聞いたことがあるだろうが、俺は昔、公孫サンのところにいた。あそこで踏んだのと同じ轍を踏むのがこわかった」
「たいへんな目に遭ったのだな」
孔明が言うと、趙雲は、ちいさく、そうだな、と言ったきり、押し黙ってしまった。

これは、あまり人に立ち入られたくない部分であるらしい。
そういった機微は、孔明は、徐庶で学んでいたから、あえて不用意なことは口にせず、黙っていた。
やがて、しばらくすると、趙雲のほうが、また、たずねてきた。
「あんた、退屈していないか。俺は口下手だから、あんたのようにうまく話ができない」
「退屈なんて、していないよ。ぜんぜんしていない」
それは本音のところであった。
当初は気乗りでなかったこの小さな旅であるが、趙雲と会話を重ねていくうちに、楽しくなってきたのである。
普段は無口な主騎が、こういうことを考えていたのか、と新しく発見することができて、面白いのだ。
「あなたは口下手じゃないよ。論客として徹底して訓練を受けたわたしが言うのだからまちがいない。自信をもて」
「そうかな」
趙雲にしては、らしくない、ぐずぐずした口調である。孔明はぴんときた。
「ふむ、だれか、あなたのことを口下手と言った者がいるのだな。女だろう」
「……………」
図星であったらしい。

この男が、いわゆる『甘い囁き』とやらで女を口説いているところを、孔明はどうしても想像できなかった。
とことん、生真面目なのである。
本当に真面目にその気持ちに向き合わなければ、対する趙雲も本気にはならない。
まさに真剣勝負。
それでは商売女は疲れてしまうだろうし、ふつうの女でもそうだろう。
よほどの教養をもち、おのれの生き方に哲学をもった女でなければ、趙雲を正面から受け止めるのはむずかしかろう。
でなければ、その真逆、底抜けに陽気で享楽的。しかしそうなると、あまり長続きしそうにないな、とも予測できる。
耳に挟んだ話では、たまに浮いた噂も出てきたようだが、長続きしなかった原因は、そのあたりにあるのかもしれない。
追いかけるかたちとなっているその背中が、見るからに落ち込んできたようだ。

いかん、今度こそ、いかん。
失言だった。

孔明は穴埋めをすべく、つとめてほがらかに、言った。
「あなたが口下手だというのなら、わたしは社交下手なのだが、やはり人とこうして交流する、ということは大切なことなのだな」
追従ではなく、実感して思うことであった。
こうして実際に話をしてみなければ、趙雲が果たして何を考え、こちらをどう受け止めているのか、ここまでつかむことはできなかっただろう。
「いろいろ考えていたら、憂さも晴れたよ、ありがとう」
連れ出してくれた趙雲への、感謝の意味もこめて孔明がいうと、趙雲のほうは、なぜだか怖い顔を向けてくる。
孔明はうろたえた。
「なぜ怒る」
「直言にすぎる。そういうことを言われるのは嫌だ」
今度は、孔明が顔をしかめる番であった。
「でも、わたしは言いたいのだ」
「なぜ。あんたは士大夫にしては、直言が多いな」
「士大夫だろうとなんだろうと、そんなものに構っていられるか。子龍、もしかしたら、突然、虎が襲ってくるかもしれない」
「は?」
「想像したまえ。それはとんでもなく凶悪で巨大な虎で、あなたの武力を持っても、制することができない。足場も悪いしな。
そう、そいつはもしかしたら、この山の神から使わされた虎なのかもしれぬ」
「はあ」
「奮闘努力の甲斐もなく、あなたは虎に倒され、わたしだけが生き残る」
「おい」
「そうして残されたわたしは、泣きながら、こう思うだろう。
『ああ、こんなことになるのであったら、さっき、あなたに、山に連れ出してくれてありがとうと言うべきだった』とな」
「で?」
「だからだ」

「ときどき、あんたと話をしていると、眩暈を感じるのは、これは気のせいか?」
「食べている物に問題があるかもしれないな。医食同源。好き嫌いはいかん」
「俺はなんでも食うほうだが……虎はこのあたりにいない。もっと奥のほうにはいるらしいが、そこには入る予定はない。
虎に会いたければ、ひとりでいけ。さすがにそこまで面倒はみないぞ」
「だから、喩えだ、喩え。わかりにくかったか。じゃあ、熊にしよう。
さらに想像したまえ。それは、そうさな、小山ほどある巨大で凶悪な熊で……」
「どうぶつを変えても同じだ! わかった。つまり、言いたいときに言わないと、あとで後悔するから、だから言うのだと、あんたは言いたいのだな」
「伝わっているじゃないか」
「伝わってはいるが、直言をやめてくれと、俺は言いたかったのだ」
「どうぶつが気に入らないなら、『刺客』に言葉を変えてもいいぞ。途端に、ああ、たしかにそうかもな、と思えてくるぞ。さあ、想像」
「強制するな」
といいつつも、趙雲はしばしの沈黙のあと、答えた。
「そうだな、あんたの言うことも、一理あるかもしれん」
「そうだろう。というわけで、ずいぶん長い話になったが、ありがとう」
「あのな、まだ頂上についていないうちから、礼を言われても困る」
「頂上になにかあるのか? めずらしい岩とか?」
それは明日になればわかる、と言って、趙雲は意味ありげに笑うと、そのまま黙った。

山の中腹に差し掛かったところで日が暮れはじめてきたので、宿をとることになった。
趙雲が言っていたとおり、ほんとうに野宿である。
一張羅が汚れてしまうことを恐れた孔明は、趙雲が、『夕食』をとりにいっているあいだに、広げた粗布のうえに、一張羅をひろげて丁寧に畳むと、こんなこともあろうかと予備で持ってきた、多少汚れてもかまわない、年季のはいったものに着替えた。
そうして、虫が寄ってこないように、南蛮からの商人から買った、とっておきの野営用虫除け香を焚いてみる。
きくのかきかないのか、そのあたりは初挑戦なので、孔明にもわからない。
じき、趙雲が野鳥を何羽か取ってきて、食事の準備がはじまった。


「妙な臭いの香だな。ほんとうに虫が寄ってこないのか?」
と、いかにも疑わしそうにしながら、趙雲がたずねてくる。
孔明としては、おもしろくない。
が、大丈夫だともいいきれないので、
「おそらく平気だ!」
と胸を張ってみた。
「あんた、ときどき変なところで意地を張るな。じゃあ、賭けをするか。
明日の朝までに、俺が虫に三箇所以上食われていなかったら、あんたの勝ち。三箇所以上食われていたら、俺の勝ち」
「よかろう。賭けの賞品はなんだ」
「そうだな、武器の手入れをするための獣の皮が最近足りないから、それを三枚」
「ちょっと待て。それは、あなたには必要かもしれないが、わたしは獣の皮を三枚もらっても使いどころがない。というか、うれしくない」
「どちらにしろ、俺が勝つ賭けだから問題なかろう。どこで買ったのだ、こんなもの」
「あのな、人の物に対して『こんなもの』扱いはひどかろう。南蛮から来た商人が売っていた『妖怪も逃げ出す』というのが売りの『退魔香』だ」
「名前からして怪しい。俺の勝ちだ」
「ふん、明日の朝が楽しみだな。獣の皮は、わたしがもらう。使い道はあとで考える」
「俺は、たぬきを三枚たのむ」
「鼠じゃだめか」
「たぬきだ」

そんな会話をしながら、すっかり暗くなった山の中、火を起こし、野鳥を串刺しにして焼いてみる。
鳥の肉の焼ける香ばしいにおいと、孔明の焚いた虫除けの香の臭いが微妙にまざりあい、山中では、なんともいえない緊迫感がただよった。
「野宿にするんじゃなかったな」
そんなことをぶちぶちと言いつつ、趙雲は、自分がもってきた包みを取り出す。
すると、中から、竹の皮につつまれた大きな握り飯が出てきた。
「いそいで握ってきたものだから、形はわるいが、味はわるくないはずだ。ほら」
といって、趙雲は、孔明に、自身がにぎったという握り飯を差し出してきた。
「ありがとう。いまの口ぶりだと、時間があれば、うまく握れるとでも言いたげだったな」
すると、趙雲は目を細めて言った。
「俺はあんたとちがって、座にすわっていれば自然と膳が出てくるような生活は、あまり送って来なかったのでね。たいがいのことは、ぜんぶ自分でできる」
「わたしとて、握り飯くらいならば、握れるとも。炊いた飯を拳でぎゅっと」
「駄目だ。握り飯のうまさは、力加減にある。『拳でぎゅっと』などと言っている時点で、その不味さは確定したな」
「それは食べてみなければわからぬ。新野に戻ったら、握ってくれよう」
「期待しないで待っているさ」

とげとげしい空気の中、孔明はどれどれと握り飯をひとくち、口にした。
さすがに薀蓄を語るほど、握り方を研究しているらしく、その握り飯はうまかった。

なんだかんだと、あっというまに、一粒ものこさずぺろりと握り飯をたいらげると、趙雲は得意そうにこちらを見ている。
なにやら癪であったが、ここは素直になるべきであろう。
「うまかった」
孔明がいうと、趙雲は、満足そうに声をたてて笑った。
からかうようなことは、言ってこなかった。

それからしばし歓談したあと、香のにおいを気にしつつ(悪夢を見そうだと趙雲は言った)、二人は眠りについた。
香は、なんだかんだと効力を発揮しているらしく、いつもならば人を悩ます虫が、たしかにまったく寄ってこない。
『獣の皮か。なにに使うかな』
明日の朝を楽しみにしながら、孔明は目を閉じたが、ふと、気づいた。
こんなに安らかな気持ちになって眠ることができるのは、ほんとうに久しぶりであった。新野では、いつもなにかを気にしていた。
戻ったら、また同じになるかというと、もう、そうはならないだろうという確信が、孔明にはあった。
ここに来るまでのあいだに趙雲と言葉をかわしているうちに、憑き物が落ちたような気分だ。
構えて、趙雲の心を疑っていた、今朝までの自分が愚か者に思えた。

味方を得た。
いや、もうずっと前から得ていたのだ。
自分の身を守ることばかり考えて、気付かなかっただけのこと。
いま、火を挟んで隣に眠っている男は、わたしが本当に腐るといけないので、外に連れ出してくれたのだ。
嫌われ者に堂々と近づいたら、自分も嫌がらせを受けるのではないかとか、そんなせせこましい計算もしなかったのだろう。
心はあるではないか。
場を盛り上げる華やかさには欠けるかもしれない。
けれど、これは、わたしだけが見つけた、わたしの剣だ。

主公に分からなくてもいいさと、すこしばかり背徳感のある喜びをおぼえつつ、孔明は眠りにおちた。

翌朝、孔明は心地よく、パッチリと目を覚ますことができた。
それこそ夢もみずに、深く眠っていた。
体を動かしたことが良かったのだろう。
そうして、軽く体を伸ばし、あたりを見まわす。
さすがに香のにおいは四散したようである。
孔明は自分が虫に食われていないかを確かめたが、香は、大げさな売り言葉を裏切らず、見事な効能をみせて、どこも虫に食われていなかった。

これはわたしの勝ちだと意気込みつつ、趙雲のほうを見ると、なにやらむずかしそうな顔をして、じっと手元を見ている。
「どうした。虫に食われていないだろう。賭けはわたしの勝ちだ」
「たしかに虫は寄ってこなかったが」
言いつつ、趙雲は、手元にあったものを、孔明に差し出して見せる。
それは、ぎょっとすることに、ちょうど腕の長さほどもある、死んだ大蛇であった。
「ゆうべ、体を這う音で目が覚めた。あんたのところにも何匹も来ていたようだが、ぐっすり眠っていたようで、声を掛けてもぜんぜん起きなかったな」
「……何匹?」
覗き込めば、趙雲の寝床のまわりには、退治した蛇が、ちょうど四匹ほど、きれいに並べられていた。
どれも毒のない種類の蛇ではあったが、その気味の悪い姿に、孔明はぞっとする。
「蛇は虫になるのか?」
「噛まれていないからな……『虫に三箇所以上食われたら』という条件だったから、あんたの勝ちでいい。しかし暗闇のなかでの蛇との戦い。疲れたぞ」
「すまぬ。こんどは、この香と、『どんな毒蛇もイチコロ』というのが売りの『退蛇香』も持ってこよう」
「あのな、すこしは懲りてくれ」

趙雲は、蛇は骨が多いが食べられる、と言い出したが、孔明はさすがに辞退し、朝は、趙雲がもってきた餅を焼いて食べた。
そうして出発することになったのだが、頂上のほうを見上げると、趙雲は言った。
「そうだな、昼前にはつくだろう」
頂上になにがあるのだろうと、期待しつつ、孔明はふたたび山を登り始めた。

昨日とつづいての快晴で、初夏の山風は適度につめたく、孔明の肌にここちよい刺激をあたえた。
頂上をひたすら目指し、山道をあるく孔明であったが、朝まで昨日と変わらぬ様子であった趙雲が、頂上が近づくにつれ、だんだんと口数がすくなくなってきた。
はて?
「どうした、疲れたのか」
昨日は香に引き寄せられたのか、あらわれた何匹もの蛇と格闘し、ほとんど眠っていないという。
そのために疲れがでたのだろうかと心配した孔明であるが、趙雲は、あいまいな返事をかえしてきた。
「いや、そういうわけじゃないのだが」
「だが?」
「俺は間抜けかもしれぬ」
突然の反省の弁に、孔明としてはわけがわからず、首をひねる。
「なんだ、急に」
「いや、こいつらが」
と、趙雲は、山道の両脇に生い茂る、みずみずしい生命力をみせる木々のうちの葉の一枚を、まるでだれかの手を掴むようにして掴むと、ゆさゆさと揺すった。
「木がどうした」
「この季節は、数日で木々が一気に生長することを忘れていた。そういえば、十日ほど前に、雨がつづいた日があったな。ああいう日のあとの、草木の生長というのはいちじるしい」
「そうだな」
「軍師、いまから謝っておく。かなりつまらぬかもしれぬ」
「なんだかわからぬが、期待するなというのだな」

山道は、頻繁に往来があるものらしく、しっかりとした道になっていたが、途中より、頂上には向かわず、そのまま西へ向かってつづいているようであった。
趙雲は馬を下りると、孔明にもそうするようにいい、そして山道の脇に馬をつなぐと、せまくて細い、道なき道を登り始める。
いや、ある程度の道はできあがっているが、あまり人は頂上に向けては足を運ぶことが無い様子で、整備されておらず、のぼればのぼるほどに、足元の岩石が邪魔になるようになってきた。
ええい、やはり、もっと軽装をしてくるのだった、と後悔しつつ、裾を気にしながら孔明が苦心して山道をのぼっていると、先に軽々と、それこそカモシカのように岩石の連なりをのぼっていた趙雲が、手を差し伸べてきた。

手を差し伸べられ、一瞬、孔明はためらった。
べつにほんものの龍をきどって、逆鱗がある、というわけではないのだが、叔父の玄を、樊城で、刺客の手によって奪われて以来、人というものに触れられることに恐怖をおぼえるようになっていた。
感触が気持ちわるいから触れられない、などという程度ではなく、本能がこれを、反射的に避ける。
命という物をつつんでいる人の肉体のもろさ、そういったものを恐れているのか、それとも、目のまえの者が、こちらの敵になることを無意識のうちに恐れているのか、孔明は自分の心を何年もかかって懸命にさぐっていたが、いまもって、答えは出ていない。
十六からはじまった、この奇癖は、十年以上かかって、ようやく改善され、自分が覚悟をきめさえすれば、人に身を寄せられることを我慢できるまでにはなった。
が、それ以上は無理である。
唐突に、人に身を寄せられれば、おどろいて身を引いてしまうし、どころか、本能に克てずに、これを暴力で持って突き放してしまう場合もある。

目の前の手を、なかなか取らない孔明に、趙雲は、すこし怪訝そうにしながらも、遠慮しているのだと好意的に受け取ったようで、うながすように、その手を軽く、左右に動かした。
大きな手だな、と孔明は思う。
武器を持つ者の手だ。
叔父を殺した男も武器を持っていた。
けれど、大丈夫だ、この男は、わたしを傷つけたりはしない。
孔明は差し伸べられた手をとり、岩石をのりこえた。

趙雲は、そのあともしばらく、大きな岩石をのりこえては、振り返り、手を差し伸べてくる、ということをくりかえした。
そのたびに孔明はその手を受け取ったが、くりかえしているあいだに、手を取ることは作業となり、頭の中からむつかしい悩みは消えた。
そうして、最後の岩石の連なりをのぼりきると、やがて頂上にたどりついた。

先に頂上にたどりついた趙雲は、本来であれば、孔明を振りかえり、どうだ、と自慢の光景を目のまえに差し出してみたかったのであろう。
だが、孔明が眼下に広がる光景を見るに、そこは、生い茂る木々の連なりを見下ろすだけの、ごくごく平凡な山の風景であった。
頂上へ来たという爽快感はあるが、生い茂る草木ばかりが映る風景には、とりたてて目だって、素晴らしいと思える物はない。
「やはりな」
という、趙雲のガッカリした声が横から聞こえてきた。
「もうすこし早い時期であったら、木々もこんなに茂っていなくて、ちょうどここから、まっすぐに見えるものがあったのだ」
「なにが」
「新野の一帯がだ」
「ああ」
方向からして、山をまっすぐ直線でみると、新野城と、その周囲の町であろう。
「あんたが来てしばらくだったかな。前から、自分がいま、どこにいて、なにをすべきか、知りたいと思うときにここにやってきていた。
ここへくると、不思議と気持ちがおちつく。
あんたも、ここ最近、浮かない顔ばかりしていたから、すこしは気がまぎれるかと思ったのだが」

ああ、そうだったのかと、孔明はようやく、趙雲が『視察』などといって、自分だけをここに連れ出した理由を理解した。
「たしかに、いまはなにも見えないけれど、気持ちがいいよ」
頂上を走り抜ける風を全身でうけながら、孔明は心から思った。

そうだ、だれになんと言われようとかまわない。
わたしは、たとえこの身にどんな風を受けようと、こうして泰然と立っていなくてはいけなかったのだ。
『軍師』になったのだ。
人の頭(かしら)になったのだから。
つまらないちいさなことで、思い悩んでいるのは、どこか甘えと余裕があるのかもしれない。
もっと精進しよう。部屋に閉じこもっているだけでは駄目だ。
もっと外へ。世界を知らなければ。

趙子龍。この男は、自分の立場がわるくなることもいとわず、大事なことを思い出させてくれたのだ。
励まそうと、純粋にそう考えてくれただけで、うれしい。
「くさくさしてていはいけないな。大事な主騎にまで心配をさせてしまう。ありがとう子龍」
孔明が言うと、趙雲は、あきらかに照れたらしく、顔を背けた。
「あんたのその直言、なおす予定はないのか」
「あいにくと、ない。どうしても我慢できない、ということであればなおすけれど、そこまで嫌か?」
孔明が問うと、趙雲は逸らしていた目を孔明のほうに向けた。

その目を見たとき、孔明はすくなからずおどろいた。
なつかしい表情を、そこに思い出したのだ。
もちろん、顔立ちはだれにも似ていないけれど、趙雲のその目に浮かぶ表情は、叔父や父たちが向けてくれたまなざしに浮かんでいたものと、おなじ種類のものだった。
かぎりなく優しく、あたたかいもの。
そうか、だから手を触れるのも、恐ろしく感じなかったのか。

そうしてそのとき、孔明は、孤独だと思っていた自分の道のうえに、かぎりなく添うようにして、共にあるいてくれる人間を得た。
これは、わたしだけの剣。
ほかはだれも知らない。

「ありがとう」
言いながら、手を差し伸べると、趙雲のほうがすこしおどろいて、ためらった。
が、趙雲が先ほど孔明にしたように、孔明がおのれの手をひらひらとさせて、触れるようにとうながすと、ためらいながらも、趙雲は、手をつかんできた。
あらためて触れた手は、思った以上に大きく、ごつごつとして、温かく感じられた。
父や叔父、そして襄陽で親しんだ仲間たちともちがう、本物の剣を、わたしはいま手に入れた。
この剣を失わないように、わたしも、もっと強くならなければ。
「ありがとう、子龍」
重ねて言うと、趙雲も、こまったようにしながらも、やがては笑った。

頂上の風が、雲ひとつ無い青空の上を駈け巡っていく。
こんな清清しい心のまま、いつまでも、どこまでも行ことができたなら。
いいや、どこまでも行ってみせよう。
どこまで行けるかは、わからない。
たとえそれが一時的なものだったとしても、この出会いで得たもの、そしてこの場所に立って思ったことは、生涯忘れないようにしよう。
これを口にしたなら、趙雲は、またも怒り出してしまうだろうなと、孔明は思ったので、沈黙を守り、ただ感謝の意味をこめて、太陽のように明るい笑顔を見せるにとどめておいた。

おわり

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(C) hasamino nakama 2006 08 30