山びこの峠
中編
孔明は意外に思って、馬上の武将の、日に焼けた、自分とはまったく種類のちがう美貌を備えた顔を見た。
その視線に気づいたのか、趙雲が怪訝そうにたずねてくる。
「なんだ」
「いや、あなたがこんなふうに想像豊かな人だと思っていなかったから、おどろいた。気を悪くしたのなら許してくれ」
「気は悪くしないが、そうか。ふつうは、あまりこういう発想は、しないものか」
などと、一人合点を趙雲はしている。
たしかに、張飛あたりに不死について語らせたなら、死ななくていいのであれば暴れまくって敵を滅ぼすと言い切るだろう。
さきほどの裂け目の話といい、不死の話といい、趙雲が伝えたいことはなんなのだろう。
趙雲は、どうやらこちらが想像していた以上に、謎かけのうまい男であるらしい。
「裂け目の話に戻るが、どうしてその『裂け目』にこだわるのだ?
裂け目から雲が生まれる、という話は聞かないが」
「俺の長兄がそう言ったのだ。大地には裂け目があって、そこから雲が生じる。
なぜかというと、裂け目には龍がすんでいて、龍の気がたちのぼり、そして雲になるのだと」
「なるほど、それであなたの字は『子龍』か。兄君も想像豊かな方だな」
「いや、俺の字を付けたのは長兄ではない。三番目の兄だ」
「ふうん?」
それはそれで面白い話ではあるが、しかし、この男がわたしに伝えようとしていることはなんだ?
孔明は謎をさぐるべく、さらに話をすすめることにした。
「ところで視察だがね、わたしたちはいま、どこへ向かっているのだろうか。
このあたりに集落はあるが、なにも問題がないはずだけれど、気になることでも?」
「いいや」
あっさりと趙雲は答える。
とすると、やはりひみつの打ち明け話か。
だから、兵卒もなにもつれず、二人きりなのだな、と孔明は考えた。
「では、これからどこへ向かうのだ」
「あの山だ」
と、趙雲が指す方角には、鬱蒼とした山の連なりがある。そのなかのひとつに、入ろうということであるらしい。
孔明は、おもわず周囲を見回す。
ともかく、なにもない、平和な田園風景である。
人家も納屋もまばらで、人通りもすくない。
しかし、それでも警戒して、だれもいないであろう山に入ってでないとできないほどに、重要な打ち明け話だというのか。
「そうだ、軍師、聞き忘れていたが、野宿はできるよな?」
「は? 野宿?」
てっきり、山里のそばの人家に宿をとるのだろうと計算していた孔明は、野宿と聞いてうろたえた。
なぜにうろたえたかといえば、自分のまとっているこの派手な衣裳、これは一張羅なのである。
野宿なんぞをするのであれば、一張羅を着てはこなかった。
「野宿自体には慣れているが、ならば最初から野宿をすると言ってくれないか。であれば、こんな正装をしてこなかったのに。
それとも、あの山に、だれか住んでいるというのか」
「集落とちかいから、だれか樵でも住んでいるかもしれぬが、あいにくと、俺はそいつに用はない。軍師は用事があるのか」
「あるわけなかろう」
「うむ、そうだろうな。野宿だとあらかじめ言わなかった俺も、口が足りなかった。謝る。
しかし山の頂上までたどり着くのに、一日では無理だからな」
「は? 山の頂上?」
そこで打ち明け話?
いや、なんだか変だぞ。
微妙に話がかみ合わないと気づいた孔明であるが、しかし、では、なぜ趙雲が自分を山に連れ出そうとしているのかが、やはりわからない。
ますます怪訝に思いつつ、趙雲のいう山に向けて、馬を歩かせた。
山に入ると馬が通れるくらいには道はひらけていて、鬱蒼としてはいたが、ほどよく往来がある場所であることはわかった。
湿った土のうえに、無数の足跡がある。
たまにけものが横切った痕跡があり、山の豊かさを物語っていた。
山に入ると、趙雲の口数は、ぐっと減った。
孔明も黙っていると、たまに、思い出したように趙雲が、孔明が想定している『ひみつ』とはまったくちがう話題を振ってくる。
新野にきて不自由はないか、襄陽ではどんなふうに暮らしていたのか、友人たちとはどのように過ごしていたのか、旅をしたことあはるか、どこへ行ったことがあるのか、等々。
孔明は、聞くのも好きだが、喋るのも好きである。
問われればすべてに答えた。
ちょうど縦列になって山を登る格好となったが、趙雲は孔明の語る言葉を、ひとことも漏らさず、丁寧に聞いているようで、うなずいたり、相槌をうったり、みじかい感想などもはさみつつ、返してくる。
途中、有名な甘露の水があるというので足を止めて、沢から染み出ている水を汲みに行くこととなった。
触れると、指先の感覚がなくなりそうなほど冷えた水である。
苔むした岩の隙間から水が流れているのを、だれがそうしたものか、竹の樋で水を誘導し、だれでもすぐに飲めるように工夫してある。
竹筒でそれを汲み、また、自らも手ですくって水を口にふくむ。
甘い、清らかな味がした。
咽喉に冷たい水がとおったそのあとに、ようやく孔明も頭が冴えてきた。
というよりも、それまで新野のなかで揉まれ、傷つけられてきたためにひねた自分の心が、ここにきて、ようやくすっきりしてきたように思えた。
そして、隣で、おそらく旅人か里の者かが置いたのであろう、休むための石に座って、木漏れ日をまぶしそうに見あげている男が、なにを考えているかを理解した。
『ひみつ』を打ち明けるためだとか、そういった大層な動機ではなく、ごく単純に、孔明が『腐る』といけないために、外に連れ出そうとしたらしい。
それはそれで、うれしい気遣いだ。
まして、そのような気遣いをする男だと思っていなかっただけに、よけいにうれしさがある。
しかし、つぎに浮かんだ疑問は『なんでまた』ということであった。
「なんでまた、って?」
素直に疑問をぶつけると、趙雲のほうが、ふしぎそうな顔をして孔明に尋ねかえしてくる。
話が進まないではないかと苦りつつ、孔明はさらに話をすすめた。
「わかっていると思うが、わたしはいま、新野でいちばんきらわれている人間だ」
「ああ、そうだな」
端的な言葉で、あっさり肯定されると、それはそれで傷つくものだ。
趙雲に他意はないようだが。
「あー、つまりだな、わたしにあまりかまうと、あなたまで悪く言われてしまうぞ。そういうことは考えないのか」
すると、趙雲は奇妙なものを見る目で孔明を見返してきた。
「あいつらは、もともと口が悪いんだ。それを直せというのは無茶な注文というものだ。あんた、高望みはしないほうがいいぞ」
「いや、そう言う意味ではなく」
「たしかに、あんたを批判する声が高いのも事実だが、だからといって、いま新野で起こっている問題のすべてを、あんたに集中させて語る連中はおかしい。
俺からすれば、これまでだって新野では問題が山積みだったんだ。
それを解決できる人間がいなくて、そのままになっていたのを、焙りだして見せたのが徐軍師だろう。
けれど、徐軍師は、焙りだしてはみたけれど、解決に乗り出す前に曹操の元に降らねばならなくなった。
だから解決する人間が必要だったのだが、徐軍師と同等か、でなければそれ以上の能力をもつ人間でなければ、それは無理だった。
それを見抜いておられたからこそ、主公は、あんたを軍師として招聘した。
あんたが来てからめちゃくちゃだ、なんていうヤツは、問題意識のないばか者だ。ほっといてよろしい」
ほっといてよろしい。
劉備でさえ、こうもはっきり新野の人間を断罪することはなかった。
上に立つ者としての立場があるからこそ、あえて口にできなかったのもあるだろう。
仲間を守るためという美名のもと、内部の批判をすることが許されない空気が、新野には、たしかにある。
それを、趙雲はあっさりと破ってみせた。
「ずいぶんはっきりと言うものだな」
「俺はいつもこうだ」
その言葉は、そのとおりであった。
あとになって孔明は、趙雲が、武将のなかでは唯一、孔明をかばう言動を一貫してくりかえしていたために、孤立していたことを知った。
「あなたの夢はなんだ」
唐突にされた孔明の問いに、水場から離れて、さらに上を目指す趙雲は、面食らったように振り向いた。
「なんの謎かけだ、それは」
「思いついたことを口にしたのだが、答えづらいようだったらいい。本当に思いつきだから」
自分でも、なぜ急にそんな言葉が口をついたのやら。
趙雲は、さきほどの言動からするに、こちらを認めてくれているようである。
『なぜ近づいてくるのか』という問いには、『興味があるから』という単純な答えが、いちばん真意にちかい気がしてきた。
でもやはり、孔明は不思議に思う。
これまでのなかで、人から好かれることは少なかった(ような気がする)。
しかも、年長者からは、生意気だといわれるばかりで評価されたことは少ない。
張飛や関羽といったふたりに代表されるように、反発、あるいは無視をきめこむ、そういった態度をされるのが、ふつうだった。
趙雲はあきれた口調で孔明にいう。
「ずいぶんと漠然としたところを聞いてくるものだな」
「でも、あるだろう。夢。主公にお仕えして、いずれかは一国一城のあるじとなり、名領主として歴史に名を残してみたいとか、あるいは敵将の首をたくさん取って、天下の名将と呼ばれるようになりたいとか、そうでなければ、天下に平和を取り戻したいとかな」
「天下に平和を取り戻したい、か」
「お、そう思うのか」
孔明が身を乗り出すと、しかし趙雲は腕を組み、首をひねっている。
「いや、あまりそういうことは考えたことがなかった。
いまの世は、いまにはじまったことではなく、そういうものだと思って過ごしてきたからな。軍師はちがうのか」
問い返されて、孔明のほうがうろたえた。
「そういうものじゃないからこそ、世の中が乱れているのだ」
「そうなのか?」
「そうなのか、って、いや、そうなのだよ」
あたりまえではないか。
呆れる孔明を前にして、趙雲は考え込んでしまったようである。
思い出されるのは春のこと。
刺客を捕らえる前の話である。
孔明は、束縛されることを嫌い、主騎はいらないと、劉備に訴えるつもりであった。
そうして意気込んで劉備のところへと向かったのであるが、孔明が用件を切り出さないうちから、劉備は察したらしく、こういった。
「子龍は、あれはおまえの、一番邪魔にならないヤツだぜ」
「邪魔にならないとは、細作のように人の気配を消す訓練を積んでいるから、ということでございますか」
口を尖らせると、劉備は、いやいや、そうじゃない、と手を振った。
「ともかく口は重いし、秘密は守れといったら、かならず守る。でもって頭もいいから、指示以上のことも楽にこなしてくれる。
おまえは、横からああだこうだと言われるのが嫌なほうだろう。
子龍はよほどでないかぎり、口をはさんでこねぇ。逆に、口をはさまれたときは、こりゃヤバイのだなと、自分を点検するいい機会になるんだ」
孔明は憮然としたまま答える。
「そのような貴重な人材でしたら、ずっとお側に置かれては如何ですか」
「子龍は、おまえより五つ上なんだよ」
「それは本人の口から聞きました」
すると、劉備は、顔をぱっと上げて、びしりと孔明を指さした。
「それ!」
「は? どれでございますか」
「おまえ、子龍にそれを聞いて知ったか? それとも子龍が言ったので知ったか?」
劉備の問いに、孔明は首をかしげて、どうであっただろうかと考える。
「子龍は、よほどでないかぎり、自分からてめぇのことをいわねぇんだ。
ところがだ、あいつは、おまえには言うんだよ。おまえら、普通にしゃべるだろ?」
「普通に、とおっしゃいますが、まあ、世間話などもいたしますが」
「世間話していると、どっちかが聞き手になる一方だったり、語り手になる一方になったりして、なんだか疲れる相手っているだろ。
子龍は、おまえにとってはそうじゃないだろ」
「たしかに、対等、というと言葉がまちがっているかもしれませんが、たがいに、ふつうに意見をやりとりします」
あたりまえのことではないか、主公はなにを言わんとされているのだろうと怪訝に思っていると、劉備は、ずいっと身を乗り出してくる。
「それ。そこがとても重要なのだ」
「それとは?」
「ふつうに、ってとこだよ! 子龍は、おまえが相手だと、自分のことを打ち明けるのに抵抗が無い様子なのだ」
「面妖なことをおっしゃる。それでは、子龍は、ほかの者たちには、ほとんど自分のことを語らぬというのですか」
「うん」
あっさりと劉備は答え、孔明をうろたえさせる。
「それで、よくいままでやっていけましたな」
「そこがそれ、あいつ、公孫サンのところで身につけたのだろうが、そういう処世術には慣れててな、本当にソツがないんだわ。
頭がいいから、相手の先をうまく読んで、するり、するりと世の中を渡っていっちまうんだな。
だから問題も起こさないかわりに、部下はいても、仲間ってもんがない。
儂を慕って来てくれた奴だが、どうも十五のときと、変わってない部分があるなと、それで儂は心配しておったのだが、いやあ、軍師はなんでも解決してくれる。さすが臥龍!」
ひゅう、ひゅう、と奇声を発しながら、孔明をおだてて、拍手する劉備。
このひとのこの陽気さは、いったいどこから来るものだろうと孔明は呆れつつ、言った。
「おだてても駄目です。つまり、子龍はよく働いてくれるが、どこか表面だけしか見せていないような気がして、主公としては心配だとおっしゃる」
孔明の容赦ない直言に、むしろ劉備は喜んで、さらに手を打ちながら言った。
「そうそう、そういうこと。いや、本当におまえは話が早いわ」
「お褒めの言葉をいただき、うれしゅうございますが、つまり、子龍はわたしの主騎であることは変更なし、と」
「そうだよ。先に言っておくが、こればっかりはおまえの我侭は通さねぇからな。
おまえは子龍を通して、武将という物に慣れる…いっとくけど、あれだけ大人しくて品がよくて、躾けのしっかりしている武人は、めずらしいのだぞ…子龍のほうは、おまえを通して、世に慣れる……いや、世を知る、と言い換えるのが本当か」
「世を知る?」
劉備の言葉に、怪訝そうに孔明がおうむ返しにすると、それまで無邪気に機嫌よくはなしていた劉備が、真摯な顔になって、うなずいた。
「儂はあいつを十五のときから知っているのだが、そのときから、まるで人形のようなやつだと思っていたよ。
外見があんまり立派だし、家柄もわるくないし、教養もあるから、ここぞというときに随行させると、まずまちがいない。
それくらい優秀なやつなんだが、あいつの頭のなかじゃ、せっかく蓄えている知恵とか知識といったものが、心につながっていないのだ」
「ますます不思議な御言葉ですな。それでは、主公は、子龍は、知識と経験を元に体を動かしている人形のようだとおっしゃりたいのですか」
孔明の分析に、劉備は戸惑いつつも、応じた。
「まあ、そこまで極端には考えていねぇけれど、知識と経験ってのは心とつながって、はじめて本当に力を発揮するものだろう。
どういうわけか、あいつの場合は、それが、きれいに分かれちまっているようなんだ。
頭がいい分、いままで問題なく過ごしてこられたのだが、それとて、新野がずっと平和だったからであって、曹操が南下くるのはまちがいねぇこの状態で、人形みたいな大将に、ほんとうに何万も動かせるか、というか、兵卒たちがついていってくれるか、疑問が出てくる」
劉備のことばに、孔明は困惑し、反駁した。
「それは問題ないでしょう。事実、子龍は何度か小競り合いで、三万ほどの軍を率いて、夏侯惇の軍を斥けているではありませんか」
「そうだけどよ、そのときは、いいか、『すぐ』に蹴りがついたのだ。だが、ここからが肝心だぜ。曹操がきたら、何ヶ月、下手したら何年という長いあいだ、儂たちは戦うことになるだろう?」
それはそうである。孔明はうなずいた。
「おまえもわかっているかもしれねぇが、わしの兵卒たちってのは、華のある親分が大好きなんだ。子龍に大将をまかせたとして、そりゃあ、見た目もよけりゃ実力もある。絵に描いたような大将だから、最初はうまくやるかもしれねぇけど」
「けど?」
「なんか、地味」
「ほかにも、わたくしの目から見ても、地味な者はたくさんおりますが」
「いや、容姿が云々じゃねぇんだよ。なんていうかなあ。
戦場では、もちろん武力が高いヤツが強いってのもあるが、やっぱ、最強なのは、実際に強いうえに、ハッタリもうまいヤツ。これだな」
なんだ、その理屈は。
いや、しかし、あまたの戦場を、実際に駆け抜けた人が言う言葉だからな、と自分に言いきかせつつ、孔明は、そのまま黙って劉備のことばを聞く。
「張飛なんかはやっぱり、ハッタリがうまいぜ。俺一人で千だろうが万だろうが、ぜんぶ蹴散らしてやらあ、とか、そういってまわりの将兵を盛り上げるんだな。
その点じゃあ、呂布もうまかったな。周囲を鼓舞させることができる大将。
関羽も、あれで、戦場じゃ人が変わるからな、見ていて気持ちいいくらいの凛々しさだぜ。曹操が惚れこむ理由がわかるってもんよ」
うんうん、となにやら納得する劉備。
話が先に進まないではないか。
「つまり、子龍は、それができない、と」
「そう。あいつは、人に関心が薄いだろ。だから、ま、命令は淡々とこなすだろうが、しかし、味方への気遣いだのがどうも理詰めのうわ滑りで、じつにションボリした行軍になるんじゃねぇかと心配なのだよ。
それが、何年もとなると、大丈夫かな、という懸念もあるのだ」
わかるか? というふうに劉備は孔明に目で問いかける。
しかし孔明は頷けない。
孔明としては、そういう、大将の気風で左右される、それこそ天気のように勢いがコロコロ変わってしまう軍よりも、理詰めで動く軍隊こそ、いちばん欲しているのだ。
「だから主公は、子龍は、わたしには重たい口が開くようであるから、主騎にして、ちょっとどうなるか様子を見ようと考えられた、と」
「そう! そのとおり! さすが軍師! そういうわけでよろしく」
と、劉備は、よろしくされません、という孔明の言葉を完璧に封じる勢いで、ぴしゃりと話を終わらせてしまったのだ。
心がない、というわけではないだろう。
子龍は、冷静な印象は与えるが、冷酷な印象はそこにない。
武将にしては、立ち居振る舞いに品がある。
それに、こちらが新米で年下、という気安さもあるだろうが、はじめて会ったときと比べれば、だいぶ打ち解けた。
主公が子龍にもとめてらっしゃるものというのは、つまり、張飛のような『わかりやすさ』なのか。
だとしたら、そこは、わたしと意見が別れるところだな、と孔明は冷静に考える。
孔明がもとめるものは、おのれの手足のように動かせる、統制のとれた、理詰めで動く兵卒と、それをまとめられる大将だ。
ただ、まちがえてはいけない。
この場合、大将ひとりが優秀であればよいという話ではない。
末端の兵卒のひとりひとりまでが、作戦を理解し、危機に際しては、自分で考え、動けることが理想なのだ。
劉備のもとめる大将像。
これは民衆のもとめる理想の武将像でもあるが、孔明は、そんなものには憧れない。
みずから好んで歌う『梁父吟』が主題としている三人の武将の悲劇を引くまでもなく、戦場で注目をあつめすぎる者は危険なのだ。
現場での人気が高ければ高いほど、よほど文官側と緊密な関係を築いていないかぎり、やがては思いあがり、治世の障害となっていく。
冷酷にも聞こえるかもしれないが、武将の本分はあくまで兵卒をうまく使いこなし、作戦通りに遂行することだ。
戦場での派手な武勲など狙わなくていい。
なんであれ、勝てば官軍なのだ。勝たねば意味がない。
大将の気風や調子によって、軍全体が左右されてしまうような、そんな実力の定まらない軍隊は、おそろしくて使えない。
もちろん、華があれば盛り上がるであろうが、それは、やはり花と一緒で、一瞬は美しくあるが、すぐに枯れ、しぼむ。
このあたりの意見の差は仕方のないことなのかもしれない。
どんなに親しみやすい方といっても、主公は仁侠の人だからなのだな、と孔明は思う。
学ぶべきところはおおいにあるが、しかし、ここは譲れない。
大将が感情に走ったがために、末端の兵卒たちまでが狂ったように凄惨な掠奪や殺戮をくりかえした徐州から逃げてきた。
叔父が任地を追われた際に、賞金ほしさに襲ってきた人々の無情さ、吐き気がでるほどのおぞましさを知っている。
だから、劉備の意見を受け入れることが、孔明にはできなかった。
「やはり、つまらぬか」
趙雲が、声をかけてきたので、孔明は思考の袋小路から抜け出して、顔を上げた。
見れば、意外や意外、趙雲は、蜻蛉を捕まえそこねた少年のように、すこしがっかりした顔をして、孔明を見ているのであった。
あわてて、孔明は否定する。
「いや、そうではないよ。すこし、思い出したことがあったのでな」
「襄陽のほうに足を伸ばしたほうが良かったかな。しかし、あちらだと、いろいろと気兼ねすることもあって、面倒だったのだ。いまから山を下りて、俺の知り合いに宿を借りるか」
すでに日は橙色をふくみ、西に向かい落ち始めている。
「いや、これはこれで、いい気分転換になっているよ。木の香りというのは好きだ。心が洗われる」
「そうか? ため息をついていたので、あまり気晴らしにならなかったのかと」
ため息の理由がちがう。
しかし、考えていたことを、趙雲にそのまま伝えることはせず、孔明は言った。
「襄陽のほうであったら、わたしは同行しなかっただろうさ。
いまだに、わたしが軍師として招聘されたことについて、わあわあと言っている連中もいるからな。ここは人がいなくていい」
「そうか?」
「ため息をついたのは、ええと、そう、癖になっていたものが、つい出たのだ。
不快にさせてしまったのならすまなかった。あなたのせいじゃない」
「悪い癖がついているな。昔からなのか?」
「いや、新野に来てからだよ」
すると、趙雲は口元に笑みをはきつつ、困ったような顔をして言った。
「それでは、一部は俺の責任もあるか」
「あなたの責任? あなたも、わたしのことを裏で批判していたのか」
拗ねたように孔明がたずねると、趙雲は声をたてて笑った。
「自信をもっていうが、俺は裏で、あんたのことを言ったことは一度もないさ。
さっきも言っただろう。あんたのやっていることは正しい。
正しいと思っているものを批判する…いや、あれは批判なんてものじゃないな。悪口だ。ああいうのは、ほんものの馬鹿だ」
「容赦ないな」
こんなに毒舌だったかな、と孔明が呆れていると、趙雲はつづけた。
「俺がもうすこし才覚というものがあれば、裏で不要なほどあんたを悪く言ってるやつを牽制できるんだがな」
「子龍、それは主騎の仕事ではないよ」
孔明がいうと、趙雲は小首をかしげて、そうなのかな? と言った。
心がないわけでもなく、気遣いができないわけでもない。
主公は、意外に子龍をご存じないのではないかと、孔明は思い始めていた。
「けれど、よかったな」
「なにが?」
「最近ついた癖なら、いまからでも治せるだろう」
「気をつけて治すようにするよ」
「それがいい。あんたはいま、新野の軍師なのだからな。ため息をつく癖のある軍師など、それこそ従うのが恐ろしい」
「徐兄はどうだった。堂々としていたのかな」
なにを思い出したのか、趙雲は苦笑いをして答えた。
「堂々というか、飄々、という感じだったな。良くも悪くも、徐軍師は、すぐに新野に溶け込んでいたよ。
あの方を悪くいうのも少なかった。だから主騎が必要なかった」
「つまり、それほどに、わたしは異質なのだな。糜従事中郎(糜竺)は、みな照れ屋なのだとおっしゃっていたが、そうなのだろうか」
「照れ屋か。あの方らしい言葉だな」
と、趙雲は声をたてて笑った。
「あなたはそうではない、と思っているのだな」
「さっき言ったとおりさ。この七年間は、本当に平和だった。いい時間だったと思う。
けれど、主公がいつか洩らしていた。ここは居心地がよいが、しかし、体もなまるし、心にも余計な贅肉がついてしまうと。
俺はあんたに早くに関われて、運が良かったと思っているよ。ほかの連中より、さきにこのことに気付けたからな。
とはいえ、俺は独り身だし、この七年間で、家族ができたやつらとはちがう気楽さがあるから、そう思うのかもしれないが」
「子龍、そういうことを、主公と話し合ったことはあるか」
孔明の問いが、唐突に受け止められたのか、趙雲はふしぎそうに振りかえる。
「いいや。主公とはあまり、そういった話はしないな。なぜだ」
それこそ、なぜ、である。
「では、主公とは、いつもどのような話をしているのだ」
「そう、だな。あらためて問われると答えに困るが、すぐに思い出せないところを見ると、大した話を」
していない、といいかけて、趙雲は口をつぐむ。
それはそうだ。
孔明も、危うい質問をしてしまったとすまなく思いつつも、劉備と趙雲は、一見すると理想の主従であるが、それこそ根のところでは、微妙にすれちがいを起こしていることを確信した。
と、同時に、劉備にさえそうなのであれば、ほかの仲間とも似たようなものだろうと見当をつけることができる。
趙雲が、なぜ、人に対して距離を置きたがるのか、生まれつきの性質か、なにか理由があるのか、それは孔明にはわからなかった。
だが、ともかくいま言えることは、趙雲のなかにある美質を見抜いているのは、新野ではこの自分だけであるということだ。
しかも、ちょうどよいことに、趙雲のもつその性質は、自分の求めるものに叶っている。
なにか得がたい宝を見つけたような気がして、孔明はうれしくなってきた。
(C) hasamino nakama 2006 08 19