山びこの峠

前編

花窓から入る朝いちばんの白光を頼りに竹簡の文字を追う孔明であるが、実際はなにも目に入っていない状態であった。
無気力状態でもいおうか。人の前に立てば、自然と緊張感に押されて、背筋も伸びてしゃっきりするのであるが、ひとりになると、こうしてなにもできなくなってしまう。
孔明は、すっかり疲れてしまっていた。
気分をかえるために、司馬徳操にいたときに読破した書物を読む気にもなれない。
意識をして耐えようとしても、自然と口からこぼれるのは、ため息ばかりである。

劉備からは、あらかじめ、反発は強いであろうから、我慢してくれといわれていた。
そういわれていたし、自分もそれなりに覚悟していた。
しかし、これほどのものだとは。
ぼおっとしていても、心にかかる悩み事は晴れない。
目を閉じれば閉じたで、うとましいことに、見なければよかったと思う光景が見える。
そしておのれにたいする中傷も、よみがえって聞こえてくる。
いまさらながら、周囲の動向に敏感すぎるほど敏感な耳目がうらめしい。

おのれを嫌い、排除する人間に懲罰を与えることは、この立場ならばたやすいが、それは根本的な解決にならないだろうということは、孔明にもわかっていた。
悪意は、余計に心の奥に沈殿し、染み付き、転じて、ぬぐい難い不信感となる。
いま、孔明が新野城の人間から得なければならないものは、なにより信頼なのだ。
逆の結果を得るような真似をしてはならない。
とはいえ、分かってはいるが、つらいのだ。

子供じみた嫌がらせもあるし(死んだ鼠が寝台に放り込まれていたとか)、自分が近づくと、それまで賑わっていた場が、ぴたりと静まるといったことも、たびたびだ。

徐兄もそうだったのだろうか。
数少ない味方である糜竺から聞いた限りでは、徐庶が、彼らから、強烈に拒まれ、無視されていたということはなかったようである。
思うに、徐兄ももとは侠客であったから、そのあたりの雰囲気が、新野城の人間をして、仲間のように錯覚させていたのかもしれない。
「みな照れ屋なのだと思いなさい。じきに、慣れますから」
糜竺はそう言うが、孔明は納得できなかったし、自信ももてなかった。

胸の中にある、もやもやとした不安が、蛇のように鎌首をもたげてくる。
人と触れ合うことの不得手なこの身であるが、そのいびつさが、全体の雰囲気のどこかに染み出て、人びとの悪意を煽っているのではないかという空想だ。
そうして、ひとり、部屋に閉じこもって書面を見るフリをしながら、じっとおのれの恐怖と戦っていると、視線を感じる。
顔をむければ、開きっぱなしになっていた窓から、なぜだか馬が顔を出していた。

なにが起こったのかわからず、孔明がぼう然としていると、その馬の横から、意外な顔が、ひょっこりと出てきた。
趙子龍である。
主騎であるから、孔明の前にあらわれることはめずらしくないが、こんな素っ頓狂な登場は、はじめてだ。
逆光になってしまっているため、その表情がよくわからないが、なぜだか院(中庭)に馬を連れて、孔明の部屋を覗いているのである。
なんと声をかけたものやら。
調練の帰りに、どんな様子かと顔を見に来たのか。
であれば、窓から馬と同伴で顔を出してくる、というのも無礼である。

孔明は、いまだ、この主騎に完全に心をゆるしてはいなかった。
新野の人間、とくに武人というのは、関羽と張飛を中心として、あまりにがっちりと絆を固めすぎてしまっている。端的にいうと排他的なのだ。
自分たちと似ている人間ならばともかくとして、孔明はあきらかに毛色がちがうし、人生経験もないことが見てわかる孔明に対しての風当たりは強い。
かれらからしてみれば当然で、それまでみんなで仲良くやっていたのに、突如として見も知らぬ、下手をすれば自分たちの息子と変わらぬ年頃の若者が、主公の次の地位を与えられて、ああだこうだと指図してくるのだから、それは面白くないだろう。

趙雲は主騎として孔明に配置されてはいる。
曹操の刺客をともに捕らえて以来、気安くはなったが、完全に心を打ち解け合った、というわけではない。
孔明はすっかり気弱になっていたので、趙雲もほかの武将らと同じで、こちらにいまだ憤りの心を残しているのだろうと思っていた。

「今日は暇そうだな」
と、挨拶もなにもなしに、調練が終わったあとに立ち寄ったとおぼしき武人は言った。
孔明は黙ったまま、机のうえに広げていた竹簡をしまった。
「なにか」
負けじと無愛想にたずねると、表情がよくわからない武人は言った。
「暇なら手伝ってほしいのだ」
まだ暇とは答えていないのに、とムッとする。
逆光で表情が探れないのでは不便だ。
孔明は座を立ち、窓辺に馬と顔をならべている武人のいるところへと寄った。


「手伝えとはなにか。馬を繋げとか、馬を一緒に洗ってくれとか、鐙をしまってくれとか、そういう手伝いか」
問うと、武人は、意外にも、近づいてくる孔明に対し、なにやら面白いものを見るような目を向けてくる。
わたしは、曲芸師の演し物かなにかか、と胸の内で、その笑みに悪態をつきつつ、孔明は不機嫌さをかくさずに、じろりと趙雲を見やる。
ちょうど窓からのぞくその顔は、室内にいる孔明の胸のあたりに頭のてっぺんがくるかたちだ。
見ると、趙雲のほうは、孔明の剣呑な目でそれと気づいたか、ちいさく、ああ、と合点し、言った。
「べつにあんたをいじめに来たわけじゃない。このところ、中に籠もりきりのようだったからな」
だれのせいだと思いつつ、孔明が答えずに、むすっとしたまま、
「自室にこもって、書を読むことがいけないことであろうか」
と答えると、趙雲は、今度は笑みをひっこめて、困ったような顔になった。
「そんなことは思っておらぬ。端的に言うが、あんた、こんなところで一人でくさくさしてたら性根も腐るぞ」
「説教をしにきたのか?」

答えつつも、孔明は戸惑いはじめていた。
趙雲がなにを考えているかわからなかったのだ。
嫌味を言いにきたり、あるいはからかいにきたものとはちがう様子だ。
どうも口調からして、本当に孔明の身を案じている気配が感じ取れる。
表情を観察すれば……趙雲の場合、顔立ちの端整さが、むしろ障害になって、つんとすましている表情に見えてしまうので損である……うむ、よくわからぬ。どんな顔だ、これは。

それこそ当初は、張飛らとさほど変わらず、反発をかくさずに接してくる男であったが、新野に入り込んでいた女刺客を一緒に退治したあたりから、つんけんした態度はなくなった気がする。
悪意はないようだ。
構えすぎていたかな、と孔明はすぐに反省し、あらためて武人にたずねた。
「手伝えとは、なにを手伝うのだ」
「これから視察に行くのだが、俺だけでは足りない。一緒に来てくれると助かるのであるが」

意外といえば、意外な申し出であった。
と、いうよりも、新野にやってきて以来、糜竺以外で、だれかに、なにかを一緒にしようと、親身になって申し込まれたのは、初めてではあるまいか。
だが、うれしさよりも、警戒心が先にたつ。
趙雲という男、なにかとつるみやすい新野の男たちのなかでも、仕事をするときには、自分ひとりでこなそうという傾向がつよい。
それなのに、ここへ来て、急に、視察へ同行してほしいという。
軍師である自分が乗り出さねばならないくらいの、面倒な問題がもちあがっているのだろうか。
とはいえ、なぜ、このわたしに同行を頼むのだろうか。

警戒しながらも、でてきたことばは、自分でも、意外なものであった。
「よかろう。場所はどこだ」
口にして、すぐに、しまったな、と思ったが、自分でも、なぜに了承してしまったのか、よくわからない。
一方の趙雲は、趙雲のほうは孔明が断るものと予想していたらしく、安堵したような顔になって、答えた。
「そうか。行くか。西のほうなのだが」
「西もいろいろあるだろう」
孔明がいうと、趙雲は、困惑したまま、言った。
「ともかく西だ。一晩でいける場所だから、近い」

西、というだけで、具体的な地名はなにもいわず、趙雲は馬をつれて去っていく。
半刻後に門で待ち合わせるということで、話はついた。
そのうしろ姿を見送りつつ、それでもなお、本来は決断の人である孔明が、いまからでも遅くはない、また面倒が起こるかもしれないし、断るべきではなかろうかと迷っていると、ふと、趙雲が足を止めた。
なんだろうと思っていると、振りかえり、言う。
「構えなくていいからな」
「は?」
「あんたをどこぞに連れて行って、どうこうしようというものじゃない。ほんとうに、ただの視察だ。準備も簡単でいい」
疑心暗鬼にとらわれている自分のこころを、ずばり言い当てられてしまった。
恥かしさもあり、孔明が言葉をかえすことができないでいるあいだに、趙雲は立ち去った。

構えなくていい。
その言葉がひっかかり、孔明は、手鏡をのぞきこんでみる。
指摘されてみれば、たしかに暗い、疲れた顔をしているようだ。
「腐る、か」
あの男の指摘ももっともだな、と苦笑いをうかべつつ、孔明は手早く旅支度をすませた。
いつもであれば、気に染まぬものに対しては、いやだときっぱり跳ね除けることができるのに、なぜかできなかった。
このあいだの女刺客の件で、あの男に借りが出来たからだろうか。
そんなことを考えながら手を動かし、簡単な旅支度をする。
用意するもののほとんどは、衣類や身だしなみを整えるための道具だけだ。

司馬徳操の私塾の仲間たちと旅をくりかえしたため、旅に慣れている。
経験から、身の回りに最低限のものしかおかない習慣も身についていた。
そのかわり、その最低限のものに関しては、どんな小さなものでも、こだわりにこだわりぬいた逸品ばかりをそろえている。

さて、そうして旅支度をととのえ、さらに文官たちに、自分が留守のあいだの仕事の引継ぎをすませてしまうと、孔明は、趙雲の待つ門へと向かった。
視察というからには、最低でも、小隊のひとつくらいはくっついてくるのだろうと想像していた孔明であるが、意外なことに、待っていたのは、趙雲ひとりであった。
ふつう視察といえば、城と離れている地方の有力者たちに、自分たちの威光を示すため、正装したり、あるいは立派で派手な衣裳に身をつつんで赴くのが常である。
が、これまた意外なことに、趙雲は武装はしていても鎧姿ではなく、鎖帷子に上衣を簡単に羽織っただけの、簡素な姿であった。
むしろ、あらわれた孔明の姿を見て、顔をしかめたほどである。
「派手だな」
「視察なのだろう?」
むしろ軽装なのが場違いなのだと口をとがらすと、趙雲は、なにを納得したのか、仕方ないか、とつぶやきつつ、出発の言葉を告げるでもなし、さっさと馬を門にくぐらせようとする。
あわてて孔明はたずねた。
「待て。二人だけか? ほかに随行する兵卒はおらぬのか?」
「おらん」
あっさり言って、趙雲は馬の腹を蹴って、どこへいくと地名も告げず、西へと馬を走らせる。
孔明もあわててそれを追う形となった。

馬をひととおり走らせ、新野の街をくぐりぬけたあと、田園のひろがるところまできて、趙雲はようやく馬の足をゆるめた。
孔明は趙雲の背中を追いかけつつ、さまざまに頭をはたらかせていた。

この唐突な視察への誘い。
もしや、視察ではないのではないか。
新野城のほかのだれにも漏らしたくないひみつをこの男が持っていて、それをひそかに打ち明けようとしているのかもしれぬ。
だとすると、以前に入り込んでいた曹操の刺客の件であろう。

そう思いついたとたん、孔明の心は、上空にひろがる青空とおなじくらいに晴れ晴れとしたものになった。
単純なことではあるが、ひみつを打ち明けてもらえるとは、つまりは信頼されているということである。
憶測にすぎないが、もしそうなら、嬉しいことだ。

そうして、まるで贈り物を待つ子供のように、わくわくと趙雲が口を開くのを待っていた孔明であるが、趙雲は一向に口をひらかない。
様子を観察してみれば、さて、馬をはしらせここまできたはよいけれど、なにをどう切り出せばよいのだろうという顔になっている。
水を向けてやれば、口を開くであろうか。
それとも、沈黙をつづけて、自然と口を開くのを待つべきか。

そうして孔明が緊張して待っていると、趙雲は言った。
「今日は良い天気だ。雲もないほどだ」
見上げれば、たしかにそのとおりで、蒼い空には白い雲の欠片すらなく、初夏の太陽がさんさんと大地を明るく照らしている。
風があり、冷たさを含んでいるからよいが、それは体を休めていればの話で、田園に出て、苗の世話をしている農夫たちの動きが、どうも緩慢に見えるのは、気のせいではあるまい。

雲? 
そうか、天気の話からまずはいって、こちらの反応を見ようというのだな。

「雲が、大地の気があふれたものだという話は、ほんとうだろうか」
趙雲のことばに、怪訝に思いつつも孔明は応じた。
「さて、大地の裂け目から雲が生まれところは見たことがないが、山から立ち上る霧が雲に転じていく風景は見たことがある」
「その山に裂け目はあったか?」
「やけに裂け目にこだわるな。谷はあったけれど、あれを裂け目といえるかどうか」
「ふむ、俺も旅をしてきて、似たような光景を目にしたことがあるが、『大地の裂け目』は見つけることはできなかった」

趙雲が言いたいことはなんだろう。
山の裂け目とは、なにかの暗喩だろうかと慎重に考えつつ、孔明は、とつとつと語る趙雲にたずねた。
「そういえば、あなたの名も雲であったな。これは思い込みかもしれないが、自分の名と関連するものに対しては、やはり気になるものなのかな」
「あんたの名は亮だったな」
「そう。亮というと、光るものを表現する言葉だ。なかでも月亮ということばが有名だから、わたしなんぞは、どうしても月に興味を持つ。
月には、ほんとうに蝦蟇がいて、不死の樹が生えているのかな、とかな」
「不死の樹なんぞ、ぞっとする。むかし始皇帝が不死の薬をもとめて、徐福に蓬莱という国を探させたという伝説があるが、俺なんぞは、そんなに生きつづけて、なにが楽しいのかと不思議に思うところだな」
「意外だな」
実感として孔明がそういうと、趙雲のほうが顔をしかめた。
「なぜ。軍師も始皇帝とおなじ類いか」
「不死か。そんなもの、考えたこともなかったけれど、なったら苦しいだろうな」
すると、趙雲は、じつに満足そうに、そして真剣なまなざしのままうなずいた。
「そうだろう。長く生きるということは、それだけ苦しい思いもしなければならないということだ。
始皇帝という男は、よほど人生が楽しかったと見える。俺にはよくわからん」
「武将なら、不死であれば無敵になってみたいだとか、そのように考えないのか」
「戦は一人でするものではない。俺以外の全員が不死だというのならともかく、俺一人が不死になったとして、戦に負けて、みかたのだれもが死んでしまったら、どうなる? 
俺はみなの後を追うこともできず、ずっと地上を彷徨うことになるのだぞ」
「いわれてみればたしかにそうだが」

中篇につづく
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(C) hasamino nakama 2006 08 13