りんご酢さまからのリクエスト企画作品

うさぎが観察日記・番外編
ねばーえんでぃんぐ・すとーりー

後編

※このお話は、うさぎが観察日記の番外編で、ちょうど第二部の中盤の途中のころのおはなしとなります。

「ほらあ、そんなとこでもじもじしてないで、こっち来いっての」
と、少年は柱のかげのうさぎの仮面をかぶった男に手招きをする。
呼びかけられた男は、文字通りもじもじと、しばらく柱の影で逡巡していたのだが、やがて意を決したのか、碁盤を両手に持って、わたしのほうへとやってきた。
碁盤を見て、わたしは思わず感嘆の声をあげた。
『下宿先』でしか手に入らぬ、貴重な黄金杉でつくられた、魔法の碁盤である。
なにがどう魔法なのかといえば、ひと試合おわったあとに、碁盤に並べられた白と黒の石を、自動的に片づけてくれるすばらしいものだ。
なに? そんなもの、手間をおしまず自分で片づけろ?
魔法は、使えるところは使うべし、というのがわたしの信条なのだよ。

「先輩、外へ用事があるのでは」
と、少年におのれの手の内をぜんぶ明かされて、不貞腐れている陸伯言がいった。
しかし、わたしの心は、黄金杉の碁盤を見た瞬間、一気に試合再開の方向へと動いてしまった。
黄金の碁盤は、自動的に石を片づけてくれるものだというだけではない。
石を碁盤に置いたときの、その音が素晴らしいのだ。
まるで閑寂たる山里にひびく、砧打つ音にも似た風情の、ひどく心を打たれる音なのだ。
いまここで、その音をご紹介できないのが残念でならぬ。
子龍がここにいないということは寂しいにちがいないが、黄金杉の碁盤で戦えないというのは、もっと寂しい。
なぜなら、子龍にはその気になれば毎日会うことができるけれど、黄金杉の碁盤はともかく貴重品だから、この機会を逃したなら、二度とお目にかかれないかもしれない。
申し訳ないが、いまは友情より囲碁。
白と黒の世界がわたしを呼んでいる。

そうして、ふたたび席についたわたしの向かいに、うさぎの仮面をかぶった男……長いのでうさぎ仮面と呼ぶが、こいつは、見るからにうれしそうに、いそいそと腰かけた。
わたしにこうして、妙に親近感を向けてくる者のほぼ九割が陳寿のアンソロジーの読者なのだ。
このうさぎ仮面もそうなのだろう。
仮面ゆえに正体がわからぬが、なんだかうきうきしている素振りからして、たとえ読者でなかったとしても、なんらかの理由で、まずわたしのことを知っている者にちがいない。
そうだ、まずは挨拶をしなければと思い立ち、わたしは、最近おぼえた西洋風の挨拶として、その手を差し伸べた。
すると、うさぎ仮面は、いささか戸惑った様子であったが、両手を手ぬぐいでささっと拭くと、わたしの手を両手で卵をつつむようにしてつかむと、感激したといわんばかりに、何度も上下に揺すった。
この奥ゆかしい風情といい、わるい人物ではなさそうである。
人を舐めきった表情のうさぎの仮面がなんともはやであるが、たとえ一試合だけの付き合いになろうと、そのあいだだけは、気持ちよく過ごしたいではないか。

うさぎ仮面とわたしは対局をはじめた。
対局の仔細はここでは省く。
ただし、その試合は、申し訳ないが、陸伯言や、ほかのアトラ・ハシースたちと行ったどの囲碁の試合よりも、手に汗にぎるものであったことは言っておこう。
なにせ、いままでの相手とはちがい、手の内が、さっぱり読めないのだ。
癖がわからない。
こちらが相手に合わせようとすれば、するりと逃げてしまうし、ぎゃくに攻撃を仕掛けてくるときは大胆な手を打ち、反撃をすると、みごとな手で返してくる。
そして、また同じく攻撃を仕掛けてくる気配があると待ち受けていると、まったく違う手を打ってくる、という具合。
とはいえ、それはうさぎ仮面も同じであるらしく、わたしの打った手に対し、たまに、仮面の奥のほうで、うー、と深刻そうに唸っている声が聞こえてくる。
なんと緊迫した試合であろうか。
その一進一退の好試合に、さいしょは陸伯言だけであったギャラリーが、一人、また一人と増えていき、やがて、われらの周囲は、黒山の人だかりとなっていた。
いま思えば、TVカメラと同じ役目を果たす魔法の水晶をわれらの碁盤に置けば、あのように人が密集することがなかったはずであるが、なにせ試合に熱中していたので、われらはそこまで気が回らない。
少年のほうはうさぎ仮面を応援するのに必死だし、陸伯言のほうは、あえてわれらを楽にする気遣いは見せたくないらしい。
「じいさん、しっかり! がんばれ、じいさん!」
そういいながらかたわらで応援する少年の姿はほほえましいのであるが、うさぎ仮面のほうはといえば、人が集まってきたがために周囲の空気が薄くなったのか、それとも熱気でのぼせてきたか、さきほどよりも唸っていることが多くなってきた。

「失礼だが、その仮面を取っては如何か。いかなる事情があって仮面をしているのかは存ぜぬが、苦しいでしょうに」
わたしが言うと、うさぎ仮面は、ぱっと顔を上げて、首をはげしく左右に動かした。
とんでもない、ということらしい。
提案したわたしとしては、悪いことを言ってしまったかなと思った。
首の振りっぷりが、あまりに激しい。
なにせ、真横に九十度どころか、もっとうしろのほうまで首が回っているのである。
よほど仮面を取りたくない事情があるにちがいない、と思う一方で、なにやら記憶を刺激するものがある。
首、首がよくまわる……なんであっただろうか。

考え込んでいるところへ、声をかけられた。
「勝負は五分五分、いや、すこしばかり、負けているのかな。おまえにしては、めずらしく押されているのだな」
おどろき見上げれば、子龍である。
人の中に入るのが苦手だと言っていたが、わたしの招待に応じてくれたようだ。
「負けてはいるが、すぐに取り戻すさ。あちらには小さな応援団がいるが、わたしには一人だった。けれど、あなたが来てくれたからね。いまからが反撃だ」
「ほんとうは、来るつもりではなかったのだが、どこぞの使い魔が来て、おまえがおもしろい試合をしているから、ぜひ塔に一緒に来てくれと言うのでな」
「へえ、使い魔? わたしのものではないな。気の利いた事をしてくれるものだ。あとでお礼を言わなくては」
すると、それまでうさぎ仮面を応援していた少年が、得意そうに言った。
「べつにー。お礼なんていいよー。あんたがじいさんと試合してくれるだけで、こっちは助かるわけだしー」
「そうか、君の使い魔だったのか。で、どんな使い魔だったのだ、子龍」
「ああ、ふくろうだ。やたらと首がぐるぐると回るやつで、途中まで一緒に塔に向かっていたのだが、酔ったのかわからぬが、眩暈がするといって、道端で休んでいる。あとで来るはずだ」
ふくろう。そして、また首か。
首がぐるぐると回るやつ……おや、なにか思い出したのだが。
それも、なんであろう、この胸の奥からこみ上げる、むかむかした感情は。
まるで溶岩が噴出すのを、いまかいまかと待っているかのような、高揚感にも似たこの感じ。
そして、ふとみれば、うさぎ仮面は、とうとうのぼせたのか、仮面の下から、だらだらと汗をかいているのだった。

「大丈夫かね、やはり、仮面を取ったほうがよいのでは?」
わたしが言うと、うさぎ仮面は、素っ頓狂な声をあげて、それまでの沈黙をやぶった。
「いいや、まったく平気だ! 気遣い不要ぞ、諸葛亮! ほれ、貴殿の番であるぞ、さっさと打つがいい!」
「ぬ?」
仮面の奥から甲高い声で言う、うさぎ仮面。
わたしを『諸葛亮』と呼ぶ、その倣岸さと、さきほどのはにかんだ様子が、どうもちぐはぐだ。
そして見れば、少年が、まさにやってしまった、とでもいいたそうに、
「じいさんのばか」
と言いながら顔をしかめているのである。
たとえ鈍くても、こんな言葉が脳裏をよぎるのは当然のことであった。
『関係者』。
こやつ、陳寿のアンソロジーでわたしを知っているという生半可なものではなく、生前のわたしを知っているのではないか? 
だからこそ、仮面をかぶって、わたしの前にあらわれた?

しかし試合中だ。
わたしは、まずは雑念を取り払って、目のまえの碁盤に集中する。
なかなかに玄妙な手を打ってくる相手だ。
わたしと手が似ているように思える。
まったくの世辞や虚勢ぬきに比べても、わたしとうさぎ仮面の実力は五分と五分、といったところか。
子龍が指摘したとおり、わたしは、いまは劣勢だ。
しかし、心強い味方がやってきたわけであるし(子龍がなにかよい手を授けてくれるというわけではない。かれがいるというだけで、なんとなく落ち着き、緊張がほぐれて、よい手を打てるのだ)負けるわけにはいかないのだよ。
はじめて塔に足を運んできた子龍のために、よいところを見せたいではないか。
それ。
ぱちり、という音とともに、わたしが石を置くと、うさぎ仮面は、
「ややや!」
と、甲高くも悲痛な声をあげた。
わたしは、どうだ、というふうにうさぎ仮面をみやる。
すると、うさぎ仮面ののぞき穴から見える瞳は、負けず嫌いらしく、屈辱にめらめらと燃えているのだった。
勝利を確信するわたし。
すると、うさぎ仮面は身を乗り出して、ひとさし指を一本、ワタシの前に立てて、迫ってきた。
もうひと勝負、ということらしい。
それを見て、うさぎ仮面の孫らしき少年が進み出て、うさぎ仮面の袖のすそをつんつんと引いた。
「じいさん、もうやめとけって。これ以上はヤバイって。正体ばれるっての」
む、正体とは穏やかならぬ。
やはり、こやつ、わたしの知り合いのようだ。
すると、うさぎ仮面は、よほど負けたことが悔しいのか、孫の手を振り払って、さらにひと勝負、とわたしに迫ってくるのであるが、しかし孫のほうがつよかった。ぐいっとうさぎ仮面の手を引っ張ると、
「あきらめろっての! いいじゃんか、基本世界じゃ、じいさんの勝ちだったんだろ?」

むむ? さらに穏やかならぬ言葉ではないか。
わたしに勝った? 
そしてぐるぐる回る首……………
くび、くび…………首ねぇ。

なぜに気づかなかった。
いや、あえて気づくまいと、心に蓋をしていなかったか。
というよりは、首がそんなにぐるぐる回るやつで、わたしに勝ったなどという男は一人しか知らぬわ!
いま心の中のなにかが、一気に沸点を越えた。

わたしは立ち上がると、うさぎ仮面に向けて叫んだ。
「貴様! 貴様の正体、見破ったり! その人を舐めきった顔をしたうさぎの面を取るがいい!」
すると、それまで勝負をせまってきていたうさぎ仮面は、うろたえて、首をぶんぶんと振る。
そこはそれ、生前、人より伝聞として知っていたとおり、回転の早い男らしく、もはや首を180度回すことはせず、きちんと90度で止めている。
しかし、もう遅いのである。
わたしが仮面をはぎとろうと手を伸ばすと、うさぎ仮面は、それこそぐっと身を逸らせて避ける。
どころか、子龍はわたしの態度に穏やかならざるものを感じ取ったらしく、むしろわたしを止めに入った。
「どうした、いったいなにをそのように興奮している。おまえが勝ったのだぞ!」
ええい、事情を話すための、そのわずかな時間が惜しいのだ。
こうしているあいだにも、機を逃さず、席を立つうさぎ仮面。
孫に手を引かれつつ、金の杉の囲碁盤をかかえて、事情がわからず、だれもかれもぱちくりとしているギャラリーをかきわけ、去っていく。
うぬ、これではわたしが変な人みたいではないか。
わたしは子龍に抑えられながらも、叫んだ。
「待てい、司馬仲達! つぎはそのふざけた仮面をとって、素顔で勝負をしにくるがいい!」
呼びかけると、うさぎ仮面こと仲達としては意外だったのか、くるりと、体を振り替えさせずに首だけを180度ぐるりと回して、わたしのほうを向いて、その仮面をずらして素顔をさらす。
仮面の下にあったのは、なんとも想像した以上に好々爺然とした、もしも仲達だということを知らなかったなら、かなり好印象を受けたであろう、濃いめではあるが品のよい顔であった。
しかし双眸だけは、まるで少年のように目をきらきらさせて、仲達は言った。
「え、よいのか?」
「ほら、やっぱり仲達であった! 子龍、あれが司馬仲達だ。忘れるな、われらが仇敵ぞ!」
しかし子龍は人格者であるところを思う存分発揮して、ただ、
「ふうん、本当に首が回るのだな」
としか言わなかった。
ええい、不甲斐ない。
一緒に怒れ!(あとで聞いたところ、たしかに仲達と知ってムッと来るものがあったのだが、わたしと一緒に怒ってしまうと、だれもわたしを止められなくなるだろう、という判断があったから、怒らなかったのだそうだ)。
仲達の横では、その孫が、
「よかったな、じいさん。やっと友達ができたじゃん!」
と、喜んでいた。
友達になったおぼえはないぞ。敵だ、敵。

そして空気を読まぬ仲達は、翌日、ロビーの交歓場のソファでくつろいでいるわたしの前にいそいそとあらわれて、囲碁の勝負を申し込んできたわけである。
それからというもの、囲碁の勝負はえんえんと繰り返されて、なんだかんだと紆余曲折を経て、いまにいたるというわけだ。





納豆まみれになっている仲達は、しょんぼりしたまま、じっとしている。
なんであろう。この重たい沈黙は。
仲達の孫はたしかに祖父を慕っていた。
われらが囲碁をしていると、かならずどこからかあらわれて、しかし茶々を入れたりするようなことはなく(そこは育ちがよいのである)、おとなしくわれらの勝負を見届け、あるときには祖父とともによろこび、あるときはいっしょに悔しがっていた。
正直に言ってしまえば、その仲のよさに、わたしもすこしばかり嫉妬を覚えたこともあったほどなのだ。
それなのに、仲達ときたら、なにを言い出すのであろう。
いや、しかし、考えてみれば、仲達がロップイヤーラビット・くっきーに成り果ててから、あの孫が仲達を探しにきたことがあったろうか。
いや、ここにくることはなくても、探している、という話を聞いたことがあっただろうか。

なにかあったのだろうかと想像していると、それまで押し黙っていた仲達が口をひらいた。
「炎ちゃんは、たしかにアトラ・ハシースとなった」
「うむ」
「しかし、炎ちゃんには克服すべき弱点が多々ある。まずひとつは、優秀すぎるがゆえに、競争相手がいなくなると、とたんに怠惰になってしまうことだ」
「うーむ。たしかに、そなたの孫の優秀さはすばらしいと思うが、その晩年は、まさに孫権のごとく、女色と酒におぼれたのだったな」
「呉の後宮の女たちをまるごと手に入れてから、まさにそっくりな生活を送るようになったのだから、目も当てられぬ。
人間らしいといえばらしいが、炎ちゃんは、わたしが見るに、ぎりぎりのラインでアトラ・ハシースになれたものだと思うておる。
つまり、ちょっとした加減で、堕天しかねない危うさがあるのだ。
わたしはそれが心配で仕方がなかった。そこで、炎ちゃんに、いろいろとアドバイスをしたのであるが、あの子には耳障りだったようでのう。
それこそ最初のうちはおとなしく聞いてくれていたのだが、だんだん反抗的になってきて、最近では、まったく聞いてくれなくなってしまったのだ。どころか、わたしがこの身になってしまう直前に、ついに鬱積したものに耐えられなくなったのか、『うるせえ、じじいのばか!』と捨て台詞をはいて、姿を見せなくなってしまったのだ。
だから、炎ちゃんがわたしを探しにくることなどないのだ。痛いところを突きおって! 諸葛亮のばかたれ!」
「あー、いやあ、なんというか、それはすまなかったな。そなたの家庭の事情を知らなかったものだから」
「ふん、いまさら遅いわい!」
言いながら、納豆まみれのまま、ぽろぽろとつぶらな瞳から涙を流す仲達。
こうなると、さすがに憐憫の情も湧く。
わるかった、わるかったよ。

「すまぬ、あやまる。ほれ、まずは納豆を……うむ、台所の流しで洗い落そう。でもって、最初から聖水を作り直そう。今度はわたしも協力する。な?」
そうして、仲達の身にねばーっとついた納豆を洗ってやり、ほどよく乾いたあとに、われらは最初から聖水を作り直した。
もちろん、臭気を避けるべく、器用にマスクなどを使っての作業だ。
一羽ならば大作業であったろうが、二羽ならば早く進む。
ミキサーをこんな用途に使ってしまって、きっと子龍は怒るだろうなと思いつつ、納豆とチョコレートとくさやをまぜて、なんとかサン・ジェルマンの言うとおりのものを作り上げた。

効き目はあったかって?
あったなら、われらがうさぎのままであるはずがない。

それまで奇跡のように仲良く作業をしていたわれらであるが、この当然といえば当然の結果をめぐってまたも喧嘩。
子龍が帰ってくるといけないというので、後片付けだけを必死にして、それからおたがいにデラックス・マンションに引きこもって、顔を見ないようにした。
そうしたら、やはり子龍が帰ってきて、われらのしたことがばれてしまい、きつーく叱られた、というわけだよ。
長かったが、こういう事情なわけだ。





仲達は、わたしがお見舞いしたうさチョップが効いているらしく、まだカーペットのうえに横たわっており、ぴくりとも動かぬ。
いや、よく見れば、気絶ついでにぐうぐうと眠っているらしい。
つくづく大物というか、ふざけたやつよ。
わたしが後ろ足でもって、えいえいとその腹をつつくと、仲達は、うふふ、と笑いつつ、こんな寝言を口にした。
「炎ちゃん、じいさんはすごいんだぞー。なにせ諸葛亮に勝ったんだからなー」
はいはい、そうですか。
ふん、わたしとて、もしおのれに、血を分けた孫がいたなら、やはり輝かしい武勲をえらんで語って聞かせたであろうよ。
べつにうらやましくなんぞないわい。

そうして面白くないまま、デラックス・マンションに戻ろうとすると、ちょうど子龍が帰ってきた。
その物音で、カーペットで眠っていた仲達はむくりと起き上がって、眠そうな顔をこする。
子龍は、言葉どおり、さっそく供給所であたらしいミキサーをもらってきたらしい。
しかし、片手に抱えているミキサーとは別の手にある1枚のチラシを見て、首をひねっている。
「奇妙なものだな。これは偶然だろうか」
なんだろう、なにが起こったのだい。
興味を引かれて、わたしが子龍の足元まで駆け寄って、そのズボンの裾をつんつんと引っ張ると、子龍は我にかえったらしく、言った。
「ああ、さっき供給所の前で、これが配られていたのだ。孔明も行方が知れぬが、仲達も消息がわからなくなっているようだな。ほら」
と、子龍はわたしたちにちらしを見せる。
とたん、それまで寝ぼけ眼であった仲達の目はぱちっと開き、やはりわたしと同じように、子龍のズボンに取りすがるようにして、二本足で立つと、ズボンの裾をぐっと引いた。
「なんだ? だれがわたしを探しておるのだ? 教えてくれい、趙子龍よ!」
もちろん、言葉はつうじない。
しかし、そんな必死の様子の仲達を見て、なにかが伝わったのか、子龍は言った。
「そうか、おまえたちはうさぎゆえ、みせたところでわからぬよな。いまから読んでやる。ほら、あちらのカーペットへ移動だ。玄関は冷える」

そうして、子龍はカーペットのところに来て腰を落すと、いつものようにわれらに読み聞かせてくれた。
仲達は、その膝に前足をかけて、真剣そのものの目で子龍を見上げる。
「よしよし、読むぞ。『じいさんを探しています』。ふむ、司馬仲達の孫が出したチラシだったか」
それを聞き、仲達の目が、さらにぱっちりと開いた。
まるで飛び出さんばかりに。
「さて、『じいさんの特長・首が180度まわる』。たしかにそうだ。つづきだぞ。『じいさんへ。じいさん、マジでどこへ行ったの。ちょー心配。だってじいさん、友達いないじゃん』。そうなのか……。『つーか、じいさん、『うるせえ、じいさんのばか』なんて言ったこと、マジで反省してます。じいさんがいないと、やっぱつまんねーし。小言もやっぱり生活の必要なスパイスだったっつーか。これって、大切なものは、失ってからはじめて気づく、ってやつ? 女好きも酒好きもひかえます。だから、じいさん、もどってきてください。孫より』」
子龍はじつに棒読みでそれを読んでくれたのだが、見れば、仲達の目はうるみ、感動ゆえか、ぶるぶると小刻みに震えている。
「司馬家になにがあったのか……む、どうしたくっきー? 風邪でも引いたのか?」
ちがうよ、感動に打ち震えているのさ。
「このところ、気温の変化がはげしいからな。仕方ない。食事ぬきは取りやめよう。なんというか、このチラシを読んだら、怒りがどこかへ行ってしまった。
俺が家族愛とかいうものに縁が薄いからか、こうしたものに触れると、やはり心が動かされる」
それはわたしも同じだよ、子龍。
われらはたしかに血を分けた家族とは縁が薄いけれど、おたがいにかけがえのない最良の友を得たではないか。
口にして言えないから、わたしがその手にそっと触れると、子龍はわたしに、すこし悲しそうな顔をして、軽く頭をなぜると、立ち上がった。
「さて、今宵はなにをつくるかな。おまえたちの好きなニンジンとりんごのサラダにするか。それともハーブと干し草のとりあわせにするか」
なんでも食べるよ。あなたの用意してくれるものだもの。

そうして、ふと横を見れば、仲達は、えぐえぐと、読めないチラシを片手に、涙をぬぐっているのだった。
最高の友を得て、孤独と別れたわたしと、最愛の孫を得て、孤独と別れた仲達。
聖水は失敗したけれど、かならず元にもどって、その存在にどれだけ救われたか、お互いに言葉にして伝えようではないか。
その意をこめて、わたしは涙をながす仲達の肩をぽんぽんと叩き、そうして、子龍のいる台所へと、二羽して歩いていったのだった。

※時間が空いてしまってごめんなさい。そしてリクエストありがとうございました(^^♪

おしまい。
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(C)Hasamino Nakama 2006 12 25