うさぎが観察日記Ⅲ・最終回
対決・Ⅲ

「フェンリル!」
ヘルが悲痛な声を上げる。われらは、突如あらわれたその血なまぐさい光景に、ぼう然とするしかない。
あのフェンリル狼、しかもあまたいるフェンリル狼一族のなかでも、最強といわれるフェンリル・アインスが倒されたのだ。

人類の始祖にて、アトラ・ハシースの始祖でもあるウトナピシュテム。
いまわれらの前にあらわれた姿は、どこか毒がある笑みを浮かべる、アラブ系の黒髪の、裸足の子どもである。
が、その全身からあふれる霊力の大きさはどうだ。
フェンリル狼と戦ったのであれば、相当な霊力を消費したはずなのに、それでもなお、高い霊力を維持できている。

いや、そうか。
ウトナピシュテムは、ヴァルキューレと同じ方法で、苦労することなく世界から霊力をくみ上げることができるのだ。
ならば、どれだけ霊力を消費しようと関係あるまい。
傷ついたとしても、霊力をくみ上げて、回復に使えばいいのだから。

どうする?
仲達から霊力を受け取るにしても、ウトナピシュテムの邪魔をされずにできるであろうか。
作戦としては、この場合、もっとも力のつよいヘルを前面に出して戦うことであるが、ヘルは、傷つき、血まみれになった弟の姿にすっかり動顚している。
とことん、争いごとに向いていないらしい。
だが、ここはヘルにも協力してもらわねばならぬだろう。
われらの敵は、ウトナピシュテムばかりではない。

「諸葛亮!」
仲達の声に、わたしは飛び上がって、背後から降ってきた刃をかわわした。
振りおろされた刃は、わたしが足場にしていたいばらでぐるぐる巻きにされたロキの、そのいばらのひとつに突き刺さる。
予想はしていたが、振り返り、その姿をみて、わたしは動揺した。
プラチナタイプのゴーレムと化した、伯約である。
中身がそうだとわかっているからか、無機質な白い鎧にも、伯約らしさが漂っている気がしてしまう。
その伯約が、わたしを躊躇わずに斬ろうとした。
うろたえ、身動きがとれないでいるわたしに、仲達が叫んだ。
「しっかりせい! そなたが斬られてしまえば、だれも救われぬぞ!」
その声に我に返り、わたしは、ニ撃目が振り下ろされる直前に、ぱっと身をひるがえし、伯約と距離をとった。
「おおい、姜伯約! 俺だ、俺、勝邪だよ! あんたがいま斬ろうとしたのは、諸葛孔明だぞ! 目を覚ませ!」
わたしの手にあるハリセン勝邪の声にも、伯約はまるで反応を示さず、冷徹に、手にした剣をかまえる。
それ自体が殺気をみなぎらせている白銀の剣をみたとき、勝邪は低く呻いた。
「やっばいな、こりゃ。ウトナピシュテムのやつ、ほかにも聖剣を持っていやがったか。気をつけな、当山孔真君。ありゃ、『泰阿』だ。
俺のちょっと前につくられたものだが、俺よりも力は上。まともにぶつかったら、俺のほうが折れるのは確実だ。しかも、いまの俺はハリセンだし」
「待て、そういえば、おまえはどうして呪詛が解けずにハリセンのままなのだ?」
「それは激しく俺が聞きたいところ。ロキは封印されたってのに、俺ってどこまで不幸なんだろ。でも、泣きたい気持ちをぐっと堪えて我慢の子」
「ぜひ我慢してくれ。わたしの霊力は、ほとんど枯渇しておる。しかも大広間の仕掛けのために、自力で霊力をくみ上げることができぬ。いまはそなたと湧天剣だけが頼りだ」
わたしが言うと、勝邪も深くうなずいた。
「俺としても、伯約の堕天にゃ、責任を感じているから協力するよ。くっそう、返す返すも、ウトナピシュテムのやつ、ゆるせねぇ。あの顔を見たら、むかむかしてきた」

唸る勝邪であるが、血まみれで、もしや息絶えてしまったのか、ぴくりとも動かないフェンリル狼の毛皮をつかんだウトナピシュテムは、揶揄するように言った。
「聞こえているよ、勝邪。けれど、おまえ程度の剣は、猫につける鈴くらいの役割しか与えられなかったのさ。それが不満なのはわかるけれど、全部を全部、僕のせいにしないでほしいな」
「にゃにおう!」
わたしの手のなかで、まさにびちびちと、採れたての魚のように暴れる勝邪。危ないって。
「あなたはだれ? フェンリルに、どうしてそんなひどいことをするの!」
怒りに震えて叫ぶヘルに、ウトナピシュテムは酷薄な笑みを崩さぬまま、言った。
「ひどいもなにも、こいつが、問答無用で襲い掛かってきたから、僕が退治しなくちゃいけなかったんだよ。ひどい臭いだね、君がニヴルヘイムのヘルか。
君がニヴルヘイムから外に出たときは、すなわち真のラグナロクが訪れる。これは最高府としても見過ごしていられないな」
「神になるためには、格好の獲物だな、のまちがいではないのか!」
と、ヘルをまるで守るように、両手を挙げて、仲達がウトナピシュテムに言う。
「ロキがわれらによって封印されてしまったがゆえに、おまえは今度は、その娘を、あきらかに敵意がないとわかっていながら、封印して手柄にしようというのであろう! そのような暴挙は許さぬぞ!」
「ゆるさない? おや、いま、おまえは、僕にゆるさないって言ったのかい、仲達」
あくまで笑みを浮かべつつ、ウトナピシュテムは、仲達に向けて、拳を振り上げる。
手にはなにももっていないのであるが、拳をほんの少し振り上げただけで、光にすら見えぬなにかが空間をよぎり、そして、仲達の周囲の地面を、引っ掻いたように大きく抉った。
仲達は身をかばう。
見えないなにかは、ついでに、仲達のグレーの毛も、すこしばかり刈り取って、さらに地面を走ると、がりがりとすさまじい音を立てながら、壁面をそのまま登り、爪あとのような傷を残し、そして天上にぶつかると、ぱん、とちいさな花火のような音を立てて、消えた。
いまのは、蜘蛛の使い魔であろうか?

「仲達、無事か!」
わたしが尋ねると、抉られて舞い上がった床材を払いつつ、仲達はうなずいた。
「大事ない。怪我はしておらぬ」
「そりゃそうさ。怪我をさせるつもりはなかったもの。僕はロキとちがって、優しいんだよ。
いまのは警告。つぎに生意気な口を利いたら、つぎはゆるさないよ? さあ、おとなしく、ヘルを僕に渡すんだ」
「元いたニヴルヘイムにつれていくのか」
「いいや。ここでフェンリル狼といっしょに果ててもらおう。ニヴルヘイムじゃ一人ぼっちだったようだから、墓は一緒にしてあげるよ」

言いつつ、ウトナピシュテムは高々と手を上げる。
すると、その掌が、星が輝いているようにまばゆく光はじめた。
あまりに強い光に、われらは目をかばう。
武器か? 
わたしが光に負けじと目を開くと、ちょうどウトナピシュテムの光の中心に、なにか四角いものが見えた。
あれは、なんであろう。書物だろうか。
さらに探ろうと目をこらせば、それは本ではなく、赤土でできた粘土板であることがわかった。

「生命の始めたる、ウトナピシュテムが、アダンの書に記せと命ず! ロキの娘にして冥府の女王ヘルに、そなたの力を以て、この地にて死を贈れ!」
とたん、さらに光は激しさをまし、それどころか、光を中心に、すさまじい旋風が巻き起こった。
われらが足を踏ん張っても、まともに立っていられないほどである。
ただの旋風ではない。
そのなかに身をおいて、わたしは魂ごと風に吹き飛ばされてしまうような、心もとなげな感覚にも耐えねばならなかった。
風だと思ったもの。
目をあければ、その風には、体があり、そしてわずかに質感がある。
精霊なのだ。
肉体を持たぬアダンの書に封印された、蛇のような姿をした精霊が、その長い体をくねらせて、部屋中を飛び回っているのだ。
体は蛇であるが、顔は人間である。
精霊は、はげしくぐるぐると部屋を飛び回ると、やがて目標を定めたか、ヘルの周囲を集中して回りはじめた。
すると、同時に、ヘルが、耳をつんざくような悲鳴をあげて、身をよじらせはじめた。
われらが戸惑っていると、なんと、その体が、下半身から、どろどろと溶け出しているのである。

「おのれ!」
怒りにかられてウトナピシュテムを見ると、これもまたおどろいたことに、それまで少年の姿をしていたロキが、まるで干乾びたミイラのような年寄りに変化しているのである。
霊力をほぼ完全に使ったため、肉体が維持できないのだ。
さらに大広間の仕掛けのため、霊力を補給することができないのである。

「やいやいやい!」
わたしの手におさまっていたハリセン勝邪が、飛び出すと、ぴょんぴょんとうさぎ跳びをしながら、ウトナピシュテムの前に進み出た。
「戦意のまったくない者を殺すことの、どこに正義があるってんだ! ゆるさねえ、このミイラ! 俺が叩き斬ってやる、そこで待ってろ!」
しかし、体が干乾びてもなお、ウトナピシュテムはわらうことをやめない。
たしかにウトナピシュテムからは、霊力がほとんど感じ取れないのであるが……
「でえい、死ねえ!」
勝邪が床から飛び上がり、自身の内に籠めた霊力でもって、ウトナピシュテムを叩くべく空中で大きく振りかぶる。
が、しかし、それと同時に、それまでまったく感じられなかった霊力が、ウトナピシュテムの周囲で発生した。
「いかん、離れろ、勝邪!」
時すでに遅し。
勝邪はそのまま勢いでウトナピシュテムに攻撃を仕掛けたのであるが、しかしウトナピシュテムにその攻撃は届くことなく、どころが、その干乾びた体を守るためにあらわれた防御の魔法陣によって、勝邪は大きく弾かれた。

と、同時に、ハリセンは炎に包まれ、床に落下する。
わたしはあわてて飛び出すと、炎に包まれた勝邪の体の火を、熱さをこらえて足と手で消した。
すこし毛皮が焦げたが、気にしてはおられぬ。
「猪突猛進というのは、おまえのためにあるのだね、勝邪。上位のアトラ・ハシースともなれば、霊力の消費が大きい魔法を使える。
それと同時に、霊力が枯渇した場合の備えもしてあってね、つねに、体に霊力をストックした石を身につけていて、防御のための魔法陣を張れるようにしてあるのさ。
この魔法陣は、相手の力をそのまま跳ね返す仕組みだ。どうだい、自分の力を受けた気分は?」
しわがれた声で、ウトナピシュテムは陰惨にわらう。
わたしは焼け焦げて、無惨な姿になったハリセンを抱え起こしつつ、ウトナピシュテムをにらみつけた。
「しかしこれでおまえも裸になったも同然であろう!」
「いいや、諸葛亮。おまえはまだまだアトラ・ハシースの戦い方を知らない。防御の魔法陣がひとつだけだと思うかい。見れば、おまえもほとんど霊力がないようだね。どうだい、死ぬ覚悟で僕にぶつかってみるかい」

たしかに、わたしには霊力がほとんどない。
しかし、ここにはもう一人、霊力を持っている者がいる。
ちらりと横目で仲達のほうを見れば、その目のまえでは、アダンの書の精霊の力によって、体が溶け始めているヘルがいる。
一撃ですむ殺し方というのならばともかく、絶えず酸を浴びせかけるような、ひどい苦しみのつづく殺し方ではないか。
自身が徐々に溶けていく痛みに悶絶するヘルの姿は、見ておられぬ。
それは仲達も同じであるらしく、最初はヘルを励ましていたものの、やがて、もはや励ましの言葉だけではどうにもならぬことを悟ったのか、眼差しをきりりと据えると、わたしのほうを一回だけ見た。
そうして、辛そうに顔を背けると、叫んだ。
「すまぬ、わが霊力、罪なき女神を救うために使わせてもらうぞ! それがアトラ・ハシースなり!」
叫びつつ、仲達は、己の手のひらをヘルに向け、自身の霊力の解放をはじめた。
自分の霊力で、ヘルの体が溶けるのを食い止めようというのである。

「そなたを恨むまい。当然のことである。いや、立派だ」
わたしは心から仲達に向けて言った。
そのことばが届いたかはわからない。
仲達は、苦悶し、身をよじらせて泣き叫ぶ女神の治療に必死である。
とはいえ、仲達も癒し手ではないし、アダンの書の精霊のほうが力がつよいことは明らかである。
懸命に治療をしても、もはや付け焼刃にしかならぬことも明らかであった。

それを見て、ウトナピシュテムは、声をたてて耳障りに笑った。
「無駄な力の使い方をするものだ。これだから新人というものはいけないよ。口ばっかりで、行動がまるでともなっていないのだから。
僕の霊具のアダンの書は、かの『ロゴス』から、人類の祖である僕に贈られたものなのさ。この書に書かれたことは、すべて現実となる。しかし消費する力があまりに多大なので、使いどころを間違えると、消滅しかねない。
いいかい、それほどに強い力を発揮するものなんだよ。それを、新人アトラ・ハシースの、ほんのちょっぴりの力で食い止めることができるものか」
「しかし、貴様を倒せば、霊具に対する命令もキャンセルされるはず」
わたしが言うと、ウトナピシュテムは目を細めた。
「どうやって。さっきも言ったとおり、僕は防御の魔法陣によって守られているんだよ。おまえの残り少ない霊力で、どうやって僕を突破しようというのだい。
持久戦に持ち込んだとしても、よく周囲を見たまえよ。僕が勝つ。そうだろう、姜維」

とたん、わたしは背中にすさまじい殺気をおぼえ、全身を震わせた。
と、同時に、頭上から影がさす。しまった、仲達とウトナピシュテムに気をとられ、迂闊にも背後に気をつけることを忘れておった。
伯約がわたしを殺すべく、背後から忍び寄ってきたのだ。
逃げる?
だめだ。間に合わない!
頭上に剣が振り下ろされると思ったそのとき、わたしの長い耳に、金属と金属のぶつかり合う、激しい音が響いた。
「当山孔真君さま、ここはどうぞおまかせを!」
見れば、召喚魔法を唱えてもいないのに、わたしを救うためにあらわれた湧天剣が、振り下ろされた泰阿の刃を、その身で食い止めているのである。

ぎりぎり、と刃同士の競り合う音がして、まずは、わが湧天剣が、刃を弾いた。
とはいえ、もともと湧天剣は、実戦のために作られた攻撃用のものではなく、祭祀用に鍛えられた宝剣で、本来は、魔法の杖のようにして使うものなのだ。
つまり、使用者の霊力を受けて、その能力を倍にして周囲に発することができるのが湧天剣である。

「湧天剣よ、わが元に戻れ! そなたはわたしの霊力がなければ、本来の実力はほとんど振るうことができないはず!」
しかし、常日頃は寡黙で従順なこの剣が、その日ばかりは強情を言った。
「いいえ! わたしと同じく聖剣である勝邪がこれほどの働きをみせましたのに、どうしてわたしが黙って影に隠れておられましょう! 浮気をしたことは許してさしあげますから、わたしのわがままを聞いてください!」
わたしはそのことばにうろたえて、鸚鵡返しにした。
「浮気?」
「そうです! わたしというものがありながら、勝邪なんかと仲良くしちゃって、いつもは『わたしの剣はおまえだけだ』と言っているくせに、この浮気者!」
「おまえ、だから怒ってだんまりを決め込んでいたのか!」
「いつもは、あなたのどんなわがままも、黙って聞いているじゃありませんか! ここは聖剣としてのプライドの見せ所! 泰阿に勝つ! 絶対に勝つ!」
その意気込みはとってもすばらしいのであるが、どこか八つ当たりといえなくもないような。
というより湧天剣よ、おまえという守りもなくなったら、わたしもすっかり丸裸も同然なのだがな。

伯約はというと、湧天剣のそんな意気込みにもまったく動ずることなく、じつに冷静に的確につぎつぎと剣を打ち込んでくる。
湧天剣の活躍を応援しつつも、わたしは気づいた。
伯約の剣は、子龍の剣によく似ている。
生前では、伯約が蜀に下ったとき、子龍はすでに病んでいたから、武術を伝授する時間はほとんどなかった。
おそらく、一度か二度、手合わせしたことを、伯約はずっと覚えて、そしてお手本にして、さらに死んでふたたび子龍と再会してからは、剣を合わせて稽古をつけてもらっていたのだろう。
主公の志を受け継ごうとし、わたしの知を受け継ごうとし、そして子龍の武を受け継ごうとした。
おまえは、生まれはたしかに天水ではあるが、しかしまぎれもない。われら蜀の子なのだ。

消耗戦である。
われらの霊力がたがいに枯渇し、持てる聖剣の力すら消えるのを、ウトナピシュテムは待っている。
わたしの霊力は残りわずか。
この最後の力を以てする攻撃がはずれたら、勝機は完全にうしなわれる。
仲達はヘルを助けようと必死に戦っており、湧天剣は、伯約の攻撃をけんめいに凌いでいる。

わたしは、焼け焦げた状態で床に転がっている勝邪のもとに近づいた。
勝邪は、まだ完全に壊れてはいない。
触れると、その手にかすかな波動が伝わってくる。
「勝邪よ」
わたしの呼びかけに、勝邪は、すこしだけぴくりと動いた。
「聖剣にとって、戦いに生き、戦いに死ぬことこそが最良の生涯と聞いた。おまえもそれは代わらぬか」
勝邪は、うなずくように、体をぴくりと痙攣させた。
わたしもこくりとうなずくと、勝邪を手にとり、そして、意識を集中させる。
わたしは勝邪を手にとって、そしてはげしい剣戟をくりかえしている伯約のほうを見た。
その顔を見ることができないのがつらい。
そして、きちんとことばで伝えられぬことが、なおつらい。
けれど、いつかおまえに伝わると信じよう。
消滅を恐れはせぬ。
ここでウトナピシュテムを倒さねば、わたしは大事な友と子の両方を失ってしまうのだ。
伯約よ、わたしはおまえの障壁でしかなかった。
わたしは消えよう。
そして、いままでのおまえへの詫びに、わたしはおまえに未来を残していく。
時間がかかるかもしれないが、かならず魂を清めて戻ってくるがいい。
それが、かつて、老いて病んだ我が身のエゴゆえに、おまえの未来を狂わせ、そして悲劇に巻き込んだわたしの謝罪なのだ。
「当山孔真君が命ず!」
わたしは叫んだ。
とたん、手の中に納まっている、焼け焦げた勝邪の体が光りだす。
「わがすべての霊力を以て、聖剣勝邪よ、復活せよ! そして、われらが敵たるウトナピシュテムを倒せ!」

手の内に火の玉を抱えたような感覚がある。
体のすべての力が、手のひらに集中して、抜けていく。
と同時に、それまで焼け焦げたハリセンであった勝邪の姿が、どんどんと修復し、そればかりではない、わたしがこれまでに見たことがないほど清清しい真白な光を放つ、見事に均整のとれた、両刃の巨剣があらわれた。
「当山孔真君よ、そなたの心、受け取った!」
勝邪の声が、わたしの体のすべてに響いた。
と、同時に力が抜け、立っていられなくなる。
その場に倒れたわたしの視界に、勝邪が、ウトナピシュテムに向かって最後の一撃を向けたのが見えた。
その力は防御の魔法陣すら叩き壊し、そして、ウトナピシュテムの本体をも、見事に切り伏せた。
ウトナピシュテムは驚愕の表情のまま、その場に崩れ落ちる。
同時に、その体から、なにかの欠片がはじけとび、そしてそれは床を落ちてころころと転がると、わたしのすぐ側に落ちた。

水晶だ。
そうか、これが伯約を操っているコントローラーなのだ。
だが、ほんの少し手を動かせば届くところにある水晶なのに、わたしはもう、指一本動かすことができないでいた。
まるでわたしと伯約そのものではないかと、なかば朦朧とした意識の中で、わたしは思う。
ぼやけてきた視界に、湧天剣がとうとう奮闘むなしく打ち払われ、そして泰阿を手にした伯約が、ゆっくりとわたしに向かってくるのが見えた。
無粋なプラチナの鎧のために、おまえの顔がわからない。

伯約よ、そなたの意識がふたたび目覚めたとき、わたしを手にかけたことを、後悔しなくてよいからね。
やっとおまえのためになることがしてやれる。そのことが、わたしはとてもうれしいのだ。
だから、後悔したり、自分を責めたりしなくてよいのだよ。
おまえが心安らかに日々を送れるようになるといい。
それをこの目で見届けることができないのが、わたしがいま、一番ざんねんに思うことだ。

「待て待て待てい!」
そんな声が聞こえて、見れば、仲達が、ちょうどわたしと伯約のあいだに割り込むかたちとなった。
仲達は、床にある、どんぐりほどの大きさの水晶を取り上げると、伯約に向けてそれを掲げる。
「攻撃をやめよ、姜伯約! ここにいるのは、そなたの師だぞ、わからぬのか!」
仲達の声に、ぴたりと伯約の動きが止まる。
命令が聞こえたらしく、泰阿をもつ手がゆるゆると下りていく。
それを確認した仲達は、こんどはわたしを振り返り、助け起こしてくれた。
「しっかりせよ、諸葛亮! せっかくうまくいったのだ、そなたがここで消滅しては意味がない! こらえろ、がんばれー!」
涙声でわたしを励ます仲達。
しかし、わたしはもはや言葉を発することすらできなくなっていた。
思えば、仲達にもひどいことをした。
旧怨を執念深く忘れず、いじわるや仲間はずればかりしていたわたしを、仲達はずっと最初から、友と呼んでいたというのに。
あやまりたいのであるが、もはや、告げることができぬというのは、これは罰なのかもしれぬのう。

「いかん、消滅しかかっておる! 姜伯約!」
仲達は、ふたたび水晶をかかげると、等身大の人形のように、わたしのそばに突っ立っている伯約に命じた。
「ここに来て、その兜をはずし、そなたの顔を見せろ! そして呼ぶのだ。この者を叔父上と呼べ!」
言われたまま、伯約はわたしのそばに座ると、その兜をはずし、そして顔を見せてくれた。
こんなに血の気が失せて、ああ、でも、だいじょうぶ。元気そうだな、よかったよ。
血の気のない唇が、ゆっくりと動かされる。
「お、おじ、うえ」
「もういちど!」
仲達が言うと、伯約は、また口にした。
「叔父上」
わたしを血縁と呼ぶか。たしかに血のつながりのある者だと。
おまえはわたしを見ているな、伯約。
この光景すら、おまえは思い出してしまうだろうか。
ならば、笑わなければ。
玄叔父は、わたしのために笑ってくれた。安心しろというように、笑った。
わたしも笑わなくちゃ……笑わなくちゃいけないのに……意識が、遠のいていく……
元気でな…………





消滅するというのは、ひどく痛みをともなうものではないかと勝手に想像していたが、そうではないようだ。
温かくやわらかいものにくるまれているような、心地よさがある。
これは、もしかして母の胎のなかに戻っているのであろうか。
穏やかな光と、ぬくもりと、静かな静かな世界。

ただいま。





ゆるりと目を開けば、わたしはぷかりと水の上に浮かんでいた。なにもない世界。真っ白な世界だ。
体が動くであろうかと手足を動かせば、問題はない。
何度かばたばたと水のなかで動かして、気が付いた。
うさぎのままである。
もしかして、諸葛孔明というのは、じつは一羽のうさぎが夢に見たなかでの人間なのではなかろうかと夢想していると、どこか彼方のほうから、わたしを呼ぶような声が聞こえた。
わたしは目を開き、そして身をひねって水の上にうつぶせになると、手足をうごかして、犬かきで前に進んだ。
遠くに島のようなものがある。するとここは海だろうか。
それにしては風も波もなく、そのうえ、水も塩辛くない。

しばらく先に進んで、わたしは島だと思っていたものが、わたしと同じように水に浮かんでいる何者かだということに気が付いた。
だれであろうとさらに近づいて、その横顔が、見慣れたものであることがわかった。
伯約だ!
手足の動きをさらに加速させて先に進めば、伯約が、水にぷかりと浮かんで、まるで赤ん坊のように、すやすやと寝息をたてて眠っているのである。
伯約や、伯約や!
わたしがその頬をぺちぺちと叩いても、伯約はまるで目を覚まそうとしない。
揺さぶっても、軽くつねってみても、身じろぎひとつしないのだ。
しかし、呼吸はある。
どうしたのだ、伯約。返事をしてくれい。
不安とおそろしさで、わたしは何度も伯約を起こそうとした。
だが、伯約の反応はまったくない。

泣きそうになっていると、やわらかな声が聞こえてきた。
「伯約は、いまは浄化の眠りについています。消滅したのではありません。安心なさい」
顔を上げれば、エレキシュ・ギ・ガル女神である。
美しい長い髪を水にひたらせているものの、その足は水の上を歩いている。
間近で見て、はじめて気づいた。
エレキシュ・ギ・ガル女神の目は、限りなく優しい。
顔も知らないわたしの母が、このような女人であったならいいなと思う。
「おまえはわたしたちが予想していたより、ずっとよい結末を導いてくれました。多くの神々をも巻き込んだ問題が、これだけの被害で済んだのは、おまえたちの力によるものです。大きな借りができましたね。礼を言いますよ」
「礼など、とんでもございません。女神よ、あなたがわたしを消滅から救いあげてくださったのですか」
「いいえ。おまえは消滅などしていない。覚えていませんか。消滅する寸前に、ラーフ・アスラたちが到着して、ぎりぎりのところでおまえが消えるのを食い止めたのです。
ラーフ・アスラとハーリティは、おまえと伯約をわたしのところに連れてきた。ここはわたしの胎盤。おまえたちを再生し、産みなおすところです」
「では、伯約も元に戻せるのですか。煉獄に連れて行かれるのではないのですね?」
わたしが意気込んで尋ねると、女神は、困ったように微笑んで、首を振った。
「ルールはルールです。例外は認められません。伯約は、一度は堕天したものと認定されました。ここで体を休ませたあと、わたしたちの煉獄に連れて行きます」
「そうですか」
わたしは、二つの耳をしょんぼりとさせて、うつむいた。
伯約を元の世界に連れて帰り、きちんと心のうちを明らかにして語り合うことができるかもしれないと思ったのだが。
「しょげることはありませんよ。伯約の場合は、憤怒にかられた罪のみ。しかも相手が、重罪人となったウトナピシュテムなのです。おそらくわれらが煉獄にいる時間も、伯約ならば、短くてすみましょう」
「ウトナピシュテムも煉獄にいるのですか」
すると、エレキシュ・ギ・ガル女神は、無言のまま首を横に振った。
「それは、あなたが知らなくてもよいことです」
「では、ヘル女神はどうなりましたでしょう。やはりニヴルヘイムに返されたのですか」
「いいえ。協議の結果、ヘルは、わたしたちと同じ煉獄に留まることになりました。生まれついての醜い姿というけれど、ここにいたら、時間はかかりますが、他の神々と同じ姿に変われます。ロキのほうは、アスガルド神族に渡されました。かれがどうなるのかは、わたしも知りません」
「きっと害されることはないでしょう。ロキ神自身が口にしておりました。神々は奇妙に優しいと」
「ならば、そうなのでしょう。ヘルはまだ幼いようだから、友達をほしがっています。仲達には、いつでもわたしたちのところに来られる切符を渡しておきました。おまえにもあげましょう。伯約に会うついでに、ヘルにも顔をみせてやっておくれ」

女神の手には、黄金のきっぷがあった。
そこには、われらアトラ・ハシースのことばで、
『下宿先、旧煉獄 銀河鉄道乗り放題 往復きっぷ 期限・好きなだけ』
とあった。
これで伯約に会える。
たとえことばを交わすことができなくても、顔を見ることくらいはできるのだ!

「ありがとうございます!」
感激して言うと、女神は、また、すこしだけ困ったように笑った。
「わかっているとは思いますが、この切符は、その存在を他者に教えた時点で、永久におまえのもとから消えてしまいます。旧煉獄への道もおまえには永久にわからなくなるでしょう」
「心得ております」
「よろしい。おまえの働きのおかげで、最高府は、煉獄についての再検討をはじめました。最高府の首脳も、ウトナピシュテムの失脚を受けて、だいぶ顔ぶれが変わったのですよ。みな、これまでの管理主義を見直そうと動いています。これで、この世界もすみやすくなるでしょう。しかし」
女神はそこでことばを切ると、言った。
「おまえには、これは言っておかねばなりません。運がよいのか悪いのかわかりませんが、おまえはまだまだ若いというのに、あまりにこの世界の仕組みや神々の問題を深く知りすぎてしまった。
わたしは、おまえの得た知識を、あえて消そうとは思いません。しかし、覚えておきなさい。その知識をもって、自分でなにか事を起こそうとしてはなりません。
おまえの知った数々の事実は、やがてはすべてのアトラ・ハシースが知るものですが、けれど、おまえが知るには早すぎる。
なにも知らなかったフリをなさい。興味をおぼえても、誘惑に負けないようになさい。そうすれば、やがて事実のほうから、おまえに歩み寄ってくるでしょう」
「申し訳ございませんが、女神よ、おっしゃる意味が、わたしにはむつかしすぎます」
「いいえ、むつかしいほうがよい。知らないふりをするのです。いいですね。さあ、もうおまえに伝えることはありません。
あちらに入り口を作っておきました。そこをくぐれば、おまえの世界に戻れます。きっとみんな、おまえを待っていますよ」
女神が示した方向には、地平の太陽のように光るものがあった。世界の裂け目だろうか。
「わたしに会いたくなったら、きっぷを使っていらっしゃい。ほんの少しだけであったなら、おまえを助けることができるかもしれない」
「ありがとうございます」
「できるかもしれない、ですよ。あまり期待しないで……さあ、まっすぐ行きなさい。振り返ってはだめ。ずっとここに留まることになってしまう。
さようなら、ぼうや。元気で」
悲しくはないけれど、慕わしさで、わたしは涙がでそうになって、こらえた。
振り返るなといわれたので、光を目指して、まっすぐと泳いだ。

あの光をくぐれば、仲間が待っているはずである。
かけがえのない友と、大事なしもべたちが。
そうして伝えるのだ。
どれだけ君たちがわたしの大切な心の支えになってくれていたかを。






子龍の家の自転車は、ゴーレムたちに追いかけられたときに壊れてしまったので、弁償すべく、わたしは供給所にいって、子龍の役に立ちそうなものを、時間をかけてじっくりと選んだ。
一緒についてきた仲達が、あれやこれやと口を出してきたので、よけいに時間がかかってしまった気がする。
貰い受けたのは、デザインも悪くない頑丈そうな駕籠つき自転車である。
子龍は買い物をするときによく自転車をつかうので、駕籠や荷台が大きいほうがいいのだ。
ぴかぴかの自転車の駕籠のなかにちょこりと収まったグレーのロップイヤーラビットの仲達は、しきりに、自分も移動するのにうさぎの身だと時間がかかるから、自転車がほしいと口にした。
たしかにこやつは風に乗れないし、地属性だから、地をいく乗り物のほうが相性がいい。
ふむ、今度、うさぎ用の自転車を作ってみようかな。

「おい、諸葛亮、さっそく趙子龍の家へと向かおうぞ。これをみたら、あやつはなんと言うであろうのう」
「喜ぶさ。もしかしたら、ついでにご馳走をしてくれるかもしれない。海の見える丘の家から外をながめつつ口にする食事は、きっと格別だろうな」
「ひまわりとれんげの畑でピクニックするのもよいかもしれぬ」
「今日はいい天気だからな。それもよいか」
言いつつ、わたしは澄み渡った青空を見上げた。

あれから、すこしずつわたしたちを取り巻く生活は変わった。
空には、もう可哀相なゴーレムが飛んでいることはない。
下宿先の管理主義が、劇的に変わることはなかったけれど、ウトナピシュテムが最高府の首長をしていたときよりは、自由な気風がひろまった気がする。

主公と張飛は塔において、最高府の人間をさがしているようだが、いまのところ、そのもくろみは成功していない。
最高府の人間を見つけてどうするのかとたずねたが、
「なんか知っておきたいだろ」
というものであった。
これは誤魔化しでもなんでもなく、本音だろう。
明瞭なことが好きな人たちなのだ。

鬼子母神や阿修羅王、ケツァルコアトルと会うことはなかった。
ただ、たまに仕事をしているときに、匿名のメールがわたしの携帯やPCに入ってくることが増えた。
しかも、それらは密度の濃い、正確なものばかりである。
あるときは、こんなメールがあった。
『バルサムって宛名の空メールは絶対にひらくな。バルサム、つまりは鳳仙花。その花言葉は忘却。つまり、最高府が都合のわるい人間の記憶を消すためにつかう、文字通りのウィルスってわけ。気をつけろよ!』
だれがくれたものか、なんとなくわかるではないか。
でもって、ハリセン勝邪とわたしの湧天剣は、きれいに研ぎなおされて(けれど、勝邪はハリセンが常態となってしまった。仲達と同じ呪詛であったらしい)、宅急便で送られてきた。
無記名だったけれど、宛名の端っこに『修羅界経由』というスタンプが押してあった。
これもだれがくれたものか、わかるというものだ。


子龍は、ケツァルコアトルの風圧で吹き飛ばされた家をあきらめ、かねてより目をつけていたという、海の見える丘の、庭の大きな家に引っ越した。
その家の周囲には枯れることのないひまわり畑と、そしてれんげやたんぽぽの咲き乱れるうつくしい野原がひろがっており、野生のうさぎも多く住んでいる。
わたしたちは、毎日のようにそこに通って、食事をしたり、お茶をしたり、たまに碁などに興じたりしながら、のんびりと過ごす。
太陽のしたで、こんなふうに穏やかに過ごしている二人と一羽が、かつては国を分かれて対決していたなどと、だれが思うだろう。

「風がだいぶやわらかくなってきたな。春が近づいているのだ。ああ、丘が見えてきたぞ。まるで故郷に帰る気がする。
まさにTake me home,country roadsだな。
♪かんとりーろーど ていくみー ほーむ」
「♪とぅ ざ ぷれいす あい びろーんぐ」
「♪うぇすとヴぁーじにあ まうんてん まっまー」×2
「♪ていくみー ほーむ かんとりーろーど♪
それ、下り坂だぞ。耳が跳ねるのう。おお、趙子龍が気が付いたようだ。われらに手を振っておるようだぞ。おーい」

歌声もなごやかに、自転車に乗って丘に向かうわれら。
何の意で碧山に棲むと問うものもあれば、何の意で丘に棲むと問うものもあり。
ひと言では言い尽くせないのであるが、こうして流れていく平和な日々もあるということである。
ひとまずこれにて、うさぎが観察日記、観察終了。

おしまい



※長きにわたり、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。うさぎシリーズ、ひとまず幕、でございます。このお話は、すこしだけずんだGAME本編につづきます。そちらもどうぞ見てやってくださいませm(__)m

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(C)Hasamino Nakama 2007 01 08