うさぎが観察日記・6
~すべてがUになる・前編~
※このお話は、ずんだGAMEの番外編で、「とらとらとら」「うさぎ」「しろくま事件」「うさぎが観察日記」「うさぎが観察日記2」「うさぎが観察日記3・前編」「うさぎが観察日記・3 後編」「うさぎが観察日記・4」「うさぎが観察日記・5前編」「うさぎが観察日記・5後編」の続きとなります。
○月×□日
わたしは窓からほのほのとこぼれてくる、冬の陽射しを白とブルーの毛皮に受けながら、丸くなってウトウトとしていた。
子龍の家というのは、玄関とリビングを隔てる仕切りがない。だから、玄関を開くと、すぐにほとんど家具のない殺風景なリビングとダイニングが見渡せる。
リビングとダイニングのあいだには、備え付けのカウンターがあり、子龍はそこにパソコン〈基本世界のパーソナルコンピュータとはちがうものであるが、形はそのままなので、みなパソコンと呼んでいる〉を置いている。
壁の色や絨毯まで白やベージュで合わせているから、清潔だけれど、どこか生活感がかんじられない部屋でもある。
そこにアクセントをつけるのが、このわたし。
わたしのケージは、リビングの隅の、子龍の寝室に向かうちいさな廊下の扉がよく見える位置にあり、ケージを開けて外に出れば、目の前はちょうど朝陽がいちばん当たる場所だ。
わたしは、夜はケージで過ごし、太陽が昇ってくると、窓から降り注ぐ日光に当たるため、ケージを出て白い絨毯の上に丸くなる。
そうしてぐうぐう眠っていると、そのうちに、子龍も起きてくるので、一緒に朝ごはんを食べたり、毛づくろいをしてもらったりするわけだ。
獣化の呪詛を馬超にうつされて、この身がうさぎに変わってしまってから、どれだけの日数が経ったのか、記憶があやふやになってしまった。
なにせ文字を認識できないうえに、人であったときとちがい、うさぎとしての体内時計になってしまっているため、昼夜の感覚が狂ってきているのである。
このような苦境においても、なんとか毎日、おもしろおかしく暮らしていられる、わたしの順応能力はたいしたものである。だれも誉めてくれぬので、自分で誉めてみた。
苦境は苦境であるが、平常心を保っていられるのは、やはり子龍の庇護のもとにある、ということが大きいだろうな。
人であるときは、そばにあるのが当たり前の存在という認識になってしまっていたような。猛省せねばなるまい。いま、言葉も通じず、わたしがわたしであると、だれも知らない(仲達は除く)状況で、子龍の包容力にあらためて感謝だ。
人に戻ることができたなら、さて、なんと感謝の気持ちを伝えたものか。
とはいえ、感謝の気持ちを伝えようとすると、照れてしまうのか、子龍は話をはぐらかしたり、逃げたりする癖がある。
縛り付けてでも聞かせねば。というか、それで感謝の気持ちを伝えることになるかは疑問だな。うむ、時間はたっぷりあるのだし、ゆっくり考えよう。
それにしても、わたしは趙子龍という男のことは、自分のこと以上に把握していると思っていたが、考えを改めねばならないのではと、最近思う。
子龍は、時計のように規律正しい生活を送っていると思っていたが、ともにこうして暮らしてみると、案外そうでもない。
うさぎは夜が活動時間なので、深夜にふと目が覚めるときがあるのだが、退屈しのぎに家のなかを散歩していると、子龍の部屋から明かりが漏れていることがある。
子龍の部屋の扉というのは重いので、そっと開いて覗いてみる、ということが出来ないのが残念だ。
起きているのはちがいなく、扉の向こうから足音が聞こえる時がある。足音と同時に、ため息が聞こえるときもあるのだが、なにか悩み事でもあるのかな。
この身はうさぎとはいえ、心は変わらぬわけであるから、悩みを相談してくれればよいのにと思う。
人であれば、なにか悩んでいるのかと尋ねることもできるのに、つくづく不便なものだ。
それに、子龍はわたしのほかには、さほど、ほかのアトラ・ハシースとは付き合いがない、ということをよく言うのだが、それもどうやら違うようだ。
というよりも、本人の自覚と、他者から見た印象に差があるように思える。
使い魔があらわれる数も、パソコンにメールが入る頻度も、わたしより多い日がある。
しかも、通信相手は、ひとりやふたりではない様子である。
それでどうして人付き合いが少ない、などと言うのだ? だれを基準に置いているのだろう。主公か?
とはいえ、なにをしていても、あまり楽しそうにしていないのが、気になるのだよ。
そして、意外に思ったことのもうひとつ。これが重要だ。
鈍い。
なぜに、うさぎのもなか=諸葛孔明と気づかぬか。気づくチャンスは山ほどあったぞ。動物的な直感力をもつ男だと思っていたのに、これに関しては鈍すぎる。
うさぎというのは、こんなに表情豊かでも、賢くもないのだぞ。
だいたい五本指のうさぎなんて世に存在しない、というところから、どうして想像力をはたらかせないのやら。
ああ、いつになったら人に戻れるのであろうか。考えていたら、また眠くなってきたぞ。
最近、眠ってばかりいる気がする……
そうしていつものように眠っていたら、ふと、視線を感じる。
見上げれば、いつの間に起きていたのか、子龍がわたしのそばに胡坐をかいて座り、じっとわたしを見つめているのである。
なんだか懐かしい癖を出してきたものだな。昔も、人が寝入っていると、知らない間に、こんなふうに寝顔を覗き込んでいたっけ。
まさか、さきほど頭のなかでついていた悪態が、どこかで通じたのではあるまいな。
寝ぼけ眼で起き上がると、子龍はやはり、胡坐をかいたまま、じっとわたしを見つめている。
子龍は、下宿先では、脱ぎ着の楽な洋装でいることが多い。
着道楽とは程遠いところにいる男だから、建具の色彩に合わせて、ということもないだろうが、壁や絨毯の色と同じようにベージュ系の衣服を好んでいるようだ。
清潔感があって大変よろしいが、なんだって今朝は、そんなに人の顔をみているのかな?
「もなか」
なんだね。
「孔明が消えた日に、おまえを拾ったのだよな」
そうだよ。だってわたしが孔明だもの。
「そして、その日を境に、馬超と姜維らが召喚先に旅立ち、いまもって連絡が取れずにいる」
うん、そうだね。
「八方手を尽くしたものの、孔明の行方を知るものがない。しかし、先だって召喚先で、俺が危機に陥った際に、孔明は唐突にあらわれた。あれから鬼子母神から連絡がないのが気にかかるが、俺は孔明があらわれたのは、偶然とは思えぬ」
お?
「しかし、鬼子母神はおまえの姿は見ていないというし、カンダタに話を聞こうにも、隔離されてしまって、それきりだ。俺が孔明の幻を見たとは思えぬ。カンダタの霊具には、幻覚作用はなかったのだ。俺は、あの洞窟の奥から、どうやって外に出てきたのだと思う?」
お? お?
「おかしなことばかりだ。カンダタの霊具・ドリームキャッチャーは、使用法が不明の廃棄物という理由で、なぜだかおまえに下げ与えられた。ただのうさぎのおまえに、なぜそんな物を、鬼子母神は与えたのだろう」
そうなのだ。
あのあと、カンダタから取り上げた霊具・ドリームキャッチャーは、鬼子母神が霊査したところ、すでに力を使い果たしているということで、わたしにおもちゃとして与えられたのだ。
しかし、それはあの任務のすぐ後ではなく、下宿先に帰還してからのことであった。
ずいぶん時間差があるものだと、わたしも不思議に思っていたのだが…
子龍よ、もしや、独自に推理して、わたし=もなかだということに気づきつつあるのか?
とたん、わたしの目はパッチリと覚めて、背筋を伸ばすと、二本足で子龍の前にしゃっきりと立った。
あなたの推理を先に進めようではないか。
で? で?
「孔明が秘密厳守の特殊任務を請け負ったと仮定したとしても、唐突にあの世界に現われるのはおかしい。まるで、俺の行動を知っていたようではないか。
もちろん、俺の行動は、最高府の広報のホームページで探ることができる。しかし、ああも、タイミングよく現われることは可能だろうか?」
ムリムリ。漫画じゃないのだから。それいけ、真相!
「考えられることは、孔明は、ずっとあの場にいたということだ。そして俺を助けた。あいつは『どこにもいっていない』と言ったのだ。ああいうときに、悪い冗談や比喩を口にするやつではない。つまりだ」
つまり?
と、わたしが身を乗り出したところで、子龍のパソコンがメールの到着を告げた。
子龍がそちらに気をとられ、わたしは思わずガックリとする。
だれだ、タイミングの悪い。
子龍は、すこし待っていてくれと言って、メールを確かめに向かった。
われわれアトラ・ハシース、およびアストラルは、互いの連絡に、こうした通信機器を使う。
とはいえ、基本世界とちがって、通信機器は、早いけれど趣がないというので、急ぎでなければ、優雅に使い魔に手紙をもたせている者のほうが、いまもって多い。
やってくる使い魔をなつかせて、いろいろ噂話を仕入れるのも楽しいものである。
それはともかく、つまり、通信機器による連絡が来たということは、つまり至急の連絡が入った、ということだ。
だから子龍は席を立ったのであるが…
子龍がマウス代わりの水晶体に霊力をこめ、メールを開いた途端、部屋中を照らすほどの閃光が、パソコンの画面から溢れた(注・くりかえすが、これは基本世界のパソコンとは、名称がおなじだけで構造がまったくちがう魔法の通信機器である)。
あまりのまぶしさに、わたしは思わず目を庇い、子龍も、突然の光に呻いている。
が、閃光は一瞬で治まり、パソコンにも異常はなにもない。
見れば、子龍は中腰の姿勢でパソコンの画面を覗きながら、顔をしかめている。
「またか…このところ、毎朝だな。差出人は『鳳仙花』。いつも同じやつだな。そんな渾名を持つ者は知らぬ。そのうえ空メールとは、いたずらにしても笑えない。なんという不届きものであろう」
うーむ、たしかに感じが悪いな。しかも毎朝とは。
「鳳仙花…英霊にこのような名の者はおらぬ。おそらく偽名であろうが、だれなのだろう。一度、返信してみるのも手だが」
下宿先に犯罪者はいないから、大きな問題になることはないだろうけれど、なんだか気味が悪いな。
子龍は、パソコン用の椅子に座ると、返信用のメールを打ち始めた。
果し状調のメールになっていないといいな。いつもは武将とは思えないほどに穏やかだけれど、あなたは、ときどき、猛虎の顔を取り戻すからな。文章の添削をしてあげられないのが辛いよ。
さーて…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………なんだったっけ?
あれ、忘れてしまったな。
わたしたちは、なにか、たいせつなことを話していなかっただろうか。
うさぎの身になってから、身の丈が変わった所為、というわけでもなかろうが、精神の幼児化が進んでいる気が。
自分が移り気というか、忘れっぽくなっている気がする。
しかしこれが、幼児化の逆で、老化であったら最悪だな。
ふしぎと人というのは、年を経るごとに、無垢な子供であった頃の性格に戻っていくものなのだ。
アトラ・ハシースに寿命はないが、獣化の呪詛を受けた場合はどうなるのだろう。
まあ、いま悩んだところで、胃が痛くなるばかりだから、あえて考えないことにして、と。
わたしは子龍の椅子の足元まで行って、そこからズボンを伝って膝に登った。
文字が読めないから、なにを書いているかはわからないが、子龍は文章を書き終わり、ちょうど送信したようである。
「間違いならば、明日からは、もう来ないであろう」
と、膝の上のわたしを撫でながら、子龍は言った。
あー、そこツボだ。
わたしがウットリしていると、子龍もそれと気づいたらしく、うさ夢ガイドで習得した「うさツボ」の知識を実技で実践していく。
まずは体を温めて、百会、風池、肩井、肺兪、脾兪、腎兪……
うーむ、なんという心地よさ。この天才あんま師。
あんまり気持ちがよいので、また眠くなってきてしまったよ。
わたしが力を抜いて、ぐんにゃりしていると、だれかがやってきたらしく、ピンポンと呼び鈴が鳴る。
はて、だれかな。だれでもかまわぬ。眠いからここで寝てしまおう。
わたしは子龍が座っていた椅子の上に丸くなる。
あとで忘れて踏んでくれるな。
またまたお休み。
どうやら、やってきたのは宅急便の類いではなく、来客だったようだ。玄関から、だれかが入ってくる気配がある。
でも眠くて、眠くて……
「やれやれ、おまえの家を見ると、帰ってきたんだなって思えるぜ。あいかわらず、なんにもねぇな。ほら、これ土産だ。東京ドームクッキー。
おー、まだうさぎを飼っているのだな、ちょうどいいや。もなかー! 儂を覚えておるかー!」
この声!
とたんに眠気も四散し、わたしは両耳をぴっと立てて、起き上がった。
椅子から立ち上がって玄関を見れば、まちがいない、主公である。
わたしが子龍に拾われた日、召喚先からの手土産持参で、主公は子龍の家にやってきた。
そして、うさぎになったわたしを見て、なにやら気づかれたような顔をされたのだ。そのとき、折り悪く主公は召喚されてしまい、わたしはそのままになってしまったのだが…
お待ちしておりました! どれだけお帰りをお待ちしていたことでしょう!
わたしは椅子から飛び降りると、主公に駆け寄った。
いや、駆け寄ろうとしたのであるが、その奇妙な姿に、足がぴたりと止まってしまう。
なぜに野球のユニフォーム?
しかもなぜ読売ジャイアンツ?
いや、百歩ゆずってユニフォームはよし。
しかし、その帽子に、うさぎの耳が付いているのは、なぜなのでございますか。
わたしが唖然としていると、主公のほうは、顔をほころばせ、おいでおいでをする。
野球帽子についた耳を気にしながらも、素直にしたがう、よいうさぎなわたし。
「よちよーち。儂を忘れていなかったか、もなかや、おまえは賢いな」
主公を忘れることなど、ございませぬ。
子龍は、主公より渡された東京ドームクッキーを、しげしげと眺めている。
「東京ドーム? 東京に呼ばれていたのですか」
「東京ドームに観戦に来た要人を暗殺する計画があってな、それがきっかけで、戦争が起こる可能性のある世界があったのだ。で、みんなでそれを阻止するという、ちょいとスパイ映画みたいな、カッコイイ任務だったのだ。ついでに試合も見てきたぞ。
よちよち。いい子にしていたか?」
主公はわたしを抱き上げると、目じりを下げて、わたしに頬擦りをした。
髯のあとのザラザラが、相変わらずなんともはやだが、もしかしたら、元に戻れるかもしれぬと思えば、我慢もしてしまえるのである。
それに主公であるから、ザラザラが痛いのが嫌なだけであって、嫌悪感はない。
「もなかはやっぱり、特別に毛並みがいいなー。いやあ、前回の召喚先でも、もなかのことが不思議と忘れられなくってな、仕事のあいまに、動物園のふれあいコーナーのうさぎに会いに行ったんだけれどよ、あいつらは、こうまで、つやつやのふにゃふにゃじゃなかったぜ」
「毎日、ブラッシングをかかしておりませんので」
と、すこし自慢げに子龍は言う。
「しかしおもしろいよなあ。儂も気になっていろいろ調べたのだが、やっぱり五本指のうさぎなんてものは、世界のどこでも確認されていねぇよ。悪趣味に異種同士を交配させて、新種を作る研究をしている連中のことも調べてみたのだが、五本指のうさぎなんていうのは、やっぱり作っていなかったぜ。
それに、こいつは、うさぎにしちゃあ、ちょいと愛想がよすぎやしねぇか。いや、かわいいからいいのだが」
お。本題に突入。
わたしは期待して、主公と子龍を交互に見る。
主公が言うと、子龍も頷いた。
「それは、それがしも気になっておりました。もなかは、うさぎにしては賢すぎます。われらの話も理解しているようなのです。ケージの鍵も、いろいろ道具を使って、勝手に開けてしまいます」
「なんだと、そいつはすげえな。ふつうのうさぎっていうのは、自分の名前を覚えるのがせいぜいなのだぜ。それが、道具を使うとなると、少なくともチンパンジー並の知能があるということだろう。
おまえ、これを供給所のそばで拾ったと言っていたな。アトラ・ハシースやアストラルのほうで、こいつに対する反響がなかったっていうことは、最高府か、あるいは幻想魔族のほうを当たったほうがよくねぇか」
ありゃ。そちらへ行ってしまうのですか。
最高府はすこしばかり関わりがありますが、わたくしが触れていただきたいのは、馬超のほうなのございます、主公。
「幻想魔族のほうは当たってみましたが、月兎族もドワーフも、このようなうさぎのことは、聞いた事がないと」
「となると最高府か。なんだか、ここのところ、最高府づいてねぇか? 若大将のことといい」
む、来た! 近い! あとすこし!
「そういえば、孔明を最後に見たのも、若大将なのだよな…」
そう、わたしはあの日、うさぎの身になっていた馬超にカフェで噛まれ、以来、この姿になってしまったのでございます!
「それに、儂はこいつを見ていると、なんだか」
なんだか?
「なんだか………」
と、主公は言葉を続けようとなさるのだが、まさに、唐突に電源を切られてしまい、つぎに動こうとしたまま、体を停止させてしまったロボットのように、ぴたりと動かなくなってしまった。
それは、おかしなことに、子龍も同じなのである。
いや、子龍だけではない。
わたしも、なんであろう………あれ? なにをしようとしていたのだっけ?
「ありゃ? なんだったっけかな? なんだか妙だぜ」
主公は、不思議そうに眉をしかめつつ、空いた手でもって、自分の頭をさすってみせる。
わたしもそれを真似て、自分の頭を撫でてみた。
今朝から、どうも空白の部分があるような……って、はっ! まさか、痴呆症状!
うわあ、いやだ! うさぎでボケ老人なんて悲しすぎる!
「ありゃ。なぜだかうさぎが泣いている。抱き方が悪かったかな。ほれほれ、もなか、幸運のおまもりをおまえにやるから、泣くなー」
と、主公が取り出したのは、白い毛玉。
なんであろうと見れば、なんだか干乾びた肉に、白い毛皮がぽやぽやとついている。
その足の形状は、なんだかとても見覚えがある。もしや…
「幸運を招くうさぎの足のお守りだぞー」
入れ込んでくださるのは嬉しいのですけれど、方向性が、すこしばかり間違っております。
というか、うさぎ足、怖い。
主公の入れ込み方は、すこしばかりずれるというか、その熱狂ぶりが、本人の知らぬところで仇になるところがある。
思い出すのは新野での出来事だ。
あれは、わたしがまだ主公にお仕えしたばかりのことであった。
主公は、新野城のなかにわたしの居室を自ら整え、暮らしやすいようにしてくださったのだが、その調度品のなかに、とても見覚えのある壷があったのだ。
複雑な文様の刻まれた、青銅の祭器であったのだが、見覚えのあるはず。それは、わが故郷である徐州は琅邪の家の、居室をかざっていたものであったのだ。
単に似たようなものがあったのではないか、とな?
いいや、その壷には、幼いころにわたしがつけたちいさな傷が、まったく同じ形で、同じ場所にあったのだ。そんな偶然は有りえない。
主公は得意げに、
「あんたの部屋は、儂が特別に見立てたものなのだ。徐州の出身だと聞いたので、儂らも徐州にいたときに、うば………ゴフン、仕入れた品物をそろえて並べて見たのだが、気に入ってもらえると嬉しいなあ」
と笑った。
あのときの複雑なことといったらなかった。
主公が陶謙の招きをうけて徐州にやってくるのは、わたしたち一家が荊州に避難してからだいぶあとのことではある。
わたしの姉は、いつか徐州に戻ることもあろうと、屋敷をほとんどそのままに封印して、荊州に逃げた。
しかし、その後、人づてに、残念ながら空き家となっていたわたしたちの家も、どこかの賊に掠奪にあったと聞いたのだ。
ふーん、あなた方か、ひとの家を荒らしたのは。
そのまま隆中に帰ることも、本気で考えた、西暦207年、語られざる春のメモリー。
「ん? なんだか遠い目をしてどうしたのかな、お守りが気に入らなかったのだろうか。おまえに返すよ」
なにやら複雑な気持ちになっているわたしを、主公は、自分の手から子龍に渡した。
子龍は、不機嫌そうなわたしを、赤ん坊にするように、よしよしとなだめる。
「ところで主公、そのお召し物からして、前回の召喚先は、野球場だったのでございますか?」
子龍が尋ねると、主公は、そうだそうだ、と言いながら、額をぴしゃりと叩いて、言った。
「おお、そうだ、大事な話があったのだ。うさぎのこともあったのだけれど、野球だよ。子龍、おまえファーストやってみねぇか」
「ファーストと申されますと、一塁の守備、ということでしょうか」
「そうそう。やっぱファーストには、いちばん臨機応変に動けるやつを置かないとな。あとスタミナ重視だな。運動量も多いわけだしよ。全身これ肝な子龍には、ぴったりなポジションだろう」
「話が読めないのですが…主公、もしや江東の美周郎より、野球チームを作らないかと誘われたのでは?」
子龍が尋ねると、主公は大きく顔をゆがめた。
「む、ってぇことは、おまえ、もしや向こうのチームに誘われたのか? そりゃいけねぇ、メンバー集め、いそがねぇといけねぇな。
やっこさん、かなりやる気みてぇだからな。さっそく自分のチームを作って、最高府に、スタジアム建設の申請までしたんだぜ」
「スタジアム?」
「アトラ・ハシース&アストラル混成チームによる、ワールドゲームの開催が最終目的なんだと」
うわー、さすが美周郎。やることがデカイな、相変わらず。
ワールドワイドというか…
おもわず耳がむずがゆくなり、わたしは両の耳を掻いた。
「基本世界でサッカー人気が高まっているときに、なぜ野球なのでしょう」
「サッカーも面白いけれど、儂たちにとっちゃ、あのゲーム展開は忙しなさ過ぎるだろう。それに、野球のほうが、戦略性が高いから、とかなんとか言っていたっけ。
儂には違いがよくわからねぇけれども、面白そうだし、儂らもチームを組んで、リーグに参加しようかと思ってな」
「主公が是非にとおっしゃるならば、それがしも微力を尽くさせていただきます。しかし美周郎の行動力というのは、相変わらずでございますな」
素直に子龍が言うと、主公はおおいに頷きながらも、気難しい顔をする。
「普通の野郎がこうまで短時間に、強引にコトを運べば、ふつうは方々から叩かれる。それが、あの男の場合は、強引さが、逆に稀な手腕だといって、賞賛されるのだから、やっぱり只者じゃねぇな」
「江東のほうで、なにか動きが?」
動きというかなあ、と言いながら、主公はしっかりした形をもつ、自分の顎をさすった。
「あそこは、家臣のほうがアトラ・ハシースで、元の君主がアストラル、っていう逆転現象が起こっているだろう。
霊格がいちばん高いのは美周郎。孫親子はこぞってアストラルなのだから、やりにくいだろうなあと思ってさ」
なぜ孫父子がアトラ・ハシースにならなかったか、であるが、これは我らのあいだでも、長いあいだ論議の的になってきた。
おそらくは、曹家とちがって、後世に対する影響が少ないこと、そして、孫堅、孫策親子とも変死したこと(孫権に至っては、晩年は老害にしてはあまりに問題の多い行動が目立ったこと)が原因ではないかということで、いまでは落ち着いている。
どうやら、彼らに対する怨嗟の声は、じつは、我らの予想以上に根深いところから発せられているらしい。詳しい事情は、当の孫家しか知らないわけだが。
ともかく、そこが最高府に問題視されたのではないか、という話だ。
あくまで噂にすぎぬが、アトラ・ハシースというのは、いい加減な噂を好まぬから、たぶん大きく的外れなものではないだろう。
とはいえ、繰り返すが、最高府がなにを考えているのか、本当にわからぬ。
む? アトラ・ハシースやアストラルは、達観した人々の集団なのではないか? とな?
アトラ・ハシース、アストラルは、たしかに只人より優れた存在かも知れぬ。
しかし、只人と比べれば、精神的にいくらか上を行っている、というだけであって、成長が止まった状態ではない。
つまり、我らもまた、未熟な精神を身に宿す『人間』のひとつなのである。
それゆえ、わたしはいまだに暗愚な性質を克服できずにいるし、人間関係のしがらみで、頭を悩ませることがあるのだ。
悩みといえば、特に姜維。
遅れてきた反抗期ともいおうか、最近、とみに冷たいのだよ。
なにかわたしに対して、気に食わぬことがあるのだろうか。
そういえば、姜維は、うさ馬超のステージを中継している画面に、ちらりと映っていたように思えたが、一緒に召還されたのだろうか。
このところ元気がないようであったから、気になる。
まあ、馬超のように賑やかで、男気のある者と一緒ならば、姜維に良い影響を与えてくれるだろうから、当面の心配はないか。
元に戻ったら、いちど時間をとって、あれとゆっくり話をするのも、よいかもしれぬ。
しかし、わたしのどこが気に食わないのであろう。
あれは生前と変わらず、わたしに、いろいろ尽くしてはくれるけれど、どうも表面的に感じられるというか、遠慮があるのだよ。
何度かそれを壊そうと試みたのだが、あれも聡いから、こちらの動きを察すると、こんにゃくのようにするりと身をかわして逃げてしまう。
だから、あれが本音をわたしに打ち明けていないだろうことは、わたしはわかっているのだ。苦しいな。
こちらの努力不足なのか、それとも蜀滅亡の責を、いまだに引きずっているのか…生真面目にすぎよう。
わたしはもちろん、主公も、姜維はよくやったと評価しているのに。
後主もだれも協力してくれないなかで、文字通り孤軍奮闘だったのだ。あの負け戦を、そして自らの無残な最期を、恥に思っているのなら、それはまちがいだ。
何度もそう言って聞かせたのだが、右から左というか、あれも頑固だからな。
どうしたら、わたしや主公や、ほかの蜀のみなの気持ちを、あれに伝えることができるであろうか。
うーむ、いまからよい作戦を練っておこうか。
わたしが考えに耽っているあいだ、主公と子龍の会話はつづく。
「美周郎にも、いろいろ抱えていることがあるのでしょう。しかし、このあいだ、供給所で会ったときは、そのような素振りはまったくございませんでした。たいした男です」
子龍は、周瑜を高く評価しているのだ。
同情をこめて言う子龍に、主公は、すこしばかりおもしろくなさそうに言った。
「おまえは、美周郎の肩を持つわけか。かつての敵すら魅了する。そこがやつの凄さだな」
「それがしは、完璧にもっとも近い男の名をひとり挙げろといわれたら、周公瑾を挙げますが」
「べた褒めだね。孔明じゃないのか」
「あれはボロボロです」
……………………そうかい。
「とはいえ、欠けているところが、あれの面白みでもあります。それを克服しようとするさまをみるのは、なかなか楽しい」
「ま、そうだな。完璧は、美しいが冷たい。美周郎っていうのは、いつ見ても外面は完璧なのだが、あれが素とは思えねぇ。大きなお世話かもしれねぇが、いつ素に戻っているのだろうな」
「それは、孔明も似たようなことを申しておりました」
そうさ。美周郎には、半端な気持ちで近づいてはいけない。外面の完璧なのにころりと騙されていると、とんでもない。
あの人は、青嵐のような激しさと恐ろしさを内面に隠し持っているのだ。巻き込まれたら、逃げ出すのは容易じゃない。
下手すると命を取られるぞ。
「孔明も野球チームに参加してくれるかな。あいつの場合、おっとろいから選手は無理だけれど、コーチ兼マネージャーにはぴったりだと思わねぇか」
「バットの代わりに聖剣を振り回しかねませんからな」
子龍がめずらしく冗談を言っているなあと、わたしは思ったのであるが、主公は笑わず、まったくだ、とうなずいている。
わたしは、あなた方の中では、いったい何者になっているのだ。
いくらなんでもバッターボックスで聖剣なんぞ振り回すものか………多分。
「ところで、うちのチーム名はどうするかなあ。孔明がいる、っていうことで、ドラゴンズ、っていうのが、まあ妥当かなと思うのだが、ちとインパクトに欠けるだろ」
「美周郎のところのチーム名は、決まっているのでしょうか」
「ああ、スワローズからヒントを得て、江東スワンローズに決まったのだと」
「スワンローズ…『ン』がひとつ加わっただけで、また耽美な」
スワンローズ? スワンローゼスが正しくなかろうか…などとツッコミを入れようものなら、目だけが冷たい、あの不気味な笑顔でもって、ならば、君の卓越した頭脳でもって、別の名を考えてくれたまえ、とかなんとか言うにちがいない。
想像しただけで、ぶるりと体が震えてしまう。
おー、コワ。黙っていよう。
「やっぱ蜀漢ドラゴンズってのが妥当かな」
「蜀漢ドラゴンズ…悪くはありませぬが」
「うーん、やっぱり弱いか。蜀漢タイガースとか、蜀漢フェニックスも考えたのだがな、よそのチームとダブりそうだし、スワンローズくらいのインパクトが欲しいよな。
東京ドームでいろいろ考えていたのだけどよ、もなかをマスコットキャラクターにして、蜀漢ラビッツってのもいいな。ほら、ジャイアンツのマスコットキャラも、うさぎじゃなかったかな。♪ビーバー ジャイアンツー♪」
♪ビーバー ジャイアンツー♪ はいいけれど、ジャビットって、うさぎなのか、あれは(※うさぎのようです。ちなみにビバ・ジャイアンツは読売ジャイアンツの公式応援歌。歌手・中川興一)。
「マスコットキャラはかまいませぬが、蜀と兎は、それがしがもなかを飼っているという以外に、ほかに結びつきがありませぬ。パンダやレッサーパンダのほうが、
イメージしやすいのではないでしょうか」
「蜀漢パンダベアーズ…まあ、悪くはねぇな。ちと弱そうなのが気になるが」
などとチーム名について二人が話をしていると、ぴんぽんと、ふたたび呼び鈴が鳴った。
今日は珍しく客が多いな。主公を追いかけて、だれか来たのだろうか。
子龍は、わたしを主公に渡して、自分は玄関に向かった。
主公はひとりで、まだチーム名について考え込んでいる。
「孔明と愉快な仲間たち…あるいは、関羽と張飛と素敵なやつら…他の時代の連中には判りやすいが、それじゃあ、儂が、ちぃとばかり気の毒だな…「桃園倶楽部」…なんかそう言う名前の麻雀屋が基本世界にあったような…」
わたしは、主公の手のなかで、張飛や関羽を前面に出すのなら、いっそ蜀漢ヒゲモジャーズというのはどうかと思いついた。
インパクトにかけては、スワンローズの比ではない。
いいと思うのだけれど、ヒゲモジャーズ。
「んー? なんだ、もなか、自分の髯がどうした?」
いえ、名前をね、ヒゲモジャーズ。ドジャースみたいでしょう?
「髯がなんだい、こそばゆいのか?」
って、ヤメテヤメテ。わたしの髯を引っ張らないでくださいな。抜ける、抜ける。
普段は生やしていないけれど、うさぎに髯は必需品。
抜けたら大変なのである。
かみ合わないコミュニケーションをとっていると、玄関のほうで、こんな声が聞こえた。
「だれだ、貴様は!」
む? 侵入者か?
玄関を開けた子龍であるが、開けたなり絶句している。
「いまさら、だれだとは無礼な! わが顔を忘れたか」
と、若い男の声が聞こえる。
知らぬ声…いや、なんだか聞き覚えが、ほんのりとあるぞ?
わたしは主公の手から床に飛び降りて、玄関へと向かった。
そうして、戸惑っている子龍の足元に並んで見上げれば、そこには、やたらと濃い顔の男が立っていた。
色の濃い品のよい装束を身にまとっているものの、奇妙なのは、肩からかけたその白いギター。
流しのアトラ・ハシースだろうか。うちはスナックじゃないぞ。
そしてなにより印象的なのは、ひと目みたら忘れられない、くっきりはっきりの目鼻立ち。
中国人であろうとは思うが、彫が深く、どこか西域の民族を思わせる。
というか、濃い。
どれだけ濃いかといえば、お好み焼きの上に、さらにてんぷらが乗っているくらいの濃さである。
とはいえ、この男の場合、濃さ=線の太さではない。
いまは漢服を身にまとっているけれど、体つきが華奢で、いかにも貴族的な雰囲気がある。
この顔は、ロココ調の装飾過多で悪趣味な服装が、妙にぴったりくるだろうな。
長すぎる感のある密度の濃い、長―いまつ毛は、見事にくるりと上向いて、大きな目を、さらに大きく見せているのだが、あまりに立派過ぎて、まるで有刺鉄線。
鳥が早贄に使いたくなるだろうなと思わせるものだ。
顎が細く、繊細な内面があらわれておる。
ふとしたことで貧血を起こしそうな、青白い頬をしているぞ。
レバーを食したまえ、レバーを。
しかし…どちらさま?
わたしも子龍も不思議に思って、首をひねっていると、男が、わたしに気づいて首を向け、そうしてなんとも形容しがたい、悪臭をまき散らすラフレシアに酔った男のように不気味な笑みを浮かべ、わたしを見る。
そのとき、わたしは気づいた。
この背景に薔薇を描き散らしたくなるような容姿を老けさせて皺を描き、落ち着いた雰囲気を加味し、目を垂れさせたなら…
ぞくりと背筋を、震えが走る。
やや! こやつ、仲達だ!
わたしを二度目のうさぎに変えた憎き男!
震えは、恐怖のためではない。怒りのためだ。
わたしの怒りのスイッチが、またも瞬間湯沸し器のごとく、がちりと点火される。
おのれ、よくもノコノコとわが前に姿を現せたものだ!
そうして、しばしわたしと仲達は、子龍の家の玄関先で、火花を散らし合ったのである。