七夕フェスタ・リクエスト企画第三弾 シンデレラ様よりのリクエスト

生まれ出(いず)る心に

偉度は動く彫像のように、のったりとした人々の動きを横目にみながら、しばらく広場や、あちこちの路地を徘徊した。
そうして、まさに唐突に気づいた。
いまは、お勤めをしているので気負っているからだろうか、最初に、この場所に足を踏み入れたときにおぼえた恐ろしさが、いまはない。
荊州にて分かれた兄弟たちの姿を、ここで見つけてしまうことの恐ろしさ。

恐ろしさ、か。

ふと、己の不甲斐なさがおかしくなって、偉度は思わず、自嘲の笑みをこぼす。そうして、天空にあり、黒い群雲のなかに見える、にじんだ月を見上げた。
あのひとならば、こんなことは思うまい。
たとえ見つけてしまったとしても、ひとたび己の手から漏れた水ならば、乾ききってしまわぬうちに、また掬ってみせようと、嘆くことすらせずに、全身全霊を傾けるであろう。
覆水盆に還らず、なんて言葉は通用しないくらい、しつこいというか、ねばり強いのだから。

不意に体じゅうが、ふわりと羽根のように軽くなった心地がして、ああ、わたしは本当に救われていたのだな、と偉度はあらためて思う。
ついさっきまで、自分の過去、その意味を忘れるほどに、黄淵をおびき寄せることに集中していた。
なんの疑問も思うことなく、闇への嫌悪も忘れて。
ほんとうにさっきまでは、黄淵の歪んだ欲望のために、幸福を摘み取られ、人生を狂わされた女たちのために、ただそれだけのために純粋に動いていた。
動くおのれを疑問に思うことすらしていなかった。

もしも十年前の自分がここにいて、いまの姿を見たら嘲笑したことであろう。
そんなことをしてやったって、だれに感謝されるわけじゃなし、こんな命令はだれからも受けちゃいない。
相手は黄家という、成都の豪族のなかでも名門なのだ。面倒をどうして自分から呼び込む真似をするのだ?
偉度は過去のおのれに言い聞かせる。
だから言っただろう、単なる縄張り争いなのだ。
光にねじ込もうとする歪んだ闇を、叩き潰す。それだけのこと。そのために、自分は生かされているのさ。
昔のおまえは、意味も判らず、命じられるまま、人を殺めていた。莫迦な連中の便利な掃除屋がおまえだった。
いまは、意味のある殺しをしているのさ。莫迦よりは、ちょっとマシな程度の連中のための、掃除屋。
そう、立場自体は、変わりはしないのだ。

どこかの店から、気だるげな筝の音が流れてくる。
たしか、これは最近、流行っていた歌だったな。あのひとが、気づいていたかはしらないけれど、口ずさんでいたっけ。どこで覚えたのやら。
偉度は笑いながらも、筝に触発されるようにして、一緒になって唄を口ずさみはじめた。
それは、男の訪問が、ぱたりとなくなったことを嘆く、娘の唄である。
このまま見捨てられるくらいならば、死んだほうがいい、こちらはすっかり婚儀を挙げるつもりでいたのに、兄弟からも身持ちが悪いように思われて、このままどうして生けていけ、というのか…詩経にあった詩を、さらに今風に変えたものである。

ぺたり、ぺたりと石畳を蹴る、自分の足音が響く。
たまに蹲る闇のなかに人影があるのを偉度は見たが、それはどこかの店から放り出された酔客か、あるいは客を取ることが出来ずに、あたりをふわふわと流れている流しの娼妓たちであった。
かれらの人生は、堰の止められた腐った水面に、集って浮かぶ木の葉のようだと思う。
好むとこの好まざるとにかかわらず、そこに流されて、もはやどこに移動することもできず、あとは腐り沈むように死を待つばかり。
彼らが好んでここにいる、というわけではないことは、判っている。
それでも、軽蔑を拭うことができないのは、真剣に人生と向き合って生きた結果の、この末路ではないからだ。
彼らは戦うべきときに戦わずに、逃げ出した。
そのツケを払わされているのであるが、ツケすら、真剣に払おうとしないので、複雑怪奇な運命というものは、利子をどんどん膨らませ、彼らに返済を迫っているのである。
守れなければ…いわずもがな。
大きな悲しみがない代わりに、大きな喜びのない人生が終わる。

彼らの中にあって、闇の中で、もぞもぞと、いつまでも天空にあって、自分について回る月のように、動いている影がある。
偉度がさっきから、巻こう、巻こうとしている、赤頭巾であろう。
おかしな殿様だ、と偉度は思う。
巴蜀の人口だけで約六百万人あまり。
そのなかの、ごくごく一部の悲鳴を聞いて、助けてやって、仁君のフリをしたいのだろうか。
まあ、でも、人を忠誠の美名の元に、むりやりに従わせた、同族のだれかさんよりは、ずっとマシか。
おそらく、偉度があまりに動き回るので、身を隠してついてくのが、やっとにちがいない。
偉度としては、自分の動きについてこられる、というだけで、あの殿さま、やっぱり若い頃から、ぶいぶい言わせてきたのは、伊達じゃないな、と感心するところであるが、齢五十を超えた劉備には、この暗夜行はきつかろう。
ぶつくさ言っているのだろうな、と、その姿を想像しただけでおかしくなり、思わず偉度が声をたてて笑っていると、背後より、声がかかった。
「ご機嫌だね、姐さん」
この界隈には似つかわしくないほど、明瞭で、品のよい発音の、若い男の声であった。
偉度は、ぴたりと足を止める。

こいつ、いま、足音を消して、寄って来た。

声を発さずにすこしだけ顔を振り向かせると、夜闇に、男の輪郭だけが見えた。
すぐそばの家から漏れる明かりのために、男の顔は、逆光になってしまい、見ることが叶わない。
男は、最初は、蕭然とそこに立っていた。
が、偉度の横顔をはっきりと確認するやいなや、男は利き腕をすばやく動かすと、その拳でもって、がつんと偉度を殴りつけてきた。
目に火花が散る、とは、このことであろう。
闇夜に熔けた月と、人家の明かりがぐらりと視界を回っていく。
偉度は地面に叩きつけられ、そのまま倒れた。
男の、足音を殺した気配が近づいてくるのが判った。





実のところ、偉度は気絶などしなかった。
たった一度だけ拳を叩きつけられたくらいで、気を失うような、ヤワな鍛え方はしていない。
避けようと思えば避けられた。
事前に、男…黄淵は、女を殴りつけてくる、ということは景から聞いていたし、人間という物はなぜか、悪事も善行も、いつも同じ方法を踏襲したがる。
わかっていながら、それでも避けなかったのは、女たちの味わった苦痛を、自分も同じように感じたかったからだ。
感じた上で、怒りと憎しみを、巫女のように呼び寄せて、この男にたっぷりと返してやるつもりであった。
けして、ただではおかない。

肩に担がれているのがわかる。
黄淵は慣れているのだろう、足取りもしっかりと、軽くはない偉度を木材でも運ぶように、息もほぼ乱さず歩く。
そのくせ、ぶつぶつとしきりに独り言を言っているのだが、それはほとんど意味を為さないもののうえ、早口なので、偉度には、はっきりと聞き取ることができなかった。
極上の獲物を得ることに成功した、狩人の気持ちなのであろう。
赤頭巾の殿様、下手に飛び出してこないと良いな、と偉度は思ったが、さすが、修羅場をいくつも潜り抜けてきた男だけあり、劉備は、いまのところ、様子を伺うことにしているようだ。
たしかに、この状態では、「女の格好をしていた男を懲らしめてやっただけ」と言い逃れされかねない。

黄淵は、やがて、偉度をどこか、ひと気のない廃屋へと連れ込んだ。
荷物のように、地面に落とされることを覚悟していた偉度であるが、意外にも黄淵は、そっと大切なものを扱うように、偉度を地面に横たえた。
いや、地面ではない。石畳の上のようだ。
うっすらと目を開くと、にじんだ月が真上に見える。
そして、痛みに呻くフリをして、手を動かすと、手の甲に、なにかが、柔らかさを含んで崩れたのが感じられた。
煙った香りが一瞬だけ感じ取れた。
そうか、火事で消失したものが、そのままになっている家、か。
偉度は合点しながらも、自分を、鼻息荒く見下ろしている男の気配をおぼえ、気絶のふりをつづけていた。
視線に敏感な偉度には、男が、やわらかな月光をたよりに、偉度の容姿が、自分の基準に合うかどうかを、じっくり確かめているのがわかった。
男が、蝋燭や行灯などを持っていなかったのは幸いである。
まさか、自分が攫ってきた者が、男だと言うことには、気づいていない様子だ。
頬を触れられる気配があり、肌の感触を確かめているのだと知れた。
このまま、手は襟元に行くか、それとも胸元にいくか、そうなったら、目を覚まさねばな、と思って身構える偉度であるが、男の手は、頬をなぞったあと、離れる。
そして、偉度は初めて、男の足音を聞いた。それが、離れていく。
なぜ離れる? 
もしや、攫う男と、襲う男と、別人なのか。
なればやっかいだな、と、ふたたび、うっすらと目を開き、闇の中に、もう一人の気配を探るが、廃屋は思った以上に狭く、見れば、焼け残った戸口から、男がきょろきょろと、こちらに背を向ける格好で、あたりを探っているのが見えた。
大胆な犯行を重ねながら、妙なところで神経質な男だな。
嫌悪と共に、偉度は思った。
無防備な娼妓を殴りつけて攫い、襲う。
それでは足らなくなり、今度は、市井の、気に入りの美人の家を狙って、押し込み、襲う。
そして我は黄家の息子なり、と、沈黙を無理に押し付け、去っていく。
この男は、卑劣な臆病者なのだ。

「だれかいるかい、黄家の若旦那」
黄淵が、ぎょっとして、こちらを振り向いた。
その顔。陳叔至と同じくらい、いや、輪をかけて特徴のない、それこそ、どこにでもいそうな顔をした男であった。
あまりに平凡な面構えをしているので、偉度は拍子抜けした。
もっと、醜怪な容貌をしているとか、悪鬼のような面構え、というのであれば、女たちを襲う理由、その歪んだ理由も、容姿がまずくて、女たちに相手をされないことを恨んで、ということで、説明がつけられたであろう。
しかし、黄淵は、あまりに普通の容貌をしていた。
加えて、父親に甘やかされ放題に甘やかされ、食うにも困らない生活をしている。
なにが気に入らない? なにに飢えている? 
おそらく問うても、本人にすら、うまく答えられないであろう。
手が届きそうで届かない、しかし確実に胸のうちに巣食っている、悪夢の塊。
ああ、またか、と偉度は暗然とし、上半身を起き上がらせると、うろたえている黄淵に尋ねた。

「だれもいやしないだろう。あんた、ここでこうして、いっつも女を手篭めにしていたのか」
「おまえ…男か?」
声でそれと知れたのだろう。
今更なうろたえぶりが可笑しくて、偉度は声をたてて笑う。
「そうだよ。残念だったね、女じゃなくて。今度から、獲物を吟味する時は、咽喉元に余計なものがないか、見ておくのだね。ただし、あんたの『今度』はもうないけれどね」
偉度は、にやりと不敵に笑みを見せると、隠し持っていた、愛用の短刀を抜き放つ。
それはおぼろな月の光を受けて、銀色に凶悪に輝いた。
黄淵の顔から、血の気が引くのがわかった。
「おや、もしかして実戦経験、ほとんどない? そうか、あんたは女を選ぶ時に、あまり戦わずに女を襲える家ばかり狙っていたのだな。臆病だから」
最後の、臆病、のひとことで、黄淵の頬がぴくりと動いたのがわかった。卑劣漢のくせに、誇りの高さは人並み以上、というわけだ。
「だれかを呼ばれて、武芸達者なり、警吏なりが追いかけてきたら、恐ろしいから、わざと女の身元がはっきりわかるような所持品を奪い、そしてあえて名乗ったのだね、漢嘉太守をつとめる黄家の息子だと。だから、自分の家より格式の高い家は狙えなかった。これも、怖いからさ」
「ちがう!」
黄淵の声は震えていた。しかし、それはおのれの悪事を掌握している偉度への怯えではなく、偉度の決め付けが許せないから、という様子である。
「おれは、臆病なんかじゃない! 臆病じゃないから、訴えられても怖くないから、名乗ったのだ!」

ふざけるな。
偉度は腸が煮えくり返るほどの怒り、というものを、はじめて他人のためにおぼえた。
この男の、なんと身勝手で醜い物言いか。
こいつは、自分以外を人間だと思っていない。
感情のあるものだと理解していない、偉度の天敵ともいうべき係累に属する、真の悪であった。

「臆病じゃない? それは、とてもいいことだと思うよ」
偉度は、ゆっくりと石の寝台から起き上がる。そして、女装を解かぬまま、短刀を構えた。
「では戦おうではないか」
黄淵は口ごもり、言葉を発さない。偉度は目を細め、己の頬から笑みを消した。
「あえて名乗らぬ。おとなしく死ね」
黄淵の、ぜっ、と息をのむ音が聞こえた。
戦うこともできない、こんなヤツのために、なぜ、苦しまなければならない人々がいるのか。
黄淵が戸口から、外へ逃げ出そうとする。
偉度は、領巾に仕込んでいた鏢を投げつけると、黄淵の足元に絡ませるようにした。
とたん、黄淵はもんどり打って倒れる。
偉度は、そのまま、領巾が引きちぎれるまで、容赦なく、黄淵をおのれの方に引き寄せる。
黄淵は、必死に逃れようとするものの、不様にあがくその指には、廃屋の泥が埋まっていくだけである。
「どうしたい、若さま、臆病じゃないのなら、なぜ女の格好をしているわたしから逃げなさる? 戦ってみたら如何か。それとも、女ならば勝てるけれど、男には勝てないと?」
「ち、ちが」
ちがう、と言いたいようであるが、偉度は聞かなかった。
そして、領巾で押さえつけるようにして、うつぶせになっている黄淵を蹴り飛ばして仰向けにし、まずは、のしかかるようにして、膝をうまく使い、相手の利き腕である右肩を外した。
黄淵のぶざまな悲鳴が廃屋中に響いた。
「なぜに嘆かれる、黄家の若さま。おかしいじゃないか、女だって、こうして泣いたり、叫んだり、許しを請うたりしただろう。それを聞かなかったあんたが、なぜに嘆くのだ」
「貴様、俺は、漢嘉太守の息子だぞ!」
「だからなんだね。わたしの知ったことじゃない。あんたが、女たちの幸せなんぞ、知ったことかと思ったように、わたしもあんたが誰であろうと、知ったことじゃないのだ!」
肩の痛みに呻きつつ、なおも起き上がろうとする黄淵の顎を、偉度は地面に押さえつけるようにして掴んだ。
ごん、と地面に後頭部がぶつかる音がする。
「わたしもいろいろ考えてね。あんたをどうするか、本当に真剣に考えた。笑わせるじゃないか。このわたしが、おまえなんかのために、頭を使わねばならなかったんだからね。それはたいしたものだよ、誉めてあげよう。
だがね、若様、あんたを殺しても、あんたに死に追いやられた娘は戻ってこないし、女たちの傷は癒えない。どうだろうね、若様。わたしにはたくさんの知り合いがいてね、あんた位の年の男の宦官を、捜している人間がいるのだよ」
「か、宦官?」
黄淵の引っくり返った声がする。
それが滑稽だったので、偉度は思わず残酷な笑みを浮かべた。
「そうだよ。宦官さ。ただね、そいつはちょっと変わった男でね。宦官といっても、自分の女に身の回りの世話をさせる男を、捜しているのじゃないのだ。つまり、女の代用品として、宦官が欲しいのだそうだ。あんた、いままで、さんざん手前勝手にいい思いをしてきたのだ。今度は、自分が役に立ってみないかい」
「い」
いやだ、と答えようとした黄淵は、いつのまにか、偉度の刃が股間にぴたりと当てられているのに気がつき、息を呑んだ。
もはや偉度は笑っていなかった。暗い目をして、黄淵を見据える。
「あいにくと、痛み止めもなにも持っていない。血があんまり出過ぎないことを祈るよ」
衣を割られ、冷たい刃の感触が、触れるか触れないかのところで感じ取れたのだろう。
それまで、恐怖と痛みに顔をゆがめ、震えていた黄淵が、突如として屠殺される直前の牛のように大暴れをはじめた。
しまった、追いつめすぎた、と偉度は後悔したが、遅かった。
馬乗りになった体の下で、黄淵は激しく暴れ、身をよじって、偉度を跳ね飛ばすと、外れた肩を抱えたまま、立ち上がった。
「待て!」
黄淵は聞かず、廃屋の戸口から、転がるように逃げていく。
必死な人間の抵抗の強さを、偉度は計算に入れていなかった。
震えて怯える黄淵の姿を前に、獰猛な苛虐心しかなくなった。
それとて、弱さである。
己の性を押さえつけられなかったことを呪いつつ、偉度は逃げる黄淵を追った。

と、暗闇から、黄淵の前に立ちふさがる影がある。
赤頭巾の殿様か、と思った偉度ではあるが、そうではなかった。
「黄家の息子だな? 娼妓たちから、おまえが今日もこのあたりをうろうろしていると聞いてきたのだ。ここで会ったが百年目ぞ! 蕭花の仇をとってくれよう!」
蕭花の婚約者であったという、奉であった。
なんと間の悪い、と偉度は舌打ちをした。
奉も決死の覚悟できたのだろう。
その手には剣が握られているが、握り方からして、まるで武芸をかじったことのない男の物腰だとわかる。
黄淵も敏感にそれを感じ取ったらしく、外されていない左腕を振り上げるや、奉の横面を難なく殴り飛ばすと、その手から剣を奪い、横倒れになって呻いている奉の咽喉元に、剣を突き立てた。
「止まれ! さもなくば、こいつを殺すぞ!」
「とことんまで腐った男だね」
憎まれ口を叩く偉度であるが、言われたとおり、黙って従うしかない。
足を止めると、黄淵は、咽喉元に剣を突きたてたまま、じりじりと後退していく。
偉度の脳裏には、つぎに黄淵がどうするか、たいがいの予想ができた。
かつての自分なら迷わずそうしたし、そうしろと、教えられてもいたこと。
すなわち、奉を刺し、こちらが手当てのために足止めを食らっているあいだに、逃げるつもりなのだ。
頭に差したままになっている銀の簪は、武器もなるものである。
ここで簪を手裏剣の如く投じて、黄淵の手から剣を奪うことも可能だが、しかしあまりに暗すぎた。
朧月夜のおかげで、だいたいの形はわかるものの、細かいところまでが見切れない。
下手にこちらが動けば、黄淵は迷うまい。
むしろ、さらに残酷な所業に、追い立ててしまうことになるかもしれない。
どうする? 
いちかばちか…
ゆっくりと、銀の簪に手をかけたそのとき、黄淵の背後にて、赤いものがあらわれた。
赤頭巾である。
両手には大きな石を持っており、偉度にばかり集中している黄淵は、後頭部に迫る赤頭巾に気づかなかった。
やがて、がつん、と音がして、黄淵の後頭部に石が落とされた。





劉備は、暗くてよく見えねぇや、と言って頭巾を外すと、偉度と共に、さきほどの廃屋に気絶した黄淵を連れ込み、そして奉も助け出して、介抱してやった。
劉備はすっかり捕り物をするつもりだったようで、ちゃんと捕縛用の縄も用意していた。
ぐるぐる巻きにされた黄淵を転がしておき、奉の手当てがおわって、ひと段落ついたな、と偉度がほっとすると、とつぜん、それまで協力してことに当たってきた劉備が、偉度を殴り飛ばした。
「なにをなさいます!」
「黙れ、馬鹿野郎が!」
するどく重々しい叱責に、偉度は思わず口をつぐむ。
「偉度よ、おまえの前身がなんであろうと、わしはおまえを蔑んだりしねぇ。だがな、さっきのには呆れ返ったぜ。おまえ、拷問を楽しんでいやがったな。それじゃあ、こいつと何もかわらねぇじゃねぇか。しかも、宦官にして売り飛ばすたぁ、どういう了見だ! それがおまえのやり方ってやつか!」
「全部見ておられたのか」
二度も殴られた頬を庇いつつ、偉度は呻くように言う。
「孔明が見たら、泣き崩れるだろうよ。偉度よ、おまえが変わったのは表面だけか!」
孔明の名を持ち出された偉度は、相手が劉備だと言うこともわすれ、思わず声を荒げた。
「では、あんたはどうするつもりなんだ! せいぜい、そいつを警吏に渡して、法の裁きを受けさせるっていうだけなのだろう! それがあんたの正義なのか! 警吏に渡したところで、どんなに軍師が頑張っても、黄家の横槍で、こいつの罪は軽くなる。それが判っているのに、ただ捕らえて、役人に引き渡せと? それじゃあ、女たちの受けた苦しみはどうなる!」

劉備と偉度は、しばらく互いに無言のまま、視線を戦わせていた。

ふと、闇の中、くぐもった笑い声がする。
見ると、さきほどまで気絶していた黄淵が、目を覚まし、笑っているのであった。
劉備が、笑う黄淵に尋ねる。
「おまえ、なにが可笑しい」
「反省をしておりました、主公」
「わしの顔を知っておるのか」
「貴方様は特徴がございますゆえ、覚えておりました。どうぞ、それがしを警吏に引き渡してくださいませ」
ほう、と劉備は目を細めた。偉度は、いまいましさで、地面を蹴りたいくらいの気持ちであった。
反省だと? この男が、そんな殊勝な気持ちになるはずがない。
「あらいざらい、すべてお話いたします。どこの家の、どの女を襲ったか」
そういって、頭から血を垂らしつつ、笑う黄淵の笑みは、邪悪という表現がまさにぴたりと嵌まる、忌むべきものであった。
偉度は、本気で怖気を奮った。
この男の心根は、底の底まで腐り果てているのだ。
「そのときに、どんな様子だったか、中には、いやだいやだと言いながら、喜んでいる女もおりました。いえ、女という生き物は、所詮、力づくでものにされることを望んでいるのでございます。それがしは、女たちの望みをかなえてやっただけなのです」
「貴様、ふざけるな!」
介抱をうけていた奉が、黄淵に向かおうとするのを、偉度はあわてて引き止めた。
まさに、怒らせることが、この男の目的なのだ。
そうして、とことんまで人を苛めることを楽しみたいのだ。
黄淵は、鳩のような声をたてて笑いながら、言った。
「興味がおありでしょう、主公。すべてお話いたしますよ」
「いいや、いらねぇな」
偉度が初めて聞く、劉備の乾いた声であった。
はっとして見ると、その手には、奉が持っていた剣がある。
「おまえは警吏には渡さねぇ」
偉度は、劉備がどうするのかをすぐに悟った。
「お待ち下さいませ、主公が、御自ら手を下す価値のある男ではございませぬ!」
「いいや、偉度よ。警吏でも孔明でも、いまの黄家にゃ手を出せねぇ。あいつらの背後には、いまだわしらに心服してねぇ豪族どもがいるからだ。
だがな、この土地はわしの土地で、すべての責任はわしにあるのだ。こんな馬鹿野郎を今日までのさばらせてしまったのは、わしの徳が行き届かなかったからじゃねぇのか」
劉備は、ひきつった笑みをうかべ、剣を手にしたおのれを見上げる黄淵を、冷たく見据えた。
「漢嘉太守黄権の子淵よ、その名に免じて、おまえには、左将軍たるわしが、自らこの場にて裁きを下そう」
「ま…お待ち下さいませ、それがしは…!」
それ以上の問答はなかった。
ひゅっ、と空を切る音がした。
つづいて、どん、と重い一撃のあと、ごろん、と首の地面に落ちる音がした。
首を無くした身体は、しばらく血を吹いていたが、やがて均衡を失い、倒れた。

偉度の隣で、奉が、地面に蹲るようにして、声を上げて泣いていた。
恐怖か、怨みが晴らされたことによる興奮か、それともこの世の無情に対してか。
無意識のうちに、偉度は奉の背中を撫でさすってやっていた。
いままで、『兄弟たち』にさえ、こんなことをしてやったことはない。
「偉度よ」
「はい」
「すまねえが、後始末は頼んだぜ。それと、その兄さんを、ちゃんと家まで送ってやってくれ」
「判り申した。お待ち下さいませ、景に言って、主公に見送りを付けさせましょう」
「いらねぇよ。一人になりてぇんだ」
いいつつ、劉備は偉度に丸めた背中を向けたまま、赤頭巾を被った。
そうして、あばよ、と言って、片手を上げると、そのまま闇へ消えていく。
偉度は、黙って、その背中を見送った。

泣いているのだ。
こんな人でなしのためにさえ、あの人は本気で涙を流している。

見下ろすと、黄淵の、己の身に起こることを、最後まで理解できなかった顔が、闇の中に転がっていた。
他者の心が理解できないものには、真に己の心も理解できない。
空疎な、心なき者の末路が、目の前に転がっていた。





息子の非業の死を知った黄権は、怒り狂い、孔明や法正に、下手人を早急に捕まえて欲しいと、何度も訴状を送ったが、それが真剣に取り上げられることは一度もなかった。
豪族たちのさまざまな突き上げにも、沈黙したままの法正と、公平さを旨とする、らしからぬ孔明の態度に、周囲の者たちは首をひねった。
だが、やがて、どこからか話が流れて、黄権の子の、思わず耳を塞ぎたくなるようなひどい実態が知れたため、同情する声もしだいになくなり、やがて噂にも聞こえなくなった。
だれが説明したわけでもないのに、この処置が、正義であったと、長星橋の裏側に住む住人は、口々に言った。
黄権に雇われた者が、住民たちに、なにがあったのかを尋ねまわったが、口を開く者は、ひとりとしていなかったという。
黄淵は妻帯者で、皓という子がいたが、これは祖父の黄権が引き取ったことが、のちに偉度の耳に入ってきた。





黄淵の件が落ち着いてからほどなく、顔を見せないでいた薛が、左将軍府に元気な姿をあらわした。
見れば、あの夜に一緒だった、奉という青年を従えている。
薛は、偉度を見るや、丁寧に礼を取って、深々と頭を下げた。
「三日の期日をお守りいただきまして、ありがとうございます。亡き娘に代わりまして、御礼申し上げまする。わたくしも、世には悪ばかりではないのだと、救われた思いでございます。偉度さまは、わたくしどもの恩人です」
「よしてくれ。わたしは何もしていない」
謙遜でもなんでもなく、偉度は本気でそう思っていた。

赤頭巾をかぶって、しょげかえって夜道を帰っていった劉備の背中は、弱弱しいものですらあった。
なのに、偉度には、それがひどく大きく、超えがたいものに見えたのである。
おそらくあの背中を、一生忘れることはないだろう。

薛は、憂いの含まれた瞳に、それでも笑みを浮かべて、言った。
「すべてはこの奉から聞いております。今日は、あらためて御挨拶に参りました。実は、このたび、この奉を、正式に養子に迎えましてございます」
奉は、照れくさそうに、偉度に笑ってみせた。
「そう。そうかい。それはよい話じゃないか」
「はい、互いに蕭花を通して、父子となるはずだったのです。娘が死んだとはいえ、あらためて親子となってもおかしくはないでしょう。
わたしには子はなく、奉に親はない。これもめぐり合わせでございます。
もし、貴方様があの夜、奉をお助けくださいませんでしたなら、わたくしは、二人も子を失うところでございました。あなたはわたしと、娘と、奉の、三人を助けて下さった。なんと礼を申し述べてよいのやら、わかりませぬ」
そういって、薛は、感極まって涙をこぼした。
混じりけのない、純粋な、感謝のための涙であった。

そんなことはない、と二度目の否定をすることは、偉度にはできなかった。
堪えようにも、涙があふれて、止まらなかったのである。
普段は強気な偉度の、その涙する姿に、ほかの主簿たちや左将軍府の人々は、何事かと目を集めてくるが、それでも、偉度は、涙を袖で隠すのが精一杯で、声をたてずに泣くことしかできなかった。




※あとがき※
長い話となりましたが、とても楽しんで書けた、劉備&偉度のお話です。
最後にちょっとぞくっとしてただこう、ということで、あえて一文入れてあります。偉度がこれからどんなふうに変わっていくのか? 書き手としては、いろいろ整理しながらかけたと思っております。リクエスト下さいましたシンデレラ様、どうもありがとうございました&ご読了ありがとうございましたm(__)m

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(C)Hasamino Nakama 2005 08 03