七夕フェスタ・リクエスト企画第三弾 シンデレラ様よりのリクエスト
生まれ出(いず)る心に
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胡偉度は義陽の産にて、いまをときめく蜀は成都の左将軍府(左将軍とは、いわずとしれた劉備そのひとのことである)のあるじ、『伏龍』という絢爛たる雅号をもつ軍師将軍・諸葛孔明の、一の主簿(秘書)である。
偉度は、かの赤壁の戦い前後に孔明の主簿となり、以後、影になり日向になり孔明に尽くしている。
二十代半ばの、目元の涼しげな、美しい若者であったが、本人は目立つことを嫌い、いつも地味な色合いの衣を着て、つとめてでしゃばらぬように暮らしていた。
とはいえ、性格の方はといえば、決して地味でもなんでもなく、彼には、とある一面があるのだが、それは伏せておくことにしよう。
なんにせよ、地味にしていなくてはいけない理由はあるものの、なめらかな舌は大人しくしていることを知らず、『孔明の主簿の偉度』といえば、『あの孔明』の主簿、というだけあり、みなから煙たがられたり、怖がられたりと、いろいろなのである。
本人としては、孔明の令名を落とさぬためにも、これくらいで調度良いのだと思っている。
さて、この胡偉度であるが、左将軍府の出入りの商人の選出も、この偉度にまかされている。
なぜかといえば、商人にまぎれて、間者やらなにやら、よからぬ者が出入りしないか、注文の品にまぎれて、付け届けが隠されていないかを、この目で確かめるためである。
最初は、その役は自分がやる、と孔明は言っていたのであるが、そこまで目を通されていたら、あなたはきっと三年後に死にます、といつもの毒舌で制し、不満たらたらの孔明の代わりに、偉度が商人たちを監視しているのであった。
監視、とはいえ、労役囚を見張っているのとはちがうから、顔馴染みも何人かできて、かんたんな世間話もするものもいれば、付け届けとはいえないまでも、ちょっと美味しい饅頭のおすそ分けだとか、近くに咲いていた花が綺麗だったから、とか、ちいさな贈り物をくれる者ができるくらいにはなっていた。
偉度という青年に、私生活というものは、皆無といっていいくらいであったから、本来『ついで仕事』であったはずの商人たちとのやりとりは、最近、なかなかの楽しみとなってきている。
なかでも偉度が、このところ注目しているのは、薛という商人親娘で、この家は、左将軍府でつかう筆を仕入れる商人なのであるが、目利きで、長持ちしてよい字のかける筆を仕入れて持ってくる。
以前にクビにした商人は、もうけたいあまり、わざと長持ちしない粗悪な筆を納めていたから、薛は、それからいえば、ずいぶん良心的な商人であった。
また、本人も非常に人柄がよく、商人の中には、図々しくなって、饅頭の中に小金を入れてくるものあったのだが、薛はそういったことはせず、綺麗な花が庭に咲いたからといって、押し花にして、軍師さまに是非、と持ってくる。風流な男であった。
薛は、孔明と一面識もないのであるが、筆の好みで、その人となりまでがわかる、とでもいうのか、孔明がそういう典雅で、ささやかな贈り物を、いちばん喜ぶことを知っているらしい。
もちろん、孔明はそれを喜びはするけれど、見返りは与えない。薛としても、そんなことは期待していない。いや、期待してないことが、言葉に出さなくてもわかる、そういう人柄なのである。
だから偉度も、商売上では特別に贔屓にしなかったけれど、薛親娘がくると、愛想がよくなるのであった。
この薛であるが、父親本人に従って、いつもついて来る娘がおり、これがまた、市井に置いておくのが勿体無いほどの美形なのであった。
名を瀟花といい、その名もぴったりな、大人しい清楚な雰囲気のある娘なのである。
黒地に白糸で丁寧に縫い籠められた着物がよく似合い、いつも黒いぬばたまの髪に、星を象った、かわいらしい髪かざりをしていた。
内気な娘で、恥ずかしがって、偉度とも、ほかの商人とも滅多に口を利かなかったが、たまに言葉を発すると、まるで鈴のように綺麗な声をしており、笑うと、場にぱっと花が咲いたように、春めいた気配が立ちのぼるのであった。
商人仲間のあいだでも、こういうのを、ほんものの美人だといって、かなりの評判になっていたのである。
偉度は独り身であったが、職業上、いろんな女を知っていた。
だが、瀟花のような娘と知り合ったのは、初めてであった。
どういうめぐり合わせか、偉度の周囲の女人というのは、どれも意志の強い、そして言葉のはっきりした性質の女人が多かった。
偉度がめずらしく愛想よく、
「今日は良い天気だね」
というと、瀟花は、恥ずかしそうに上目遣いで頬をそめて、
「さようでございますわね」
と、小さな声で答える。
些細な反応であるのだが、偉度としては、瀟花が、自分がどんな言葉をいえば、どんな反応を返してくれるのか、それが知りたくて、楽しくて、ついついかまってしまう。
そのため、ほかの商人から、偉度さまは、瀟花さまに気がありなさるのじゃないのか、だったら、うちの芋娘でも連れてこようかな、などと冗談が飛ぶ始末。
しかし、偉度が孔明にならって、職務上ではけっして贔屓をしないということは、みな知っていたので、それ以上の軽口を叩く者はいなかったし、信頼があるからこそ、出てくる軽口なのでもあった。
「うーん、ほんとうにいい娘(こ)じゃねぇか」
不意に耳元で声がして、仰天した偉度であるが、すばやい身のこなしでぱっと振り返れば、そこには、奇妙な赤い布を被った、例の七尺五寸の男が立っている。
出入りの商人や、品物を管理するための役人たちも、やたら躁状態で、陽気で変なのが紛れ込んできた、という目を、赤頭巾の男に向けている。
本人は、周囲の目線にも、とんと構うことなく、カカカ、と目を細めて笑いつつ、偉度にいうのであった。
「おまえが惚れるのも、ちょいとわかるなぁ。いやいや、惜しい。儂があと二十年、いや、十年若かったら」
冗談ではない。いまでさえ、その気になれば、後宮に入れられるだろうよ、と偉度は思ったが、口には出さなかった。
むっつりした偉度に、なにを察したか、赤頭巾は、ばんばん、と背中を叩き、それから言う。
「冗談だよ、冗談。孔明なら、ここでさらりと流すか、強烈な嫌味を返してくれるぜ。おまえさん、孔明よりも意外に真面目なのだよな。悪かったよ、悪かった」
偉度は、腹立ちまぎれに、おのれの後れ毛をかき上げつつ、ここで、この人の頭巾をすっぽりと取って、まわりの人間を唖然とさせてやりたい誘惑にかられた。
が、ぐっと我慢をする。
孔明も、このひとと対峙しているときに、ふかーいため息をつくことがあったが、いまこそ、その理由がわかった気がした。
「主公…いえ、赤頭巾さま、昼間は、その頭巾、色を変えられたほうが、よろしかろうと思われます」
「なんでだよ。赤。オシャレじゃねぇか。赤っつーのはおまえ、『まごころ』という意味がこめられているのだぜ。しかも赤ってのは、儂にとってはご先祖さまに繋がる色だしな(漢の高祖の別名は赤帝子という)。そしてここは中華の南。南といえば五行の神は赤熛怒。赤づくめ、大変結構、ってなわけよ」
「赤には、『なんにもない』という空虚をこめた意味いたしますぞ」
「おめぇは、ずばり言ってくれるぜ。いいか、心あたたまる話をひとつしてやろう。この赤い頭巾はだなぁ、うちの死んじまった前のカミサンが、一番好きだった晴れ着でつくったものなのだぜ。これを被っていると、不思議と良いことがあるのさ。ほーら、心があたたまるだろ。ほっかほか」
「はあ…」
「現に、美人に遭うことができた。ああ、いやいや、遠慮するな、遠慮するなって」
と、赤頭巾、こと劉備の言葉に、畏まって父親の背に隠れてしまう瀟花に、にぎやかに言った。
「いやあ、眼福、眼福。左将軍府に、美人が出入りしていると聞いて、わざわざ来た甲斐があったものだぜ。いやしかし、美人は売れるのも早い。聞いたぜ、近々、祝言を挙げるのだってな」
劉備はどこから、その噂を聞いてきたのか。偉度は初耳であったから、なにやら裏切られたような気がして、親娘を見た。
ふたりは、おどろく偉度に恐縮し、
「偉度さまには、本日、あとでお時間をいただきまして、正式にご報告申し上げ、ぜひに祝宴にご参加いただこうと思っておりました」
と、頭を下げた。
祝言。
なるほどな、だからこの娘は、髪飾りの星のように、きらきらと輝いているわけか。
家庭をもつ、ということ、血族と繋がっていく、ということ、おのれの血を残すこと、そのすべてを、少年のときにすべて諦めてから、偉度は、自分には、そんなささやかな幸福への憧れは、すっかり消えてしまっていると思っていた。
ところが、どうしたことか胸が痛むのは、やはりこの娘に、恋心のようなものを抱いていたからか。
それとも、おのれをいまだに憐れむ心が止まないからであろうか。
「そのために、わざわざ?」
物好きな、と呆れる偉度に、赤頭巾は頭巾の下で口を尖らせたようである。
「なんだよぅ、美人ってのはついでだ、ついで。せっかくおまえの働き振りを見に来てやったのに」
偉度は、薄気味悪いものを見る眼で、劉備を見た。
劉備と知り合ったのは、長坂で劉備が曹操に追いまくられているときであった。以来、孔明つながりで顔をあわせたことはあるものの、特に二人で親しく話し込んだことはない。
劉備はいつも、誰に対しても気安くする。
自分に対するにしても、その前身を知りながら、蔑みの目をむけてこないのも、劉備という人間がそもそも、そういう性質なのだと思っていた。
あの孔明が、心より敬服している人物であるから、それはそうだろうな、とも納得していたのである。
「わたくしを見て、どうされる、というのです」
偉度が迷惑そうに尋ねると、劉備は、頭巾の下の顔を曇らせて、不満そうに言った。
「どうされるもなにも、どうしているかな、と思ったのだよ。熱心でやっているのか、困っていることはねぇか、楽しいのか、そうでないのか。気になるだろ、ふつう」
「みなの下へ、こうしてときどき顔を見せてらっしゃるのですか」
すると、劉備は、偉度がなぜ戸惑っているのか、その理由がわかったらしい。
ああ、と小さく言って、それから、肩を一度、ぐるりと回してから(これは、劉備の、真面目な話をはじめるときの癖であった)、言った。
「偉度よ、わしにとっては、孔明というのは実の子のようなものだ」
「それは、関将軍にお伺いしたことがございます。以前に徐州にてお子を亡くされて、年は多少ちがうけれど、そのお子と軍師を重ねてらっしゃるとか」
「ああ、雲長がしゃべっていたか。と、いうわけだ」
「なにが、と、いうわけなのか、さっぱりわかりませぬ」
「つまりだなぁ、孔明は、わしの実の子のようなもの。で、孔明は、お前を実の子のように思っている」
「それは、お見立て違いでございましょう」
孔明はまだ三十代のなかば。一方の偉度は二十代のはじめ。こんなに年の近い親子はいない。
そう反駁すると、劉備は、わかってねぇなぁ、というふうに首を振り、言った。
「だから、気持ちだよ、気持ち。おまえを、自分の子のように、あいつは思っているのだよ。弟とはまたちがうのだな。弟は育てる必要はねぇだろ、親が育てるものだから。あいつは、おまえを育てなおしているつもりなのさ。
いや、わしから見れば、立派に育ててやっていると思うけれどな。なにせ、あいつときたら、嫁さんも、兄弟も変わっていて、どうも家族というものに関しちゃ、よい縁に恵まれてないようだからな。その分、おまえさんに力を入れているのだと思うよ。いいか悪いかは別にしてな」
「そうでしょうか」
とぶっきらぼうに答える偉度であるが、顔が火照るのを止めることができなかった。こちらが頭巾をかぶっていない、というのは不利だな、と思いつつ。
「と、いうわけで、だ。孔明が俺の子のようなものなら、孔明が子のように思っているおまえは、孫、というわけだよ。で、心優しいお祖父ちゃんたるわしは、孫の様子を見に来てやった、と」
「労いと感謝をこめて、肩でも叩かせていただきましょうか」
すると、劉備は、またカカカ、と笑って偉度の嫌味を受け流した。
「そう照れるない。おまえは自分で気づいているかどうか知らねぇが、一人でなにかコトに当たるより、こういうふうに、色んな人間の中に入って、全体を動かす仕事が向いているようだな。
おまえも子龍と一緒で、人嫌いのように見えて、じつは人が好きな男だからな。人間って生き物が、絶対にひとりぼっちでいられないことを、ちゃんと理解している利口な人間なのだよ。
孤独の意味を正確に理解している人間っていうのは、儂は好きなのだ。そういうやつでなければ、本当に誰かに惚れる、ってことができねぇからな。人に惚れられることができるやつは、厳しくはできても残酷にはできない。つまり上に立つのにぴったりな性格をしている、ってことなのだよ。
惜しいなぁ、その気になりゃ、一軍を任せてやりてぇんだが、いまでも、絶対に嫌なのかい」
「それは変わりませぬ。偉度は、生涯を軍師の主簿で過ごします」
「ま、気が変わったら、いつでも言ってくれ。ところで、孫や」
孫、孫、と劉備が繰り返しているので、会話のところどころを聞きかじっていた商人たちや役人たちは、この奇態な熟年が、胡偉度の祖父、と勘違いしたようで、次第に関心をなくし、いつもの仕事に戻ってく。
「ふつうに偉度とお呼びくださいませ、恥ずかしい。なんでございますか」
「おまえのことを見に来たのもそうなのだが、実は、最近、市井に、妙な連中が出回っているそうじゃねぇか。ほら、名前ばかりの押し込み強盗」
「ああ、その件でございますか」
とたん、おだやかな主簿としての顔をしていた偉度の表情に、厳しく険しい表情が、にじみ出てくる。
劉備の言う『名前ばかりの押し込み強盗』というのは、このところ成都に出没しているという、噂の盗賊のことである。
なぜ、名前ばかりかといえば、押し込み強盗があった、という事実は純然とあるようなのに、その訴えが御上に届いてこないのだ。
つまり、悪人が市井を跳梁跋扈している、それなのに、被害をこうむった者が、沈黙しているため、漠然と強盗がいる、という事実だけが噂として流れ、どんな人数で、どの家を襲い、なにを盗んでいったのか、まったく規模がつかめない、というものなのだ。
「調べさせてはおりますが、やはり、訴えるものが極端にいないのでございます。軍師や幼宰さまとも相談させていただいておりますが、この盗賊、なにか、いままでの賊とは、ちがうところがあるのではないか、と」
「ふぅむ。それなのだが、どこそこの、だれさんが、被害者らしい、という噂もないのかい」
「あるにはあるのでございますが、当の本人に当たっても、みな頑として口を開かぬのでございますよ。たしかに、盗賊の狙いそうな、裕福な家ばかりでございまして」
「それな、じつは、わしに心当たりがあるのだが」
偉度はすばやく赤頭巾たる劉備を見た。
その眼差しは、もはや孔明の元で働く、細作の長そのものの鋭さである。
劉備は、偉度の視線を受け止め、またも、腕をひと回しして、言った。
「うちの女官に、縁談がまとまったので、じきに勤めをやめる、という娘がいたのだ。相手は尚書の縁戚とかで、いい話じゃねぇかというので、みんなで祝っていたのだが、それが唐突に、破談になりました、というのだよ。
どうも、その娘のほうが、一方的に縁談を断ったらしいのだな。相手の男が問い詰めても、理由を頑として言わない。で、あとから流れた噂なのだが、その娘の家が、どうも例の『名前ばかりの押し込み盗賊』にやられたらしいのだ。それで、婚儀のしたくがままらなくなったのでは、と思っていたのだが」
「その娘はなんと言っているのです」
「言うも何も、女官を辞めちまったと思ったら、驚いたぜ、浮屠教に入信しちまって、もう世俗とは縁を切らさせていただきます、御仏のために祈りを捧げる生涯ですわ、とこうだ。とはいえ、儂が直接に話をしたわけじゃねぇのだが」
「その娘の実家の譜代が、傾くほどのひどい被害であったのでしょうか」
「それがなぁ、たしかに何かが盗まれはしたようなのだが、かといって、家門が傾きそうだ、ってふうでもないし、見栄を張って借金している、というふうでもない。なにやら妙じゃねぇか」
「判り申した。では、わたくしのほうで探ってみましょう」
「おう」
赤頭巾たる劉備はおおいに頷くのであるが、偉度はさらに念を押して、言った。
「よろしいですか、わたくしが、探るのでございます」
「うん?」
「主公は何もなさらず、偉度めの報告をお待ちくださいませ。それでよろしゅうございますな?」
ええ、と劉備は不満の声をあげた。
「それじゃあ、せっかくこの頭巾をかぶって、町に下りてきた意味がねぇじゃねぇか!」
「なくてよいのでございますよ。もしも主公に何事かあれば、わたくしが軍師に叱られてしまいます。もし主公がお節介を働こう、というのであれば、わたくし、このまま軍師の執務室に参りまして、すべてをお話してくる所存でございます」
「あっ、それはズルイぞ、孔明が出てきたら、儂なんぞ、叱られるだけじゃすまねぇ。まったく、なんて孫だよ」
劉備は、ぶつぶつと、偉度はコワイ、と言いながら、左将軍府を去って行った。気になったので、人をやって、ちゃんと宮城へ帰るかどうか、確かめさせたのであるが、意外に素直に帰ったようである。
よしよし、祖父さんは孫の言うことを聞くものさ、と偉度は思いつつ、劉備の言った強盗について、調査をはじめたのであった。
成都という都市には、大きな阜江という河が流れ込んでおり、河の上には、市橋・江橋・亀化橋の三つがかかっており、ひとびとの往来を助けている。
偉度が、とある用事で江橋のあたりを移動していると、ふと、薛家の娘の蕭花が、ひとりで歩いているのをみかけた。
おや、珍しいなと思いつつ、偉度も急ぎの用があったので、そのまま行ってしまおうかと、一度は背中を向けた。
しかし、しばらく歩いたところで、勘、とでもいうのであろうか。なにか毛虫が胸元に紛れ込んだような、いやな違和感に襲われて、振り返る。
すでに蕭花の姿はちいさくなっていたが、細い肩をした娘は、なにやら足取りもおぼつかなく、川べりを、ふらふらと力なく歩いているのであった。
顔は見えない。
いや、だからこそ、偉度には、生気の感じられないその背中が、雄弁に、娘の心中を語っているように見えた。
あぶない。
偉度は取って返すと、蕭花のところへと向かった。
なにか落し物でもしたのだろうか。それで川べりを、あてもなく歩いている?
そうではない。
耳の辺りで、大きく鼓動が跳ねた。
あの歩き方は知っている。
死に向かおうとする人間独特の、投げやりな、すべてを放棄した、力ない歩き方である。
川べりを行く往来は、人通りが多く、水牛に引かれた荷車や、商人、使いの丁稚などが大勢いて、掻き分け掻き分け、前に進むのであるが、こういうときに限って、なかなか先に進めない。
同時に、偉度を突き動かす予感はどんどん膨れていき、このままでは追いつくことが叶わない、と察した偉度は、叫んだ。
「蕭花どの!」
一瞬だけ、娘が振り向いたような気がした。
その横顔、振り返り、声をかけてきた者をたしかめようとした最期の表情を、偉度は見ることができなかった。
ふらり、と蕭花の姿は、まるで手折られた花のようにゆらめくと、そのまま、崩れるようにして川に落ちていった。
とたん、周囲の人間がおどろいて悲鳴をあげ、偉度はこんどこそ、周囲の人間を突き飛ばすようにして前に進むと、蕭花の飛び込んだ川べりへと向かった。
すでに、娘が飛び込んだことを知った、近くで荷車を引いていた農夫が、すぐさま川に飛び込んで、娘を引き上げようとしているのだが、なんども水面に浮かんでは沈み、浮かんでは沈み、を繰り返している。
集った人々は、はらはらとその様子を見守っているのだが、偉度は蕭花が、小柄な娘であったから、引き上げるのに、そう時間はかからないであろうと思っていただけに、農夫がなかなか引き上げて戻ってこないことに、ますます最悪の予感を募らせていた。
そうして、これは、自分が行かねばならぬと帯を解きかけたとき、ようやく農夫が、ざぶざぶと水をかきわけ、気の利いた漁師が寄せてくれた小船に、蕭花を乗せるのであるが、遠目からもわかったことには、すでに娘は事切れていた。
小船が帰ってくるや、偉度は、その娘の知り合いだといって、近くの野次馬に駄賃をやって役人を呼びにいかせ、それから、ぜいぜいと荒い息を吐き、ちかくの商店の女将さんに背をさすってもらいながら、飲み込んだ水を吐き出している農夫の傍らに横たわる、青白い蕭花を見下ろした。
涙は出なかった。涙がでるほどに、思い出はなかった。
だが、なぜ、という思いがつよかった。
なぜこんなことに、という思いではない。
なぜ、この娘が、という思いである。
幾多の死を見た。死はむしろ、祝福だと思ったこともある。
だが、あれほど生の輝きに満ちていた、自分とはまったくちがうところにいた娘の死は、思いもかけないことに、偉度につよい衝撃と悲しみを与えていた。
ほつれた髪が、血の気の失せた頬にかかっているのを直してやりながら、偉度はふと、いつも髪に飾っていた、星の型をした髪飾りがないことに気がついた。
あつまった野次馬が、こんな美人がもったいない、とつぶやいている。
これ以上、見世物にするには忍び難かったため、偉度はおのれの上着を脱ぐと、娘にかけてやった。
絹の衣をかぶせられ、輪郭だけとなった娘の身体は、なお一層、命のないものだということを強調し、悲しさをつのらせた。
そうして、気付けの代わりにと、気のいい近所の男に酒を飲ませてもらっている、例の農夫にたずねる。
「ずいぶんと、娘を引き上げるのに、時間がかかっていたようだな。この川は、それほどに深いのか?」
偉度が尋ねると、農夫は、やはり気が重いらしく、酒をちびちびとやりながら、答えた。
「こんなに人の耳の集っているところで答えたくはありやせんが、若旦那、この姑娘は、自害なさったのですぜ」
「自害だと?」
ふう、と農夫は一息つきつつ、すっかり濡れた、自分の衣の袖を持ち上げてみせる。
「その姑娘さんの袖には、たっぷり石が詰まっていた。身を投げるつもりでない人間でなけりゃ、いったい、どこの酔狂者が、そんな格好をするというのでさ。しかも、こんな若い娘が。
石が重たくて、引き上げようにも、俺だけじゃ、どうにもならねぇ。そのうえ、この姑娘さんは、まったくもがきもせずに、まるで水の底に沈んでいくように溺れていきなさった。なにがあったかはしらねぇが、勿体ねぇよ、まだこんなに若くて綺麗なのに」
農夫は蕭花を見て、救えなかった命に、残念そうにため息をついた。