六つの花
なにも古人の言葉を引くまでもなく、雪というものは美しく幻想的ですらあるけれど、実際に付き合うと、なかなか凶悪で厄介だ。
そう、女に似ている。
青女はいても青男がいないのは、この単純な空想から、すべてが始まっているからかもしれない。
素朴で単純な空想が、年代を経て、さまざまに織り込まれ、いま自分たちを錦織のように彩ってくれているものなら、世界はやはり美しいもの、守るべきものなのだろう。
さすがに足元を取られて滑るような不様なことにはならないが、それでも慎重に歩を進めていると、すこし前を行く者が、
「青女はいるが、青男というものはいないな」
と、つぶやいた。
それまで、特に雪のことについて、語っていたわけではないのだが。
たまに見えない何かが繋がっているような錯覚を抱かせてくれる。
それだけでも不思議と心を強くしてくれるものだ。
町の正月の祝賀を抜け出して、郊外へ出てきた甲斐がある。
「子龍、すこし足をとめてみないか? いつもとちがう国にいるみたいだ」
見渡せば、厚い雪に覆われ、平野はなだらかな白い線だけになっている。葉のすべて落ちた裸の木は、化粧のように薄い氷の膜で覆われていて、その枝ぶりは、奇妙に静かな雪原のうえにおだやかに広がる青空に手を伸ばしているように見える。
風が強いので、枝に積もった雪が飛ばされて宙に舞っており、それがまるで雪粒が風と戯れているように楽しげに見えた。
隆中でも、冬にはこんな天候の時があったけれど、これほどあざやかに美しく見えた日があっただろうか。
道なき道を行く者はだれもなく、鳥の声すら雪に吸い込まれて聞こえない。
一切の色と音を無くした世界だ。
足音すら残すこともためらわれるような、侵すべからざる未踏の地に見える。
もちろん、そんなものは幻想で、これほど晴れているのなら、やがて雪は溶け、次第にいつもの風景に戻ってしまうのだろう。
一瞬で溶けてしまうものならば、目に残しておこうと、しじまの中にいると、子龍が馬を下りて、わたしのところへゆっくりと歩み寄ってきた。
「こういう風景も好きなのか」
揶揄するわけでもなく、素直に子どもが感心しきっているような調子である。
近頃は、こういった反応をされることが多い。
「美しいと思わないか。いつもの奇岩群も、雪をかぶってきっと綺麗だろうけれど、あそこは気温が低いから、きっとしばらくは同じ光景をみせてくれるだろう。しかし、ここは、じきにいつもの調子に戻ってしまう。だからいまのうちに眺めておかないと」
そういうものかとつぶやいて、子龍は、わたしの馬の轡を握って、同じ風景をながめた。
「おまえには、いろいろ好きなものがあるのだな」
「好きなものを見つけるのがうまいのかもな。貧乏性なのかもしれない」
「貧乏ということはなかろう。物の良いところを見つけるのがうまいのだ」
「それはいい評価だな。ありがとう。けれど、あなただって、綺麗だと思うだろう」
「思うが…その前に、よく積もったなとか、街道がふさがっていても、さほど問題ない時季にどか雪でよかったとか、そちらのほうが優先して頭に浮かぶ」
「それは官吏の鑑だ。今度、訓示のときに使わせてもらおう」
言うと、子龍は困ったように渋面になった。
「もちろん、匿名でだよ。わたしは名前を明かしたほうがいいと思うが」
どちらにしろ、休日にわたしと連れ立って外出する武官となったら、匿名にしたところで、みなの頭には趙子龍の名しか浮かぶまい。
「この道は、あなたの言う、奇岩群の雪景色を見に行く、文人たちの道になっていないのかな。道がまったく荒らされていない」
「成都から奇岩群に向かうまでの、とくに目を楽しませてくれる景色を回れる道順というものがあるそうだ。教えてもらったのだが、俺にはそう楽しそうな道に思えなかった。同じ平凡な道ならば、早道のほうがよかろうと、こちらへきたのだが」
と、ここで子龍は言葉を切り、珍しくも気まずそうに言った。
「回り道のほうが、おまえには面白かったのかもしれぬ」
「いいや、あなたが選んだここがいい。これで人の足が入っていたら、また違った風景に見えるのだろうけれどね」
「たまたまだ」
「たまたまならば、素晴らしい瞬間に、我らはここに足を踏み入れることができた、ということだよ。晴れているのに雪が舞っている。
なんと清雅な光景だろう。わたしに詩心がないのが残念だ。記憶に刻み込むしか、この風景を残しておくことが出来ないのだからな。樹氷の宝玉のような輝きや、雪の向こうに広がる青空の大きさや、風塵の清さや、遠くに見える銀嶺の神々しさからすべて」
「そう思うのか? ならばいい。俺も人に話を聞いた甲斐があった」
と、子龍は、安堵したように、すこしだけ笑った。
※
子龍がこのところ、積極的に自分の部下や、その末端までにも気を配り、話を聞いてやっているということは、風の噂で聞いていた。
もとよりこころよく思っていない者は、人気取りをはじめたのだと陰口を叩いているが、その評判の半分は当たっていると誉めてやるべきか。
おそらくは、なんの戦略もなく、憂さ晴らしに言い立てているだけであろうが。
ただし『人気取り』とは甘すぎる評価だろう。
子龍は、己の地位を確固たる物にするための、行動をはじめたのだ。
今までのように、主公のそばに黙って侍り、問われた問いに答えるだけの男では、影響力も乏しく、存在感も示せない。
だが、地位が上がれば、主公の意向ばかりを気にせず、己の判断で動くことが可能となる。
主公より離れ、己の身を己で守るために、子龍は動き始めたのだ。
力を得るために動くということは、危険なことでもある。
いままで気にかけなくてよかった勢力を警戒させたり、あるいは、敵(つまりは私の敵と同義であるが)を今まで以上に刺激したりすることでもあるからだ。
もちろん、味方には、自分の行動を賛同してもらわねばならない。
地位を高めようとするのならば、一人だけが突出しては駄目なのだ。
わたしは、そのあたりは、反則技とでもいうべき方法で、主公の次の地位に就いたので、苦労そのものは背負ったことはないが、立場の難しさは理解しているつもりだ。
子龍は、わたしより組織の中に長くいる人間であるから、そのあたりの難しさは、もっとよく判っているだろう。
もとより、愚痴をこぼすような男ではないから、いま背負っているものを、わたしが伺うことはできない。
子龍が現在狙っているのは、首都の警備を司り、将校の任免権をもつ護軍の地位である。
中央の警備兵、つまりは主公直属の兵卒たちを直轄する、政治的にも意味合いの濃い地位だ。
わたしとしては、いままでの功績や、主公にお仕えしてからの期間を考えても、いますぐに地位を与えられてもおかしくないと思っている。
実際に、主公に打診したことさえあるのだが、返事は渋いものであった。
主公は、我らの力が成都で強くなりすぎることを警戒しているのだ。
向かう先は楽ではない。しかし、すでに動き始めたのだ。止まることは、もはや出来ないだろう。
「美しい、か。俺には、ただの雪景色だ」
「雪の多い土地に生まれ育つと、雪が特別なものに思えないのかもしれないな」
わたしが言うと、子龍はそんなことはない、と言って、ときおり見せる、諦観の境地に至ってしまった年寄りのような顔をして、首を振った。この顔は好きではない。
すぐ目の前を、白い綿帽子のような雪がふわふわと風に乗って漂っていく。
わたしは袖をひるがえして、雪の一片を捉えてみせた。
黒地に捉えられた雪の欠片は、六角形の白い花を見せていた。
「綺麗なものだろう」
わたしが得意そうに袖を見せると、子龍は呆れたように言った。
「もしや、出立の前に黒い衣に着替えたのは、雪を捕まえるためだったのか?」
「そうだが。子供のころ、そうやって遊ばなかったか? 同行者がほかの者であったら、さすがにためらったが、あなたならば許されようと思ったのだけれど」
「あいにくと、俺はそんなふうにして遊んだ記憶がないな」
「それは寂しいな。ならば、いまから覚えればいい。ほら、雪のかけらが黒の地に映えて宝石のように綺麗だろう。このちいさな氷の花が積もって、この景色になっているわけだ」
黒の衣の上に止まった雪の花は、すでに陽光に触れて、じわじわと形を崩しつつあった。やがて水滴となって、地に沁みこんでいくのだろう。
「そういえば、雪を銀花ともいうな。昔、だれかがそんなことを言っていた」
「たしかに言うね。あなたの兄上が、そうおっしゃったのか」
「さあ。俺の兄も俺と似たり寄ったりで、風雅な趣味はなかったはずだが、もしかしたら、母がそんなことを言っていたのかもしれない。
雪は嫌いなのだ。道を塞いでしまうだろう。長い冬のあいだ、重苦しい牢屋みたいな家の中で、ひたすら書物を読むか修練するかのどちらかだった。俺にとって雪は、家の四方を取り巻く、敵軍の兵卒みたいなものだったよ」
「白銀の兵卒か。それはそれで美しい空想だが」
「冗談ではない。仲の悪い兄弟同士で雪かきをするときの気まずさや、朽ちかけている壁にのしかかる雪の冷たさ、重たさは、思い出しただけでぞっとする。寒くて古くて暗い中に、何ヶ月も閉じ込められるのだぞ?」
「本人が言うほどに古くない、立派な屋敷だったという話も聞いたことがあるのだが」
「それは自信をもって否定する。俺の家は、寒くて古くて暗かった」
「いい思い出のひとつくらいはあるだろう」
「軒にできた氷柱を投げて遊んだとかいう、いい思い出もあるが、すくないな」
子龍はそこで言葉を切り、白い息を吐きながら、物憂げに嘆息した。
「よい記憶のほうが忘れるのが早いとは、俺はつくづく暗く生まれ着いているな」
「そんなことはないさ。わたしとて、似たようなものだよ。よい思い出を忘れたくないから、日々増殖する悪い思い出どもを駆逐するべく、もがいていると言っていい」
「悪い思い出とは、政務の失敗のことか」
「すこしちがうな。政務の失敗や、政策上の口論や、嫉妬からくる陰口の痛さなんていうものは、意外に時間が解決してくれる。わたしの悪い思い出とは、そうだな、たとえば、あなたを怒らせる積もりではなかったのに、怒らせてしまったこととか、身近な人間を傷つけたことだよ」
「たいがいおまえは、自分で気づいて頭を下げているだろう」
「後で気づくことがある」
「待て。それはつまり、俺は我慢して黙っていたということか。あまりないと思うが」
「でなければ、気づかなかったということかな。しかし、わたしとしては、失敗だと思っているから同じだ」
「だんだん話を進めるのが怖くなってきたな。おまえは細かすぎる。普通は忘れてしまうことだろう」
「ところが、わたしは優秀であるがゆえに、覚えてしまっているわけだ」
「……」
「そこは誉めるところだ。まあよい。ともかく、言いたいことはだ、わたしもいい思い出を忘れやすい人間だということだ。なにも自分だけが不出来のように、嘆息なんてつく必要はない」
「ああ、励ましてくれていたのか、すまないな」
子龍はわたしの馬の轡を掴んだまま言ったが、ふと、顔をしかめた。
「しかし、わざわざ雪の中で、足を止めてする話だろうか」
「雪の話から発展したことだろう」
「いま計算して思ったのだが、この配分でいまから山を目指せば、下山するころには夜だ。夏ならば、どこぞで野宿も出来ようが、この積もりようでは、晴れているとはいえ遭難する。軍師、町へ引き返さないか」
「町へ戻ってどうする。つまらぬ。いま帰ったら、訪問客にもみくちゃにされる」
「たしかに、お前の家は危険だな」
「では、あなたの家に行こう。もちろん裏口からこっそりと。留守だとみなには言ってあるのだよな? なれば、酔客が、お前の家の酒倉を開けろと、押しかけてくる確率も低かろう」
「こっそりと、の部分は気に入らぬが、実行したとして、何をするのだ」
「何って、話でもしよう。それとも面白い遊びに当てがあるのか?」
「いいや、雑用ならばあれこれ浮かぶが、遊びに当てはない。だれか呼ぶか?」
「だれを? それこそ一人呼べば二人増え、三人、四人と、増えていく。なんだって二人だけで出かけたのだか、忘れているだろう。落ち着いて話をしたかったからだ」
「それはそうだが、しかしまったく正月らしくないな」
「いいではないか。これから一年のことを話し合って、新たな気持ちになる。実に正月らしい。馳走もなにもいらぬ」
「要するに、いつもと同じ過ごし方だな」
「そうともいう」
「それならば、出かけた意味があったか? 最初から、屋敷にいればよかった」
「おや、味気ないことをいうものだ。美しい風景を愛でることが出来たし、家でのんびり過ごす有意義さに、お互い気づけたではないか。
これで出かけないまま屋敷に居てみろ。きっといまごろ、出かけるべきだったと、どちらかがブツブツ言っているにちがいない」
おそらく、わたしがブツブツ言っていただろう。
さて、勝手知ったるひとの屋敷に押しかけて、どう有意義な正月をすごすかと考えていると、わたしたちの頭上を、黒い翼を広げて、岩鷹が飛んでいくのが見えた。
雲ひとつない青空のなか、見事な曲線を描いて、優美に旋回するさまを見上げていると、ふと視線をおぼえた。
馬上よりその方を見下ろせば、子龍は目を白銀の雪原にやり、はじめてそこに雪があることを見つけたように、まぶしそうに目を細めていた。
「ああ、たしかに美しいものだな。いまわかった」
そうして、自分も馬に戻ると、轡を成都に向けて、静かに歩きだした。
おしまい
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(C) hasamino nakama 2006 01 01